
はてなキーワード:連想ゲームとは
https://note.com/yonahajun/n/n9f8fac28b86e
久しぶりに與那覇を見たけど「令和人文主義」がキャンセルカルチャーだったんだよ!と言っていた。
さすがはホンモノ與那覇さんだぜ!すげー!
んなわけあるかい笑
はい、今回も来ました與那覇の妄想コーナーです。とうとうここまで来ました。
一つ聞きたいんですけど令和人文主義という言葉を発した谷川さんって誰をキャンセルしたんですか?
もうこの人にかかれば気に入らない奴らを全部ぶち込むのがキャンセルカルチャーなのだろう。
キャンセルカルチャーとは、だれかを恣意的に失職させたり、退場させることをいうのだが、與那覇の妄想と連想ゲームにかかれば令和人文主義もキャンセルカルチャーらしい。
バカも休み休み言えと言いたい。こんな妄想だらけの連想ゲームに付き合う者など誰もいないだろう。
ちなみに、與那覇の連想ゲームにかかれば與那覇が懇意にしている上野千鶴子も宇野常寛もキャンセルカルチャー一派ということになる。
すでに周知の通りかの草津町の冤罪事件には上野にも責任の一端がある。
宇野は何を隠そう與那覇が愚弄する谷川と一緒に仕事をしている。
https://x.com/i/status/1998497915803947190
與那覇に言わせれば谷川なんていうケシカランやつと一緒に仕事してる宇野もキャンセルカルチャーの同業者だろう。それくらい與那覇の議論は杜撰なものである。
このように究極のキャンセルカルチャー事件の当事者である上野を與那覇が崇めるのは不可解であるし、谷川と懇意にしている宇野と絶縁しないのも不可解だ。
つまり、與那覇にとってはもはやキャンセルカルチャーすらも自分の地位を示す道具に過ぎず、その中に思想も考えもまるでないのである。
誰かと誰かが仲良くしたり、絶賛したらその一派として罵倒する。こんな妄想に付き合っているほど普通の人はヒマじゃない。
與那覇は谷川を「実際にSNSが始まった平成期に比べても、「令和人文主義」の担い手は異論への耐性が低いらしい。違う感性の人は "いない" ことを、内心で前提にしていれば、批判への免疫ができず、ブロックして引きこもることにもなる」と愚弄している。ここからは與那覇がフェアな言論人であると誤認しそうになるが、すでに何度も繰り返したとおり批判に対して全く応答しなかったのは他でもない與那覇自身である。
https://kscykscy.exblog.jp/18241381/
https://watashinim.exblog.jp/18496216/
すでに繰り返してきたことだが與那覇に他人の批判に対する態度を論難する資格は全くない。
ちなみに、與那覇の支離滅裂ぶりについては向野正弘が痛烈に批判しているので、こちらをご覧いただきたい。
https://researchmap.jp/kouno-masahiro/misc
「与那覇氏(原文ママ)の到達した境地は、私がかつて危惧した「非実証的歴史学」の段階を離れて、反実証的は神秘主義的な段階にあるように思われるのである」(「インターネット論壇における「非実証的歴史学」「反実証的歴史学」の行方」p.36)とまで言われて一切反論しない與那覇は妄想に引きこもっていると言われても文句は言えまい。
当然、與那覇はこの向野の批判を無視している。谷川ももし與那覇に反論するなら「與那覇さんのやり方をリスペクトしているだけです」と返せば仕舞である。與那覇は返す言葉もないだろう。
もし與那覇が「ホンモノ」を自称するならまずは『中国化する日本』で受けた批判から遡ってなぜ自分が今日まで批判を黙殺してきたかあるいはブロックしてきたかを釈明してもらいたいところである。
ちなみに、與那覇には天敵がいる。yunishioという人物である。
https://bsky.app/profile/yunishio.bsky.social/post/3lhvappgeo22r
與那覇潤さんについては、デビュー作『中国化する日本』を出したときから、あれをインチキだと見抜いたオレがえらい。🥳
歴史学会は、あれを「賛否両論」とか「稀代の怪作」とか、暗にインチキだと匂わせつつ表面的には好意的に見えるような紹介をしていたのが、のちのちの災いの種を育ててしまった責任があると思う。
歴史を知らない各メディアに取り上げられ、好意的な書評をもらい、與那覇潤さんを増長させてしまった。あのとき息の根を絶つべきだったと思うね。🙂
「息の根を絶つ」とまで言われているにもかかわらず與那覇はこの発言に一切反応していない。というのも、このyunishioは與那覇とtwitterの時に相当やりあっていたようである。
ちなみに與那覇は嶋理人のbuleskyの投稿を批判していたから、この投稿を知らないなどとは考えにくい。つまり知っててあえて無視したのである。
yunishioと與那覇のやり取りは與那覇がアカウントを閉じてしまったので復元が難しいが、断片的にやり取りは確認できる。
「「アカデミズム」に命令ですか、随分お偉いんですね。RT @yunishio 與那覇先生に怨みでもあるんか、みたいに思われそう。苛立つのは與那覇先生のことじゃなく、あんな若手研究者の粗雑な立論をアカデミズムが無邪気に称揚しちゃってていいのか?いやもうちょい距離置こうよwwって感覚」
https://twitter.com/#!/jyonaha/status/195724094082256896
kscykscyのブログより引用。「アカデミズム」に命令ですか、随分お偉いんですね。というのは與那覇の発言であるが今とは隔世の感すらある。今與那覇にこれを言ったら彼は何というだろうか。
結局與那覇はyunishioにかなわなかったようで、今でもyunishioのことは避けているようである。
しかもこのポストには與那覇と不倶戴天の相手嶋理人がいいねを付けているにもかかわらず、である。
かつて小谷野敦が與那覇の本に上野が推薦文を書いたことを「独ソ不可侵条約」になぞらえたことを、自分をヒトラーになぞらえるとは!と激怒したほどの與那覇が、である。
https://note.com/kakio_ja/n/n3a3ec24a03be
普通なら嶋もまとめて「私に死ねというのかああああえええええ!?誹謗中傷かああ!?」とぶちぎれてもおかしくはないのだが。
ここから分かることは「ホンモノ」とは他者をかつての「中国化」「江戸化」のようなテキトーな概念に放り込んで罵倒して愚弄し、自分の存在意義を証明しようとする哀れな独り言を弄する人間に過ぎないということである。そして核心的な批判や意見は一切無視するのがホンモノ流である。よく覚えておくように。これから「批判を無視するな!」と與那覇が攻撃してきたらみんなであのブログを引っ張り出して「ホンモノリスペクトです!」と言えばいい。與那覇は何も言い返せないだろう。
そのような人物をまともな批評家として扱うこと自体、そもそもおかしいのかもしれない。
與那覇がこの記事に反論することは決してないと確信をもって言える。なぜなら、ここには與那覇が「ブロック」してきた都合の悪い事実が横たわっているからである。
さいごにもうひとつ與那覇キラーのyunishioの投稿を紹介しておく。
https://bsky.app/profile/yunishio.bsky.social/post/3lhvbtrrjfk2s
バカげた主張には、その場その場できちんと「バカにする」ことが大切だなと。
バカげた主張を放置すると、あとあと手が付けられなくなるほど繁殖し蔓延するよ。
バカげた主張がなされるバカげた状況をバカにせず、誠実に「バカにする」姿勢を保つのが大事。😊
今の與那覇にはバカにする価値があるかどうか。今の與那覇は手が付けられなくなっているが、はたしてどこまでいくのだろうか。ちなみにこのyunishioの愚弄も與那覇は一切無視している。無視したということは事実と確定したということでいいのだろうか。
キャンセルカルチャーとまでは言わないが、この與那覇の惨状を見てもまでこの人と仕事がしたいと思う人は果たしてどれほどいるんだろうか。自分で自分の評判を下げ続けている奇妙なホンモノであった・・・。
そもそも私たちは思った以上に条件反射と連想ゲームで仕事をしていたのかもしれない
もし仮に、条件反射と連想ゲームに逆張りをしたらどうなるだろう?
まず、そういった行動は得がなく損だけなので誰もやりたがらないだろう
中にはやる人もいるかもしれないが、そういう人は次第に居なくなっていく
結果として、周りには同じような条件反射と連想ゲームに素直に従う、
ある最適な範囲において最適解を見つけ出すことに特化して最適化された、AIのような集団。
それが私たちだ
私たちはこれまで、まるでAIのように条件反射と連想ゲームを繰り返しながら、ただ流されるままに生ききただけなのかもしれない。
なんであの話をするようになったんだっけ?→ああ、あの話きっかけでそうなったんだった、みたいに連想ゲーム的に会話の文脈を整理する?のが好きで、よく飲み会の後の帰りの電車とかで話したことを思い返すんだけど、どんなに頑張っても文脈が思い出せなくて悶々とする時がある。大体そのうち忘れるんだけど、今気になってるやつはなかなか忘れられない。
CPAPって肥満の人がつけるものだと思ってたけど高齢者もつけるんだね〜という会話。
どこで誰と話してたかははっきりと覚えてるのに、内容と文脈に心当たりがなさ過ぎて、夢だったんじゃないかと疑ってる。でももう結構前だから相手も絶対覚えてないだろうし、急にそんな前の話をしてもまともに取り合ってもらえないだろうなと思って答え合わせはできてない。最初にこんな話したなと思い出したのはこの会話があったはずの日の翌日とかだから、古くて忘れてるんじゃないはずだし、夢にしては鮮明な記憶なんだけど。どんな文脈だったらCPAPと高齢者の話になるんだよ。
Aさんが「私はXXをした」「私はXXが好き」という話題を提示したとする
これに対するポライトな会話の展開は
Bさんは
・おうむ返しする
・「XXはどうだったか」と、Aさんの話を深ぼる質問を投げかける
これによりAさんは、自身が会話の中心にいるという承認欲求を満たすことができる。
しかし、中には
「自分はYYした」と、Aさんの話題に関連している”ように見せかけて”、関心ごとを自分側に寄せてしまう発言を”即時”してしまう人がいる
これの何が問題かというと、
・一見連動したワードで相手の話を聞いている「ように見える」。実際は連想ゲームであり、相手の話を聞いていない
・あなたへの関心がないことが即ばれる
と、たちまち信用を失っていくタイプのバッドコミュニケーションであり、
これをしていいのは、
・Aさんの会話が数ターン回った、程よい頃合い
である。ルーチンとして会話の展開を進めるにあたり、自分の番で自己開示をする。これは極めてポライトな振る舞い方である。
ただし、困ったことに、このコミュニケーション方法は一定支持を得ている。
どの年代層にもこれを行う人がいるのだ。
会話を連想ゲームと捉えている、「絶やさないこと」「即時反応すること」を最大目的と考えている人たちだ。
こう言った人たちは、思うにMBTIで言うところのE型に多い。内省をI型よりあまりしないタイプだ。
相手の話したいと言う気持ちを汲み取れないのがこのタイプである。
まさか意図してその妨害をしたいわけではなかろう。別に彼らは悪ではない。
むしろ彼らは自分が善良なコミュニケーションを取れるタイプの人間である(と勘違いしている)場合が多い。(だから厄介なんだけどな)
ちなみに、良き聞き手はこのことをわかっているので、会話をちゃんと譲る。
ここぞというところで、然る量の自己開示をするにとどめる。それはたいてい相手と同一量かそれ未満だ。
だし、この強奪者に対して「君は話を強奪している」とは言わない。指摘すると角が立つからだ。
良き聞き手は会話の強奪者に対して、言っても無駄だと心を閉ざし、やがて去っていく場合が多いだろう。
こうした強奪の会話スタイルは願わくば淘汰されていってほしいのだが、悲しいかな、されないだろう。
困ったことにこの世界は、E型に有利に設計されているきらいがあり、
またこの強奪の会話スタイルは前述の通りE型に多く見られるので、
結果として会話スタイルの生存競争に勝ち、指摘されないまま、権力勾配の向くままに優勢になってしまったと見られる。
喩えるなら、「あなた方が三角食べをすることはマナー違反ですよ(現実にはそんなことはないだろうけど)」と指摘されるようなものであり、
三角食べを良いマナーと教育されてきた人たちからしたら「何言ってんだこいつ」と呆れられるだろう。
それくらい、彼らに根付いてしまっているスタイルなのだ、会話の強奪は。
もっと強い言い方をする。
これをしすぎる人間が「アッパー系コミュ障」などと言われていたりする。
「自分もやってしまっていたかも」と思った人がいたら、それだけで素晴らしい聞き手の素質があると思う。
でももし、「いや、それでも自分は間違ってない」と思った人がいたら、一度、“あなたが話してるときの相手の表情”を思い出してみてほしい。
人と話してたことの一部分だけが頭に残って、なんでその話をしてたんだっけ?と気になってしまうことがよくある。大体はしばらく考えてるうちに連想ゲームみたいに脈絡を思い出せたり、まあいいかと忘れたりするんだけど、どうしても思い出せないのに中々忘れることもできない時もたまにあってめちゃくちゃもどかしい。
あまりに思い出せなくて、夢の中での話だったかと思ってしまうこともある。それに飲み会とかだとみんなテキトーに話してるから、「なんであの話してたんだっけ」とか相手に聞きたくても、そもそもそんな話あったっけというところでストップしてしまう。
自分の会話を全部録画して見返せるようになったらいいのにな。それかなんでその話をしたのかを気にしないでいられるようになりたい。冷静に考えれば会話のきっかけなんて全然どうでもいいもんね。
なるほどね。自分が何言ってるかわかんねぇやつには、知らない発言が、連想ゲームとか境界知能の発言に見えるのか。
あのな、「タコツボ」というのは丸山のころから、小集団が沢山出来ている、という状態を指す比喩だよ。
それともう一つお前が使った「広場」っていうのは、ギリシアのアゴラを念頭に、人々が大きな広場で一つになっているイメージだろ。
まず第一に、ムラ的な小集団を作りがちで大きなアゴラ的集団を持たない、みたいなマジで昔から良くある話は、だいたい日本社会の特性の話だったんだね。丸山が使ってたっていうのは、そういうこと。そしてこれは、欧米ではそんなことはない、という前提があるの。でもYoutuberがどうだのアイドルがどうだの、お前が例示したケースは全世界的に今起きていることだよね。お前は、一般には使われない意味でよくあるタコツボだの広場だの言う比喩を持ちだしてきてるってことだね。全人類がタコツボ社会にいる、とか言わないのよ普通は。
第二に、広場が無い、と表現が端的に誤りと考えられるね。インターネットはまさに誰もが接続できる広場だ。広場に全ての人が接続すると、我々には全ての情報を把握できなくなって、結果として何か聞いても知らないことが増える。これほんまにタコツボかね? タコツボっていうのは、小集団が沢山あって、それらが相互に孤立している、というイメージの表現だが、これが真実から遠いね。俺たちは孤立なんかしてないよ。俺らは広場にちゃんとあつまっており、全てに接続したうえで、膨大すぎてそれら把握できないだけだ。断絶した小集団も別に形勢してないんだよ。むしろ小さい地域コミュニティみたいなもんの解体こそが現代の課題となっている。
お前は、おなじみの広場だのタコツボだいう単語で、お前が理解できない話をされているという現在の孤独を理解しようとしたが、ジジイにおなじみの表現をムダに使おうとしたことで、かえって現状の把握に失敗しているね。
体育会系と文化系という分類における文化系(陰キャ)と勘違いしているやつがいてアホだなあと思った
先日、ネットでとある記事を読んでいたら思わず「え?」と思う記述があった
一瞬、頭がフリーズした。
彼の言っている「文系」と「文化系」が、私の頭の中でうまく結びつかなかったからだ。
ああ、なるほど。
彼は「理系と文系」という学問の分類と、「体育会系と文化系」という人間の気質の分類を
ごちゃ混ぜにしてしまっているのだ。
そして、その後者における「文化系」が持つ、やや内向的、いわゆる「陰キャ」的なイメージを、前者における「文系」全体に当てはめてしまっている。
しかし、その一方で、なぜ彼がそんな突拍子もない(と私には思える)勘違いをしてしまったのか、妙に気になってしまった。
「理系か、文系か」というのは、高校や大学で選択する学問分野の大きな括りのことだ。
ざっくり言えば、自然科学や数学、工学、医学といった分野が「理系」。そして、人文科学、社会科学、法学、経済学といった分野が「文系」。これは、何を学ぶか、どんなアプローチで真理を探究するかの違いであって、個人の性格やライフスタイルを規定するものではない。もちろん、学問の特性が個人の思考様式に影響を与えることはあるだろうが、それは結果論に過ぎない。
一方で、「体育会系か、文化系か」というのは、個人の気質や所属するコミュニティのカルチャーを指す言葉だ。
「体育会系」と言えば、運動部に代表されるような、上下関係がはっきりしていて、根性論やチームワークを重んじる、エネルギッシュで外向的なカルチャーを指すことが多い。いわゆる「陽キャ」のイメージと結びつきやすい。対する「文化系」は、文芸部や美術部、吹奏楽部などに代表される、個人の興味や探究心、内面的な活動を重視するカルチャーだ。こちらは比較的物静かで、インドア、内向的な「陰キャ」のイメージを持たれがちだ。
この二つの分類軸を並べてみれば、両者が全く別物であることは火を見るより明らかだろう。
これはX軸とY軸のようなもので、本来は組み合わせて四象限のマトリクスで考えるべきものだ。
・理系で体育会系:工学部のラグビー部員とか、医学部のサッカー部員とか。ゴリゴリのフィジカルを持ちながら、論理的な思考も得意とする人たち。たくさんいる。
・文系で体育会系:法学部の野球部主将とか、経済学部のアメフト部エースとか。チームをまとめ上げるリーダーシップとコミュニケーション能力に長け、社会の仕組みにも明るい。こちらもたくさんいる。むしろ、営業職などで大活躍するイメージすらある。
・理系で文化系:数学科でチェスに没頭する学生とか、物理学科でSF小説を書きふける大学院生とか。知的好奇心の塊で、自分の世界を深く掘り下げるタイプ。これもステレオタイプな「理系像」に近いかもしれない。
・文系で文化系:文学部で古文書を読み解くのが好きな学生とか、史学科で一日中博物館にいるような人とか。これもまた、一つの典型的なイメージではあるだろう。
このように、四つの象限にはそれぞれ典型的な人物像を当てはめることができる。
そんな単純な話では全くないのだ。
彼が言っていた「文系=文化系(陰キャ)」という図式は、このマトリクスの存在を完全に無視した、あまりにも解像度の低い世界認識だと言わざるを得ない。
では、なぜ彼は、そしておそらく彼以外の一部の人たちも、こんなにも雑な紐付けをしてしまうのだろうか。
いくつか理由が考えられる。
「文系」の「文」と「文化系」の「文」。この共通する漢字一文字が、無意識のレベルで両者を結びつけている可能性は高い。人間は、意味よりも音や形の類似性で物事を連想することがよくある。「文」という字には、どこか「武」の対極にあるような、静かで知的なイメージがつきまとう。「武」が体育会系なら、「文」は文化系だろう、という非常にシンプルな連想ゲームが、頭の中で行われているのではないか。
二つ目は、ステレオタイプの暴走と単純化だ。世の中には、様々なキャラクターの「型」が存在する。特に、ドラマや漫画、アニメといったフィクションの世界では、分かりやすさが重視されるため、キャラクターはしばしば極端なステレオタイプとして描かれる。
たとえば、「理系の天才」は、コミュニケーションが苦手で、白衣を着て研究室にこもっている、まさに「文化系の陰キャ」として描かれがちだ。一方で、法廷ドラマの敏腕弁護士や、経済ドラマの熱血銀行員といった「文系」のヒーローは、弁が立ち、行動力がある人物として描かれることが多い。
こう考えると、むしろ「文系=陽キャ」のイメージの方が強まりそうにも思える。だが、ここで話はもう少し複雑になる。
おそらく、多くの人が「文系」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
経済学部や法学部ももちろん文系だが、より「文系っぽい文系」としてイメージされるのは前者だろう。そして、ひたすら文献を読んだり、思索にふけったりする文学部のイメージは、確かに「文化系」の活動と親和性が高い。この「文系の中の特定のイメージ」が肥大化し、文系全体を代表するイメージとして認識されてしまう。その結果、「文系=文学部っぽい人たち=文化系っぽい=陰キャ」という、伝言ゲームのような連想が出来上がってしまうのではないか。
人は誰しも、自分の見てきた世界が世界のすべてだと思いがちだ。例えば、その人が通っていた高校のクラス編成が、たまたま「理系クラスは大人しい生徒が多く、文系クラスは活発な生徒と静かな生徒が混在していた」という状況だったとする。その場合、「理系は文化系寄り、文系もまあ文化系寄りかな」という雑な印象が刷り込まれてしまうかもしれない。あるいは、自分の周りにいる数少ない「文系」の友人が、たまたまインドアな趣味を持つ人ばかりだった、という可能性もある。その限られたサンプルから、「文系とはこういうものだ」という法則を導き出し、それを世の中全体に当てはめてしまう。これも、人間が陥りがちな思考の罠の一つだ。
https://anond.hatelabo.jp/20250614122405
俺がブクマしたんじゃねえ。誰だよまじで
君は「思想の自由」は単なる単語ではなく、「議論の結果」であり、文脈と積み重ねを含む高度な構造体であると主張した。
それ自体は正しい。だが、それが誰かがその語に基づき自身の意見を持つことを否定する根拠には一切ならない。
思想の自由とは、「それについて完璧に理解していない者の発言権すらも保障される」という前提のもとに構成されている。
なぜなら、完全理解というのは定義不可能な幻想であり、それを免許制のように扱った瞬間に自由は「選別」によって殺されるからだ。
連想ゲーム?違う。これは制度的・哲学的語の外延に基づく意味の操作と、概念的含意の検討だ。
君がやっているのは逆に、感情語(「低脳」「サル」)を連打して、本来の議論から逃走しているだけだ。
そして、「門外漢は自覚を持って語れ」は正論だ。だがその文の次に「門外漢は黙れ」と書いてしまった時点で、
しかし君はその建前を放棄して、「知識が不十分とみなした者に発言権はない」と言ってしまった。
それは思想の自由に対する論理的クーデターであり、君の主張全体を自己破壊させる。
さらに、語気を強めることで論点が強化されると誤解しているようだが、
知的議論の場では、語彙の強度は論理の強度の代替にはならない。
「議論の結果である」と言うなら、その内容を具体的に引用し、反論の形式で示せ。
それをせずに「100倍中身がある」などと抽象的なマウントを取るのは、
・思想の自由を持ち出した者に対して、それを語る権利がないと断ずることは、定義的に自己矛盾
君が真に思想と知性を尊重するなら、語る資格ではなく語られた内容そのものを批判せよ。
女だけど似たような感じで雑談力が無かったので、相手の気持ちが少し分かる気がする。最近はちょっとだけ雑談力は上がった。
「暑いですね」と聞いた時に連想ゲームのように水筒や洗濯物がよく乾くなど色々出てくるのはコミュ力がそこそこないと無理。相槌とせいぜい「そちらも暑さ大丈夫ですか?」くらいの返ししか思いつかない。特に緊張してると思考が鈍ってそうなる。連想ゲームが下手。
多分だけど相手が趣味を聞いてくるのは、もし趣味が興味のある分野なら話を広げられるから。私もアクアリウムなら「淡水?海水?」「これから暑い季節は水温管理が大変ですよね」とか色々相手に質問しながら話を広げられる。仕事の話も喋りやすいのかもね。
会社は仕事の話なら普通にできるんだと思うよ。引き出しが多いので。友達は話の興味が合えばできる。
私はコミュ力が高い人は、上手く相手の興味のあるツボを見つけて傾向を把握、話題を相手に合わせる能力が高いんだと思ってる。相手に自然に喋らせることができる。
私の場合は、興味の傾向がかなり近い人と運よく学生時代に会えたので結婚できた。お互い興味のある分野ばかりが話題になるので会話も楽しく広げられる。アクアリウムとかオタクな話題とか。もし結婚相談所になったら全然喋れなかっただろうから本当に運が良かった。
そういえば最近、スポーツ観戦が趣味で二次元オタクからほど遠く仕事も分野が全然違う男性と話す機会があったけど、お互いまったく話が広げられなくて気まずかった。私にもっと雑談力があれば……。次に会うまでに情報を仕入れて会話を広げられるように知識を入れておかねば。元増田さんの話で思い出した。ありがとう。