
はてなキーワード:野田市とは
kduke
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先日の参議院選挙での参政党の街頭演説での様子がたまたまXで見れたのだが、その映像の中で排外主義を主張する参政党へのカウンターに対して参政党の支持者が「十円五十銭って言ってみろ」と言い出したことに衝撃を受けた。
この輩もそうだろうが、参政党の支持者は参政党の標語「日本人ファースト」に惹かれ、どうやら自分の出自が日本の日本人である事だけを誇りにしているようだ。
60代と思われる痩せた男性であったが、戦後どんな環境下で何を学んで生きたらこういう風に悲惨になれるのかと同じ人間として恥ずかしく切なく怒りが湧いてきた。
戦時中、特に関東大震災後色んな所で差別によって無残に殺された人が沢山いたが、住まいの近隣で言えば、この野田市福田の地を訪れ手を合わせなければならない、という衝動に駆られた。
日本人が犯した差別による虐殺という大罪に対して、日本人である事を誇る一方で同じ日本人が犯したこの大罪には日本人として無反省なこの種のおぞましい輩が時を越えて来たかの如く現れた今こそ、忘れてはならないことなんだと、この地を訪れ手を合わせて来なければならない、という衝動に駆られた。
そして初めて現場を訪れ黙祷して来た。彼らの無念を想像しながら石碑に刻まれた反省を読み、誓って来た。
田舎というか街の作り方が適当過ぎて田舎の発展は一企業に任せっきりにしてきた戦後行政の敗北なんだろうな
街をどうやってデザインして維持 or 発展していくってのが基本人口移動によって決めてきたツケだよな
でも経済は(神の)見えざる手によって動かされるから行政だけが乗り出しても駄目だろう
金の匂いをちゃんとさっちする一企業が街のグランドデザインに加担する必要はある
キッコーマソが千葉県野田市に病院作ったりして街をデカくしたとか見るとカリスマが動かすのが一番良いのかねえ
イオングループは「悪しき資本主義の象徴」みたいに扱われているが、やっと黒字という状態でもはや田舎の公共事業みたいなものだった - Togetter
2007年7月6日(金)の夕方、テレビやインターネットのニュース、はたまた狼を見た飯田ヲタは
翌日のバスツアーを楽しみにする気持ちが一転、絶望のどん底に落とされることとなった。
バスツアーの前日の夕方にデキ婚を発表するという前代未聞の事態を飯田ヲタが簡単に受け入れることが出来るはずもなく、
バスツアーに参加した飯田ヲタにはまともに眠れぬまま集合場所に向かった者も少なくなかったという。
しかし19,000円(税込)という参加費もあってか当日キャンセルは思ったより多くなく、予定通りに出発。
バスが発車してすぐ目的地が千葉県野田市の清水公園と判明、その際添乗員から飯田の結婚も報告された。
762名前:名無し募集中。。。投稿日:2007/07/07(土)10:55:58.49 0
夜短冊を飾ってたらガイドが「七夕は一年に一度織姫様と彦星が会える日なんです」とかいってさ、ファンの皆さんも飯田さんに会えて良かったですね、なんて言うんだよ
そしたら誰かが急にちいさいこえで「彦星様見つかってよかったねカオリン」なんて言ってみんながざわざわしてから口々におめでとうを言い始めた
俺はそんなこと言えるわけないから下向いて唾飲んでたんだ
俺も泣いた
出発予定日前日の2007年7月6日、夕方にその報せはファンの間を衝撃と共に駆け抜けた。
現役アイドルの恋愛の是非などについてはここでの言及は避けるが、とにかくバスツアーで飯田に会えることを心待ちにしていたような熱心なファンにとっては最悪のタイミングでマスコミにすっぱ抜かれてしまったのだ。
SNSも今ほど普及していなかった時代、当時の最大手BBSのハロプロファンが集う掲示板は大荒れに荒れた。*1
意外にも(?)ツアーを当日になってキャンセルするようなファンは少なかったらしく(いなかったとは言っていない)バスツアーは決行。
出発時までシークレットだった目的地は千葉県野田市にある清水公園と明かされ、また到着後から参加客のBBSでの実況で明かされるツアーの全容が「1人19,000円の会費にそぐわないのでは?」と、参加しなかった住民たちに衝撃を与え、そして以下のような現在まで語られるコピペとなっていった。
メインはバーベキュー用のソーセージと肉(肉は1人1枚。ソーセージは1人1本。)
8人テーブルに1.5リットルの烏龍茶一本(キッコーマン製)。よくあるサントリーのではなく。
デザートはバナナ切り落とし(約7名のテーブルに付き3本分のバナナ切り落としが皿に盛られて用意された)。
お楽しみ企画は寂びれた遊園地に在りそうなジャンボ迷路。食後に行われた。
時間が推していた為に、約半数のヲタをジャンボ迷路に放置したまま迷路出口で次のイベント開始。
ビールは別売(一杯500円?)
大事なのはこれを国民がちゃんと知っておくこと。統一教会はこの手順でつぶすのだと理解しておくこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%84%9F%E5%95%86%E6%B3%95
1984年、後に明覚寺の管長となる男性が千葉県野田市に水子菩薩を扱う訪問販売会社を設立[30]。地元の曹洞宗の寺と協力して販売していた男性が、1987年に醍醐寺の末寺として茨城県大子町に1987年に宗教法人「本覚寺」を設立し、関東一帯にそのグループを展開した[30]。1988年に真言宗醍醐派を離脱し独立の寺として霊視鑑定を行っていたが、消費者センターに苦情が寄せられて詐欺商法だとして損害賠償請求が次々と起こったため、一時的に活動を中止した[30]。その後、休眠状態にあった和歌山県の高野山 (高野町)[31]にある「明覚寺」を買収し、関西地区で同様の活動を再開したが、こちらでも損害賠償請求が多数起こった[30]。愛知県警は明覚寺系列の満願寺(名古屋市)の僧侶らを摘発した[30]。1999年12月16日に、文化庁は「組織ぐるみの違法性が認められる」として和歌山地方裁判所に宗教法人明覚寺に対する解散命令を請求し、和歌山地裁は2002年1月24日に解散命令を出した[30]。明覚寺は最高裁まで争ったが棄却されて解散になった[32]。犯罪を理由にした宗教法人の解散命令としては、オウム真理教に次ぐ2番目のできごとであった[30]。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/shuukyo/giji_list/index.htm
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/shuukyo/gijiroku/1329788.htm
第2段落でございますが、「「修行目標」が定められていたこと自体、詐欺行為が組織的なものであったことを裏付ける事実というべきである」。その2つ下の段落でございますが、「さらに、抗告人が相談者から供養料が振込入金されることを確認し、その金員を管理していたことについては、抗告人も自認しているところ、この事実も詐欺行為が組織的なものであったことを裏付ける事実というべきである」。以上の理由から、抗告人の主張はいずれも採用できないということで、結論といたしまして、原判決は相当であり、本件抗告は理由がないからこれを棄却するという決定を行っているところでございます。これに対しまして明覚寺は、10月4日に最高裁に対しまして特別抗告を行っておりましたが、資料3-2にございますように、本件抗告理由は、民訴法第336条第1項に規定する特別抗告ができる理由で特別抗告をしていないと判断して、棄却する旨の決定を行ったところでございます。以上によりまして、明覚寺は解散をいたしまして、資料3-3の法人登記簿の3枚目の一番下にございますように、平成14年9月27日、和歌山地方裁判所の解散命令の決定の確定により解散となったわけでございます。
阪神・淡路大震災が発生し、このときばかりとオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした1995年の春のことです。和歌山県高野山に拠点を置いていた宗教法人・明覚寺グループの「霊視商法」詐欺事件が明るみに出ました。
この明覚寺グループは、茨城県大子町に本拠地を置く本覚寺グループをルーツにするもので、関東一円で霊感詐欺商法を展開していたのですが、被害者たちの訴訟が増えて1994年から1995年にかけて中部から近畿に転身して霊視詐欺事件を起こしていました。
ルーツである本覚寺時代の霊視商法というのは「相談料3000円」という宣伝文句で客を引っ張り込んで相談に来た主婦などを巧みに誘導して霊視鑑定し、祈祷料や供養料を要求するものでした。
問題視した消費者センターは「相談料という宣伝文句は、占いの見料に相当するもので商取引にあたる」と主張。すると「相談料・お布施として」という文句に変更し、あくまでも”宗教活動行為”であることを主張しました。
本覚寺の管長(宗派を管轄する長)は、西川義俊という男で、大阪府立大学経済学部を卒業したあとに大手製薬会社の営業マンとして働き、やがてコンドームなどを販売する訪問販売会社「協和」を設立しました。
1984年からは千葉県野田市を本拠地にし、地元の曹洞宗の寺と組んで、「水子菩薩」を売り出して蓄財。一方では京都の真言宗醍醐派の寺に通っては修行(笑)し、1985年「修験道教師」となりました。翌年には剃髪して得度に至たります。
これらは、”宗教は最大のビジネスである”と考えていた西川の予定の行動で、西川は日本仏教指導会という団体を開設、「仏教商法」に手を染めることになる。1987年に醍醐寺の末寺という位置づけで本覚寺を本山とし、関東一円に昇運寺、法輪寺、迎春寺、実証寺、春光寺、幸福寺、明星寺、光明寺などの”道場”を開設していきました。
いずれも宗教法人格は持っておらず、謂わば「霊感商法のための営業所」のようなものでした。それぞれの道場には霊能者はいましたが、その多くは避妊具訪問販売員が霊能者に扮していたものでした。
日本には数多の新宗教と呼ばれる宗教が存在する。そして大体の宗教は聖地を持っている。そんな聖地に信者でもない人間が入ってもいいのか?と思ってしまうが開放している宗教はそこそこあるので行ったことがある宗教本部の思い出を辿ってみる
・霊友会
法華系新宗教の先駆けであり数多くの分派を輩出したことで知られる霊友会は東京都港区麻布台という都内の一等地に「釈迦殿」と呼ばれる巨大な建物を保有している。最寄り駅の神谷町駅からとぼとぼ徒歩で行ったが、自分は平日に行ったのでほとんど人が居なかった。巨大な礼拝スペースががらんとしているのはこの世の終わりを感じさせてなかなか楽しいものだった。霊友会には小谷喜美と久保角太郎という二人の教祖的な人物がいるのだけれど歴史紹介コーナー的なところはほとんど小谷恩師小谷恩師と書かれていて久保角太郎の名はあまり見受けられなかった。(霊友会の元会長が久保角太郎の息子なのだが、平成に入って分裂騒動があり現在の霊友会と袂を分ったためか)
奥の方には食堂もあったが行く前に食事してしまったので食べずに終わった。
上に書いた霊友会の分派として戦後期に創価学会と並んで肥大化した新宗教である立正佼成会の本部は杉並区和田にある。方南町駅から北に向かって歩いていくと円柱が多数取り囲んだような形の立正佼成会の大聖堂が見えてくる。道を挟んで南側には「吹奏楽の甲子園」と呼ばれた教団所有の普門館があるのだが、自分が行った2019年のクリスマスには耐震上の問題から取り壊しが行われていた。
中に入ると一階には土産物屋があった。教団関連の書籍や仏具とともになぜか国旗が売られていたのを妙に覚えている。上の階の展示室では脇祖・長沼妙佼の特集が組まれていた。若いころの開祖・庭野日敬の写真などもあったがなかなかいい顔立ちだなと感じた。展示を見終えた後、屋上に上がり中野から東京を見たりした。
昼ぐらいになったので食堂に行った。この日はクリスマスだったのでシフォンケーキが売られていた。仏教系とかあんまり関係ないのね…大聖堂の外にもいろいろあったが博物館的なところは休館だったのでコロナが収まったら行ってみたいと思います。
・国柱会
さっきから法華系の新宗教ばかりに偏ってる気がするけど次に国柱会の説明を。戦前に日蓮主義を引っ提げた田中智学の国柱会の本部は江戸川区一之江にある。一之江駅からバスで行くものの最初はどこが入り口かわからずぐるっと回りを一周してしまった。やっとこさ入口らしき道を見つけたが、教団が経営する老人ホームが本部の中にあって驚いた。老人ホームの道を進んでいくと国柱会の本部が見えてくる。ただまあそんなにデカい建物ではなかったのですけどね。道の端々にいろんな石碑が残っていたけどあんまり記憶にない。本部の中も恐る恐る入った。術師みたいな恰好の人が居た位しか覚えてないですね。本部の中のパンフは教団関係のやつもあれば右派的な主張のものもあった。そこは戦前からの流れがまだ生き残ってるんだなあ…と思った。
・霊波之光
いままでは東京都内だったが今度は千葉県野田市にある霊波之光本部へ。東武野田線運河駅を降り東京理科大学を横目に歩いていく。途中で信者らしき人々がすれ違いざまに挨拶をしてくる。霊波之光は教義上挨拶を重視してるようでまあ返さないと申し訳ないな…という感じで返事をする。
入り口についたころはちょうど正午で礼拝タイムだったのでそれを眺めてから境内にINする。入り口で記念撮影ができるようだが内部では写真は撮影禁止らしかった。休日であったこともあり先に述べた三つの本部よりも人が多かった。とりあえず腹ごしらえに一部オタクに認知されているドムドムバーガーの生き残りの店で昼食を食べた。お好み焼きバーガーって炭水化物ばっかじゃん!!!!
施設内のことで覚えてることが花が多いとか焼き物が飾ってあったとかその程度しかない…教団について知らなかったので資料館的なところも見たかったけど休館だった悲しみ。
・金光教
中国地方に18きっぷ旅行した時にせっかくだからと行ってみた金光教本部はその名もズバリ金光駅から歩いて行った。
本部までの道にある店が軒並み金光教マークの提灯を掲げていたのは流石宗教都市だな…と思ったりしました。本部に入ったけど手水鉢とかもあって割と神社に近い感じでしたね、教派神道ですから。
歩き回ろうと思ったけど信者の方々が掃除の奉仕活動的なことをしてたからなんか申し訳なくなってそそくさと退出してしまいました。帰りに買った金光教マーク入りのまんじゅうはなかなかおいしかったです。
…と、ここまで駄文を垂れ流してきたわけですが、見に行ける新宗教施設は割とあるように思います。ただ、そこにいる信者の皆さんに失礼とならないようなふるまいは必要となってきます。あくまでアウトサイダーなのですから…
あと、創価学会でおなじみの信濃町なんかは行ったけれど学会本部は厳重に守られてますし土産物屋で三色グッズを買うくらいしかできないからあまり面白くはなかったですね。
今後もいろいろな新宗教施設を訪ね歩きたいと思います。天理とかまだ行ってないですからいずれコロナが収まったら行きたいですね…!
Permalink |記事への反応(17) | 01:53
東京都目黒区で、ガリガリに痩せ細らされた5歳の女の子が朝早くから「もっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」と反省ノートを書かされて死んだのを知った時、子供を育ててるお前らはその子のために泣いたんじゃなかったの?
千葉県の野田市で、父親に日常的に殴られながらも必死で学校に助けを求めた10歳の女の子が、おどしをかけられて引き下がった学校や児童相談所に裏切られて、1月の寒い日に冷水のシャワーを浴びせられながら凍え死んだのを知った時、子供を育ててるお前らはその子のために泣いたんじゃなかったの?
そうやって子供を殺した虐待殺人犯どもが、いつも逮捕されたあと何と言い訳するかわからないの?
一度は学校や児童相談所によって子供から引き離された経歴のある虐待殺人犯どもが、どうしてその子を連れ戻せるのかわからないの?
「手をあげたのは悪かったが、全然しつけられていなかった結愛をここまでしつけたのは自分だ」
「娘がおねしょをしたので、生活態度についてしつけをした」「しつけのつもりで、悪いとは思っていない」
これは体罰だ。
必要な躾だ。
自分は子供を愛している。ちゃんとした子になって欲しい一心なんだ。
私たちは連中が使うその言葉に抗うすべを持たなかったから、2人の子供をみすみす殺人者の前に差し出す愚を犯してしまった。
言えたらよかったんだ。
「どんな理由があろうが、程度の重い軽いを問わず、あなたがやってきたことは虐待です。お子さんを会わせることは絶対にできません」と。
そう言えたら目黒区の女の子と野田市の女の子は死なずに済んだんだ。
どうせお前らは歩きスマホが禁止されようと、お構い無しでスマホを見てうつむいたままそこらを歩き回ってるじゃないか。
傘さし自転車が禁止されようと、お構い無しで片手を傘で塞いだまま自転車を乗り回しているじゃないか。
だったら同じように、体罰が禁止されようがお構い無しで自分の子供を叩いて躾けてりゃいいじゃないか。それしか方法がないって言うんなら別にそれでいいよ。勝手にしろよ。
わざわざ道路飛び出したガキをひっぱたいてる親を通報してしょっぴかせるほど暇な人間もそれの相手するほど暇な警察もいねえよ。ただでさえ児童相談所パンパンなんだから。
自分は今だに思い出すんだよ。ああ冬が来たなって。
この手を洗うのも嫌になるほどクソ寒い中で、氷みたいな冷たい水のシャワーを浴びせられて寒い苦しいって思いながら死んでった女の子が居たんだなって。
育児が大変なのわかるよ。自分もやってるよ。4歳の子供たった1人ぽっち育てるのだってうんざりする我慢の繰り返しだ。
でも人の親だってなら、自分の子供だけじゃなくて、今もどこかでそういう目に遭わされてる子供のためにちょっと辛抱するくらいしてやったっていいだろ。
聞き分けのない子供に耐えかねてパチンとやる時に「やりようがなくて叩いちゃってるけど本当はいけないことなんだよな」とほんの少し後ろめたさを抱えることすら嫌なのかよ。
だったらせめて人殺しの顔をしてくれよ。
私は親であり人殺しです。いっぱいいっぱいの私の育児が余計苦しくなるくらいなら、よその子が死んでもどうでもいいですって。
そんで時々でいいから思い出してくれよ。
あの法律は体罰をするあんたを罰するためじゃなく、あんたの家じゃない、今も酷い目に遭ってるどこかの子を二度と殺させないためのものなんだって。
娘の言動を告げ口するような悪意あるLINを送ったり。
元夫に馬乗りにされるなどの暴力も受けているわけで。彼女を、純粋な加害者としてみていいのかな、と言う気持ちが私にはある。
親だから、母親だから、超人でいなければいけないんだろうか??とも正直思うからだ。
極端な話。
次に、再び自分がレイプされるか、娘がレイプされるかの選択を迫られて。
母親としては、「自分が犠牲になる」が正解なんだろうけれども。
人としては、「自分が犠牲になる」だけが正解ではな決してないわけで。
そもそも、「逃げる」「助けを求める」「庇う」「抵抗する」ができる人間だったら、DVにはあわないだろうし、あっても最初の一発で何かしらの行動に移せただろうな、とも思う。
どうやら心も風邪をひいてしまったようで、テレビやネットを見るのが辛くなっていることに気づきました。
なんでかな??と思ったら、
その返済のため、父は年に数回帰宅するだけで、
母も平日はフルタイムで働いていました。
親せき宅をたらい回しにされたりしていました。
虐待を受けていたのはその頃です。
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怒鳴られたり、はたかれたり、ぶたれたり・・
仕方なく引き受けたものの、
どう扱ってよいものか困ったのでしょうね。
いうことも聞かないし‥
それで小さい子供に"言うことを聞かせるため"に必要なのは「力」だと思ってしまったのだと思います。
でも力をふるう方って得てして、相手との「差」をあまり意識していません。
それまで、従兄弟のことはどちらかといえば、いいお兄ちゃんと思っていたのですが、
叔母のことは好きだったので、
叔母宅に行くのはむしろ楽しみですらあったのですが、
それ以来、今日は叔母の家に預けられる日だ思うと憂鬱になりました。
苦しくって、つらくなって、
母にももちろん言いました。
「虐待」なんて言葉は知らなかったから、そのときの自分なりの伝え方で・・
でもね、一切信じてくれないんです。
なぜかっていうと、
あげくこちらは「〇〇お兄ちゃんの言うことをちゃんと聞きなさい!!」とさらに叱られます。
「余計な事しやがって」と、虐待はさらにエスカレートしていきました。
いじめでいう「チクった」あとと一緒です。
モノを投げつけられたり、刃物を振り回されたりと恐怖レベルが上がりました。
で、そのトラウマってずっと残ってるんです。
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これ、実はもう40年前の話です。
悲しいかな
「殺される!!」と思った恐怖感
繰り返される怒鳴り声
時間が経ったから、セピア色になる・・・なんてことはありません。
その後も母にS.O.Sを出し続けたのですが、
同じバターンの繰り返しでした。
そのうち大好きだった母のことさえも、
自分がこんなに言っても信じてくれない、
まったく頼りにならないという不信感を持つようになりました。
そんな中で、唯一、私のS.O.Sを受け止めてくれたのが母方の祖父でした。
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気が付けば、叔母の家を飛び出して、
電車に乗っていました。
叔母の家から祖父の家までは電車で1時間くらい離れていました。
年に何回か行く程度でしたし、
我ながらよく迷子になることもなくたどり着けたものだと思います。
一人で泣きながらやってきたことに驚いて飛び起き、話を聞いてくれたのです。
その上で母や叔母に電話をかけて、一斉招集をかけてくれました。
叔母に連れられて、従兄弟もやってきました。
いきなり呼びだされて、殴られたことで、
「このじじい」みたいな感じで殴り返していました。
「力」には「力」で教えないとわからないんだ!!
虐待されることもなくなりました。
今までのように叔母の家に送られて、迎えに来るまで待つ必要もなくなり、
母を含めて、身近な何人かの大人に必死でS.O.Sを出していたのに、
いまもどこかにあの日の私みたいに「助けて」を言っている子はいるのでしょう。
それを聞いてあげられるかどうか、気づいてあげられるかどうか
ニュース見てるだけで当時のことが鮮明に思い出されてフラッシュバックする虐待サバイバーは自分だけじゃないんだなと思った。
個人的にしんどい事件なので必要以上に見聞きしないようにしていたが、母親が逮捕されたというニュースを見かけてすごく驚いた。
純粋に「母親もDVをされていたと聞いたのに、なぜ逮捕されるのか」という疑問だった。
母親逮捕のニュースへのコメントで、母親も悪い、なぜ助けられなかったのか、なぜ黙って見ていたのかと糾弾している人が沢山いるのを見てすごく心が傷んだ。
同時に、普通はそう思うだろうなと思った。
ごく普通の家庭で育って、普通の環境で生きてきたら暴力や恫喝による絶対的な支配というものには遭遇しないだろうし。
北九州の事件を引き合いにしてる人もいた。あれは犯人が意図的に共犯にさせていたけれど、根本は同じだと思う。
わたしと母が加虐されていた時代、家庭内暴力やドメスティックバイオレンスという言葉は一般的じゃなかった。浸透してなかっただけかもしれないけど。
母が紫に腫れ上がった瞼を氷嚢で抑え、私を幼稚園から連れ出したその足で交番に駆け込んだこともあった。
警官が「夫婦喧嘩には、警察は口を出せないんですよ。」などということを言っていたことをハッキリと覚えているし、母の絶望にくれた顔もよく覚えている。
加虐者は、小学校に上がったわたしを殴ることはあまりしなくなった。私が殴られないように立ち振舞っていたというよりは、母が一身に請け負うようにしていたというのが正しいと思う。
椅子を引く時に不愉快な音がしたとか、足の爪の形が気に入らないとか、そういう些細なことで加虐者は暴力を振るう。
それを無理矢理に止めて自分の方へ暴力を向けさせる母はいつも震えていたし泣いていた。
わたしは一切の動きをやめて、無表情に徹していた。感情を出すと更に殴られるのを知っていたから。
未だにあの時のことを思い出すと手が震える。あの、一度握られたら誰かを傷つけるまで収まることのない拳を自分へ向かうように仕向ける母のことが信じられないとさえ考えてしまう。
野田市の虐待死事件で母親も逮捕されたニュースを見て、それに付けられたコメントを読んで、
あの時母が死んでいたら私も逮捕されて、同じように糾弾されていたのかと頭をよぎった。真面目に考えれば、未成年なのでされていないと思う。
けど殴る父を、母の口が裂けて鮮血がぼたぼたと床に流れ落ちるのを、止めもせずに「床が汚れていると更に機嫌を損ねるから」という理由で、雑巾で拭っていたあのときのわたしは保身だけを考えていた。
「掃除をしていれば、いい子だと思われて私は殴られないかもしれない」と小狡い考えを持っていた。
今回の野田市の虐待死事件で母親が有罪となるのなら、この時の私の考えも明らかに罪になる。
結果母も私も死ななかったが、もしあの時母が死んで、父が逮捕されたなら、私はそのまま生きていたとしても「自分も裁いてくれ」と考える日が来たように思う。そう考えてしまうと一概に母親の逮捕に異を唱えることも出来ない。重ねて見てしまう点はあっても、彼女はわたしではないから。
20年近く経ったわたしですら、ニュースを見る度苦しさが募る。
亡くなった女児のことを考えるには、まだわたしには余裕が足りない。
野田市10歳女児虐待死のニュースが連日報道されている。母親も逮捕だってね。胸糞が悪い。
自分は虐待サバイバーで、もう成人してるし職にも就いてるし子供もいていわゆる普通の生活を送れていると思うけれど、未だに虐待関連のニュースを見ると当時のことがフラッシュバックする。
野田市の女の子と自分と何が違ったのか、なぜ私は生きていて彼女は死んだのか、正直よくわからない。強いて言えば私は運が良かった。ただそれだけだと思う。彼女と同じ、私は父から虐待されていて、母も父から暴力を受けていた。死を覚悟した夜がいくつもあった。寝たら殺されると思って眠れない夜がいくつもあった。母に庇ってもらったことがあるし、庇った母が殴られることも何回もあった。私が母を庇って殴られることもあった。
一度だけ、暴力を受けている母をただ見ていただけの日があった。暴力の原因は忘れた。というか原因があったとしてもだいたいが理解できないものだけど。
その日母はボコボコに殴られてたし蹴られていた。血の涙を流すことって本当にあるんだなと思ったことを覚えている。いつもだったらやめてって父に叫んで母に駆け寄ったけど、その日は涙が出るばかりで体が動かなかった。そんなことしたら私は蹴り殺されて死ぬし、そのあと結局母も蹴り殺されて死ぬと思った。私はあの日、母と自分の心を犠牲にして自分の身体を守った。
結果的に言えば母は死ななかった。でもそれは運が良かっただけで、もしそこで母が死んでいたら、私は母を見殺しにした罪で裁かれることになったのだろうか。今回の野田市の例で言えば。
千葉県野田市で一人の女の子が父の虐待で死んだ。母はそれを見殺しにした。その裏側には長期間に渡る数えきれない父の暴力と、母の戦いと、娘の戦いがあって、母も娘も何回もいろんな機関に助けを求めていた。それでも女の子は死んでしまった。母親も悪いとか、別れれば良かったんだとか、なぜ暴力を止めなかったんだとか、そんなこと今回の件では軽々しく言ってはいけない気がする。この母娘にとっては日常の様々な選択が生死に直結していて、今回は運悪く最悪のくじを引いてしまっただけなんだ。
県内の他の自治体との違いといえば、あるときにワンマン市長が「うちは学力向上で、土曜授業やる!」って言い出した。
といっても、習い事やスポーツ少年団とかで休む子供もいるので授業は先に進まない。プリントで自習して丸つけしてもらったりして、お昼で帰る。(小学校の場合)
教員だって、土曜に自分の家のことやら何やらをしなくてはいけない日もあるから、教員でシフトを組んで、毎回臨時時間割みたいなのを組む。その作業に疲れて、野田市教育委員会に爆破予告を送って逮捕されてしまった教員もいた。
んで、今回の事件。
主な原因ではないけど、ワンマンのトップの顔色を見ながら仕事することに慣れて、なおかつ、日々疲弊していく現状も、何かの遠因になっているんじゃないかなぁ。