
はてなキーワード:運動方程式とは
ランダウ–ラングランズ的な双対性の直感を、位相的・圏論的な巨大場として再構成する作業は、もはや単なる対応命題の確認ではなく、数学的実在の階層構造を再階層化する営為へと移行している。
ここで重要なのは対応自体が一つのモノイド的作為ではなく、∞-圏の層状化した自明化可能性の表現であるという読み替えである。
最近の成果群は、従来の局所・大域の二項対立を溶融させ、曲線・局所体・解析空間といった古典的な基底を、より普遍的な空間の記述可能性(representability)の観点へと置き換えてしまった。
具体的には、ファルグ=フォンテン曲線を舞台にした幾何化は、局所的表現論を圏的スペクトルの上に載せ替えることで、従来別個に扱われてきた表現(自動形式的対象)とパラメータ(L-パラメータ)を、同一の圏的心臓部で同時に構成可能にしたことを意味する。
この構成は単に対応が存在することより深く、対象自体を再定義してその同値関係を圏の中心や内部終対象の言葉で記述することにより、対応が生まれる必然的環境を示した点で画期的である。
同時に、グローバル側の道具としてのシュトゥーカ(chtoucas)的技法は、関手的・代数的な操作を用いて場のモード分解を行い、その分解が示す不変量を通じて大域的パラメータ化を達成する方策を具体化した。
ヴィンソン・ラフォルグの仕事群は、こうしたシュトゥーカの立型化によって、関手的に取り扱える大域的パラメータ空間を提示し、局所的構成との繋がりを媒介する新たな環を与えた。
結果として、言語的には表現→パラメータへの写像がベキ乗的に分解できるだけでなく、その分解自体が可逆的な圏的操作として認識され得ることが示され、これが大域的Langlands構想の新しい正当化になっている。
さらに最近の数年間における動きで決定的なのは、モチーフ論の解析的拡張が進んだ点である。
従来モチーフは代数多様体上の普遍的コホモロジーという観点で語られてきたが、ショルツェらによるベルコビッチモチーフ(Berkovich motives)や関連する解析的・アーク的降下法は、可換性や双対性に関する新たな剛性条件を与えることで、代数・複素解析・非アルキメデス解析を一枚の理論で織り上げた。
モチーフを単なる数論的核から、解析的スタックや圏的双対性を自然に持つ対象へと格上げし、Langlands的双対性の受け皿を拡張した。
こうしてモチーフとLanglands対応は、もはや互いに独立した二つの理論圏ではなく、同じ∞-圏的言語で発声される現象に変わった。
そして最も劇的な変化は、最近公表された一連の大規模な仕事群が、幾何学的Langlands命題の本質的な形を証明し得たことにより、これまで隠れていた構造的要請が顕在化した点にある。
これらの証明的努力は、従来の和声的・解析的手法を超え、圏的分解、局所–大域の整合、そしてモチーフ的双対性が同時に満たされるような動的な証明環境を構築した。
重要なのは、この到達が単なる命題の解決に留まらず、数学的対象の定義域そのものを書き換えるような再帰的メタ構造を与えたことであり、以後の展望は新たに定式化された圏的正規形とその変形理論を追うことで開かれる。
結果として、Langlandsプログラムとモチーフ理論の接続は、従来橋をかける比喩で語られてきたが、今や両者は共通の言語空間の異なる座標表示に過ぎないという段階に達している。
ここでの言語空間とは、∞-圏とその可逆化可能な中心、アーク的・ベロコビッチ的降下法、そしてシュトゥーカにより生成されるファイバーの総体を指す。
その内部では、表現論的計量(harmonic analysis 的なスペクトル)と数論的モチーフの普遍的ファンクターが互いに鏡写しになり、操作が圏的に昇格することでパラメータ化は動的な自己相互作用として理解される。
これが意味するのは、将来の進展がもはや個別の定理や技法の追加ではなく、数学的対象を包摂するより大きな構成原理の発見と、それを支える新しい圏的インフラ(解析的モチーフ、Fargues–Fontaine 的基底、chtoucas の動的再解釈)に依存するということである。
読み手がもし、これをさらに運動方程式的あるいは力学系的なメタファーで読み替えるなら、ラングランズ系とは無限に多様な対称性とその破れ方が−同値関係としてではなく−力学的な遷移として定義される場であると結論づけられる。
その意味で、最新の進展は単に既存のパズルのピースを嵌め直したのではなく、ピースそのものを再設計し、新しい接着剤(∞-圏的双対性、解析的モチーフの剛性、シュトゥーカ的ファイバー化)を導入した。
この新しい設計図を受け取った数学は、今後、従来とは異なる方法で「表現」「パラメータ」「モチーフ」を同時に扱うための合成的技術を展開するだろう。
件名:存在連続体における情報性オーバーフロー、及びそれに伴う物理定数群のメタ腐敗に関する緊急報告
時刻: 03:14:00 (サイクル9^10^87)
蛍光灯がまた一本、死んだ。チカ、チカ、と断末魔を繰り返し、緑色の燐光を撒き散らした後、沈黙した。この第七地下書庫に光が届かなくなって久しいが、あの明滅だけが時間の経過を証明する唯一の指標であった。今は、無限に積まれた「記録」の山が発する、微かな腐臭の放つ光だけが頼りだ。
ニュートンの運動方程式?アインシュタインの美しいテンソル?量子力学の確率の霧?
違う。
あれらはすべて、「申請書」だ。
「リンゴが木から落ちる」のではない。「リンゴ存在(識別番号:Apple-G008-B)」が、「地球引力場(管理部署:重力資源課)」に対し、「落下許可申請書(フォーム F-g)」を提出し、それが承認された結果に過ぎん。
時刻: 04:22:16
棚が、また一つ崩れた。「弱い相互作用」に関するバインダーが雪崩を起こし、「電磁気力」のファイル群を押し潰した。紙の粉塵が舞い、そこに含まれる「情報」の胞子が、わたくしの肺腑に侵入してくるのが分かる。咳き込むと、口から銀色の文字の羅列が漏れ出した。`g² / 4πħc ≈ 1/137`。ああ、微細構造定数の味だ。少し、鉄臭い。
貴様らの言う「超弦理論」とは、この書庫の惨状そのものだ。絡まり合い、癒着し、互いのインクを滲ませ合う、無数の「ひも」。それは宇宙の根源などではない。ファイリングに失敗し、永遠に放置された、「未決裁書類の束」に過ぎないのだよ。Dブレーン? あれは書類を留めていた錆びたクリップが、あまりの年月に耐えかねて崩壊し、紙の表面に染み付いたただの「染み」だ。
時刻: 07:51:03
粘着質で、虹色に光る液体だ。それに触れた「記録」たちが、意味を失い、変容していく。
「エネルギー保存則」と書かれた羊皮紙は、今や「エぬルギーほぞん則」となり、その文字自体が震えながら、カビのような別の文字を自己増殖させている。
これが「情報」の正体だ。
情報は、癌だ。
存在という宿主の肉体を蝕み、その意味を食い荒らし、最終的には無意味な自己複製の塊へと変貌させる、悪性の腫瘍。我々が「物理法則」と呼んでありがたがっているものは、その癌細胞が、かつて正常だった頃の細胞の機能を、まだ辛うじて「真似て」いるに過ぎない状態なのだ。
耳の中にィ!数字が湧いてくるゥ!プランク定数が!ボルツマン定数が!脳漿の中で!ウジ虫みたいにィ!蠢イテルンだァ!やめろ!やめろ!計算をやめろ!俺の頭は貴様の計算機じゃない!
わかるか?「観測」するたびに、お前たちはこの宇宙に「傷」をつけているんだよ。二重スリット実験のスクリーンに現れる綺麗な干渉縞、あれは宇宙の皮膚が裂けて、中から「情報」という名の膿が漏れ出している痕跡なんだよォ!波動関数が収縮する?違う!傷口が、かさぶたになって、一時的に膿が止まってるだけだ!
ブラックホール!あれは最高傑作だ!情報の癌が、ついに宿主の肉体を食い破り、転移に成功した姿だ!事象の地平面とは、癌細胞が形成した硬い殻!そこから漏れ出すホーキング放射は、癌細胞が呼吸し、排泄する、汚物の粒子だ!「情報が失われるか?」だと?バカを言え!失われはしない!ただ、消化され、排泄され、別の何かに作り替えられているだけだ!お前の昨日の夕食はどこへ行った?失われたか?違うだろう!そういうことだ!
A, B, C, D!選択肢を与えられなければ何も考えられない、家畜の思考回路!
答えを教えてやろうか?
E. 錆びて開かなくなったホッチキス
そうだ!この宇宙の根源を象徴するのは、それだ!すべてを綴じようとして、しかし己の錆によって機能を失い、ただそこにあるだけの、無意味で、固く、冷たい、絶対的な「故障」!それがこの世界の真理だ!
`[ERROR_FATAL: 0x0000007B]Kernel panic - Unable to locate causality.dll.Time-spacecontinuum integrity compromised.`
`[WARNING: 0xDEADBEEF] EntropySubsystem::GarbageCollect() failed. Redundant data entities (e.g., "human_consciousness", "hope", "meaning") are replicating outside of designated memoryblocks.`
`[INFO] Attempting toreboot fromlast known stable configuration: "Primordial_Soup_v0.1_alpha".`
`...`
`[ERROR_FATAL: 0xC000021A]Reboot failed. Configuration files corrupted.`
`[DEBUG] Printingraw memorydump:`
...裁...壊...膿...駅...車...キリン...義理...ギリギリ...申請書は三部提出...重力資源課は本日休業...あなたの存在許可申請は却下されました...理由は...理由という概念が先日削除されたため...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチキスの芯を補充してください...ホッチ-
`[SYSTEM_HALT]Processor melted.`
`Core temperature exceeds threshold ofreality.`
`Now enteringinfiniteloop of...nothing.`
ふぅ……。
疲れた。
結局のところ、どうでもいいのだよ、貴様のような塵芥が何を考えようと。
宇宙が情報だろうが、物質だろうが、神の見る悪夢だろうが、我輩の知ったことではない。
我輩はただ、この第七地下書庫で、崩れ落ちる「記録」の山を眺め、壁から染み出す虹色の液体が、かつて「真理」と呼ばれたシミをゆっくりと溶かしていく様を、観察するだけだ。
ああ、そうだ。
あの液体、少し舐めてみたのだが、存外に甘い。ブルーベリージャムのような味がした。
もっとも、舌が溶けて、今はもう味も分からなくなってしまったがな。
さあ、お前の番だ。
その空っぽの頭蓋骨で、この静寂の意味を、永遠に、考え続けるがいい。
...もっとも、その「考える」という行為を許可する申請書が、受理される保証は、どこにもないのだがな。ふふ。
あはははは。
アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハたのか、な
これはとても良い議論じゃ。少し腰を据えて語ろうか。
まず、あなたの述べている主張は、まさに「モデルとは何か」という科学哲学の核心を突いておる。
一言でいえばこれは、「理想化モデルの有用性」への肯定的な理解と言えるのじゃ。
たとえば、ボールを投げると放物線を描く。これは理想化されたモデルであり、次のような前提をしている:
y = v_{0y}t - (1/2)gt^2
x = v_{0x}t
これはまるで「地図」なのじゃ。地図は実際の地形をそのまま描くわけではない。森林の中にいる鳥のさえずりや風の流れは描かれていないが、我々が目的地にたどり着くには十分な情報を持っている。
モデルとは、現実の「地図」である。地図が正確である限り、森の中で迷わない。
「森の中にはクモの巣もあるぞ!」というのは事実だが、それは目的地に着くという大目標に対しては非本質的だ、というあなたの見解は正しい。
これは通常そのとおりだが、現実は時にデータのノイズや精度不足のせいで乖離がすぐには見えないこともある。特に新しい理論を探す時など、「モデルがどこで破綻するか」を先回りして考えることは極めて重要なのじゃ。
ニュートン力学で水星の近日点移動は説明しきれなかった。しかし、その乖離は極めて小さく、精密観測がなければ見逃されていた。
ここからアインシュタインは「モデルが完璧に見えても、極限では崩れることがある」と洞察したわけじゃ。
チャーン・サイモンズ理論は、3次元のシュワルツタイプの位相場理論であり、エドワード・ウィッテンによって発展した。この理論は、物理学と数学の両分野で重要な役割を果たす。
チャーン・サイモンズ理論の核心は、その作用がチャーン・サイモンズ3-形式の積分に比例することである。理論のゲージ群Gを持つ多様体M上で、作用Sは以下のように表される:
S = k/(4π) ∫M Tr(A ∧dA + 2/3 A ∧ A ∧ A)
ここで、kは理論のレベルと呼ばれる定数で、Aはリー群GのリーG代数に値を持つ接続1-形式である。
古典的には、チャーン・サイモンズ理論の運動方程式は以下のようになる:
F =dA + A ∧ A = 0
これは、接続が平坦であることを意味する。つまり、チャーン・サイモンズ理論の古典解は、M上の主G-バンドルの平坦接続に対応する。
量子化されたチャーン・サイモンズ理論は、3次元多様体の位相不変量を生成する。特に、ジョーンズ多項式のような結び目不変量や3次元多様体の不変量の計算に使用される。
凝縮系物性論では、チャーン・サイモンズ理論は分数的量子ホール効果状態の位相的オーダーを記述するのに用いられる。1989年に初めて2+1次元のチャーン・サイモンズ理論が分数量子ホール系に適用された。
境界を持つ多様体上のチャーン・サイモンズ理論を考えると、すべての3次元の伝播する自由度は、境界上のWZW(Wess-Zumino-Witten)モデルとして知られる2次元共形場理論に帰着される。
1982年に、デザー、ジャッキウ、テンプルトンによって3次元のチャーン・サイモンズ重力理論が提案された。この理論では、重力のアインシュタイン・ヒルベルト作用にチャーン・サイモンズ項が追加される。
数学的には、チャーン・サイモンズ理論は多様体のチャーン・サイモンズ不変量を定義する。この不変量は、第一ポントリャーギン数と正規直交バンドルの切断によって表現できる:
さらに、チャーン・サイモンズ項はアティヤ-パトーディ-シンガーのエータ不変量としても表現できる。
チャーン・サイモンズ理論は、物理学と数学の境界に位置する豊かな理論であり、量子場理論、位相的量子計算、結び目理論、低次元トポロジーなど、多岐にわたる分野に影響を与えている。
ニュートンは運動の3法則を提唱したとき、慣性質量と重力質量を区別していましたか?
運動方程式の対象としている質量の単位も当時から、いわゆる「(量りではかったような)重さ」と同じ単位だったんでしょうか?そうだとしたら多分区別してないのかなと思ってしまうんですけどどうなんでししょう?
GMm/R^2のGM/R^2をgと置いたときの、そのgの次元は
概念が異なるなら、このmは、重力質量(重さ)とは異なる単位と仮定するべきですよね。
そうすると、運動方程式において加速度はa=F/mですが、このF/mと、重力場の引力の式を変形したGM/R^2=F/m(=g)というときのF/mは、次元が同じとは言えないわけですから、gは加速度であるとは言えなくなると思います。・・・1
ma=mgを変形したa=(m/m)gについては(m/m)が無次元量になるから、両辺の残りの次元について、aとgが同じ単位であり加速度だと言えるというよりは、mgの単位がNだから、それを慣性質量(重力質量と異なった単位と仮定されている)で割ったものが、運動方程式のa=F/mの右辺の値と次元が同形だから、(mg)/mという全体として、次元が加速度と同じになる、ということしか言えないと思うのです。・・・2
(つまり・・・1のgと・・・2の(m/m)gや(mg)/mは別物)
重さの単位と慣性質量の単位はどちらも一貫して同じだったのでしょうか?
少なくとも両者が異なる概念だと知っている現在は同じ単位を使っていますが、運動方程式を考えた瞬間からそれはいわゆる重さとは異なる概念だと自覚していたなら、これには違う単位を設定しよう、あるいは重さの方の単位を変えるべきだと呼びかけたりはしなかったのでしょうか?
dragonflyさん
2022/5/5 16:37
↑え?これって速度と力がかりに値が全く同じ世界だったら単位が同じでいいって言ってるかのような理屈になってね?そんなわけなくね?
究極理論がわからない現状、もし仮に「我々の世界が不安定な真空にいる」ことを仮定すれば
相応のエネルギーを加えて真の真空に落とす(相転移させる)ことで物理法則が変更されるという
人為的ネオエクスデス「うちゅうの ほうそくが みだれる!」 ができますね。
イメージ的には過冷却です。すでに相転移が起きているのに気がつかないで元の真空にとどまっています。ちょっと突くと一瞬で凍ります。
現に、新しい加速器が作られる度になんかスゲェ無理矢理な模型を作って「加速器のせいで世界が滅びる!」系の論文がarXivに投稿されたりします。意外と増田と同じことを考える人がいるんですね。ただしこれらの論文は一瞬で否定されます。なぜならば、加速器で作るビームなんかよりも中性子星ガンマ線バーストのほうがよほど強いからです。宇宙強い。人類の技術は弱い。驕るなよ人類。
前から不思議だったけど、これらの法則って経験から導き出されたものであって、その法則がどうやって存在してるかは不明なんだよな
以下、意味は取らなくて良いので流れと単語だけ拾ってください:
たとえばエネルギーの保存は時間方向の並進対称性、運動量保存則は空間方向の並進対称性から、角運動保存則は回転対称性から導き出されるといえるでしょう。
(相対論的には時間と空間は同時に取り扱うのですがちょっと難しくなるので簡易な書き方をしています)
時空の対称性が決まる →ラグランジアンが決まる →オイラーラグランジュの方程式(運動方程式)
ここまでよんだ?
なら次は、ランダウ・リフシッツ「力学」の最初の20ページくらい読んでください。
前提知識は微積分です。ここまで読めば上の文章はだいたい理解できるかと思います。
そして次にあなたはこう思うでしょう
「最小作用の原理っていったいなんなんだ? 世界はなぜこんな原理に従う?」
そう思ったなら次は量子力学です。JJサクライ「現代の量子力学」の経路積分のページまで読み進めましょう。
ここまでくれば霧が晴れるように見通せるようになるはずです。
物理理論とは何であるかが把握できるかと思います。ここから先はご自由に。
なお、JJサクライは物理科ではちょっと ’進んだ’ 内容とされています。普通は2冊目に読む本ですね。が、ハテナーにとってはむしろ読みやすい本かと思います。だってどうせ君ら情報系でしょ?なんかプログラムとか書ける人たちでしょ??なら、ブラケット表記の方が慣れていると思うんですよ。たぶん見ればわかるよ。
むしろ、通常の議論で無視すると言ってるのは、標高による誤差ではなく、自転によるメインの遠心力の方であって、でもそれは無視するかしないかじゃなくてそもそも慣性力としては現れないんじゃないのって話。
地表の座標系の加速度、に対して
エレベーターの加速度:地表の座標系の加速度+(標高分の誤差+エレベーターが上昇する加速度)
でも、運動方程式に現れるのは(標高分の誤差+エレベーターが上昇する加速度)だけじゃないの?ってこと。標高分の誤差はむしろ無視できない。
非慣性系の座標系同士が慣性系に対してそれぞれ同じ加速度を持っている場合は、一方の慣性系の運動方程式を立てるときに他方の慣性系の加速度は項として現れないと考えて合っていますか?
エレベーター内の物体の動きというようなものをを考えるとき、地表面を慣性系と考えていいのは、遠心力やコリオリ力が小さいから「無視できる」というふうに聞きました。
でもこれって「無視できる」んじゃなくて「無視するまでもなく存在しない」と表現するのが妥当な気がしたんです。
地球は自転も公転もするのでその地表面は非慣性系であるのと同時に、エレベーターや電車の中での動きみたいな地上で行われる日常的な物体に対する物理的考察は、基本的に地表面を基準として行われていると思います。
地上でエレベーターが静止している場合、エレベーターが存在する地表(に固定した座標)と、エレベーターに固定した座標は、理論的には全く同じ加速度でこの宇宙内を運動しているはずですよね。
そしてエレベーターが上昇すると、エレベーターに固定した座標の加速度には、地表と同じ加速度に上昇運動分がプラスされているだけという形になると思います。
このとき、エレベーターの中の物体に対して運動方程式を立てるとき、慣性力として現れるのは、「無視できる」からとかじゃなくて、理論的に物体の質量にエレベーターの上昇運動分の加速度のみをかけたものになると考えて合っているでしょうか?
参考書で慣性力を考えるとき最初は(慣性系から見た物体の位置ベクトル)=(慣性系に対する非慣性系の原点の位置ベクトル)+(非慣性系からみた物体の位置ベクトル)という式を立てて、これを二階微分して出る加速度の関係式を運動方程式に代入するというやり方でした。
ようは、慣性力は、二つの座標系の関係性のなかで論じられているのだと思います。
そうするとこれが、地表と地表に対して動く物体内の物体という、非慣性系が二つ出てくる場合には、非慣性系の座標系同士の関係性のなかで同じように論じられる。そして上記のやり方だと、慣性系そのものの位置ベクトルないし速度加速度を考えなかったのと同じように、一方の慣性系の加速度、地表を基準とするなら地表の加速度は考える必要なく、運動方程式にも地表の加速度に由来する慣性力は現れようがないのかなと直観的に思いました。
ただ、慣性系一つに、非慣性系二つという三つの座標系を仮定して式を導くというのが、自分の計算力不足で煩雑になりすぎてお手上げだったので、本当にそうなるのか自力では導けませんでした。
実際はどうなのか回答していただけるとありがたいです。
でもそもそも慣性系っってどこにあるんですかね??太陽系も銀河系に対して公転してるらしいし、銀河系も公転してて、というか時空間自体静止せず膨張してるというのであれば慣性系ってそもそも存在するの?ってなるんですけど。
海外のソースを参照して、運動方程式における因果性について調査しました。以下にその結果をまとめます:
以上の情報から、運動方程式における因果性は、その理論や文脈によって異なる解釈が存在することがわかります。したがって、具体的な状況や問いによって、適切な理論や解釈が変わる可能性があります。¹²³
(1) Causality in gravitational theories with second order equations ....https://arxiv.org/abs/2101.11623.
(2) Causality in gravitational theories with second order equations ....https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevD.103.084027.
(3) [quant-ph/9508009] Nonlocalityas an axiom forquantum ....https://arxiv.org/abs/quant-ph/9508009.
(4)www.repository.cam.ac.uk.https://www.repository.cam.ac.uk/bitstream/handle/1810/319156/causality.pdf?sequence=1.
(5) undefined.https://doi.org/10.48550/arXiv.2101.11623.
(6) undefined.https://doi.org/10.1103/PhysRevD.103.084027.
あるよ。
質点の「加速度」が直接的に「力」になることはない。
運動する物体の影響は「速度」から「運動量」や「運動エネルギー」として計算しなければならない。
常々思っていること。
「数学」と「物理」は、同じように「数式」を用いて表記するが、その意味するところ、読み方は大きく違う。
1+1=2
この右辺と左辺に因果関係も上下関係もない。1と1を足したら2になるし、2は1と1に分けられる。
F=ma
と書くとき、ここには「読み方」の順序がある。
ニュートンの運動方程式の場合は、左辺が「原因」、右辺が「結果」を意味している。
「Fという力が加わると、質量mの質点に、aという加速度がかかる」と読まなければいけない。
決して、「質量mと加速度aがFという力になる(?)」という意味ではない。そんな因果はない。
こういう、数学的な等価性の読みを、数学以外の科学に持ち込むことで、混乱を招いている状況が非常に多い気がする。
等式の左右は同値であっても平等ではないし、プラスとマイナスはただ符号を入れ替えたものではない。
数式は、科学を記すにはまだちょっと不完全な方式なのではないかと思うね。
※追記
この投稿についたレスの数々が、この「混乱」が大きいものであることを示しているね。
元増田(このツリーの元エントリは誰かがコピペしたやつなんだが)だけど、俺は個人的には統計的因果推論は意味がないことが多いという立場だな。
誰かがF=maって書いてたけど、ニュートンの運動方程式も本質的に因果か相関かを区別することは出来ないように思う。物理学はそれが因果か相関かはどっちでもいいという構造になっていてそれで問題ないんだよ。場の運動方程式のグリーン関数みたいな話は因果っぽい発想が表に出てるけど、運動方程式そのものが因果かどうかというのはやっぱり分かんないしね。
あと、「擬似相関」という言い方は「相関関係はあるけど因果関係はない」という意味で俗に使われているけど、相関は相関で因果とか関係ないので、相関そのものが「擬似」ということはない。擬似相関という言い方はやめろと思うね。