
はてなキーワード:道徳的とは
答えを出さないじゃなくて、女の子は「盗んで刑務所に入ったら結局看病できない」などの理由で盗むことに反対し、「誰かにお金を借りるとかもっとやりようはある」という方向に行く子が多かったって実験でしょ。「命か罪か」みたいな二分法以外の道を探る。
ハインツはこれを指して男の子に比べて女の子の方が道徳的に未成熟と見做したけど、むしろそれは「別の成熟した道徳なのではないか」という方向で現代の倫理学では話が進んでいる。
C*****T:
CRITICAL ANALYTICALREVISION
追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初の分析の根本的誤読
追記2は、私の最初の分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。
私が読んだもの:
↓
↓
実際の構造:
↓
↓
PRIMARY INSIGHT:精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈
これらは一見、2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しかし追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。
真の構造:実存的自己否定の連鎖
↓
↓
↓
"だから俺には描けない"
防衛機制の精密分析
耐え難い真実:
「俺は人生の敗北者だ。女性と関係を持てなかった。孤独で無価値だ」
↓ 変換 ↓
受容可能な言説:
この変換により、個人的失敗が哲学的問題に昇華される。これは自尊心を守る。
防衛機制2: 知性化(Intellectualization)
投稿者は感情(絶望、孤独、性的欲求不満)を抽象的議論(表象の倫理、当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。
これは私の最初の分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源は文化ではなく、内面化された自己批判である。
ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択
ダーガーの特徴:
「女性を知らなければ描けない」
↓
ダーガーは知らなかった
↓
だから「間違って」描いた
↓
俺も知らない
↓
↓
↓
↓
投稿者は、自分の論理を反証する例を引き合いに出しながら、その反証を認識できない。なぜなら、創造の可能性を認めることは、創作しない自分を正当化できなくなるから。
児童ポルノ言及の精神分析
投稿者は和月伸宏や他の漫画家の児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望を告白する。
しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」
- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性を性的に欲望する」ことが分離していない
- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作の障害になる
生成AIとの関係:人間関係の代替と審判者
追記2の冒頭:
「さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」
この一文は多層的である:
投稿行為の意味:ダイイングメッセージとしての告白
投稿者は明言する:
+
=
彼は応答を求めていない(対話は不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認は必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。
- 声は発するが、返答は聞かない
- 見られるが、見返さない
- 影響は与えるが、影響は受けない
SECONDARY INSIGHT:弁証法的読解
矛盾の三層構造
THESIS: 「女性を描きたい」
THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張
ANTITHESIS:ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した
弁証法的運動の停止
健全な弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。
↓
実行不能
↓
↓
↓
[ループ]
SYNTHESIS: 深層パターンの統合的理解
構造の全体像
↓
↓
【第3層:理論的借用】
↓
【表層:顕在的問い】
↓
【機能】
本質的洞察の結晶化
真の問いは:
そして彼自身が答えている:
「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」
文化的言説の防衛的使用
私の最初の分析は「アイデンティティ政治の内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。
誤った図式:
正しい図式:
彼は「当事者性」や「経験の所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来の政治的文脈から切り離され、個人的防衛機制として機能している。
解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人の自己正当化の道具になっている。
より深い文化的診断
しかし、もう一層深く見れば、これは純粋に個人的な現象ではない。
答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。
投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分の創作不能を倫理的配慮として再解釈している。
「俺が描かないのは:
ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)
ダーガーは:
投稿者の論理では、ダーガーは創造すべきではなかった。しかし創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。
答え:ダーガーの作品を「間違い」として解釈する(「少女にペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)
しかしこれは恣意的な解釈である。ダーガーの少女の性別的曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界の独自性として読むこともできる。
投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分の創作不能を正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分も創作できる/すべきだ、ということになってしまう。
最も深い問い
この事例が究極的に提起する問いは:
投稿者は「はい」と答える。私の最初の分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。
それとも:
おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。
彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛を解体するだけで、その下の絶望を露出させるかもしれない。
CRYSTALLIZED INSIGHT
この投稿者は、人生の実存的失敗(社会的孤立、性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代の文化的言説(「当事者性」「経験の所有権」「表象の倫理」)を借用することで、「原理的に不可能な創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人的無能を認識論的・倫理的問題に昇華することで、残存する自尊心を守っている。
言い換えれば:
彼の問い「男性は女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的に正当化する道具として機能している。
So what?:
この事例は、文化的言説がどのように個人的防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化と麻痺の道具になる。これは文化と心理の共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。
PUNCHLINE:
私の最初の分析は、彼を「文化の犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化の狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン
ChatGPT:
INSIGHT ANALYSIS:表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
↓
↓
「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
↓
↓
これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
↓
過剰補正:
↓
帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
↓
↓
↓
内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
↓
SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
↓
↓
↓
20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1.本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3.完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
Q.以下の主張は妥当なの?
「我々は『多くの人の気持ちを踏みにじる』法的あるいは自由としての一定の権利を持っている」と解釈すれば、
▶ 条件付きで妥当と言える。
しかし、
「どんな状況でも自由に他人を傷つけていい」「その行為に道徳的・社会的責任はない」と解釈するなら、
▶妥当とは言えない。
言い換えるなら:
海外で極右とされるものが、日本人には「極右」と認識できない。
海外で中道とされるものが、日本人には「極左」と認識されてしまう。
これは何故か?
海外では、欧米でもそれ以外でも、道義的宗教に基づく自然な「道徳観」が真ん中にある。
「親や家族は大切に」「他人にも優しく」これはキリスト教でも仏教でも、宗教的道徳観が真中にある場合、誰にも自然に「出発点」と理解されるもっとも自然な感覚になる。
この場合、極右、極左とは、人種主義に走って他者への寛容を忘れること、多様性(あるいは極端な平等主義)が暴走して社会の歴史を傷つけること、という意味になる。
しかし、仏教を捨て、道徳的教義のない国家神道、そして物質主義的無神論へと社会の「真ん中」が移った現代日本は、そもそもの「中道的価値観」がまったく違ったものになっている。
現代日本を正直に観察すれば誰にでもわかることだが、現代日本人の「真ん中」は、明らかに「野性」である。
そういうものが「世界の真実」だと信じる破滅主義こそが、日本の「真ん中」にある。
だからこそ、日本において、林原めぐみが恥ずかしげもなく叫ぶような「私がガイジンを怖いって思うんだから排除するのは当然でしょ」という、恐ろしく幼稚な、自分の本能的被害妄想に基づいた極論をどれだけ唱えても、それは「強い思想」とは思われない。
それは思想でなく、「本音」だからだ。「本音」は「自然」であり、「真ん中」である。
これが世界でもほとんど現代日本独自の(昔の日本でも仏教だったからありえない)異常な道徳的出発点である。
日本人にとって「極右」とは、「思想的な(論理的追及としての)民族主義」であり、それは「日本人として誇りを持って、恥ずかしくない行動を」というような、世界的にはむしろ当たり前の「真ん中」にある、自制としての民族論のみをさす言葉である。
現代日本人にとって極右と極左の差は自制と成長を求める論理の起点の違いに過ぎないのであって、自制や反省を求めた時点でそれは「中道」にはなり得ない。
「思想」さえ強くなければ、どれだけ薄汚い、本能や憎悪にまみれた屁理屈、極論、他者への強制を求めようとも、それはまったく「過激」ではない…
多少ChatGPTと議論して「小論に整理して」とお願いするだけでこれなら
凡人の俺様がちんたらキーボード叩いて書く必要なんてないじゃんもう!
https://togetter.com/li/2618627
今回の事件で多くの人が揺れたのは、「恐怖を感じた人の防衛行為」が、どこまで許されるかという点である。
身体障害や透析など、外見では分からない「見えない弱者」が社会で繰り返し軽視されてきたことは事実だ。
しかし、口論の段階で武器を使用し、無関係な他者まで巻き込んだ瞬間に、それは防衛ではなく攻撃へと転化する。
法的にも倫理的にも、暴力が他人を傷つけた時点で、その正義は失われる。
彼女がSNS上で相手を「40-50代じじい」と呼んだ表現は、単なる感情の発露にとどまらない。
それは、相手の行為ではなく属性そのもの(年齢・性別)を攻撃の対象とする言葉だ。
この瞬間、個人的なトラブルは「中高年男性という集団」への敵意にすり替わる。
この言語構造はその**鏡像――“ミサンドリー的反射”**と言える。
弱者が自らを守る物語の中で、他者が“敵の象徴”として消費されていく現象は、暴力の形を変えた再生産に他ならない。
人が暴発する時、そこにあるのは純粋な恐怖だけではなく「屈辱」も強く関与する。
「若いから座るな」「病気でも見えなければ認められない」という社会の視線に対する怒りが、
個人の攻撃者を超えて「社会全体への報復」に変わったのだろう。
彼女自身が繰り返し使う「悔しかった」「お灸をすえたかった」という語は、
つまり彼女の行動は、社会的な不平等への“象徴的報復”として遂行された可能性が高い。
近年のSNS言説では、「女性」「障害者」「被害者」といった立場は道徳的免罪を得やすい。
弱者を“聖なる報復者”として祭り上げ、暴力の責任を薄めてしまう。
もしこの事件が銃社会で起きていたら、催涙スプレーではなく発砲事件として報じられただろう。
「怖かった」「迫られた」と主張する発砲者が免罪される構造は、
アメリカの“スタンド・ユア・グラウンド法”の問題と同じである。
恐怖を根拠にした先制攻撃が認められる社会では、暴力の独占は失われ、
今回の事件は、銃社会の論理が非銃社会の中で萌芽した象徴的な出来事でもある。
この事件が投げかけたのは、
「恐怖と正義の境界をどこに引くのか」という普遍的な問いである。
だが、その弱さが他者への攻撃の免罪符になった瞬間、暴力は正義を模倣し始める。
フェミサイドもミサンドリーも、根は同じ――恐怖を根拠に他者を人間として見なくなること。
仮にこれがネカマによる釣りでない場合を考慮してマジレスしておく
・性依存症という医学的な疾患は現時点で存在しない(性依存症を名乗っている人や、性依存症を診ると標榜しているクリニックは存在するが、WHOの疾病分類であるICDやアメリカ精神医学会のDSMなどでは認められていない疾患概念である。理由は現時点で性依存症が病気であるというエビデンスが不足しているため)
・増田のケースに近いと思われる診断名は、WHOが2018年にアップデートした疾病分類の最新版ICD-11 に新たに追加された「強迫的性行動症(Compulsive sexual behaviour disorder : CSBD)」である
https://icd.who.int/browse/2025-01/mms/en#1630268048
診断は、個人が抵抗困難または制御不能と経験する強く反復する性的衝動・欲求を感じ、それが反復的な性的行動につながり、その反復的行動パターンが個人・家族・社会・教育・職業その他の重要な機能領域において顕著な苦痛または重大な機能障害をもたらしている場合にのみ適用される。
性欲が強いなど性的関心や行動のレベルが高い人(例:性欲亢進)は、性的行動の制御障害や機能障害・著明な苦痛を示さない限り、CSBDと診断されるべきではない。
・増田は自慰行為を「好き」「誰にも迷惑かけてない」と表現しており、性欲が強いことで具体的に困っていることや苦痛があるわけではない
つまり、CSBDの診断に必須である「顕著な苦痛」および「社会的に重大な機能障害」がない
・「シコ猿すぎて恥ずかしい、情けない」とあるが、ICD-11では性的衝動・欲求・行動に対する道徳的判断や非難に関連した苦痛のみを根拠にして、病理を示すとは考えられない性的衝動・欲求・行動についてCSBDを診断してはならないとしているので、普通じゃない気がして恥ずかしいからという理由では強迫的性行動症には当てはまらない
【結論】
おそらく増田はただの「性欲が強い人」であり、医学的に治療の対象となるような病気ではない
【補足】林先生のQ&A
【3455】27 歳女。私は性欲が異常に強いのでしょうか。
俺はそうじゃなくてノーリスクでできるという意味で書いたとはさっきいったとおり。
つまり俺はノーリスクで話をそらせるため話をそらしても何かを認めたことにはならないんです
-----BEGINPGP SIGNEDMESSAGE-----Hash: SHA512https://anond.hatelabo.jp/20251015161606# -----BEGINPGP SIGNATURE-----iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaO9KOAAKCRBwMdsubs4+SL6AAP9j8enrREdJgzmPImkLXwWEk3CKOn4IuVFwEREr/qyf6wEA/sYejYkUu2AOzv/kp1nFdIyx7BTBDGJj6ZNKGBjvuAo==Tghj-----ENDPGP SIGNATURE-----
確かに、ユダヤ思想の中でも「神への信仰(אמונה בא־ל)」と「自由意志(בחירה חופשית)」は、倫理的行動の根幹をなす2つの柱です。
ユダヤ教の伝統では、人間が道徳的選択を行う主体であるためには自由意志 が不可欠であり、またその選択が意味を持つためには 神の存在、すなわち、善と悪を判断する基準を超越的な存在が定めていることが前提とされています。
つまり、神は人間の行動を知っておられるが、それでも人は自らの行為に責任を負う、という両立の思想です。
この信念が社会的にも倫理的にも重要なのは、「神が見ている」という意識が道徳的自己統制を促し、「自分に選択の力がある」という意識が責任感を育むからです。
ここでは、自由意志をもって神の道を選ぶこと が、人間の道徳的価値の核心であると明言されています。
ですから、あなたの言うように「神への信仰」と「自由意志の信念」が犯罪を減らし、社会をより良くするというのは、まさにユダヤ思想の本質を突いています。
彼は、深刻な心理的苦痛、社会的孤立、そして強烈な怒りを抱えた個人として浮かび上がります。投稿は表面上、ITエンジニアや弱者男性への「批判」ですが、深層では自己の苦痛の外在化であると解釈できます。
彼が批判する「承認欲求」「現実逃避」「他責思考」は、皮肉にも投稿者自身の特徴を強く反映しています。これは典型的な投影防衛機制であり、耐え難い自己イメージを他者に転嫁することで、一時的に自我を保護しようとする心理プロセスです。
最も懸念されるのは、暴力的イメージへの固着と他者の非人間化です。これらは実際の暴力行為の予測因子ではありませんが、心理的危機状態の指標となり得ます。
一文で言えば: 彼は、自己の痛みを他者への攻撃として表出することでしか自己を維持できない、深い孤立と苦悩の中にある人物である。
本小文では、ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」(BE 1.0)が、現代においてより巧妙かつ陰湿なかたちへと進化していることを論じます。かつての「悪」は、思考停止と無反省な服従によって成り立っていましたが、今日の「悪の凡庸さ2.0」(BE2.0)は、計算された行動と、美徳の言葉を悪用する戦略的な操作によって特徴づけられます。
BE2.0は、二重のメカニズム──すなわち、道徳的言語を兵器化する巧妙な操作者と、その偽りを見抜こうとせず、あるいは恐れて沈黙する共犯的な大衆──によって機能します。
アーレントの洞察は、ホロコーストの実行者アドルフ・アイヒマンが、激情による加害者ではなく、ただ命令に従うだけの「無思慮」な官僚であったという点にありました。
それに対し、現代の加害者たちは「善人」を装い、美徳的な言葉を駆使しながら、実際にはアーレントが描いた「悪」の構造と変わらぬ行為を実行しています。
BE2.0が「凡庸」であるのは、加害者に意図が欠けているからではなく、加害者自身も社会全体も、絶え間ない露出──特にソーシャルメディアを通じたもの──によって感覚が麻痺し、悪のパフォーマンスが日常化しているためです。この日常化は、「相手が悪いのだから自分は正しい」という自己免罪のロジックを生み出します。
明確な思想や信念に基づいて行動し、動機を「正義」や「権利」といった語彙の裏に巧妙に隠す操作者たち。彼らの悪は、分散的かつ非階層的に機能し、いわば「(サルの)群れの知性」のように動きます。また、共感は狭い部族的サークルに限定され、普遍的な倫理感覚は麻痺していきます。
観衆、同僚、制度、そして傍観者として、彼らは悪の遂行に直接加担していないように見えて、検証を怠り、言葉だけの美徳に騙され、結果的に悪の温床を支えています。リーダーの言葉にうなずくだけで、その後の行動全体を黙認してしまう、この「暗黙の承認」が共犯関係を形成します。
BE2.0は、「正義」に見える言葉の衣をまといながら、実際には害を与えるための操作的アーキテクチャとして機能します。以下の六つは、その主要な「マスク(ベクトル)」です。
本来、異議申し立てを保護するための「言論の自由」が、憎悪や排除の言説を正当化するために使われます。権力者が被害者を装い、権利の言葉を用いて多元主義そのものを抑圧する──これが洗練された悪の典型です。
社会構造に根差す不正義が、象徴的な「個人」に押し付けられます。
•システムの生贄化:制度の失敗を覆い隠すために、ひとりの個人が「償い」の対象とされ、構造改革の必要性は棚上げされます。
•イデオロギーによる自動攻撃:あるカテゴリの人々が「攻撃してよい存在」として事前に定義されており、指示がなくても攻撃が発生します。まさに、無思慮な脚本の遂行です。
歴史上の重大な暴力や抑圧が、軽んじられたり、相対化されたりします。これは、現実の被害を正当化する方便として使われがちです。
進歩や変化を認めず、過去の不正義を手放さないことで、継続的な要求や道徳的優位性を確保しようとします。目的は「癒し」ではなく、「不満」の永続です。
複雑な現実が、単一の枠組みや道徳コードに押し込められ、それ以外の価値観は「後進的」として排除されます。
自らが行っている行為を、先に相手に投影し、正当化の材料とする。この「合わせ鏡」の構造では、真の責任追及が不可能となり、対話はエスカレートする一方です。
すべての誤りや偏見が「悪」となるわけではありません。「悪」が成立するのは、次の三つの条件が重なったときです。
他者を、尊厳ある主体ではなく、単なる機能や道具として扱う「存在論的な消去」が、悪の第一条件です。暴力の前に、すでに尊厳の剥奪が始まっています。
個人の悪意を超え、イデオロギーや制度に組み込まれることで、悪は再生産され続けます。
悪は、善を単に否定するのではなく、模倣し、利用します。たとえば、「権利」の言葉が、本来守るべき弱者ではなく、強者の防衛に使われるとき、それは善の腐敗です。
技術的な修正や制度改革だけでは、BE2.0に対抗できません。というのも、これらは逆に「寄生的模倣」に取り込まれてしまうからです。根本的な解決は、私たち自身の内面から始まる変容にあります。
東洋の智慧は、個と社会は分かれたものではなく、同じ意識の運動の異なる側面であるという洞察を共有しています。内なる断絶が癒されるとき、外なる対立も自然に鎮まります。
1. 内的な道:瞑想、自己探求、倫理的明晰さを通じて、自己の中にある認識の否定構造を解体する。
2. 外的な道:未変容な人々が存在する現実においても害を防ぐための、法や制度、規範といった堅牢な外部構造を整える。
その行為は開かれた交流を促し、複雑性を許容するか?それとも、対話を遮断し、イデオロギー的な純粋性を要求するか?
和解と修復を育むか?それとも、分裂と戦略的な不満を永続させるか?
力、尊厳、自由をより広範に分配するか?それとも、特定の部族のために力を集中させ、特権を溜め込むか?
「言論の自由」が一貫して沈黙を生み出すとき、「学問の自由」が一貫して排除するとき、私たちは戦略的な操作の兆候を特定できます。
民主主義は、BE2.0の条件が蔓延するとき、集団的な凡庸な悪が集約され、最高位の舞台に投影されるベクトルとなりえます。現代の指導者たちの台頭は、システムが日常的な否定、投影、兵器化された美徳のパターンを増幅し、正当化するようになった論理的な結果です。
サイクルを終わらせるには、外部の敵を探すのをやめ、内的な変容という困難な作業を始める必要があります。それまで、私たちは悪が選ぶ新たな仮面のすべてに対して脆弱なままです。
多文化共生とか他人種共生とか言う人をよく見るけど、実際にそういう環境で暮らしてる人ってどのくらいいるんだろうと思う。
俺の住んでるエリアには、外国人労働者や技能実習生の人たちもけっこういて、夜中に外で話してたり、ゴミの出し方が違って揉めたりすることもある。
それを見てると、共生って言葉ほど簡単じゃない。歩み寄りも必要だし、文化の違いに戸惑うこともある。
でも、そういう中でちゃんと関わっていくことが、本当の共生なんだと思う。
隣人も同じ日本人で、外国人との関わりなんてニュースかSNSくらい。
たとえば保育園の建設に反対する住民が叩かれることがあるけど、実際に騒音の影響を受けるのは、その地域に住んでいる人たちだ。
外から道徳的に受け入れるべきだとか言うのは、なんか違う気がする。
夜勤明けで寝ている人や、防音が弱い部屋で暮らしている人にとっては、生活の問題なんだから。
受け入れるべきだと言うなら、まず自分の生活圏で実際に受け入れてみて、それでも良かったと思えるのかを語ってほしい。
移民賛成って言ってる人たち、ちゃんと多文化・他人種共生して、うまくいってる?
Permalink |記事への反応(29) | 14:26
良いと善は区別して論じるべき。
「良い」とは、社会的に許容される・制度的に問題がないといった、適法性や実用上の可否を示す言葉と位置づけられる。一方「善」は、倫理的・道徳的に価値を持つかどうかを問う評価概念である。
例えば「二次創作は親告罪だから良い」という主張がある。ここで言われている「良い」とは「違法とされにくい、制度的に許容される可能性が高い」という意味にすぎない。だが、これが直ちに「善」であることを意味するわけではない。道徳的・倫理的な観点からは評価が分かれる余地がある。
議論においてこの区別を怠ると、「法的に良い=善」という短絡が生じ、法と倫理の次元が混同されてしまう。さらに「悪」という言葉も、「良い」の反対(不都合・不適切)と「善」の反対(道徳的に悪い)が同一視されることで、議論の射程が不明瞭になる。
ゆえに、「良い/悪い」は制度的・機能的次元、「善/悪」は倫理的次元と明確に区別した上で用いることが、健全な議論のためには不可欠である。
反論してください
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この主張は「良い=制度的に許される」「善=倫理的に価値がある」と切り分けるべきだ、という立場だが、必ずしもそのように区別する必要はない。むしろ区別しすぎることで議論が不自然になる側面がある。
第一に、言語は日常生活において柔軟に使われるものであり、「良い」と「善」が完全に分離されていないのは自然な現象だ。日本語における「良い」は「好ましい」「適切だ」「正しい」といった広い意味領域を持ち、文脈によって制度的評価にも倫理的評価にも揺れ動く。これを無理に切り分けると、逆に人々の直感的理解を阻害する恐れがある。
第二に、法と倫理を区別すること自体は重要だが、両者はしばしば重なり合う。例えば「親告罪だから二次創作は良い」という言明は、単に「違法でない」という意味に留まらず、「社会的に受容されている」というニュアンスをも含んでいる。そこには「完全に善とは言わないが、社会の合意としては容認されている」という現実的判断が込められている。つまり「良い」という言葉は、法と倫理の中間的な領域を示す便利な表現でもある。
第三に、「悪」を「良いの反対」と「善の反対」に分けるべきだという指摘も、概念的には一理あるが、実用上は混乱を招きにくい。人は会話の文脈から「悪い(出来が悪い)」と「悪い(道徳的に悪い)」を区別して理解できるからだ。むしろ、厳密な二分法を導入することは、一般的な議論の場では過剰な哲学的要求になる。
結論として、「良い/善」を峻別することは理論的には有用だが、日常言語にまでその厳密さを強制する必要はない。むしろ「良い」という言葉の曖昧さが、法と倫理の間を橋渡しし、実際の社会的合意形成に寄与している面を見落としてはならない。
つまり日本語の日常言語は議論に向いてない……ってコト!?!?!?wwww!?!?www
チー牛をクマと同じくらい危険な存在と思ってるという最後のカミングアウトで、普段別の場所では良識派リベラルフェミニストで通ってる女の憂さ晴らし増田だって理解できた。体臭のある外国人の話は、ライブで隣にいた臭いオタクのことでも考えながら書いてたんだろうな。
いくら自分が道徳的に正しい側、リベラルの側だって思って囲いにもそうだそうだ言われてようが、キモいと思った相手を排除したいと思った時点でリベラルの負けで、フェミニズムは社会に浸透しないよ。分かったら参政党のデモにでも参加してきな。
あんまり興味持って見てないんで、アメリカで暗殺された保守系政治活動家のチャーリー・カークの話はほぼ知らないんですけど、アメリカのキリスト教福音派だったそうでカーク氏は当然、妊娠中絶反対派でした。
聖書にそう書いてあるかららしいですが、どう書いてあるんだかは知りません。
で、こないだの報道特集見てたら、なんかチャーリー・カーク氏が中絶反対の議論をなんか大学生っぽい人相手にしていて、こんな感じのことを言ったんですよ。
「中絶は、不要な命として胎児の命を奪っている。それはナチスのホロコーストの論理と同じじゃないか。君はホロコーストを認めるのか?」
みたいな。
その大学生がどう返事したかは放送にはありませんでしたが、非常にムッとした表情にはなっていました。
ところが私は、とあるホロコースト否定論者が昔論じていたことを思い出してちょっと笑ってしまいました。
しかし、ノルテ[90]のように、国家社会主義独裁政権下の12年間に、おそらくは「遺伝的公共の福祉」という怪しげな理由で、一般的に重度の障害者である10万人が殺害されたことに対して、今日の人々が道徳的に憤慨しているのに対して、同じ人々が、ドイツだけで過去12年間に約400万人にのぼる、生まれてはいないが健康な人々の故意の殺人-物質主義的でエゴイスティックな考慮のみに動機づけられた殺人-に対して、少しもショックを受けていないことに、私は驚きを禁じ得ない。今日、私たちが判断する道徳的カテゴリーは、55年前のそれとは明らかにまったく異なっている。より良くなっているとは思えない。
Dissecting the Holocaust: Ernst Gauss: The Controversy about the Extermination of the Jews
著者名はエルンスト・ガウスってなってますが、これ偽名(本人が認めています)でして、ドイツのホロコースト否定論者であるゲルマー・ルドルフっていいます。界隈では知らない人はいないくらい著名な歴史修正主義者です。
要するにナチスドイツによる安楽死作戦(T4作戦)を否定しようがないんで、妊娠中絶と相対化して「ナチス・ドイツ、ヒトラーはそんなに悪くない」つってるんです。なぜ否定しようがないかといえば、ユダヤ人絶滅とは違って、T4にはきっちりヒトラーの命令書が残ってるからです。当然ですが、ユダヤ人絶滅だって実際には否定しようがありませんが、ど素人・無知なお馬鹿さん向けには騙せるくらいには「高度」な理解が必要なため、その否定論はその程度には通用します。
さてこのカークとルドルフの論理をめちゃくちゃ単純化し、T4もホロコーストと言い換えることにすると、
と、両者はそう言っているだけの話で言っていることは一緒なのです。彼らが無視しているのは、中絶はそうせざるを得ない理由があるということであって、最も代表的な例は「強姦による妊娠」です。もちろんそれは代表的な例であるというだけであり、中絶の理由は実際には様々ですが、もし極端な話が経済等その他何の問題もない正式な夫婦が、妊娠してしまって「今は子供はいらない」だけを理由に中絶手術を産婦人科に要望したとしたら、常識的にはその産婦人科医は中絶処置を拒否するでしょう。もちろんそのような中絶処置は日本では違法です。
ですから、全くの架空の話ですが、ユダヤ人が本当に世界征服を企んでいてユダヤ人以外の人類を全て抹殺しようとしていたのであれば、それが確実で疑いようのない万人が認める証拠付きであるならば、ホロコースト(ユダヤ人絶滅)は認められる可能性もあります。実際、ナチスドイツ、あるいはヒトラーの論理によると、ユダヤ人が絶滅される方向に至った理由は確かにあって、単純化していえばドイツにとって最悪の敵と認定されたからです。もちろん、その考え方自体妄想に他ならないものであり、T4だって間違った考え方に基づいていました。つまり、私たちはその行為の理由を決して認められないものとしているのであって、行為それ自体を何の理由もなく認めないとしているのではないのです。
結局は、チャーリー・カークもホロコースト否定論者も、いわゆる結論ありきの、そのためだけのくだらない論理を使っているだけだということがわかります。少しだけチャーリー・カークを追ってみましたが、大学生にクソミソに論破されている動画もありました。なぜカークが聖人扱いされているのか、正直言って、意味不明でしかありません。
ナチズムは心理的な理由によって説明されるが、個人の心理学は社会経済学的理由によってつくられる。
労働者階級や、自由主義的ブルジョワジーは消極的なあきらめの態度をとったのと対照的に、ナチのイデオロギーは小さな商店主、職人、ホワイトカラー労働者などの下層中産階級が熱烈に歓迎した。
強者への愛、弱者にたいする嫌悪、小心、敵意、金についても感情についてもケチくさいこと、そして本質的には禁欲主義など。かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対してはせんさく好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。
指導者にたいする盲目的な服従と人種的政治的少数者にたいする憎悪の精神、征服と支配への渇望、ドイツ民族と「北欧人種」の賛美など。これらのイデオロギーは、下層中産階級を心情的に魅了し、「共感」(実際にはかれらは駒にすぎなかったのだが)を呼び起こした。