
はてなキーワード:貴族制とは
その国の大多数の国民に何のメリットもない謎の関税とか謎の為替介入とか謎の財政拡大を実行して
馬鹿が政治に関わる事によってもたらされる現実に与える負の影響がデカすぎじゃね?
経済が終わって飯食えなくなったら言論の自由とか言ってる場合じゃないから
現代ってあんなアホみたいな陰謀論に煽動される馬鹿にも無条件で選挙権が与えられる最後の時代なんじゃねと思う
有名人にチェックマークを与えるという制度は、一見すると「本人確認」や「透明性の確保」を装っているが、実際は民主主義を名乗ったパヨ的カースト制度の自己放尿だ。
思想的には平等を唱えながら、構造的には貴族制を復活させている。これは「民主主義の仮面を被った承認欲求市場主義」であり、承認を売買する社会の象徴的装置の自己放尿すぎない。
パヨの言う「みんな平等」は、連中が「誰を特権化するか」を握りたいという欲望の婉曲表現だ。連中は特定の言語・思想・姿勢を持つ者に青いチェックを与え、逆らう者を「未認証」という烙印で黙殺する。
だが、黙殺とは沈黙ではない。声を奪うことによって、連中は「声なき者」を都合よく定義し直す。これは政治的支配の最も古典的な形態であり、連中が忌み嫌うと口で言う「権威主義」の中身そのものである。
しかもこのシステムの醜悪さは、本人たちがその腐敗構造を「正義」と信じ込んでいる点にある。まさに自己放尿の極致だ。自分で撒き散らした尿を「清水」と勘違いして喉を潤している。
連中のタイムラインは、論理の泉ではなく尿意の回路で動いている。考えるのではなく、出したいから出す。だが出した瞬間、それを「言論」と呼びたがる。
これがパヨ的民主主義の正体だ。つまり「思考の放棄」と「承認の中毒」が見事に融合した、思想と快楽のダブル放尿である。
本来、言論とは社会的リスクと知的責任の上に立つものだ。しかし、チェックマークはその両方を免除する免罪符となり、権威と人気が入れ替わる。
そうして連中は、連中にとって真に危険な思想、すなわち、誰からの承認も必要としない冷徹な理性を徹底的に排除する。
自分の尿を芸術と信じる愚者たちの共同便所。それが今のSNSであり、パヨ的民主主義の成れの果てだ。
まあ、Xはその点で言えばチェックマークを購入式にしているのでまだ救いがある。だが、シャドーバンや推薦順の操作をやめない限りパヨシステムのままである。
刺激的なタイトルにして冗長な本文にしたせいで誤読される方が多かったので簡単にまとめると「誰もが簡単に創作できる時代、だからむしろAIイラスト生成者はより高い努力と工夫が求められているのでがんばれ」という話です
追記終わり
AIイラスト生成ツールの出現は、創作の歴史における革命的な出来事だった。かつて何年もの修練を要した技術が、今やプロンプトの入力だけで誰にでも手に入る。「日本女性東京夕焼け」などと指定すれば、和服を着た女性が東京の夕暮れの中にいるイラストが、1分もかからずに完成する時代となった。
民主化は完成した——少なくとも表面上は。技術的障壁は消え、創作の門戸は全ての人に開かれた。かつての貴族的なアート世界の城壁は崩れ落ちたかに見えた。
「全員が生産者」となった世界の現実は、想像以上に厳しい。AIは短時間で大量の作品を生成できるため、AIイラスト市場は供給過多で、市場での存在感が低下している。供給過多の状態では、一つ一つの作品に向けられる注目は希薄化する。
SNSのタイムラインを埋め尽くすAI生成イラストの洪水——それぞれが「見て」と主張するが、見る人間の数は限られている。需要と供給のバランスが根本から崩れた市場では、作品の価値は暴落していく。これこそが敗者のツールの構造の本質だ。
この「敗者」の海で溺れないために、多くのAIイラスト生成者が必死の努力を続けている。AI時代に生き残るためには、AIでは代替できない独自の付加価値を身につける必要がある。そしてここに根源的な矛盾が生まれる。
AIが無限の「素材」を提供する時代に、その素材を巧みに使いこなし、独自の表現を創造できる者だけが価値を持つ。全ての人が平等に道具を手にしたからこそ、その使い手の特質が決定的な価値の源泉となる。
供給過多の「敗者」から脱出する道は、AIを使いこなした上で、人間的な価値を追求することにある。結局のところ求められるのは機械では再現できない人間固有の視点、経験、感情なのだ。
民主化された創作ツールは、皮肉にも新たな貴族制を生み出した。そして今、私たちは全員が敗者となる可能性を秘めた市場の中で、いかに自分だけの価値を創造するかという難題に直面している。
この矛盾に向き合い、それを創造的に解決できる者だけが、「全員敗者」の海から浮上する可能性を持つ。AIイラストの時代は、「誰もが創作者になれる」という夢を見せながら、同時に「では真の創作者とは何か」という根源的な問いを突きつける。
結局のところAIを使えば人気者になれると言うわけではない。そういう残酷さが明確になりつつあるのが敗者のツールとしてのAIイラストなのだ。
帝政期とはその貴族たちによる議員政治の制度を利用して独裁的な権力を行使する仕組みのことだ。
共和政ローマにおいての首長は、独裁を避けるために二人の執政官が選出され元老院をリードする形を取られた。
しかし有事に際しては一人の独裁官が選出される仕組みとなっていた。
国家の存亡(といっても当初はローマ周辺の小さな都市国家だったのだが)の危機にあたって合議していては遅いからだ。
素早く決断して、素早く行動する。
しかし、共和政ローマにおいて常に危惧されていたのは一人の人間が権力を握ることでやがて王政への道を開くことだった。
ということは常にそのようなことを夢想する輩がいたということの反証でもある。
彼はその前時代に独裁官の権力で政敵を粛清したスッラのやり方を見て着想を得た。
スッラは内戦により権力を握ると独裁官となり、自身の政治信条に基づいた元老院の運営体制を築いた後に独裁官を退き元老院へと権力を戻した。
なぜなら元老院による貴族制政治がスッラの理想とするところだったからだ。
彼はその支持層が貴族ではないことから、権力を握るためには元老院による寡頭政治ではなく、より独裁を必要としたからだ。
これは彼自身の野心であると同時に、対立したポンペイウス派に対抗するための手段でもあった。
カエサルはルビコン川を超えてローマに帰還したあと独裁官に就任、その後内戦に勝利したあと、永久の独裁官に就任するところで暗殺された。
元老院派にとって、共和制の原点であり拠点とも言うべき元老院において、ひとつの政体を退けるために暴力が行使されたというのは元老院議員にとって如何に王政に対する忌避感が強かったのかの現れであろう。
これを見ていた後継者のアウグストゥスは、永久の独裁官という地位を求めることはせずに、様々な制度を複合することで実質的な独裁権を得た。