はてなキーワード:軽蔑とは
この映画に対して「本を雑に扱うな」「本のシーンだけは無理」などという声が上がっている。
描写としてはイケイケ王子が図書館で本を投げたり踏みつけたりしながらイケイケに歌うシーンだ。
ウィキッドという作品には強烈にファシズムへの批判、「ナチス」を想起させるシーンが組み込まれている。
実はイケイケ王子、取り繕っている系イケイケ王子で根はもう少し複雑だ。
イケイケな歌の歌詞を聞けばわかるのだが、彼はそうすることで彼の立ち位置を守っている。しかし主人公のエルファバはそれを軽蔑しているし、イケイケ王子だって内心自分が嫌いそうである。
さらに進んでいくと、歴史を封印、思想矯正、ホロコースト、仮想敵等々「映像の世紀」を見ていれば毎週おなじみの光景が繰り広げられ、さらにチャップリンの「独裁者」のオマージュがハッキリと提示されるのだ。
本の扱いが雑なのは、知識に対して雑なのは、そもそも作品の要素であり、人類の負の歴史として実際にしてきたことなのだ。有名なナチスの焚書を知れば明らかだろう。
でも、悲しいことに冒頭の「本を雑に扱うなw」「不快〜」「物を大切にして」みたいな短い、浅い、子供の道徳教育のような感想だけでこのシーンが批判されてしまうのもまた、日本の歴史教育の浅さが招いたものなのかもしれない。
それを言うのが本好きだというのもまた痛ましい。
無論、気付なかったのが子供ならその「不快感」を教育に結び付けられるものなのだろうが、大の大人が「パッと見不快」なだけで、深く考察していけないとなるとウィキッドの持つテーマ性すら把握できていないのではないだろうかと思ってしまう。
別に後編を見なくてもこのあたりは普通に理解できる部分ではあるし、「不快」と思う感覚も正常なのだが、果たして「不快だから駄目」と切り捨ててしまうのは正解だろうか?
ネット炎上が大体問題の表面的な部分だけ見て行われるのだが、ウィキッドに対しても、これだけ丁寧にやったのにその反応が起きてしまうというのは、悲壮感が漂ってくる。
さす九。
傾向として、九州が男尊女卑なのは否定しにくいし、きっかけが何であれ勇気を出して声を上げた人たちを抑圧するのはいかがなものか…
と思ってたけど、実際のさす九語り見てみたら、全然そんなレベルじゃないね。
何が「ウチお父さんとセックスしてる!!」「妹のゴハン3カ月くらいナシだよ~」だよ。
いや、ニュースとか見ればそういうヒドい事件があるのは知ってるけど、九州出身だからってそれが九州では当たり前のことと思い込むとかまずあり得ねえだろアホか。
こんなもんただの地方差別の雑過ぎる嘘松でしかないし、嘘でもいいから地方を叩ければいいと乗っかってる人間も軽蔑します。
本当に信じてるだけ?じゃあただのバカか?
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目があっただけで「自分のことを笑った」とイチャモンつけてきたあの先生まだ生きてるのかな?
噂によると、校長先生の教え子だったから他に放流することもできず、長い間同じ学校にいたんだってね。
生徒を更衣室に呼び出して、お前俺を笑っただろうとロッカー蹴りながら脅していたよね。
後ろからずっとぶつぶつ聞こえると思ったら、
「お前俺を笑っただろう」とずっと後をつけてきていたよね。
授業の時間も構わず、児童会室に呼び出して、ネチネチ文句を言ってたね。
そんなことお構いなしだった先生。
ついに生徒にアザを作ってしまってその子の家に謝りに行ったんだよね。
その子から聞いたよ。親には謝ったけど本人には謝らなかったって。
当時は恐怖の対象でしかなかったけど、数年後高学年には馬鹿にされる教師になってたね。
心底軽蔑していたんだよ。
かわいそうな先生。
どうやって死んだかな。
日常的に軽蔑の目を向けられたり立場を軽んじられてきた人の中には、相手に敬意を示すことを一種の敗北だと捉えている人がいるんだよね。心を支払うというのはそれを言ってるんだと思う。
ノア・スミス「ポピュラー経済学本:読んでおくべき本、読むべきでない本」(2025年2月27日)
https://econ101.jp/popular-econ-books-what-to-read-what-not-to-read/
The Deficit Myth,byStephanie Kelton
この本は読んでないよ!
私がこの宇宙に存在し覚醒していられる時間は限られているから、MMTに関する336ページの本を読むつもりはない。
知らない人のために言っておくと、MMTは擬似理論であり、政府赤字が安全な理由や、経済の実際の動き方を具体的に示すことなく、政府赤字を無限に推し進めようとする議論だ。
『財政赤字の神話』は読んでいないが、MMTの論文はいくつか読んでおり、それで要点は十分理解できた。
ノア・スミス「現代金融理論 (MMT) を詳しく検討してみると」(2019年3月31日;2021年11月20日更新) –経済学101
ケルトンの本を読んだ経済学者は、みんな同じ結論に至る。MMTには実際にはなんの理論もない。フランス銀行の経済学者2人組は次のように言っている。
全般的に見て、MTTは真正の経済理論というより政治的マニフェストに見える。
ハートリー(Hartley 2020)が述べるように、MMTは「反証可能な科学理論ではない。むしろ、進歩主義的目的を果たすために無限の政府支出を行うのが正しい(そして可能だ)と考える人々の、政治的・道徳的な意見表明だ」。
カリフォルニア大学サンディエゴ校のジャコモ・ロンディーナ(Giacomo Rondina)は次のように述べている。
MMTの学術文献を読んだ限り、MMTは未だ、政府介入のミクロ経済学についての十全に一貫した理論を提示していない。
結果、MMTの「ボンネットの下を覗いた」マクロ経済学者の多くは、エンジンが実際にどう動いているのかを理解できず挫折感を抱かざるを得ない。
私よりもMMTのナンセンスな議論に我慢した勇敢な人々に敬意を表したい。
いずれにせよ、私からの友好的なアドバイスとしては、私がやったようなことはせず、MMTのために精神的労力を使わないことだ。
ノア・スミス「現代金融理論 (MMT) を詳しく検討してみると」(2019年3月31日;2021年11月20日更新)
なじみがない人のために言うと,MMT 〔を主張している人たち〕とは,「政府はもっと借り入れてもっと支出しろ」と言ってまわってる結束の固い集団だ.
MMT は「現代貨幣理論」(modern monetarytheory) の略で,この名称をぱっと見たら,「ああ,経済の仕組みについての理論があるんだな」とふつうは思う.
これまでのところ,経済学者たちがMMT の文献をじっくり調べてみても,ネットミームにとどまらないまとまった理論と言えるものはないという結論になってる――そこにあるのは,特定の政策を支持するあれこれの論証であって,経済の仕組みを十全に展開してはいない.
(MMT を主張する人たちは〔意見がちがう人たちへの〕軽蔑がはげしくて,ソーシャルメディアでの攻撃がきつい.当然ながら,あたかも経済学者たちがMMT 文献をまじめに読んでいないかのように彼らはほのめかしてる.)
私はかつて、田舎の小さな町で育った「ドブス」だった。鏡を見るたびに、自分の平凡な顔にため息をつきながら、それでもどこかで「努力すればなんとかなる」と信じていた。受験で一般入試で東京の有名大学に合格した。
大学に入学してすぐ、新橋のガールズバーで働き始めた。昼間は大学、夜は水商売。
客の酔った笑い声に合わせて愛想を振り撒きながら、私は内心で別の夢を育てていた。新しい顔で新しい人生を手に入れる。それが私の脱出計画だった。
何年かかけて貯めた金は、全部まとめて美容外科のカウンターに置いた。鼻を高く、目を大きく、輪郭はつるんと卵型。痛みと腫れに耐えながら、私は鏡の中の「新品の私」に初めて満足した。
整形後の顔は完璧とは言えなかったけど、少なくとも「ドブス」からは脱却できた。自信が湧いてきた私は、満を持して就活を始めた。そして驚くほどトントン拍子に事が進み、自分が生まれた田舎でもみんな知っている有名企業に入社した。
元々の頭が良かったわけじゃない。ただ、顔がそこそこ整って愛想が良ければ、面接官の目は優しくなる。それだけの話だった。
東カレデートで出会った彼は、外資系企業に勤めるエリートだった。20代半ばで付き合い始め、彼がプロポーズしてきたとき、差し出されたのはグラフの1ctダイヤが輝く婚約指輪。あまりの眩しさに目を細めながら、私は「これが私の価値だ」と錯覚した。
結婚式はパレスで挙げた。白いドレスに身を包み、ライトの下でゲストの拍手を受けたあの瞬間、私は田舎のドブスがとうとう全てを手に入れたと信じた。夫の年収は私の想像を超えていて、20代でこんな人生を掴んだ自分に酔いしれた。
子供が生まれたのは、結婚から数年後のことだ。出産は想像以上に私を疲弊させた。産後の体は、整形ではどうにもならない部分まで変えてしまった。若い頃の下駄――美しさという武器が、みるみるうちに剥がれ落ちていく感覚。鏡の中には、かつてのドブスが少しずつ戻ってくるような気がした。いや、それよりもっとひどい。疲れ切った目元と、弛んだ頬。夫の視線が冷たくなったのもその頃だ。外資系企業で多忙を極める彼は、私を「家族」として扱うけれど、かつての熱い視線はもうない。グラフのダイヤは光っていても、それはただの装飾品でしかない。
そして、子供を見て、私はさらに絶望した。夫の整った顔立ちではなく、私の元の顔――整形前のドブスな遺伝子が色濃く出ている女の子。
平べったい鼻、低い眉、どこか間の抜けた表情。夫に似てくれれば、私のコンプレックスは帳消しになったかもしれないのに。そう思うたびに、胸の奥で何か黒いものが蠢く。それだけじゃない。幼稚園に入った今、子供の頭が悪いことも明らかになってきた。
ほかの子がスラスラと数を数えたり、簡単な絵本を読んだりする横で、うちの子はぼんやりと口を開けている。ママ友の「もうこんな言葉を覚えてて」の自慢が、私には嘲笑にしか聞こえない。自分の子供が私に似て醜くて頭が悪いなんて、耐えられない屈辱だ。
愛情を注ごうとしても、鏡を見るたびに過去の自分を思い出して憎悪が湧く。私はこんな子を産むために、ここまで頑張ったのか?いくら早期教育に通わせても、遺伝の壁は越えられない。子供のデキは、エルメスのバッグと同じだ。努力で手に入るものじゃない。生まれ持ったものか、運次第でしか手に入らない。
私は必死に店に通って「エルメスパトロール」を繰り返し、運良くバーキンを手に入れた日にはSNSでさりげなく自慢した。でも、周囲のママ友たちはそんな苦労とは無縁だ。外商経由で難なくオーダーしたり、親から譲り受けたヴィンテージのケリーを当たり前のように持っている。彼女たちのカジュアルな「これ、お母さんのお下がりなの」という一言が、私の努力を一瞬で嘲笑う。
それだけじゃない。家柄でもルックスでも、私は周囲にまるで歯が立たない。東京の芸能人やミスコン出場者みたいな華やかな顔立ちとは比べ物にならないし、整形したところで生まれつきの品の良さや骨格までは買えない。私の実家は田舎の平凡な一軒家で、先祖代々の何かがあるわけでもない。一方、ママ友の中には、由緒ある家柄出身で、自然な美しさを備えた人たちが平然と混じっている。彼女たちには、私が整形と努力でやっと手に入れたものが、生まれたときから備わっているのだ。
整形費用を稼ぐためにガールズバーで働いた日々も、バーキンを手に入れるために費やした時間も、彼女たちの前ではただの滑稽な足掻きにしか見えないのだろう。嫉妬が胸を締め付けるたび、私は自分がどれだけ脆い土台の上に立っているかを思い知る。
階級闘争なんて、所詮は金と時間と生まれのゲームだ。私が手に入れたものは、一時的なチケットにすぎなかった。子供が大きくなればなるほど、階級闘争に勝たせなければいけないという重圧がのしかかり、その子が私の足を引っ張る存在にしか思えない。夫は外資企業で稼ぐけれど、いつクビになるかわからない。
SNSで流れてくる同級生たちの田舎暮らしの写真を見ても、かつての軽蔑は湧かない。むしろ、妬ましさすら感じる。あのまま田舎に残っていれば、こんな虚しさは味わわずに済んだのかもしれない。
今、私は転落しつつあることを感じている。美しさという下駄を失い、若さという期限切れのカードを握り潰し、東京への憎しみを抱えたまま、それでもまだ何かを取り戻そうと足掻いている。
でも、正直なところ、もう疲れたのかもしれない。田舎のブスが都会で夢を見た代償は、あまりにも大きかった。パレスでの誓いの言葉も、ダイヤの輝きも、バーキンの革の手触りも、結局は遠い過去の幻にしかならない。
Permalink |記事への反応(31) | 19:06
自分をしっかり持っていそうな、はっきりしているタイプの女性が好みなんだ
でも俺は全然自分に自信がない、彼女らとは対極の人間だから、そういう女性に対して、軽蔑されるんではないか、相手にしてもらえないんじゃないか、と感じてしまい、関わるのが怖い
どうしよう
https://x.com/ojo199654/status/1892440495546122421?t=2nZevO9ivsRfKIaq3QWGVA&s=19
日本人のロリコンが田舎で小学生とやった漫画を上げ、海外に見つかり燃えている。
海外の美少女アイコンも驚愕し気持ち悪がっているし、これに7万いいねがつく日本や日本男性やロリコン男への軽蔑や殺意を隠さないツイートも多く支持を得ている。
生きたまま皮を剥げ日本男の絶滅を願うなど過激なバッシングも目立つし、これに七万いいねがつくロリコンの国日本への嫌悪も目立つ。
驚くことに外国人男性も普通にロリコン犯罪妄想を吐きまくる日本男を嫌悪してロリコン犯罪漫画バッシングに参加している。
この日記書いてる間に1.2万もいいねが増えていたくらい猛烈に伸びてる。
Weneed to start killingmore child predators. I’mbeing so serious
私たちはさらに多くの子供たちを捕食する者を殺し始める必要があります。すごく真剣なんです
https://x.com/E1ZOUKEN/status/1893362550097494460?t=OzRgLC8oOv07ZfqlJAvk6g&s=19
確かにとても気持ち悪いが、日本のロリコン作品ではよくあるレベルの表現だ。
直接的なエロシーンも描かれてない、それでもこうなるのが普通の感覚なんだと衝撃があった。
多分日本人の女が騒いでいたら表現の自由戦士達が嬉々として現実と漫画の区別がつかないキチガイフェミが幼女に嫉妬ーと叩きにきたろうが、海外で燃えたからかまだダンマリを決め込んでいる。
俺も将来はお世話になるかもしれんしな。
人生なんて何があるか分からんし、いざってときに頼れる制度がないと困るやつは山ほどいる。
明らかにダラけてるやつ、税金で食わせてもらってる自覚ゼロのやつ、マジで多すぎ。
「底辺労働乙ww」みたいなこと言ってる受給者いるけど、お前らがその「底辺労働者」の税金で生きてるって分かってる?
こっちは必死に働いて税金納めてるのに、働かないでのうのうと暮らしてるやつに煽られるって何の罰ゲームだよ。
まともなやつもいるかもしれんけど、そういう奴はいちいち何か発信しないしな。
受給者のくせに偉そうにしてるやつを見ると、どうしても見下しちまうんだよな。
でも、俺は本当は優しい人間でありたいんだよ。
人を見下したくないし、誰にでも平等に接したい。
俺はこれまで、よっぽど直接的な差別の扇動などを行っていない限り、表現はできるだけ広く守られるべきだと考えてきた。
たとえ、自分自身の好みからいえば嘔吐を催すようなジャンル(BLやNTRなど)であってもだ。
それは国家や自治体などによる公的な規制はもちろんのこと、市民間の(自主)規制に対しても抵抗するつもりだった。
甘いかもしれないが、それが戦後民主主義教育を受けてきたこの国の市民として、当然の義務だと信じていたのだ。
だが、その理想はあっけなく打ち砕かれてしまった。ほかでもない、フェミストによる「赤いきつね」CM排撃事件によってだ。
フェミニスト(その多くは腐女子を兼ねている)たちの、件のCMに対する言及は明らかに批評の域を超えており、攻撃と呼ぶべき苛烈さだった。
しかも、その矛先は作品内容だけではなく、製作者や、声を演じただけの声優(ともに女性)にまで及んでいた。
ここまでくれば理解しないわけにはいかない。フェミニストたちの望みは、あのCMとそれに関わったすべての者たちの抹殺――言い換えればこの世界からの「規制」なのだ。
この世界には守られるべき表現と、規制され、軽蔑され、唾を吐かれるのがお似合いの表現がある。
なるほど、よく分かった。俺も今日からその思想に鞍替えさせてもらおう。フットワークが軽いのが自慢なんだ。
俺は、どんな些細な形であれフェミニストが関わったすべての表現について、法的・社会的に規制を推進する立場を取る。
お前たちの好きな物、そしてお前たち自身をこの社会から徹底的に「規制」してやる。
守られるべき表現と捨てられるべき表現があるのなら、その線引きは俺が決める。お前たちに決定権は1ミリたりとも渡す気はない。
今は楽しくてしょうがない。
戦争が始まるんだ!
潰してやる。俺たちをすり潰そうとする何もかもを、逆にこちらが潰してやる。
覚悟しておけ。
音楽大学に進学しても良いと言ってくれた両親のことを、当時高校生だった私は信用できませんでした。アップライトピアノも買えない(買ってくれない)んだから音大の学費を出してもらうのは無理だろうと思ったし、両親は私に家計の話を詳細にはしてくれなかった。
私は音大に進学しても自分がお金に困ることになるだろうと予想し、受験することを諦めました。そして地元の一般大学に入りました。
妹の大学入学後、両親は、「見てわかる」作品を持って帰ってくる妹のことばかりを誉めるようになりました。私はそれが嫌でした。特に、父親。
私は文学部に入ったから課題ではレポートを書くことくらいしかやらなかったけど、そこそこ良い成績を取り続けた4(5)年間だったし、課外活動もそれなりに頑張りました。でも私は「見てわかる」成果をもっていなかったし、両親は私よりも妹に興味があるようでした。
当の妹は、家の外でのコミュニケーションはそつなくやるくせに、家族とのコミュニケーションを疎かにします。家事も全くしないし、食器洗いを私にやらせるし。近頃は明け透けに私を軽蔑した態度をとります。
両親は生活や学業にかかるお金を全て負担してくれたし、成人した子どもたち3人に対するケア労働を不足なくこなしました。こんなにも恵まれた家庭に育ったくせに甘えたこと言ってんじゃねえよ、と自分でも思います。でも私は実家のことが嫌いだった。私は実家に閉じ込められていました。
私は魂の牢獄を出ていきたくて、実家から遠く離れた九州の大学院に行くことにしました。