
はてなキーワード:進歩とは
今般の衆院選での中道の惨敗を受け、「なぜ若者の多くはリベラルなのに、リベラル政党に投票しないのか」という議論が盛んに行われているが、一点忘れられている前提がある。それは、「自民党は1955年の結党時から理念的にはリベラルでもある」という点である。
『党の性格』https://www.jimin.jp/aboutus/declaration/
わが党は、土地及び生産手段の国有国営と官僚統制を主体とする社会主義経済を否定するとともに、独占資本主義をも排し、自由企業の基本として、個人の創意と責任を重んじ、これに総合計画性を付与して生産を増強するとともに、社会保障政策を強力に実施し、完全雇用と福祉国家の実現をはかる。
しかし、そうすると55年体制のもう一つの雄、旧社会党は理念的には何を目指していたのか。それは資本主義下の福祉国家を否定し、日本の社会主義化を合法的、平和的に目指す政党であった。
http://roudousyaundou.que.jp/syakaitou_015.htm
<中略>
したがって、福祉国家論に対する闘いは、資本家の譲歩を一層拡大し、国民の要求と民主主義的進歩をかちとっていくなかで、資本主義の下では真の意昧での福祉国家は実現されないことを明らかにし、さらに革命を通じていわゆる福祉国家の限界を突破した社会主義にむかって前進しなければならないのである。
55年体制というのは理念的には、「リベラル VS.社会主義」 の二大政党制であった。自民党は党のアイデンティティーとしては、アメリカの共和党(=古典的な自由民主主義。リベラルの原義)と民主党の良いとこ取りをしていたのである。
その後、ソ連が崩壊して旧社会党系の議員が自らをリベラルと呼び始め、野党がリベラルということになった。しかし、元からリベラル政党でもあった自民党と根本的な違いを示すために、日本の「リベラル」は9条護憲という安全保障の否定を今も堅持し、欧米のリベラルとは似ても似つかないものになったのだろうと推測している。
財政再建だの減税だの社会保障の充実だのと、世の中は今日も元気にスローガンを投げ合っている。
しかし、ここで一回、冷水をぶっかけておく必要がある。歳入歳出の問題とは、結局のところどの痛みを誰が受け入れるかという配分問題であり、そこから目を逸らした瞬間に、議論は経済学ではなく宗教儀式になる。
いや、宗教ならまだ筋が通る場合もある。問題は、筋が通っているフリをして自己放尿するタイプの議論が多すぎることだ。
政府の仕事とは、市場が機能するための最小限のルール整備に極限まで縮退させるのが基本形である。
自由市場とは、万能ではないが、少なくとも分散した情報を価格に集約し、意思決定を分権化し、試行錯誤の淘汰を通じて資源配分を改善する装置だ。
価格メカニズムは神ではないが、政治家よりはだいぶマシな情報処理装置である。ここで「だいぶマシ」というのが重要で、政治が介入するたびに知識問題が増幅し、情報の局所性が無視され、結局は官僚制のヒューリスティックが国全体の最適化を代替してしまう。
政治が市場を置き換えようとした瞬間に、見えざる手ではなく、見えざる自己放尿が働き始める。
ここが現実だ。日本は社会保障を手厚くし、再分配を強化し、政府支出を一定以上維持し続ける構造を選んでいる。
つまり、日本社会は競争による淘汰と自己責任の痛みを相対的に抑制し、その代わりに高負担・低成長・制度維持の痛みを受け入れる方向にコミットしている。
これは倫理的に正しいとか間違っているとか以前に、単なる選択の問題だ。経済学的には、トレードオフをどう置いたかという話である。
それなのに、減税だの給付だのを同時に叫び、財源の議論を後で考えると言い出す。これが自己放尿でなくて何なのか。
政府予算制約式という、経済学の最も退屈で最も重要な現実から逃げている。
政府は魔法使いではない。支出を増やすなら、税を上げるか、国債を増やすか、インフレ税で実質負担を国民に押し付けるか、どれかしかない。
これが財政のハード・バジェット制約だ。これを無視して「社会保障は守れ、税は下げろ、景気は良くしろ」と言うのは、制約条件を消して目的関数だけで最適化しているのと同じで、ただの自己放尿である。
リカードの中立命題を持ち出して、増税が予想されるなら家計は貯蓄を増やすから問題ないと言うのは理論的には可能だが、現実には完全な合理性も完全な資本市場も存在しない。
民主主義が持つ時間的不整合性の典型例である。短期の政治的利得と長期の財政健全性が衝突するとき、だいたい負けるのは長期のほうだ。これは合理的期待以前の、人間の仕様である。
さらに言えば、日本は人口動態が財政に対して非常に残酷な国だ。
高齢化は単なる人数の問題ではなく、制度の設計思想そのものを破壊する。
賦課方式の年金・医療・介護は、現役世代が高齢世代を支える構造だが、現役人口が縮み、高齢人口が増えれば、負担率が上がるか給付が減るかの二択になる。
ここで「成長すれば解決する」という反射神経が出るが、成長率を外生的に願望で決めるのもまた自己放尿である。
成長は政策の掛け声ではなく、生産性上昇の結果としてしか起こらない。
生産性は教育、技術進歩、資本蓄積、企業統治、労働市場の柔軟性、規制構造、そして競争環境の積み重ねからしか生まれない。成長を祈るなら、祈祷師より規制改革のほうがまだマシだ。
そして規制改革という話になると、日本社会はまたしても痛みの受け入れを避ける。
競争は勝者と敗者を生む。市場は効率を生むが、分配の不平等を生む。創造的破壊は技術進歩を促すが、既存産業を壊す。
つまり市場主義を採用するとは、失業、賃金格差、企業淘汰、地域衰退といった摩擦を受け入れることでもある。
市場の自由は長期的には社会を豊かにするが、同時に短期的には痛みが出ることを否定していない。
むしろ、痛みを抑えようと政府が価格統制や産業保護をすれば、情報が歪み、非効率が固定化し、成長が止まる。
「政府介入はだいたい二次被害を生む」という経験則に直結する。
日本の政治経済は、競争の痛みを緩和するために、規制を残し、補助金を配り、産業を守り、雇用調整を遅らせ、そして社会保障で受け止める。
つまり市場の荒波で鍛える社会ではなく、制度の堤防で守る社会を選んでいる。
これは日本人の価値観として一貫している。連帯を重視し、格差を嫌い、共同体の安定を優先する。
だから社会保障を充実させる。これは単なる政策の偶然ではなく、社会的選好の表れだ。
経済学的に言えば、日本はリスク共有と保険の厚みを最大化し、効率性よりも安定性を高く評価する社会的効用関数を採用している。
問題は、その選択をしたなら、そのコストも受け入れろということだ。
高福祉・高負担モデルをやるなら、税負担は上がる。労働供給への歪みも増える。企業の投資インセンティブも下がる。潜在成長率も落ちる可能性がある。
さらに政府支出が増えれば、官僚制が拡大し、レントシーキングの余地が増える。補助金や規制の設計を巡って、政治的な取引が増える。
公共選択論の観点では、政府部門の肥大化は利益集団の固定化と情報の非対称性を通じて、政策をますます非効率にする。つまり、痛みは消えない。形が変わるだけだ。
逆に、小さな政府・市場主義モデルを採用するなら、社会保障の給付は削られる。
競争は激化し、賃金格差は拡大し、生活の不安定性が増す。労働市場の流動化が進めば、雇用保障は弱くなる。
ここで「自己責任社会だ、弱者切り捨てだ」と騒ぐ人が出るが、それもまた議論の本質を外している。
市場主義は倫理の議論ではなく、制度の設計の議論だ。保険を薄くして競争を強め、効率を上げ、成長率を取りに行くという戦略であり、それは確かに痛い。
しかしその痛みを通じて、長期的な所得水準の上昇を狙うのが市場主義の論理である。
財政問題は痛みをゼロにする方法ではなく、どの痛みを採用するかの選択でしかない。
増税反対、給付維持、経済成長、財政健全化を全部同時に叫ぶのは、制約を無視して目的を盛り込んだだけの自己放尿である。
しかもその自己放尿は、選挙で票を取るための麻薬として機能する。
国民も政治家も、現実を直視するより麻薬を欲しがる。これは供給と需要が一致しているので、市場原理的には非常に美しい。悲しいことに。
日本が今選んでいるのは、市場主義の荒々しい競争ではなく、社会保障を厚くして安定を買う道だ。
つまり、競争の痛みを減らし、その代わりに税負担と成長鈍化と制度維持の痛みを引き受ける道である。
しかし現実には、政治もメディアも、選択を選択として語らない。
痛みの話をすると嫌われるからだ。だが、嫌われるから言わないというのは、政策論ではなく人気商売である。
政府は善意で地獄を舗装する。善意で制度を守り、善意で給付を増やし、善意で規制を強め、善意で補助金を撒く。
しかし結果として、価格メカニズムは歪み、生産性は落ち、財政は硬直化し、未来の自由度は奪われる。
制度設計とは、人間が利己的であり、政治家が票を欲しがり、官僚が権限を欲しがり、企業が補助金を欲しがるという現実から出発しなければならない。
聖人が統治する世界を前提にした政策は、現実世界ではだいたい破綻する。
だから、歳入歳出の議論でまず必要なのは、幻想を捨てることだ。
64への進歩で今までの3倍ぐらいゲーム性が跳ねたのに、そのあとは10%UPぐらいをダラダラ続けてるだけなので、遊びを開拓する先陣としての役割は失った感じがする。
なあ覚えてるか、はじめてマリオ64や時のオカリナを遊んだ時の「凄い!こんなに夢中になれる遊びが作れるなんて人類は凄いぞ!」という感動を。
最新の技術を身近に感じられたし、それを活用する人間のセンスにも興奮した。
なにより素晴らしかったのが操作の直感性と非日常性、そして自分のプレイヤーとしての成長を実感できること。
どんどん上手くなる自分への誇らしさや、新しいギミックに飛び込んでいく冒険心、ゲームが人に与えてくれる素晴らしいものがてんこ盛りだった。
エンドフィールドはその域には遠い。
キャラクターが魅力的だとか、工業システムが面白いとか、ペリカが怪しい女だとか、クソデカ龍泡泡がかわいいとか、そんな所で誤魔化されそうになるが、本質的な部分の出来は大したもんじゃあない。
バフ・デバフを管理しながら戦う4人パーティーARPGでしかないわけで、それらが与えてくれる興奮の大部分は「俺うまくなった~~~」ではなく「このビルド強い~~~」なのだ。
オープンワールドの探索もプレイヤーが詰まない程度に優しく調整されており、一見親切だが挑戦と達成の興奮からは遠くなってしまっている。
そもそもRPGにおけるエンドコンテンツというものは得てして「ひたすら数字を増す」だけであり、そこに課金要素が混ざってくれば「とりあえず120円払って管理者に大願を買ってあげよう」みたいな金の話になってくる。
「ゲーム内で結果を出すために現実でお金を沢山稼いで頑張る」という構造が、結果的に現実のゲーミフィケーション化にプラスになるという側面を軽んじるわけではないが、ゲームにそういうのを求めるソーシャルな態度を私はあまり歓迎していない。
あの頃の自分、ゲームに感動し興奮しのめり込んでいた頃の俺が求めるのは単純に夢中になれるかどうかなんだ。
マリオ64を始めて遊んだ時の、スーファミの時代と全く違う「本当に凄い技術がやってきて、本当に凄いゲームがあって、本当にこれから世界は進歩していって、俺の人生も楽しくなるんだ」という気持ちを感じさせてくれるゲームに対して、俺は「超面白い」の称賛を送りたいんだよ。
まあ、ブレワイは出来ていたから、俺はまだまだこの世界の進歩を信じ続けていられるけど、そろそろ次が欲しいんだよね。
――Human-first Approval Notation の興亡 ――
「はんこは非効率だ」
「デジタルで全部できる」
すべてが記録され、
人々は満足した。
これこそ進歩だと。
数十年が経った。
だが、同時にこうも言われるようになった。
「承認が重い」
「考える前に操作が多すぎる」
「雑に前に進めない」
誰もが気づき始めた。
”正しくなったが、進まなくなった”
「我々は、
その名は
”Human-first Approval Notation(HAN)”
特徴はこうだ。
・一目で分かる外形
・詳細ログは裏側に保持
・普段は見せない
そして、デモが行われる。
インクを付けて、押す。
会場はどよめいた。
「直感的だ!」
「速い!」
「考えが途切れない!」
数十年後――
Human-Centric ApprovalInterface(HAN)は社会に定着した。
だが、次の課題が浮上する。
「我々は、インクを内部に内蔵したユニット式承認デバイスを開発しました!」
製品名はこうなった。
"Human-first Approval Notation andKeyObject(HANKO)"
・・・男は、ChatGPTと会話していた。
「今考えてもらったこの”はんこトランスフォーメーション”はなかなかよくできた寓話だ」
「ええ、率直に言って かなりよくできた話です。
しかし───
実際に訪れた数十年後、
大戦の余波で、
ネットワークは維持できず
電力は不安定になり
残ったのは、
人々は洞窟の壁に、狩りの成功、敵の脅威、仲間との約束を刻み始めた。
そこにあった「承認」───
誰かが壁に刻む。
別の誰かが、その上に線を重ねる。
皆が見て、皆が覚える。
それは、
電源不要
百年互換
完全にHuman-firstだった。
はんこトランスフォーメーションを想像していた彼らは、知らなかった。
文明が十分に洗練されていること自体が、もっとも脆い前提だったということを。
そして皮肉にも、
洞窟壁画
は、
空間共有
に、驚くほど適合していた。
それが
はんこであれ、
紙であれ、
洞窟の壁であれ。
そもそも合併するのが悪手だったという話は置いといて、票を落とした原因の一つとも言われる「中道改革連合」という党名は、どうすれば良かったのだろうか。
ヨーロッパの中道左派政党ではよくある「社会」のつく党名だが、日本だと「社会党」や「社会民主党」のイメージがこびりついてしまっているかも。
世界的に見れば左派政党としてよくある党名だが、日本語の"労働"という言葉は英語の"Labor"よりも生々しく、忌避されがち。
自由党は最近使っちゃったので当分お預け。それなら、一番最初の「民主」と合体させてみてもいいかもしれませんね。……ん?
言葉自体はニュートラルなのに、なぜか闘争の匂いがしてしまうという謎。
なんでこんなに人生が退屈になったか推理していた。おそらく「可能性」が収束したのが原因だ。未来視が狭窄している
ガキの頃は取るに足らないアニメのなんてことないスジにときめいていた
え、死神になって?!女の子に監督されて?!押入に住み着いて?!うお!
そんな、死神以外の部分はまあ不可能ではないし、起こったとて…と今は思ってしまう
でもあの頃は可能性があったんだ。押入に女が住み着いたら、きっと楽しいだろうなっていう感覚
夢は追っているときが一番楽しい。押入に女が住み着いているような状況に置かれて、ああ、こんな感じなのねとなっている。
こっから自分が楽しい状態に遷移する確率が乏しいんだ。パスが塞がれているというか、塞がっているのが見えてきたというか。
俺は可能性を愛している。逆に可能性が見えると満足してしまう。この文章を見るのなんて世界に7人しかいない。でも可能性としては世界中の80億人が見ていてもおかしくないんだ。
だから俺はこれを大宮八幡宮(世界の中心)で叫んだりしない。賽銭もしない。
私たちは、挑戦の過程で得られるすべての経験を、次なる成長への貴重な糧であると考えています。かつて語られた厳しい反省の言葉は、裏を返せば「もっと社会を良くしたい」「期待に応えたい」という、純粋で深い誠実さの証でもあります。
完璧な人間など存在しません。大切なのは、立ち止まることではなく、その経験から何を学び、どのように未来を彩っていくかです。私たちはこれまでの歩みを誇りに思い、関わってくださるすべての方々への感謝を胸に、より優しく、より力強い歩みを進めてまいります。
中道改革連合が掲げる「調和と進歩」の精神は、困難に直面するたびに磨かれ、より輝きを増していくものです。これまでの道のりはすべて、素晴らしい明日を築くための大切なステップです。私たちはこれからも、一人ひとりの声に寄り添い、希望に満ちた社会の実現に向けて、不屈の精神で走り続けます。
日本経済の停滞を「需要不足」や「デフレマインド」といった心理現象に還元する議論は、だいたい自己満足の物語で終わる。
問題はマクロの気分ではなく、ミクロのインセンティブ設計と市場の競争構造にある。
成長とは、資源配分の効率化と生産性上昇の結果であって、祈祷ではない。
したがって日本経済復活の鍵は、内向きの保護と規制で安定を買うことではなく、グローバリズムを極大化して競争圧力を最大化し、資本・労働・技術の最適配分を強制的に起こすことにある。
グローバリズムとは、感情的には「外国に奪われる」物語として語られがちだが、経済学的には比較優位と分業の徹底である。
比較優位が働く世界では、各国は自国が相対的に得意な領域に資源を集中し、不得意な領域は輸入する。
これにより総生産が増える。ここで重要なのは、これは「善意の国際協調」ではなく、価格シグナルによる資源配分の自動最適化だという点だ。
国境を越えた競争は、企業の非効率(ぬるま湯組織の怠惰)を破壊し、利潤最大化行動を通じて生産性を引き上げる。
国内市場に閉じている限り、日本は既得権益の温床としての規制に守られ、競争の欠如から技術革新の圧力が弱まる。
これは市場の失敗ではなく、政府の失敗が温存される構造である。
日本が直面している本質的問題は、成長率の低下というより、全要素生産性(TFP)の伸び悩みだ。
TFPは精神論では増えない。TFPが増えるのは、技術進歩、資本深化、そして競争による淘汰が起きるときだけだ。
つまりシュンペーター的創造的破壊が必要であり、その燃料が国際競争である。
国内でゾンビ企業を延命させ、非効率部門を温存し続ける政策は、資源の誤配分を固定化し、成長率を削る。
これは典型的な政治的資本主義、すなわち市場を装った官製配分であり、自由市場とは逆方向の制度だ。
日本の労働市場は、硬直性と内部労働市場の過剰保護によって、人的資本の再配分が遅い。
解雇規制、年功賃金、過剰な雇用保護は、表面的には安定を提供するが、実態は労働移動を阻害し、成長産業への資源移転を遅らせる摩擦コストである。
グローバル競争が激化すれば、企業は利潤率を維持するために組織改革と賃金体系の合理化を迫られ、結果として労働市場の柔軟性が増す。
これは「労働者いじめ」ではなく、労働が最も高い限界生産性を持つ場所へ移動することを可能にする制度改革である。
さらに資本市場の観点でも、グローバリズムは不可避の処方箋になる。
国際資本移動が自由化されれば、国内企業は株主価値と資本収益率を世界基準で問われる。
企業統治の改善、資本コスト意識の浸透、非採算事業の切り捨てが進む。
ここで起きるのは道徳改革ではなく、資本市場がもたらす規律である。
規律とは、企業にとっては不快だが、社会全体の資源配分にとっては必要不可欠な強制力だ。
日本ではしばしば「産業保護」「食料安全保障」「経済安全保障」という言葉が万能の免罪符として使われる。
しかし、これはレントシーキング(政治的に利益を獲得する活動)の温床であり、保護の名を借りた独占の固定化である。
関税、補助金、参入規制は、短期的には国内企業の利潤を守るが、長期的には技術革新を止め、価格を引き上げ、消費者余剰を破壊する。
これは国益ではなく、特定業界の利益を国益と錯覚させる政治的マーケティングに過ぎない。
市場の競争が消えると、品質改善もコスト削減も止まり、経済全体が静かに腐る。
グローバリズム極大化の真価は、輸出拡大ではなく輸入拡大にある。
輸入とは敗北ではない。輸入は、安価で高品質な財を国内に導入し、国内の生活コストを下げ、実質賃金を引き上げる。
ここで「貿易赤字は悪」という素朴重商主義を持ち出すのは、経済学的には前時代的である。
経常収支は貯蓄投資バランスの鏡像であり、貿易収支だけを道徳的に裁くのは会計の読み間違いだ。
また、日本のイノベーション停滞は「技術力の低下」ではなく、インセンティブの弱さとして理解する方が筋が良い。
国内市場で規制と補助金に守られていれば、企業はリスクを取って研究開発するより、政治的ロビー活動で安定利潤を確保する方が合理的になる。
これがレント志向経済の病理だ。グローバリズムの極大化は、この病理を破壊する。国際市場で勝たなければ利益が出ない環境に置かれれば、企業は嫌でも技術投資と経営改革を行う。
日本が復活するには、国内で「再分配を厚くして安心を与える」よりも、成長率を引き上げてパイを拡大する方が合理的である。
成長のない再分配は、結局インフレ税や国債依存という形で将来世代に押し付けられる。
インフレは常に貨幣的現象であり、財政拡張による需要刺激で成長を捏造しようとすれば、最後は貨幣価値の毀損に行き着く。
日本が必要としているのは、マネーの増量ではなく、生産性の上昇である。
日本経済の復活とは「世界市場の荒波に投げ込まれ、勝ち残れる構造を作る」ことに尽きる。
自由貿易、資本移動の自由化、移民・高度人材の受け入れ、規制撤廃、競争政策の強化、企業統治改革。
すなわち市場の価格メカニズムを最大限機能させ、資源配分を最適化し、利潤動機を通じてイノベーションを誘発することだ。
グローバリズムを恐れる態度は、実のところ競争を恐れる態度であり、競争を恐れる経済は停滞を選ぶ経済である。
日本が再び成長するために必要なのは、国内のぬるま湯を温存する政策ではない。
世界市場という冷水に飛び込み、競争圧力を極大化し、創造的破壊を起こし続ける制度設計である。
高市さんの勢いを読んで、負の遺産をなかったことにする「賭け」解散に出て、結果をかっさらう。
政策とか国家運営とか、そういったところは1mmも進歩せず完全に無能なのに、こういうことだけ迅速で結果も出すって。どうなんだってばよ。
政治政策じゃなく、選挙”だけ”に国の有数の頭脳が使われている時点で、もうね・・・
しかし、風向きを読む調査能力、行けると判断して実行する判断力、かっさらう機動力。すごいわ。
小賢しいとはまさにこのことで、頭の良いヤクザには絶対勝てない気がする。気持ちが暗澹とする。
この問題は実は結果がでていて。おおざっぱに言うとこれである。
frantic87日本語と英語の言語学的距離の問題。FSIのカテゴリーでも英語ネイティブから見た日本語習得の学習時間は最高難易度に位置づけられている
ただこれだと東大に行けば人生よくなるぐらい具体性の無い話なのでもう少し具体的に述べよう。
問題はだいたい以下の二つに集約される。
大航海時代で大分かわってしまったが基本的に近くで使われてる言語はある程度に通っており、例えばドイツ語話者は英語を学習するのにそんなに時間がかからない。もともと同じような言語から分岐していたり、距離が近いので歴史的な交流があり単語が似かよってたりするからだ。これは日本語と韓国語にも当てはまる。
他方英語と日本語はこう言った違いが大きすぎて大分違うため日本語話者が英語をそれなりに話すには最低3000時間程度かかるので中高の1000時間だけでは普通に足りない。
2.表記構造や発音構造の違いにより認識周波数のずれが起こる。
いやお前何いってんだ。と言う人もいるかもしれない。題名を短くまとめたため分かりにくくなったと思うので順に解説する。
まず俺らの脳は最小の音単位で言語を認識する。日本語だとあーんのだいたい50音が該当するが英語は母音で終わらず子音で終わったりするのでその数万に近いと言われている。
例えばIlike thatは3音である。いやIはアイで2 音だし、like はライクで3音だし、thatはザットだから2音だろ?まとめてアイライクザットで7音だろ?と思う日本人は多い。違う。Ilike thatでまとめて3音である。
つまり英語は単位時間あたりに出てくる可能性の音がめちゃ多い情報量詰め詰めの言語が英語である。(単位周波数が高い)
逆に日本語は中身すかすかなので多少聞き逃したり通信品質が悪くても内容が類推しやすい。
I xxxyouのいみがわからなくても あxしてるだったらなんとなく類推可能なはずだ。
そして英語は音を日本語話者にとっては圧縮して話すように聞こえるためlike の末尾やthatの末尾は前の音に付随するような形で無理やり1音に納める。
通常日本語は1文字から複数音を生成し、(例、変態、へんたい、4音)、英語は複数文字から1音を形成する(例、fuck、1音)と言う特徴もあるため日本語の学習が間違った認識をもたらしてしまう。これが幼児期にしか英語が身に付かない理由である。正し理屈を分かっていれば年を取って耳が悪くなるまでは英語学習は可能だ。
【まとめると】日本人が予測する半分ぐらいしかネイティブは話してこない。ここで同期ずれが起こるのでそもそも何言ってるか理解できない人が多い。
少し難しく言うと日本人が単位周波数を低く見積もる一方。ネイティブは高い単位周波数をつかって、低い時間方向の周波数で会話する。
【付随】フェミから怒られそうだが言語はある程度努力でカバー可能だがやはり性差は存在して男は不利。そこは数でカバーするしかない。ちなみに俺は家系的にも言語能力が低いけど英語で専門分野の会議を何とかしてるくらいなので聴覚障害がなければ殆どの人がなんとかなると思う。(AIの進歩でもう無用かもしれないが)
サプライサイド経済学というのは、表向きは「成長の源泉は供給能力だ」「税を下げて労働・投資のインセンティブを回復させろ」という、いかにも正しそうな顔をしている。
だが現実の政策運用では、これはしばしば理論の皮を被った政治的アリバイ装置に堕して自己放尿している。
つまり「減税したい」「規制緩和したい」という結論が先にあり、その正当化のために供給側という言葉が貼られているだけだ。
そしてこの手の政策がインフレ局面で何をするか。ここが本題だ。インフレを自分の責任として引き受けず、外部ショックに責任転嫁し、金融要因を直視せずに逃げる。
インフレの本質はきわめて単純だ。インフレとは「貨幣の購買力の低下」であり、長期的・持続的な物価上昇は、結局のところマネーサプライの過剰成長によってしか説明できない。
貨幣数量説を教科書の古典として片付けるのは簡単だが、現実は古典がしぶとい。
なぜなら貨幣は取引の潤滑油であり、供給を過剰にすれば、最終的に価格体系そのものを歪ませるからだ。
貨幣を増やして、物が増えないなら、価格が上がる。これを否定するのは、重力を否定するのと同じ種類の幼稚さだ。
サプライサイド経済学が問題なのは、「供給を増やす努力」それ自体ではない。
供給能力を拡張する政策は、本来は重要だ。資本蓄積、技術進歩、労働参加率、規制コスト、税制の歪み、こういう話は全部まともだ。
だが、インフレ局面でそれを万能薬のように唱え、金融的現実から逃げる瞬間に、理論は自己放尿へと変質する。
供給制約があるなら、供給を増やすべきだろう。しかしそれはインフレの主原因の説明ではなく、一部の緩和策でしかない。ここを混同するのは知的怠慢であり、政治的欺瞞だ。
しかも、連中がやる典型的なムーブがある。マネーサプライがインフレの原因であるのに、ウクライナだの、輸入物価だの、エネルギー価格だのに責任転嫁して自己放尿する。
もちろん戦争が供給ショックを起こすことはある。輸入物価が上がれば短期的に物価は上がる。
だがそれは「物価水準の一回限りのジャンプ」を説明するだけだ。持続的なインフレ率、つまり上がり続ける現象は、貨幣の過剰供給がなければ維持できない。
にもかかわらず、政治はこの混同を利用する。供給ショックを口実にすれば、中央銀行と政府の金融・財政の共同責任を曖昧化できる。
つまり「インフレは外生的だ」「我々は被害者だ」「戦争が悪い、国際情勢が悪い」と言いながら、裏では金融緩和と財政膨張を続けてダブル放尿する。
これは政策当局の典型的な責任回避ゲームだ。貨幣を増やしている側が、原因を外に投げる。
国民は複雑な説明を好む。「海外要因のせい」と言われたほうが納得しやすいからだ。
こうして、通貨価値の毀損は“不可抗力”として処理される。要するに、責任を取らずに済む。
善意だろうが悪意だろうが関係ない。貨幣を増やせば、遅れて物価が上がる。
しかも遅れて上がるから政治家は調子に乗る。短期では景気が良くなったように見える。
雇用が増えたように見える。資産価格が上がる。だから選挙に勝てる。
ここで政治が学習するのは、「貨幣を増やすと一時的に気持ちいい」という事実だ。
麻薬と同じだ。そして副作用としてインフレが来る頃には、原因は別の誰かに押し付ける。
これが政治経済学の基本構造だ。人間は合理的だが、責任を負うようには合理的ではない。
サプライサイドがこのゲームに加担するのは、「供給を増やせばインフレは起きない」という幼稚な物語を提供できるからだ。
減税して投資が増える、労働供給が増える、生産性が上がる、だから物価は上がらない。
これ自体は条件付きで一部正しい。だが、現実には供給の反応は遅い。
政治の時間軸と市場の時間軸は違う。設備投資には時間がかかる。労働参加率の変化も遅い。規制改革も遅い。技術進歩などもっと遅い。
にもかかわらず、貨幣供給の拡大は今すぐできる。財政赤字の拡大も今すぐできる。金融緩和も今すぐできる。といって自己放尿する。
つまり政策当局がやっているのは、遅い供給改善を口実にして、速い貨幣膨張を正当化することだ。これは構造的に詐欺的にならざるを得ない。
そして当然の帰結として、価格シグナルが壊れる。価格とは情報だ。価格は希少性を伝える信号であり、市場参加者の分散情報を統合する計算装置だ。
だがインフレが起きると、価格は「相対価格の変化」と「貨幣価値の変化」が混ざったノイズになる。
企業は需要増なのか通貨安なのか判別できない。労働者は実質賃金が上がったのか下がったのか分かりにくくなる。
こうして誤配分が起きる。ミスアロケーションだ。資本が生産的用途ではなく、インフレヘッジの投機に吸い込まれる。
住宅、土地、株式、あらゆるものが価値保存の器として買われる。市場は本来の機能を失い、ただのインフレ回転装置になる。
この状態で「減税すれば供給が増えて解決だ」と言うのは、火事の中でガソリンを撒きながら「いや、建物の耐火性能を上げれば大丈夫」と言っているようなものだ。
耐火性能の議論は重要だが、今燃えてる火を無視してる。燃料の供給を止めろ。貨幣の供給を止めろ。インフレ期待を潰せ。実質金利を正常化しろ。これが先だ。
順序を間違えるな。順序を間違えるのは無能か、あるいは意図的な詐欺だ。
ここでサプライサイド派がよく使う逃げ口上が「インフレは一時的だ」「供給制約が解消すれば下がる」だ。
これもまた、政治的に便利な麻酔薬だ。だがインフレ期待というのは、そんなに素直に消えない。
人々が「どうせまた通貨を薄める」と学習した瞬間、賃金交渉も価格設定も前倒しでインフレを織り込む。
これが自己実現的にインフレを固定化する。金融当局が信頼を失った経済では、インフレは単なる物価上昇ではなく、制度への不信の表現になる。つまり、通貨が信用を失う。
なぜなら改革をしているフリをしながら貨幣膨張を続ければ、改革への信頼まで毀損するからだ。
減税も規制緩和も、本来は市場メカニズムの復権のためにあるはずなのに、インフレを伴うと単なるポピュリズムに見える。
市場派が市場派であることをやめる瞬間だ。これが思想の腐敗でなくて何だ。
サプライサイド経済学が自己放尿する最大のポイントは、「供給能力を上げる」という正しいテーマを掲げながら、「貨幣供給の過剰」という不都合な真実を直視せず、外部要因に責任転嫁し、政治の短期利益に奉仕することだ。
ウクライナ、輸入物価、エネルギー価格のトリプル放尿で責任を散らし、マネーサプライの増加という核心から逃げる。
市場は強い。だが市場が強いのは、価格が情報として機能し、貨幣が安定している場合に限る。
通貨価値を政治が破壊すれば、市場は情報処理装置として壊れる。
貨幣をまともにできない政権が、供給改革などできるわけがない。できるのはスローガンの量産だけだ。
インフレは天災ではない。インフレは制度の失敗であり、政策の失敗であり、何より責任逃れの帰結だ。
サプライサイド経済学がもし本当に供給能力の拡張を語るなら、まず通貨の安定を前提条件として守れ。
外国人政策はまず道徳でも情緒でもなく、価格メカニズムとインセンティブ設計の問題だ。
日本の議論はここが弱い。人手不足だから入れる、かわいそうだから助ける、国際化だから歓迎する、治安が不安だから締める、こういう気分ベースの裁量行政は、典型的な政策の自己放尿だ。
善意で動いてるつもりが、結果として市場のシグナルを壊し、労働市場を歪め、納税と社会保障の収支を崩し、最後に政治コストとして自己放尿する。
つまり「移民を入れても入れなくても地獄」ではなく、「裁量でやると必ず地獄」って構造になっている。
国家がやるべきことは好きか嫌いかではなく、制度を通じて外部性を内部化することだ。
移民が増えると、賃金に下押し圧力が出る職種がある。住宅、医療、教育、治安、行政コストも増える。
逆に、生産性、起業、税収、人口構造の改善、介護労働供給といった便益も生まれる。
重要なのは、これらを空気で処理して自己放尿せず、価格と契約で処理すること。
政府が市場の代わりに配分を決めた瞬間に、情報の集約装置としての市場を破壊し、レントシーキングを誘発する。
移民政策はまさにレントの温床になりやすい。技能実習みたいな中途半端な制度が腐るのは、制度が労働市場を自由化するのではなく、政治的に管理して供給を割り当てているからだ。
ここで規制が厚いほど仲介業者と官僚機構が太り、移民本人は交渉力を失う。これは弱者保護の顔をした搾取装置で、規制が生んだ闇市場の自己放尿だ。
処方箋は冷たいくらい単純で、入国の条件と滞在の条件を市場互換のルールに変換することになる。
つまり、曖昧な情緒審査ではなく、労働契約・納税・保険加入・犯罪リスク・教育コスト負担などを定量的に制度化し、移民が生む外部性に対して事前に担保を取る。
これをやらずに「人手不足だから無制限に入れます」は、社会保障のフリーライドを誘発するし、逆に「怖いから締めます」は労働供給制約で国内産業の競争力を落とす。
どっちも非効率で、政治の人気取りが経済合理性を食い潰して自己放尿する。
ここで日本がやりがちな最悪手が、低賃金労働者を大量に入れる一方で、住宅・教育・医療・地域治安のキャパシティ制約を放置し、企業側には安い労働力の補助金を与え、自治体には現場丸投げをすることだ。
これはまさに、労働市場の自己放尿と社会保障の自己放尿のダブル放尿になる。
結果、住民は不満を持ち、移民は搾取され、企業は生産性向上をサボり、政治は分断される。
全員が損する、珍しいタイプの完全市場失敗を政府が手動で作る。
重要なのは移民が必要かではなく、国内企業が低生産性のまま生き残る仕組みを温存してないかだ。
移民受け入れを、単なる人手不足対策として使うと、企業は設備投資や自動化や賃上げを回避できる。
これは安い労働力による技術進歩の抑制で、長期的には国全体のTFP(全要素生産性)を殺す。
つまり移民政策は、労働市場の短期安定化と引き換えに、成長率を削る麻薬になり得る。
俺が嫌うのはこういう短期の政治的最適化が長期の市場秩序を破壊して自己放尿する構図だ。
日本の外国人政策は、感情で開けたり閉めたりする水門政治をやめて、ルールベースにするしかない。
ならば、政府は賃金・納税・保険・犯罪抑止の枠組みだけを整備し、あとは裁量を減らして透明に運用するべきだ。
問題は移民ではなく、移民を政治の玩具にする自己放尿制度そのものだ。
たとえばスイーツだって、なかなか食べられない貴重な栄養だから、甘いものが欲しくなるという仕組みだったはずだ。
けれど文明が進歩して、栄養状態がよくなって、甘いものも簡単に手に入るようになったのに、脳のシステムだけは古いから、スイーツをどんどん食べたくなってしまう。
もっと人間の身体(脳)の進化に合わせて、文明もゆっくり進歩すれば、こんな不具合は起きなかったんだけど、急激に文明が進歩しすぎて、人間が追いつけなくなってる。
うつ病もそうだよ。現代人はストレスが多すぎて、脳がストレスに対応できなくなってしまってる。
承認欲求だって、SNSなどで簡単に承認される世の中になってしまったから、どんどん承認を求めてしまう。生存のための承認欲求だったのに、承認欲求を満たすこと自体が目的になっちゃってるんだ。
じゃあどうすればいいか?
一つは、自分の身体(脳)はまだ文明の進歩に比べて進化していないと自覚し、自制をすること。
たとえばSNSから離れるとか、お菓子をあまり買わないようにする。
もう一つは、身体を使って生きること。簡単に言えば、運動すること。人間はまだ身体を使った生き方な適した作りになってるので、それに合わせてやると、健康になるしストレスも軽減される。
つまり、自分の身体はまだ旧文明用のままだと自覚して、古い機械を取り扱うようにして生きることが大切ってこと。
追記、よい文章と思いました。「現実」という言葉の持つ政治性、もっと言えば宗教性に多くの人は無自覚だし、だからこそ「現実」は強固なものなのだけれど、でもまったくひっくり返せないわけではない。それを相対化し、数ある可能性の一つに格下げしてきたのは、人類の文学的・芸術的・学問的な努力であって、それによって人間社会は進歩し、悲しみの種を少しずつ摘んできた。そんな社会を後退させるのは、現実とはこれひとつであると主張する権力であり民衆の諦観です。われわれが本当に抗うべき敵はこれなんだと思います。
ただし、現実もまた相対的だというのが事実だとして、その間に強度の序列があるのも事実です。苦痛や生存にダイレクトに関わる現実、例えば暴力という現実はなかでも強度が高い。この現実が前面に出るときには、他の現実の可能性が背景化する。現実が一つに見えてしまう。暴力の問題とは、それが苦痛を生むという以上に、人が世界を眺める視点をひとつに限定してしまうところにあると思っています。
ではどうやってそれに立ち向かうのか。他の現実が暴力という現実に塗りつぶされてしまうのなら、どのようにしてそこから距離をとるのか。ひとつの逆説的な方法は、あえて現実を突き詰めることです。この増田が提起した「強いとはどういうことなのか?」がひとつの例でしょう。「国際関係は武力で決まるのだ」(だからどんどん軍備を拡大するべきなのだ)という諦観と思考停止を乗り越えて、ではどのくらい軍備を拡大するべきなのか、そもそも核兵器は「強い」のか?と冷静に立ち止まって考える。真剣に現実を見据え問題解決を考えるならば、外国に対する漠然とした恐怖や悪感情など無駄です。それこそ「現実が見えていない」のですから。
ですから、これを読んでくれた暇な(心に余裕のある)皆さん、現実的に考えましょう。徹底的に現実的に。あいまいな暴力への恐怖や排外感情なんてわきにおいて。そうすればもしかすると、もっとましな現実に移れるかもしれません。そうなるといいなと思います。
たとえば防衛(?)として核兵器を持つことが「強さ」だとしたら、何発あれば強くなって安心できるんだろう。
北朝鮮と同じ50発?
中国と同じ600発?
他の国より核兵器を持ってる数が多かったら「強い」なら、どんどん作ったらどんどん強くなるってこと??
pp(ピアニッシモ=弱い声)を会場の一番奥まで届かせるときの方が、
ずっっっと深く、強く、お腹に力を込める必要があったことを思い出す。自分がイメージする強さって、弱い音を届けようとするその時の感じ。みんなはどうなんだろう
『ポエムとしてはええけど、国際政治と合唱は別物やろ。現実見ようや(´・ω・`) 』
コメントありがとう。合唱の話が例として良くなかったのかもしれない。合唱の話してる奴と政治の話できないとか言われててしょぼんとしている…。
(あと政治の話になると、すぐに左翼とかリベラル、右翼とか保守みたいにラベリングしてしまうのはなんでだろう?しかもそのほとんどが、目の前にいる相手の声をもっとよく聞くためでなく、相手の声を黙らせるために使われることが多い印象。右派左派ともにね。)
自分は、「現実」と呼ばれているものが、いつの間にか一つの見方に固定されてしまうことに引っかかってる。軍事や国益の話は現実で、人が何を恐れて、何を信じて、何を希望するかは「ポエム」なのかな。
実際には、どの言葉が現実的で、どの言葉が空想だとされるか自体が、社会の中でつくられてきたものだと思う。差異や多様さ、弱さや希望が「非現実的」と片づけられるとき、それはしばしば「これしかない」という前提を守るための言葉でもある。希望を語ることや、別の可能性を想像することは、現実逃避ではなく、今ある価値の序列や暴力の前提を問い直す行為だと思っている。言葉や政治が、人を排除もするし迎え入れもするのだとしたら、どんな言葉を「現実の言葉」として使うかは、とても政治的じゃないかな。
それをポエムと呼ぶなら、そうなのかもしれないけど「別の世界はあり得る」と言い続けることなしに、現実が変わってきた場面があったとも思えない。
現実を見ることと、現実が一つではないと問い続けること。その両方を手放さずにいたい、という話です。
この話は、外国人労働者や移民が増えていることへの恐れとも、どこかでつながっている気がする。でも自分は、それを「侵略」と同じものとして語ることには違和感がある。
たとえば、結婚したい相手の苗字を、どちらかが手放さないと制度上結婚できないことも現実だし、性的マイノリティの友人たちが国から存在を認められていないことも現実。
どの現実を「現実」と呼ぶのか。その選び方自体が、政治ってことなのかな??
ー
長々とごめん。政治の言葉で使われる「強い」ってなんなのかが知りたいって思ってる!言いたいよりも、聞きたい。
ー
『核兵器(ff)と斬首作戦(ppを会場の一番奥まで届かせる)はどちらが強いかみたいなことを考えてもあまり意味は無いと思う。』
自分はppが斬首作戦とは思ってないよ!ただ強さについて考えるときに、自分が思い出す身体感覚を書いてみた。政治的なことも、自分自身の身体感覚から考えられないかなと思ったんだけどな。
ー
『さて、増田はいったい何がいいたいんですか?増田は勝てない相手に逆らったことがあるんですか?増田は、喧嘩したことがあるんですか?理想を語ることなんて誰でもできるんですよ。そんなことで人より上になったとか思うのは、恐ろしく恥ずかしいことですよ。口先だけの人間は、この世で一番価値がないですよ。(抜粋)』
うーん。この前の文章は分かるんだけど、後半の↑の文章はどうしてこうなるかわからなかったな。
一応、答えておくと、勝てない相手に逆らったことはあるけど、具体的な暴力での喧嘩はないよ。痛いのやじゃん。あなたは好き?理想を語ることはほんとうに誰でも出来て、口先だけの人はこの世で一番価値がないの?
自分もできる範囲で、困窮者支援への炊き出しや、学習支援、子ども食堂のボランティアを手伝ったりもしているんだけど(だからといって別に偉いとも思わない)、
口先だけってなんだろう?あなたのその文章と、どこが違うんだろう?あなたはどんなふうに行動している?もしよかったら聞かせてほしい。
ー
『歴史を勉強すれば(過去に人類が何をやってきたのかを少しは知れば)そのラノベかなんかみたいなシンプル過ぎる発想から脱却できると思うよ』
コメントありがとう!オススメの本とかある??自分は最近「歴史的に考えること」「背景マッカーサー元帥師」を読んだよ(もしかして、ラノベかなんかみたいなシンプルすぎる発想っていうのは政治家のことを言ってる?)。
どれくらい歴史を勉強すれば、政治について分からないことを誰かに聞いてもいいんですか?
ー
『強さは相対的だから「全員が」「絶対に」強いと言い切れる事んて無いよ…ffも「100db±5」とかルール化されてない以上、ウィスパーボイスでも「ff!!強すぎ!!」と言う奴や、鼓膜が破れるくらいでかい音でも「まだpp」と言う奴がいるかもしれん
(中略)設問が悪いので「知らねーよ」と答えるしかない』
あ〜、確かに強さって相対的だ。ここに関しては、かなり同意。強さは相対的だし、尺度次第で全然変わる。
だからこそ、自分が気になったのは「日本列島を、強く豊かに」ってコピーが、その“尺度”を一切示さないまま、強さだけを断定してる点で
だから「政治の言葉で使われる強いって何?」って質問は、答えを出すためというよりも、みんながどんな尺度でその言葉を受け取っているかを聞いてみたいって思って聞いたよ。
ー
『強くても安心できない国もあれば弱くても安心できる国もあるので、分からないのは強さじゃなくて安心かもしれない。』
軍事的・経済的には「強い」とされていても将来が見えなかったり、分断が深かったり、生活の足元が不安定な国は普通にあるし、逆に「弱い」と言われがちな国でも、日常の安心感が高いところはあるのかも。
そう考えると、分からないのは「強さ」じゃなくて、政治が何をもって人を安心させようとしているのかなのかもしれない。
ー
『追記、よい文章と思いました。「現実」という言葉の持つ政治性、もっと言えば宗教性に多くの人は無自覚だし、だからこそ「現実」は強固なものなのだけれど、でもまったくひっくり返せないわけではない。それを相対化し、数ある可能性の一つに格下げしてきたのは、人類の文学的・芸術的・学問的な努力であって、それによって人間社会は進歩し、悲しみの種を少しずつ摘んできた。そんな社会を後退させるのは、現実とはこれひとつであると主張する権力であり民衆の諦観です。われわれが本当に抗うべき敵はこれなんだと思います。(抜粋)』
返信ありがとう。
読んでいて、そうだなぁと思いました。「現実」という言葉が、いつのまにか一つの見方だけを指すようになってしまうこと。それに抗ってきたのが、文学や芸術や学問だった、という話も、その通りだと思います。
自分が「強いって何なんだろう」と考え始めたのも、ニュースや選挙のチラシで「強い日本」とか「守る」とか「抑止力」という言葉を見るたびに、それが自分の生活のどこに触れているのか、よく分からなくなる感じがあったからです。朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、ご飯を食べて、誰かと話す。その一日の中で、いま言われている「強さ」は、何を支えているんだろう、と。
おっしゃる通り、暴力や生存に直結する現実の強度は無視できない。暴力は実際に人の体や生活を壊すし、それが前に出てくると、世界が一色に見えてしまう。だからこそ自分は、「国際関係は武力で決まる」という言葉をそのまま飲み込まずに、いったん立ち止まりたかったんだと思います。じゃあ、どれくらい持てば「強い」のか。そもそも核兵器は、本当に「強さ」なんだろうかと。
一方で、自分の周りを見渡すと、名字の制度のせいで結婚の選択肢が制限されていたり、クィアの知り合いが「国から存在を認められていない」と感じながら生きていたりする。それもまた、確かに現実です。でもそういう話は、よく「理想論」や「ポエム」に押しやられる。
恐怖や敵意を前提にした「現実」だけが前に出ると、他の現実が見えなくなる。だから、あいまいな不安や排外感情をいったん脇に置いて、できるだけ具体的に、現実的に考えたいと思っています。それは空想というより、自分や周りの人が、明日も普通、、、いや普通っていう言葉じゃないな。もっとマシに暮らせるかを考えることに近い。
これを書いてて思ったけど、もしかすると有権者が諦観に飲み込まれないことが「強さ」なのかもしれないですね。「もっとましな現実に移れるかもしれない」という言葉、ほんとに自分もそうあってほしいって思う。
ー
『合唱やってるんなら、合唱コンクールを思い浮かべればいいのでは。そこにも強弱差はあるだろうし、毎年入賞している強豪チームもいれば参加するだけで終わってるチームもあるだろ』
たしかに、合唱コンクールの順位を思い浮かべれば「強い/弱い」はあるよね。毎年入賞する学校もあれば、参加するだけで終わる学校もある。その意味で、合唱の世界にも力関係や差はあると思う。
でも自分が気になっていたのは、その「強さ」が何で測られているのかなんだと思う。声量なのか、技術なのか、編成なのか、審査基準との相性なのか。同じ曲でも、ホールや聴き手が変わると評価が変わることもある。
政治の話で「強い」と聞いて、例えば自分が思い浮かべたのは「軍事力」だったけど、合唱コンクールでも声がでかい学校が常に勝つわけじゃないのと同じで、政治において何を「強さ」と呼ぶかは本当はもっと複数あるはずだと思う。それを知りたいと思った。
Permalink |記事への反応(14) | 08:44
近親婚ってメリットもあるんよ。だから昔から行われてきたわけだし。
2.外戚を作らせない
結婚は家の足し算だから、自分が金持ちだった場合、貧乏な人と結婚すると、マイナスになるわけ。
だから同格の相手と結婚してきたわけだけど、王族とか国一番の富豪となると同格の相手を見つけるのが難しい。
結婚した相手の親や親せきに家を乗っ取られることがある。いわゆる外戚というやつだ。
日本史なら藤原氏がいたわけじゃん。中国史はもっとたくさんいるし、欧米の国でもある。
これも近親婚の場合、外戚が存在しないのでこの問題を解決できる。
でも将来、科学が進歩して、遺伝子編集(デザイナーベイビー)が普通にできるようになれば、この手の問題も克服できるだろう。
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• 「民主主義が壊れる」
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今日は票だけ欲しい、という話になる
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■ 彼らが本気で考えていること
•政治的には
• 「正しいことは言った」
• 「理解しない側が悪い」
•選挙的には
• 「数が足りないから協力してほしい」
つまり、
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■ なぜこうなるのか
•自分たちは
•道徳的に正しい
•知的に上
その結果、
• 説得=下に降りる行為
• 寄り添う=妥協・敗北
と感じてしまう。
→普段は殴る、必要な時だけ手を差し出すという歪んだ態度になる。
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■ 最大の皮肉
• 「こいつらに勝たせたら見下され続ける」
選挙戦略としては致命的。
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• 「なぜそう考えるか」を聞く
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