
はてなキーワード:配給制とは
きよぞお/Kiyozo 🇨🇦 |AI ×翻訳 xマーケットウォッチ
@SailorMoon_Wide
戦後の超インフレについて「日本が焼け野原で供給力が崩壊したことが原因であり、現在では起こらない」という主張が見られますが、これは事実にも経済史の専門家の議論にも反しています。
第一に、もし主因が供給力不足だったのなら、財産税は不要でした。
戦後の物資の充実や復興を待てば解消できたはずです。しかし政府は最大9割もの財産税に踏み切りました。それは、戦時国債の膨張によって「資金・資産がだぶつき」、吸収が不可欠だったからです。超インフレの原因は「モノ不足」ではなく、過剰な国債発行による通貨価値の下落でした。
第二に、戦争中の供給力は「完全に消えた」どころか、むしろ現在より強かった面があります。
焦土化したのは都市部が中心で、地方の農業・漁業は稼働し続けていました。闇市には潤沢に物資が流通し、都市部の庶民は近隣の農家に行けば闇食料を入手できました。台湾・朝鮮からの米移入も戦争末期まで続きました。また繊維製品は、内外地を通じて「ほぼ自給状態」でした。
崩壊していたのは供給ではなく、ロジスティクスと配給制度でした。
対照的に、現在の日本は食料自給率が約38%ですから、現在の方が供給力が脆弱な可能性すらあります。
参考:
・並松信久「戦時体制下の食糧政策と統制・管理の課題」https://share.google/2uXQLwEf9SoMCn4DE
・関野満夫「敗戦後日本の巨額の戦時国債はどのように処理されたのか」https://mof.go.jp/pri/research/seminar/fy2022/lm20220519.pdf
「コメが高いからって一律給付金を出したら、アンタらそれ持ってパチンコ行くでしょ?
…って思っても立場上言えないから農水大臣も辛いよね(想像)」
https://x.com/ohishi_shokai/status/1983794606514040916
そもそもなんで国にカネの使い道を指図されなきゃいけないのよ
おこめ券1万円を1億人に配るとして予算1兆円
国民から1兆円徴税しておいて「コメしか買えない券に変えて渡しますね」ってメチャクチャじゃねーか
そんな券渡されても使い道ねーよ。持病あって血糖値の都合上オートミールしか食わないから
メルカリで売ることも禁止なんだろ?マジでどうすんだよ、炊飯器もねーよ
通貨は自由に使えるからいいんだろ。コメが好きな人も、パンやパスタが好きな人も、パチンコ好きな人も、十人十色の嗜好に合った一番満足できる方法で1万円を使える。
資源の配分が効率化され、効用が最大化できる。みんなが得するのが通貨。通貨マジ最強、そりゃ物々交換を駆逐して貨幣経済が普及しますわ。
コメが好きな人、パンの方が好きな人、コメを食わない人の3人がいると仮定しよう。
・コメ派 1万円
・パン派 5000円
・コメ食わない派 0円
全体の効用は 1万5000円分だ。 米というモノを直接配分せずに、通貨を介して個々人の欲しいモノと交換できていれば全体の効用は3万円分になっていた。
さらにいうと、有限の米という資源をパン派やコメ食わない派にも配分することは、コメ好きの人にとっても損でしかない。なぜならその分買える量が減ってしまうからだ。
パン派にとっては「本当はパンのほうがよかったけど券でタダなら仕方なく貰っておくか」と思うし
コメ派からしてみれば「好きでもなく仕方なく貰うぐらいならその分俺に買わせてくれよ」と言いたくなるだろう。
それどころかコメ食わない派にとっては「タダで貰えるなら家畜の餌にする」というのが合理的になってしまう。
資源の配分に介入した結果、価格が需給バランスの状況や資源配分効率化のためのシグナルとして作用せず、家畜用の飼料の方が高いという歪みが生じるからだ。
これはソ連で起きたことで「パンは人民の食料」という政治的理由で価格を非常に安くしたことで、家畜の餌にパンを与えるという奇妙な事態になった。
最適な資源の配分に失敗すると、必要とする人には足りず、必要としない人には過剰にある。
一方で資源の欠乏で長蛇の列をつくり、一方で資源の過剰が浪費を生むというメチャクチャな状況を引き起こした。
全国民への米の配分は大して効用を産み出さないのに、米の需要だけ増やす。
需要超過はますますコメ不足を引き起こす。店頭に並ぶコメが減り、価格は上がる。コメ好きな人が買えていたはずの分が、大して好きじゃない人のところにも配分されたからだ。
コメ農家にとっても、せっかく作ったものを大して好きじゃない人にタダだからと仕方なく食べられたり、家畜の餌にされるのはいい気持ちがしないだろう。
それに見合ったお金を支払う価値があると思う人に食べてほしいはずだ。生産者も消費者も誰も得しない。
現物支給や配給制度は非効率で全員が損をする、だからソ連は滅びた。
Permalink |記事への反応(20) | 08:29
2XXX年、日本は「はてな」に支配されていた。全国民にはてなIDが強制的に発行され、はてなのサービスを日々利用することが義務化されている。首都は東京から京都に移り、古都の町並みに無数のデータセンターとモニタリングタワーが林立していた。
はてなブックマークは国民的な監視装置に変貌し、誰が何をブクマしたかがすべて記録され、思想や嗜好までもが「スコア」として可視化された。ホッテントリは単なる人気記事ではなく、政令に等しい影響力を持つ。人々の行動規範はそこから読み取られ、翌日の通達に組み込まれた。
若い男、増田は夜更けのネットカフェの個室で端末を覗き込んでいた。
彼のはてなIDには赤い警告が表示されている。理由は単純だった。――セルフスターのつけすぎ。
国家は「人気コメントに見せかける行為」を公共秩序の撹乱とみなし、違反点数を蓄積した者には「獲得スター剥奪」、「プラベ送り」や「垢BAN」が科されるのだ。
見出しの下には数千のブクマが並び、スターの数は天井知らずに増えていた。スターはもはや貨幣の代替物として流通しており、日常生活に不可欠だ。スターを持たぬ者は食事も住居も失う。
「このままじゃ……ログアウトすらできない」
彼は囁いた。
そのとき個室のドアが小さくノックされた。入ってきたのは同じく灰色のパーカーを着た少女、増田子だった。
「増田、まだ逃げられるうちに決断して。地下に“旧ネット”へつながる回線が残ってる」
旧ネット――はてな統制前のインターネット。そこでは匿名性が保たれ、ブクマもスターも存在しない。噂では、そこに潜った人々が独自の自由圏を築いているという。
「増田子、そんなの見つかったら即削除やぞ」
「それでも……今のまま、スターの残量に怯えて生きるのは、もういや」
増田はモニターを見つめた。人気エントリの数値は刻一刻と更新され、アルゴリズムが無慈悲に次の秩序を構築していく。スターが零になれば、彼の存在は“社会からの除名”として抹消される。
増田はその紙を握りしめ、深く息を吐いた。
かつて、はてブは遊びだった。
――どちらを選ぶのか。
秩序に従ってスターを乞い続けるか。
それとも旧ネットに潜り、二度と日の当たらぬ“匿名”に生きるか。
増田は立ち上がった。外の空気は冷たく、京都の塔群が月光に光っていた。
「増田子……俺は――」
言葉はまだ続かなかった。
参政党の農業政策が中国共産党やソ連共産党のそれと類似しているという指摘は、一見すると奇異に感じられるかもしれません。しかし、両者の政策に内在する特定の思考様式や目標設定に着目すると、いくつかの共通点が見えてきます。本稿では、その類似性を1000字で論じます。
第一に、食料安全保障への国家主導的な介入と自給率向上への強い志向です。参政党は、日本の食料自給率の低さを危機的に捉え、米の増産・輸出奨励、種子の自給率向上、化学肥料からの有機転換による自給率向上など、国家が積極的に農業生産に介入し、食料自給率を大幅に引き上げることを目指しています。これは、かつてのソ連共産党が穀物増産を最重要課題とし、国家計画に基づいて農業生産を統制したこと、また現在の中国共産党が「農業強国建設」を掲げ、食料安全保障を国家戦略の基礎と位置づけていることと共通します。いずれの体制も、食料の安定供給を国家の存立基盤と見なし、市場原理に任せるのではなく、国家が主導して生産体制を構築しようとする点で一致します。
第二に、有機農業や自然農法への傾倒と、特定の農業技術・生産方式の推奨です。参政党は、有機栽培や自然農法の面積拡大を目標に掲げ、土壌微生物の力を利用した農法やBLOF農法などを推奨しています。これは、健康や環境への配慮を前面に出すものですが、国家が特定の農法を推奨し、それへの転換を促す姿勢は、ソ連共産党がルイセンコ学説のような特定の農業理論を国家的に推進し、科学的根拠に乏しくてもそれが農業政策の基盤となった歴史や、中国共産党が「緑色農業(環境に配慮した農業)」を奨励する動きと重なります。特定の農法を「正しい」ものとして強力に推進する姿勢は、多様な農業実践を排除し、画一的な農業を志向する危険性をはらんでいます。
第三に、農業従事者への国家的な支援と、国家による管理強化の可能性です。参政党は、一次産業予算の増額、農林水産事業者の所得補償、兼業農家公務員の拡充などを掲げています。これは農業従事者の待遇改善を目指すものですが、その裏には、国家が農業従事者をより強く管理下に置く可能性が潜んでいます。ソ連ではコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)を通じて農業が国家の直接的な管理下に置かれ、農民は国家の計画に従属する存在となりました。中国では家庭請負生産責任制が導入された後も、党中央が農業政策の基本通達を発し、農村の党組織を強化するなど、国家による農業・農村への強い統制は続いています。参政党の政策に見られる「公務員化」という発想は、形は違えど、農業従事者を国家の統制下に組み込むという点で、共産主義国家の農業政策との類似性を帯びています。
第四に、国民の食生活への国家介入の志向です。参政党は、学校給食の有機食材使用義務化や、教育子育てクーポンの有機農産物購入への適用などを提唱しています。これは、国民の健康増進や食育を目的とするものですが、国家が国民の食生活にまで踏み込み、特定の食材や調達方法を強制する姿勢は、共産主義国家が配給制度や集団食堂などを通じて国民の食生活を管理・統制した歴史を想起させます。国民の「健康のため」という大義名分の下で、選択の自由が制限される可能性を秘めています。
もちろん、参政党の政策は共産主義体制下の強制的な集団化や国家による全面的統制とは明確に異なります。しかし、食料安全保障を絶対視し、その実現のために国家が強力に介入し、特定の生産方式や消費行動を奨励・誘導する姿勢、そしてその過程で個人の自由や多様性が潜在的に制限される可能性という点において、両者の農業政策には思想的な共通点を見出すことができます。
砂糖の過剰摂取は人々の健康に悪影響を及ぼすといわれていますが、実際に人々が幼少期に摂取した砂糖の量を測定し、その後の健康状態を知ることは困難です。そこでアメリカやカナダの研究チームは、第二次世界大戦中から1953年まで砂糖が配給制だったイギリスの人々を対象に研究を行いました。
イギリスでは第二次世界大戦中の経済的困難により、政府が食料の配給制を導入せざるを得ませんでした。肉や砂糖といった一部の食品は戦後もしばらく配給制が続けられ、砂糖の配給量は成人でも1日40g未満に抑えられ、2歳未満の子どもは0gでした。もちろん、親は自分が配給を受けた砂糖の一部を子どもに分け与えていた可能性が高いですが、自由に砂糖が手に入る時期と比べると子どもの砂糖摂取量は大幅に少なかったと考えられます。
配給制が終わると、イギリスにおける砂糖の消費量は一気に増加し、1日平均で約80gに達しました。この劇的な環境変化により、研究チームが「砂糖が配給制であり幼少期にあまり砂糖を摂取できなかった人々」と、「幼少期から砂糖を比較的自由に摂取できた人々」を比較することが可能になったとのこと。
研究チームはイギリスの大規模バイオバンクであるUKバイオバンクから、砂糖の配給制が廃止される前後にまたがる1951~1956年に生まれた6万183人のデータを抽出し、胎児期から幼少期にかけた配給制の有無と成人後の健康状態の関係を調べました。
分析の結果、妊娠から生後2年間の約1000日間にわたって砂糖が配給制だった子どもたちは、成人になってから2型糖尿病を発症するリスクが平均35%低く、高血圧の発症リスクも約20%低いことがわかりました。
赤ちゃんが母親の胎内にいる時点で配給制が解除され、生後は砂糖が自由に手に入る状況だった場合でも、成人後の慢性疾患の発症リスクは低下しました。また、たとえ成人後に2型糖尿病や高血圧になったとしても、胎児期から幼児期にかけて砂糖の摂取が制限されていた人々は2型糖尿病の発症時期が約4年、高血圧の発症時期が約2年遅くなる傾向がありました。
19世紀半ば、ヨーロッパで突然のコーデュロイパンツの大流行が発生。
丈夫で温かいコーデュロイ生地は寒冷地で愛され、その需要が急増した。
しかし、供給が追い付かず、コーデュロイのパンツが一種の「ステータスシンボル」として扱われ、都市と農村、さらに国同士で奪い合いが起こる。
フランスでコーデュロイパンツが貴族階級の間で流行し始める。ヨーロッパ各国の上流階級でも次々と流行し、庶民にも広まるが、供給が追いつかず高価になる。
パリでコーデュロイパンツを巡る最初の「小競り合い」が発生。市民がパンツを持っている者から無理やり奪う事件が増加し、治安維持が問題に。
イギリスにコーデュロイパンツが輸入され始めるも、供給不足で価格が急騰。パンツを求めて暴動が発生し、政府は一時的に輸入を規制。
フランスとイギリスで、コーデュロイパンツを守るための「コーデュロイ護衛隊」が結成される。また、各地でコーデュロイ製品を密輸する「コーデュロイ闇市場」が発展し、需要がさらに高まる。
パリとロンドンで大規模な「コーデュロイ奪取戦争」が勃発。市民が路上でパンツを奪い合う騒動が相次ぎ、都市警察が緊急対応を強いられる。
コーデュロイの人気が頂点に達し、ついにフランス政府が「コーデュロイ保護法」を制定。パンツを個人所有ではなく、国が管理する「共有物」として扱う法案が可決される。
英国でも「コーデュロイ配給制」が導入され、労働者階級にも少量ずつ行き渡るようになる。これによりパンツの需要と供給が安定し、奪い合いが徐々に沈静化。
コーデュロイの供給体制が整い、他のヨーロッパ諸国も追随して流通量を増加させたことで、パンツを巡る暴動が完全に終息。コーデュロイ戦争と呼ばれる一連の事件が歴史に名を残す。
https://anond.hatelabo.jp/20240906234755から続く
この出来事は、1983年から1984年にかけての現代編に関連している。。おしん83歳の頃、たのくらスーパーの拡大事業は、大手スーパーの進出によって経営難に陥り、倒産寸前まで追い込まれていた。過去におしんが初恋した相手、並木浩太の息子が経営する並木商店が、大手スーパーの土地買収における重要な場所にあり、その売却次第でたのくらは助かる状況であった。私は以前、おしんが浩太を説得し、並木がその情に応じて救済が成功したと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。
なぜそのように思い込んでいたのか。もしかすると、失踪から戻ったおしんに、並木を説得してくれと仁が土下座して頼み込んだシーンがあったからかもしれない。
「おしん」は全297話もあるドラマだが、その第1話は、たのくらスーパーの新店舗開店祝いにおしんが出席せず、家出する場面から始まる。おしんの失踪理由が明らかになるのは、終盤の第290話。ドラマの伏線回収が時代を経て行われることが多く、おしんの家出の理由も最終週で回収される最大級の伏線のひとつであった。この巧みな構成は、橋田壽賀子や演出家のすごさを感じさせるもので、まさに名作と呼ぶにふさわしいものである。
特に佐賀編では、あまりの過酷さに倍速で視聴したこともあったが、終盤に近づくにつれ、ポーズしてでもじっくりと次の展開を予想しながら見入っていた。
第1話から第3話にかけては、おしんが並木商店の大旦那に恩義を感じていたため、新規スーパーの出店に反対していたことが示唆されていた。そのため、多くの視聴者はおしんが息子の恩知らずな商売拡大に恥じて家出したと理解していたはずである。ぢかし終盤になってその真の理由が明かされるという展開が待っていたのは正直、超絶長い伏線回収である。
実際には、おしんは失踪直前に浩太を訪れ、仁の事業拡大による不義理を詫びていた。その際、聞かされたのが大手スーパーの進出についての話である。並木商店の大手への売却は、並木商店の生き残り策であり、たのくらへの防衛策でもあった。おしんはすべてを理解したうえで、浩太に対して大手スーパーへの土地売却を進めるように頼んでいたのである。
その後、おしんが戻ってきた際も、並木はまだ売却を逡巡していた。仁はおしんに土下座して、まだ間に合う、並木を説得してくれと頼んだが、おしんは改めて浩太に売却を進めるよう頼むのである。おしん厳しすぎるだろ。
おしんは大手の進出によってたのくらの事業が立ち行かなくなることはわかっていたが、ひととしての恩義を忘れ、家族を顧みず金儲けに走ってきた田倉家の再生のために、そして恩人の浩太の一家のためにも並木の土地の大手売却への契約を進めてくれと願い出る。相変わらずおしんさんは厳しいお人だと微笑む浩太は、ついに売却を決意する。
仁は、母のおしんが交渉に失敗したと思い込み、失望して母を責める。妻の道子も、夫に失望し、ついには離婚を宣言する始末。家族の崩壊が進む中で、おしんはその様子を静かに見守ってゆく。
おしんは仁に、離婚を再考するよう促し、仁はようやく家族の大切さを思い出す。この姿は、かつて佐賀で竜三を立ち直らせるために試みたおしんの姿と重なる。仁と竜三は、いずれも実家の甘えを捨てきれずにいた共通点があった。おしんは仁の田倉商店を倒産させてでもその甘さを排除しようとしていたのである。
事業整理のため自宅売却を進め、引っ越しの準備のさなか、家族は徐々に絆を取り戻してゆく姿は橋田壽賀子の夢の世界なのかもしれない(正直、ここはちょっとうーんと思うところはあるが)。しかしこれが橋田ドラマ流の大団円なのだろう。
前述したように、田倉商店は浩太によって救済される。というより人の縁によって救われる。それはまさにおしんが商売において大切にしてきた価値観なのである。しかしそれは、全297話、一年近く放送してきたおしんのドラマの終盤最終話、終了わずか10分前の出来事である。すごい。
橋田壽賀子がこの物語を書き始めた理由は、バブル経済前夜にあった80年代の人々が、お金儲けに走り、大切なものを見失っているのではないか、という思いからであった。物語のラストにはそのメッセージが強く反映されている。
竜三と息子の仁は、おしんから見て「甘い」性格であり、竜三は何かと佐賀の実家に頼るところがあった。しかし、竜三が「俺についてこい、命を懸けて大きな仕事をするんだ」と前に進もうとする時の屈託のない笑顔を、おしんはたまらなく愛していたのだろう。
竜三が敗戦時に自決した際、おしんはその死を「立派だ」と称した。今回全篇通してみる前は、残された家族を顧みない自殺は自分勝手で情けないものだと思っていたものの、物語全体を通じて竜三の死に対するおしんの思いが腑に落ちる瞬間があった。
私は後悔しているんじゃないよ。私は私なりに信じて戦争にも協力してきた。軍のおかげで初めて仕事らしい仕事もさせてもらった。男として存分のことしてきたんだ。むしろ精一杯生きられたことをありがたいと感謝しているよ。ただ、ひとは私の生き方を間違っていたというだろう。私は軍と手を結んで仕事をしてきた。隣組の組長として戦争への協力も押し付けてきた。私の勧めで志願兵として少年航空隊に入った少年もいる。その中にはもう帰ってこない少年もいた。国債だって随分買わせてしまった。それも今となっては反故だ。私が無視する事だってできたんだ。だが私はそれをしなかった。もちろん私には私の信念があってやった事だ。それを悔いる気持ちは全くない。しかし戦争に協力して罪もない人たちを不幸に陥れてしまった責任は消えやしないんだ!
これが自殺直前の竜三のつぶやきである。竜三の言葉のなかに隣組という言葉が出てくる。
明治から終戦にかけての日本は、天皇を頂点とした「家制度」を仮構し、その枠組みの中で国民国家が成り立っていた。この「家」の概念は、戦時中には配給制や隣組といった組織を通じて等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠していた。田倉家もその影響を受け、軍部からの委託で工場を経営していたが、周囲からは「軍と結びついて甘い汁を吸っている」と陰口を叩かれていた。仁がある日突然、少年航空隊に志願した背景には、そうした噂への嫌悪感があったのかもしれない。
その後、仁は終戦の日も戻っては来なかった。田倉家では仁は戦死したものと想像していたのである。
日本が「ひとつの家」として観念された時代において、家族を守ることと国を守ることは同義であった。竜三にとって、隣組の子供たちの死や戦争の責任を負うことは、家制度の枠組みの中で重要な役割であっただろう。彼が自決した理由も、家制度に基づく責任感から来ていたのである。おしんが竜三の死を「立派だ」と称したのは、竜三が自らの信念に従い、天皇を頂点とした「家」への責任を全うしたと理解したからかもしれない。
語弊を承知でいえば、竜三の自決は、個人としての責任を取る行為であり、家制度における「切腹」にも通じる感覚だったと言える。
おしんが育った山形の貧困農家では、口減らしが普通だったし、姉のはるが死んでも母が死んでもまともに葬式もできない窮状だった。女性を犠牲にして平気な顔してきた作造も長男の庄司があまりにもひどかったことを思い出すと、隣組の責任を感じて自殺するなんて、むしろ立派なことに思えてくる。
しかし、どうだろうか。
竜三のこれまでの数々の挫折経験のように、ふるさとの太い実家に戻るというような、逃げ道はなかったのだろうか。しかし思えば伊勢にきて魚屋になった頃からの20年間、竜三は佐賀の実家へ依存する思いがほとんど消え去っていたように思う。竜三の佐賀依存が消えていったことはおしんにとってはうれしいことでもあった。
禎の疎開のときですら、佐賀疎開という選択肢は排除された。疎開先で虐待され逃げ帰ってきた禎をみたときには、さすがに佐賀という選択肢はあってもよかったと思うが。竜三はそれもしかなった。
太い実家をあてにしない、それはおしんが望んでいた竜三の自立の証でもあったはず。竜三は魚屋からの次のステップとして伊勢で軍の納入業者になることに挑戦した。そしてようやく家族を養う自信が付き始めた頃のこと、おしんは竜三が佐賀の実家を頼らず、雄、仁、禎、希望、初子の5人の子供のために大きな仕事に夢を託していると思うとたまらなくいとおしくなった、とナレーションが述懐している。
しかし、竜三が太い実家という表象の代替として知らず知らずのうちに依存していたのは、天皇を頂点とする日本国という「巨大な家」だったのである。
おしん自身は、国家という家のフィクションを完全には信じてはいなかったが、なんとなく空気には流されていた。しかし竜三は深く信じていた。信じていた以上、潔くその家の責任を取ったということだ、おしんはそう理解したのだろう。そうであれば、軽々しく天皇制などというフィクションを捨て戦前の考え方などなかったかのように、これからは自由な社会だ、などとふるまうことはズルいことだと思ったかもしれない。しかし、国が家族であるという考え方を捨てさえできれば、なんだったら太い実家に戻ってもいいのだ。しかし竜三はそれを逃げ場にはしなかった。だから立派だといったのではないだろうか。
敗戦直後の225話では、父と兄を失った仁の感慨として、潔く死を選ぶか女々しく図太くたくましく生き残るかの二者択一として人生観が総括されてゆく。その後の長い戦後の物語では、昭和58年、物語の終盤に至るまで、たびたび竜三と雄の仏壇に手を合わせるシーンが出てくる。これも地味だけど見逃せない。おしんが田倉竜三への思いを忘れずにいるという、竜三への愛と敬意がここに見て取れる。かつて伊勢の海岸で、逃げようとする竜三をタックルをしてでも捕まえたおしんの心情がオーバーラップしてくる。
ちなみに、この竜三の自決は、80年代90年代、翻訳、放送された海外ではどう受け止められたのだろうか。それはとても気になっている。
おしんのドラマは橋田寿賀子の反戦思想が色濃く反映しているといえるが、そのなかに侵略や植民地支配の反省という視点は希薄である。それは竜三の自決動機のなかでも軍部に寄り添い、同胞を死に追いやった責任は感じても、侵略に手を貸した自画像はみえてこない。しかし、植民地支配への反省についてはそれ自体は動機にはなっていないものの、それにつながりうるイエ観念を読み取れるように感じた。隣組を他人ごととしてとらえていたのであれば、竜三の自決はなかったはずである。そうであれば拡大されたイエ観念により実効支配された地域に考えが及んでもおかしくはない。実際にはそこまで思いは至らずに死んでしまうのだが。
同じ昭和時代の作品である五木寛之の「青春の門」では、筑豊炭田で差別的な扱いを受ける朝鮮人労働者が大きなテーマとして描かれている。石炭鉱業会社の経営者が、朝鮮人労働者たちから待遇改善を求められた際、「他の山は知らんが、生きるも死ぬも一緒に炭を掘ってきた家族同然だ。私が親でお前たちは子供だ」と言い返すシーンがある。
この台詞は、日本を親、植民地を子と見立てる当時の日本人の感覚を象徴している。家族になることで遠慮がなくなり、苦労を強いても平気になるという現象は、まさに家族観の持つ影の部分を示している。(ちなみに映画「青春の門」筑豊編1980年で経営者と交渉した朝鮮人労働者リーダー役を演じた渡瀬恒彦は、おしんでは浩太役を演じている。)
この真理を見事に表現しているのが、初子の存在である。八紘一宇における植民地と田倉家における養子初子は入れ子構造なのである。初子の境遇は、創氏改名を強いられ皇民化の果てに敗戦を迎えた朝鮮民族の運命と二重写しに見える。植民地をいかにわが子供のように見立てようともいざ状況が変わればあっさりと切り捨てられてしまう。
初子の抱えていた不安というのはまさにそういうものだった。おしんの長男・雄の戦死を契機に山形へ帰郷するよう初子に伝えたおしんの行動は田倉家以外に居場所のなかった初子にとって残酷なものであったといえよう。自殺を思いとどまり、米軍相手の娼婦となった初子は誰にも消息を知らせないまま、3年もの間、田倉家に送金を続けていた。おしんの言動は初子を養女とみていたとはいえない一方、初子は養女としての行動をとっていたのがいじらしく泣ける場面である。
持続可能な社会にするために、例えば化石燃料に1000%の税金をかけたりすれば、社会はより持続可能に近づくのかもしれないけれど、そうすれば貧乏人が大量に死ぬよね。SDGsはそんな世の中にして、あとは市場原理にまかせて弱者が間引かれればいいと考えるのだろうか?
それとも人の自由を大幅に制限して、例えば戦中の食糧配給制みたいに化石燃料を配給制にして、世界政府が人々の行動を監視して制限するつもりなのだろうか? まあこっちの案でも貧乏人が大量に死ぬと思うけどね。
それとも人類の発展や存続に繋がらないような質の低い人間をテストなどであぶり出して、積極的に「間引き」するつもりなのだろうか?