Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「鎌倉幕府」を含む日記RSS

はてなキーワード:鎌倉幕府とは

次の25件>

2025-10-26

anond:20251026172504

昔と言ってることが違うってなったら、何でそうなったのか?と考えずに、メディアは嘘つきだって言い出す方がどうかしてるわ。

あらゆる分野に対して今でも調査は行われ続けてるんだから、そのときどきで有力な意見ってのは変わり続けてるんだからな。

鎌倉幕府の成立なんかも俺らの時だと教科書では1192年だったけど、それが1185年になって、そこからさらになんかハッキリしないから年数を明言しなくなったみたいだからな。

Permalink |記事への反応(1) | 22:12

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-10-20

公明党の主張と共産党の主張はほぼほぼ同じなんじゃあるまいか

立正安国論』(日蓮著)と『共産党宣言』(マルクスエンゲルス著)は、成立した時代、背景、そして思想的基盤は類似点を見出すことができます

社会の主流派既得権益の外側に身を置いた急進的な異端者という視点から見ると、「体制から批判と、絶対的正義に基づく世界観強要」という構造的な類似性が浮かび上がります

この共通性は、両者が既存の秩序・権威根底から否定し、「唯一の正義」による強制的社会変革(革命)を求め、その結果、体制から徹底的に弾圧された点に集約されます

1. 「引きこもりニート」的視点体制からの強烈な批判

引きこもりニート」という表現は極論であり、史実的には日蓮は精力的な遊行と布教を、レーニン地下活動亡命生活を送った活動家です。しかし、この言葉が持つ「主流社会権威経済システムから疎外された者」というニュアンスに注目すると、両者の著述態度には共通性があります

日蓮(『立正安国論』): 当時の仏教界の主流であった念仏宗法然の教え)や、これを庇護する鎌倉幕府権威を徹底的に否定しました。彼は比叡山清澄寺といった既成の権威ある場所から離れ、独自解釈である法華経」のみを「正法」として掲げ、それ以外の教えを「亡国の原因」と断じました。これは、「俺の言っていることだけが絶対真実だ。それ以外は全て間違いだ」という、体制に属さない者が持つ孤高で排他的絶対正義の表明です。

レーニン(『共産党宣言』):マルクス主義は、当時のブルジョアジー支配する資本主義体制、その上に立つ国家法律倫理の全てを、「階級搾取の道具」として否定しました。レーニンもまた、ツァーリ体制下で弾圧され、ヨーロッパ各地を転々とする亡命生活社会メインストリームから切り離された生活)を送りました。彼の主張は、「現在経済システムは全て不正であり、これを打倒してプロレタリア独裁による理想国家を作る以外に道はない」という、体制からの急進的で排他的社会変革の要求です。

2.構造的な類似点絶対的排他的世界観強要

両者の著書は、その内容の異質さにもかかわらず、「二元論に基づき、体制内の悪を徹底的に清算しなければ、理想的な安寧は実現しない」という構造を持っています

2-1. 恐怖(災厄)の提示と原因の断定

両文献は、現状の社会が直面する危機(災厄)を明確にし、その原因を体制内の「悪」に断定します。

立正安国論』:

危機天変地異飢饉、疫病、他国から侵略(自界叛逆と他国侵逼)。

原因: 「謗法」(念仏などの誤った教え)が国に満ちていること。

共産党宣言』:

危機資本主義が生み出す恐慌貧困搾取

原因: 「私有財産制度」とこれを守るブルジョア階級支配

2-2. 唯一の解決策と強制的排除

危機回避し、理想郷(安国または共産社会)を実現するためには、「唯一の正義」による反対勢力強制的排除が不可欠であると説きます

日蓮解決策:

「立正」、すなわち法華経のみを国教として立てること。その結果、謗法者(念仏を唱える人々)は弾圧追放されるべきであると強く示唆します。

レーニン解決策:

プロレタリア革命」による階級闘争とプロレタリア独裁。その結果、ブルジョアジー私有財産と共に消滅排除)されます

このように、『立正安国論』は宗教的絶対主義、『共産党宣言』は経済絶対主義に基づくものですが、両者とも「現状の悪は体制内にある」「それを根絶するためには、体制からの急進的な一元論強制適用しなければならない」という、強力な教義排他性を持っている点で、構造的な共通性があると言えます

公明党共産党の政策にはその存立過程で埋め込まれDNA共通するものがあります共闘すればわんちゃん日本を変えられるかも。

だがしかしりつみん、お前は駄目だ。おまえら自分かわいいだけのクズ野郎の集まりだ。共通点があるのは日本保守党だけでしょうね。

Permalink |記事への反応(1) | 21:42

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-09-24

士農工商って今言わないんだ

学校で習ったことがどんどん消されていく

大和朝廷も今言わないらしいし

鎌倉幕府は1192年じゃないし

信長の三段撃ちは無かったらしいし

Permalink |記事への反応(1) | 06:21

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-09-15

anond:20250915122106

鎌倉幕府の成立も1185年になったしアップデートされずに生きていくのは無理なんだよ。

Permalink |記事への反応(0) | 12:23

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-09-14

歳がバレる言葉

写メ

・いい国作ろう鎌倉幕府

・蟯虫検査

半ドン

ランニングシャツ

・洋ピン

テレホーダイ

・巻き戻し

安倍晋三

・揉む男太郎

・しゃあ

Permalink |記事への反応(1) | 21:26

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-30

学力ジョークが通じない

自分も周囲も能力が高いことが意識の前提にある

から今日テスト何も勉強してねーwwwガチ鎌倉幕府の成立年しか分からんwww」みたいな発言が「ジョーク」として成り立つ

実際はこういう発言は往々にしてただのネタであり、鎌倉幕府の成立年以外もちゃんと覚えているのでテスト無難クリアする。模試ではどんなにサボりにサボったところで偏差値60を切ることはありえない

そういう「高学力ジョーク」の中でずっと生きてきた。ある時、高卒の同僚に同様のジョークかますと、期待していた笑いが起こらなかった。「え……そうなんですか……」と、怠惰で自堕落生活告白したみたいに受け取られたように思えた。

この感覚は正しく、高卒集団にとっては「まじ勉強してねーwww」というジョークは、まさしく怠惰で自堕落生活の突然の告白しかなく、何なら「あの子テスト前なのにちゃん勉強とかしないんだって」と信用失墜行為となるらしい。

学力層以外にとって、勉強というのは単に、真面目さの指標であるテストとは運転免許試験のようなもので、単純暗記で構成され、真面目に勉強すればほとんどの人が合格するし、勉強しないのは簡単な単純暗記すらやってこない怠惰な異常者である

勉強への捉え方が全然違っている。だから勉強やってねーwwwジョークも通じない

ワイはさみしい

Permalink |記事への反応(5) | 21:58

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-21

anond:20250821162559

日本はずっとそうだったんじゃないの?

明治以前は鎌倉幕府以来ずっと軍事政権下で議会もなかったわけだし。

Permalink |記事への反応(1) | 16:36

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-18

そうめんつくろう鎌倉幕府

意味はわかりません。

Permalink |記事への反応(1) | 20:58

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-08-14

石破茂後醍醐天皇はよく似てる。

後醍醐天皇

湊川の戦いで敗北しながらも三種の神器を携え遁走し天皇の位に固執した行動、

石破首相

国政選挙で敗北しても辞任しない石破首相

 

石破茂後醍醐天皇姿勢は、時に「卑怯だ」という批判に晒されることがありますしかし、それぞれ異なる時代文脈の中で、彼らの行動を正当化する反論存在します。

後醍醐天皇に対する「卑怯」との指摘

湊川の戦いは、足利尊氏との天下分け目の戦いであり、この戦いで楠木正成をはじめとする多くの忠臣が命を落としました。後醍醐天皇は、自らは戦場に赴くことなく、敗北が濃厚となると戦場から離脱し、神器を携えて比叡山へ逃れました。この行為は、自らの理想のために多くの部下を犠牲にしながらも、自らは安全場所に逃げたという点で、指導者としての責任を果たさなかったと批判されることがあります特に武士道においては、主君と共に死ぬことが名誉とされた時代であり、天皇戦場から離脱することは、武士たちの忠義を裏切る行為と映ったかもしれません。

反論

後醍醐天皇の行動が、単なる命惜しみではなく、天皇正統性を守るための「政治的決断」であったというものです。彼にとって最も重要なのは自身の命ではなく、「天皇」という存在正統性でした。三種の神器天皇正統性象徴するものであり、これを失うことは南朝正統性が失われることを意味しました。鎌倉幕府北朝擁立し、偽の神器を作ったという記録があることからも、神器がどれほど重要意味を持っていたかがわかります後醍醐天皇は、自身の命を賭けて戦うよりも、神器を保全し、天皇としての正統性を守り抜くことこそが、自身の使命である判断したのです。彼は戦いには敗れましたが、正統性の旗印を掲げ続けることで、南朝の存続を可能しました。これは、短期的な軍事的敗北よりも、長期的な政治的戦略を優先した結果であり、卑怯ではなく、むしろ類稀なる政治的洞察力に基づく行動であったと言えます

国政選挙で敗北したにもかかわらず辞任しない石破首相に対する「卑怯」との指摘

民主主義国家において、選挙国民意思を問う最大の機会です。その選挙与党議席を減らすという明確な敗北を喫したにもかかわらず、その責任を取って辞任しないことは、民意を軽視している、あるいは自らの権力にしがみついているという批判に繋がります特に日本の政治文化では、選挙での敗北は内閣総理大臣責任と見なされ、退陣を求める声が上がることが一般的です。このような期待に応えない姿勢は、指導者としての潔さや責任感に欠けるとして、国民からの信頼を失う原因となり得ます

反論

石破首相の行動が、選挙結果の責任個人で負うという旧来の政治慣行を打破し、国家の安定を最優先する「合理的判断」に基づいているというものです。石破首相は、選挙敗北の責任を痛感しつつも、国の直面する課題外交問題経済対策災害対応など)を前に、政権運営を混乱させるわけにはいかないと判断した可能性があります現代政治においては、首相の交代が頻繁に起こることは、国際社会からの信頼を損ない、国内政策実行を停滞させるリスクがあります。石破首相は、自身の進退を巡る政局よりも、国家の安定と課題解決を優先すべきだという考えに基づき、職務続行を選択したと解釈できます。また、内閣総理大臣は、国民直接選挙で選ばれるわけではなく、国会議員の中から選出されるという民主主義の仕組みも考慮に入れるべきです。選挙結果が即座に首相の進退に直結するわけではなく、国会内での信任を保っている限り、職務を続けるという選択もまた、民主的手続きに則ったものだと言えます。この視点から見れば、彼の行動は、個人的な責任の取り方よりも、国家全体に対する責任を重んじた結果であり、卑怯とは一概に言えないでしょう。

結論

後醍醐天皇と石破首相の行動は、いずれも「権力地位固執している」という批判を受けがちですが、その根底には、それぞれが信じる「正統性」や「使命」を貫こうとする強い意志が見て取れます後醍醐天皇天皇権威という正統性を守り、石破首相国家の安定という使命を優先した。両者の行動は、単なる保身ではなく、より大きな目的のために下された、苦渋の決断であったと言えるのです。

Permalink |記事への反応(4) | 11:35

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-31

anond:20250731101847

1129痛風ろう、鎌倉幕府

Permalink |記事への反応(0) | 10:22

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-26

anond:20250726002444

いい国作ろう鎌倉幕府

Permalink |記事への反応(0) | 11:37

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-15

ぶっちゃけ西田敏行人生ってこんな感じでしょ?

1169 西田敏行法住寺殿において出家法皇となる。

1180 西田敏行、父と共に源頼朝挙兵に加わり、山木館を襲撃

1205 西田敏行追放された父を継いで鎌倉幕府執権就任する

1561 西田敏行武田信玄啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれる

1579 西田敏行大工棟梁として建造を指揮した安土城天守が完成

1584 西田敏行西田敏行小牧長久手の戦いで敗れる

1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる

1600 西田敏行真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける

同年 西田敏行石田三成関ヶ原に破る

1603 西田敏行幕府を開き初代将軍になる

1605 西田敏行西田敏行将軍職を譲り、後に駿府城に移る

1612 西田敏行、自らの私財をなげうち道頓堀の開発に着手

1614 西田敏行西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける

1632 西田敏行征夷大将軍西田敏行の死により、流罪赦免される

1702 西田敏行女性としては最高位の従一位官位を得る

1703 西田敏行元禄赤穂事件において赤穂浪士によって襲撃を受ける

1716 西田敏行八代将軍になる

1745 西田敏行徳川家重将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る

1776 西田敏行長崎で手に入れたエレキテルを修理して復元する

1782 西田敏行、自らが船頭を務める船が難破、ロシア領に漂着

1827 西田敏行柏原宿で大火に遭い家を失う

1860 西田敏行会津藩家老となる

1861 西田敏行愛加那との間に西田敏行を授かる(それをナレーションする西田敏行

1867 西田敏行西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(それをナレーションする西田敏行

1868 薩摩藩西田敏行らと長州藩西田敏行らが協力し会津藩西田敏行と戦う

(それをナレーションする西田敏行

同年 西田敏行会津藩西田敏行への伝令にかこつけて追放される

1869 西田敏行五稜郭の戦い新政府軍に敗れる

1873 西田敏行日本初の商業銀行となる第一銀行頭取就任

1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍西田敏行軍は鎮圧され、城山に追い詰められる(それをナレーションする西田敏行

1883 西田敏行共立学校の初代校長となる

同年 西田敏行、この頃に海運業を始める

1904 西田敏行日銀総裁として日露戦争の戦費を調達する

同年 西田敏行京都市長就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす

1942 西田敏行日本文学報国会の会長就任

1945 西田敏行フィリピン戦場で誤って兄に撃たれる

1984 西田敏行マッキンリー冬季登頂した直後に遭難し死亡

Permalink |記事への反応(1) | 14:27

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-06-20

anond:20250620125816

当時の武士たちが、「鎌倉殿」 「鎌倉将軍」と呼んでいたか鎌倉幕府なの。 

Permalink |記事への反応(2) | 13:10

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20250620010738

似たような経験ある。

鎌倉幕府現在鎌倉とは別と覚えていて、大人になってから本当にあそこらへんにあったんだなあとなった記憶

奈良とかは奈良県だけど、鎌倉って市じゃん。

から神奈川幕府って呼べばいいのにと思った。

Permalink |記事への反応(1) | 12:58

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-22

鎌倉幕府までのお勉強終わったから、いよいよ次は日本史で一番楽しい南北朝時代だぜ

もう、これは日本史銀英伝と言っても過言ではないからね

南朝後醍醐天皇北朝足利尊氏というW主人公制になってるw

Permalink |記事への反応(0) | 21:39

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-21

執権北条氏

執権北条時政

有力者:大江広元

将軍:頼家(源氏将軍)→実朝(源氏将軍)


執権北条義時(得宗家当主)

有力者:北条政子

将軍:実朝(源氏将軍)→頼経(摂家将軍)


執権北条泰時(得宗家当主)

有力者:北条時房

将軍:頼経(摂家将軍)


執権:北条経時北条時頼(得宗家当主)

有力者:北条重時

将軍:頼経(摂家将軍)→頼嗣(摂家将軍)→宗尊(親王将軍)


執権:北条長時→北条政村→北条時宗(得宗家当主)

有力者:安達泰盛

将軍:宗尊(親王将軍)→惟康(親王将軍)


執権:北条貞時(得宗家当主)

有力者:平頼綱

将軍:惟康(親王将軍)→久明(親王将軍)→守邦(親王将軍)


執権:北条師時→北条宗宣→北条煕時→北条基時→北条高時(得宗家当主)→北条貞顕→北条守時→北条貞将

有力者:長崎高資

将軍:守邦(親王将軍)

Permalink |記事への反応(0) | 20:26

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

執権北条氏まとめ

執権北条時政

有力者:大江広元

将軍:頼家(源氏将軍)→実朝(源氏将軍)


執権北条義時(得宗家当主)

有力者:北条政子

将軍:実朝(源氏将軍)→頼経(摂家将軍)


執権北条泰時(得宗家当主)

有力者:北条時房

将軍:頼経(摂家将軍)


執権:北条経時北条時頼(得宗家当主)

有力者:北条重時

将軍:頼経(摂家将軍)→頼嗣(摂家将軍)→宗尊(親王将軍)


執権:北条長時→北条政村→北条時宗(得宗家当主)

有力者:安達泰盛

将軍:宗尊(親王将軍)→惟康(親王将軍)


執権:北条貞時(得宗家当主)

有力者:平頼綱

将軍:惟康(親王将軍)→久明(親王将軍)→守邦(親王将軍)


執権:北条師時→北条宗宣→北条煕時→北条基時→北条高時(得宗家当主)→北条貞顕→北条守時→北条貞将

有力者:長崎高資

将軍:守邦(親王将軍)


ここ足りてないよとかあれば指摘よろ

Permalink |記事への反応(0) | 11:21

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-18

源頼朝の好物は鯵である

源頼朝の好物は鯵(アジ)であったという説は広く知られています

吾妻鏡記述

鎌倉幕府公式記録である吾妻鏡」には、頼朝が鯵を好んで食べたという記述が残っています

特に相模湾現在神奈川県)で獲れた新鮮な鯵を好んだとされています

鯵の産地

相模湾は、現在でも鯵の主要な産地として知られています

頼朝時代から、質の高い鯵が獲れていたと考えられます

食文化

当時の食文化において、魚介類は貴重な食材でした。

頼朝が鯵を好んだことは、当時の武士食生活を知る上でも興味深い情報です。

ただし、これらの情報あくまでも伝承であり、確実な史実であるとは言い切れません。しかし、吾妻鏡に書かれていることから、かなり信憑性の高い情報と言えるでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 21:53

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-16

anond:20250216095605

天皇権威を基盤とした武家政権構造考察

序論:権威権力二元構造

本論では、鎌倉幕府を中心とする中世武家政権天皇権威を不可欠な基盤として成立した事実を、制度的・経済的象徴次元から多角的検証する。

日本史上の権力構造が「権威天皇)」と「権力武家)」の二元性によって特徴付けられることを示し、摂関政治から江戸幕府に至るまで一貫してこの原理機能したことを論証する。

制度正統性の源泉

官位体系による権力正統化

鎌倉幕府創始者源頼朝が1192年に「征夷大将軍」に任命された事実は、武家政権法的根拠朝廷官位授与に依存していたことを端的に示す。

この官職律令制下で蝦夷征討を目的とした令外官であったが、頼朝はその任命を以て東国支配権公認を得た。

特に1185年の「寿永二年十月宣旨」において、頼朝東国における荘園国衙領警察権公式に認められたことが、朝廷との制度紐帯を強化した。

守護地頭制の双務

承久の乱(1221年)後に全国に拡大した守護地頭制は、幕府朝廷荘園管理システムに介入する手段となった。

地頭による年貢徴収権の獲得(1221年「新補地頭法」)は、一方で幕府経済基盤を強化しつつ、他方で朝廷一定の税収を保証する相互依存関係形成した。

この共生関係は、幕府朝廷経済的存続を担保することで自らの支配正当性を補完する機能を有していた。

象徴権威継承構造

三種の神器王権

鎌倉時代後期の両統迭立期(持明院統大覚寺統)において、幕府皇位継承に介入した背景には、三種の神器所在正統性根拠とされた神権政治論理存在した。

例えば後嵯峨天皇の治世(1242-1246年)において、幕府は神器の継承過程監視しつつ、自らが「治天の君」選定の仲裁者となることで権威の源泉を掌握しようとした。

宗教的儀礼の共用

朝廷主宰する新嘗祭大嘗祭などの祭祀は、中世を通じて天皇神聖性を可視化する装置として機能した。

幕府はこれらの儀式への供御人派遣財政支援を通じて、伝統権威への恭順姿勢を示すとともに、自らの支配を「神国」の秩序に組み込む戦略を採った。

特に伊勢神宮賀茂社への寄進は、武家宗教的権威を利用して支配正当化する典型的手法であった。

経済的相互依存構造

荘園体制媒介機能

鎌倉幕府経済基盤となった関東御領(約500箇所)の多くは、元来が朝廷貴族荘園であった。

幕府地頭を通じた年貢徴収合理化を図りつつ、従来の荘園領主へ「得分」を保証することで旧勢力との妥協を成立させた。

この「本所一円地」への不介入原則が崩れた蒙古襲来後も、朝廷幕府軍事課税を追認した事実は、両者の経済的共生関係の強固さを示す。

貨幣経済媒介者としての朝廷

平清盛日宋貿易以来、朝廷が保持していた対外交易権は、鎌倉期においても「大宰府」を通じた外交貿易管理として継承された。

幕府実質的外交権を掌握した後も、形式的には朝廷を窓口とする建前が維持され、明との勘合貿易室町期)に至るまでこの構図が持続した。

政治的相互作用の諸相

摂関政治から幕府政治への連続

藤原道長の「御堂関白記」にみられるように、摂関家天皇外戚として権力を掌握する構造は、後に武家が「征夷大将軍」の官位媒介権力正当化する手法と同根である

平清盛が「太政大臣」に就任した事実(1167年)は、武家伝統官制依拠せざるを得なかった制度的制約を示す。

院政執権政治の相似性

白河院政(1086-1129年)が開いた「治天の君」の政治形態は、北条泰時執権政治(1224-1242年)において「得宗専制」として再構築された。

いずれも名目上の君主天皇/将軍)を背景に実権を掌握する点で、権威権力の分離という中世政治構造典型を示している。

思想的基盤の分析

神国思想政治的利用

北畠親房の『神皇正統記』(1339年)が主張した「神器継承正統性」論は、建武の新政崩壊後も南朝方政治的正当性を主張する根拠となった。

これに対し足利尊氏光厳上皇擁立した事実は、北朝方も同様の神権論理依存せざるを得なかったことを示す。

朱子学の影響と国体

鎌倉後期に伝来した朱子学大義名分論は、水戸学における南朝正統論(『大日本史編纂)を経て、明治期の南北朝正閏論争(1911年)にまで影響を及ぼした。

この思想系譜は、天皇権威武家政権正統性を超時代的に規定してきた事実を逆照射する。

結論権威権力の持続的共生

以上の分析から鎌倉幕府を頂点とする武家政権天皇権威を不可欠の基盤として成立・存続したことは明白である。この構造は単なる形式的従属ではなく、

官位体系による権力正統化

荘園経済媒介とした相互依存

③神権思想に基づく支配正当化——という三重メカニズムによって支えられていた。

明治維新に至るまで継続たこ権力構造本質は、権威祭祀権)と権力軍事力)の分離・補完にこそ存し、日本政治史の基底を成す特質と言えよう。

Permalink |記事への反応(1) | 10:21

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

鎌倉幕府

征夷大将軍を拠り所にしてる以上、やっぱり、鎌倉幕府朝廷権威から完全に独立した関東武士政権と言うわけにはいかないんだよね

からといって、朝廷権威に服するものでもないし、武家棟梁という確固たる王権を有するものかと言うとそれも違うんだよね

朝廷権威を引き入れ、実力を認められ、武家棟梁足る血筋を有する源頼朝によって作られた複合的な権力基盤の上に成り立つ武士政権って感じ

東国武士(後に全国の武士に拡大)の利益を安堵し実力を認められること、朝廷権威を引き入れること、将軍武家棟梁たる血筋を有することの3つが鎌倉幕府必要な要素で、この中で主導する者は必ずしも将軍である必要はなかったりもするんだよね

Permalink |記事への反応(1) | 09:56

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-02-02

理系だけど日本古典文学を割と読んだから語る③

【前】anond:20250202174807

8:今昔物語 福永武彦 訳 宇治拾遺物語 町田康 訳[新訳] 発心集日本霊異記 伊藤比呂美 訳[新訳]

今昔物語はここに収録されている福永武彦訳で読んでいる。池澤夏樹の義父だね。僕は結構説話集が好きで、「聊斎志異」や「捜神記」、「デカメロン」やガラン版「アラビアンナイト」なんかも読んでいる。近々「カンタベリー物語」も読む予定だ。

さて、なんで「今昔物語」を全部読まず、部分訳の福永武彦訳にしたのかというと、理由はいくつかあるのだが、気軽に持ち運びのできる全訳が出ていないのが一番の理由だ。また、講談社学術文庫は、天竺編と震旦編、それから本朝世俗編が出ているのだが、なぜか日本舞台にした仏教説話を収録した巻が翻訳されていない。有名どころの仏教説話は頭の中に入れて置きたいとうっすら考えているのだが、原文を読むのが近頃は億劫なので、早く翻訳が出てくれないかと祈っている。

内容は芥川龍之介翻案したものを含め、人間心理の観察や奇妙な話、怪異の話や下品すぎる話、それから強烈な個性を持った人間の話など様々だ。一つ一つの話が短いので楽しめるし、芥川龍之介近代的に翻案する前はどんな話だったか、比べるのも楽しい。ちなみに、水木しげるインパクトのある話ばかりを漫画化したバージョン中学高校図書館にあったが、あれも面白かった。あとは、家にあった子供版に、卒塔婆だか石碑だかに血痕がついたらその土地が水害で滅亡する予言を信じる老婆の話が収録されていた。周囲の人が老婆をからかうためにわざと卒塔婆に血を付けるのだが、その晩に本当に村が滅亡する。世界民話に似た話があったと記憶しているが、出典が思い出せない。自分ギリシア神話をはじめとした、運命皮肉やアイロニカルな予言を扱った話が好きである。やっぱり説話集面白い。

ただし、編集方針だろうか、「今昔物語」では似たような話が何度か続く配列になっている。だから通読していると飽きる瞬間がある。

これは「聊斎志異」でも同じで、酒を飲んでいたら死んだ友人が化けて出てきたが、酒を飲んでいたせいか死んだことを忘れていて、そのまま話が進むみたいなパターンがかなり多い。他にも幽霊キツネが化けた美女が出てきて結ばれてハッピーエンドみたいなのも何度も繰り返される。結局みんなモテたいのね。

宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記、これらはすべて未読である。「日本霊異記」は最近になってKADOKAWA現代語訳を出しているので、積んである本を片付けたら入手予定だ。なお、これは①で述べた雄略天皇エピソードの出典の一つもである

9:平家物語 古川日出男 訳[新訳]

平家物語古典の苦手な僕でも原文で読みやすいと感じた。理由は恐らく、口承文学から声に出したらなんとなくわかるからなのと、敬語相対的に簡略化されているからなんだろう。それとも、ちょうど「火の鳥」乱世編の舞台で、歴史の流れ的に何が起きるか既に分かっていたからだろうか? それとも、教科書をはじめとして、断片的に名シーンを知っていたからだろうか? バトル物として楽しんだんだろうか?

日記を読み返すと、「古代貴族世界が音を立てて崩壊していくのがよくわかる」と綴っていたし、「空海密教美術」展で観た平清盛の血曼荼羅が登場したのに滅茶苦茶興奮していた。

ちなみに、神保町の本祭りで、ちょうど講談社学術文庫版が一巻から十巻までがセットで安売りされていたので、良い機会だと思って購入したのだが、後になって全十二巻だったと気づいた。道理で安いわけだ。このバージョン解説が丁寧で、「平家物語」かなり京都中心のバイアスがかかっているという指摘がされていた。例えば、平清盛大輪田泊建築したことは今でこそ評価されているが、「平家物語」では単に京都の荒廃をもたらした暴政ってことになっている。木曽義仲もただの田舎乱暴者扱いだ。ちなみに、かつて滋賀県旅行したときに、彼の没した古戦場粟津を訪れたのだが、住みやすそうな普通住宅街になっていたのに驚いた。

太平記についてもついでだから書こう。実家神奈川県なので、鎌倉幕府滅亡まではかなり馴染みのある地名が多かったので楽しんだのだが、南北朝に分かれたままで話が終わるし、明確に「完結した!」という実感を持てる構成ではなかった。明確な善玉悪玉の物語でもないしね。みんな結構幕府側に着いたり朝廷側に着いたり右往左往している。この機を見るに敏なあたりがいかにも中世武士らしいし、おかげで誰が誰の勢力についているか、すぐにわからなくなる(ここまで書いて思ったのだが「平家物語」は平家の滅亡というわかりやすい大きな流れがあるから読みやすいのかも)。

それに、歴史書っぽくいろんな中国古典から引用するけれども、日付が操作されていたり、複数天皇意図的混同していたりする(光明天皇即位した個所、太平記ではなぜか光厳天皇重祚としている)。あくまでもこれは物語なのだ

そして、物語から、出てくる辞世の句にすごくいいのがたくさんあった。いま手元に本がないのが恨めしい。メモから見つけたのは「皆人の世にあるときは数ならで憂きにはもれぬ我が身なりけり」……なにこれつらい。

なお、各神社仏閣の縁起物語や中国古典脱線することが多く、それはそれで非常に面白いのだけれど、「だからこんなに長くなるんだよ……」みたいな気持ちになった。多少は「平家物語」でも登場・退場する人物の背景に脱線するけれどね。「ジョジョの奇妙な冒険」でも敵のスタンド使いの背景が紹介されるシーンあるよね。あのテクニックは話の流れがちょっと止まるので使いこなすのが難しい。ところで、あまりにも歴史から引用が多いので、これまた講談社学術文庫版の「史記」を読むに至った。……と、記憶していたのだが、日記を読むと両者を並行して読んでいたらしい。我ながら、なんでそんな無茶をした? 両者とも疑問点が多くて日記にやたらとメモを残している。

ところで、太平記の巻二十二に、相手のことを馬鹿にして「へろへろ矢」と呼ぶシーンがあるが、オノマトペ歴史的に興味深い。

10:能・狂言 岡田利規 訳[新訳] 説経節 伊藤比呂美 訳[新訳] 曾根崎心中 いとうせいこう 訳[新訳] 女殺油地獄 桜庭一樹 訳[新訳] 仮名手本忠臣蔵 松井今朝子 訳[新訳] 菅原伝授手習鑑 三浦しをん 訳[新訳] 義経千本桜 いしいしんじ 訳[新訳]

前回も書いたけれども、せっかくなのでもう少し細かく書こう。これはちゃん池澤夏樹全集で読んだ。

「能・狂言には身体障害者に明確な悪意を向け、冗談半分で暴力をふるうとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者団体も作っていたみたいだし、だから近江絵などで風刺対象ともなっているのだろう。岡田利規の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。演劇の人なので、酔っ払いの歌などを声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。

現代第一線で活躍する作家に訳させるってのはかなり贅沢だ。今の言葉古典に新しい命が吹き込まれるって本当なんだな。

説教節」女人禁制による悲劇を描いている。これは父方の祖母からも似た話を聞いた覚えがある。何かウグイスだか何かの鳥に変じてしまう話だったようだが思い出せない。どこかの寺院縁起譚だったと思う。翻訳伊藤比呂美で、この人は「ラニーニャ」という作品芥川賞候補になっている。

曾根崎心中はいとうせいこう訳。ここから浄瑠璃。作中の大阪弁が興味深い。大阪舞台だし、近松門左衛門作品なのでそれはそうなんだが、江戸時代大阪ことばがどうだったかってのはすごく面白い。三幕の悲劇プロットは単純なんだけど、台詞の長さとか掛け合いとかが欧米演劇とはリズム全然違っている。そういえば昔、「コメディお江戸でござる」のなかで「七つの鐘が六つ鳴りて」が引用されてたけど、原文って最初から最後まで七五調らしい。この次もそうだが、借金で首が回らないってネタ時代的な物か。

女殺油地獄はひたすらダメ人間がとうとう強盗殺人までしてしまう救いのない話なんだが、ここまで徹底した悪人というか堕落して行く過程がすでに文学表現されていたってのがまず面白い。ダークヒーローとかそういうのではなく、自己弁護言い訳にまみれた情けない悪人物語だ。翻訳桜庭一樹で、ところどころ注釈的に時代背景を地の文説明しているんだけど、現代語訳っていうのはこういう自由さもある。たぶん池澤夏樹はどう翻訳してほしいか指示を出さなかったんだろう。

殺人の場面は本当に暗鬱。面白いので近松門左衛門作品もっと読みたい。江戸時代実在事件モデルにした猟奇サスペンスがあったってのが面白い。ジャーナリズムの発展ってやつだ。ただし、人生がうまくいかない人をすべて発達障害解釈しようとするのは、否定するだけの根拠はないのだが、多用しすぎるのもどうかと思う(一昔前の「シゾイド人間」みたいに流行っているだけかもしれない)。

ところで、まったく関係ない作品同士で、源融の庭の話が引用されているのは不思議で、それほどよく知られていた話だったのだろう。また、わからない言葉がちまちまあるので調べながら読むことになるんだけれど、「坊主持ち」って遊びが出てきて、これはお坊さんとすれ違うまで荷物を全部持つ遊びらしい。じゃんけんで負けたら全員のランドセルを背負う小学生の遊びの起源か?

菅原伝授手習鑑」牛車を押す場面を浮世絵で見たし、松王丸の部分は新渡戸稲造武士道」か何かで引用されていたのを思い出した。忠義のために身動き取れなくなる話は「菊と刀」にも通じている。意外と又聞きで歌舞伎物語を知っているのかもしれない。ところで、学生時代に見た子供切腹する歌舞伎は何の話だったんだろう。

翻訳三浦しをんでこれを読んだ昨年当時はは四十七歳のはずなんだけど、「ギッタンギッタンにする」「ニャンニャン」という、古いんだか新しいんだかよくわからない言語感覚が特徴。この作品では道真公の流罪の原因をかなり自由創作しているようだ。

もう少し読みたいものだと思い、浄瑠璃と加歌舞伎とかの現代語訳はないものかと「弁天娘女男白浪」について調べると、それは一部分を演じるときの題で、本来は「青砥稿花紅彩画」というらしい。

義経千本桜キツネが身代わりになるシーンがあるが、「菅原伝授手習鑑」にも木像が身代わりになるシーンがあり、これはよく見られる演出だったんだろうか? かなり自由に筋が作られている。安徳天皇女性説とか初めて知った。このあたりも「平家物語」の時代を知っていると楽しい

仮名手本忠臣蔵は四十七士全員のエピソードを語る時間はさすがにないが、悪玉は徹底的に憎たらしく描かれており、エンターテインメントの基本が抑えられている感じがする。ここでも入れ替わりの芸がある(上に書いた入れ替わりは、駕籠に乗った九太夫医師と入れ替わっている個所)。なるほど、日本演劇ストーリーだけじゃなくて上演時のテクニックについても調べる必要がある。

ところで、解説を読んでいると、「仮名手本忠臣蔵」は仇討ち物語というよりも恋愛劇だという指摘があった。他にも、どの脚本伝統を逸脱しているとか細々説明している。

あと、「しんとく丸」の話はどっかで聞いたことがあるんだが、どこでだったのかが思い出せない。

INTERMISSION③

好きとか嫌いとか、こういう本能的な感情の動きは、まったく道徳的でない。

近頃は読みもしないくせに、イケメンが出てくるフィクションに対する独断偏見自分の中でどんどん育っていることに、非常に困惑している。他人プライベート空想や願望にとやかく言うのはみっともないし、読みもしないのに批判するのは非常にダサいので、こうした非論理的感情はいつも戸惑う。逆に、一度きちんと読むべきではないか? それか、徹底的にスルーするかだ。そもそもフィクションそもそも他人の頭の中身なので、刺さらないときには徹底的に刺さらないってだけではあるまいか。かつては普通男性向け女性向けと関係なく小説を楽しめていたのに、こんな人間になってしまたことが極めて残念である

おそらく、これも僕のイケメン嫌悪去勢不安がなせる業だろう。まだ四十にならないのに前立腺肥大を患い、ED気味である

じっくり考えてみたのだが、ジャンルを問わず男性であることを否定的に書く作品や、男性苦痛を軽視するもの否定的な感想を持つようだ。昔はジェンダーSFとかを、思考を広げて無意識の前提に気づかせてくれると面白く読んでいたのに、年齢を重ねて頑固になってしまったようだ。困ったものだ。そこのままではさらに年齢を重ねたらどうなることやら。

逆に、自分が性欲を持つ男性であることを肯定するタイプポルノが大好きだ(具体的なジャンルは揚げてもしょうがないので略す)。この好きと嫌いの両者は僕が自分の性を肯定できるかにかかっている。つまるところ、「僕は男性としてダメじゃないか?」という不安を表裏一体で反映している。自分ヒゲ永久脱毛をする気が全くないのも根底には同じ感覚がある。見境無く散らばっている性癖文学の好みの背後に、一本の理屈が通っていると気づくと、自己理解が深まったようで、事態が何も解決しなくても、何かすっきりした気持ちになる。

逆に、女性作家ですごく気に入ったものを十作くらい集めて、何が好きだったをまとめてみると、こういう作家属性評価するとこから自由になれるかも。今度試みてみよう。偏見から自由になりたいものだ。

それに、偏見に凝り固まった感覚が浮かんでくるのは、人と会わず孤立している時なのであるそもそも、人との距離を取り、一緒に過ごす時間を奪ってしまうような創作活動は、僕を幸せにするだろうか?

Permalink |記事への反応(1) | 17:57

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-30

京都大学はいまでこそ東大にはなされて、難易度だだ下がりだけど

30年ほどまえまでは、ノーベル賞受賞者東大からほとんどでてなくて

小柴さんはまだ受賞してなかったでした。

Nobelは京大専売特許だったので、それなりに京都大も人気があって

難易度も高うございました!!!

いいくにつくろう鎌倉幕府みたいに京都大の受賞者を語呂合わせしたいです

湯川秀樹、朝永信一郎、福井謙一利根川進江崎玲於奈

本庶先生赤崎勇吉野先生

https://kyo-dark.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/2024/02/shinsei.mp3

Permalink |記事への反応(0) | 21:17

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-19

関東拠点を置けば京で乱が起こる

かといって京に拠点を置けば関東独立勢力となる

次は成り行き関東拠点が移ったわけだが案の定から乱が起こった

これが日本の歴史なわけだ。

鎌倉幕府関東拠点にしてた

室町幕府は京を拠点にしていた

江戸幕府関東拠点にしていた

結局、京での争乱が起こると政権の交代につながるのは歴史が結果として証明している。

であれば武士政権は京に近いところに拠点を置かざる得ない。

しかし、そうなると関東独立勢力となってしまう。

この課題いかにして解決するべきか?

Permalink |記事への反応(4) | 20:07

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-01-04

anond:20250104105811

徳川史観

征夷大将軍の任官をもって鎌倉幕府成立とみなすべき。だって征夷大将軍はえらいんだぞ。

勢力図的史観

守護の設置をもって鎌倉幕府成立とみなすべき。守護をおいたんだぞ。全国制覇じゃん。

ジャンプ史観

木曽義仲の征伐をもって鎌倉幕府成立とみなすべき。くらえ義仲!ぐわー。かったぜ。おれたちの戦いはこれからだ!

公務員史観

問注所の設置をもって鎌倉幕府成立とみなすべき。不動産登記だいじ。

土建屋史観

鶴岡八幡宮創建をもって鎌倉幕府成立とみなすべき。ハコモノ大事政治なんか飾りですよ。

税務署史観

地頭年貢を取り始めたのをもって鎌倉幕府成立とみなすべき。国家税金である

Permalink |記事への反応(1) | 11:23

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20250104105436

1192作ろう鎌倉幕府は、1185年に変わりました。

良い箱(1185)作ろう鎌倉幕府でお願いします。

Permalink |記事への反応(0) | 10:59

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

次の25件>
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp