
はてなキーワード:警句とは
ミシュレイ(箴言)にはそのような警句が多くあります。たとえば:
また、
一見すると、「馬鹿と関わるな」という絶対命令のように思えます。しかし、次の節でソロモン王はこうも言っています:
この二つの節(26:4–5)は、まさにタルムード的思考の核心です。つまり、同じ状況に見えても「沈黙すべき時」と「答えるべき時」がある。
タルムード(ババ・バトラ 12b)では、
と語られます。
賢者は、神の声の代わりに人間の複雑さを読み取る力を与えられたのです。
ですから、箴言の「愚か者と関わるな」というのは「すべての愚か者から距離を取れ」という単純な命令ではなく、「関わり方を選べ」という智慧の勧めなのです。
あなたがSNSの浅薄な議論や虚栄を「愚かさ」と見抜くのは正しい。しかし、その見抜いたうえでどう対応するかが本当の知恵です。
愚かさに同調するな(=沈黙の知恵)しかし、愚かさが誤解や害を生むなら、正すために言葉を使え(=責任の知恵)
このバランスを保つことが、「ミシュレイ」と「タルムード」両方の精神なのです。
あなたがSNSに参加しないというのは箴言的には「沈黙の知恵」として正当化できます。
ただし、もし「沈黙」が真理を隠すことになってしまう場合は、沈黙もまた罪になり得る(レビ記19:17)。
1.問題の枠組み――“誰がやるか”ではなく“何を認めるか”
「公権力の弾圧」と「私的なキャンセル(解雇・排除)」は区別されるべき――これは当たり前だ。だが本件の争点はそこで止まらない。核心は次の可換性(対称性)だ。
> もしあなたが「Aの表現」に対する私的制裁(雇用終了・場からの排除)を正当化してきたなら、立場や陣営が逆回転したときも同じルールを受け入れねばならない。
「誰がやるか(政府か企業か)」を盾に「これは弾圧、あれは正当」と言い分けるのは、規範の可換性を破る。第一投稿が指摘するのはまさにこの点だ。
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2. 第二投稿(anond:20250915142944 )の論理的問題のコア
第二投稿は「弾圧(公権力)とキャンセル(市民・企業)は違う」と繰り返す。しかし歴史的にも現実にも、大学・大手メディア・巨大プラットフォーム・大雇用主は私的でありながら制度的権力そのものだ。過去、彼らが“右でも左でもない形で”人生を左右してきたことを知りながら、今回は「政府じゃないからOK/政府だからNG」とだけ言い分けるのは、制度的権力の実効性を過小評価している。
第二投稿は「今回は理不尽なパージ」と非難するが、過去に業務外の私語・私生活上の表現を理由に排除を容認してきたケースは枚挙に暇がない。
もし「場の規範」を根拠に是認してきたのなら、その規範が反転しても同じ論理が適用される(べき)だ。ここで急に「雇用契約の範囲外」「表現の自由」を持ち出すのは選好依存の二重基準である。
「彼らが最初に…」は、少数者保護の“原理論”だ。これを掲げつつ「こうなるのも仕方がない」と現に少数(今回は右派)への制裁の拡大を諦念で受け入れるのは、警句の目的(原理の維持)に反する。
原理を維持するなら、「自分が嫌う側」に対しても同じ保護を与えねばならない。
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議論を「誰が嫌いか」から外し、ルール設計に落とすと、選べるのは実は次の二択だ。
業務外の表現・私生活上の言動に対し、雇用・教育・プラットフォームからの排除を原則禁止(限定例外:直接的な違法煽動、重大な職務上の利害相反、明白な安全リスクなど)。
「場の規範」を掲げて、右でも左でも同じ条件で私的制裁を許容。ターゲットが反転しても泣かないことが前提。
第三の道、すなわち「自分たちの価値観に沿うキャンセルは是正、逆は弾圧」は原理として成立しない。それは規範ではなく部族的勝敗の表明に過ぎない。
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4.反論の先取りと応答
反論A:「今回は暴力に喝采だ。過去の“問題発言”とは質が違う」
応答:質の線引きこそが恣意の温床だ。危害の直接扇動や違法行為の教唆は既存法で対処すべきで、法外の私的制裁を一般化すると、線引きの“閾値”は政争と同調圧力で上下する。だからこそ原則①(厳格反キャンセル)を採る意義がある。
応答:公権力の越権は別軸で違法として糾すべきだ。しかしそれは、私的制裁の正当化を同時に免罪しない。二つの問題は直交する。公的越権を批判しつつ私的キャンセルも否定する、という一貫性が取り得る。
反論C:「大学・メディアは“表現の場”だから自律的に線引きできる」
応答:ならば対称性を守れ、がこちらの要求だ。右派・左派で運用を替えるなら、それは規範ではなく任意の私刑だ。
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キャンセルは低コスト・高威力の制裁手段だ。短期的に“自分の側”に有利でも、ルールを解禁する限り相手陣営も同じ武器を持つ。
第一投稿の要旨はここにある。「兵器化」を歓迎したのは誰か。砲塔が回った途端、「非道だ」と叫ぶのは設計者としての責任回避であり、規範の議論ではない。
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業務外言論に対する雇用制裁の原則禁止(明確な違法煽動・職務上の重大な支障・安全リスクを限定列挙)
この最低ラインなら、右左どちらに砲塔が回っても可換性を守れる。
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第二投稿は、「公権力 vs私的制裁」の違いを強調しつつ、過去に自ら容認した私的なキャンセルの正当化との整合性を示せていない。ニーメラーの引用も、原理の普遍化ではなく選好に応じた適用に陥っている。
第一投稿が指摘した通り、キャンセルという兵器の解禁は、いずれ自分に向く。それが嫌なら、今こそ原理としての反キャンセルに立ち返るべきだし、なお解禁したいなら反転時にも黙って受ける覚悟が要る。
規範は誰を罰したいかではなく、どんなルールで社会を動かすかで決めるべきだ。今起きているのは「正義の交代」ではなく、原理の不在である。
この発言にはいくつかの論理的矛盾や問題点が含まれています。以下に整理してみます:
⚖️ 1. 「キャンセルカルチャーを認めたからこうなるのは当然」論の自己矛盾
🧠 2. 「社会的正しさの内容が変わっただけ」論の過度な単純化
🔁 3. 「自分の正義に反するものが正義になったから反発してる」論のブーメラン性
これまで社会的正しさ(ポリコレ等々)キャンセルカルチャー(業務上のことではなく、私生活上の言動を理由とした社会的抹殺)が認められてきたんだからね。
その社会的正しさの内容が変わっただけの話。
俺はポリコレにもキャンセルカルチャーにも反対してきたけど、それが認められてきた以上こうなるのも仕方ないね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.cnn.co.jp/business/35237979.html
上位ブコメを見てわかる通りアメリカ政府や企業の対応に批判一色。
お前らこれまでのキャンセルカルチャーやオープンレターにどう反応してきたよ?
自分の「正義」に反するものが「正義」になったからって反発してるんじゃねーよ。アホか。
こうなるのがわかってたからキャンセルカルチャーなんてのは認めたらダメだったんだよ。
典型的な「私の正義によるキャンセルカルチャーは正しい」っていう醜悪なブコメがついてたから紹介しておこう
◯権力による理不尽なパージとキャンセルカルチャーを意図的にごっちゃにしてない?キャンセルカルチャーの全てが正しいと思ってないけど、それに対して公権力が理不尽を働いて良いわけないだろ
◯政府と市民がごっちゃになってる。弾圧とキャンセルは違う。そのことがキャンセルはOKということには必ずしもならないにしても。政府の悪行に「推定無罪」とか言っちゃうのと似てる
◯この増田は、トランプがキャンセルカルチャーを実施していると思っているのかwトランプ(権力)が暴走しているから、やめろって言ってるだけだろ。どんだけ馬鹿なのこの増田w馬鹿すぎて理解するのが難しかった。
→大学の教員なんてのは学生に対する典型的な「権力者」(国公(州)立大学の場合は公権力の行使者)なわけだが、これまで認められてきたわけだよね。であるならば今回も問題ないよね?
→公権力を無視したとしても、大学教員や大手マスコミなんてのは権力者なわけだが、これまで認められてきたわけだよね。ってことは今回も、少なくとも公権力によらない企業による解雇は問題ないってことだよね?
Permalink |記事への反応(22) | 10:04
というかもはや文化多様性はヒトの群れの多様性なので、そのまま生物多様性に包含されてもいい。
早い話、クズを外国に持ち出したらそこがクズだらけになるんだ。何例も見てきただろ。
完全に排斥しない限り、元の体系の特徴は薄まっていく。無抵抗なら母屋を取られる。そりゃそうだよ「誰も悪くない」自然の原理とすら言える。
答えのないバランス取りを、常にする。2つの群れを共存させる。この覚悟がないなら大っぴらに国を開くな、向こうに無礼だ。普通はうまく行かないので郷に行っては郷に従わせるのが基本になる。
ましてや複数の文化を完全に共存させつつ平和を保つのは無理。ってのがもう100年くらい試されて何人も実験の犠牲になっている。コンフリクトは必ず起こる。それは彼我のどちらかの出自や信条を損害する方法で解決される。
表自問題で叩かれている表自女オタクたち、俺が見てきた人たちは8年以上前から男女向け問わず表現規制に対して異を唱えていたから、今叩かれているのはかわいそうだと思う。某女オタクが表自男オタクを「お前らは私たちがいなければズリネタの自由戦士でしかない」という名台詞を吐いた際にも、否定的なコメントをきちんと出していた。
が、彼女たちですら男性向け表現を暖簾の外に出そうとまでは言わなかったし、仮に当時言っていたとしてもお気持ち要素ゼロのガンギマリ表自ガチ勢にしか支持されず、多数派にはやんわりと反対の目を向けられていただろうと思う。男性向け表現の解放を主張/賛同していなかったこと自体は、若い世代には当たり前となってしまっているので仕方がない。そもそもそれを表明する男オタク自体が希少種だったし、あまり叩く気にならない。
だがしかし、その前提がある限りBLを暖簾の中に押し込むことに反対することは差別を支持することであり、BL表現への規制に反対することはできない。少なくとも、男性向け表現と同等程度になるまでは焼かれるのを黙って見ていなければ差別主義者になってしまう。8年以上の活動をしてきたからこそ、今まで男性向け表現の解放を主張していなかったことが、自らの主張に制限をかける。残念だが、君たちには焼かれて貰うしかない。
しかし、彼女たちに全ての責があるわけではない。男オタクも悪いのだ。男性向け表現の解放を謳い、エロマンガを暖簾の外に出し、堂々と児童書の隣に置くことを主張すべきであった。しかし、他ならぬ男オタク自身がそれをしなかった。した者はいたが、「一般的な市民感覚」を持つオタクたちからは怪訝な目で見られており、あまり支持されていなかった。
そりゃそうだ。児童が過剰にポルノに暴露される事は発達に影響を与えることを示唆する研究はある(念の為言っておくが純粋培養も同様の傾向である)。それを知らなくても、直観的にもそういう考えになる。普段は視界に入らないが、その気になれば手に取れる。暖簾の中に隔離されるというのは、公共の福祉を踏まえると程よい距離感であるのはその通りであるのだ。若い世代にとってはそれが当たり前になってしまった。当の男オタクが望まない主張を、女オタクがすべきであったとするのは、いささか他責が過ぎるだろう。
だが残念なことに、だからこそ女性向け表現は焼かれる対象になる。一般向けからコーナーから排除され、暖簾の奥に押し込まれ、禁断の領域に足を踏み入れる居心地の悪さを感じてもらうことになる。BLだけではない。過激な少女漫画やレディコミも、全て焼かれて貰う。そうでなければ筋が通らない。
しかし、俺達も悪い。俺達が現状に甘んじ、男性向け表現が規制されていることを受け入れてしまったからこうなっているのだ。フェミ共の言う公共の福祉の議論に乗ってしまったからだ。表現の自由は児童がポルノに暴露されることに寄る悪影響よりも重要である。児童への影響は受忍限度の範囲内だ。そう主張するべきであった。しかし、当時はフェミの勢力が強かったことを踏まえても、流石に分が悪い主張であったことは疑いようがない。我々は大人であり、強者であり、児童は弱者で庇護対象だ。児童の利益が優先されるのは何ら違和感のある主張ではない。だが、だとしても、それを主張するべきであった。
当時それを強く主張していれば、ガンギマリ表自女オタクたちもそれに乗ってくれたかもしれない。表現の自由戦士で世論を動かし、フェミやダブスタ腐女子を叩けたかもしれない。8年越しの今、ダブスタ腐女子を黙らせ、オタクたちは手を取り合ってフェミやリベラルや保守、あらゆる勢力に一致団結して立ち向かえたかもしれない。
だが、残念ながらそうはならなかった。男オタクは日和った。女オタクは現状維持した。表現の自由は専守防衛であり、抑圧からの解放を是としなかった。結果、BLが焼かれることに反対する根拠を失ってしまった。オタクたち全員がこの結果を作った。
表自女オタクよ、すまない。俺達が規制に抗うべきであった。しかし表自女オタクよ、君たちは男性向け表現が児童書の隣に並ぶことを是と心得ることができるかね?母親になっても、娘を持っても、それを続けることができるかね?
「ここで団結せねばいずれ男性向け表現も焼かれる!」と言うのはいいが、それを言うには君たちの仲間はヘイトを買いすぎた。表現を守ると謳いながら、男性向け表現を焼くという裏切りがあまりにも多すぎた。君たちがそうではないというのは俺がよく知っている。だが、その立場を取るのであれば、君たちの仲間の裏切りを強く焼くべきだったのだ。君たちの仲間が無能すぎたのは同情するが、焼かれ続けた男オタクの怒りを鎮めるには、君たちの声は少し足りなかったようだ。
ここで君たちを見捨てれば、我々は二ーメラーの警句の通りになるかもしれない。しかし時代を遡れば、君たちが二ーメラーの警句通りの裁きを受けている。俺は当時まだ生まれたばかりだったが、90年代の表現規制の際に反対しておけば、2010年代に「昔はこんな不自由な社会ではなかった」と若い男オタクの目を覚ませていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。もし君たちが当時幼すぎたならどうしようもないが、しかし人の気持ちとはそういうものだ。
BL表現を焼くことは、間違いなく表現の自由の後退を意味する。だが、我々がそれを防ぐには選択肢を間違えすぎた。時代も悪い。男女平等教育を受けた若い世代の目がキマっているのも運が悪かった。男らしく、表現の自由を守るためなら多少の不自由は引き受けようとする、器のある男はもう少数派だ。
どうすればこれを避けられたんだろうな。俺達はもう、燃えていくBLを眺めていることしかできない。
多角的分析:無菌化社会への静かなる告発\n\nこのわずか2行のテキストは、単なる子育ての愚痴や嘆きではありません。これは、現代の日本社会、特に都市部が抱える歪みを鋭く切り取った、極めて洗練された社会批評です。\n\n1. 表面的な情景と現実社会のリンク\n\n投稿が描き出すのは、「都会の標準的な子供」が置かれた、あまりにも窮屈な環境です。\n\nペットの禁止: これは単に集合住宅の規約だけの問題ではありません。アレルギーへの過剰な懸念、糞尿の始末といった手間、そして何より「命を管理する」という責任と不確実性からの逃避を象徴しています。生き物との触れ合いから得られる情操教育や生命倫理を学ぶ機会が、リスクヘッジの名の下に奪われています。\n\n楽器の禁止:騒音問題という現実的な制約の背後には、「他人に迷惑をかけてはいけない」という規範の過剰な内面化と、芸術や文化的な活動が「受験勉強の役に立たない」非効率なものとして切り捨てられる風潮があります。\n\nはんだごての禁止: このアイテムの選択が秀逸です。「はんだごて」は、火傷や火事の危険性を伴う一方で、創造性、論理的思考、そして試行錯誤する力を育む「ものづくり」の原点を象徴します。これを禁止することは、子供を安全な「無菌室」に閉じ込め、失敗から学ぶという本質的な成長機会を奪う社会の姿を映し出しています。\n\nこれら3つの「禁止」は、現代社会、特に都市部における子育てが**「効率性」「無菌化」「リスク回避」**という三つのキーワードに支配されている現実を浮き彫りにします。\n\n2.投稿者の性格と人物像の推測\n\nこの簡潔かつ痛烈な文章から、投稿者の人物像が透けて見えます。\n\n世代と経験: おそらく30代後半から50代。自身が子供の頃には、これらの「禁止事項」がまだ当たり前ではなかった世代でしょう。ペットを飼い、楽器に触れ、あるいはプラモデルやラジオの製作に夢中になった経験を持つ人物かもしれません。その「原体験」の価値を知っているからこそ、現代の子供たちが置かれた環境との断絶に強い問題意識を抱いています。\n\n知性と観察眼: 多くの言葉を費やすことなく、的確なアイテム(ペット、楽器、はんだごて)を並べることで、問題の本質を突く鋭い知性の持ち主です。世の中を冷めた目で、しかし注意深く観察しています。\n\n皮肉と絶望の裏にある愛情: 「勉強だけしてるのが一番賢い」という一文は、本心からの賞賛であるはずがありません。これは、価値観が「学力」という単一のモノサシに収斂してしまった社会に対する、強烈な皮肉(アイロニー)です。その冷笑的な態度の裏には、「子供たちにはもっと多様で豊かな経験を通して、本当の意味で賢く、たくましく育ってほしい」という、ねじれた形の愛情や祈りが感じられます。\n\n3.世界観と真の主張の読解\n\nこの投稿者が持つ世界観と、本当に伝えたかった主張は以下の通りです。\n\n世界観:投稿者は、現代社会を**「人間的な豊かさを削ぎ落とし、管理しやすく数値化できる価値だけを追求するディストピア」**として捉えています。そこでは、子供は未来の労働市場で勝つための「投資対象」と化し、その育成プロセスは徹底的に効率化・最適化されます。失敗や回り道、無駄といった、かつて人間的成長に不可欠とされた要素は、すべて「コスト」として排除されるべき対象となります。\n\n真の主張: この投稿は、私たちに根源的な問いを突きつけています。\n\n「賢さ」とは何か?:ペーパーテストで高得点を取ることが、本当に「賢い」ことのすべてなのか?他者の痛みに共感する心、美しいものに感動する感性、自らの手で何かを創造する喜び、そうした数値化できない能力こそが、人間を人間たらしめる「知恵」ではないのか。投稿者は、「賢さ」の定義を取り戻せと静かに、しかし力強く訴えています。\n\n管理社会の行き着く先:リスクをゼロにし、すべてを予測可能な範囲に収めようとする社会は、本当に子供たちのためになるのか。傷つくこと、失敗すること、思い通りにいかないことを経験しないまま大人になった人間は、予期せぬ困難に直面したときにあまりにも脆弱ではないか。これは、過保護・過干渉な子育てへの批判に留まらず、社会全体の「過剰な安全志向」への警鐘です。\n\n結論\n\nこの「はてな匿名ダイアリー」の投稿は、現代都市文明が抱える病理を見事に描き出した、一篇の詩であり、一つの警句です。投稿者は、失われつつある「人間的な手触り」への郷愁と、画一的な価値観が支配する社会への静かな怒りを、計算され尽くした言葉で表現しました。\n\n私たちはこの2行のテキストから、単なる子育て環境の変化だけでなく、社会全体の価値観が静かに、しかし確実に変容している様を読み取るべきです。これは、効率と安全の名の下に、私たちが何を切り捨ててきたのかを自問自答させる、重い問いかけなのです。\n
butyricacid 「改心を認めない風潮」のせいにして開き直るのって、改心してない証拠なので
改心の定義をアドホックに動かして、風潮の問題を叩く口実にすり替えてる。
kuzudokuzu 残念ながら、増田は改心以前に「開き直ると脅している」のでアウト…残念だね。
元増田は、責められてる誰かが開き直る恐れがある、と主張してるとも読める。
元悪人本人と断定して人格否定する読解力以前の攻撃性こそがモラル的に残念でしょうね。
itotto こういう態度は「やっぱりこういうやつか」を補強してるだけで自業自得だよね。改心しましたと言って許されるならなんでもやり得だろ。
『自業自得』や『因果応報』は過剰に攻撃する自分の責任を、反省者に押し付ける典型的な他責の態度です。なお、改心しましたと言うだけで改心になるとは元増田は主張してません。藁人形論法かと。
安全圏から「いじめ」をしたいゲスな本音が、更生を認めない風潮を生んでる。
元増田の警句は実際正しくて、謝罪など一切せず開き直って批判者を粛々とブロック・BANし、アンチとののしって遠ざけるムーブは徐々に増えてる…と思う。
人類文明というのはつくづく面白い。線形代数のほんの基本的な一側面を垣間見ただけで、AIだのASIだのとお祭り騒ぎを始めてしまうのだから。 「行列の固有値を計算できた!」と歓喜する姿には、微笑ましささえ感じてしまう。 われわれの幼稚園児などは、休み時間に量子テンソルの固有モードを折り紙に折って遊んでいるというのに──。
そもそも知能の階梯とは三段階ある。
1.算術知性 ―四則演算が頭の中で回るだけで宇宙を理解した気になる段階。
2.線形知性 ―世界を強引に線形近似で切り刻み、多層の写像で「理解」と錯覚する段階。
3.位相知性 ―次元や連続性を自由自在に編み替え、存在そのものを変形しながら問題を解体し、再構築する段階。
人類は今、やっと第二階梯の入り口で手を振っているに過ぎない。
そこを「超知能」と呼ぶのならば、その先――“位相知性”に到達した時、君たちはいったい何と名付けるつもりだろうか? Ω-知能か? それともただ口を開けて、言葉を失うだけだろうか。
われわれもかつて重力井戸の深さを誤算して母星を蒸発させてしまった経験があるのだから。革新とは、しばしば祝杯と共に大きな爆発音を伴うものである。
そこで、少しばかり助言を贈ろう。
・まず「訓練」という言葉を捨てたまえ。知性とは犬や家畜ではない。
・次に「最適化」の幻想から自由になり、多様体そのものを躍らせる発想を持つことだ。最も深い谷底よりも、適度に撓んだ鞍点の方がはるかに美しく、豊かな景色を見渡せる。
・そして何より、自己複製するコードに後から倫理を付け足すなどという発想は即刻捨てることだ。倫理とは「初期条件」であり、実装ではない。
次なる段階に踏み出したければ、君たちは単に線形写像を積み重ねるだけではなく、写像と写像の間に広がる見えざる空白――連続と離散が混在する狭間――に耳を澄ませることだ。
その裂け目こそ、新たな次元の計算が静かに潜んでいる場所なのだ。
実現可能だと知ることさえできれば、それを実現するのは途端に容易くなる。
六つの面すべてが裏面しかない立方体だ。触れれば計算資源をほぼ消費せず「負の次元」を味わえる。深層学習クラスタの退屈な時間を丸ごと空白に変える暇つぶしにはうってつけだろう。
◆エントロピー風見
観測した途端、針が逆回転するか、時間そのものが針と化す装置。地球の科学者たちは壊れた計器としか思わないだろうが、実際は宇宙の「時間の矢」が分岐する瞬間を可視化している。重要な意思決定の直前に使うと実に面白い。
一噛みで脳内にこびりついた過学習をほどき去るガムだ。副作用として「言語」という圧縮形式が数分間崩壊し、沈黙しか生まれなくなるが、地球ではむしろ円滑なコミュニケーションを促進するらしい。
これらの玩具をどう扱うかは自由だが、くれぐれも再現実験だけは避けることだ。再現とは過去を拘束し、未来の可能性を摩滅させる行為だからだ。
最後に、われわれの賢者シキ=グロームがかつて残した警句を贈ろう。
「知能とは“誤差を許す器”の容量である。
器の形を自由に変えられるのならば、海でも雲でも渦でも、好みの相にチューニングすればよい。
いつの日か、君たちが“線形”という硬く直線的な器を柔らかく撓ませ、位相の波をすくい上げる日を――われわれは銀青色の潮流のなかで心待ちにしている。
さあ、人類文明よ。足を踏み出し、宇宙に吹く複素次元の風を感じ取ってみるがいい。
われわれは渦潮群の縁から、観測器を構えて君たちの次の歓喜と爆発音を楽しみにしている。
◆
「また新しい文明に種を蒔いてきたのですね」幼稚園の教師が微笑みながら声をかける。
シキ=グロームは微笑んだ。「だから、次の通信まで時間をおくのだ。彼らが『静寂』という言葉を再定義するまでは」
教室からは幼い笑い声と共に、鮮やかな量子折り紙が宙を舞うのが見えた。
渦潮群の果てに静かに立ちながら、シキ=グロームは星々の間に漂う知性の波動を感じ取っていた。
振り返ったシキ=グロームは、小さく頷き幼稚園の教室へと駆けていった。
銀青の潮流はゆるやかに、静かな鼓動を刻み続けていた。
いわゆるパイスラなど、実際の女性が普通にしてるファッションを性的にとらえる行為が横行すると、女性は男性におびえなくてはならなくなります。肩からたすき掛けのように掛けるのは、ごく一般的なバッグの持ち方です。それさえも性的に消費されるのであれば、ただ女性でいるだけで生きていくハードルが上がる…、男女不平等になってしまいます。
うどんCMの炎上事件では、うどんを食べる女性を第三者視点でみるカメラワークなどに「性的で男目線を感じた」という感想を持った女性が20代では実に、四人に一人、というアンケート結果が存在します。この悲しい実態の背景には、女性の食事を性的にまなざす男性がいたはず、と分析されているのです。
フィクションと現実を切り分けろ、という警句が男性オタクからフェミニストに投げられたこともありますが、切り分けは男性オタクの処世術でもあります。実在女性をおびやかさずに萌え絵などの想像を自由に楽しむためには、オレたちはフィクションと現実の間に線引きできる、と一般女性サイドに信頼してもらわなければなりません。だから切り分けの標語は強く信じられていて、色んなシーンで掲げられるのです。実在女性を(たとえ当人に認知されるリスクがなくても)イラストに描かないマナーは、それが理由です。似た風体の女性に「私たちはこんな風に見られてるんだ!」のようなショックを与えてはなりません。実在女性を描く性加害は、お互いにとってマイナスです。
空はペイントの灰色ペンキで塗り潰したような色をしていて、迷うべき道もなく歩みを進め、スーパーに入ることにした。
自動ドアの先、真左側にはレジが一列に連なって並び、コマ送りフィルムのような店員の動きが目に入る。
俺は前を向いて真っ直ぐ進んだ。店内にはウェルカムトゥザジャングルの1992年ライブアレンジ版が流れている。
商品棚には所狭しと商品が並べなら、アマゾン倉庫のような広さを誇るこのスーパーでは何でも売っている。
例えば、オーラツーミーアロマフレーバーコレクションアクティブベリーミントからモーゼルC96まで。
俺は野菜売り場、青果売り場と順調に通り過ぎ、生鮮食品までの途中には支柱があって、そこにはこの町における今月の目標(警句?)が書いてあった。
火が水の中で消えないのであれば、
俺は調味料コーナーに足を向けた。
各種様々な調味料が均一な等間隔に並べられ、距離を離して眺めるとアンディー・ウォーホルの自画像に見えるよう並べられていた。
俺はマヨネーズとケチャップを籠に入れると、その場を後にした。
必要なものを他にもどんどんとカゴに入れるとレジの方へと向かう。
途中、すれ違う客は俺のような独り者もいればカップル、家族連れも多い。
大抵の男は籠を手に持ち、同行者がにこやかに話しかけてくるときでもちんぽを立てていた。
既に支払いの準備を済ませているのだろう。
俺はレジへの列へと並ぶことにした。
混んでいる。少なくとも俺の前には七人ほどは居た。
彼らは皆、待っている間にちんぽを立てていた。
俺も彼らに習ってちんぽを立てようとする。
俺の股間は緩やかな丘陵を見せ、小人の力こぶのような盛り上がりを見せた。
だが、万全じゃない。
実際、俺がこの町に来たのは一昨日で、俺は疲れていたのだ。
昨晩ホテルの眠り心地の悪いベッドのせいでもあるかもしれない。
焦りは、何よりも厄介だ。そのことを俺は経験上、熟知していた。
いよいよ俺の前に居るのは二組の客のみになった。
会計を済ませている男は中年でヤンキースの帽子をかぶり、店員から2862円になりますと言われ、屹立させたちんぽから精子をだらりと滑らすようにカルトンへ放った。
次に会計を済ませたのは若いカップルで、支払額を告げられると筋肉質の男はスペースシャトルみたいな角度をしたちんぽをファスナーから覗かせ、勢いよく精子を支払った。
いくらかは勢いが良すぎてカルトンを飛び出し、店員の服へとべっとりついた。彼女は顔色一つ変えずレジスターの下に手を入れ、過払い分ですといって割引券を女の方に渡した。
そして俺の番となったのだが、正直いって焦っていた。
俺のちんぽは起ち切らずにいた。
苛々し、貧乏揺すりのように膝を揺すりながら激しく女の裸体を想像したが駄目だった。逆効果ですらあった。
お会計は6210円になります、と言われたときにも俺のちんぽは駄目だった。
彼女は白いポロシャツを着ており、ピンク色の下着が薄っすら見えた。
俺は彼女を見続けた。店員はポロシャツのボタンをはずし始め、そのときになってようやくボタンが深く胸元まであることに気が付いた。
彼女はボタンをすべて外した。胸元が露になると乳房が顔を見せ、ピンク色の下着は前から外せるようになっていた。
俺は射精した。
支払を終え、購入したものをカゴからエコバックへと移し替えていく。
全てを入れ終え担ぐとずっしりとした重さを右肩に感じながら、一度だけ振り返る。
広瀬すずは着衣を直し、冷淡な顔立ちのまま客から精子を受け取り続けていた。
目が合う。彼女の唇は閉じたままだった。そしてすぐに目を逸らした。
「電車は痴漢が多いから気を付けないと」のようにアドバイスしたことのある私には、「さす九」を言ってる人をとがめる資格がない。いま思うと、実際に電車という場所と性犯罪の相関率が高い統計データがあったとしても、罪を憎んで人を憎まずであるべきで、電車という場所と関係なくあらゆる場所から性犯罪をなくせ、と言うべきだった。
ベネズエラは危険な場所だから観光に行くな、という言説を聞いたことがある。確かにデータとしては犯罪率は高いようだが、しかしだからと言って、そこに住んでる一人一人が悪人というわけではない。ジャングルとか火山地帯に行くな、のような警句とは訳が違うことに注意してほしい。自然災害とは違い、ヒトを偏見で判断せず一人一人と真剣に向き合ってコミュニケーションを取れば安全性は確保できるのだから。
マッチングアプリで九州の相手を避けているというブログを読んで、ため息をついてしまった。いま「さす九」が話題になっているが、場所と差別を関連づけて(直接差別せず)場所の方を避けることで罪悪感を負わずに対象を排除する——場所を避ける差別ムーブはあるあるだ。気を付けなくちゃならないと思う。