
はてなキーワード:象限とは
本を読んでアウトプットしている主人公たちの姿が楽しそうだったので私もアウトプットします。
まず最初に点数ですが、☆3.5です。
独創的な作品というわけでもなく、読者に影響を与えるでもなく、とりあえず読んでそれなりに面白いぐらいの作品だったので。
私が比較的同系統だと思った作品では『ギャルと本屋』『税金で買った本』がありますが、ギャルは☆3.8で税本は☆4.2です。
ギャルは本に対するキャラクターの熱量が心地よい形で昇華されているのが心地よく、税金で買った本は切り込みの面白さや話のレパートリーそしてキャラ造形の巧みさと手数の多さが非常に豊かなのが評価点でした。
バーナード嬢のよくない部分は展開の単調さがあるように思います。
主要キャラを仲良くさせるか気まずくさせるかで話を転がしたがりますが、読者としては出てきた小説を上手く利用して作品として立体的な奥行きを感じさせて欲しい所です。
特に後半になる連れてタテ方向のストーリー展開である人間模様に頼りすぎているのが良くないですね。
オリジナル小説のくだりも主人公二人へのエモに全振りですが、そこに「キャラの新しい1面を感じる楽しみ」が出ていませんね。
最初に否定から入ってしまいましたが、総じて言えば面白い作品だったのは事実です(私にとっては☆3.1から上が面白い作品のゾーンです)。
最も秀でていたのは題材となる作品選びだと感じました。
全体として話題性と知名度がある作品がピックアップされており、作者のマイナー作品知ってる自慢を始めていないのは間違いない高評価点でしょう。
他作品を引き合いに出す作品の多くが起こしがちな失敗である「作者の個人的な思い入れで全然知られてない作品を高く掲げすぎる」というのがあるわけですが、バーナード嬢においては目立ってそれが引き起こされては居なかったように感じました。
また、ありがちな失敗として「作者が個人的に嫌いな作品を過剰にこき下ろす」というのもありますが、こちらも回避されていたでしょう。
着実に加点を積み上げながら減点を減らした構成は商業作品として非常に良質です。
インターネットの個人サイトやSNSにおける人形劇漫画であれば作者の個人的な体験の過剰増幅が持て囃されますが、商業作品においてはそういったノイズは減らすのが吉でしょう。少なくとも私は商業作品の中で作者の個人的な感想や妄想を爆発させられても困ってしまいます。
さて、ここはネットの片隅なわけですから、私ももっと個人的かつ主観的な語りをすべきですかね。
先程減点を防いでいたと言いましたが、「ありがちな大失敗をしてなかった」という話であって細かい減点は結構あったんですよね。
作品の展開に奥行きは欲しいんですけど方向性は見失ってほしくないんですよ。
たとえるなら、縦横においては4象限のうち1つか2つの範囲にとどめつつ奥行きを上手く使ってその中で色々やってほしいというか。
私はこの作品に対しては「キャラは陰キャだけど気分的にマイナス方向には振れない作品」を期待していたんですよね。
でも時折作者の別作品だと鬱ご飯に該当するようなただひたすらにネガティブな展開だったり悲劇的な場面がでてきたりするんですが、これがNot for meでした。
たとえるなら「甘いパスタを食べることもあるけど、ランチセットのおまかせは絶対にしょっぱいパスタじゃなきゃ嫌だなー」みたいな感じですかね?
求めてないんですよねバーナード嬢のストーリーとしてマイナス方向に気分が振れた展開って。
この作者の筆から産まれた鬱成分は鬱ご飯とかで取ってきゃ良いと思ってるわけで。
たとえるなら「ミスドに中華まんが売っててもいいけど、何気なく買ったドーナツが見た目に反してしょっぱくてスターアニスばっちりだとそれは違うよね」みたいな感じですかね?
んで、結局そういう話が出てきちゃうのって作者の引き出しの不足のせいなんじゃないかって思うんですよね。
そもそもこのキャラ造形でシリアスな話とか無理なわけですよやっぱ。その辺はこういう人物像で行くぞと決めた時に覚悟を終わらせておいて欲しかったなと。
んでまあまた最後に褒めるんですけど、ほのぼのとくだらん読書エアプトークやらせる分にはこの4人ってベストなんすよね。
キャラが多すぎないおかげで「その回の物語や本の比率」が下がりすぎないっていうか。
キャラが10人も20人もいると「このキャラはこのシチュエーションでどう動くでしょう大喜利」みたいになってキャラ中心になりすぎる。
バーナード嬢は「この本(や状況)をエアプと偏屈マニアに語らせたらどうなる?」っていうテーマでずっと回っていて本やシチュが中心からはずれないようになってるわけですよ。
この作りを100話以上動かさずにやってるのは誠実だなと。
まあだからこそ、各々のカップルが進展することばかりが話の中心に来てると「シチュエーションコメディとしてのプライドはないんか💢」と不愉快な気持ち側行くてくるわけですよね。
うん、結局私がこの作品を評価しているのは「シチュエーションコメディとしての軸がしっかりしている」という所であり、少し評価を下げているのは「せっかく作った軸を自分でブラしていることがある」って所なんですよね。
「軸を安定させたままで多様な展開をやればもっとよかった」と勝手なことを言うには全128話は長いんだろうなと思いはしますがそれは俯瞰的な意見。主観的には「もっとドーンと構えてられるように引き出し増やしてくれや」が感想ですわ。
体育会系と文化系という分類における文化系(陰キャ)と勘違いしているやつがいてアホだなあと思った
先日、ネットでとある記事を読んでいたら思わず「え?」と思う記述があった
一瞬、頭がフリーズした。
彼の言っている「文系」と「文化系」が、私の頭の中でうまく結びつかなかったからだ。
ああ、なるほど。
彼は「理系と文系」という学問の分類と、「体育会系と文化系」という人間の気質の分類を
ごちゃ混ぜにしてしまっているのだ。
そして、その後者における「文化系」が持つ、やや内向的、いわゆる「陰キャ」的なイメージを、前者における「文系」全体に当てはめてしまっている。
しかし、その一方で、なぜ彼がそんな突拍子もない(と私には思える)勘違いをしてしまったのか、妙に気になってしまった。
「理系か、文系か」というのは、高校や大学で選択する学問分野の大きな括りのことだ。
ざっくり言えば、自然科学や数学、工学、医学といった分野が「理系」。そして、人文科学、社会科学、法学、経済学といった分野が「文系」。これは、何を学ぶか、どんなアプローチで真理を探究するかの違いであって、個人の性格やライフスタイルを規定するものではない。もちろん、学問の特性が個人の思考様式に影響を与えることはあるだろうが、それは結果論に過ぎない。
一方で、「体育会系か、文化系か」というのは、個人の気質や所属するコミュニティのカルチャーを指す言葉だ。
「体育会系」と言えば、運動部に代表されるような、上下関係がはっきりしていて、根性論やチームワークを重んじる、エネルギッシュで外向的なカルチャーを指すことが多い。いわゆる「陽キャ」のイメージと結びつきやすい。対する「文化系」は、文芸部や美術部、吹奏楽部などに代表される、個人の興味や探究心、内面的な活動を重視するカルチャーだ。こちらは比較的物静かで、インドア、内向的な「陰キャ」のイメージを持たれがちだ。
この二つの分類軸を並べてみれば、両者が全く別物であることは火を見るより明らかだろう。
これはX軸とY軸のようなもので、本来は組み合わせて四象限のマトリクスで考えるべきものだ。
・理系で体育会系:工学部のラグビー部員とか、医学部のサッカー部員とか。ゴリゴリのフィジカルを持ちながら、論理的な思考も得意とする人たち。たくさんいる。
・文系で体育会系:法学部の野球部主将とか、経済学部のアメフト部エースとか。チームをまとめ上げるリーダーシップとコミュニケーション能力に長け、社会の仕組みにも明るい。こちらもたくさんいる。むしろ、営業職などで大活躍するイメージすらある。
・理系で文化系:数学科でチェスに没頭する学生とか、物理学科でSF小説を書きふける大学院生とか。知的好奇心の塊で、自分の世界を深く掘り下げるタイプ。これもステレオタイプな「理系像」に近いかもしれない。
・文系で文化系:文学部で古文書を読み解くのが好きな学生とか、史学科で一日中博物館にいるような人とか。これもまた、一つの典型的なイメージではあるだろう。
このように、四つの象限にはそれぞれ典型的な人物像を当てはめることができる。
そんな単純な話では全くないのだ。
彼が言っていた「文系=文化系(陰キャ)」という図式は、このマトリクスの存在を完全に無視した、あまりにも解像度の低い世界認識だと言わざるを得ない。
では、なぜ彼は、そしておそらく彼以外の一部の人たちも、こんなにも雑な紐付けをしてしまうのだろうか。
いくつか理由が考えられる。
「文系」の「文」と「文化系」の「文」。この共通する漢字一文字が、無意識のレベルで両者を結びつけている可能性は高い。人間は、意味よりも音や形の類似性で物事を連想することがよくある。「文」という字には、どこか「武」の対極にあるような、静かで知的なイメージがつきまとう。「武」が体育会系なら、「文」は文化系だろう、という非常にシンプルな連想ゲームが、頭の中で行われているのではないか。
二つ目は、ステレオタイプの暴走と単純化だ。世の中には、様々なキャラクターの「型」が存在する。特に、ドラマや漫画、アニメといったフィクションの世界では、分かりやすさが重視されるため、キャラクターはしばしば極端なステレオタイプとして描かれる。
たとえば、「理系の天才」は、コミュニケーションが苦手で、白衣を着て研究室にこもっている、まさに「文化系の陰キャ」として描かれがちだ。一方で、法廷ドラマの敏腕弁護士や、経済ドラマの熱血銀行員といった「文系」のヒーローは、弁が立ち、行動力がある人物として描かれることが多い。
こう考えると、むしろ「文系=陽キャ」のイメージの方が強まりそうにも思える。だが、ここで話はもう少し複雑になる。
おそらく、多くの人が「文系」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
経済学部や法学部ももちろん文系だが、より「文系っぽい文系」としてイメージされるのは前者だろう。そして、ひたすら文献を読んだり、思索にふけったりする文学部のイメージは、確かに「文化系」の活動と親和性が高い。この「文系の中の特定のイメージ」が肥大化し、文系全体を代表するイメージとして認識されてしまう。その結果、「文系=文学部っぽい人たち=文化系っぽい=陰キャ」という、伝言ゲームのような連想が出来上がってしまうのではないか。
人は誰しも、自分の見てきた世界が世界のすべてだと思いがちだ。例えば、その人が通っていた高校のクラス編成が、たまたま「理系クラスは大人しい生徒が多く、文系クラスは活発な生徒と静かな生徒が混在していた」という状況だったとする。その場合、「理系は文化系寄り、文系もまあ文化系寄りかな」という雑な印象が刷り込まれてしまうかもしれない。あるいは、自分の周りにいる数少ない「文系」の友人が、たまたまインドアな趣味を持つ人ばかりだった、という可能性もある。その限られたサンプルから、「文系とはこういうものだ」という法則を導き出し、それを世の中全体に当てはめてしまう。これも、人間が陥りがちな思考の罠の一つだ。
https://anond.hatelabo.jp/20250614122405
俺がブクマしたんじゃねえ。誰だよまじで
深夜、家路を急いでいると、片側3車線×片側2車線+2車線道路の五差路で信号に引っ掛かった。
あえて書くとオ←現場はこんな感じで縦横が大きい道路だ。右下の象限に立って、横向きの道路を上側へ渡ろうとしていたのである。
サイドに何かステッカーを貼った軽の営業車が斜めの小さな道から信号に従って交差点に進入したところに、オの字の上の方から2人乗りの原チャが止まっていた車列から信号を無視して進み、見事軽の土手っ腹に突っ込んだのである。ガチャン! 街の雑踏を一瞬存外大きな音が切り裂く。
原チャは2人乗りである(アウト)。遠目に見ただけでもやんちゃ系のにーちゃん二人で(ツーアウト)、その割には律儀にメットは被っていた。そこまでスピードは出ていなかったのであろう、原チャ組は道に転がったメットやら荷物やらを拾ってそのまんま下側へ逃げて行った(スリーアウト)。事故不申告である。
一方、こんな時間に走ってた営業車は交差点を渡り切ったところに一旦止まった。這い出て来た若いメガネの営業マンが振り返った時には奴らはいなかった。
増田の見た感じ、当事者3人は皆無事そうではあった。少なくとも流血即死全身打撲手足千切れて飛び交うという様相では全くない。破片がないからには、軽の窓も無事そうだ。
さて、問題はこの事故を見ちゃった増田である。無論通報は善良なる市民の義務であろう。
ただし、この日増田は全く善良でなかった。残業と偽って夕食キャンセルの連絡をした後、盛り場で時間をつぶし終電でのご帰宅であったのである。そしてこの十字路は直帰時には通らない道で、ここを通ったことが家人にばれること即ち残業が偽りであることがばれることと同じである。
個人的な欲求という点で言えば夜も遅く、こんなところで調書を巻かれて数時間を取られるのは全く不本意である。加えて、文弱の徒である増田はやんちゃそうな2人組と交戦に至ることは避けたかった。このため、とっさに録画をするなどの措置を取っていないのである。加えて裸眼の運転免許ギリギリかやや下回る程度に近目である。原チャのナンバーは全く見ていない。よって確信を持って言える事は「営業車は多分信号通りで、原チャは多分信号無視で二人乗りでした」というだけである。
そこで増田は、やはり全く善良ではない行動をとった。則ち信号を渡って第二象限の路地の中に逃げ込んだのである。逃げ込んだというのはあくまで主観的な話で、立ち去ったぐらいであると思いたい。とりあえず話しとしてはそれだけである。多分営業マンは110番ぐらいはしたであろう。でないと社有車の関係がめんどくさくなるからだ。増田が通報するかしないかは全体にほとんど影響を及ぼすまい。
しかしそこから負い目があって逃げた、ということ自体がどうも増田の魂のどこかに未だ刺さっている。なので告解としてここに記す。どうすればよかったんだろうね。
しーかーしー。
そこでなぜディレクトリ構成とかいう、枝葉末節から話が始まるか理解できん。
というか、そういう具象しか理解できない頭しか持ち合わせてないのか?
中身を理解しないで、表面的HowToだけなぞったところで、手間が増えるだけ、不具合が増えるだけの、典型的炎上系カーゴカルトの教祖にしかなれんぞ。
で、そういうクズを作っておきながら、手に負えなくなったら「××社でアーキテクトをして云々」って転職して逃げ出すんだからなぁ……。
てめぇのケツくらい拭けねぇのかよ?
なんかあの同心円図を神聖なものみたいに崇めてるっぽいのを見ると、本当に哀れに思える。
あんなもん、書籍を出すときに見た目を整えるためにでっち上げた図以外の何物でもねーだろ w
よくある4象限とかのマトリクス図とか、意識高い系の本には大量に載ってるあれだよ。
そういう意味のない図に「雰囲気で当てはめる」から、そこで真に求められていることが実現できないんだよ。
クリーンアーキテクチャ採用していて、がっつりしたE2Eテストを予定している時点で矛盾だって理解しろ。
ただなぁ、こういう技術()話するのが好きなエンジニアは多い。
呆れるほど多い。
多いんだが、残念すぎることに内容が、
「知ってるか?東京都立呪術高等専門学校って奥多摩にあるんだぜ」
「生徒に知り合いがいる」
今時の厨二だってそんなアホみたいな話してマウント取り合いなんてしねぇぞ……。
そんな集団に「ただの漫画の創作だぞ」って言い放つより、静かに距離を置くことを選ぶよ。
社会的不適合度と倫理的影響度の高低で4象限に分け、さらにヤベー奴度を0から10の実数で点数化する。
1.読書 (0.5)
2.ガーデニング (0.5)
3.料理 (0.5)
5.音楽鑑賞 (0.5)
6.映画鑑賞 (0.5)
7.ジョギング (0.5)
8.絵画 (1.0)
13.釣り (1.5)
14.キャンプ (1.5)
1.昆虫採集 (3.5)
2.コスプレ (4.0)
3. ASMR制作 (4.5)
4.廃墟探索 (5.5)
13.都市伝説追跡 (5.0)
15. 奇抜なヘアスタイル (4.0)
1.パチスロ (6.0)
2. 週末の深酒 (5.5)
3.喫煙 (5.0)
8.オンラインゲーム (5.0)
13.タトゥー (5.5)
1.街頭演説 (7.0)
2.新興宗教への参加 (8.5)
3. 肉食主義 (6.5)
6.推し活 (7.0)
14.過激なボディモディフィケーション (8.0)
ただし、「ヤベー奴度」の評価は主観的なものであり、個人や文化によって解釈が異なる可能性がある。
政治を語るなら「政策1は最高。2は駄作。うーん両方に関わってる政治家Aは当たり外れ大きい人なんだなぁ」みたいな映画批評みたいな形になるべき。政策にIDをつけて、政治家はタグの1つと位置付けるべき。
ほとんどの政治家は2つ以上の政策を出している。(以降ここでは、立案、実施した政策とか諸々の活動の成果物を政策と呼んでしまう。)一方で政策の方には沢山の人が関わって完成したものなんだから、データの持ち方的にも政策に着目すべきだろう。
政治を批判したい時に政治家を批判すると、しばしば、そいつの政策に全部批判が飛んでいく。ほとんどの政治家は利益になることと損になること両方やってる(誰の視点から見ても)。
絶対おかしいよな。やっぱり「政治家Aの政策1は最高、政治家Aの政策2はクソ」って批判の仕方をするべきだよな。
なんでこうなってないか。みんな個々の政策なんか気にしたこともない。せいぜい中身よくわかんないけどインフルエンサーが解説したのを信じこんだり。
こんなのどうだろう。インフルエンサーに代わってAIで政策を評価するんだ。ここでいうAIはキッチンにあるフードミキサーみたいな便利道具で政策にくっついてる属性(関わった政治家、成立年度とか)を全部ぶち込むと2次元くらいの特徴量、一種の「値」を出してくれる。それをもとにグラフに書いたり分類したりなんなりする。
で、自分に得になる政策を選んでって「値」を信仰するんだ。あるいは「値」をもとに政策を四象限に割り振って、その象限を盲信してもいい。人間が適当にぶちこんでAIがあやふやに放り出した「値」を神と崇めろ。
文字通りの凶弾に斃れた最長任期の元首相に死体撃ちするのも、正当な自由民主主義的活動が四十九日の喪に服すのもおかしいだろ。
「自分を見つめ直してほしい」
そんな中傷を聞き入れて、なるほど反省しよう、ってなる奴がどこにいる?
なあ、第一象限から第四象限まで悪意に塗れた支配欲に、誰も気づかないと思ったのか?
そのネガティブキャンペーンこそ時間の浪費だ。
その経済学とはなんぞや?
新自由主義と、ケインズ主義は全く別物だぞ。さらに、新自由主義が故に緊縮を叫び、ケインズ主義が故に反緊縮を叫ぶ。大きな政府小さな政府と 反緊縮、緊縮は一致してるんだよ。
さらに言うと、自民でみても、内部で大きな政府小さな政府と、緊縮、反緊縮が割れてる。
党が割れるのが嫌だから、経済政策から逃げて別のテーマを探そう探そうとしてる。だから、本来は議員一人ひとりごとに緊縮、反緊縮でみないとならない。
その上で分類するならこのとおりだろう。
② | ①
維
自
| 公立
|
| れ
③ | ④
国民はあえて言うなら3象限に入るだろうが、前原がゴリゴリの2なので3に素直に入れたくないんだよね。そんな感じで、この分類は比例の投票先にしか使えない。各選挙区は各選挙区ごとに見よ。
https://twitter.com/ShinHori1/status/1436338878688886784
なんか中島岳志の4象限が評判が悪いようだけど(個人的には悪くないと思う)、そもそも日本の民意における政治の評価軸は、保守とかリベラルとか、緊縮とか反緊縮とかではなく、(1)政権運営能力があるかどうか、(2)改革か反改革かという軸をめぐるものが中心だった。もちろん政権運営能力も改革も単なるイメージで、実際なところ大した中身はないが、このイメージ戦略で成功できるかどうかが決定的に重要だったことは間違いない。今のところ以下のような感じになっていると思う。
しかし実際のところ、河野に政権運営能力があるわけがないと思う。選挙の看板として使えるというだけで、政治の実務ではパワハラと恫喝でしか人を動かせない。財政政策では最も過激なタイプの緊縮派だが、コロナ禍においてそうした政策はかつてほど支持されていない。さらに質問には菅首相以上に答えないことは、これまでの質疑応答を見ても明らかになっているが、安倍政権時代に萎縮していたメディアは、もはや政権批判を恐れなくなりつつある。首相になっても数か月後には「河野おろし」だろう。
https://anond.hatelabo.jp/20210814164149
この増田のいうことは凄くよくわかる。
今一番求められてるのはわかりやすいコロナ対策とか経済対策だ。
一方、モリカケは重要ではあるが一般国民にとっては最優先事項ではない。
この状況で第二象限を優先すると言っても国民には響かないだろう
ではなぜこういう意見を支持する人がいるのかというと
立憲民主党を支持する人たちは、基本的に余裕があるからだろうな。
もうコロナワクチンも打ち終わっているだろう。中級国民といったところか。
このあたりちゃんと整理した方がいい。
政府への信頼への欠如やガバナンス崩壊など致命的な症状なので修復する必要がある。
しかし、あまりにもひどすぎてそっちの修復に手間をかけているとコロナや経済対策がおろそかになってしまう。
そのせいでこっちに注力する姿勢を見せるのは今はよろしくないのだ。
というよりも、こちらは政権交代に成功すれば嫌でも対応できるのだから