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はてなキーワード:道元とは

2025-07-30

anond:20250730132113

五観の偈(ごかんのげ)は、主に禅宗において食事の前に唱えられる偈文。

唐代南山律宗の僧、道宣が著した『四分律行事鈔』中の観文を宋代に黄庭堅が僧俗のため訳したもの

道元著作『赴粥飯法』における引用によって日本で広く知られるようになった。

一、この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。

日本ではこれの真似ってことで。

Permalink |記事への反応(0) | 13:48

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2023-07-18

善人の家に争いごと絶えず、悪人の家に争いごとなし(道元禅師)

Permalink |記事への反応(1) | 17:22

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2023-03-15

anond:20230315112636

空海 (SkySea)

最澄 (Clearest)

日蓮 (SunLotus)

道元 (RoadOrigin)

法然 (LawAsItIs)

栄西 (Prosper West)

親鸞 (Parent Luan)

一遍 (OneTime)

Permalink |記事への反応(1) | 22:08

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anond:20230315110749

空海(くみ)

最澄ますみ)

日蓮かれん

道元みゆき

法然(ふらんしか

栄西(えーさ)

親鸞みすず

一遍(あまね)

Permalink |記事への反応(7) | 11:26

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2022-11-27

掃除をするのは奴隷根性」←本当に義務教育終えて来た?

W杯寝不足の日々が続いていますか?今年のワールドカップはUpSetも多く日本代表ドイツ撃破も興奮したけど

オーストラリアではJ2で戦うデュークがゴールを決めたりと、Jリーグファンとしては嬉しい出来事も続きます

ここまで見てきた感じでは、ブラジル代表がやはり強いなって感じですが、フランスも優勝候補であることを証明してます

まだまだ楽しい日々が続きそうで嬉しい限りでしょう。


さて、W杯がある度に、国内外ニュースになるのは日本人掃除

これについて「清掃員の仕事を奪ってる」「奴隷根性」なんて言って批判してる人が居る様だけど

本当に義務教育を終えて出て来たの?って不思議しょうがないんですよね。


この掃除文化がいつからあるものなのか?定かではないようですが、既に江戸時代には寺子屋で行われていた事のようで

相当に古くから存在するものであるとは考えられています

そもそも禅寺では雲水たちが、掃除も含めて丁寧な生活を送る事を修行の一環でやっていますから、これが根底にあるものでしょう。

では何故、掃除をするのか?これは坊さんによっていう事は違うけど、道元が書いた「正法眼蔵」には

一滴の水も無駄にしない様に、心の汚れを洗い流すように祈りながら顔を洗う、という事が書かれています

日常生活の細部に至るまで気持ちを配る事で、心を整えて身ぎれいにする事が出来る。それが修身に繋がると説いてるのです。


こうした考え方が掃除をする前提にありますね。

競技をする上で道具を大事に扱えば、自らの怪我の防止や上達に繋がります

学問をする上で綺麗に整頓された環境勉強をすれば、集中力を高め、より良く学べることに繋がります

スタジアムを綺麗にすれば、ゴミで足を滑らせて怪我したり、悪臭に悩んだりしなくて済みます

そして掃除を行う日本人を見て、海外の方が真似をしてくれたり、日本応援しようと考えてくれれば

その事も私たちにとっては嬉しい事でしょう。


このように掃除をするというのは、単純に善意から出ているものでもないし、奴隷根性で行っているものでもないのですよ。

掃除を行う事で自分たち自身気持ちいいし、良い環境安全サッカーを楽しむことができる。

楽しい試合を見せてくれるホスト国への感謝気持ちを伝える事も出来るし、日本の味方が増えてくれたりもする。

スタジアム大事にすることで、よりサッカーを楽しめるし、もしかしたらスタジアム神様日本に味方してくれるかもしれない。

そんな風に日本人は感じているのでしょう。情けは人の為ならずって奴です。

どこであれ掃除して帰る時に良い事をしてるなんて思ってる訳じゃないでしょ、自分の為にもなるんですよ。



義務教育では掃除をする、道具を大事に使う事で、自分の成長に繋がるのだと言う事を教えてもらうはずですね。

奴隷根性だ」「掃除人の仕事を奪ってる」なんて言ってる人たちは、義務教育を終えていないのでしょう。

小学生からやり直してみてはいかがですか?

Permalink |記事への反応(9) | 14:04

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2022-03-17

日本人で「こいつ頭いいなあ」って思想家いる?

道元とか親鸞レベル

Permalink |記事への反応(0) | 07:38

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2021-01-06

聖☆おにいさんに登場する後代の人物カウントしてみたよ

きっかけとなったのはこのツイート

https://twitter.com/dogu_fm/status/1346029676813115393

まとめ

https://sumatome.com/su/1346029676813115393

この主張に関しては、特に問わない。

宗教的に寛容だから笑いにできる」とした言説なんて、あまり聞いた事が無いのだけど。

しろ日本宗教にいい加減だからだと思うんだけどね。良くも悪くも。

そもそも宗教馬鹿にする文化アメリカにもイギリスにも有る。

気になったのはそこでは無くて、キリスト教聖人バンバン登場しているのに、仏教導師祖師が登場しないという分析

これは本当なのか確かめてみた。

以下はその結果。

集計ルール

聖☆おにいさんを読んでいると、キャラクター達は登場パターンで分類出来る事がわかる。

そこで、キャラクターの扱いについて大まかに分けてみる。あくま便宜上の分類。

1.主人公二人組

2. 二人にがっつり絡むキャラクター天使弟子達)

3.ゲスト的に登場し、二人に絡むキャラクター

4. 二人の会話の回想シーンに登場するキャラクター

これら全て登場人物なんだけど、4は聖☆おにいさん独特の登場パターン

元のツイートで例に出しているルターはこれに相当する。

今回はあくまで後代の聖人導師などや、その他伝説となった人を対象としている。

ペトロとかアナンダなどの直接の弟子カウントしていない。

実在人物でも聖書登場人物などもカウント外。

3の登場パターンは○

4の回想での登場パターンは△

名前だけしか出ていないのは※

集計結果

1巻

特になし

2巻

△ 聖ニコラウス 9話クリスマスネタ

3巻

空海 18話伊豆旅行の時にガイドさんが発言弘法大師名義

ルター 22話免罪符ネタ。1コマ

4巻

△ ヴァレンティヌス23バレンタインネタ

ダ・ヴィンチ 27話漫画アシスタント候補として名前が挙がる

ラファエロ 27話 同上

5巻

特になし

6巻

ダンテ 39話神曲の作者として

空海 41話 ショムジョのチームの一員として登場。セリフあり

三蔵法師 42話

7巻

天草四郎 48話イエスさんが知っている戦国時代人物として挙げる

8巻

ルター 52話ボウリング話題

9巻

ジャンヌダルク 62話聖人認定話題

10

※ 聖ニコラウス 69話クリスマスネタ

※ ヴァレンティヌス 71話バレンタインネタ

ゴディバ夫人 71話バレンタインネタ

11

即身仏 78話ゾンビ映画ネタの絡みで登場

12

耳なし芳一 81話ブッダさんの発言

13巻

特になし

14巻

特になし

15巻

特になし

16巻

ニコラウス110話クリスマスネタ

△ マルガリ119話出産系の守護聖人として

ライムンド119話出産系の守護聖人として

※ アエギディウス119話出産系の守護聖人として

アントニオ119話出産系の守護聖人として

17

ジャンヌ・ダルク123話大家フランス語教師として登場

○ フラ・アンジェリコ127話イエスの絵を描こうと登場

18巻

ジャンヌ・ダルク 131話セミレギュラー

ゴディバ夫人耳なし芳一は迷ったけど、モデルが居るみたいなので入れた。

即身仏名前は出ていないので、人によってはカウント外だとも思うが、とりあえず入れてみた。

他にも抜けが有るかもしれないけど、とりあえず。

○は仏教2回、キリスト教3回

△は仏教2回、キリスト教8回

※は仏教1回、キリスト教8回

一応、キリスト教多め。だけど…

分かったこ


ツイートへのちょっとしたツッコミ

キリスト教側については使徒はもとより四大天使に旧約の人物や遙か後代の聖人マルティン・ルターまで登場する。ところが仏教側は釈迦十大弟子天部梵天など)、釈尊の血族、悪魔如来観音菩薩は出てくるが、仏教重要な後代の導師祖師は出て来ない。

一度だけ空海イエスブッダに顔を会わせないかたちで登場してはいるらしいが。ともあれ後代の大乗仏教重要ボーディ・ダルマは出ていない。まして日本仏教にとりわけ大きな影響を与えた鎌倉仏教祖師である道元栄西法然親鸞日蓮は登場どころか名前すら出てこない。

マルティン・ルターは回想で触れられるくらいで、それほど。総登場5コマ程度だし。

空海についても何故か伝聞風に書いている(自分で読んだんだよね?)けど、ちゃんと登場しておりセリフまで有る。(登場コマは2コマだけどw)

そもそもキリスト教親鸞に当たる人物となると、キリスト教の成立史に名前が挙がる人物なんだろうけど、Wikipediaキリスト教歴史の項目に出てくる歴史上の人物は、それこそルターぐらいで。教皇も初代教皇ペドロ以外、名前も出てこなかった。

そうなると、作者の単純なネタ選択と考えたほうが自然じゃないかと。

しかし『聖★おにいさん』はあくまでそれらの人物を出さない。この数年はネタ切れなのか北欧神話まで持ち出してきた。七福神神道側として出してきたことも苦しい感がある。「八百万の神」の名は出たもの天照大神イザナギイザナミスサノオ辺りの名を出すのを避けているようにも感じる。

これに関しては、19巻に収録される予定の回でイザナギさんが出てくるので、完全に穿ち過ぎかと。

結論として

最初に述べたとおり、日本人の宗教に対する態度は寛容ではないという意見否定しないけど、漫画作品の描写だけで断ずるのは早計じゃないかな。

そもそも日本人の宗教観を批判する事が念頭にあったのか、バイアスが掛かってる様子だったし。

これだったら、聖☆おにいさんを持ち出さずに自分言葉で論じればよかった。

あと、こういう増田も見かけて面白かった。

一応クリスチャンだけれども聖★おにいさんは大好きだよ

https://anond.hatelabo.jp/20210106032817

つーか、自分クリスチャンじゃないけど、大いに賛同する。

Permalink |記事への反応(2) | 21:48

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2019-06-15

anond:20190614201712

お箸の持ち方なのだが出どころを探ったら道元が出てきた。つまり禅宗

仏教ルーツではあるけど中国から輸入されてきた教えでもあるから大元中国

そして教えが武士に伝わっているうちに茶道小笠原流かいろいろくっついて今のようになったとさ。

箸の文化中国韓国を始めベトナムミャンマーラオスなどなどアジア諸国へと伝わっていったんだけど、インドは受け入れられなかった模様。

あと中国韓国は同時にスプーン(匙)が定着したけど日本ではそこまで普及しなかったのも不思議なところ。

Permalink |記事への反応(2) | 18:11

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2018-01-12

Das Buchen

シェイクスピアマクベス

スタインベック『月は沈みぬ』

ヘッセ荒野のおおかみ

マン「トニオ・クレーゲル

ラーゲルレーヴニルスのふしぎな旅

ケストナーエミール探偵たち』

マーリーズ霧の都

増谷文雄『仏陀

道元正法眼蔵

井上靖『本覚坊遺文』

セーガン『コスモス

Sagan, Carl『Broca's Brain』

De Landa, Manuel『A THOUSAND YEARS OFNONLINEARHISTORY

Permalink |記事への反応(0) | 16:41

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2017-09-05

座禅瞑想

仏教というのは釈迦思想勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。

釈迦のもの荒行否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である

ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。

仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。

痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に人類普遍の発想でもある。

泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである

禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたし道元曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである

道元禅問答批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである

寸陰を惜しんで生きている現代人には時間無駄に思えるかもしれないが、挙動おかしパソコン再起動したほうがいい。

なぜ仏教坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである

坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である

目を開いて、明晰な意識身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。

達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。

われわれは生まれから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。

泰然自若としたポーズを身につければ、内面制御できる。

中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分コントロールするしかない。

ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである

多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。

Permalink |記事への反応(1) | 14:30

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2017-08-30

座禅

仏教というのは釈迦思想勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。

釈迦のもの荒行否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である

ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。

仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。

痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に人類普遍の発想でもある。

泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである

禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたし道元曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである

道元禅問答批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである

寸陰を惜しんで生きている現代人には時間無駄に思えるかもしれないが、挙動おかしパソコン再起動したほうがいい。

なぜ仏教坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである

坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である

目を開いて、明晰な意識身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。

達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。

われわれは生まれから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。

泰然自若としたポーズを身につければ、内面制御できる。

中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分コントロールするしかない。

ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである

多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。

Permalink |記事への反応(0) | 15:59

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2014-04-10

食事を残すのがマナー違反なのは日本だけなのか?

http://b.hatena.ne.jp/entry/shikisha.hatenablog.com/entry/2014/04/09/170536

ブコメ日本の文化が、とかモッタイナイ精神とか言及してる人が複数いたのと、個人的に気になってたトピックだったので

「食事を残すのがマナー違反なのは日本だけなのか?」とネットを軽く漁ってみた。

で、見つけたのが以下のフォーラム

http://forum.wordreference.com/showthread.php?t=385127

アメリカでは食事を残すのは無作法なの?」という質問から始まったスレッド

質問主はアメリカ事情を聞いてるけど、「他の国から意見もどうぞ!」となってて

いろんな国の人がうちの国では…を回答してる。

超訳かつ主観でまとめさせてもらうと、

アメリカ以外でも多くの国で「自分でよそった食事を手をつけずに残す」のは無作法との回答

アメリカといっても地域年代、もちろん人によっても異なる

・やはりじいちゃんばあちゃん世代はどの国でも「残さず食え」というしつけだったようだ

お腹がすいてないとかこれ以上食べられないときは断ろう、ただし礼儀正しく、という回答もある

・いわゆる「世界には食べたくても食べられない子供が…」式の説教はどこの国でもあるらしい

・なにがなんでも全部食べるべき!という回答はない。逆に、いくらでも残すぜ!という回答もない。当たり前か。

質問主の想定が「他人の家に招かれた際に食べ残すのは」だったため、

多くの回答はホスト(招いた人)への気遣いや、逆に自分ホストになった場合を想定してのものだった。

とりあえずの結論としては、「食べ物を残してはいけない」という文化別に日本だけのものじゃない。

多かれ少なかれ、どこの国にもある感覚だと思ってもいいんじゃないだろうか。

ただし、このフォーラムを見ててちょっと興味深いことがあったんで以下はそれについて書く。


食事を残すのはなぜ悪いのか?における日本価値観

スレッド最後のほうで、アメリカ在住(?)の日本人らしき人の書き込みがある。

田舎で育ったというこの人は、子供のころ学校で食事を残さないよう強制された思い出を語っている。

食べ終えるまで帰れなかった母親世代ほどではないが、と注釈を入れた上で、

ニンジンが大嫌いでこっそり捨てていた同級生の話、ティッシュに包んで持ち帰っていた子の話などが続く。


自分が興味を引かれたのは、食べ残すことに「罪悪感がある(feelguilty)」という言葉

このスレッドで罪悪感という単語を出したのは、この日本人らしき書き込み主だけだった。


食べ物無駄にする(wastingfood)ことについてさえ、言及してる人は他に二人だけ(ドイツ人アメリカ人)。

ほとんどの回答者ホストへの気遣いは理由にしても、食べ物無駄にすることを理由には挙げない。

これは食物を貴重とする日本価値観によるものであり、道元はその理由を

食材は多くの人々の労力のこもった物であるから粗末にしてはならない」と述べる

日本の食事作法 - Wikipedia より引用

食べ物を粗末にするのは罪悪感を感じる、だからさない、というのは、

しかすると日本的な(他国にもあるにはあるが)価値観なのかもしれない。


他にももうひとつ、罪悪感を感じる原因は明らかに学校教育にもあるだろう。

食事を残す、と言われて日本人ならすぐ思い浮かぶのは給食での光景だ。

日本では、家庭で行われるような「しつけ」をある程度学校がしている状況がある。

給食を残さないことを過剰に強制されるのも、食べ物を残すことへの罪悪感から来ているのかもしれない。


日本人らしき書き込み主は、アメリカ大学での経験も語っている。

学食で多くの生徒が食べもしない料理を皿に盛って、そのまま捨てていたこと。

用意された多くの食べ物が廃棄されることに、書き込み主はいつも罪悪感を感じていたという。


彼(彼女)が感じていた罪悪感は、学食を作ってくれた料理人のものだろうか?

かつて学校で教えられてきたことに反する行いへのものだろうか?

それとも、単純に食べ物を粗末にすることへのものだろうか?


「お百姓さん(←差別語)が汗水垂らして作ってくれたお米を…」式の説教は、

世界には食べられない子供たちが…」となにも変わらない。

農家の人のほうが実際には大量の野菜だの米だの捨ててるよ、とか現実を言ったところで

彼(彼女)の罪悪感が減るわけではないだろう。

たとえ機械大量生産されたファストフードでも、厳しく怖い教師がいない場であっても、

多くの日本人食べ物を残すということに罪悪感を感じるのかもしれない。


個人的に、食べられないもの強制的に食べさせるのはよくないと思う。

アレルギーや体質的な問題で食べられない人もいるということが広まっているのもいいことだ。


ただ、「食べ物を残すのはよくない、なぜなら…」と語るとき

ホスト心証など現実的問題点を挙げる外国人比較して

食べ物を粗末にするのは罪悪感があるから、と続ける日本人、という図式を発見したのが

ちょっとおもしろかったので書いてみた。

もちろんすべての日本人がこうだと言うつもりはない。

宗教と言えば宗教なんだろうし、それが気持ち悪いとか嫌だという人もいるだろうしね。

Permalink |記事への反応(1) | 18:25

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2013-10-30

http://anond.hatelabo.jp/20131030170805

うそういう手法も手垢がつきまくってるし

カマしておいてその後大した授業できないならただの迷惑先生だし

実際カマすこと自体が目的化してる自意識肥大先生が多いわけだし

そういう凡人にサンデルごっこされても生徒や第三者は不快なだけなわけよ

南泉斬猫の無門関は中国宋代に成立だし

道元さんはあまり禅問答重視してないっぽいので

13世紀日本でも知識層の間じゃ既に手垢がつきまくってたんだろうなと想像してる

今後の人生でも気をつけて欲しい

「ぼくが先頭だ!みんな気付けてない!ぼくにおいつけてない!」

って思ってたらお前一人が周回遅れでした

みたいなことお前の人生にはよくあるだろ

まずそこに気付くこと

山折:それは13世紀ですよ。13世紀の宗教者は、わが国における軸の思想を形作った。これから日本が国際的に何か存在感を強化するうえで何が必要かといったら、やっぱり13世紀なんです。自信や価値観の源泉みたいなものは、あそこにしかない。でも誰も気がついていない。これは悲劇的です。

周回遅れどころか13世紀からあんまり進んでないって話だし

そう言われるとそうかも知れないけど、それでもいいんじゃね?とも思う

Permalink |記事への反応(1) | 17:29

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http://anond.hatelabo.jp/20131030094105

サンデル教授とかもそうだけど、そういう問いを受けてファビョッちゃう

自分の心の動きを観察するのが目的なんだと思うんだけど

ブコメとか見ても、わりと素直にこの先生嫌悪感を表明するんだなあと思った

そいや、禅問答もそういう思考実験をするものだと思ってるけど

南泉斬猫で、猫かわいそうと南泉を批判していちゃ、口論してた僧の一人になるだけで

かといって、自分道元さんみたく「一刀一断」みたいな気の利いた返しができるわけもなく

猫もろとも南泉に斬られる方だね。概念武装的な感じに

日本のんきな宗教観についての指摘もコメントにあったけど

そういう宗教観にしたってソースにあるように本願寺創価の影響が大きいってのは

たぶんその通りだと思う。本願寺靖国に反対してるけど

日本的な宗教観自明と思っちゃうと、靖国みたいなのが

上手にスルッと心のスキマに入り込んじゃう危険はあるんじゃないかなと思う

Permalink |記事への反応(3) | 15:44

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2011-07-31

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20110731/1312071519

世界にどう向き合うかということは、恋人に向き合うことの残余から出てくる。世界というのはそういう派生の形で捉えるときに本当の姿を現す。簡単にいえば、男は女房子供のためだけに生きればいい。女房子供のために生きるというのはどういうことなのか腹の底からわかった人間けが世界を掴み直す。


道元とかの坊さんのことはどう考えてるんだろう。昔は妻帯禁止だったはずだし。

Permalink |記事への反応(0) | 10:56

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2009-01-03

吉本隆明フーコー

1978年、ぼくはミシェル・フーコーに会った。彼は1926年生まれだから、そのとき52歳、ぼくあh39歳だった。会ったといっても、文芸誌「海」での吉本隆明との対談企画者として立会っただけの話である。この対談、後に『世界認識の方法』(現在中公文庫)として単行本になり、『集成』第VII巻にも再録されている。

この対談終了後、フーコー吉本隆明に「往復書簡をしたい」と語った。社交辞令とは知っていたが、編集者としては敢えて真に受け、早速、吉本隆明に長文の手紙を頼み、出来上がった原稿を対談通訳者でもある蓮実重彦翻訳してもらい、フーコーに送った。内容は忘たが、道元ヘーゲルを巡っての、五十枚ほどの原稿だった。原稿を渡す時、吉本隆明は「ぼくの書いた内容なんて、フーコーさんなら当然知っていることばかりだけどね」と言い、また仏訳した原稿ベルギー出身の訳者の夫人に見せると、「この人、頭、悪いんじゃない」と言われた話など、いまでは懐かしい思い出だ。

夫人がなぜそんな言葉を口にしたのか。欧米人らの論文は、まず結論を先に述べ、それを論証する形で話を進めるのに対し、日本人、中でも吉本隆明のそれは、紆余曲折しながら何となく結論に向かう書き方ゆえ、原文に忠実に翻訳すればするほど、外国人には「頭が悪い」との印象を与えるようだ。国民性の差というやつだ。

件の手紙を出してから一年ほど経ったころだろうか、日本在住のフーコーの友人を通してようやく返事がきた。しかし危惧した通り吉本隆明の論考は意味不明、従って「返事は不能」とのことだった。またフーコーは、「吉本さんはヘーゲルドイツ語できちんと読んでいるのか?」とも問うたようだ。口先だけで国際化を論じるのは簡単だが、こうした一例を取っても、道はまだまだ遠いのだ。

Permalink |記事への反応(0) | 03:40

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2007-12-01

袴田事件

1月24日イベントでは、現・元世界王者らによるスパーリング、ちびっ子ボクシング教室、トークショー、熊本道元裁判官による講演、等々盛り沢山の企画が予定されています。

その他、袴田さんと同じ1966年冤罪逮捕され、20年後に再審勝訴で釈放された、映画「ザ・ハリケーン」でも話題となったカナダ黒人プロボクサー、ルービン・ハリケーンカーター氏を招聘することも検討中です。もし実現すれば話題性は一気に高まり、世論喚起には大きな効果が期待出来ます。

http://blog.livedoor.jp/nittaboxinggym2000/

熊本道元裁判官ブログ(袴田さんの獄中日記なども)

http://kumamoto.yoka-yoka.jp/

池田高雄 拳跡集

http://www.tic-box.com/doc-ikeda2/ik-index.html

Permalink |記事への反応(0) | 08:54

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