
はてなキーワード:過程とは
キリスト教の免罪符を無効化しないとダメだ、と言ってプロテスタントが生まれたがユダは懺悔すらしてない。
懺悔が悔い改めの証明にはなるとも限らないが、許される道がなければ人が動員できない。
倫理なき資本主義は、逸脱を許さない共産主義を怖がり彼らを懐柔しようとする。
一方、共産主義は資本主義を批判するが、資本主義成立過程を批判することはない。
通貨発行権の発生と武力による独占。証券市場による通貨価値の水増し。共産主義はもはやドル人気を盛るために維持されているだけだ。
https://www.youtube.com/@%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%82%AC-q6z/videos
【千歳くんはラムネ瓶のなか】4巻まで読んでも千歳朔が好きになれない男によるチラムネ4巻の正直な感想【2025年秋アニメ】
https://www.youtube.com/watch?v=vFerA2aUuJU
【千歳くんはラムネ瓶のなか】正直チラムネ5巻は良さもキャラ心情もよくわからなかったです【5巻のネタバレ注意】
https://www.youtube.com/watch?v=8bP_QJmuhqc
肯定的な反応: 多くの欧米ファンは千歳朔を「社会的に成功したリア充」「自信に満ちた好青年」と捉えている。例えば、Redditユーザーは「dense(鈍感)なMCではなく、千歳は王様のような存在で、多くの可愛い女の子に囲まれている」と評し、彼の自信あふれる振る舞いを評価している。また別のコメントでは「MCは非常に有能で、一見したよりも深みがあり、社交性に乏しいオタク系主人公ばかりの中で新鮮な存在だ」とも述べられ、作品中では千歳が「手先が器用で有能」なキャラとして好意的に描かれていることが分かる。レビューサイト「The Outerhaven」でも「千歳は言動がぶしつけで“好きか嫌いか分かれる”タイプだが、物語が進むにつれて裏にある優しさが見えてくる」と分析され、彼の厚い外面の下に隠れた誠実さが指摘されている。プロトンストームによるレビューでも、千歳の「社交性」が共感を呼ぶ要素とされ、「周囲を理解しようとする姿勢が非常に人間味あふれている」と評価されている。これらから、西洋の評価では「意外にも共感できるリア充主人公」という肯定的な意見が目立つ。
批判的意見: 一方で「セリフ回しが演技じみて不自然」「作者(または視点)がわざとらしい」といった指摘も散見される。Redditの視聴者は「キャラクター同士の会話が演劇のように聞こえる」「千歳自身の発言が、現実の高校生とはかけ離れている」と批判し、Oregairu(俺ガイル)風の重厚なセリフ回しが気になるとの意見が出ている。アニメ第1話の感想では「千歳の振る舞いはやや尖って見える」「(作風として)やや取っつきにくい」といった声もあり、好みが分かれるようだ。
主要ヒロイン(柊夕湖、内田優空/瑠唯、七瀬悠月など)への評価
ヒロイン全体の印象: 米英レビューでは、ヒロインたちはいずれも「個性豊かで魅力的」「二次元的ではなくよく描き込まれている」と評価されている。Protonstormのレビューでも「女性キャラは男性陣と同等に丁寧に描写されており、どのキャラも“よく練られた存在”に感じられる」と指摘される。実際、ある読者レビューでは「ヒロインは誰もステレオタイプな駒になっておらず、主人公との関係も自然で楽しい」と称賛されている。
柊夕湖(Yūko): 率直でおおらかな性格が支持されている。Redditでは「Team Yuko(柊夕湖推し)だった」という意見があり、夕湖の奔放さや思い切った告白に共感する視聴者が多い。実際、「彼女は自分の想いをまったく隠さずストレートにぶつけてくる」「素直で好感が持てる」というコメントも見られる。一方で、少数意見ながら「“Queen Skank”」のように揶揄されることもあり、胸の大きさなどをネタにした表現に批判的なコメントも存在する(ただし多くはそれを擁護する声が上がっている)
内田優空(Yua)※瑠唯(Rui)の記載はおそらく優空のことかと思われる: 冷静で落ち着いたストレートマン役として好意的に受け取られている。Redditの声では「優空の声優(羊宮妃那)が素晴らしい」「真面目なキャラで好印象」というコメントがあり、チームのムードメーカー的存在として評価されている様子がうかがえる。特に自転車で千歳と過ごすエピソードなどでの繊細な心情描写を評価する声もある。
七瀬悠月(Nanase):美人でクールな人気者として描かれる七瀬にも注目が集まっている。あるファンは「彼女も自分を演じているように見える」「夕湖と同様に“完璧な人気者”像を維持している」と指摘し、千歳と同じく虚像を演じているのではないかと考察している。また第1話感想では「Nanasewas pretty fake, justlike Chitose」と述べられ、千歳と同様に“嘘の自分”を演じていると受け取られている。ただし「冷静で美しい存在感が魅力的」「役者だけあって表情豊か」といった肯定的意見もある。いずれにせよ、ヒロインたちはストーリー全体で徐々に掘り下げられる余地があると受け止められている。
人間関係・コミュニケーション: 多くの英語レビューは「理解し合うこと」の重要性に注目している。レビューの冒頭にもあるように、「『コミュニケーションの鍵は相互理解への意欲』である」と千歳が説く場面が示され、互いに理解しようとする姿勢が物語のテーマになっている。プロトンストームは「まさに千歳くんはラブコメにおける『相互理解』の役割を担っており、表面的な人気者と引きこもりの対照を通じて人間関係の機微を描く」と解説している。特に、陽気な千歳と内向的な健太(Kenta)の対比が物語の軸になっており、「人気者には聞こえてこない“陰の声”を、主人公が受け止めていく過程が青春らしい成長として描かれる」と評価されている。千歳は外見上は完璧なリア充だが、実は「周囲の期待に応えようとするプレッシャーに押しつぶされそう」な弱さも抱えており、その内面が物語の大事なテーマとなっている。
青春・自己肯定感: 「青春=かけがえのない時間」という楽観的な視点も指摘されている。先述のレディットレビューでは、作者自身の言葉として「青春は本当に最高の時間だ」というポジティブなメッセージだと説明されており、Oregairuの「青春は嘘だ」という否定的な視点とは対照的だと述べられている。このように「青春」というテーマを肯定的に描く試みが、欧米のライトノベルファンからも共感を呼んでいる。
リアル指向の演出:アニメ版でも、自然な高校生活の再現を重視する姿勢が見られる。外部サイトのファーストリアクションでは「典型的な学園ものとは一線を画す“インテリジェントな文体”」として脚本が評価され、ステレオタイプな決まり文句を避けた会話が新鮮だとされている。千歳とクラスメイトたちのやり取り(例:蔵先生との屋上でのやり取りなど)はお互いに毒舌を返し合うなど型破りで、「型にはまった学園スライス・オブ・ライフとは違う」として好意的に受け止められている。
賛成意見:欧米ファンの多くは、作風の新鮮さやキャラの魅力を評価している。LNレビューやRedditでは「文章表現が秀逸で、オタク向け作品にありがちな軽いノリではなく、しっかり読み応えがある」とされる。特にヒロインたちが「大胆で個性的」「性格が立っていて面白い」との評価があり、友人たち全員が魅力的に描かれている点が好評だ。また、作中のしっかりとした「絆」や「助け合い」の描写に共感する声が多く、笑いの要素も豊富で「笑いの量はKonosubaやOregairuに匹敵する」と絶賛する読者もいる
否定的意見: 一方で、「対話が不自然」「シナリオが平坦」といった批判もある。Redditの一部感想では「非現実的な台詞回しで、まるで演劇を観ているようだ」という意見が見られ、「ストーリーが予測可能で、主人公は最後に必ず良い人を救うだけ」「物語として目新しさに欠ける」と評する声もある。アニメ第1話時点では「ヒロインのキャラデザインがやや平凡」「主人公に共感できない(特にオタク視点の視聴者)」といった指摘も上がっており、好みが分かれる要素である。いずれも「安易な異世界ものに慣れた視聴者には癖が強い」と評価する向きがあり、プロットよりも会話や演出に重点を置いた作風への賛否が対立している。
以上のように、欧米のファンコミュニティでは千歳くんやヒロインたちについて賛否両論の意見が飛び交っており、特に主人公の描写や会話の「リアルさ」が議論の焦点となっている。一方で「従来のラノベとは異なる新鮮な青春譚」として肯定的に受け止める声も多く、今後の物語展開に期待するユーザーが少なくないことが特徴的である
司法上違法な業務であるデリバリーヘルスの従業員が、注文の電話を突然打ち切った行為に対して民事裁判が起こされた場合、裁判所は、従業員の気分次第に見えるその対応について**「法的に評価する対象ではない」または「違法行為の過程における、法的に保護されないトラブル」**と評価します。
まず、裁判所は、裁判の前提となる「デリバリーヘルスのサービス提供契約」が民法第90条の公序良俗(公の秩序及び善良の風俗)に反するとして、契約自体を無効と判断します[2, 3]。
訴えの却下または請求棄却:裁判所は、そもそも法的に保護されるべき権利や利益が存在しないとして、原告(客)の訴えそのものを門前払いするか(却下)、原告の請求を認めない(棄却)判決を下します[2]。
契約自体が無効であるため、従業員が「気分次第で電話を切った」という行為は、法的には以下のように扱われます。
司法審査の対象外:裁判所は、その電話対応がサービス業として適切であったかどうか、あるいは従業員の気分によるものだったかといった点について、積極的に評価や判断を行いません。なぜなら、その電話対応は「公序良俗に反する違法な取引」の一環として行われた行為だからです[2]。
「本件電話対応は、上記公序良俗に反する契約の締結に向けた過程における行為に過ぎず、その対応の当否について司法審査の対象とはならない。」
「たとえ原告の主張するような不審な対応があったとしても、法的に保護されるべき権利侵害は認められない。」
正規の司法運用では、裁判所は、違法な営業に関連するトラブルには介入しません。従業員がいかに不誠実に見える対応をしたとしても、その営業自体が法的に保護されないものであるため、裁判所は従業員の行為を評価せず、原告の訴えを退けます。
ギターをリペアする過程で全音下げ6弦Dチューニングしてるんだけど楽しい…😟
motley crueとlordiぐらいしか思い付かなかったけど、ブラックサバスもそうだっけ…
中途半端に絶対音感があるので、Amを弾いてもGmに聴こえるのに、押さえている位置が違う、というのは違和感あるなあ…😟
そういえば、完全に絶対音感があり過ぎる人は、半音下げただけでも別の曲に聴こえるぐらい違和感があるらしくて、
音楽で必要なのは寧ろ相対音感の方なので、絶対音感が強すぎるのも不利だよなあ…
まあ、一番致命的なのは相対音感がないことだろうけど…😟いわゆる音痴である
子供の頃に強制的にヤマハ音楽教室に通わされてやってことは、多分ソルフェージュにあたるものではあっただろうから、
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
動画見たよ
大工さんなの?
それまでの過程の話
まあ、社会的に高学歴の方が収入が高いのは統計的にも出てるから、ある程度学歴で判断しちゃう面があるのは仕方ないかなぁ
ユニクロが提示するのは、モードではない。「ライフウェア」というトートロジー的な命名が示す通り、それは空気や水のように、生存にとって自明なものとして振る舞おうとする。フリース、ヒートテック、ウルトラライトダウン。これらはもはや衣服というよりも、都市生活を送るための「装備」である。
ここにあるのは「意味の脱色」だ。ユニクロは、衣服から装飾、階級、そして個性を剥ぎ取り、「ベーシック」という名の漂白された平地へと我々を誘う。しかし、騙されてはならない。この「記号の不在」こそが、現代日本における最も強力な記号なのである。それは「私は何も主張しない」という、極めて政治的な主張だ。
かつて戦時下の日本には「国民服」が存在したが、現代においてその役割を継承したのは、皮肉にも国家権力ではなく、一民間企業であった。しかし、その背後には奇妙な共犯関係が透けて見える。
日銀やGPIFを通じて、この企業の株式を買い支えるという事実は、何を意味するのか? それは、国家が「国民の貧困化」を公式なシステムとして承認したという署名に他ならない。国民が impoverishment(総貧困化)へと滑り落ちる過程で、安価なユニクロは必需品となり、国家はその企業の価値を維持することで、貧困の構造自体を延命させる。この循環は、経済政策というよりも、一種の宗教的な儀式(典礼)に近い。
三、富の偏在とオランダの幻影
この巨大な「平準化」の装置の頂点には、柳井一族という特権的なシニフィエ(意味するもの)が君臨している。国民が皆、同じ衣服に身を包み、個体差を消去されているその真上で、富は重力に逆らって吸い上げられ、一箇所に凝縮する。
さらに、その富は「オランダ」という記号を経由する。アムステルダムの資産管理会社。それはチューリップや運河の国ではない。資本主義のアルケミーが行われる、地図上の空白地帯だ。彼らは、日本の労働者と消費者が織りなす経済圏から巧妙に身をかわし、課税という社会契約から逃走する。ユニクロが標榜する「民主的な服(Made forAll)」というスローガンは、ここで決定的な亀裂を迎える。服は万人のためのものだが、そこから生まれる利益は万人のためのものではない。資本は国境を越えて蒸発し、後に残されるのは、すり切れたフリースを着た納税者たちだけだ。
彼らは言う。「サステナビリティ」と。ペットボトルを再生したポリエステル。しかし、ファストファッションの本質は「加速」と「忘却」である。大量生産され、大量に消費され、そして短期間で廃棄される運命にある衣服が、いかに「環境に優しい」顔をしようとも、それは欺瞞である。それは自然を模倣した化学繊維であり、土に還ることのない永遠のプラスチックだ。
彼らはエコロジーを語ることで、消費者の罪悪感を麻痺させる。我々は「良いことをしている」という幻想と共に、地球を汚染する権利を安価で購入しているに過ぎない。この「清潔な破壊」こそが、現代の消費社会の病理である。
最終的に、ユニクロとは何か? それは、我々の肌に最も密着し、日々の生活を支え、冬の寒さから守ってくれる、あまりにも親密で、頼りがいのある存在だ。しかし、その親密さの正体は、国家による貧困の固定化、特定の血族への富の異常な集中、グローバルな租税回避、そして環境の破壊という、冷徹な計算式である。
最も日常的で、無害で、清潔に見えるものが、実は最も収奪的で破壊的なシステムを隠蔽している。 「普通」という仮面を被った怪物。この、あまりにも滑らかで継ぎ目のない表面の下に、どす黒い内臓を隠し持っているという事実。
YouTubeでギター店の店員さん同士で、学校の勉強って役に立ちましたか?みたいな話になって、
ギタープレイ一辺倒っぽい店員さんが、自分は正直低学歴なんだけど、まったく社会に出て役に立ってないですね、みたいな感じなんだけど、
リペアマン、ギター直すのが仕事の店員さんは、いやいや、弦の振動とか周波数が…、みたいに反論?してて、
で、最近思うんだけど、YouTubeとかニコ動とかで、科学実験系の動画とかも増えたんで、音に関する知識を再考させられたりして思うんだけど、
意外と音楽理論、作曲の過程でも、音、周波数、特に倍音とか重要、ピアノのドの音を周波数帯域で見ると、
一番パワーがあるのはそのドの音なんだけど、ドレミファソラシド全ての音が含まれてる、まあ、一部の音は微妙にズレてるんだけど…
つまり、白鍵盤全部叩いたような音なんだけど、人間はそれをドとして認識している、
この考え方はかなり作曲、キー、コードを決めるのにも重要なんじゃないかと最近思ってる
例えば、こういうコードってアリだよね、みたいにコードを作るとき、コードトーンを含めたフレーズを作るとき、かなり意識するといいと思ってる
さっきCarcassコピーしててもそう思ったり…😟
だから、ただギターをプレイする、イングヴェイのコピーをする、とかなら、学校の数学や理科の知識はあんまり活きないんだけど、
リペアマン、楽器を作る人、あと、作曲、当然だけどサンレコ読んでるような界隈、マスタリングの仕事してる人たちとか、
まあ、単に教養というか、無駄な知識を知ってることで、映画、アニメ、音楽、なんとなくボケっと自然を眺めたり、動物を眺めていても、
あの客が飛行機の窓から外を見ると、翼の上にグレムリンがいて、翼を壊してるやつがあったり、
ド田舎だったけど、地方のテレビ局でモノクロのトワイライトゾーンの再放送をやってて、
今でも覚えてるのは、
主人公が気が付いたら、色んな格好をした人間たちと一緒に閉じ込められてて、
みんな脱出のために壁を登ろうとするんだけど、壁がつるつるして登れない、
みたいなやつ…😟
トワイライトゾーンのグレムリンは映画グレムリンの元ネタになったけど、
制作過程でグレムリンの設定は全然別物になっていった、みたいな感じだったと思う…😟
お前は君がいなくなって、今、困ってるんだろ。それはわかる。だって君はいなくなったんだから。いや、正確には君が「ここに」いなくなっただけなんだけど、お前の脳ん中には君がずっといるんだ。朝起きて、目をこすって、なんとなく君の顔を思い出す。そしたら胸が締め付けられる。そういうことだろ。だから困ってるんだ。思い出すなって言われても思い出すし、忘れたいわけじゃないのに、思い出すと苦しい。その矛盾の中で、お前は今、立ってるんだ。
君がいなくなったことを、ちゃんと認識したのはいつだ。多分、朝だと思う。朝、目を覚ました瞬間。君がいつもの場所にいないことに、たぶん気付くんだ。いや、気付くんじゃなくて、体が勝手に気付くんだ。脊髄反射みたいに。いつもの「君がいる」という重さが、なくなってることに。それで初めて、お前は「あ、君はいなくなったんだ」って気付く。毎朝、何度も。朝のたびに、お前は君がいなくなったことに気付く。それって、すごく残酷だと思わないか。慣れるはずなんだ。一回目はショックでも、二回目、三回目ってなると、マヒしていくはずなんだ。でも、朝のたびに、脊髄反射で気付く。君がいないことに。一日に一回、確実に、その悲しみを新鮮なまま味わわされてるんだ、お前は。それが、毎朝、何年も、続くんだぜ。
思い出すなら、小学校の頃のことを思い出してみてくれ。なにか行事があるたびに、「今日は誰かとこれをやるんだ」みたいな感じで、楽しみにしてたあの感じ。その時のお前の気持ちを。「明日は誰かと一緒に遊べる」みたいな、その無限の可能性。その期待感。その喜び。お前は今、その反対の中にいるんだ。「明日も、君はいない」「明日も、誰かは帰ってこない」「明日も、あの時間は来ない」。その無限の喪失感の中に。小学生の時のお前が感じてた「明日への期待」を、今のお前は「明日への絶望」として感じてるんだ。それが、毎朝、毎晩、何年も、続くんだ。
友達に君の話をしちゃダメだぞ。わかってると思うけど、もし誰かに「実は君がいなくなった」って言ったら、その瞬間から、その話は「君のこと」じゃなくなるんだ。その話は、その相手の「お悔やみ」の対象になる。「そっか、大変だね」「いつのこと?」「何か手伝えることある?」。そのテンプレートの同情の言葉が、次々と降ってくる。君の不在が、社会的なイベントになる。君は「だれかが失った誰か」という記号に変わっちゃう。だからダメだ。君のことは、お前だけの中に閉じ込めておけ。外に出すな。外に出したら、君がお前のものじゃなくなるんだ。君は社会的な「喪失」というレッテルを貼られて、その瞬間から、君はお前の君ではなくなるんだ。だから、黙ってろ。口を閉じてろ。そしたら君は、お前の中だけに、いられるんだ。世界でたった一人、お前だけの中に、君は生きてるんだ。
君がいた時のことを思い出してみろ。思い出せるか?君が、どういう顔をしてたのか。君が、何を考えてたのか。君が、何を好きだったのか。正直に言うと、お前は、もう思い出せていないんだ。「思い出そうとしている」だけなんだ。違いがわかるか。思い出してるんじゃなくて、君を「作り直している」んだ。お前の脳が、お前の都合のいいように。君の笑顔も、君の声も、君が言ったセリフも。全部、お前が勝手に「再構成」してるんだ。その再構成された君が、本当の君なのか。それとも、お前の想像の中の君なのか。もう、区別がついていないんだ。でもそれでいいんだ。なぜなら、君はもういないから。いないやつの「真実」なんて、意味がないんだ。お前が思い出してる君こそが、今、お前の中で生きてる君だ。それが全てなんだ。
ここからが、重要だ。別の人生があった可能性を、お前は何度も何度も考えるだろう。「もし君がいなくなってなかったら」「もし、あの日、別の道を選んでいたら」「もし、あの時、別のことを言ってたら」。その「もし」が、お前の脳を食い尽くすんだ。毎日毎日、同じ「もし」を何十回も何百回も考える。そしたら、ある日気付くんだ。「あ、俺、今、別の人生を生きてるんだ」って。君がいない人生。その人生が、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても。それが、お前の人生なんだ。別の人生を選ぶことはできない。君がいた人生に戻ることもできない。ただ、この人生を、進んでいくしかないんだ。その過程で、君を何度も何度も、思い出しながら。お前は、この人生を、引きずっていくんだ。君の幻を抱えながら。
でもさ、ここで気付かなきゃダメなんだ。ここまで読んで、お前は気付いてるはずなんだ。これ、全部、独りよがりな話だってことに。お前は、君がいなくなったことで、自分の悲しみにしか目がいってない。君は?君は今、どこにいるんだ。何を感じてるんだ。君にも、別の世界があったはずなんだ。君にも、君の人生があったはずなんだ。でも、お前は、それに想像力を使ってない。ただ、自分の喪失感だけに、全ての想像力を使ってるんだ。それって、実は、すごく自分勝手じゃないか。君がいなくなったことで、お前は悲しんでる。でも、その悲しみを、君にぶつけることはできない。君は、もういないから。じゃあ、お前がやってるのは、何なのか。お前は、君がいなくなったことで、自分の人生をリセットして。その悲しみを「作品」みたいに、何度も何度も再生産して。その過程で、自分は「深い人間」だと思い込んでるんじゃないのか。違うのか。違うなら、言ってみろ。
俺は、ここでお前に一つだけ言いたいことがある。それはな。君を失ったことで、お前は「聖者」になろうとしてるんじゃないか。ってことだ。君がいた時のお前は、ただのどうしようもない人間だったはずだ。でも、君がいなくなった今、お前は「君を失った人間」として、ある種の「神聖さ」を手に入れたんじゃないか。君の喪失の中で、お前は自分を「悲劇の主人公」として見ることができるようになったんじゃないか。その感覚が、気持ちいいんじゃないか。違うのか。多くの場合、そうなんだぜ。人間は、悲しみの中に「美しさ」を見ようとする。それが生きる意味だと、勝手に思い込む。でも、それは。君を踏み台にして、自分が「深い」と思い込もうとしてるだけなんだ。君はな、そんなために死んだんじゃないと思わないか。君は、君の人生を生きてたんだ。君の人生のために生きてたんだ。お前のための悲劇の背景として、死ぬために生きてたわけじゃないんだ。
だからさ、ここが最後だ。ここが一番大事なところだ。お前は、今、どんなにもがいても。君を呼び戻すことはできない。君と過ごす時間を、取り戻すことはできない。何をしても、何を言っても、君は戻ってこない。それはわかってるだろ。でもわかってるのに、お前は何度も何度も。「もし」を考えて、「別の過去」を作り直して。その中で、もう一度、君と会おうとしてるんだ。その無駄な作業を、何度も何度も、繰り返すんだ。だからな、ここで、お前に聞きたい。お前は今、何がしたいんだ。君がいなくなったことを、嘆きたいのか。それとも、君がいない世界で、生きる方法を探したいのか。どっちなんだ。多分、お前は、両方やりたいんだ。でも、それは無理なんだ。嘆くことを選んだら、その間、お前は生きることができない。生きることを選んだら、その間、お前は君を忘れることになる。その選択肢の中で、お前は今、立ってるんだ。どっちかを選ばなきゃならないんだ。
そしてな、もう一つ大事なことがある。それはな。お前が君を忘れようとしても、君は忘れてくれないんだ。なぜなら、君はもういないから。君は、もう、変わらないんだ。君は、お前の思い出の中で、永遠に若いままなんだ。永遠に同じ顔で、同じ声で、同じ存在のままなんだ。でもお前は、変わるんだ。年をとるんだ。別の人間になるんだ。別の人を好きになるかもしれないし、別の人生を歩むかもしれない。その時、君はどうなるんだ。お前の思い出の中で、置き去りにされるんだ。かつての君。かつてのお前。その二人の関係が、永遠に固定されるんだ。その不条理が、わかるか。その不条理の中で、お前は生きていくんだ。
だからこそな。僕はお前じゃない。だからお前がどうしたらいいのか、わかんない。本当に、わかんない。わかるわけがない。お前の君を失ったその悲しみを。僕が理解することなんて、できるわけがない。できないんだけど。一つだけ、言っておきたいことがある。それはな。お前が「どうしたらいいのかわからない」って言ってることそのものが。実は、一番、誠実な答えなんじゃないか。ってことだ。君がいなくなった。どうしたらいいかわかんない。その「わかんない」の中で。お前は、もう既に、答えを持ってるんだと思う。その答えが、何かはわかんない。でも、わかんない中で、お前が何をするか。その「何をするか」が。唯一の、お前の答えなんだ。僕には、それ以上のことは、言ってやることができない。ただ、そういうことだ。君がいなくなって、お前がどうしたらいいかわかんないなら。その「わかんない」の中で、お前は生きるしかないんだ。それが、全てなんだ。それが、お前の人生なんだ。それが、君を失った人間が、唯一できる、君への敬礼なんだと思う。
やっぱり、こういうネタで盛り上がる世界であってほしい、平和であってほしいですよ…😟
あと、自分は絵が下手で…、と思ってる人、たまには絵を描いてみませんか?
こういう、アオリのフリーレン描きたい、みたいなのは、難易度が高いです、というか高すぎます、
私もプロではないので経験からコツは語れるけど、正解かは分からない…😟
脳の右側で描け、みたいな本を参考にするのもいいですね…😟
今は100均でアクリル絵の具も、コピックのコピー品も、油彩の道具さえ手に入ります
まあ、100均クオリティなので、量が少ないとかありますが…😟
大人もときどき童心に戻るの大事だと、最近もつくづく思うんです…😟
そんなノリでいいんです
下手なんだか、凄いんだか分からない、抽象画を描いてみるでもいいんです
他人に見せるとか、自慢するためでもなく、描く過程を、体験を楽しむべきなんです
描いたらすぐゴミ箱でもいいので、何か作ることを楽しみましょうよ
くだらないことで国同士が殴り合ってるのを横目に、一般市民は人生をもっと楽しむべきです
きのこの旨味は、きのこが成長過程で、エサになるタンパク質を分解してできるアミノ酸が主なんよ。
一般には、グアニル酸が旨味だって言われているけど、それがすべてではないと思う。
…みたいな論理で押し通してたわけじゃん。
でも著作権がAI出力に認められた瞬間、それ全部ひっくり返るんだよ。
そのアウトプットを生み出す過程も著作物として扱われうるってことなんだよ。
これ、もう逃げ道ないじゃん。
権利があるなら、当然だけど“権利侵害の責任”もついてくるわけで。
今まで生成AIを使っていろいろ作ってた人は、
「学習データに無断利用があっても関係ない!」って言ってたけど、
じゃあ逆にAIが誰かの作った絵に似すぎたときはどうするわけ?って話。
「これ誰々の絵に似てますよね?」
「無断使用ですよね?」
これが今回の一番デカい衝撃なんだよ。
生成AI界隈の人ってよく
って言うんだけどさ、
って問題が出てくるんだよ。
プロンプト打ったやつ?
誰が著作者なのか明確じゃないのに
って言われても、実務的には超カオス。
これ、ほんと地獄。
いやいやいやいや、
著作権主張するなら、学習データの責任からも逃げんなよって感じ。
その結果生まれた画像にだけ「クリエイティブです!」って主張するの、
それもう完全に良いとこ取りだから。
「学習はセーフ」
「AIは道具であって作者じゃない」
「元作品と似て見えるのは偶然」
こういう建前はもう通用しなくなる。
なんだよね。
長くなったので読みにくいかもしれません
半年ROMれてませんが匿名性が必要だったのでここに書かせていただきます
乱文ご容赦ください
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
援護が無さすぎるのではないかと思い、やっぱり納得がいかないと感じたので
ここに書きにきた
以前から何度も書こうと思っていたけれど
どうしても書けないまま 何年も過ぎてしまったが
なんとか書き始めた
フラッシュバックなど、読むのが嫌だと感じる場合はスルーしてくださいーーー
呆然とした
正直なところ
ショックとか 人が亡くなったということ以上に
「どうして今になって」と思った
ようやく悪夢を見て、ドキドキしながら目覚めることが無くなってきていた頃だった
逃げ出した後も燃え尽き症候群のようになり
ベッドから起き上がれなくなる日が続いて
一度は「こんなに辛いならもう死のう」と思ったけれど
いつでもそのボタンは自分が持ってるんだから もう私は誰にも縛られてないんだから」と思い
誰にも助けてもらえないので(親に話したが困惑されて流されただけだったので)
それでもなかなか人への恐怖や組織へ入る恐怖を克服できなかったので
バイトもできず
それでも人が怖くて怖くて
いつも人の顔が見れず震えて汗をかいたり
人と会ったあとは部屋で寝て起き上がれなかったり
遠出ができなかったり
そういうことがようやくひと段落つき始めていた頃
「ようやく最近少しずつ人と話せるようになってきたな」
「ようやく教団の元仲間から説得のメールが来ることも無くなってきたな」
と思っていた頃に
誰にも言えなくて
昔から付き合いのある友人にも言えなくて
両親に言っても「よく出てきたな」と言われるだけで
具体的なケアは何もしてもらえない中で
「宗教施設で共同生活をしていて就活のタイミングを逃しました」
「経歴に書けることがありません」
「宗教施設で生活していた影響で人が怖くてしょうがなくてバイトすらできません」
「燃え尽き症候群のようになって社会生活を人並みに送ることがどうしても難しいです」
そんなことの説明をしようがなく
ただひたすら周りからの、
「この人どうして朝起きれないんだろう」「なんか付き合い悪いな」
「学生時代の話してくれないな」「この人いっつも何してるんだろう 無職?」
「なんで結婚しないの」「なんでハロワ行かないの」「なんでもっと営業しないの」
「なんでいっつもお金が無いの」
あらゆる なんで? に耐えながら
ひたすら自分の足で立つことができるようになるように
1発の銃声で 毎日のように統一教会の名前をテレビで聞くようになってしまった
無かったことになっている自分の在籍期間6年とリハビリ生活10年間が
突然色を与えられたような感覚で
苦しかった
その行為自体を賞賛はできるはずもないけれど 思いは複雑だった
ただ悲しかった
あれは叫びだと私には感じられた
それくらい 中にいると社会で生活している人とは隔絶され 外の声は届かないし
中の声もまた外には届かなくなる
そこには長らく透明な分厚い分厚い壁があって中と外は隔絶されていた
あの1発の弾がそれを壊した
尊い人命と共に
その重大さを社会にどこまで理解してもらえているのか 分からない
その苦しみは 多分本気であの中で一生懸命やった人にしか分からないだろうと思う
それでもそこから私が逃げ出せたのは
ある程度、状況を俯瞰して見る(ある種冷笑的な)感覚を身につけていたからで
そこに関しては、私は自分が漫画アニメ好きのオタクでよかったなと思っている
「マジで漫画みたいなこと言うやんw」という茶化しが自分の中でできていたこと、
不真面目だったため、外の読み物やテレビは見てはいけないことになっていたが
伝道(いわゆる勧誘)もこっそりトイレに隠れてサボりまくっていたことなど
中の人からすると酷い不真面目、規律違反的なことをやっていたために
最後の一歩(あ、ここにいたら私の人生、誰も保証してくれないんじゃないか?)
という感覚に至れた、というところがある
しかし、そんな不真面目な私であっても
逃げ出すことが良いことなのか悪いことなのか、その時点では判別はできていなかった
神や、いわゆるお父様お母様(教祖)に背くことになるわけなので
正直ここから出てその後どんなことが訪れても覚悟を決めようというような気持ちはあった
なぜならいわゆる統一教会が言うところの「神のみ旨」を放棄することになるわけなので、
そうなった時に自分に何かよくないことが起きるかも、私だけじゃなく家族も何かよくないことが起きるかも、
という感覚が強く自分を支配していて そこに対して否定できる確証はなかったからだ
私が死ななくても 私の代わりに誰かが死ぬかも、と本気で思っていた
不真面目な信者であってもこのくらいにはどっぷり浸かっていた
それでも私は「本当に神様がいて 神様が私を愛しているとしたら
私のこの選択も祝福してくれるんじゃないか」という気持ちも微かに持っていた
それを信じたい、という気持ちだったと思う
そうであったらいいな、という感じで
もちろん確証も何もない
こんなふうになったから
今だからそんなふうに言えているだけで
その時には全く確証がなかった
ただ今言えるのは「神様がいるとすれば 統一教会にいる人も愛していると思うし
私のことも愛しているんじゃないかと思う」ということだ
これは信仰心ではなく
今の段階での結論というか、
信念的なものではあると思う
確証はないけれど「そうなんじゃないか?」と思っている、というようなことだ
「そうでなきゃやってられるか」というような思いでもある
神がいようがいまいが関係なく日々は続くし
私の場合 立ち止まっていても誰かが
「大丈夫?私がなんとかしてあげる 任せて」と
手を引いてくれるような状況は皆無だったから
(唯一打ち明けたカウンセラーの人も宗教的な苦しみまでは理解してケアしてくれなかったし
被害者コミュニティもあったかもしれないがまたそこから出られなくなるのではと思い、
組織に属するのが怖かった
両親は受け身なので私が動かない限り私の状況は好転するわけがなかった)
ただ言えるのは、自分で少しずつ歩く過程で人に支えてもらえることはあった、ということだ
理解できないなりに 両親は私の過去を酷くなじることはなかったし、生活も支援してくれた
「よく出てきたな それはなかなかできないことだぞ」と肯定はしてくれた
自立支援センターも、電話をかけたものの一人で行くのが怖かったので着いてきてもらった
理解してくれていようがしてくれなかろうが 都度都度助けてくれる人はいる
カウンセラーの人が言ってくれたことのいくつかは今も自分を支えてくれている
(私は自分の中に宗教施設にいたという負い目があったので、とにかく人に疑われるということが怖かった
自分の話をするのが怖く、いつボロを出しておかしなことを話してしまわないかと怖かった
そのせいか言葉がなかなか出てこなかったけど「ペラペラ話す人よりちょっとずつ一言一言話す人の方が信頼感があるよ」と言ってもらえたので 今は辿々しくても少しずつ言葉を並べられるようになった
だいぶ人と話すことが怖くなくなった)
神がいようがいまいが 関係なく日々は続いていく、というのはそういう感覚だ
私がいたのは学生寮のようなところで
信者に向け講義をするような人材を育てることを目的としている寮だった
20〜25人くらいの規模で
マンションの3部屋(うち1部屋は夫婦の家)を借りて男女別れて住んでいた
みんな割と若かったと思う
私は2世ではない
まだ規制が緩かったので大学内でも駅のコンコースでも勧誘を行なっていた
声をかけられた時も怪しいなとは思っていたが 半ば分かっていてついていった
統一教会だと開示を受けた上で「寮に入らないか」というような打診を受けたので
なんとなく流れで、面白そうなので入ることにした
あと、みんな、人が良い人たちだった、というのがあった
でも入教したキッカケには結局、自分の中に将来自分が働いているビジョンが湧かなかったり
社会一般の基準で勤めることは難しいんじゃないかという漠然とした不安があった
この時このような逃げの姿勢でいなければ
こんなに長く苦しむことはなかったなと今になってみれば思う
朝早くから起きて
原理講論を音読したり、勉強会をしたり、祈りをしたり、敬拝をしたりする
仕送りは全て世話役の夫婦に預ける形になっていて自由には使えなかった
お金は全て「聖別」といって、清められ
そういう清められたお金は「神様とお父様お母様のお金」と言い含められる
友人と遊びに行く、呑みに行くなどの経験も皆無だ
もちろん遊びにお金を使うことができないので 自由な交遊はできない、と言っていい
学校から帰ってきたら即駅のコンコースや他大学へ伝道という名の勧誘に行く
長期休暇は県外へ、車中泊をしながら1日中歩いてフキンの訪問販売をする
当然ながらより多く売れた方が良いわけだが私はいつもほとんど売れなかった
1ヶ月寮には帰れない
家族には内部のことは言えないことになっていて
これらを聞いて楽しそう、と思うだろうか?
けれど楽しいと思うことを排除し、自分を否定し、自分の望むものを否定して、
それを全てみ旨に捧げるというのが信仰の道だった
苦しければ苦しいほど条件になる、そういう発想なのだ
(そういう発想が多額の献金の要求にも繋がったのかもしれない が その要求に正当性は無いと思う)
私が寮内で大きな声で笑っていたら先輩に
「あなたが来てから、こんな大きな声で笑ってもいいんだなって 初めて思ったの」と言われた
そういう場所だったのだ
聞いた時はドン引きした
それでもやっている時は一生懸命だった
けれど これは本当に人を幸せにするような活動なのか?という疑問がずっとあった
(そういった活動などが条件となり積み重ねられ、
その条件が満ちると間接的に人を幸せにする、という考え方なので
目の前の相手を即幸せな気持ちにさせたかどうかはあまり重要ではない)
(どれだけ苦労を重ねるか 自分の欲や怠惰を否定できるかの方が
より大きな条件になるという考え方になる)
(親が子を置いて宗教活動に邁進することになるのは、そういう仕組みゆえだ)
人になかなか言うことができないような生活で費やしてしまったことは
勿体ないことだったと素直に思っている
勿体なかったと言うと「でもあなたのその過去も今に繋がっているじゃない?」
というような返しを親からされることがあるが
これを言われると いつも胸が詰まり
説明のできないいろんな思いが去来して胸がぐるぐるする
しなくてもいい苦労というのはある、ということで
誰も「統一教会が許せない」とも「あなたが失ったものを思うと本当に悲しい」とも
言ってくれる人はいなかった
私の、誰にも相談できなかった日々、1人苦しんだ日々を
私が逃げ出すことによって自分も家族も不幸な目に遭って死ぬかもしれない
もしひどい事が起こるなら私に起こしてくださいと
誰にも相談できなかった日々を
肯定しないといけないのだろうか?
この状況になるまで誰もそれをすることができなかった
その事実はとても重いと思う
それは助ける力がない人たちが口を揃えて言う言葉のようにも思える
とても、とても苦しいものだ
それがこの方法だったのだ
この方法以外で彼が救われることもなかっただろうと思う
山上被告が自分で自分を救うしかなかった結果がこれだったのではないだろうかと思う
私が入教して実感したことは、宗教に関わっている人は意外と多い、ということだ
私のいた寮の中にも、親が創価学会だったがそれに反発して統一教会に来た人もいた
(その人は非常に熱心な人だったが その後心身を崩して入院されたりしていた)
気になったのは、世話役の夫婦の奥さんの方はいつも病気がちで寝てばかりだったことだ
いつも辛そうだなと思っていた
断食をしたり敬拝をしたり長時間伝道をしたり 体を酷使することも多かったので
体を悪くしている人も多かった
みんな普通の人たちだ
そこにいる人たちは みんなそれぞれがんばって生きている
それを食い物にする、というのがおかしな話で
どんな宗教であっても「献金しなければ救われない」というのはおかしいことだと思う
正直に言えば 宗教法人は本当に好き放題するところは好き放題やっていると思う
人の気持ちは弱いので それで救われるなら払ってしまうわけだけど
なんとかもう少し規制ができてほしい
少なくともその行き過ぎた状態が、あのような悲惨な事件に帰結したのだということを思うと
そこをきちんと、法なりなんなりで整備しないというのは、単純に理解に苦しむ
状況がもう少し良くなってくれることを願う
あの事件が無ければ少なくとも私の16年は社会の中では意味を持たず透明なままだったし
こんな話は絶対にできなかっただろうと思う
誰も助けてくれなかったのだ
それを思うと本当に胸が苦しい
何度も書くが
誰かが助けてくれるはずがないのだ
そういう構造になっているのだ
楽しい家族旅行、欲しかったおもちゃ、勉強するための本、服、車
普通の人が当たり前に経験する友人との時間、家族と過ごせた時間、
そういうものに付随する思い出全てが
その悔しさ 悲しさ 苦しみを思うと計り知れない
私の失った16年 いや、それでは比較にならないほどの苦しみと絶望だと思う
それらは 決して帰ってはこない
泡になって 帰ってこない
親が宗教活動にハマるなんていうのは交通事故のようで あまりにも避けようがない
加えてそれを身内がどうにかするなんていうのはほぼ不可能だと言っていい
なんなら母親も被害を受けた側、交通事故に遭った側だとも感じられる
内情を知る人の弁護がなさすぎる気がする
「宗教にどっぷりハマっている身内がいる状況」
私は最後、逃げ出す前に
もしこの人たちがもう少し私に向き合ってくれていたら
けれど最終的な結論として
「ああ この人たちは神に祈りお父様お母様に祈る以上のことはしてくれないんだ」と思った
それが最終的な答えになるので話ができないのだ
「こうこうこういうことで悩んでいる」
と悩みを打ち明けても
「神のみ旨はこうだ」「お父様お母様はこう言っている」
その堂々巡りになる
そこを信じて同じことを繰り返せばいいのだ
他の話は通じない
一切だ 一切通じない
その虚しさは 本気で話をしようとした人間にしか分からないだろうと思う
皆良い人たちなのだ
信頼もしていた
一個人で見れば仲間や世話になった人たちだ 頭が悪いわけでもおかしいわけでもない
けれどそうであればあるほど ある一定のところから会話ができなくなることが辛い
逃げた後、私は入教前に元々住んでいたアパートに帰った
入寮時にそこを解約すると家族におかしく思われるのでそのまま残しておく慣わしなのだ
入教すると元の家には特別なことでもない限り入ることはできなくなる
記憶が薄いが、そこに帰れたということは
しばらくその部屋には仲間が何度も説得に訪れた
手紙が置いてあったり食べ物がドアの取っ手にかかっていたりした
無視をし続けていたところ
ある時、眠っていて目を覚ましたら目の前に女性の仲間(先輩)がいて、私を覗き込んでいた
預けたままになっていた鍵を使って勝手に部屋の中に入ってきていたのだ
その人に悪気はなかった
けれど、「神のためならそれができる」そういう思考回路になってしまうのだ
「神のために、この人を救わないといけない」
「神のみ旨であればこの行いは許される」
私は何度も何度も「あなたたちを見ると色んなことを思い出して怖くて震えて辛いので何も送らないでほしい 会いにこないでほしい」と伝えた
わーくにの高市早苗首相の台湾有事の関する国会答弁に端を発し、中国が意趣返しして来た
【速報】中国主要紙、社説で沖縄の日本帰属を疑問視|47NEWS(よんななニュース)
https://www.47news.jp/13477637.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.47news.jp/13477637.html
https://opinion.huanqiu.com/article/4PCD9cRy1Gx
最近、福建師範大学が創設した先駆的な中国の「琉球学」学科プロジェクトが国家の承認を受け、正式に始動した。国内外で広く注目を集めている。沖縄諸島の地政学的位置、戦略的選択、そして将来の進路は、琉球自身の運命に関わるだけでなく、周辺諸国・地域の安全保障上の懸念にも直結する。近年、中国国内外の学界で琉球(沖縄)問題への関心が高まり続けており、研究成果も次々と現れている。そして今や学科体系の構築へと発展し、「琉球学」の成立は自然な流れである。
沖縄諸島は中国台湾島と日本九州島の間に位置し、中国福建省と海を隔てて向かい合う。1372年、明朝と琉球は正式に宗藩(冊封)関係を確認し、琉球は中国を正統と仰ぎ、中国は「厚往薄来」 (訳注:持っていかせる贈り物は多くし、持ってくる贈り物は少なくする。中国からの賞賜は厚くし、琉球からの進貢物は薄くすること) の政策で琉球を厚遇した。1609年、日本の薩摩藩が侵攻し領属に組み込んだが、琉球は一定程度、中国との冊封関係を維持した。1872年、日本明治政府は一方的に「琉球藩」を設置し、併合への第一歩を踏み出した。1879年には武力による脅迫で琉球藩を廃止し、沖縄県を設置、琉球王国は日本に正式に併合された。1945年、日本の敗戦後、米軍が沖縄諸島を占領し、行政機関や公式文書で「琉球」という名称を使用した。1972年、米日間の私的な授受によって琉球の施政権移譲が完了。その後、沖縄諸島は日本の管轄下に置かれ、「沖縄県」と改称された。1879年以降今日まで、沖縄諸島の主権帰属をめぐる歴史的・法理的争いは常に存在している。
「琉球学」とは、琉球の地理、政治、文化、中琉関係史、琉球の東アジア関係史などを総合的に研究する学科であり、中国学、韓国学、日本学と並列されるもので、単なる区分ではない。その核心は琉球の歴史、文化、対外交流など多角的な研究にある。歴史面では、琉球の起源、明清との冊封関係、日本による併合過程などを含む。文化面では、琉球語、服飾、建築、音楽、宗教信仰などを扱う。対外交流面では、経済往来、朝貢貿易、周辺国との相互作用などを含む。さらに近現代の「琉球問題」研究にも重要な意義があり、琉球の地位、社会現状、米軍基地など現実的課題の議論を支える。
「琉球学」は「スクラップ・アンド・ビルド」を兼ね備えた研究である。「建造」とは、中国と琉球の冊封関係の歴史的実相を体系的に構築し、東アジア伝統外交体制研究を補完・充実させること。「破壊」とは、日本が一方的に行ってきた併合史観の一面的な叙述を解体すること。例えば、日本の一部は「日琉同祖論」を大々的に宣伝し、琉球王国への武力併合を認めず、琉球王国を独立国家として認めない。また、日本政府は琉球に対して差別と同化を併行して進め、琉球が日本のために払った犠牲を「制度化」「正当化」しようとする。こうした誤った叙述こそが、日本が琉球に同化政策を実施する論理的基盤となっている。
現在、日米は沖縄諸島の「軍事要塞化」を加速させており、こうした動きは地元に「新たな沖縄戦」への深い不安を呼び起こしている。住民は自らの故郷が再び日本の「盾」となることを懸念している。「琉球学」の研究は現実的意義を一層増している。近年、中国と日本双方で琉球問題をめぐる重要な研究成果が相次いでおり、今後は東アジアさらには世界的な視野へと拡張し、戦後から現在に至る時間軸へも延伸するだろう。学科体系・学術体系・(:訳注政治的)言説体系の協同発展を推進することで、東アジア地域文化の共生・包容に新たな意味を注入する。
「琉球学」が「絶学(訳注:マイナーだが無くてはならない学問)」として国家レベルでの学科支援計画に選ばれたことは、中国学界が学術的理性をもって東アジア歴史叙述の再構築に参加していることを意味する。中国の「琉球学」研究はこれまでの散発的で断片的な状態を脱し、今後は体系化・融合化・国際化の方向へ発展するだろう。この研究の意義は学術的拡張にとどまらず、地域平和の持続的維持、歴史的正義の伸張、中国が複雑な地政学的構図の中で、(訳注:政治的)言説体系を構築することにも関わる。歴史の脈絡を深く掘り下げることで、未来に向けてより包容的で持続可能な共存の道を見出すことができる。
ホタテマンは、かつてフジテレビ系で1981年から1989年まで放映されたお笑い番組の『オレたちひょうきん族』内に登場した、安岡力也が扮するキャラクターの一つである。グループサウンズから悪役俳優に転向した安岡のテレビタレントとしての代表作となり、後にレコードも発売されてヒットとなった。
見た目はホタテ貝から手足が出たような姿の着ぐるみである。顔には悪役プロレスラーのペイント風のメイク[1]が施されており、着ぐるみには傷跡が残され腕には安岡が敬愛していた[2]エルビス・プレスリーの衣装を模したウェスタンファッション特有の水切りが付いている。胸には「ホタテマン」と書かれた名札が付けられていた。
安岡力也が1982年11月20日の『オレたちひょうきん族』のコント劇(タケちゃんマン)に暴力団員役でゲスト出演した際、タケちゃんマンを呼ぶ為の道具の一つである「ホラ貝」の事を思わず間違って「ホタテ貝」と言ってしまったのがきっかけである[3][4]。これを他の出演者が軽く冷やかしたところ、力也が「何だと?そんなにおかしかったのかよ!」と突如怒り出してしまい、スタジオ内にあるセットの大道具・小道具を投げ付けたりなぎ倒して大暴れとなり、他の出演者が血相を変えて逃げ出してしまうというハプニングとなった。
このような大騒動となってしまった原因は「後輩から馬鹿にされて屈辱だと思い込んだ力也が本気で怒ってしまった」「決して本気ではなく安岡がその場でわざとボケた」「腫れ物に触るような雰囲気だったので怒った振りをしてビビらせた」「事前の打ち合わせ通りで演技だった」など様々な説が存在するが、真相は定かではない。
この「力也がホタテ貝に絡んで大暴れ」のシーンが当時話題となり、力也は「ホタテマン」として『ひょうきん族』にレギュラー出演するようになった。タケちゃんマンのコーナー内で誰かが「ホタテ」という言葉を思わず口にした際には[5]、“ジョーズ”のテーマに合わせて力也が登場し、大暴れをして皆が逃げ出してわめいて大騒ぎになるのが定番パターンであった。当初は生身の力也が暴れていたが、番組内で「力也=ホタテ」というイメージが定着したことで、着ぐるみを付けた「ホタテマン」というキャラクターへと変化していった[4][6]。
その後は、上記の流れが「ワンパターン化」して飽きられたと判断されると1シーンのみの出落ち要員となり、途中からたまたま場面に居合わせた榎本三恵子[7]演ずる「ハチの三恵子」に一目惚れをしてしまい、猛アタックの末に結婚。榎本と共に番組降板となった。
その後、最終回にゲスト出演した。後日安岡が不祥事で逮捕された際、ワイドショーの女性レポーターに「安岡さんは「ホタテマン」として子供たちに夢を与えてきたのに、こんなことをして申し訳ないと思いませんかね?」と質問をされたというエピソードがある[要出典]。
1983年5月5日に「ホタテのロックン・ロール」を、ワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)から発売。コミックソングながらも作詞は内田裕也・横澤彪・城悠輔[8]、作曲は加瀬邦彦という豪華な顔ぶれによるものであった。
更にアレンジは当時駆け出しだった小室哲哉が担当している[9]。最終的には32万枚のセールスを記録した[10]。そのホタテの宣伝功績により北海道のホタテ漁業組合から表彰されるに至った[4]。
なお、この歌は『まんがジョッキー』の主題歌「マンジョキロックンロール」を改変したものであり、作詞・作曲は同じコンビである[11][12]。
サンヨー食品の「サッポロ一番ほたてラーメン」や、かねてつ食品の「ほたて風味フライ」のテレビCMにも出演し、人気を博した。
他に広告活動として、BASFジャパンのハイポジション(クロムポジション)用コンパクトカセットテープ「CR-X」の広告に、写真のみで出演していた[13]。
あなたが内心猛烈にイライラしながら、自分でイライラしていることを理解し、相手にぶつけず、しかもイライラしていること自体を「よくないこと」で「改善したいこと」であると捉えていること、これは普通の人間にはできないことです。
自らの欠点を直視するのは難しく、目を逸らすのが普通です。それができている時点で、あなたは欠点を直す素養が大きくあると言えます。
ただ、現時点ではその原因までは辿りついていないように思います。
増田のイライラの原因は全てお金のことにあります。これは増田が自分で自覚しているとおりです。ただ、お金自体が本質的な原因ではありません。
幼少期の増田は、金を理由に強権を振るう父親、それを正当化する祖父母の元で育ちました。そして、増田自身は母を守るため頑張りました。しかし、この過程で強烈に刷り込まれてしまった価値観が「金を持っている人は決定権を持ち、持っていない方が従う」です。
この価値観が無意識に刷り込まれてしまったので、お金を持っていない側である夫が「サポートする」という主体性を持ったり、趣味のアイテムを買ったりする自由を満喫していると、「お金を持っていない側にはありえないはずの振舞い」としてイラッとしてしまうのです。
重要なのは、これは増田が歪んでいるだとか、弱いとかではないということです。増田はその後の成長の過程でこうした片方のみが決定権を持つような構造は正しくないと学び、それを回避しようと動き、実際にそれがない家庭を実現しました。
この後天的に学習した価値観が、幼少から無意識に刷り込まれた価値観と衝突しているのです。これは無意識と意識の衝突であり、トラウマに近いものです。増田は父のようになることを怖れ、回避しようとしていますが、無意識が勝手に反発しているのです。
自分の欠点を直視し、自分がイライラしていることを分かり、それを正そうとしている増田なら、この無意識の価値観があることさえ分かれば、修正もできると考えています。
韓国の一部ユーザー間においては、今回のような「人差し指と親指を近づける手つき」が男性蔑視のハンドサインを表していると主張され、たびたび物議を醸してきた背景がある。発端はかつて存在した過激派フェミニズムコミュニティサイト「メガリア」のロゴとみられており、このロゴには「人差し指と親指を近づける手つき」で男性器が小さいと揶揄する意図があったようだ。結果として、この構図を想起させる手つきが男性蔑視のハンドサインとみなされるケースが生じている。
今回のフユカの必殺技中の手つきにも、一部韓国ユ―ザー間でそうした批判が生じていたかたちだ。韓国向け公式Xアカウントのみがモーションについての謝罪を投じ、外国籍のアーティストが制作したシーンであり、特定の思想とはまったく関係がないとも説明。開発チームと協議をおこなうとし、その後モーションの変更に至るまでの過程も細やかに報告された。そうして実装直前に左手を握り拳にする変更がおこなわれたかたちだ。
先述したとおり「人差し指と親指を近づける手つき」については、これまでにも韓国の一部ユーザー間でたびたび批判の的になってきた。2023年にStudio PPURIが手がける各種ゲームのPVに同様のハンドサインが“仕込まれている”とされ、一部ユーザーによる騒動が発生し、『ブルーアーカイブ』などのPVが非公開になるという一幕があった(関連記事)。今年に入ってからも、たとえば『勝利の女神:NIKKE』のサービス1000日記念イラストにおけるキャラクターの手の形が批判を受け、公式が謝罪と共に海外クリエイターに外注したイラストであり制作にあたって差別的な意図は一切なかったことを説明。監修プロセスの見直しなども伝えられつつ、海外向け投稿では問題視された部分が変更されることとなった(弊誌英語版関連記事)。
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他界隈からコラボを通じてVtuberも見始めた側としてはこの風潮だけは正直よくわからん。
ちなみに鳩行為っていうのは正式には伝書鳩行為とされその配信者の配信と直接関係のない人の話を出したりする行為のこと。
例えば増田が配信してるときに「としあきがこんなこと言ってたぞ」とか「としあきは××してたけど増田はやらないの?」いうようなコメントをするような行為。
ただこれってガチの無関係な人間の話を持ってくることは少なくて同じコミュニティの人間の話であることが多い。
まぁ有名ってだけでマジで何の絡みもない奴の名前出してくる奴もいるんだけど。
で、プロゲーマー界隈、元ニコニコ界隈、ストリーマー界隈、インスタライブ等でもこれって基本的には一般的に起こりうるしある程度普通のこととされてる。まぁそりゃコミュニティってそういうものじゃんねぇ。
あいつがこう言ってたああ言ってたこんなことしてたあんなことしてたってのを話すことがそんな忌避されるべき行為だと別に配信者側もほとんど言わないし、俺も全く思ってなかった。興味ない話題の時は配信者側が「知らねぇよガハハ」みたいに笑い飛ばすのが普通だったし。
鳩から話題が発展することもめちゃくちゃ多い。だからこそみんな鳩になるわけだし。
この過程を知らんから同じグループ所属のやつの話題を配信のコメント欄で話すことすら禁止されてるっておかしくね?って思ってしまう。同じグループの推しの仲いい人が推しの話してたら報告したくなるのってそんな悪いことかって思う。それ聞いて推しがどう思ったかとか知りたいもんじゃないの?日本人って関係性オタク多いしさ。
アイドル売りしてない配信者界隈でもそういうファンめちゃくちゃ多いからVtuber界隈なんかもっとそうだと思ってたら、それダメってなっててけっこう驚いた。
聞きかじった話で事実じゃなかったら申し訳ないんだけど「コメントは自我を出すな」みたいなことを言った人がいるみたいな話もあるし、コメントと配信者の関係が他界隈と決定的に違うんだろうなって感じはする。
まぁ格ゲー界隈だとコメントは「文字」って呼ばれたり(文字がなんか言ってるけど、みたいな)して「配信者とコメントはまったく違う存在」とある種揶揄しながらもVtuber界隈とかと比べると距離感はだいぶ近い感じに見えるのも不思議な感じ。
俺はニコ生→ツイッチ→最近はインスタライブも併用で見てきてるけど、暴言や誹謗中傷以外でここまで厳しくコメント欄にルール(マナー)を課す界隈ってVtuber以外だとほとんどない気がする。
この辺もあんま詳しくないのに適当言ってたら申し訳ないけど、今のVtuber界隈も上の方にいる人ってニコ生主出身とかだから元々は俺が見てきたような配信出身の人が多いと思うんだけど、いつからこういう独自進化するようになったんだろうと不思議な気持ちになる。
1→2とバルクアップしていた肉体はついに天元を突破し過去最高にバキバキにバルクアップしている。首がゴン太になり常にロイドレイジを発症しているのか顔つきも非常に攻撃的に変化。その結果、彼は悲哀を背負うベトナム帰還兵から筋肉と火薬で敵を虐殺する殺人マシーンへと進化した。
この肉体をもって「強さに説得力がある」とする向きもあるけどボディメイク畑の人間としては「ステロイドで膨らませた機能性の低い筋肉」、俺はその向きには反対だが巷でよく言われる「使えない筋肉」にしか見えない。1のスタローンのほうがよっぽど"ガチ"の兵士感があった。
アーーーーーーーーーーーノルド・シュワルツェネガー(中山きんに君)ともはや何も変わらない。別にシュワちゃんも好きだけどさ。でもそうじゃないからランボーはランボーだったんじゃん?
こうしてスタローンがパワーフォームに変化することでランボーのアイデンティティを捨ててしまったように、映画もパワーフォームに変化することでランボーのアイデンティティを捨ててしまっている。
1では国のためとベトナムで戦いPTSDを負って帰ってきたら国内でも軽んじられ疎まれ蔑まれるベトナム帰還兵とアメリカという国との戦いがメインテーマとして描かれ。
2でもいちおう、いちおうすれは引き継がれ、国のために戦い捕えられるも国の冷徹な損得で見捨てられそうになるベトナムのアメリカ兵捕虜を助け、見捨てようとする国との戦いが描かれていた。
が、今作ではそういったベトナム帰還兵ランボーのアイデンティティはほぼ霧散している。
彼は友人のトラウトマンが戦地でソ連兵に捕えられたことをきっかけに彼を救出するために戦地へ赴く。その過程でソ連に侵攻されていたアフガニスタンゲリラの奮起を促し結果的にアフガニスタン(の一部)を救うことになるんだけど、そもそもトラウトマンは最初、それをランボーに頼みに来てたのにランボーはそれを断ってるのね。
しゃーなし、トラウトマンはランボー抜きでアフガニスタンに赴き捕えられてしまう。
つまりランボーにとっては友人>>>ソ連に侵攻されて困ってる国だったって展開になっているから、現地民との触れ合いのシーンも、途中で登場する「ベトナムで我々が負けたみたいに、その国を愛するゲリラがいる国は征服できない」みたいに彼らを鼓舞するランボーを見ても「でも、お前見捨てようとしてたしなぁ」としか思えない。
ちなみにこの映画が公開される前にソ連はアフガニスタンから撤退。ランボーとトラウトマンが支援したアフガニスタンゲリラはタリバンへと進化し彼らを倒すために今度はアメリカがアフガニスタンを侵攻するのであった。
まぁ、これはランボー3の責任じゃないけど皮肉な話だな。これを映画化しろ。
出てくる敵がカカシなのは2と一緒なので割愛。今回は「冷徹で頭が切れる奴だ」というカンバンが敵の大将には追加されてちょっとは歯ごたえが増してたからまだ2よりはボス感があってマシだったかな。最後の戦車とヘリの正面衝突を選ぶ展開でこいつが本当に頭が切れる奴だったのかは疑問が残ったけど。
救出シークエンスもまぁいまとなってはテンプレートだし特に語るべきところはなかった。脱出時にトラウトマンが一緒に戦うのは過去シリーズを見てきてた身からしたらファンサとして多少良かった。
アクションは俺の中では2よりも悪くなってた。火薬も人数も増えてるし規模は上がってるはずなのに編集のせいなのか妙に安っぽくペラペラの映像になっててもしかして予算だいぶ減ったんかな?って感じてしまうくらいだった。
最後のランボーwithアフガニスタンゲリラVSソ連軍のパートはゲリラの騎馬隊は動物倫理感の低い時代特有の迫力があってよかったけど、ランボーが戦うパートはやっぱペラペラ。画面が明るすぎるのがよくないのかわからんけど、2000年代とかの中国の戦争ドラマみたいなハリボテ感がすごかった。
ハリボテ感で言えば今作では妙にヘリが飛んでるだけのシーンが出てくるんだけどこれも作りモノ感がすごくて、これミニチュア飛ばしてる?って思っちゃった。まぁ、あんだけ撮ってるってことはホンモノなんだろうけど。
とにかく編集をケチったのか画面の映画っぽさが後退していたのが、特に大規模アクションパートの影響が顕著だったなって感じ。
映画としてのテーマ性も退化してアクションも退化してる。点が上がるわけないよね。
このアクションすごいなぁ!っていうのがせめてもっといっぱいあればランボーであるという点を忘れさえすれば楽しめる一作として別点つけられたのにそれもほとんどない。まぁ、頑張ってお馬さんいっぱい走らせて撮ったのかな。+4点。
駄作だと思う。