
はてなキーワード:野坂昭如とは
一般に「スタンバる」という言葉はアニメ『機動戦士ガンダム』が初出だとされている。
意外なところでは「スタンバる」=用意する、スタンバイする もガンダム発祥の言葉。初出は『機動戦士ガンダム』で、シリーズを代表する名艦長・ブライトが発した。
「黒歴史」「スタンバる」…実は"ガンダム発祥"な用語で、世代の上司とうまくコミュニケーションを取る方法(1/3) - ウレぴあ総研
現在、Google Booksや国会図書館デジタルコレクションによって、容易に用例を検索できるようになった。
画面では居間から台所へ行くだけでもスタジオの中では、AセットからBセットへ飛んで行かねばならぬ場合が多いのです。これをスタン・バイと呼びます。中には日本語の様にくずして、「Aさん、早く台所のセットへスタンバって下さい」などという、F・Dさんもいる様です。
日本でテレビ放送が開始されたのは1953年だが、1960年の本に載っているということは、かなり早い時期からあったのだろう。
「ママちょのカメリハはCスタでやります」「ハイ、スタンバってー」「A子のシヨン待ち」「フロアシさん、そのバック八百屋にして下さい」
スタンバる=用意する。
ちなみに「ママちょ」は『ママちょっと来て』というドラマのこと。
こうして「スタンバる」はテレビ業界外へと広まっていったのだろう。
どちらもテレビ局を舞台にした小説だが、フィクションにも登場していたことがわかる。
1973年『日本教材文化研究財団研究紀要』「特別寄稿 語彙の広がりと知性」
名詞に「る」をつけて動詞にする流行語もよくない。スタンバイから「スタンバる」,サドから「サドる」,ガリ版を切ることを「ガリる」,ゲバ棒から「ゲバる」,ゼロックスから「ゼロる」ETC。
そして、この時期には既に「最近の流行語」として認識されていたらしい。
ということは「ガンダムが広めた」ということすら怪しい。
フィリップ・ウィルキンソン「まぼろしの奇想建築天才が夢みた不可能な挑戦 (NATIONAL GEOGRAPHIC)」
麦原遼「逆数宇宙」
琴柱遥「枝角の冠」★
榛見あきる「虹霓のかたがわ」
田場狩「秘伝隠岐七番歌合」
高野秀行「謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」
ブライアン・インズ、クリス・マクナブブライアン・インズ、クリス・マクナブ「ビジュアル世界の偽物大全 フェイク・詐欺・捏造の全記録」
「開館20周年記念展/帝国ホテル二代目本館100周年フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」
岸見一郎、古賀史健 「嫌われる勇気自己啓発の源流「アドラー」の教え」
キャスリン・ペトラス、ロス・ペトラス 「人体ヒストリア その「体」が歴史を変えた」
岸見一郎、古賀史健 「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行 第S5話 鳥は見えるか?」
下村智恵理「天網恢々アルケミー Project #34 黄泉からの手紙」
下村智恵理「天網恢々アルケミー Project #35 旧針金山トンネルの悪霊」
「マリー・ローランサン ―時代をうつす眼」
芝崎みゆき「イースター島不可思議大全:モアイと孤島のミステリー」
五十嵐ジャンヌ「なんで洞窟に壁画を描いたの?―美術のはじまりを探る旅 (13歳からの考古学) 」
タイモン・スクリーチ「大江戸異人往来」
北杜夫「楡家の人びと 第二部」
北杜夫「楡家の人びと 第三部」
何となく東アジアの歴史、特に第二次世界大戦ばかり読んでいる。小説も含めて。
テレビ朝日開局65周年記念『MUCA(ムカ)展 ICONS of UrbanArt ~バンクシーからカウズまで~』
「別冊日経サイエンス ホログラフィック宇宙 時空と重力の起源に迫る」
酉島伝法「隔世遺傳(かくりよいでん)『皆勤の徒』設定資料集」
スティーヴン・バクスター「〈ジーリー・クロニクル①〉プランク・ゼロ」
入江亜季「北北西に曇と往け」七巻
1000decillion「Morals under a pagoda I/II」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda III/IV」(同人誌)
「北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画」
スティーヴン・バクスター「〈ジーリー・クロニクル②〉真空ダイヤグラム」
大村幸弘、篠原千絵「ヒッタイトに魅せられて:考古学者に漫画家が質問!!」★★
スティーブン・キング「スタンド・バイ・ミー 恐怖の四季 秋冬編」
スティーブン・キング「ゴールデン・ボーイ 恐怖の四季 春夏編」
アリク・カーシェンバウム「まじめにエイリアンの姿を想像してみた」
中野京子「怖い絵」
1000decillion「Morals under a pagoda -Kama Sutra-」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda -Egypt-」(同人誌)
1000decillion「morals under a pagoda -Greece-」(同人誌)
毎年月ごとの上位三冊を選んでいるが、ある月の四位が別の月の二位を上回って面白いことがある。つまり当たりの多かった月だ。すべての本に対して星の数で評価すべきかもしれない。
それでも時折、怒りを覚える。
なんでこの作品が受賞するんだよとか、百万部売れた有名な芥川賞作品は特定の障害をモチーフにしているようだが、作者は当事者じゃないっぽいし、こいつは「文化の盗用」ってやつじゃないのかとか、演技の下手な俳優が障害者を演じるとミンストレルショーみたいで馬鹿にしているようにしか見えないから個人的には当事者に演じてほしいが、キャンセルするのは表現の規制につながるし他人の自由は奪いたくない、だがクリエイターの良識に任せるのも信頼できないとか、そういえば文学賞を取ったあの作品に障害ネタを使われちまったなとか、女性視点男性視点とかそういうのには飽きたとか、まあいろいろと矛盾した感情を抱え込んでいて我ながら面倒くさい(関係ないけれど、イーロン・マスクは優れた才能を持っているのに好きになれないのは、きちんとした診断を受けていないのに自閉症だと公言しているからだ。彼の欠点が自閉症の持ち主全員に共通しているって思われたらどーすんだ)。とはいえ、他人に非難がましいことを言うのはあまり美しくはない(性癖について語っておいて今更美しいも何もあったもんではないが!)。
創作意欲がほぼ消えて以来、落ち着いた暮らしをしているのだが、それでもなお、時折作家になりたいと空想している(「何かを書きたい」ではないことに注意! カズオ・イシグロは、おのずと書いてしまう人が結果的に作家になってしまうという趣旨のことを書いている。まったくその通りだ。自分も心が折れる前は何もせずとも一日原稿用紙五枚書いていた。今となっては何も行動せずに空想しているに過ぎない)。
そして、書くことが思いつかず、こんな感想を書き散らしている。僕は中島敦「山月記」のように半ば虎になっている(他人の小説を批判ばかりしているくせに、今でも有隣堂や紀伊国屋書店で自分の書いた小説が平積みになっていることを空想することがある!)。
これだけ時間と愛情をかけても評価されなかったことで、文学そのものを嫌いになってしまいそうなほどだった。それに、文学という梯子でたどり着いた境地の先に行くには、一度梯子を捨てて距離を置かなければいけないのではないか?
自分が正気を保つためには創作や乱読が必要だったが、依存先を変えるときが来ているのではあるまいか? 感情や本能を爆発させる場所が変わったのか?(おそらく毎日日記を原稿用紙五枚分書いているのも、正気を保つ手段の一つな気がする)
それとも、これらすべてはただの思い出話、酔っぱらったおっさんが過去の栄光をいつまでも忘れられずに管を巻いているだけか。昔は甲子園に行ったけれども今は野球とは離れた人生を送っている、しかし酒を飲むといつまでもその話をやめないみたいな。とある文学賞の最終選考に複数回残ったという実績はあっても、たとえば最後の十人に選ばれたということでしかなく、受賞のためにはそこからさらに十分の一で選ばれねばならないのだ。
小説に関する愛憎をここまで書いてしまっては、自分が将来創作するのに役立てるであろう豊かな土壌を売り飛ばしてしまうことになり、小説という野菜が作れなくなるのではないかって気がしないでもないのだが(この比喩については私生活をそのままネタにすることへの批判を扱った沙村広明「シスタージェネレーター」所収「制服は脱げない」参照)、自分が愛しているジャンルは小説くらいで、それ以外のものがないとデビューも難しかろう。小説家は、物語を書かずにはいられない人間が、おのずとなってしまうものだが、小説について書く小説家の想いに共感できる読者は、まれな存在だ。小説以外に熱く語れるものが作家には必要だ。スポーツ、恋愛、仕事、サイエンス、なんでもいい。
じゃあ自分の障害について書いたっていいわけだが、そうやって毎日己の姿を見つめ続けて幸福になるかは疑わしい。モテない苦しみをはじめ、疎外感をネタにして創作をしていたころ、果たして幸福だっただろうか? 自分の負の感情を言語化し、現実的に対処するのには役立ったが、小説にするよりも、素直に現実を直視し、言語化していくほうが手間もかからない。それに、自分の気持ちを綴っただけでは文学にならない。自分の感情の垂れ流しの更に先に行かねばなるまい。
これだけ書き綴ってもなお、自分が抱えている欠落は何だろう。久しぶりにこれだけの長文を書きなぐって、何かが成仏してしまったような気もするが、一時的な緩解に過ぎないってこともありうる。ああ、ダメな人間がダメなまま存在することが許される話が読みたい。愚かさを包み込んでほしい。
これだけ「もう小説なんて読めない」とぼやき、「他人の人生について読んで何になるのだ!」と叫びながら、またいつか発作的に文学を読みたくなるに違いない。よくよく考えれば半年前に新人作家のを含めて小説をちょっとは読んでいたので、読める周期と読めない周期があるってだけかもわからない。
ここまで書いてきて思うのは、くやしいことにまだ文学に対する愛が残っているってことだ。憎んでいる対象に対して、ここまで語れるだろうか? 二十代や三十代のように文学にハマることはできないかもしれないが、またいずれ読めるようになるかもしれない。こうして、何が好きで何が嫌いかが言語化されたのはまちがいなく小説のおかげだし、自分の感受性を形作っているのは間違いなく乱読の結果だ。時々忘れてしまうけれども、これだけ語れるものがあるってことは間違いなく財産だってことはわかっている(映画はさほど見ていないことが若干のコンプレックスではあるものの!)。そしてそれゆえに出会ったサークルの友人もいるのは、間違いなく恵まれている。正規の文学教育を受けず、正当な読解の仕方がわかっていないが、友人を得られただけでも幸福だ。それがわかってきて、だんだんひがみも十年以上かけて薄れていった。
それに、まだ読んでいない「ハツカネズミと人間」をはじめとした名作だってある。ディケンズさえろくに読んでいない。フォークナーもほとんど読んじゃいない。これ以上体力が落ちる前に熱量のある物語に齧りついてやるべきだろうか。いや、再読すればいい。「百年の孤独」をはじめとして、楽しかったけれど細部を忘れてしまった作品が多い。これ以上新しい物語を読まなくても、再読の楽しみがある。
あるいは友人からのオススメを読んだっていい。フォークナーを勧めてくれた友人が教えてくれた阿部昭「大いなる日、司令の休暇」はマジでよかった。おかげで手が出ていなかった野坂昭如「火垂るの墓」が読めた。
(一方、ろくに本を読まずに芥川賞を取ったとうそぶいている作家もいるっちゃいるのだが、名前を忘れてしまった。こういう人を思い出すとプリプリしてしまうので忘れよう。芥川賞は通過点に過ぎない。受賞してから、継続して書けるかどうかが問題である。その点では、数年後にまだ書いている芥川賞作家のを読んでいけばいい気もする)
SFだってやっぱり好きだ。QUEEN「’39」を聞くと感傷的になるもの。理系で研究者になれなかった僕が、日本人の理系の青少年が夢をかなえるSF小説を読むのが、時々ひどく辛くなることはあるけれどね。
そして、嫌な面ばかり見て愚痴をこぼしながら暮らしていると、目の前の幸福を見過ごしてしまうことだろう。嫌なことはすべて過去のこととしてしまえばいい。忘れたほうがいい。そう、重い感情はすべてここに置いて行ってしまおう。すべてのひがみにさよならだ。楽しければそれでいい。ここに、十代から引きずってきた感傷マゾを捨て去ることを決意する。三十代、四十代の鑑賞態度を身につけよう。
今望むのは、他の増田にも池澤夏樹世界文学全集の感想を書いてもらうってことだ。全部じゃなくていい。好きな作品を一つだけでいい。いや、なんでもいいので愛する作品の感想文を読みたい。文学に対して持っている愛を、そして含まれていれば憎しみも、読みたいのである。世間がどう叩こうとも、時代が移り変わろうとも、自分の愛する作品は常に最高である。過去の作家は生まれた時代の偏った思想と社会という制約の中で最高の作品を著し、現代の作家はそれを批判的にしかし愛を込めて継承し、それ以上の高みを目指して己の作品を書く。たとえ古典には弁護できない箇所があったとしても、己のすべてを賭けて高みを表現しようとした黄金の精神は必ずや受け継がれる。作者を非難するのは下策、愛を込めた批判を含んだ評論を書くのは中策、それを超える次世代の作品を書き上げるのが上策である。加点法で評価しろ、好きな物で自分を語れ。言いたいのはそれだけだ。
高校1年の頃、高校生活に馴染めない中でバンプの天体観測を聴いた。
クラシックやらカービィ星の泉のBGMやらビリー・ジョエルやらポケモン言えるかなやらモー娘。やらはちゃんと聴こえてたんだけど、たぶん音楽として認識してなかった。
それからしばらくしてからケーブルテレビが家に入ってきて、スペシャとMTVが見られるようになって、そこでミッシェルとかくるりとか10-FEETとかACIDMANとかゆらゆら帝国とかコールドプレイとかレディオヘッドとかBlurとかBeckとかアンダーワールドとかジャミロクワイとか色々なPVを見るようになった。
あの頃は9.11があって(日本の場合は3.11のときもそうだったけど)、音楽シーンはモロにその影響を受けてたり受け流したりしてた記憶がある。
ワールズエンド・スーパーノヴァ、Virtual Insanity、Rabbit In Your HeadlightsのPVは今でも初めて見た時の衝撃を覚えてる。
それと前後して高校を辞めて、俺はしばらく引きこもってYahooゲームのブロキシーとかFlash見ながらくるりのアンテナをヘビロテしてた。
今でもアンテナ聴くとブロキシーのちっさいチャットでネカマとイチャイチャしてた過去を思い出す。
紆余曲折あってバイト始めて、お小遣い制の頃より圧倒的にお金がある状態になった俺は、音楽雑誌を買い漁った。
つってもお小遣い月1000円の頃の貧乏性がなかなか抜けなくて、買ったのは新品のロキノンじゃなく、古本屋に無造作に置いてあったSNOOZERのバックナンバーだった。
編集長のタナソーは昔からエモいんだかキモいんだか意識高いんだか低いんだか意味分からんことばっか言ってるけど、それが無理して村上春樹とか野坂昭如とか読んでた16〜17の頃の俺にはドストライクだった。
古本屋に足繁く通っては欠けてるバックナンバーを買い集めて、いつまでもちゃらんぽらんなチバユウスケやチキンボイスをからかわれてもどこ吹く風なジャック・ホワイトや延々ダサいばっか言ってるギャラガー兄弟やタナソーにジェリーフィッシュを勧めたら「リズム隊軽くね?」って言われてちょっと凹んでるっぽい岸田繁を堪能してた。
そこからはSNOOZERに載ってるCD片っ端からレンタルしてMDに入れて(勿論4倍モードにして)ひたすら色々聴きまくった。
ビートルズ聴くようになったのもこの辺で、曲間で音が途切れないタイプのコンセプトアルバムが好きだったのと村上春樹が何かの小説のあとがきでそれ聴きながら書きましたとか言ってたので、Sgt.Pepper's LonelyHeartsClub Bandから入った。
新聞配達でカブを走らせながら爆音で音楽聴いて、夜明け前の街をひたすら大声で歌ってた。
その後別の高校に入り直した。
昼間働いてた職場に音楽好きの人がいた。俺の住んでた田舎でSNOOZERを知ってる人に会ったのは初めてだった。めっちゃ盛り上がって、Sparklehorseとかレイ・ハラカミのカセットを借りた。特にSparklehorseはカセットとの相性良すぎてヘビロテしてた。書いてても懐かしい。
その後人生最初で最後の彼女ができた。2人きりの車内でシガー・ロスを聴かせたのはちょっとイタかったかなと思うけど、誕生日に栗コーダーカルテット(空気公団だったかも)のCDをプレゼントしたのは喜んでくれてたと思いたい。
だいたいこんな感じ。
ゲーム音楽、クラシック、レゲエ、雅楽とか民族音楽、ゴリゴリのパンクとかメタルはもうちょっとおっさんになってから好きになった。
その辺の良さは初期のニコニコが教えてくれた。
ボカロ全盛期も好きだった。アンハッピーリフレインとかいーあるふぁんくらぶとかドーナツホールとか今でも歌う。ごめんね歌うのがおっさんで。
今はあんま拗らせてない(と思いたい)ので、売れ線の音楽も普通に聴く。
車内でまっしろわーるどとか君に、胸キュン。(まりほりVer.)流してもキモいとか言われなくなったので、良い時代になったなあと思う。
みんなの音楽遍歴も聴きたいなあ。
Wikipediaにも何やらそれっぽい語源説が書かれてるけど、1990年の伊丹十三の映画『あげまん』以前に「あげまん」なんて言葉はなかったよな。
なんて、いかにも昔からある言葉のように演出したら、みんながそれを信じちゃったってことだろう。
ただし、同じ意味の言葉として「福マン」というのはあって、これは1970年代ごろから使われていたようだ。
1970年の雑誌『小説宝石』に掲載された伏見丘太郎『男が知りたいズバリ女の感度めぐり 男よ、おかめを探せ』に「福マン」の解説があるのが、調べたかぎりでは最も古いか。
男子の「運」というものは、ほとんどの場合、それを齎らす女性によってつけられるものなのである。斯く申せば、諸君は、ではそうしたツキを齎らす女性とは、いかなる女性であるか、大いに知りたいと思われるであろう。私はこんなところで、決して諸君に気をもたしたりはしない。ズバリ言おう。それは「福門」を有する女性なのである。
「解すべき」というのは、つまり「門というのは女性器のことだと解すべきだ」という意図だろう。
この筆者は、おかめ顔(お多福)で体毛(陰毛)が薄い女性こそが「福マン」である、としており、逆に濃い陰毛を持った女性は「厄マン」だと述べている。
その前年1969年の『週刊サンケイ』では「福マン」ならぬ「運マン・貧マン」が紹介されている。
男どもは世にこの貧マンのあるのを、意外と知らないで、ただひたすらミミズ千匹、タワラ締めなどを求め、めぐりあっては随喜の涙を流し、かくて、ろくでもない運命をつかんでしまう。
当然、この反対に運マンがある。これは、接触すると、とにかくよくなっちゃうのである。ある男がいた。これが、女が見てもうらやむほどの、ものすごい美人と結婚した。しばらくすると仕事が順調に伸びだし、たちまちにして、その世界でひとかどの人物になってしまった。
概念自体は「福マン」あるいは「あげまん」と同じようだし、またミミズ千匹だのタワラ締めだのと明らかに女性器を意識して名付けられてもいる。
また1970年の野坂昭如『好色覚え帳』には「福チン」が登場する。
「そりゃ、きっとその先生が福チンなんだなあ、福チンが勝ったにちがいねえや」という、福チンとはなんぞや、庄助考えこんでいると、「福の神のオチンチンですよ、定奴の貧乏おそそと、勝負して福チンがやっつけちまったんだねえ、だから定奴にも運が向いてきたんですなあ、あれだけの先生なら福チン持ってて不思議はないやね」
「おそそ」は女性器のことなので、「貧乏おそそ」は「厄マン」的なものだろう。
などとして「福・損」「マン・チン」の組み合わせを取り揃えている。
「あげまん」については「女性器のことではなく『間』が転訛したんだ」といった説明もされるが、こうして見るとやはり女性器のことだと考えるべきなのだろう。
そして伊丹十三は、こうした「福マン」「厄マン」的なものから着想を得つつ、元のイメージから切り離すためにちょっと字面を変えて「あげまん」としたんだろうな。
追記。
申し訳ない。
1980年刊の『或る馬賊芸者・伝 : 「小野ツル女」聞き書より』にて「上げマン」「下げマン」を確認した。
特に奴(やっこ)が生きてきた芸妓の世界では、ことが多過ぎた。貧乏性で相手を必ず破滅へと落し入れる女、何人もの男の命を奪い取る女、逆に男を出世させる女など…。上げマンとか下げマンという言葉も残されている。
宮崎駿は原作からかけ離れたアニメを作ることで有名だが、高畑勲はもっと恐ろしい。
高畑勲は原作と別の存在としてアニメを作るのではなく、原作を再解釈し、異なる意味を与えるアニメを作る。だから高畑勲アニメを視聴してから原作を読むと、「アニメとは別モノだね」ではなく、「アニメはおおむね原作通りだったね」という感想を抱きつつ、知らず知らずのうちにアニメの解釈で原作を読んでしまう。
『火垂るの墓』の原作は野坂昭如という作家の自伝的な小説で、それ故にこのアニメは3層構造の原作になっている。
清太=作者なのに、死んだはずの清太が戦後に小説を書いて直木賞を受賞し、歌手デビューしたり、国会議員になったり、テレビのレギュラー番組を多数抱えているのは明らかに矛盾している。
野坂昭如の妹は小説の通り亡くなったが、兄は小説と違い生きている。
高畑勲のアニメでは、そのあたりの冷ややかな視線をさり気なく盛り込まれている。
高畑勲は原作のメインプロットを尊重しながら、原作者に対しこれでもかと悪意をぶつけている。
アニメでは子供時代と大人時代が交互に描かれていたが、原作には大人時代が存在しない。
アニメ版の子供時代の描き方は高畑作品としては珍しく、キャラクターがとても『かわいく』描かれている。このかわいさはジブリアニメとしては異質で、悪く言えば観客に媚びた絵柄とも言える。
一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。
自分探しの旅に出て田舎体験する夢見がちなアラサー女と、幻想の世界の可愛らしい少女漫画のキャラクターを残酷に対比させ、「お前らの自己認識はこんな感じの少女漫画キャラだろうけど、現実はコレだよ」と突きつけ、夢から覚めない都会の女が最後は『農家の嫁』になるというハッピーエンドともバッドエンドとも分からない結末で物語は終わる。トトロで田舎を知った気になる人たちへの痛烈な皮肉とも言える。
ジブリの経営を傾かせるほど金と時間と才能を注ぎ込んだにも関わらず、作られたのは昔話そのままのかぐや姫で、公開当時の観客は拍子抜けした。
それは『かぐや姫の物語』というタイトル。教科書にも載ってる原作は『竹取の翁の物語』という題名だ。
竹取の翁の物語はタイトルの通り、竹取の翁が竹藪でかぐや姫を拾った、という形でお爺さん視点で物語が語られる。
一方かぐや姫の物語はストーリーの骨格こそ原作に忠実だが、感情移入する対象がかぐや姫になるように作られている。
『ドラえもん』をのび太視点で描くかドラえもん視点で描くかでぜんぜん違う話になるように、かぐや姫の物語はさり気なく視点をずらして「かぐや姫という異質な存在が周りのみんなを翻弄する話」から「かぐや姫が社会に翻弄される話」にすり替えている。
あまりに見事なテーマのすり替えで、多くの観客が昔話とは別物の作品を見せられているとは気付かなかった。それ故に映画の評価はイマイチで、「作画は凄かったよね」としか語られない映画となった。
しかし水木しげるが妖怪のイメージを上書きしたように、ウォルト・ディズニーがヨーロッパの民話をアニメ化してイメージを上書きしたように、今後数百年のかぐや姫の解釈は高畑解釈で上書きされるだろう。
Permalink |記事への反応(10) | 21:16
awkad ま、こんなことしてても全然日本、ひいては人権主義の欧米各国よりは人口増えてるんだろうね。
Multicam12 これは異常だよなぁと思いつつ日本でも高校球児は丸刈りだとか日焼け止めクリームが校則でNG、お化粧禁止とか聞くと薄いとは言え根幹にあるコンセプトは似たようなもんだよな、と思わないでもない。
segawashin どこの蛮地だと思う日本人も多かろうが、大日本帝国では「歌舞音曲など女々しい」という脳筋な倫理観が蔓延して野坂昭如など昭和一桁は「歌う歌を持たない世代」と自称した。歌舞音曲自粛は昭和末期にもあったしね。
Shiori115思想を先鋭化させていった集団というのは、どこかで自分達の「道徳」を絶対基準として表現や文化を焼くのでしょう。「○○なんてけしからん」というのは結構普遍的な思考なのかもね、日本でも起こってるし。
私の知らない本はで劇薬本といってまとめて紹介されてるよ
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2020/06/post-99a8ef.html
・骨飢身峠死人葛 野坂昭如
あと古典
・蠅の王 (十五少年漂流記を読んだあとこれを読むとひでーなってわかる。天使のような諸多たちをオルタ化というか悪墜ちで焼き直したやつ)
・信州纐纈城
子供は読んじゃだめですよ
・ブラックジャック 手塚治虫 ドクターキリコがらみのやつとかけっこうえぐい 火の鳥もえぐめと聞いたけどつづけてよむ金と暇がない
・平成ライダーのいくつか