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はてなキーワード:豊饒の海とは

2025-09-14

三島由紀夫太宰治のように読むべき

太宰の小説は「こいつダメ人間だけど、でも自分にも通じるところがある」って読み方されてると思うけど、

三島場合はなぜか「よく分からんけどなんかすげー」としかまれてない。

三島小説で追求しているのは「めっちゃエモい」ってことで、

たとえば『豊饒の海』だと、行為を全肯定する”天皇”と、行為をしらけさせる”唯識”や”虚無”が対立構造になっていて、

三島自身インタビューでこれを「せり持ち(アーチ)構造」と呼んでるけど、

スイカに塩掛けるとめっちゃ甘くなるってのと同じで、たんにエモさを追求しているだけ。

それから三島小説政治的行動を比べて、小説はいいけど政治的行動は駄目って言う人がいるけど、

自身はエモさを追求してるわけで、当然命を賭けたほうがドキドキするわけだし、両者は一貫していると見るのが妥当

昇華ヌルい。腹切るほうがエモい

三島小説がいいと思う心は、人間がエモさに抗えないというところにあって、

これは太宰とは別種の人間ダメさで、そのことについて考えたほうが実りがあると思う。

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2025-08-22

何度も言うが、2010年から15年たった2025年現在電子書籍市場は、購入者にとって理解しがたい理由で、品ぞろえが悪い。

2025年6月8日時点で、日本語圏のどの電子書籍でも購入できない本の一覧。

ライ麦畑でつかまえて」(日本語訳)(サリンジャー白水社など)

百年の孤独」「族長の死」「予告された殺人の記録」(日本語訳)(ガルシアマルケス新潮社

ユリシーズ」(日本語訳)(ジョイス

「手紙」日記」(日本語訳)(カフカ

「?」(日本語訳)(フォークナー

「モロイ」「ゴドーを待ちながら」(日本語訳)(ベケット

仮面の告白」「金閣寺」「真夏の死」「豊饒の海」(三島由紀夫新潮社)(英訳はamazonkindleで購入できる)

花咲乙女のキンピラゴボウ」(橋本治

死の棘」(島尾敏雄

ポロポロ」(田中小実昌

神聖喜劇」(大西巨人

第一阿房列車」(内田百けん

15年というと、二葉亭四迷が『浮雲』(1887-1890)を書いてから、『蒲団』(1907-1908)で自然主義文学がはじまったとされるぐらいまでの時期、つまり現代までつづく(ある程度)こなれた言文一致文章一般的になるまでにかかった時間とだいたい同じである。たしか新聞記事文章文語から口語にかわるまでの時間もほぼ同じだったはず。

参考

五重塔』(1892)、文語体の名文で書かれた名作、

Permalink |記事への反応(0) | 12:39

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2025-03-24

anond:20250321034151

うーん、わいも豊饒の海しか読んだことないしささらんかった(友人で三島から刀にいったやつおるけど)。

同人誌即売会コミケの三日目の評論ジャンルにいってセンスあいそうな評論本をみつけたらそっから評論先にはまれるかトライしてはどうだろうか。

Permalink |記事への反応(0) | 18:35

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2025-02-02

理系だけど日本古典文学を割と読んだから語る⑤

【前】anond:20250202181229

以下、池澤夏樹文学全集には出ていないが、重要な物や自分が読んだものについて書く。

蜻蛉日記

川村裕子訳注で読んだ。著者は藤原道綱母で、夫である藤原兼家に対して激しい執着が描かれている。当時の僕は報われない愛情を扱ったフィクションにどっぷりとハマっていたので、かなり共感的に読んだ。男性が通ってくるのを待たされる側だった女性立場が見えて、あちこちに通う相手がいる光源氏に対しては「お前、お前お前お前!」以外の感想しか出てこなくなる。というか、藤原兼家みたいに、手紙LINEはそこそこまめなくせに、会いに来ない言い訳もやたら細やかで、会ったときも会ったときで真面目な話をせずこちらをからかうばかりという男性結構いるよな。モテる奴ってこんなのばっかってイメージがある(偏見)。

こういう時に面白いのは別の人の感想で、田辺聖子は先に書いた百人一首の本で、道綱母は夫を愛しているくせに、何をされても怒るかわいげのない女なのだと言っている。確かにせっかく通って来たのに寒空の下待たせちゃうんだけれど、つれない人に対してはそれくらいしてやりたくならないか

田辺聖子と考えが違って面白かったのは、「儒教道徳は男女の色気のあるやり取りも批判して世の中をつまらなくする」って発言だ。「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」の解説で述べていたことだ。コンプライアスに厳しい時代の子である自分としては首をかしげるが、彼女にそういわせたのは、おそらく彼女青春と重なった第二次世界大戦空気だろう。

後半は道綱のなかなかうまくいかない恋路が出てくる。

余談だが、平安時代著名人は大抵何らかの親戚関係がある。だから因縁話は大抵どこかとつながっているし、それなら言い出せない思いが積もり積もって怨霊生霊の類が出てもおかしくない気持ちになってくる。

話を戻すと、どうしてモテたり権力を持った人ってどんどん嫌な奴になっていくのだろう。これは推測だが、人間が何か行動をしたとき、多少なりとも権力、少なくとも力を行使するのが理由だろう。力を行使して何かがうまく行くのは喜ばしいが、そのたびに堕落ポイントが蓄積される気がする。つまり政治家であれ社会活動家であれ、世の中を良くしたという実感が少しずつ慢心に繋がっていく。かつては理想燃えて清廉に悪を糾弾していた人が、どんどん人の話を聞かない・フィードバックを受け付けない傲慢な人になっていく。まっとうな批判を受けても、自分が正しいから叩かれるのだと思い込んでいく。そうやって晩節を汚していく。具体例がたくさん浮かぶと思う。

なので、自分が一番偉いわけじゃない、権力も何もなくて謙虚にならざるを得ないコミュニティ所属しないと、どんどんダメになっていくのではあるまいか趣味も含めたコミュニティがたくさんないとおかしくなる。

これは以前、どこかにいたこである

人の話を聞かないことをテーマにしているのがカズオ・イシグロで、読むたびに嫌な気持ちになる。これは褒め言葉である

和泉式部日記

元カレの弟(帥宮敦道親王からアプローチされて、「手枕の袖」というフレーズ和歌を交換してイチャイチャして、遂に宮廷に迎えられるんだけど、巻末に帥宮挽歌群を持ってくるこの構成よ。悲しい。近藤みゆき訳注

注釈者の解釈の精度と深さがすごいので、やっぱり自分文学研究することなど到底できまいと思わされた。どの節で和泉式部感情がどう深まったかなどといった、字面を追ってしか読めない自分にはとても気づかないポイントが多数ある。所詮自分は楽しむことが主である素人である生活の種には到底できまい。

まりにも気に入ったため、メモをした和歌が膨大である。いつか深い悲しみに沈んだときに読み返したら、喪失の痛みにグサグサに刺されながらも慰められるだろう。和歌集は読んでいて面白いのだろうが、短い解説文で背景が説明されているよりも、こういう物語の中に和歌が含まれているほうが、著者と長く付き合ってきた分だけ、心に来るものがある。古典は知を刺激する部分と情緒を刺激する部分があるが、これはかなり後者に寄っている。

やはり文学が好きだが、近頃はあまり読みたいとは思わないのである。久しぶりに三島由紀夫を手に取ってパラパラとめくっていたら、感情を揺さぶられて過ぎてしんどくなってきた。これは好きすぎで苦しいということなのかもわからない。好きすぎて近づけないとこじらせ文学オタクになってしまっているのか。三島由紀夫のことは、近頃は文章が人工的過ぎると思って遠ざけていたのだが、やっぱりこの人、マッチョな肉体の中の繊細な精神がいつもピリピリしているよ。好きだけれど、読み返したくない。でも、生きているうちに「豊饒の海」を読みたい。

ところで、僕はどうも女性の手による日記文学が好きらしい。ドナルド・キーン日本人日記好きを注目すべき事項だとしていたが、僕もその例に漏れない。日記を読み返すのは自己愛だが、いがらしみきおぼのぼの人生相談で「世界で一番面白い本は自分日記」という趣旨のことを言っている。実際、何が自分に刺さったかを振り返ると、将来傷ついたときにどこに戻ればいいのかが見えてくる。

思うのだが、本を読む男性文学少女に憧れるのにも、自己愛という側面がある。もちろん、同じ趣味を持っている人に親しみを持つのは当たり前だけれども、陽キャのような押しつけがましさがないと勝手に期待してしまうのだ。そういう風に、実際に相手がどんな人かを見ようともせずに、活字が好きだという相手属性ばかり見ている。挙句の果てにそんな相手と深い理解に達し、イチャイチャしまくることに憧れる。そういう人間の恋がうまくいかないのは、今になって振り返ってみれば、残念ながら当然であろう(それでもうまくいく恋愛があるという指摘は無視する。認めないぞ、そんなものは)。だから、本は読むけれど優しくないタイプ女性片想いをして、勝手に傷ついてきたことが何度もある。以下、自分片想い歴や、彼女たちからされた非常に失礼な仕打ちを延々と書いたが、阿呆らしいのですべて削除した。客観的に見れば、当時の僕も結構痛い奴だったんだろう。わかっているが、恨みの気持ちゼロにはならない。

やれやれ。こうしたひがみっぽい、すべて主語が「自分」になっている感覚をすべて卒業してしまいたい。こういうわかったような口のきき方も気に食わない。だからこうして、匿名しか書けないような感情をあえて言語化し、脳内から叩き出す。こんな青臭い感情を二度と思い出さなくてもいいように、放流してしまう。

INTERMISSION⑤

困ったことに、他人批判的なことを書いている時にはやたらと楽しかった。悪口依存性のある娯楽だとよくわかる。なので、この悪癖にハマらないよう、かなりの部分を削った。リクエストがあったら出すかもしれないが、原則としてお蔵入りにするつもりだ。そう、恨みつらみなんていくらでも反芻できる。やめよう、やめよう。

実際、これでもまだ意地悪な記述が多い文章だ。すっきりするけれど、かっこ悪いのでそうそう頻繁にやるべきことじゃない。

かに、見苦しい愚痴をこうして捨ててしまうのが増田の使い方の一つではあるのはわかる。すべて吐き出せば身軽になれる。だから、こうして好きなことと嫌いなことをないまぜにした混乱した文章を書いてしまった。ひがみも怒りもドロドロした感情も、一度文章にすれば冷静になって振り返れる。

なんてみっともない文章だろうと思うのだけれど、書いていてこれは私小説の真似事なのだとわかった。かつて書いていた小説は、過去を変形して書き直し、つらい出来事に直接向き合わないようにするための緩衝材にしていた。あるいは、こういう恋がしたいという、ただの感傷マゾだった。だが、ここで過去を直接吐き出してしまえば、自分感情と筆をコントロールできるようになり、新しく真っ当な小説が書けるのではないか。そんな夢想に浸りたくなる。

実際、今は過去出来事よりも、今は自分の中の荒々しい本能暴力衝動をどう扱うかに関心が移りつつある。あるいは、欲望や執着についてだ。読みたい本もこういうテーマの物に近づいている。混乱していた十代と二十代から、三十代を終えそうになって、好みが変化しているのが明白だ。今こそ、良いものが書けるときではないか

最終選考電話がかかってきたのに、そして編集者と話ができたのに、結局は小説家として芽が出なかった悔しさは、ときどき自分をこんな夢想の中に閉じ込める。だから、発作的にこういう長文を書きたくなる。

だが、若い頃は創作によって自分感情を整理できたのは確かだけれど、ある時点で、僕はこのまま創作を続けてもどこにもたどり着けないのではないかという疑いにさいなまれるようになった。それよりは、虚構で変形されない事実直視したほうがいい。事実日記に断片的に書くことでさえ、ひがみ根性を薄れさせてくれる。小説に限らず、何かを言語化して分析するって本当に救済なんだ。

今後読みたいもの

結構読んできたな」と思いながらも、まだまだ読んでいない作品もかなり多い。大学時代から少ない年でも年に一冊か二冊くらいのペースで古文を読んできたので、そのペースなら生きているうちにもうちょっと読めるだろう。直近で気になっているのは(「カンタベリー物語」のように海外文学は別として)、池澤夏樹リストにあったもの神話物語歴史書それから江戸時代物語だ。

まず、他のところでも述べた通り、「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」がある。特に日本霊異記」はKADOKAWA現代語訳を出している。それから神話物語でいえば「風土記」がある。これも角川ソフィア文庫で出ているので読みたい。

歴史ものでは「大鏡」「栄華物語」がある。それから吾妻鏡」も気になっている。この並びから大河ドラマを想起するだろうが、あまり関係はない。とはいえ自分は「ニンジャスレイヤー」が流行っているときにもまず「ニューロマンサー」に手を伸ばすような人間なのである。ただし、めっちゃ長い。

あとは「東海道中膝栗毛」。パラパラとめくったら、原文でもギリギリ読めそうな、しかし読むのには時間がかかりそうな、近い時代であるが故の厄介な文体であった。そう、なんでもいいので月に十冊は必ず読むという漠然とした目標など放棄して、精読したほうが良い読書ライフが送れるのだが、手を出すかどうか迷ってしまう。というか、これも含めて、原文で読むか現代語訳で読むかは迷う。なるべく原文に当たりたいのだが、池澤夏樹日本文学全集現代語訳が訳者個性も含めて面白かったのと、意地を張って原文にこだわって、中身を浅くしか読めなかったら嫌なのとで、迷っているのである

好色一代男」「春色梅児誉美」もそのうち。寛大な気分のときになら、色男の生涯につきあってやっても良い。他の近松門左衛門とかも。

あとは、時間をかけて和歌を楽しむ。「万葉集」とか「新々百人一首」とか。

あとは、「御伽草子」とか。「青砥稿花紅彩画」とか。

まとめ

読書ログをたどりなおすと、自分がその時に何を感じていたのかを想起できる。読んだときの喜びも、読んだ当時感じていた閉塞感も、どちらも生々しく想起してしまった。だから卒業したはずの怨念に対して、こんなに愚痴ってしまっている。

同時に、自分感受性ゆっくり時間をかけて変化してきたのもよくわかった。一つの強迫観念に凝り固まっている時には、何を読んでも同じ感想を持ってしまうのだろうけれど、十年かけていろんな本を読んでいくと、自分に起きた変化が見えてくる。これから古典を読み続けるだろうし、さらに十年経ったらどんな感想を持つかが楽しみだ。

そして、自分にどんな変化が起きたか、いつかこれらの本を読み返して、確かめてみたい。

かに、かつて読んだときほど心惹かれなくなってしまうことも多いだろう。現にあらすじを振り返っただけで、「なんでそんなにハマったんだ?」と感じるものあった。これは寂しいことだが、既に興味を失った作品があるということは、自分が変化したこと意味する。むしろ、生きていくにつれて成長していくのなら、興味がなくなる物が出てくるのが当然だ。この寂しさは歓迎すべきものだ。実際に、ある作品に心惹かれていた理由が、既に卒業してしまった不安だとしたら、当の作品が色あせて見えてしまうのも無理はない。個人的な収穫は、叶わぬ恋の歌だけでなく、生きているが故の寂しさを歌った歌に好みが移り変わってきたとわかったことだ。

叶わない片想いをするだけが人生ではない。ただ生きていること、目の前の相手に耳を傾けて敬意を払うこと、それが文学以上に自分幸せにしてくれる。

そして、僕を大切にしてくれる人のことだけを考えて暮らしていきたいのである。これは創作よりも遥かに尊く、最も創造的なことだ。

以上。

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2025-01-02

理系池澤夏樹世界文学全集をほぼ全部読んだから五段階評価する⑤

【前】anond:20250102174224

2-07「精霊たちの家」イサベル・アジェンデ木村榮一訳★★★★

世代女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシアマルケスコロンビア人で、アジェンデチリ人

しかし、女性物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元女性強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。

同じく、よしもとばななアルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。

書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずしか触れられない。

道徳的理由表現規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。

2-08「パタゴニア/老いぼれグリンゴブルースチャトウィン芹沢真理子訳/カルロスフエンテス安藤哲行訳★★★★/★★

ブルースチャトウィンパタゴニアを読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地しかない暮らし風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリア舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。

カルロスフエンテス老いぼれグリンゴはあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ

フエンテス短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。

2-09「フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者」ミシェル・トゥルニエ榊原晃三訳/J・M・G・ル・クレジオ 中地義和訳★★/★★

ミシェル・トゥルニエフライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明自然を対比させるために(?)読者に理解やすロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台ロビンソンが島そのものとの性交子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォー原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。

M・G・ル・クレジオ黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷家族恋人黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である

ル・クレジオ難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。

2-10「賜物」ウラジーミル・ナボコフ沼野充義訳★★★★

一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義シリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語創作されているんだけれど、最後ロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話

難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。

で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女連想できないタイプ女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。

フョードルコンスタンチノヴィチに向かってうら若い牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧ものジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのであるもっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。

僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしま作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。

とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。

なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章リズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。

少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセス現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知相手自分利益のためだけに利用するのは邪悪定義に当てはまってしまうしね。

おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女思春期の頃に出会えるはずはないし、自分問題自分解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子自分自身の鏡像ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである

(どうでもいいけどウィキペディアロリコン写真集記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)

2-11ヴァインランドトマス・ピンチョン佐藤良明訳★★

ピンチョンはよくわからない。陰謀論ネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコフーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考ちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論ネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。

エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分キリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代アメリカポップカルチャー現代エンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ

2-12ブリキの太鼓ギュンター・グラス池内紀訳★★★

文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。

三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれ少年主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。

そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台現代日本でなければ別世界ファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスクロエ」だけじゃなくてコレット青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまりきじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇からってのもある気がする。

話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為あいだならエロ漫画主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラモテても、ちっとも面白くないのであるしかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説ダメ人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯ウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。

少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテ複数女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったもの理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。

続く。

Permalink |記事への反応(1) | 21:15

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2024-12-18

2024年に読んで良かった6冊の本

anond:20241217085132

読書メモの整理のために便乗。今年の読書文芸短歌仕事の専門書(ソフトウェア開発)が中心だった。

6冊を良かった順で挙げる。

大江健三郎大江健三郎自選短篇』(2014年

本書の長所最初短編から晩年短編までを収録しており年代による作風の変遷をたどれること。

ダントツに良いのは「雨の木」の連作ストーリーは「雨の木」というシンボル高安カッチャンという重要人物の周縁をぐるぐるし続け、いつまでも核心に踏み込まないため、最初は要旨をつかめない。しかし読み進めるにつれその構成多角的な視座を提供するための仕掛けだとわかる。短編であるにもかかわらず印象が何度も覆され、様々な味わいがある。

小説物語意図最初は分からいくらいが丁度いい、というようなことを三島由紀夫が何かに書いていたが、全くその通りである構成や内容が三島由紀夫豊饒の海」と少し似ている。豊饒の海は松枝清顕(早逝した親友)の生まれ変わり(と推測される人物たち)を数十年追い続ける物語で、ラストシーンでは清顕の存在自体が薄らぎ核心にぽっかり穴があく構成なのだが、大江健三郎「雨の木」もシンボルの雨の木の周縁をさんざんなぞった結末として木自体がほぼ焼失してしまう。「豊饒の海」は仏教死生観や死者に対する忘却根底に据えられているのと同じく、「雨の木」も死生観忘却(作中ではoblivion表現される)が重要テーマであるテーマに対するアンサーは正反対だが。なお先に書かれたのは「豊饒の海」。

物語の道具立てとして海外大学におけるシンポジウム海外作家引用原爆問題があり、衒学的な雰囲気を作っている点もわたしの好み。

「奇妙な仕事」などの最初短編はさすがに時代を感じる。「セヴンティーン」は発表当時右翼団体から脅迫を受けるなどかなり真剣に世の中に受け止められたようだが、令和の目線ではカリカチュアライズが激しく、大江健三郎絶対ゲラゲラ笑いながら描いただろうというノリの良さが全編にみなぎっている。また当時は右翼に対する攻撃という見方大勢だったようだが、左翼側の非論理性も指摘する内容のため、私の感覚では左翼小説と思わない。

最後の「火をめぐらす鳥」は大江健三郎流の引用の繰り返しや観念世界に入り込む構成といったスタイルを貫きつつも、おそらく意図的に情報量を落としており、ゆとりと円熟を感じさせる。

佐々木正美『子どもへのまなざし』(1998年

乳幼児育児の心構えを説く名著。以下は印象に残ったポイント

今年は家事育児ワンオペ +フルタイム勤務に忙殺され、子供への対応が雑になっていることを自覚しつつも改善策を見出せない期間が年末近くまで続き苦しかったが、本書の心構えを持っておくことで自信をもって育児ができるようになった。

夏目漱石私の個人主義」(講演1914年、底本1998年

夏目漱石1914年学習院で行った講演録。青空文庫で読んだ。https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html

ごく短く、読むのに30分もかからないが、内容はキャリア論、社会思想フェミニズムにまでわたる。

キャリア論の概略は以下の通り。

どこかに突き抜けたくても突き抜けられず、何かを掴みたくも掴めておらず悩んでいる者は、どこに進めばよいかからない以上、何かにぶつかるまで進む他ない。自らの個性で行けるところまで行ってツルハシで何かを掘り当てれば、自分なりに道を作ってきたことに安心と自信が生まれる。反対に、行けるところまで行かないかぎり、悩みと不愉快が一生ついて回る。

昨今は会社員主体的キャリア開発が求められる一方で、異動を会社の都合で命じられたり、顧客への責任第一に優先すべきという考えもあり、主体性を発揮してばかりいられないという板挟みを感じていた。しかし「私の個人主義」を読みとりあえず行けるところまで行くしかないと開き直ることができた。

社会思想については、自らの個性尊重すると同時に他者尊重しなければならないとか、裕福な人間は相応の責任を負うべきだ、など。

岡野大嗣『うれしい近況』(2023年

岡野大嗣の歌集まり短歌がたくさん載っている本。

いわゆる秀歌、つまり散文と異なる詩的な文体で、細部の描写を通じ、多層的な意味表現する、という歌ではないものが多いが、わたしは好き。岡野大嗣の中ではいまのところこれがベスト歌集

ボーカルの話すうれしい近況のうれしいピークで鳴るハイハット

ライブの楽しさが伝わる。ドラマーボーカルトークに関心を持ってきちんと聞いておりハイハットで反応してあげるという仲の良さがほほえましい。

どの店もゆかいな高低差の街でみるみる減っていく体力だ

高低差、という単語発見したのがこの歌の成果だと思う。坂が多くておしゃれな店ばかりの街で、ついつい歩きすぎて疲れてしまたことの充実感が歌われている。

ぼろ負けのオセロぜんぜん悔しくない広いソファーに変なあぐらで

オセロ相手との関係性を想像させる表現が巧み。"広いソファー"もゆとりある生活を感じさせ心地よい。

冬目景百木田家の古書暮らし』1~5(2022年2024年

漫画

冬目景は遅筆だが近年は順調に出してくれていることに、まず安心する。

冬目景恋愛モノが多く、登場人物たちがうじうじ悩みながら自分意志で一歩を踏み出していく様子を丹念に描いていることが、本作に限らない多くの作品の特徴。本作も登場人物おっかなびっくり、逡巡しながら実に遅々たるペースで接近してゆく。時には後退することもある。しか自分意志で進むからこそ人間味があり、納得感がある。

たこれも冬目景作品共通の特徴だが、登場人物基本的に善人ばかりであるものの皆わりと淡白コミュニケーションが暑苦しくないところに品の良さがある。

そして最大のポイントとして絵がわたしの好み。

劉慈欣『流浪地球』(2024年

中国SF短編集。「中国太陽」が最良。「良いSF未来技術ではなく技術がもたらす新たな社会を描く」ということをアシモフ小松左京高千穂遥あたりの誰かが言っていたが、その好例。SFなのに人生の苦労と発展にフォーカスしておりすごくウェット。

『三体』はまだ読んでいないが読むべきかな。

Permalink |記事への反応(0) | 12:34

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2024-05-13

最も過大評価されている作家三島由紀夫

三島由紀夫日本代表する文豪憂国の士といわれるが、過大評価され過ぎだと思い、所感を書いておく。

駄作が多すぎる

三島由紀夫はかなり多作作家で、小説戯曲だけでおそらく200作を超える。

新潮社三島由紀夫全集バカデカサイズの全42巻からなり、通読した人間三島専門家くらいだろう…専門家すら怪しいが。

なぜならあまりにしょーもない作品が多すぎるから

三島由紀夫といえば金閣寺。少し落ちるものとしては仮面の告白潮騒美徳のよろめき鏡子の家憂国豊饒の海がある。

しかし他の95%の作品・・・

私は三島由紀夫が好きで、小説だけでなく戯曲を含めて結構読んでいる方だと自認しているが、若者がつまら観念を語るだけの作品、あまり紋切り型恋愛作品が多すぎて、読むのが時間無駄苦痛だ。

打率の低さは擁護しきれないほどである

三島由紀夫vs東大全共闘

2021年に『三島由紀夫vs東大全共闘』という映画が公開された。三島由紀夫 =憂国の士という共通認識を前提とした筋書きのようだ。

しかし当時(1969年)の共通認識は「ややこしい人がクビを突っ込んだな」である

当時の三島由紀夫はボディービルディングに熱中したり、鍛えた裸を披露するために自分映画写真集作ってみたりと、脇道にそれる活動が多く、作家としての存在感が薄らいでいた。

それどころかいい年したおじさんなのにUFO超能力の探求にハマったり、ハタチそこそこの若者を誘って私兵部隊を結成したり(後に市ヶ谷駐屯地突入した楯の会である)と、お騒がせキャラクター確立していた。

まりUFO超能力に興味があり、自分映画写真集をつくり、若者を集めて軍事訓練を積ませている40過ぎのおじさんが、ソ連マルクス主義の嵐が吹きすさぶ東大に入って論戦しようというのであるいくらなんでもツッコミどころが多すぎるよ。

当時は同性愛天皇礼賛主義への偏見が強かったこともマイナスイメージ形成しており、三島由紀夫は"へんなおじさん"であった。

楯の会事件

散々語られていることだが計画性がなさすぎる。拡声器すら用意していなかったとは…。

社会思想を訴えることについて、本気度・想像力が足りない。

偉い人を人質にとって吠えれば自衛隊が動くと思ったのだろうか。組織とはそのような属人的ものではない。

ずさんな計画のわりに、割腹自殺の準備だけはキッチリしていたらしいが。

派手に割腹たかっただけでしょ。割と当たっていると思う。三島由紀夫エッセイ映像インタビューで度々語っているお気に入りエピソードに、終戦の日に夏の静かな日差しを見ていると自分は"生き残ってしまった、後に残されてしまった"という強い感覚を持ち、それ以来死に場所を探しているという話があり、その"死に場所"を選んだということなのだろう。

三島自己満足に付き合って死んだ若者たちが可愛そうだ…。

最後

三島由紀夫エッセイストとして優秀だとおもう。"高貴なる野蛮人たれ"という言葉を残した。上品で、教養があり、裕福な人間一見洗練されているようではあるが、実は個性がなく退屈で、柔順で、脆弱人間なのである種の誇り高き野蛮さを備えておくべきだという三島由紀夫の主張。この主張は私の人生の指針にもなってきた。

ただ文豪憂国の士というのは過大評価であり、観念に引きこもるあまり最期は周りに迷惑をかけて死んだへんてこ作家、くらいが妥当評価だと思う。

Permalink |記事への反応(15) | 11:15

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2023-06-08

ポケットモンスター

荒城の月/豊饒の海

Permalink |記事への反応(0) | 02:44

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2022-10-12

大学卒業までに三島由紀夫豊饒の海読み切りたい。残り半年弱で、今読んでるのも含めてあと2冊。意識的読書時間をあてていれば十分読みきれるかな。まあ読み始めたの1年くらい前(もしかしたらもっと前)だから最初の方とかあんまり覚えてないけど…

Permalink |記事への反応(0) | 02:01

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2020-12-26

anond:20201226033319

豊饒の海ずっと読みたかったんだけどみんながあらすじとかネタバレペラペラしゃべるのでもはやそのモチベーションがない

Permalink |記事への反応(0) | 17:19

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鬼滅の刃と三島由紀夫

 はっきり言ってこの文脈において鬼滅の刃はそこまで重要じゃないんだけど、要は生まれ変わりの話である

 鬼滅の刃は最終巻を除いて全て読んでいるし、一年上前からジャンプ本誌を購読していて大体の展開は知っている。三島に関してはこれまで十冊くらい読んだ。仮面の告白金閣寺豊饒の海。そういうやつだ。

 要するに生まれ変わりの話である三島由紀夫は東大卒業して官僚になった後で小説家に転身した。諸々の経緯を省くと最終的に自衛隊基地で生涯を終えることになる。この事件には様々な思惑が見られるのだけれど、それはそれとして三島由紀夫は生前まれ変わりというものへの執着を小説において大いに語っていた。勿論、それはポーズだったのかもしれない。荒唐無稽ナイーヴ小説家としてのポーズを取ることで、あるいは自分目的を推測されまいとしたのかもしれない。

 いずれにしても、豊饒の海シリーズを読んでいる限りで彼はかなり真剣に生まれ変わりというものを信望していたように思われる。三島事件だってそうだ。彼が事件を起こしたのは彼の誕生日である一月十四日の四十九日前だった。つまり事件から数えること四十九日後に、彼は改めてこの世に生を享けようとしたのである。少なくとも三島由紀夫の研究においてはそれが定説だ。


 鬼滅の話どこ行ったねんというツッコミが聞こえてきそうなので言及しておくと、鬼滅は正直面白いと思っている。下弦連中の粛清とか柱合会議あたりから特に面白くなったよね。俺はかなり好きだ。上限の六の兄妹鬼のエピソードラスト辺りとかも特に好きだ。

 鬼滅の刃においては、人と人との因縁因果、あるいは、極言すれば生まれ変わりについて表現散見される。生まれ変わり、そんなものが本当に存在するのかどうかは確かめようがない。だから、この議論は率直に言ってナンセンスだ。そんなものは分からないのだ。このテの命題そもそも述語を接続しようとすること自体間違っているのだ。そんなことは我々には分からないし、発言余地はない。生まれ変わりについてはそれで話が即座に終わる。オーヴァ。本来なら。

 とは言え三島由紀夫は明晰な頭脳を持ちながらに生まれ変わりをラディカルな部分で信じていたように思われる。少なくとも、自分小説でそのようにアピールしている。生まれ変わりを自分は信じているのだと。どうやら、彼は周囲に口にしなかった個人的体験によって生まれ変わりを信じるようになったのではないかと思われる。彼の遺作である豊饒の海』の最終巻『天人五衰』が脱稿されたのは三島事件の二日前で、つまり、彼は事件の後で『天人五衰』が出版されるように計らったのであり、『豊饒の海シリーズにおいて「生まれ変わり」が大体的なテーマとして描かれていたこからも、彼が自身存在を「生まれ変わり」の信望者として印象付けようとしたことは明らかであった。遺作のテーマは生まれ変わり――そして事件を起こしたのは誕生日四十九日前であり、これまた生まれ変わりを示唆しているのだ。当然この二つの事象リンクしている。

 『豊饒の海シリーズにおいて、主人公は松枝清顕と本多繁邦であり、本多は松枝と死別するが、生前松枝の身体に刻まれていた脇の下の三つの黒子を巡って彼は様々な生まれ変わりの事実に直面する。三巻『暁の寺』において登場する東南アジア某国の姫君ジン・ジャンは、本来知り得ようもはずもない前世の詳細な記憶本多に向かって詳細に語ることで、少なくとも作中において生まれ変わりの事実が明確にされることとなる。

 脇の下にある三つの黒子、というのがキーになっているこの連綿とした転生は、恐らくは三島本人の人生においても見られたのではなかろうか。三つの黒子とまでは言わずとも、身体的特徴の極度なまでの類似、そして死者と当事者しか知らぬはずの記憶が語られること。それらによって三島は生まれ変わりの事実を、自身人生においても確認したのではないか――? 無論こんなことを考えるのはナンセンスだ。そんなことは三島当人しか知る由はないし、重ねて、生まれ変わりに何らかの述語を接続してはならないのだから

 でもあったら面白いよね、生まれ変わり。


 因みに、彼の遺作のタイトルである豊饒の海』はミスリードを誘うもので、本来このタイトルは、ヨーロッパにおける月のクレータの異称を指している。

 古来よりヨーロッパにおいては月に存在する巨大なクレーターのことを「豊饒の海」と呼ばうのだ。

 それは、月に存在する一滴の水も存在しない茫漠とした荒野のことである。「豊穣」という言葉とは裏腹な、無益と徒労を象徴する荒野存在が、彼の作品には浮かび上がっている。

Permalink |記事への反応(5) | 03:33

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2018-09-27

anond:20180927204013

三島由紀夫

名文家として定番だし

豊饒の海」は物語としても面白い

「清顕は馬車が好きだった。とりわけ心に不安のあるときには、

馬車の動揺が不安独特のしつこい正確なリズムを乱してくれるからで、

又、すぐ身近に馬よりももっと裸かな馬の尻にふり立てられる尾を感じ、

怒る鬣(たてがみ)や歯噛(はが)みに泡立ちつややかな糸をなびかせる唾(つばき)を感じ、

そういう獣的な力にすぐ接している車内の優美を併せ感じるのが好きだった。 」

「この世には幸福特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。

あなた確信と夢の根拠は全部不合理なんです。

もしこの世に生れつき別格で、特別に美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、

さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。 」

Permalink |記事への反応(0) | 21:21

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2018-02-08

anond:20180207214856

それなりに色々なことに興味を持つ人ならば、この人の著書はまあ読んだことあるだろうな、というのはある。そこから逆算して、あれもそれも読んでいるなら教養のある人なのだろうな、という感覚もある。

はい文学はいっぺん読んで自分に合わなかったら次が続かないのが普通だし、根拠として一人の作家作品を五つも六つも挙げるのは違和感がある。教養、というならむしろ文学作品以外を幅広く読んでいてほしい。

仮に複数挙げるにしても、教養のない私が読んだことのあるものだけで言っても、三島由紀夫なら短編がなければ片手落ちだし、村上春樹は『世界の終わり』か『ねじまき鳥』はどっちか読んでだめならもう片方を読むこともなかろう。

教養から読まねばならない、と思って読んでいるとしたら、そんなつまらない読み方をするのはやめたほうが良いと思う。そんな時間があるなら、一生懸命に働いたほうがよっぽど評価してもらえる。

ところで三島由紀夫は『憂国』がいいか三島未読の人は今すぐ読もう。さあ読もう。豊饒の海なんか最初に読んで合わなかったら悲惨すぎる。

Permalink |記事への反応(0) | 11:57

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2018-02-07

教養豊かな人なら読んでいて当然の日本文学102選(戦後編)

三島由紀夫金閣寺』『豊饒の海

谷崎潤一郎細雪』『鍵』

川端康成山の音』『眠れる美女

坂口安吾堕落論

梅崎春生『幻化』

武田泰淳ひかりごけ』『富士

佐多稲子『樹影』

安部公房『壁』『砂の女』『箱男』『密会』

大江健三郎性的人間』『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『さようなら、私の本よ!』『美しいアナベル・リィ』『水死』

中上健次千年の愉楽』『日輪の翼』

開高健『輝ける闇』

高橋和巳邪宗門

大西巨人神聖喜劇

安岡章太郎ガラスの靴・悪い仲間 』

小島信夫『うるわしき日々』『残光』

庄野潤三プールサイド小景静物

津島佑子『火の山―山猿記』『ヤマネコドーム

稲葉真弓半島へ』

古井由吉『杳子・妻隠』『槿』『白暗淵』

後藤明生挟み撃ち』『壁の中』

黒井千次『群棲』

藤枝静男『田紳有楽空気頭』『悲しいだけ・欣求浄土

倉橋由美子夢の浮橋

田中小実昌ポロポロ

色川武大狂人日記

金井美恵子『愛の生活・森のメリュジーヌ』『タマや』

富岡多恵子『波うつ土地・芻狗』

河野多恵子 『みいら採り猟奇譚』

石牟礼道子『苦界浄土

村上龍コインロッカー・ベイビーズ

村上春樹回転木馬のデッド・ヒート』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル

高橋源一郎さよならギャングたち』『ジョンレノン火星人

笙野頼子『母の発達』『金比羅』『だいにっほん、おんたこめいわく史』

車谷長吉『鹽壺の匙』『赤目四十八瀧心中未遂

玄侑宗久アブラクサスの祭

池澤夏樹マシアス・ギリの失脚

保坂和志カンバセイション・ピース

堀江敏幸河岸忘日抄』

多和田葉子『雪の練習生』『尼僧とキューピットの弓』『雲をつかむ話』

阿部和重アメリカの夜』『ABC戦争』『無情の世界』『ニッポニア・ニッポン』『シンセミア』『ピストルズ

松浦理英子ナチュラルウーマン』『犬身』

中原昌也ニートピア2010』

町田康夫婦茶碗

舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』『九十九十九』『ディスコ探偵水曜日』『淵の王』

綿矢りさ『かわいそうだね?』

金原ひとみマザーズ

中村文則『何もかも憂鬱な夜に』『教団X』

柴崎友香『その街の今は』

岡田利規わたしたちに許された特別時間の終わり』

川上未映子愛の夢とか』『あこがれ』

水村美苗本格小説

前田司郎『愛が挟み撃ち

諏訪哲史ロンバルディア遠景』

本谷有希子『嵐のピクニック

磯崎憲一郎『往古来今』

青木淳悟『私のいない高校

朝吹真理子『きことわ』

小山田浩子工場

今村夏子『こちあみ子』

滝口悠生『高架線』

高橋弘希『指の骨』

崔実『ジニのパズル

Permalink |記事への反応(4) | 21:48

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2009-02-21

ブンガク格付け

超名作

ドンキホーテ 戦争と平和 神曲ファウスト

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

名作

魔の山 レ・ミゼラブル デイヴィッド・コパフィールド 

人間の絆 白鯨 カラマーゾフの兄弟 重力の虹

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

良作

回帰線 赤と黒 阿Q正伝 ボヴァリー夫人 失われた時を求めて 1984年 キャッチ22

ゴリオ爺さん ガラス玉演戯 ユリシーズ 響きと怒り 城アンダーワールド 異邦人

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

佳作

怒りのぶどう 大地 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

グレート・ギャッツビー 明暗 老人と海 夜の果てへの旅 スローターハウス5

感情教育 ハムレット 失楽園 オデュッセイア モンテ・クリスト伯

クオ・ワディス 大使たち イワンデニーソヴィチの一日ライ麦畑でつかまえて

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ラノベ

豊饒の海 ティファニーで朝食を レベッカ 万延元年のフットボール

決壊 初恋 アルジャーノンに花束を グランド・フィナーレ 椿姫

見えない都市 百年の孤独 オネーギン オブローモフ 外套 暗夜行路

ムーンパレス 嵐が丘 ジェーン・エア 伊豆の踊り子 涼宮ハルヒの憂鬱

キノの旅 ダ・ヴィンチ・コード

Permalink |記事への反応(2) | 14:50

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2008-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20081025002507

割と小説らしい小説が好きなんじゃないかな。

心理描写が綿密で分かりやすかった作品といえば

ジェイン・オースティン高慢偏見」とか

E・M・フォースター「眺めの良い部屋」とかが思い浮かぶかな。

なんていうか小市民的であんまり壮大じゃないけど。女性で好きな人が多いような気がする。

ブロンテ姉妹の「嵐が丘」「ジェーン・エア」も面白かった。

「嵐が丘」は割とシュールだけど「ジェーン・エア」はストレート

国文学だと谷崎潤一郎の「細雪」とかも良いかな。

三島由紀夫豊饒の海シリーズも「春の雪」「奔馬」までは普通に楽しめるんじゃないかな。

三島由紀夫は他にも勧められる作品がたくさんありそうな気がするけど未読……。

J・アーヴィングの「サイダー・ハウスルール」とかも面白かった。小説らしい小説が好きな人にはアーヴィング面白いと思う。

ガルシアマルケス百年の孤独」も凄かったなあ。

あと、まっとうな小説から少し離れるけど、ジョージ・オーウェルの「1984年」の心理描写はパねえと思う。(笑)

「魔の山」はこのまえ再読して面白かった。主人公フラフラしながらも世界秘密に迫っていくような様子が凄いと思った。

読書歴が割と偏っているので、もっとまっとうな読書家の方の応援に期待します。(笑)

Permalink |記事への反応(1) | 01:04

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2007-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20070614145153

課題として指示されたのは「春の雪」だけなのかな。

それとも「豊饒の海」ぜんぶ?ぜんぶだとちょっと大変だなー。

あ、豊饒の字これでいいんだっけ。

Permalink |記事への反応(1) | 15:15

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