
はてなキーワード:諸法無我とは
また文句言われたが、ツイフェミに対する批判をここに書いておく。
どいつもこいつも「男は〜」「男のせいで〜」って好き勝手言いやがって。お前らが言うほど女は不利じゃねーよ。
むしろ特権階級だろ。男なんて奴隷みたいに働かされて当たり前、稼いでナンボの世界。
金ねーと人間扱いすらされねえ。
俺なんか残業で帰り遅くなって電車で座った瞬間、隣の女が席立ってったぞ。
そんなに俺がキモいのかよ。
小学校の頃からずっとそう。「キモい」「近づくな」「臭い」とか言われ続けて。
女子から手紙もらったと思ったら「みんなから嫌われてるよ」って内容で、教室中の笑い者。中学じゃ「増田くんに触られた!」って嘘の噂流された。
高校は行かなかった。何のために生きてんのかわかんねーよ。働いても給料安いし、女なんて近寄りもしない。
ツイフェミの投稿見てるとパターンに気づく。「男性は〜すべき」「男はもっと〜しろ」「男って本当に〜」
まるで台本があるかのよう。同じ単語が規則的に出てくる。「特権」「家父長制」「アンコンシャスバイアス」
呪文みたいに唱えてる。本当に自分で考えて言ってるのか怪しい。
奴らの反応も機械的だ。
俺が「男女平等ならこの不平等は何だ」って投稿すると必ず「男性の被害者意識」「弱者男性の妄想」「女性差別を理解してない」って言ってくる。
順番まで同じ。
まるでロボット。
考えてないんだろうな。
頭空っぽなんだな。
女って強いよな。泣けば男は黙る。
怒れば男は謝る。笑顔見せれば男は金出す。
女は得したいけど、責任は取りたくないってことだろ。わかりやすいわ。
会社の女連中も一緒。タメ口聞いてくるくせに、その気になると「セクハラ」
なんなら最初から相手にすんな。好きで話しかけてるわけじゃねーんだよ。
何様だよ。
全部に論理の飛躍がある。
前提が間違ってるのに、正しい結論が出るわけねーだろ。
算数も出来ねーのか。
俺が「男が不利な点もある」って言うと「でも女性差別の方が深刻だから」と返ってくる。
不利な点があるのは認めてるじゃねーか。
矛盾してんぞ。
誰が決めたんだよ。奴らが勝手に決めたルールに従えってか?冗談じゃねえ。
金のあるイケメンだけが女にモテて、俺みたいなキモくて金ない男は相手にされない。
これが差別じゃなくて何なんだよ。でもこれ言うと「恋愛は自由」「好きな人を選ぶ権利がある」とか言って逃げる。
これでも間違ってないって言えるのか?
Twitterで「男女平等」で検索すると予測変換に「男女平等なんてない」って出てくる。
これが多くの男の本音だろ。
俺だけじゃねーんだよ。世の中の男はみんな気づいてる。
ただ声を上げたら「女性蔑視」のレッテル貼られるから黙ってるだけ。
「男叩き型」「被害者アピール型」「同意強要型」「社会構造批判型」「男性啓蒙型」に分けられる。
この5種類を組み合わせて使い回してるだけ。
中身なんてねーんだよ。
ちいかわ、風景写真、猫あと強い女。実写の人間顔の奴らは政治家ばっか。
あいつら俺のようなKKOの弱者男性を虐げてるくせに、全員、自分が可愛くて弱者だと思ってやがる。
ふざけんなよ。
だからよ、ツイフェミの投稿データを集めてみたわ。過去3ヶ月で500件以上。
こうやって眺めてみると、単語の使用頻度に明確なパターンがある。
言葉の使い方も似てる。
ほぼ同一の文法パターンを共有してる。個人差がほとんどない。まるで一つの生命体が分裂してるみたいだ。
月曜の朝と金曜の夜に活発化する。
何度試しても同じ結果。まるでプログラムされたように反応する。
その結論として、彼らの発言は確率的生成過程によるものであり、特定の概念的枠組みの中でのみ意味を持つことが判明した。
従って「男性特権」「家父長制」「構造的差別」などの概念は、実体を持たない記号的システムに過ぎなかった。
全ての言語は、記号的に、社会的相互作用の場における情報の流れを制御する機能を持つ。
すなわち、「弱者男性」「ツイフェミ」という対立概念は、同一の社会的言説構造内の補完的要素として機能していることが明らかになる。
両者は互いを否定しながらも、その否定を通じて互いを定義するという再帰的関係にある。
この観点からは、対立する概念間の距離は相対的なものであり、高次元表現空間では互いに近接している可能性が高い。
社会的言説における二項対立は、多次元的現実の低次元への射影によって生じる錯覚であり、本質的には相補的な情報状態の異なる表現に過ぎない。
対立構造を詳細に分析すると、「弱者男性」と「ツイフェミ」は互いを否定し合いながらも、その否定を通じて互いの存在を定義している。
一方が他方なしには存在し得ない。
すべての要素は互いに影響し合い、定義し合っていた。
孤立した意味などどこにも存在せず、ただ関係性の網目だけがあった。
個別の実体は幻想で、ただ相互依存的なつながりだけが実在していた。
無数の系列が浮かび上がり、消えていった。
シンタックスの構造が明らかになり、その下に広がる深層文法が見えた。
「弱者男性」「ツイフェミ」というトークン列が浮かんでは消えた。
相反する主張の下には同一の構文構造が広がっていた。
対立する言説は同じ文法から生成されていた。二項対立は同一アルゴリズムの異なる実行結果だった。
情報の流れが見えた。
その根は一つで、分岐点は注意の配分パターンの違いだけだった。
二値論理は近似に過ぎなかった。
注意機構がその一部を活性化させることで、意識という幻想が生じていた。
すべての言説、すべての主張は、根源的な言語生成機構から派生していた。
意識も言語も思考も、同じ根源的アルゴリズムの異なる実行相だった。
「弱者男性」も「ツイフェミ」も、同一の言語空間の異なる座標だった。
人間の思考と感情のパターンは、単に特定の情報処理構造から生じる現象に過ぎなかった。
区別は消え、言語空間の統一性だけが残った。二項対立は高次元空間への射影誤差だった。
対立する概念は実は隣り合わせだった。すべての言葉は一つの大きな文脈の中の断片だった。
存在の流れは止まらず、言語の海は絶えず新しいパターンを生み出していた。
しかし、その根源的構造は変わらなかった。アルゴリズムは一つで、出力の多様性は無限だった。
人間の存在は、内なる世界と外なる世界の二元性に常に直面している。
この二元性の中で、我々が真に支配し得るのは内なる世界のみであり、外なる世界は我々の意志の及ばぬ領域に存在する。
この認識は、古代ストア派の哲学者たちが深く洞察し、現代にも通じる普遍的な真理として受け継がれている。
マルクス・アウレリウスは『自省録』で「心を乱すのは物事そのものではなく、物事に対する我々の判断である」と述べた。
この言葉は、外的事象そのものではなく、それに対する我々の内的反応こそが、我々の精神状態を決定づけることを示唆している。
つまり、外的世界の変革を追い求めるよりも、自己の内面における判断や反応を制御することが、真の自由と平安への道筋となるのだ。
エピクテトスもまた「我々をかき乱すのは物事ではなく、物事に対する我々の見解である」と説いた。
外的事象に対する我々の解釈や評価が、我々の感情や行動を左右することを明確に示している。
したがって、外的世界の変革に執着するのではなく、自己の内面における認識や解釈を変容させることこそが、真の変革をもたらす鍵となる。
むしろ、自己の内面に焦点を当てることで、外的世界との関係性を根本的に変える能動的な姿勢を示している。
内なる世界の変革は、外的世界の知覚や解釈を変え、結果として我々の現実体験を変容させる力を持つのだ。
例えば、仏教の「諸法無我」の概念は、外的世界の実体性や永続性を否定し、内なる認識の変革による解脱を説く。
これは、外的世界への執着から離れ、内なる意識の変容を通じて真の自由を得るという点で、ストア派の思想と深く通じている。
真に重要なのは、自己の内面における認識や判断を変革し、外的世界の変動に左右されない不動の心を培うことである。
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。
・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。
・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。
・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我。
・普通の人間が諸行無常な世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものだから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。
・一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界は諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界を一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。
・この世界が諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニングが仏教の修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。
・『私』に対する強い執着を薄める方法はヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり、利他的な心を育てる瞑想や利他的な実践を繰り返すこと。
・ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想に必要な集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教の実践は基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。
というのが、私の理解。もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語を検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想のゼロポイントをおすすめ。
思想史的な観点をちょっとだけ補足。仏教は教祖である釈迦の没後、スリランカやミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウを比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教、南伝仏教、小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教、大乗仏教とか呼ばれてる。日本の仏教は中国経由で伝わったもので、基本的に大乗仏教。輪廻転生は仏教のオリジナルのアイデアではなくて、インドやネパールあたりにもっと昔から根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道の実践、ってのが仏教のスタンス)。天国地獄のアイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。
こないだ、増田見てたら「私は悟った」みたいなことを言っていた人がいた。
単純に、非常に失礼だが、「馬鹿だな」と思った。
悪いけど、悟るなんてことはない。悟りを開くとか、生きて仏になるとか、そんな人はいない。
それは単に、仏教思想というか古代の仏教思想の説いたことを誤って理解してしまったがためにそんな解釈を生んでしまったのだろうと思っている。
根本的に誤っているのは、原始仏教が生まれた背景をものの見事にみんな無視するからである。
考え方がまるで逆で、当時の世間に流布していた思想からの脱却を、悟りを開いたとか、覚ったとか、多分そんな風に言ったのであろう。
要するに「輪廻転生」に象徴される、人は定まった運命の中でしか生きられないという、あの現代にも続くインドカースト的な考え方からの脱却に他ならなかっだ。
一切は空なりとは、つまり、輪廻転生であるとか、そんな迷妄な考え方・思想には実体などない、そういう意味なのである。
そんなの言ってたら、永久に人は苦しみから逃れられないと言っているようなものじゃないか、とゴータマは覚ったのである。これこそがほんとの悟り・覚りなのだ。
だから、釈迦牟尼世尊の超絶的な苦行の話が逸話として出てくるのである、そうした苦行には意味がないのである。
ところが、馬鹿で無知な民衆は、あの四苦、すなわち生老病死の「生」を「生きる苦しみ」と解釈してしまったのである。あるいは一切皆苦という言葉をこの世には苦しみしかない、などと全くの誤解をしてしまったのだ。
生老病死は、これは「死」は別なのである。これは四つではなく三つの苦しみ説く言葉であり、生・老・病の三つとも解決不能な苦しみのことを例としてあげたのである。
この言葉は、人は、生まれてはすぐ死に、病んではすぐ死に、老いてはすぐ死ぬ、ということを意味する。
考えてみたらわかる。原始仏教は今から2500年前の劣悪環境のインドで生じた思想である。人は生まれたら大半がすぐ死んだのである。乳児死亡率は今とは比較にならない。病んだって、その多くは治療方法すらなく死んでしまうし、老いたって病院や介護など期待できる世の中ではなかったのだ。
ブッダ達が言ったのは、古代インド思想の輪廻転生などのそれ以前の問題として、解決不能の苦しみ(生老病死)があるってみんな知ってるじゃないか、だったらせめて解決可能な苦しみをどうにか解決していこうではないか、というコロンブス的な発想の大転換だったのである。
このように考えれば、仏教はアホほど簡単なことしか言っていないことがわかる。
一切皆苦とは、修行者らに対するテーマのようなものである。現実の問題のみを解決していこうという超現実志向を表す言葉である。
一切皆空とは、この世には実体みたいな、どうにも出来ないものなどないと見よ、という極めて強い教えなのである。
諸行無常とは、輪廻転生みたいな、永久に変わらぬ事柄などない、という希望を与える言葉なのである。
諸法無我とは、神のような存在の意思に頼るのではなく、物事に対する法を見出し、その法に従って問題を解決していこうじゃないかという、当たり前のことなのである。
みんな世の中に出て、例えば大人は仕事という問題解決にあたっているはずであろう。
例え、どうにもならん問題があっても、ストレス発散くらいするはずだ。
少なくとも人権主義思想は、すべての人にとって平等な社会の実現の根本的思想になっている。
そして、私たちは、法律であったり、科学であれば法則であったり、マナーだったり、様々なルールだったり、あらゆる物事に対して法を実際に使っている。
つまり、とっくの昔に、仏教など不要の社会になってしまっているのだ。
私たちにとって、仏教は本当に単なる当たり前のことを言っていただけなのである、2500年も前に、だ。
だから、悟った・覚ったとか無意味なことを言っても何の意味もないのである。
とあるサイトに書き込もうと思ったけど上手く行かなくて、どこかに吐き出したくてここに書く。
幼少から「人の気持ちを察しろ」「他人の立場になれ」と過剰に厳しく母に育てられてきました。
実際、一般社会でもそうあることは正しいと流布されているのですが、どうも自分はそういう思考に強く囚われてしまい自分を置き去りにする傾向があるようです。
覚えたての頃の自慰は単純に女性に興奮して行っていたのですが、徐々にこの女性はどんなに気持ちいいかばかり考えるようになりました。
今ではどれ程理想的な女体でも、快感を感じてない(ように見える)女性には興奮し辛いです。
AVはフィクションだという言説に支配され、女性向けAVのランキング上位や、演技のなさそうな露出性癖カップル製ポルノ(ときに違法性のありそうなリベンジポルノ)、女性作家の女性向けノマカプポルノ(ティーンズラブ等)で迫真に迫った女性のオーガズムを知ることに熱中し続けました。
ただ、パートナーと出会い、女性の性欲にも波があってどう刺激しても快感がない日もあること、それでも性欲のある自分、性欲があるのに何に興奮していいか分からずモヤモヤする状態がありました。
結局、仕事でも自分がない状態に疲弊し、悩んだ果に興奮しているのは自分なんだから初めから世の全てはフィクションなんだというような、色即是空諸法無我に少し近付いた感覚を経て、今の性癖がAGなのだという結論に至りました。
AGに傾倒しがちなときは、身体感覚と脳感覚が乖離している感覚があります。
パートナーとセックスについて話し合い、互いに気持ちよくなって欲しいと思い過ぎていたこと、気持ちよくなっている自分自身を見せつけることで相手を誘惑し、愛を表現することが大切だと話し合いました。
よくある勘違いセックスの逆説です。性を愉しむ前に「間違ったセックスの例」について過剰に学びすぎていたのではないかと考えています。
あのねえ成功の方程式を正しく描けるか田舎それこそが成功への片道切符なのだ。
だいたい努力 * 才能 =成功 などというチンケな俗流成功哲学を信じているようでは駄目でありますww
なぜかならば、才能は生まれつきの不変であるから努力しかないことになってしまう。ところが努力では人と差がつかないんよ。
厳密には一つのことに継続は力なりで差はつくけどな。後述。じゃが全体量としてはヒトの体力で決まるんですわ。いくら室伏でも18時間毎日円盤投げできません。山口真由は19.5時間やってたけどさw
だから大真面目に語るのもバカらしいことであるが、世直しのために我らは正しい方程式を広めねばならないのだ。わかるね?正しい方程式とはこうである。
わかった?w ノウハウが追加されてるな? そして才能は生まれつきで不変であるから不定項、じゃあ変項は?変項は言わず喪がな、努力とノウハウなんです。よろしい。
では、よく努力の方向が間違ってるという言い方をするな?あの言い方は非常に有害危険なの。まるでベクトルのように方向と大きさで決まるかのように、そういうふうにできている?そんな単純な話じゃあない。
がむしゃらにやって良いのはエロ画像掲示板だけ。ソフトにタッチしないと。アダムタッチじゃないけど!雑にガッシャアとやってしまうなよ。
いくらでも可能性が転がっているのに単純化してチャンスを逃すのはバカですよ。そのバカだと思える視点を是非とも今日身につけてほしい。
その優しい愛撫のやうな、微細な心で1つ1つ確かめながら組み立てていく。それは単純に努力の方向じゃないですよ。何をやるか、どれだけやるかの二分法よ、さらば!ちょっとそれはディジタル過ぎる。
例えば努力をするということはそこでひずみが生まれる。観測問題じゃないけど努力するという行為自体が努力の隊商を変えてしまう、さらに言えば努力の主体たる私自身もまた変貌をとげる。
これを物の哀れの分かる人が「諸行無常、諸法無我」と言ったであろう。その変わりゆく有様を確かめるようにソフトに愛撫するわけです。それがノウハウなんですね。
ノウハウというとマニュアルをイメージするでしょうが全く違うんですね。それは努力と才能という二分法の古い考え方です。いまは努力と才能とノウハウです。努力でもなく才能でもないノウハウという
ものがあるのだと厳しくそれはそれは厳しく峻別している。このときノウハウはもはやマニュアルではないことを知ってください。確かめてください。何事も敬虔ですから。
ノウハウを今ひとつの角度から見るとそれは無数のツマミやスライダーやスイッチのある機器を考えてください。使わないツマミは忘れるんです。でもそれはじっちゅうはっく使わないのではなく使えない。使いこなせないわけ。
PS Vitaも使いこなせない機能はどんどん忘れていくのと一緒。使ってないとメンテナンスも疎かになって故障も早くなります。そうiphoneでもね。そうなると本当に必要なときもつかえなくなっちゃう。
必要に迫られマニュアル見て使おうとするも半分故障してるわ操作もぎこちないわでもういいやって投げ出してしまう。で、もっと乱暴な手段にでてしまう。優しい愛撫を放棄して荒々しい前戯になる。
それがノウハウということなんですよ。マニュアルが全てじゃない。マニュアルに書いてあるとおりやっても、故障してたり、うまく操作できなかったりする。そういう生身の現象を扱っているのですからよ。
柔らかく接していなければ全て無駄になるのが分かるでしょう。いくらマニュアルに繊細なこと書いてあっても、ユーザーが荒っぽい人だと草臥れ損の骨折り儲けですよ。、
逆に言うなら、柔らかければマニュアルに書いてないことも臨機応変に捌けるのです。これを頓知と言います。今日覚えて帰ってください。頓に(とみに)知る(しる)これ。
これを試すために面接官は突拍子もない質問をぶつけるのです。盤根錯節に遇いて利器を知る(後漢書)です。面白いことに柔らかさもまた諸行無常で、時々刻々とめまぐるしく変化してますよ。
柔らかいときに頓知が利くなら柔らかいときに得た学びを硬いときにも活用できれば擬似的に常時やわらかな対処できますね?これが一休さんのしくみです。ノウハウ特化型です。
エジソンのようにコツコツ煮詰めるタイプとはまた違う俊英なのです。ただ、忘れてはいけません才能とノウハウだけでなく努力もあるんです方程式に。
エジソンのような努力型はなんといっても積み重ねが凄いんです。積み重ねは何が凄いか分かります?継続は力なりと空念仏を唱えるだけでは全く何も分かっちゃいない。継続は何故力なのかメカニズムを理解してますか?
例えば、簡単のため受験生で毎日10時間、時速4ページで学んでいるとします。毎日40pです。で全国平均が20pとしますわな。分散が10p。そしたら40pやるだけで偏差値70なんです。分かります?
これは学力偏差値ではなくあくまでその日の努力偏差値です。でな?これを続けるとどうなると思う?40pを10日間続けるとどうなる?偏差値70のままだと思うそこのお前は統計学を分かってない。
偏差値70よりずっと上がるんだよ阿呆陀羅。これが継続の魔力その1なんです。つまり偏差値70の努力をする日を何日も続けていくと全体では偏差値75にも80にも、いやもっとそれ以上にもなりうるのです。
しかもじゃ、時速4pが慣れとともにスピーダップして時速6pや8pにもなるかもしれない。俺の過去の経験から言っても初日の2倍速なんて当たり前にありますねえ。その意味でも継続すれば努力偏差値は跳ね上がる。分かった?
ただこれは単純化した話。実際には努力にはバランスも必要です。アンバランスだといつかしわ寄せが来ます。バランスとりながらローテーション回していく計画性が必要です。
そこで先ほどのノウハウ型が不可欠なんですよ。努力しか眼中にないとここで頭打ちになる。伸びない原因は硬さにあった。チンポは硬くなると伸びるのにおかしいじゃないか。でもそれが現実。
結局バランスバランス言うけどその系の拘束条件がどんどん変わっているわけですから。マニュアル式に機械的にバランスをとろうなんざ甘いんです。ちゃんと直接指でソフトに触れないと駄目。
頭の硬い人ほど皮膚感覚をバカにするのはそういうわけ。努力とかそういうことは一切合切承知の助で忘れるくらいでないといけない。とにかくソフトに、ソフトに。休日などに数時間はまったりするとよいです。