
はてなキーワード:転覆とは
平和賞、中南米の各国首脳が祝意 ベネズエラ政府系メディアは非難
というような記事がでているけど(共同通信)例えばブラジルのような反米的な国での反応はでてこない。
でてくるのはみんな米国よりの国ばかりだ。特にアルゼンチンをもってくるあたりどうなんだろう。他の国の中にはパナマのような国もあるが、その表現は抑制的であるように見える。
今や米国と中国の覇権争いの中にある中南米の中で、今回のマチャド氏の立場、スタンスは明らかだ。これを隠して報道することはなにかおかしいと思われるが。ベネじエラ政府転覆の米国の支援は明らかなのになぜそれはセットで報じられないのだろうか?なんだかノーベル平和賞は昨年の選考のバックスラッシュで何かの影響を感じざるを得ない選考だったような気がするがどうなんだろう。このような選考が続くとすると、ちょっと賞の価値も下がるしどうなんだろうという気がするが。
カヌーはお椀を前後に引っ張ったかたちをした、幅広底深のオープンデッキのフネで、積載能力が高い。カヤックは底の浅い流線型をした、コックピット部分に穴が開いたクローズドデッキのフネである。
カヤックには、グラスファイバー製で一体成形のリジッドカヤックの他、広げた折り畳み傘のように、グラスファイバーやアルミの骨を組んで、岩にこすれても簡単には破れない丈夫な防水スキンを張った、フォールディングカヤックがある。専門店で注文する。
機能的には、水遊び用の全長1m強の小回りの効く水すましタイプ、荒れ狂うホワイトウォーターに飛び込んで戯れるロデオ、全長5mほどでキャンプ道具など積載できるツーリングカヤック、舵のついたシーカヤックなどに分けられる。
カヌーではオール(パドル)の片端のみに水かきがついていて、片膝を立ててJストロークを左右繰り返して直進する。
カヤックでは、両腕を伸ばしたままパドルをもち、横倒しにした8の字を立体的に描くように左右に動かして漕ぐ。上手い人は、進路変更以外では、パドルの先をほとんど水面下に浸けない。私はというと、半分以上先を浸して強引に漕ぐ、水上の筋トレ派だ。
性能の良いライフジャケットは必須である。性能は浮力のkg表示で判断する。必要スペックの詳細はアウトドアショップで尋ねてほしい。単に静水で浮くだけでなく、流れの落ち込みで圧されたとき浮力を保証するようでないといけない。浴槽の栓を抜くと水と共にゴミが渦を巻くが、川で流木等が積み重なっている場所は水の吸い込み口で、近づくとフネごと引き込まれてとても危険だ。
パドルは、ホームセンターで売っているのは予備として、できれば専門店で良いものがほしい。
服装は、頭は帽子かバンダナ、胴はウエットスーツか冷水ではドライスーツ、足元は長靴かサンダルがいいというが、要は日差しと低体温を防げる機能的な格好ならなんでもいい。
貴重品や着替え、食料などは、防水のドライバッグに入れて膨らませ、転覆しても荷物が浮くようにしておく。
地図は、国土地理院の一番細かいものをコピーするか、場合によっては川地図が買える。堰堤の場所(上陸して回避する)、最寄りの道路、民家などの場所、キャンプ場のある上陸可能な岸などがわかればいい。
自分のフネをもつ人は好きなとき好きな水に浮かべればいい。カヌーの場合、川でははじめ、へ先を上流に向けて漕ぎ出す。
フネをもたない人は、アウトドアショップやカヌーショップ、それにレンタルカヌー屋が開催する体験ワークショップやツーリング(川下り)に申し込むことになる。どちらも漕ぎ方はもちろん教えてくれるが、ツーリングでは流れの読み方も教えてくれるはずだ。関東だと長瀞、関西だと吉野川、北海道だと釧路川など。
フネが転覆して中の人が水没することを沈するという。ワークショップでは教えることになっているはずだが、沈したときパニックで溺れないよう、また対処のしかたを知るために、一度は経験しておくのがいい。
風波が強くてフネがあおられるときは、水面をパドルで押さえるように叩いてバランスをとる。波に対してフネが横向きになったり、岸近くの波に巻かれると転覆しやすい。川で水が白くなって見えるところを「瀬」というが、瀬に入る前にコース見をしてから突っ込む。瀬に岩が噛んで泡立っている場合はヘルメットなどが必要だろう。日本の川は急流で短い。
私はツーリングでは一度も沈したことがなく、漕ぎ方もずいぶん上達したものと思っていた。なにしろ2000km近くフネに乗ったのだ。ある夏、友人夫妻と湖で小さなカヤックを漕いだところ、私より非力なはずの友人の奥さんは静水で2倍のスピードで進んだ。体重差で言い訳はできない。つまり、これまで私は流れに逆らわず、流れに乗って川下りをしていただけであるのが判った。あまり従順すぎるのも考えものだ。
2025年現在、川魚を食べて健康に問題ない日本の川があるのかわからない。昔、極北に注ぐ川の水の澄んだ上流部で、ルアーを投げると簡単に20-30cmの鱒が釣れた。釣りの腕は素人だ。それまで虫さえ殺したことのなかった私は、釣りあげた魚を前に途方に暮れた。話によると、石で魚の頭を殴りつけて気絶させるといいらしいので、そうしたところ、魚はじたばた暴れたままだ。動物愛護と調理計画の板挟みになった。(略)
ホイルに包んで焚き火でバター香草焼きにした。このときの魚には申し訳なく思っている。冥福を祈りたい。
人類が火を使うようになって文明への道を歩み始めたといわれるが、子孫の私は火をつけるのが上手くない。燃え広がらないのだ。つい着火剤に頼るので、上達しない。あるとき、直径30cmほどの流木を見つけた。ノコギリで挽くのが面倒でたまらず、油をかけて丸ごと燃やそうかと思ったほどだ。
カヤックのツーリングは楽しい。夕暮れ空が色のグラデーションを濃厚にしていくころ、音のない澄み切った空気のなか、ウイスキーを啜りつつ(ビール等かさばるものはあまりもち込まないでいた)焚き火を突っつき火の粉を眺めるのは、この上なく愉快だ。
でも金出して映画館に劇場版見に行くほどじゃねぇよな、という熱量のファンだ。
一番気に入らなかったことは1話30分のドラマを1時間40分くらい(ED含めて110分)の映画にする場合、
当然あるだろうと考えていた「作品としての一本の筋」がない。あるにはあるけどユルユルのガバガバ。
もちろん話としては元恋人の娘の金持ち爺に「いっちゃん汁(意味深)」という謎の汁物を死ぬ前に食べたいと言われ
主人公の松重豊がそれ(の材料)を探しに奔走する話が全編通して描かれるんだけど、これがガヴァガーイなの。
故郷である長崎県に行く→そこの郷土料理を聞く→その中でもより古い料理を聞く→ジジイの母が韓国で暮らしてたことがあったと聞く→これやな!→合ってました。えっ、それでいいんだ。
爺も金を尽くして探したけど見つからなかったって言ってたけど、故郷の古典郷土料理の出汁を韓国料理でよく使われる食材でアレンジした汁ってそんな見つからんか?ほんまにか?爺、もしかして詐欺師に金むしられてたんちゃうか?
重要な食材が島の店にしかない(元々その島にいた気がするんだが……)→その店が18時に閉店して次店が開くのが3日後→その島への今日のフェリーがもうない→海辺の貸しボート店から無断でボートを拝借し海に漕ぎ出す→嵐にあって転覆→遭難した島で貝とキノコの汁を作って食う→毒キノコで泡ふいて倒れる→島の住民に助けられる→そこは韓国でした。
狂人じゃん。しかもこの貝とキノコの汁はその後何にも活かされない。せめてこの汁がいっちゃん汁解決へのヒントになってるとかだったら「これは運命的にもこの経験をした松重豊にしか解決できない話だったな」ってなるし、凶行の必然性にもなるけど、それが一切ない。ただ、松重豊がクソイカレてましたってだけにしかなってない。
その後、様々な事情を持った人と触れ合ってそれぞれに食材や調理法のヒントを得て最終的にいっちゃん汁が再現できるという話にはなるのだが、この作品が一貫したテーマというものを持っていないため、全てのエピソードが散逸的で結果的に「いっちゃん汁を作るため」のものにしかなっていない。いっちゃん汁を作るのに松重豊がそこまで思い入れなければならない理由がないため、よりエピソードのつながりが弱くなっている。
表現の仕方が難しいんだが映画であれば「いっちゃん汁を作る」ってことが単に「いっちゃん汁を作る」ことを飛び越えて別のテーマに通じている、様な作りであってほしいという願望があったがそれが満たされなかった。「いっちゃん汁を作ること」に対する真摯さも特にないのでよりそう感じた。
なぜこの話を映画にしなければならなかったのかがよくわからない。そこが一番気に入らない。
そもそも孤独のグルメにそんなもん求めてないって意見はよくわかるし、
松重豊がいろんな場所でうまいもん食うってアイデンティティは保たれてるしそのシーンは実際にいい。
これが3話分割されたドラマであれば「ふーん」って感じにいつも通り楽しめたかもしれない。
でもさ、せっかく映画で見るんならたぶんコレじゃないんだよ。
ただテンポはめちゃくちゃよかったので110分間サクサク見られたのはよかった。
なんかテーマ性が欲しかったとは言ったが、とってつけたようなお説教がなかったのもよかった。
韓国編ではDV被害、東京編ではコロナ、インフレといった社会問題がさりげなく提示されていたが、
そういう部分は非常に孤独のグルメ的だと思ったし、誠意的な態度だと感じた。
結果的に「俺はなぜ映画を見るのか」、1時間半とか2時間とか3時間とかかけて。
それで「暴力は許されない」とか「暗殺を認めるな」とか言うのおかしくね
いい切り口を突いたね。アメリカの銃規制観って、そこにすごい矛盾が潜んでる。
アメリカ憲法修正第2条(いわゆるセカンド・アメンドメント)は「自由な国家の安全のために、よく規律された民兵は必要。ゆえに人民が武器を保持し携帯する権利は侵されてはならない」と書かれている。建国当時の背景は、王政や暴政に対抗するために市民が武装できることを保証する――つまり「政府が堕落したときに市民が立ち上がれるように」という思想があった。これは確かに「いざとなれば暴力で政治を是正する」ことを含意していた。
でも実際のアメリカ社会は200年以上経っていて、政府の規模も軍の強さも桁違いになった。現代の国家を市民のライフルで転覆させるのは非現実的だし、むしろ銃は市民同士の事件や大量殺人の方で使われる。だから「暴力は政治的手段として許されない」と言いながらも、「銃を持つ権利は歴史的伝統として守る」っていう二重構造になってる。
つまり「武装権=国家への最後の抑止力」という建国期の論理と、「現代社会での銃=危険な道具」という現実が、ずっと衝突してる状態なんだよね。だから「暗殺を認めるな」とか「暴力はダメ」と言いつつ、憲法の根底には暴力による是正の可能性がしっかり刻まれてる。このギャップがアメリカ特有の“狂気じみた合理性”なんだと思う。
この矛盾をどう整合させるかっていうのが、アメリカ政治の永遠の病巣に近い。ヨーロッパ型の「国家が市民を守る」論理と、アメリカ型の「国家は信用できないから市民が銃を持つ」論理が真逆だから余計に目立つんだよ。
アメリカの銃文化を一言で言うと「暴力を否定しながら暴力の準備を手放さない社会」。ちょっと哲学的なブラックジョークにすら見える。
参政党、神谷宗幣の本質は、反移民として語られる排外主義よりもっと根深いものであると思う
そう思った根拠を書いていきたい
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
ぼくらが、はてなで面白おかしくワイワイ手斧を投げていられるのも日本国憲法のおかげ
自主的な検閲などはあるものの、国家権力は今の所、静観している
なんと言っても憲法に定められている権利だから、国家とは言え易々と制限は出来ない
すべて国民は、主体的に生きる自由を有する(包括的な自由権との解釈である)
権利には義務が伴い、自由には責任が伴う、権利及び自由は、乱用してはならない
(日本国憲法では権利や自由は、原則として公共の福祉(公益)による制約があるとされた。
本憲法においても、権利や自由は、本憲法が定める公益と適合する範囲に限られ、乱用を禁止する趣旨である)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第二章 国家
前項の公益は、次の二章及びこの憲法全体を通じ、国民生活の基盤確保及び国まもりを目的として規定される。
日本国憲法で、公共の福祉は第三章の国民の権利及び義務の中で定められるが
新日本国憲法では第二章の国家の中で国まもりを害しない範囲と定められている
では、参政党の言う国まもりとはというと
神谷宗幣の令和7年8月1日の「共産主義及び文化的マルクス主義の浸透と国家制度への影響に関する質問主意書」が参考になる
この質問書において神谷は、ジェンダー平等やダイバーシティ、多文化共生などは共産主義及び文化的マルクス主義が仕掛けている攻撃とみなしている
政府として、自由民主主義体制を守る観点から、共産主義思想やその文化的変種(文化的マルクス主義)による国家秩序の内側からの転覆に対して
彼は国まもりのためには表現の弾圧、思想の強制なども厭わないことが予想される
今、参政党はアニメなどの日本のコンテンツの輸出を促進すると言っているが
最強の矛が国まもりであり、全ての表現は身を守る盾を持っていないのだから
VISAの問題であれだけ吹きあがるネットが、はてなが、これで吹きあがらないのが、ただ不思議でならない
確かにVISAと違い今、起こっていることではないが、起こった時のダメージはVISAとは比べ物にならない程大きい
参政党を移民問題と絡めて排外主義などというがそれは、些細なこと
参政党、神谷宗幣が目指すのは、彼が妄想する古き良き日本・強い日本であり、その障害になるものは全て排除する
民間企業がビジネスを盾に検閲を行えば怒り狂い、首相に酷い野次を飛ばした人間を制したら怒り狂う
この表現の自由を愛する日本において、最も強力な表現の弾圧を行う可能性がある参政党、神谷宗幣が大きな支持を集める
ここまでにポリコレや経済、政治不信、外国人、色んな問題が絡まり合った結果だと思うが
それでも、それでも僕は一線を越えようとする参政党を神谷宗幣を支持出来ない
共産主義及び文化的マルクス主義の浸透と国家制度への影響に関する質問主意
共産主義勢力が官僚、司法、教育、行政に入り込み”古き良き日本”を破壊している
また、文化的マルクス主義者たちがジェンダー平等やダイバーシティ、多文化共生、外国人参政権など
それらを国はどう評価をしているか?対策をしているか?という質問
政府の答弁としては、日本共産党は調査対象団体であるが中身は公安の業務に差し支えるから明かせない
文化的マルクス主義的価値観なるものが明らかでないので回答できないよというもの
政府として、自由民主主義体制を守る観点から、共産主義的思想やその文化的変種(文化的マルクス主義)による国家秩序の内側からの転覆に対して
啓発・教育・制度的監視を含む包括的対応を採る考えがあるか示されたい、対応を採る場合、その具体策を示されたい
過去の暴力革命から日本共産党が調査対象になるのは分かるし暴力革命はアウト
でも、言論、表現の自由がある中でこの特定の思想に対して啓発・教育・制度的監視を国がやり始めたら終わりだと思うんだけど
参政党が発表した新日本憲法(構想案)に言論や表現の自由などが明記されていなかったけど狙って書いていたのかなという気がしてきた
今も右派左派、いろんな人たちが、自分の主張に反する人たちを教育する!!と戦っているけどこれ国民同士の争いじゃんか
少なくとも、日本において国家がそのどちらかを規制するような状況にはなっていない、日本には言論、表現の自由があるから
けれど参政党の憲法や彼らが理想とする世界ではたぶん無理だよね
今が辛くてそれを参政党が解消してくれるというならバンバン支持したらいいしぼくがとやかく言うことじゃないけど
神谷宗幣にとってそれは、自分が目指す世界を作るために国民の支持が必要だからであって国民のためにやっている訳じゃないと思う
いつか、神谷宗幣の目指す世界と、支持する人の世界がすれ違う時が来るからその時に手遅れにならないようにだけ気を付けて欲しい
参政党が来月講演会に呼ぶCharlie Kirkもかなり濃い人
文化的マルクス主義がアメリカを破壊していると主張している人で2020年の大統領選の不正選挙を支持
レビ記の第二十章13節
つい先日、日本では対面販売で緊急避妊薬の市販がされることになったけど彼はピルの全面禁止支持者で
中絶も母体の生命に関わる時を除いて強姦などでも例外とすべきではないという原理主義者
本日のお題はタライのフォーメーション、タライの組み合わせや利用パターンについて考察していきます。
正直なところ、場所さえあれば、大型のタライを並べまくるですべての苦悩からは解放されるはずですが、限られたスペースの中での飼育ではどのようにしたらよいのか。考えていきたいと思います。
1つのタライで飼育と採卵と幼魚育成を行うパターン。容器の中に針子を分離するメッシュ系の別の小さい容器をおいて飼育することになります。
親魚と同じ水で針子を飼育でき、エサにことかかない。
強風や大雨のような何かのきっかけで針子容器が転覆し、親に食べられることがよくある。
難易度は高めです。
別容器で針子を育成するので、親に食べられにくい。
成魚すべてから採卵するので、ねらったタネ親からの採卵にならず、品種全体からの採卵になる。親容器が過密になってくると卵を産まなくなりがちです。
オーソドックスなタライフォーメーションです。1cmくらいになった稚魚を親容器に移していければ、結構増えます。デメリットで述べましたが、親容器にめだかが増えていくため、親メダカが安心して、産卵が止まりやすいです。
ねらったタネ親からの採卵ができる。タネ親容器のメダカ数が増えないので、産卵が止まりにくい。
タライ数が増えるため、スペースの問題が発生し。水替えの手間が増える。
場所の節約のためにトロファストを3つ並べるとベターです。1cmくらいになった稚魚を育成容器に移していく作業は忘れずに。
タライを4つ用意し、タネ親、針子、育成、選外に分ける飼育法。
選外用のタライを用意することで、育成タライの成長速度を速めることができる。
選外は複数の品種で共有してミックス状態にしておいてもよいかと思います。
ということで、今年はトリプルを試しています。今のところ目論見通りといったところです。
そんじゃーねー。
↑は、この匿名日記の2個前の匿名日記anond:20250628235025 に着想を得て、Gemini 2.5Flashと会話しながら作ったエッセイのようなものだったのだけど、これをさらにチャット型AIに読ませてみたら、各AIサービスごとに見事に差が出てビックリした。
それぞれでDeep Research をさせた結果を載せるね。
8つの主要主張について、原典と学術資料に基づく厳密な事実確認を実施しました。古代ギリシャの政治哲学から現代アメリカの世論調査まで、幅広い分野の主張を検証した結果、大部分は正確である一方、重要な不正確性も発見されました。
| 正確な主張: 6件 | 不正確な主張: 1件 | 検証不能: 1件 |
古代の政治哲学に関する主張は全て正確で、現代の統計データも概ね正確でした。しかし、アメリカ独立宣言の引用において重要な欠落が発見されました。
検証結果: 正確
プラトンは確実に民主政を理想国家の堕落過程における最終段階として位置づけ、僭主政への移行を警告しています。『国家』第8-9巻の原典から、「民主政は自然に僭主政を生み出し、最も極端な自由から最も極悪な形の僭主政が生まれる」との記述が確認されました。
プラトンの政体堕落論は、貴族政→名誉政→寡頭政→民主政→僭主政の順序で展開され、民主政の「際限のない自由への欲求」が秩序を破壊し、デマゴーグを生み出すことで僭主政に至ると分析しています。
検証結果: 正確
アリストテレスの『政治学』第5巻は、民主政の不安定化と崩壊について詳細な分析を提供しています。原典では「民主政はデマゴーグに支配されるとき最も転覆しやすく、デマゴーグが富者に対する十字軍を率いるとき」との記述が確認され、実際にアテネ等の具体例も挙げられています。
検証結果: 正確
ポリュビオスの『歴史』第6巻に記述されたアナキュクロシス(政体循環論)は、主張通り王政→僭主政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政の循環を提示しています。この理論は数百のギリシャ都市国家の観察に基づいており、後のアメリカ建国思想にも大きな影響を与えました。
検証結果: 正確
学術的コンセンサスと一致する内容です。紀元前133年のティベリウス・グラックス暗殺から27年のアウグストゥス即位までの危機過程における政治的暴力、軍事的強者による内戦、経済格差の拡大、制度的破綻などの要因分析は、現代歴史学の標準的見解と合致しています。
最も重要な発見は、アメリカ独立宣言の引用における重大な欠落です。
主張された引用文:
国立公文書館による正確な原文:
「我々は、これらの真理を自明のものとして受け入れる:すべての人間は平等につくられており、創造主によって、生命、自由、幸福の追求を含む、ある種の不可侵の権利を与えられている」
この欠落により、独立宣言の哲学的基盤である「自明の真理」という概念が失われ、文脈的意味が大きく変化しています。
検証結果: 正確
機密解除されたCIA文書と1975-76年の教会委員会報告書により、イラン(1953年)、グアテマラ(1954年)での政権転覆工作、プロパガンダ活動、心理作戦の実施が確認されています。モッキンバード作戦による報道機関への浸透、MKウルトラによる心理実験なども含まれます。
2022年4月実施の調査(n=10,156)で、アメリカ成人の39%が「人類は終末の時代に生きている」と信じていることが確認されました。主張の「約4割」は統計的に正確です。調査は全国代表性を持つ手法で実施され、宗教的・人種的背景による大きな差異も記録されています。
指定されたYouTube動画へのアクセスができないため、具体的な主張を検証できませんでした。ただし、2022年1月の退任発表では、アメリカを「進行中の実験」と表現し、民主主義制度への楽観的な信念を表明していることが複数の信頼できる報道で確認されています。
このエッセイは古代政治哲学の引用と現代統計データにおいて高い正確性を示しています。特に、プラトン、アリストテレス、ポリュビオスの古典的政治理論の記述は、原典と学術的コンセンサスに忠実です。
ただし、独立宣言の引用における重要な欠落は修正が必要です。この修正により、アメリカ建国思想の哲学的基盤がより正確に伝わるでしょう。
推奨修正:
独立宣言の引用部分に「我々は、これらの真理を自明のものとして受け入れる:」を追加し、思想的文脈を完全に保持することを推奨します。
全体として、このエッセイは学術的に信頼性の高い内容を提供していますが、一次資料からの引用については、より慎重な検証が必要です。
承知しました。このエッセイ全体を対象に、歴史的・政治的主張や引用に事実誤認がないか、またその解釈や論拠に不正確さや誤解を招く表現がないかを、批判的視点から検証します。
確認が済み次第、主要ポイントごとに整理した上でご報告いたします。少々お待ちください。
このエッセイに述べられている歴史的・社会的な論点は、概ね史実や資料に基づいており、大筋で正確です。古代ギリシアの哲学者による民主政への批判(プラトン、アリストテレス)やポリュビオスの政体循環論、ローマ共和政の崩壊原因、アメリカ独立宣言の理念と冷戦期のCIAの秘密工作、現代アメリカの「ディープステート」陰謀論、福音派の終末論的世界観とイスラエル支持、さらに第二次大戦期のファシズム台頭の教訓など、多岐にわたる主張が展開されています。**これらの主張のそれぞれについて、史実との照合を行った結果、エッセイに明らかな虚偽は見当たりませんでした**。以下に、各ポイントごとに根拠となる事実関係を検証します。
エッセイの説明はこのポリュビオスの理論と一致しており、\*\*「民主政が衆愚政へと堕落する過程」\*\*についての記述(個人の自由が公共の利益を損ない無秩序と暴力に陥る)は、ポリュビオスが説いた民主政から無政府状態への移行と同じ現象を指摘しています。したがって、この点も史実に沿った主張です。
以上の歴史は、**どれほど堅固に見える政治体制でも、極端な経済格差や権力闘争(安定した政権交代の仕組みがないこと)が内部矛盾となって崩壊しうる**ことを示しています。エッセイの記述はこの歴史的経緯と一致しています。
人類の歴史において、民主主義は常に理想と現実の狭間で揺れ動く「壮大な実験」であり続けてきた。古代ギリシアの賢人たちは、その脆さと可能性を早くも見抜いていた。
プラトンは、その著書『国家』において、理想国家の堕落の最終段階として「民主政」を挙げ、それが「僭主政」へと移行する危険性を指摘した。彼は、自由を過度に追求する民主政が、最終的には無秩序と放縦を生み出し、大衆の感情に訴えかける扇動家(僭主)の台頭を許すと警告した。アリストテレスもまた、『政治学』第5巻で、民主政が貧富の対立や扇動政治家による民衆の操作によって不安定化し、崩壊に至る多くの実例を詳述している。
そして、ポリュビオスは、政体が「王政→僭主政→貴族政→寡頭政→民主政→衆愚政」というサイクルを繰り返す「政体循環論」を提唱した。民主政が衆愚政へと堕落する過程は、個人の自由が過度に尊重されるあまり公共の利益が見失われ、最終的に無秩序と暴力が支配する衆愚政治に陥るというものであり、古代の知見が現代にも通じる普遍性を持つことを示している。
古代ローマ共和制は、これらのギリシア哲学者の懸念を現実のものとする一例だった。その成果は、法の支配、市民の権利、抑制と均衡のシステムに見られたが、広大な領土の獲得に伴う経済格差の拡大、軍人政治家の台頭、そして内乱の激化は、最終的に共和制を帝政へと移行させる原因となった。これは、いかに強固な体制であっても、内部の矛盾と「安定した政権交代ができない」という弱点を抱えることで、崩壊の道を辿ることを示している。
長く続いた暗黒のヨーロッパを経て、米国はリベラル・デモクラシーの旗手として世界の舞台に登場した。その理念は、自由、平等、人権、そして民主主義の普及にあった。米国の独立宣言は、まさにその理念の表明であり、「全ての人間は平等につくられ、創造主によって、生命、自由、幸福の追求という、ある種の不可侵の権利を与えられている」という、新しい世代へと夢を託す壮大なビジョンを示している。
しかし、冷戦という特殊な国際情勢下において、米国は理想と現実の厳しい矛盾に直面した。ソ連とのイデオロギー的対立の中で、米国は「リベラル」な信条と相反する「リアリスト」な態度を国際社会(外交)において求められることになった。その結果、CIAなどの諜報機関は、他国の政権転覆、心理作戦、プロパガンダといった秘密情報活動を大規模に展開した。これらの活動は、当時の米国の国益を守るためとされたが、介入を受けた国々に米国に対する根深い猜疑心と不信感を植え付けた。リベラル・デモクラシーを標榜する国家が、その理想とは裏腹に、他国の内政に干渉し、世論を操作する行動に出たことは、その後の国際社会における米国の信頼性にも影を落とすことになった。
皮肉なことに、この「他国を貶める」ために行われた情報操作の「刃」は、時を経て米国自身に向けられることになる。米国社会で広がる「ディープステート」論は、かつてCIAなどが他国で行ってきたような「見えない権力による操作」への根深い不信感が、今や自国のエスタブリッシュメントに向けられている現象と見ることができる。リベラル・デモクラシーの擁護者であるはずの米国が、自らの行いが原因で、その理念自体に疑いの目を向けられている現状は、まさに過去の行動の「しっぺ返し」と言えるだろう。
現代の世界、特に米国の影響を色濃く受ける日本や西ヨーロッパの人々も、同様の「終末観」にとらわれているかもしれない。ピュー・リサーチ・センターの調査によれば、米国では成人のおよそ4割が「人類は終末の時代に生きている」と信じている。特に福音派の多くは、この信念が強く、キリスト再臨を心待ちにする彼らがイスラエルを強く支持する姿勢は、その信仰が地政学的な問題にまで影響を与えていることを示している。https://www.pewresearch.org/short-reads/2022/12/08/about-four-in-ten-u-s-adults-believe-humanity-is-living-in-the-end-times/
一見、これまでの古代のデモクラシー批判や戦後の情報活動の議論と、現代の終末論的心理は繋がりがないように見えるかもしれない。しかし、リベラル・デモクラシーにおける社会心理や社会不安は密接に結びついている。
第二次世界大戦を経験した我々は、過去に生活苦や経済難から排外主義などを煽られ、ファッショを生み出した経験を持つ。ファシズムは、大衆の不満と不安を吸収し、明確な「敵」を提示し、感情的に扇動することで、個人の自由を奪い、国家を肥大化させていった。 この歴史は、民主主義がいかに容易に大衆操作によって変質し、その結果がどれほど悲劇的になりうるかを示す重要な教訓である。
私たちは、民主主義の脆さ、そしてリベラルの理想が時に傲慢さや矛盾をはらむことを知っている。知っていてなお、前向きに新しい世代へと夢を託していかねばならないのだろう。
なぜなら、人類はこれまでも、数々の困難な時代を乗り越えてきたからだ。古代の政体循環や、近代のファシズムの台頭、冷戦期の情報戦といった過去の経験は、私たちに民主主義が直面する試練の本質を教えてくれる。それは、生活苦や経済難から生じる不満が、社会構造や外部の敵ではなく、「内なる敵」へと転嫁され、徒党化することで、自身の体制を内側から破壊するという、デモクラシーの最も脆い側面である。
しかし、その脆さを知ることは、同時に「同じ目には遭わない」ための知恵となる。私たちは過去の過ちを繰り返し、民主主義の理想を失ってはならない。それは人類の英知であり、私たちに課せられた「壮大な実験」の継続と成功への責任である。
最高裁判事を退任するブライヤー判事が、アメリカを「自由とすべての人間は平等であるという命題に捧げられた国」であり、その理念が長く続くかどうかは「実験」であると述べ、その成否を若い世代に託した表明は、私たちに勇気を与えるものである。https://www.youtube.com/watch?v=Lv7WkW7z4hQ
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サキュバス(妖艶に笑って)
「ふふ……また一人、精を狩られるためにやってきたのね……♡」
(暗い森の奥から足音。現れたのは、スマホを片手にぶつぶつと呟きながら歩く男)
「ふむ、そろそろAGIによる文明転覆が始まってもおかしくない時期だが……それにしても5Gは遅すぎる……」
サキュバス(にっこり)
「この座標……異常信号を検出……まさか未実装の魔法結界か? なるほど、ついに次元干渉が始まったか」
サキュバス(うっとりと近づく)
「ふふふ……わたしがたっぷり可愛がってあげるわ。レベルドレイン、いくわよ♡」
「やめろーーーー! まだ俺のプロンプトが完成してな――」
(魔法陣が発動。サキュバスの手から光が放たれ、テクウヨを包み込む)
サキュバス(目を細めて)
「ん……? なんか……妙に重い……?」
自己肯定過剰症
他責思考+500%
現実逃避(常時)
「ちょ……ちょっと、なにこの……ドロドロした魂!? 吸ったそばから胃もたれするって何!?」
「情報……再構築……ぐふっ」
サキュバス(焦り)
「だ、だめ! 吸ってるこっちがどんどん気持ち悪くなってく……!!」
(サキュバスの体が青く光り始める)
サキュバス(ふらふら)
「な、なんでこんなことに……私……強くて美しくて最高だったのに……ッ!!」
「フフ……ふははは!! これは……まさか……
バッドステータスが吸い出されたことで……残ったのは最強の俺!?」
サキュバス(震える声で)
「ちょ、ちょっと待って……それ、私が吸っちゃったせいで……!? えっ、そんなのあり!?」
(サキュバスは地面に崩れ落ち、涙をこぼす)
「いやあああああああああああああ!!!!
こんなのってないわよ……! 私は男から力を奪って君臨する存在だったのに!!
どうして……どうして、こんな不良品から吸っただけで……私が……私がこんな“負けヒロイン”に……!!」
サキュバス(泣き叫ぶ)
「未来のテクノロジーが~!スマートシティが~! とかどうでもいいのよ!! 私はただ、魂を吸いたかっただけなのにィ!!」
サキュバス(泣きながら震える)
「こんな世界……認めない……こんな男に……私が負けるなんて……」
なんかテロリズムを肯定するのか、とか共産主義者か?と言われると腹立たしいんだよな。
俺たちが望む国家転覆、アナーキズムってのはそういう状態じゃないんだよ。
要はハイチよりも乱れて欲しい。国家なんて無くなって、法律もなくて、畑もなくて、貨幣もない。そういう素晴らしい状態を望むわけじゃん。
想像してごらんよ。
お前のおばあちゃんやおじいちゃんが家でのうのうと暮らしてたら、俺たちが家に行ってお前をまずボコボコにする。
そんで言うわけよ。「ババアを殺したら助けてやる」って。
そんで、可能な限り自分の家族の悪口を言わせながら、互いを罵り合わせて殺し合わせたいわけじゃん。
お前らが集めたなけなしの食料を、そういうのを観ながら食うと多分美味いじゃん?
で、どうやったらそういう状態に持っていけるか、それが大事なわけよ。
それはまあ端的に言うと地方と東京の差別意識を煽りに煽るしかないと思っている。
国家転覆論者はすぐに元自衛官による転覆を期待するが、おそらくそれは不可能だ。弾薬が足りなすぎる。つまり長期支配の継戦能力が足りない。
あと、武力による転覆だとクーデター起こした側が結局、新しい臨時政府のようになってしまうから、真の無秩序を愛する俺たちとしてはやはり、あまり望めないところもあると思う。
そこで地方と東京の内戦状態の輔弼をしていくことが大事になる。
つまりは「東京が地方を見捨てる状態」を加速させればいい。やんわりと、もうそれはみんなやってるから、感情的にも理解しやすいはずだ。
南海トラフとかで、地方は多分見捨てられる。その時、いかに東京と中央政府を悪玉に仕立てられるかが重要だ。
地方が内部で外患誘致したりしつつ、もう東京のやつらを殺すしかない、と戦いを挑む、結果共倒れになる。
これが理想。
どうその状態に持っていくか、というのを今のうちに準備しないといけない。
あとは外国勢力だよね。中国とアメリカ、ロシアあたりには滅んでいてもらわないといけない。
それをどうするかはみんな悩んでると思う。
そういうことだよ。
あれって今の社会のメカニズム、ジェンダー、曖昧になる自他の境界を転覆させたいって言う
現代の弱者男性・チー牛のテロリズム願望にかなり近いテーマを扱った作品なんだけど
アメリカの場合は「今の社会は男を去勢しようとしている!男根を取り戻せ!」って堂々と宣言してるの
でも俺は口では暴力的な男を揶揄しながらも弱者男性・チー牛も暴力的な男に対する強い憧れがあると思うんだよな
ジョン・ウィックとかイコライザーとか暴力でスカっと解決話みんな好きじゃん
チー牛ファイトクラブとかやってみればいいのにね
チー牛集めて殴り合わせる
兵庫県の調査報告書の134頁なんですが、「3月の文書が3号通報である」という認定に大きく違和感を覚えています。私の感覚がおかしいのかもしれませんが、ご意見いただけるとありがたいです。
(イ)以上によれば、本件文書は、公益目的はあるが、齋藤知事、片山元副知事及びその他の幹部職員に対しての複雑な感情に基づいても作成され、配布されたものと認められる。そこで、本件文書の作成·配布行為については、「不正の目的」がなかったといえるかどうかが問題になる。
まず、「不正の利益を得る目的」について検討すると、元西播磨県民局長が令和6年3月末での退職を希望し、民間団体への再就職も決まっていたことから、本件文書内容を流布させることで「不正の利益を得る」ということは考えにくい。したがって、「不正の利益を得る目的」があったとは認められない。
次に、「他人に損害を与える目的」については、確かに、本件文書の文面からは、これを作成·配布することで齋藤知事らの信用が低下する効果を望む感情も窺える。しかし、①上記の本件文書作成·配布当時の同局長の退職をめぐる状況に照らすと、将来的に何らかの影響力を行使して、実際に齋藤知事や県の幹部職員らを失脚させる目的があったとまでは認めることができない。②また、本件文書末尾に「関係者の名誉を毀損することが目的ではないので、取扱いには配慮するように」と本件文書の取扱いについて注意を促す記載があることに照らすと、本件文書に記載された企業、金融機関や県の外郭団体等に損害を与える目的があったとも認めがたい。
ウ、県は、齋藤知事が本件文書を知人から入手したことをきっかけに始まった初期の調査段階では、保護法を全く意識せずに、本件文書を「名誉毀損の怪文書」であるとして対応した。また、保護法との関係が意識され始めた4月1日以降は、元西播磨県民局長の公用パソコン内に存在した別のデータ内容も勘案して、「政権転覆をねらう不正の目的あり」との理由で、3号通報には当たらないものとして取り扱った。
確かに、本件文書中には齋藤知事や片山元副知事らを揶揄するような表現があり、③公用パソコン内に存在したデータ中には、「政権転覆」といった文言もあった。しかし、当時元西播磨県民局長が退職間近であったこと等に照らすと、それは単に空想上のものであって、実行に移す意図までを窺うことはできない。また、④本件文書の配付先が10か所に限定され、その中に県警本部が含まれていたことや、上記のとおり、取扱いに注意してほしいとの注記がなされていることからは、直ちにこの文書内容を広く流布して県政を混乱に陥れようとの不当な意図も看取することができない。⑤現に、3月27日の齋藤知事の記者会見までは、本件文書の存在は世間の注目を集めていなかったし、それによる県政の混乱もなかった。
エ 以上の考察からは、本件文書の配布が「不正の目的」でなされたものと評価することはできない。本件文書の作成·配布行為は、3号通報に該当する。
→そのあとの記述でPC内に「政権転覆」と書いていたことは認めているのに?また、第三者委員会でも認定できないようなものも多数書かれたものを、マスコミにまでばらまいているのに?
退職間近だったことだけで上記PC内の記載にもかかわらず上記のような不正目的を基礎づける事実を無視できるの?
→実際に第三者委員会でも認定できなかった多数の事実ではないものや・誇張された記載があるうえ、実名でマスコミにまで配布しているのに、末尾に弁解を少し書くだけで損害を与える目的でないとして評価されるべきなの??
えてしてこういう文書は自分を守る文言(自分の行為が悪意に基づくものではないこと)をアピールすると思うけど、それを文面通り真正面からそのとおり、としていいの?もっと深堀りして考える必要はないの??
→マスコミを含めた先に配布する行為は「まさに計画を実行に移している」と評価されるべき事実ではないの?
「空想上のもの」ということを基礎づける根拠事実・認定の基礎となる事実は「退職間近であったこと」というだけ?根拠弱くない?実際に事実ではないこと、事実として認定できないことが多数書かれた文書が配布されているのに?
→「10カ所に限定されていた」っていうけど、配布先にマスコミが含まれており、伝播可能性があった(少なくとも伝播を意図していたことがうかがわれる)のに、それを無視して、「10か所に限定」という評価・認定は妥当なの?
警察が含まれていることは指摘しつつ、マスコミが含まれていることを指摘しないのはなぜなの?むしろマスコミへ配布したことの方が結語の「文書内容を広く流布して県政を混乱に陥れようとの不当な意図も看取することができない」との関係で慎重に吟味しなければならない重大な部分だと思うんだけれど、記載がないのはなぜなの?(結論との関係で都合が悪いからマスコミへ配布したことについて言及を避けているのではないの?)
そもそも「10か所」って「限定」されていたと評価できるの?私の悪口をマスコミ含めた10か所にばらまかれていたら「限定されていた」と評価されると到底納得できないんですが・・・。
末尾に「取扱注意」と書けば不当な意図がない、と評価されるというのは認定根拠として合理性があるの(上述と同様)?
→会見との時間的関係はあれど、実際に第三者委員会でも認定できない事例を含めて「7つの疑惑」としてマスコミ報道されて県政が混乱したわけで、マスコミに提供した時点でマスコミ報道を期待していたとしか思われず、デマを混在させた投書により県政の混乱を意図していた、とも評価できるのではないの?
少なくとも、「疑惑の水増し」をしていたこととの関係性から主観的意図を読み解く必要はないの?(そもそも、公益通報の保護対象とされるのは刑事罰があるもので、結局認められたのはパワハラのみと、公益通報保護法の対象外でもあると認識しています。)
今回の報告書で注目していたのは、「3月の文書配布が公益通報に該当するか」という点だったのですが、これについて上記のような(私からすると)雑と思える認定だったのは残念だな、と思っています。
斎藤さん側としてもこれでは納得できないだろうし、反斎藤さんとしても、この書きぶりは「武器としても弱いなあ、もっとしっかり深堀して書いてくれよ」そう思うのではないか、と思っていますので、コアな論点に関して、この第三者委員会は十分な論証・検討を欠いているように思われてなりません(この3号通報に該当するかしないかによって、文書作成者の探索や懲戒の違法性にまで波及するので、この論点は今回の「根っこの論点」なのに、これじゃあ根腐れしているじゃないか、と感じています。)。
率直にいうと、今回の報告書については、一部パワハラで認定されているところもあるものの、いわゆる「7つの疑惑」について、多くは認定されていないようですし、今回の文書には誇張も大きく混ざっているようです。このような「ごちゃ混ぜ型(悪く言えば味噌もくそも一緒型)」の「外部への」投書について、一部事実が混在していることをもって(それもパワハラというどこの企業でも多かれ少なかれあるような話)すべからく3号通報として公益通報になって保護される、というのは、先例として適当な結果なのだろうか、と思わざるを得ないように考えています。
以上の感想についてはいろいろなご意見もあろうとは思っています。
特に「公益通報を委縮することになるではないか」という考え方もあるとは思うのですが、今回は政権転覆云々の話もありますし、実際に事実として認められないものも多かったわけで、非常に判断が難しい事件のように思っています。その分、第三者委員会の先生方にはこの「公益通報にあたるのか」の論点について緻密且つ十分に深掘りされた検討がされることが望ましかったのですが、上記のような点から残念なものだったなぁと思う次第です。
そして、マスコミ報道が「第三者委員会において違法を認めた」という結果のみにフォーカスして報道されているのを見るたび、上記の点については、もっと各所にて議論を尽くしてほしいな、と思っています。
ちなみに、個人的な興味関心ごとですが、パワハラ認定された時間外のチャットについて補足すると、私は「チャットを業務時間外に送付する」ということ自体は悪くはないと思っています。チャットというのは「非同期コミュニケーション」こそがツールの有用性だと思っているからです。私も、残業中に気になったことを忘れないうちに同僚や部下に送付することはあります。
問題は、送付先から即レスがあったときにラリーするのではなく「(忘れないうちに送っただけで)対応は明日でいいよ」としておくべきかな、と思います(もっと言えば、業務用のチャットを深夜に見れる状況にある自体もどうかな、と思います(私の職場ではそもそも時間外には見れません)が、そこは上級職なら即時対応案件もあるのでケースバイケースかもしれません。)。
その点では、斎藤さんの行動にも問題があっただろう、と思っています(非同期コミュニケーションツールであるチャットに即レスを求めていたとすれば、それはツールの思想を取り違えているように思います。)。ただ、この事件を機に「業務時間外のチャット送信はパワハラ」という私からするとツールの本質を見誤ったメッセージに至ることは、チャットツールを使いにくくなるのでやめてほしいな、と思っています。(報告書の中身を見ればそういう結論にはならないだろうとは思いますが、報道の見出しだけだとどうも深夜チャットが問題かのような記事も多いので、、、。)
チャットの時刻を見ると、斉藤さんは深夜まで公務に携わられていたようで、そういう意味では県政にフルコミットされて頑張っていたのかな、と思います。ただ、そういう方は得てして周囲の人や部下にも同じような行動を求めて勢いパワハラに至ってしまうこともよくある話ではあるな、と思ってみていますが、人格非難一辺倒、斎藤さんが社会から排除されそうな現在の雰囲気は、あまり望ましい状態ではないな、とも思っています。
最初の斉藤さんの激烈な反応も、多くのデマ(第三者委員会でも認定できなかったもので、当時、斎藤さんとしては「デマ」と考えたでしょう。)と混ぜこぜに文書を配布されたことによるものともうかがわれるので、当該文書が最初から今回事実認定された部分だけだったら、また違う結果になったのではないかと思うと、非常に残念な事件だなぁと思ってみています。