
はてなキーワード:論理的思考とは
ホグワーツの図書室で、ハリーが出会ったのは謎の転校生。彼女は杖ではなく、常に魔法のタブレットを持ち歩き、世界のあらゆる出来事に「はてなブックマーク」を付けるはてなブックマーカーでした。
ヴォルデモートの復活に怯える魔法界。しかし、彼女は冷静でした。「復活とか情弱乙」「闇の帝王のセルフブランディング、詰めが甘すぎw」と、辛辣なコメントをホグワーツの掲示板(物理)に書き込んでいきます。
ハリーは、周囲の空気に流されず、独自の視点(と大量のメタ知識)で世界をバッサリ斬る彼女に、次第に惹かれていきました。
彼女の放つ、魔法よりも鋭い論理的思考(ロジカルシンキング)に、ハリーの心は救われます。予言に縛られていた彼は、彼女と一緒に「人生をブックマーク」し、自分たちの物語を自由に編集していく決意をするのでした。
東京一工とF欄はさすがに極端すぎるでしょ……
地方国立レベルだと、学部卒と修士卒で組織の一員としての有用性がかなり変わるというのがワイの実感や。
学部は卒論がガバガバでも卒業できちゃうせいで、地方国立の学部卒は論理的思考ができないままのケースがかなり多い。ウチの会社だと「頼むから高校で現代文の授業を受けなおしてきてくれ」って言いたくなるようなヤツばかり。
一方で地方国立でも修士卒の人間は修論を書くための諸々のトレーニングをちゃんと受けてきてるおかげで、ちゃんと論理の通った会話のできる人が多い。
ウチの会社の新卒採用は、学部卒は東京一工からしか取らないように最近なったよ。 それ以外の大学は修士以上じゃないと書類で落としてる。それくらい学部卒と修士卒で人材としてのレベルが違いすぎた。大学院教育ってすごいわ。指導教員のみなさまに感謝。
■はじめに
新卒就活をしていたとき、勝ち方はなんとなく分かっていた。でも、これは自分には無理な気がする、とも思っていた。
就活とはゲームで、どんな経験が評価され、どう語れば通るかも分かっていた。ただ、語るための「素材」が自分の人生にはなかった。
それを努力不足だとは、今でも思っていない。これはそういう前提で世界を見ている人間の、救いのない壁打ち思考ログです。
■スペックと現状
この投稿に、NNTの学生を救える話や、内定を取るためのノウハウはない。
正解を提示するつもりもない。
ただ、最後まで読んでくれた人がいたら、同意でも反論でも体験談でもいいので、意見を聞いてみたい。
就活はゲームだという言い方はよくされる。面接は「ギルドへの入団試験」だ。
志望動機やガクチカは、自分の「武器」をプレゼンするためのもの。ギルド側は、志願者の持つ武器が自分たちの挑むダンジョン攻略に役立つかどうかを見ている。
ただ、武器を作るには素材が必要で、その素材にあたるのが原体験や人生経験だ。RPGとリアルな就活の違いはここにある。現実では、欲しい武器があるからといって、対応する素材を狙って集めにいくことはできない。しかも素材には武器に適したものだけでなく、持ってても使えないカス素材もあるのだ。この点が、このゲームがクソゲーたる所以だ。
しかし私には「ダンジョンを攻略したい」という動機が決定的に欠落している。その背景には、成育歴による重い呪いがある。
私は中学受験の頃から、両親に成果だけでなくその「過程」まで監視され、評価され続けてきた。毎日続く説教。良い点を取っても「次も同じように頑張りなさい」で終わり。
両親が言った「私たちは結果だけでなく過程も重視する」という言葉。それは私にとって、「24時間365日、お前の時間の使い道はすべて私たちの監視下にある」という宣告だった。
「勉強しないお前は将来風俗嬢だ」「こんなんじゃ社会じゃやっていけない」。
そう言われ続けて育った私にとって、労働の現場は「成果と過程を要求され、監視される恐怖の場」の延長線上でしかない。
■私の手元にあるのは、使い道のない「生存記録」だけ
こうした背景があるから、私の手元には「自分の意思で手に入れた経験」がほとんどない。
就活では、0をプラスにした経験は武器に変換しやすい。努力して成果を出した話、成功体験。それらは分かりやすく強い武器として評価される。
一方で、マイナスを0に戻した経験は、強い武器として変換できない。生き延びるために必死だったことや、環境に適応するために消耗した経験は、「何を成し遂げたか」という物語にしにくいからだ。
これが先述した素材の差だ。
ここで私の人生を振り返ってみる。
大学進学や学部選びは、両親に逆らえなかった結果に過ぎない。卒業研究も、中退が現実的でない家庭環境の中で、ただ死なないためにやらざるを得なかった。
唯一、大学の部活では自分の意思で運営に携わり試行錯誤を重ねた。成功談とは言えないが一次面接ではこれが唯一、武器に近い形をしてくれた。
だがアルバイトでは数値で示せるような成果もなかった。
こうした素材は生活としては確かに意味があったが、就活というゲームの中では、強い武器には変換されにくいものだった。
■束の間の「救い」と、その後の絶望
こんなどん詰まり就活生だったが、たまたま逆スカウト型の求人サイト経由で受けた企業から内定をもらうことができた。
勝因は志望動機をほとんど求められなかったことにある。ガクチカは手持ちで一番強い部活の話だけで済み、最終面接も「欲しいサービスのプレゼン」という、人生の原体験を使わない内容だった。
そこは素材(過去)を競う場ではなく、純粋に論理的思考力と表現力という「能力」だけで勝負できる場所だった。それが私にとって、唯一の救いだった。自分のボロボロな中身をさらけ出さずに済んだから。
まあ、その会社も入社3ヶ月で辞めることになるので、結局その救いすら絶望に塗りつぶされるのだが。
働き始めてからも、労働に対する感覚は大きく変わらなかった。私にとって労働とは、単なる「消耗」でしかない。
働けば生活は安定する。給料も出る。それでも私にとって給料は、何かを達成したことへの報酬ではない。あの恐怖の空間に、自分を削って身を置き続けたことへの「慰謝料」だ。会社という名のギルドを何回か変えてみたが、それは変わらなかった。
自己効力感はほとんどない。同じ時間、苦痛に耐えるのなら、少しでも慰謝料(給料)や福利厚生の多い環境の方がよかったのではないか。そんなことを考えてしまう。
これほど労働を忌避しながら、なぜフルタイムでの就労に固執するのか。それは、私に唯一の「聖域」があるからだ。
中学の頃から続けている、多人数での楽器演奏。それが私の生きる意味のすべてだ。
音楽は両親が詳しくない分野だった。だからこそ、そこだけは「過程」を監視されず、成果を求められない、唯一の逃げ場だった。
かつて演奏会の予定を母親に黙っていたことがある。自分の聖域が汚されるのが耐え難かったからだ。結局バレて激怒されたが、あの時の「奪われたくない」という感覚は今も鮮明に残っている。
この趣味は、私にとって削れた心を元に戻すための不可欠な「回復アイテム」だ。だが、この聖域を維持するには、残酷なほどコストがかかる。
楽器の維持費や活動費、そして何より、団体競技であるがゆえに「土日祝休み」という拘束条件がつく。そうなると、現在の社会構造ではフルタイム就労以外の選択肢がほぼ消える。
聖域を守るために、最も恐れている「監視と消耗の場」にフルタイムで身を捧げなければならない。この矛盾が、私をさらに追い詰める。
■削られない「平凡」への渇望
ここで言う「幸せ」は、充実感や達成感のことじゃない。恐怖や消耗を前提にしなくても生きられる状態、それだけの意味だ。
聖域でなんとか命を繋ぎ、また平日に慰謝料を稼ぎに行く。その繰り返しだけで時間が過ぎていく。そこには、余裕が積み上がる感覚も、人生が前に進んでいる感覚も生まれにくい。
「社会でやっていけない」という親の呪い通り、私は今もボロボロの素材を抱えて、聖域を守るための慰謝料を稼ぎ続けている。
こんな素材しか持てなかった私が、この先、恐怖以外の動機で動ける日は来るのだろうか。
これ以上自分を削らずに、ただ平凡な日常を送れる日は来るのだろうか。
お前、自分が何言ってるか分かってる?
自分は「なんとなく」のお気持ちで他人を「社会悪」呼ばわりして見下しておきながら、いざ自分が否定される段になったら「ちゃんとしたデータや根拠で否定しろ」って要求してるんだよ?
その特大級のダブルスタンダードこそが、お前にメタ認知がない何よりの証拠じゃんw
鏡見たことある? お前の言う「自分を棚に上げて他人を叩く馬鹿」って、今まさにそこに映ってる奴のことだよw
あのさあ、論理的思考力が欠如してるとここまで恥ずかしいこと言えるんだね。
1.「明確な存在」なんてどこにもない
お前が「明確な存在」だと思ってるそれ、お前のポンコツな「感覚」というフィルターを通したお前好みの幻影だよね?
「定義はない」「根拠はない」って自分で認めた時点で、お前が見ているのは「客観的な事実」じゃなくて「お前の脳内妄想」なんだよ。
認知の歪んだ人間が見ている「敵」なんて、傍から見ればドン・キホーテの風車と一緒。それを「明確な存在」と言い張る時点で、もう会話になってないのw
2.「可能性」に逃げるな
「間違っているとは限らない」wそれ「悪魔の証明」ですよね?
「俺が間違ってるという証拠がないなら、俺は正しい可能性がある!」なんて理屈が通るなら、「俺は実は宇宙人かもしれない(証拠はないけど否定もできないから)」も通ることになるけど?
根拠ゼロの妄想を垂れ流しておいて、「否定したければ証明しろ」なんて居直り強盗みたいな理屈、通用するわけないじゃんw
結局、お前がやってることってこれだけ。
「僕の感覚は正しいんだ!否定するなら証拠出せ!」って喚く子供の相手、正直飽きてきたんだけどw
もう一度聞くけど、
「根拠ゼロの感覚」以外に、お前が正しいと言える材料は一つでもあるの?
この文章は、特定のインターネットコミュニティのメンバー(「はてな民」)の政治的見解を強く批判し、彼らの思考や行動様式を断罪する内容である。筆者は一見、論理的な整合性を問うているように見えるが、その根底には強い感情と攻撃性が存在し、相手を徹底的に貶めることで自身の主張の正当性を確立しようとしている。
筆者は、相手の過去の主張と現在の反応の間に論理的矛盾があるという点を突いているが、その前提となるアナロジーの厳密性が検証されていない。また、相手の動機を「感情論」「嫌いだから叩いてるだけ」と断定することで、多角的な視点や複雑な背景を無視している。自身の主張もまた、相手を「アホ」「算数できない」と感情的に攻撃するレトリックに依存しており、客観性や中立性に欠ける。
筆者は、政治における組織票の重要性や、過去の主張との論理的整合性を問うという、ある種の知的な作業を行っている。しかし、その分析は深掘りされることなく、最終的には相手を断罪する結論に帰着している。議論を深めるための建設的な問いかけではなく、相手を打ち負かすためのレトリックとして「論理」を用いている印象が強い。エコチェンバー現象への言及など、部分的に鋭い指摘も見られるが、それもまた攻撃の道具として使われている。
特定のコミュニティや思想を持つ人々を「思考停止」「アホ」「政治の話する資格ない」と一方的にレッテル貼りし、感情的に攻撃する姿勢は、言論空間の分断を助長し、建設的な議論を阻害する危険性がある。このような表現は、特定の集団に対する嫌悪感を煽り、排他的な態度を生み出す可能性がある。ただし、具体的な行動を促すような扇動のレベルには達しておらず、あくまで意見表明の範囲内であるため、極めて危険というほどではない。
論理的思考の一端は見られるものの、強い感情と攻撃性、そして相手を貶めるフレーミングが支配的である。建設的な議論を目的とするよりも、特定の集団を非難し、自身の優位性を主張することに重点が置かれているため、知的な深掘りや多角的な視点に欠ける。言論の質としては、分断を深める傾向があるため、Cランクと評価する。
ちょっと前に書かれてた「話し合いで黙ってしまう人と話す方法」って投稿について思うところがあるので書かせてくれ
うちの嫁と自分が言い争いになると、時として嫁が黙ってしまう。
質問しても返事がひとこと来るまで20分とか30分かかるんだ。
普段は沢山話すんだかが、ケンカっぽくなるとそうなることがある。何度か何故黙るのかと訊いたが、明確な答えが聞けたことはない。
(ちなみにケンカして嫁が黙ってしまわないパターンもあり、そちらの方が多い)
なぜ長く黙るのか、長年疑問だったんだが
職場の配置換えで上司にパワハラ的に詰められるようになって、その気持ちが少しわかった。
まさか自分が嫁と同じ挙動をすることになるとは思いもしなかったが、俺が返事ができなくなって黙ってしまい、会話がストップするってのを何度も(人生で初めて)経験した。
なぜ俺は「話し合いで黙ってしまう」なんてことになるかというと
上司は明らかに高学歴・高IQで、論理的思考力では全く太刀打ちできない存在である。
俺が何らかのミスをして、俺としては致し方ない事情があったとする。
上司は「その「致し方ない事情」は全く致し方なくなどない」という詰め方を、実に理論的に、スピーディーに、そして高圧的に繰り出してくる。
こちらは彼の理屈を理解するだけで精一杯だ。何とか追いついて理解したところで、彼の思考には何かが抜け落ちているような気がして腑に落ちない。確かに理屈は合ってるようにも思えるが、違う角度から見ると違う結論が見いだせるようにも思える。
そもそも彼が言った理屈も、ロジックは解るが内容的に個別事案に適合しているかどうかわからない。それを上司と同レベルでスピーディに検証する能力が自分にはない。仮に少しでも反論すると、即座にそれを封じ込める論理が素速く展開され、その反論は却下されてしまう。
そんな彼を納得させられるロジックをいま、このプレッシャーの中で考える事は不可能に思えてくる。すると結果として言葉が出なくなってしまう。言葉が出ないとさらに焦りを覚え、思考力が低下し、ますます何も言えなくなり、押し黙ってしまう。
なるほど、嫁が俺との会話で黙ってしまうのはこういう理由だったのかと、黙る俺を前にイラつく上司を見つめながら理解した。
高圧的である、って要素は俺には無いはず。しかし、スピード感の違いは同じ構図・・嫁にとって俺の思考スピードは早すぎ、また反論の答えも早すぎて、打つ手がなくなり黙ってしまっていたんだな。
こうした理由で黙ってしまった場合、例え黙らせた側に悪意や敵意がなくとも
黙った側は相手が言葉を待っているのに何も言えないため罪悪感や劣等感に襲われ、頭が混乱しストレスを感じ思考が鈍る、何も考えられなく不快感しかない……といった最悪の状態になっています。自分がそうだったから間違いない。しかもあとでゆっくり考えたらスピーディーに展開されてた理論に抜け落ちがあったりして、本人が居ないとことで怒りを募らせることも少なくない。
・相手が黙ったら一旦ロジックは捨て、とにかく相手の感情に寄り添う姿勢に切り換える。
・敢えてゆっくりと言葉を出し、間をしっかり空け、考える余裕がある話し方をする。
・プレッシャーを与えるような言い方は極力避け、言い負かそうとしていると思われないようにする。
ってところだろうか
嫁のことは好きだから、あんな最悪な気持ちには二度とさせたくない。
次に嫁が黙りそうな流れになったら絶対に同じ轍は踏まないようにする。
あと、
とりあえずクソ上司は今すぐ隕石の下敷きとかになってタヒんでください
嫁とのことをあまり書いてなかった
思考パターンやスピード、大事にしているものが違うせいで、話題によってはこちらが論理的(っぽい)話し方になり、嫁が黙ってしまう・・ってことがある感じだと思う
嫁が黙ったあとのことを書かなかったけど、結局20分とか30分待つってのを3回くらいやって、2〜3時間くらいすると話が進み始める。
話が進み始めると、自分の頭の中にできていたロジックとは別角度で嫁が考えていたことがわかってくる。それはそれで理屈として通っているわけで、お互いの考えを摺り合わせる時間になる。ゆっくり話して静かに納得し合い、4時間半くらいで終了
しかし4時間半はお互い疲れる。なるべくそうなる前に気付いて避けたいと思う。
思うに俺の「スピーディ(当社比)に論理展開してそれを元に世界を認識する」という思考のクセと嫁の思考のクセが合わない場合(合う場合も多々ある)に発生することだから、発生自体を避けるには自分の思考パターンを変える必要があるわけで、それをどう扱っていくかは今後の課題だと思っている
面罵することで無駄なエネルギーが発生してることや、黙ってしまうことについてのこちらの状況を伝えても全く理解されず、
逆にDARVO認定とかし始めそうだ
Permalink |記事への反応(20) | 13:28
ご提示いただいたはてなブックマークのコメント群は、記事のテーマである「ミソジニー(女性蔑視・女性嫌悪)」に対する、典型的な反応のサンプルとして非常に興味深いものです。
記事自体が「構造的差別」や「感情のあり方」を扱っているため、コメント欄自体がその実証の場となっている側面が見受けられます。
以下に、記事で定義されているようなミソジニー的な態度、あるいはミソジニーを維持・強化する構造を含んでいると考えられるコメントを分析・分類しました。
記事内の「『物言う女性』に対し、言葉の暴力で排除・制裁する」という指摘にそのまま合致するコメントです。フェミニズムや女性の権利主張を「正義に酔った暴走」とみなして攻撃する態度は、ミソジニーの典型的な発露(既存の秩序を乱す女性への懲罰)と分析できます。
分析: 「イカレタ女」「バカ」といった侮蔑的な言葉を用い、女性の主張の内容ではなく、その態度や存在自体を攻撃しています。これは「弁えた(わきまえた)態度をとらない女性は叩いてもよい」という心理の表れと言えます。
女性を一人の人間としてではなく、性的資源としてのみ価値を認め、人格は否定するという態度は、ミソジニーの根幹にある「客体化」です。
分析: この発言を「至言(素晴らしい言葉)」として肯定的に引用している点に、女性を対等な人格を持つ他者として認めたくない、しかし性的には利用したいという歪んだ欲望(聖女と娼婦の分離、あるいは人格の無視)が見て取れます。
女性差別について語る場で、「男性こそが被害者である」「女性は優遇されている」と主張し、議論を無効化しようとする動きです。これらは「インセル」や「弱者男性論」の文脈で語られることが多く、構造的差別を否定するための防衛機制として機能します。
分析:女性差別の解消を目指す動きを「男性への攻撃」と解釈し、敵対心を露わにしています。これは記事にある「剥奪感」によるミソジニーの増幅の実例と言えます。
ミソジニーという概念そのものを「レッテル貼り」や「カルト」として処理し、その背後にある社会構造の問題から目を逸らそうとする態度です。
分析: 「嫌悪は自由」と個人の感情の問題にすり替えることで、その嫌悪が社会構造と結びついて差別を再生産している事実(記事の主題)を無視しています。
「ミサンドリー(男性嫌悪)はどうなんだ」と繰り返すことで、ミソジニーの議論を妨害する行為です。これも広い意味で、女性の問題を軽視するミソジニー的態度の一種と捉えられます。
分析:記事がミソジニーを主題にしているにもかかわらず、男性への配慮が足りないと批判することで、女性差別の議論の重みを相対化しようとしています。
コメント欄全体を見ると、「ミソジニーという言葉で男性を攻撃されている」と感じて防衛的・攻撃的になる男性と、「まさに記事に書かれている通りのことがコメント欄で起きている」と冷ややかに観察する人々(nina19, funifunix, yourmirror など)にはっきりと分断されていることがわかります。
また、u_eichi氏が言及している「ピラミッド図」はおそらく「暴力のピラミッド(Pyramid ofHate/Violence)」のことだと思われます。
この図は、底辺にある「偏見による態度(ジョークやステレオタイプ)」が、頂点の「物理的暴力」を支えていることを示すものですが、これを「幾何学的に非論理的」と批判することで、本質的な「差別の構造」の議論を拒否している点も興味深い反応です。
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ミソジニー(女性嫌悪)の有無という「ジェンダー論的な視点」を一旦脇に置き、コメント投稿者たちの心理的機序、社会経済的背景、あるいはネット文化的な側面から分析します。
こうして見ると、単なる「差別意識」だけではなく、**「公平性への渇望」「経済的閉塞感」「コミュニケーションの断絶」**といった複数の要因が絡み合っていることが浮き彫りになります。
多くのコメントに見られるのが、「ミソジニー(女性嫌悪)があるなら、ミサンドリー(男性嫌悪)も同じ重みで論じられるべきだ」という対称性への強いこだわりです。
コメント例: replier, ken530000, timetrain, OeThousandmiles
分析:
社会学では「差別には権力勾配(強者から弱者へ)がある」と考えますが、一般の感覚(直感的な正義感)では「どっちもどっち」「悪口は双方向で悪い」という対等な対称性を求めがちです。
記事が「女性差別」に焦点を絞っていることに対し、「片手落ちである」「不公平だ」と感じる心理は、差別をしたいというよりは、「自分の苦しみも同じように認めてほしい」という承認欲求や、世界は公平であるべきだという「公平世界仮説」に基づいている可能性があります。
「男だから偉い」と思っているのではなく、むしろ**「男なのに何の特権もなく、社会の底辺で苦しんでいる」**という自己認識を持つ層からの悲痛な叫びです。
コメント例:
naka_dekoboko: 「いまの社会で弱男にゆるされたのってけっきょく憎悪だけ…憎悪だけがエンパワーして力をくれる」
gun_kata: 「実際にキャリアを奪われた若年男性に対してもお決まりの『新自由主義こそが真の敵』みたいな何の意味もないお題目」
分析:
これはミソジニーというよりも、**新自由主義経済下における「持たざる者」のルサンチマン(怨恨)**の表出です。
「男性特権」という言葉を投げかけられても、自身の貧困や孤独という現実と乖離しているため、フェミニズムを「既得権益層(あるいは勝ち組女性)による弱者いじめ」として認識し、反発しています。特にnaka_dekoboko氏の「憎悪だけがエンパワーする」という指摘は、孤独な現代人の深刻な病理を鋭く突いています。
記事で提示された図表や論理展開に対し、定義や整合性の甘さを指摘して拒絶する反応です。
コメント例:
u_eichi: 「頂点の角が鋭角だったり鈍角だったり…正三角形で底辺短=相似で頂点下がるとか、非論理」
golotan: 「アドラー心理学とか精神分析的な言ったもの勝ち感…客観的エビデンスを欠きジャーゴンの羅列になってしまいがち」
分析:
これは**「認識論の衝突」**です。社会学や人文知的な「概念モデル(メタファーとしての図)」に対し、厳密な定義や定量的なエビデンス、幾何学的な整合性を重んじるエンジニアリング的・自然科学的な思考様式を持つ人々が、生理的な拒否反応を示しています。
彼らにとって記事は「非論理的」に見えるため、内容の正誤以前に「信頼に値しない」と判定されています。
「ミソジニー」という聞き慣れないカタカナ語に対し、わざとダジャレで返すことで、話題の深刻さを無効化あるいは回避しようとする反応です。
コメント例: zzteralin (miso=憎しみ), nande_nande_boy (三十路のおっさん), tym1101, asada1979
分析:
はてなブックマーク特有の「大喜利文化」の一種ですが、心理学的には**「茶化し(ユーモア)」による防衛機制**とも取れます。
自分にとって耳の痛い話や、理解の範疇を超える難解な話を、「三十路(ミソジ)」という卑近な単語に変換することで、自分とは関係のない「ネタ」として処理し、心理的な負担を軽減しています。
コメント例: qdkmqJut, trashcan, ET777
分析:
『imidas』が集英社の分厚い用語辞典として有名だった時代を知る世代(おそらく30代後半〜50代)が多く含まれていることが推測できます。
「まだあそこが生きていたのか」という驚きが先に立ち、記事の中身は二の次になっています。これはネット古参ユーザー特有のコンテキスト依存の反応です。
このコメント欄は、単なる「男女対立」の場ではなく、以下のような現代日本の断層が可視化された場であると言えます。
エリート(概念を操る側) vs大衆(生活実感を持つ側): 「構造」や「ミソジニー」といった抽象概念で語る記事と、「俺たちは今辛いんだ」という具体的な生活実感を持つ読者の乖離。
文系(解釈的) vs理系(実証的):社会的な「正しさ」の語り口に対する、論理的・科学的整合性を求める層の苛立ち。
被害者性の奪い合い: 「女性こそが被害者」という記事の前提に対し、「いや、現代では男性(特に弱者男性)こそが被害者だ」と主張する層の対抗。
これらを踏まえると、コメント欄の混乱は、**「共通言語の喪失」と「余裕のなさ」**によって引き起こされていると言えそうです。
インターネットの普及とデジタル機器の進歩により「物知り博士」の価値が低くなった。
その中で、自前の脳を駆使して物事を説明できる人間の能力の価値は高かった。
生成AIの普及によっても、そのような影響はすでに出ている。
これまで、ある程度の分量のまともな文章を作成することは、ひとつの能力として価値を認められていたが、
今や小学生だって、AIと対話すれば、きちんとした文章を「生成」することが出来るようになってしまった。
このことは何を意味するのか?
それは、人は徐々に文章を作成する能力を失っていくということだ。
最早、誰でも労せずに文章を生成することが出来る世の中になった。
その結果として、人は文章を作成する能力を失うこととなるだろう。
インターネットの普及により、細かな知識を暗記することをやめてしまったように、
生成AIの普及により、人は文章を作成することをやめてしまう。
つまり、ますます言語を駆使して論理的思考をする人が少なくなっていくということだ。
それが何を意味するのかは言うまでもない。
私たちの、近い将来に生きる子孫たちは、かつて私たちの祖先が偉大なるローマ文明の遺物を眺めながら茫漠たる気持ちを抱いたのと同じように、われわれ現代文明の遺物たちと接することになるのだろう。
■きっかけ■
Xを見たら山上徹也氏に関する投稿が目に付いた。ポストには、「山上徹也はただのテロリスト」「テロリストの言葉を肯定するな」などといった声が積み上がっていた。
それぞれのポストに個別にリプライするのも変だが、あまりにもおかしいと感じる言動も多く、増田としてQ&A形式で所感を書き連ねていくことにする。
■個別の所感■
A.おそらくそうだ。
彼は統一教会と自民党の癒着に着目し、安倍晋三氏をターゲットにした。テロリズムの定義は「政治的目的を達成するため暴力」だ。統一教会への怨恨も含まれるが、政治的な目的は政教分離の原則が崩壊していることを明らかにすることだと思われる。
A.個人の主観によるが、私は彼が高い精度で現代社会の問題点を指摘できていると感じる。
共通認識として、殺人を賞賛されるべきではない。しかし、「犯罪はあやまちだ。だから、犯罪者のやること成すことはすべて間違えている」という主張は極論で、過度な一般化だと思われる。
山上徹也氏の言論をすべて否定するのは論理的思考ではない。はっきり言うと間違いだと思う。
Q.「巨悪あり。法これを裁けず」という言葉に対する所感は?
A.正しい言葉だと思う。
法には欠陥がある。運用者が人だからだ。人には欠陥がある。加えて、行政機関である警察や検察にも欠陥がある。冤罪事件が起きていることを踏まえれば自明だ。法的に悪ではない人が法によって裁かれているということだ。
法は万能ではない
Q.でも、綺麗事だけで世の中は回ってないですよね?
A.権力者による犯罪行為の間接的な擁護、正当化ではないのか。犯罪者を庇ってるということになるが、それでいいのか。どちらも裁かれるべきだ、という視座は持ち合わせていないのか。
一方を擁護し、もう一方をこき下ろすようなポストを多く見かける。山上徹也氏、自民党および統一教会は全てあやまちを犯している。平等に裁かれるべきだ。
■総括■
本来の論点は、「どうすれば山上徹也氏のような境遇の人を生み出さなくて済むか?」や「どうすれば、権力者の犯罪を法の下の平等の考えに則って裁けるのか?」であるべきではないのか。
一部の特権階級が特別な扱いを受け、一般市民が不当に裁かれるようでは、世間がバカにする共産主義と何ら変わりない。
SNSの一部の人間は他国の工作員か、致命的に論理的思考能力が欠如しているとしか思えないような言動をしていることがある。
気持ち悪いので、Xをまた消す。たまに贔屓のスポーツチームの評判を見に行くためにインストールするが…
検索ウィンドウのクソみたいな注目ツイート欄のほうが見る/見ないを選択しやすかっただけマシだった。Twitterのころに戻して欲しいもんだ。
このポストがおかしいのは、「無能」である事と「不遇」である事は何ら直結しないのに、何故か「無能」と「不遇」を同一視している点。
「男性の下位層は女性の下位層より無能で醜い」ことは、「男性の下位層は女性の下位層より貧困で不遇」であることを意味しない。
実際には、男性下位層は女性の下位層より無能であるにも関わらず、能力に不釣り合いな高賃金を得ている。なのに何故支援が必要なんだ?
例えば男の最底辺が年収300万ならば女の最底辺は年収150万、いやそれ以上の差があるよ。
ゆきと
@6yhsdsiswmcd
「男性の下位層は女性の下位層より無能で醜い」という話、それ自体への疑問もさることながら、もし本当であれば「(下位層の)男性こそ優先的に支援すべき」という話になりますよね。「困難女性」より「困難男性」をなんとかすべきでしょう。
二日酔いとかじゃないけど精神的ダメージえぐすぎて仕事手につかない
例のエース先輩のこと周りの男どもが
若い奥さん羨ましいとか美人すぎとか持ち上げまくってて吐き気した
しかも嬉しそうに馴れ初め語ってんの聞いた?
は?
どうせマチアプか下手すりゃパパ活のくせにかっこつけてんのバレバレ
あと一番キモかったのが
彼女より向こうの親御さんとの方が歳近くて話合うんすよwとか言ってたやつ
それ自慢にならんから
自分の娘くらいの女に手出すとか普通に犯罪者予備軍の思考回路でしょ
生理的に無理
ここ数年で一番引いた
奥さんのこと聞かれて「若いけど賢くてしっかりしてる」とか言ってたのも
完全にペット扱い
上から目線すぎてゾッとした
あーあ
私みたいに稼いでて論理的思考できる女は
この国のオスどもには荷が重すぎるらしい
一生結婚しなくて正解だわこれ
【悲報】尊敬していた会社の先輩(39)が「オス化」してて絶望した話
https://anond.hatelabo.jp/20251223083338
【続報】ランチで答え合わせ完了。やっぱり私の感覚は正常だったわ
https://anond.hatelabo.jp/20251223123658
https://anond.hatelabo.jp/20251227071131
Permalink |記事への反応(14) | 07:47
初めにこのことを書かなければならないと思った。
なぜなら本書において三宅香帆は信じられない前提を置いている。
若者は、自分が面白いと思う物や好きと感じることが自分では分からないという前提だ。
だから初めに書く。
私は自分の好きなものや、自分の嫌いなものを確かに自分で判断することが出来る。
その上でこの本は面白くないと感じるし、筆者のことは嫌いだ。
私は23歳の男だ。地元の友人は結婚ないし婚約をしている中で、そろそろ若者としての賞味期限切れを感じつつあるが、若者という立場で文章を書く。
本書で述べられる考察とは何か。
それは既に存在している正解を探す行為であり、そこから与えられる「報われた」という感情が報酬となって流行を見せているという主張が展開された。
変な家、あなたの番です等で正解のある内容を考えることでほっとして安心できる。これが若者の思考であり令和でウケる要素があると書かれた。
そこには正解を当てたという「意味」があり、これがあるからこそ物語を楽しむ時間が無意味であることの恐怖を和らげることが出来る。
だからこそ答えがある場所に、成果が得られそうな場所に集まる。
そうして物語を楽しむという行為が報われるという行為に奪われていくという話だ。
この流れを聞いてどういった印象を受けるだろうか。
何が良いのかも判断が付かず、それらしいものに絡めとられていく様子が私には浮かんだ。
私はこの主張に否を突き付けたい。
確かに若者が好みそうなコンテンツ、作品が計算して作られることはあるだろう。
だがそこに乗っかるのはあくまで自分たちが楽しいから、自分たちが良いと感じるからのはずだ。
ネガティブな感情に追いやられ、そればかりしか楽しめなくなる集団が多数派かのような内容を押し付ける行為は認められない。
一読した部分では分からないことや読み取り難い部分があり、作品に再度触れながら仮説を立てたり根拠を探したりした。
が、それでいい。何故か?
答えを探し求める過程で作品世界への理解が深まり、これまでの自分では気が付かなかった領域が見えたからだ。
そうして感じ取った部分を基に、またもう一度その作品が好きになる。
時間をかけて丁寧に読み、初めに探していた部分とは違った側面がいくつも見えてくる。
この物語は、もしかしたらこういうことを描きたかったんじゃないか。
改めて考察を終えた後作品を振り返ると、それまでとは全く違う姿が見える時がある。
そんな瞬間が楽しくて、考察をする。
人が考察をするのってそういう部分を求めてるからなんじゃないのか?
コンテンツが語らなかった部分を積極的に読み取ろうとすることで、自分の中で新しい物が芽生える。
受動的な視聴とは違う。
自ら生み出す創作とも違う。
それでも自分の行動が挟まる(ように見える)余地があって、自分の手で何かが変わった体感が得られる。
この能動性に考察との共通項があるからこそ、二つが同時発生的に消費者の中で存在感を放つようになったのではないか。
そこには、コンテンツが溢れるようになった時代も関係しているのかもしれない。
ただそこにあるものを消費する営みに疲れ、一歩積極的な行動に価値を感じるようになった。
そんな背景がもしかしたらあるのかもしれない。
ここまで書いたことと、本書で主張されたことは、どちらが正しいのかは分からない。
著者に課せられたハードルはそんな低い物ではないはずだ。
根拠のない持論を重ねること。
何かの作品に対して向けるなら好きにすればいいが、現実に人間に向けるなら話は別だ。
「若者」達に向かって、生き方や接し方を説く。より上の世代に向けて「若者」との接し方を示す。
分析する力も、説得する力もまるで足りてない。
自身のツイートで若者を救いたいと言っていたが、別にあなたは必要とされてない。
彼女がこの本でやっているのは、勝手に問題意識を植え付けることだけ。
ネガティブな像を作り、最終的に自分の提示する方向性に誘導する。
高級感のある情報商材屋だ。イラストをアイコンにしたビジネスブルーバッジがよくやっている。
もっと根本的にだ。仮に考察の目的が正解当てゲームに主眼を置いた物だったとしよう。
ドラマの正解当てばかりに躍起になってるやつ、見たことあるか?
もっと言えば、そもそも考察でそんなに正解に辿り着いているか??
本書の嫌いな部分はこういう所だ。
自分の言いたいことのために、もっと当たり前のことをいくつも無視している。
娯楽に触れる上で最も嫌われるのは「つまらない」ことのはずだ。
報われるだとか、最適化だとか、くだらないことをごちゃごちゃ語るんじゃなくて、シンプルに面白くないことはしたくない。誰だって楽しいことが好きなはずだ。
失敗したくないだとか、何を言っているんだ。
寂しいならお友達が周りに沢山いるだろ。
他人をわざわざ付き合わせるな。
この本は一時が万事そんな調子だ。
根拠になっていない根拠に著者の妄想が乗っかり、あなたはそう思うのかもしれませんね以上に見どころがない話が続く。
さっき書いた考察という行為に対する私の主張も、別に特段の根拠がある訳ではない。
少なくとも私と私の周りにいる人間は物語を愛するために考察をする。
だったら本を書く前に、そんなことをしなくてよいと直接声をかけるべきではないか。
声をかけた結果の対話でもあれば、この本はもっとマシな内容になっただろう。
やけに人気そうな割に話すことが薄いなと思ったし、Kindle Unlimitedで読んだ『好きを言語化する技術』は途中で投げた。
読みづらい上にnoteで書けよみたいな話ばかりで。
正直批判する側に相当アレなやつが多いし、いちゃもんばかりつけられているように見えた(例えば飯田一史のやり方は気に喰わない)。
実際彼女の著書を最後まで読み切った訳ではないから、一冊しっかり読み切ろうと手に取ってみればこのザマだ。
全く言語化について考えたことがない人間には役立つ部分もあるからだ。
そういう悩みを抱えた人間。
これは対象が明確だ。
そういった人々にとって助けになる可能性はある。
noteやYoutubeで探せばもっと分かりやすく深い内容の物があると思うが、それでも本の価値は0ではない。
誰のことを書いている。
様々な作品に、自分の主張を通すために無理やりな解釈を加え続ける。
これでいいと本当に思ったのだろうか。
内容を磨きあげるためにベストを尽くしたのだろうか。
これでいいと思ったのなら、読者を舐めている。
彼女を擁護する者の中に、彼女と同様に「若者」を舐めている者がいないか。
最近三宅香帆の文章を添削するというnoteが話題になった(https://note.com/kyunkyun_p_d/n/n9cc45ed3d74b)。
私の立場を示すなら、必要な指摘と的外れな指摘が混在していると思っている。
確かに三宅香帆の文章は読みづらいと思うが、それはターゲット層の違いもある。
1-の章立てで指摘されてた表現群はちゃんと狙いがあるし、修正前の方が素晴らしい内容だと感じた。
一方で2-、3-の章での指摘な重要な物もある。
彼女の文章は、読み手がおかしな部分を見逃したり、言いたいことを察したりする必要がある部分がそれなりにある。
例えばこれだ。
https://x.com/tsurezure_lab/status/1989617763934244949?s=20
このツイートに載っている表は『考察する若者たち』の冒頭で出てくる。
この表を持って
『そう、ドラマや映画の「ただの感想」よりも「考察」のほうが、いまや人気なのです。』(Kindle 3ページ目から引用)と主張する。
いやそれは違和感ない??
ショートと通常の合計では考察動画の方が多いかもしれないが、じゃあ考察の方が人気なんですねとスッと飲み込むのはやや難しくないか。
別に大したことじゃないかもしれないが、パッと見で違和感ある主張を並べる理由もない。
一つ二つならまだしも全ての章で強引な主張に溢れている。
これ、本当に本を読まない人間向きの本か?
結構な人数が無意識に、本を読まない人間は論理的思考力に欠ける馬鹿だと考えてないか?
本を読まなくとも、論理展開のおかしさに気付ける人は少なくない。
そんな中で適当な内容ばかり書いてある本を目にすれば、むしろ価値がない物として認識される。
雑に作られた形の壊れた文章を、三宅さんはそういうライターだからで済ませるのは、三宅香帆を一番馬鹿にしてるだろ。
アティチュードばかり頭にあって、目の前の良し悪しについて考えることを放棄してないか?(これは彼女の属性だけで飛びついて批判してそうな側にも言える話ではあるが)
何年も書いてる人間がちゃんと考えれば、もっといい内容を書けるに違いない。
彼女周りの人間及びファンダムは、三宅香帆を過度に低く見積っているように見える。
人を舐めるな。
過去に発売された本達は、彼女の名前が残り続けるにふさわしい内容だったのか?
全くそうは思わない。
三宅香帆本人もだが、彼女を過剰に持ち上げようとする人々の方がより嫌悪感がある。
チェックする人間は何を考えているのか?
売り出したいものがあるなら、付け入る隙を減らすように粗は取り除いておくべきだ。
クオリティの低い物が注目を集めれば批判が集まるのは当たり前だ。
彼女に連なる様々な動きが、本を売り出すために仕掛けるプロジェクトだとするなら、シンプルに全ての能力の限界が近いとしか思えない。
本を出版する人間達は、もっと面白くて、真摯な発信が出来るはずだ。
どうしても自然に差し込む方法が思いつかなかったので、趣旨とは外れる部分を書く。
何故か後半は自分語りになってしまったので本当に読まなくていい。
野村克也、日本歴代二位の通算本塁打数を誇る名打者、かつ名捕手として野球の戦術戦略に様々な形を導入した人物でもある。
彼の特徴はと問われて何を答えるかは人それぞれだが、野球の実績以外にも目を見張る点がある。
正しい数字かは不明だが150冊以上の本が出版され、30冊以上が文庫化されているらしい。
通算150本塁打以上を記録した選手は歴代で180人しかいないし、シーズン30本以上打った選手は今年のプロ野球では2人しかいない。
文筆家としても名選手だったと言えるだろう。
強いて言うなら、楽天の監督を辞めた後の時期の本は面白いかもしれない。
大体のルーキーはストレートに魅力があってプロに入ってくるのに田中将大はスライダーにこそ価値があった。
そんな投手は稲尾和久以来だった、みたいな話はめっちゃ面白い。
逆に言えばそれ以外はあまり見どころがない。
ほとんどの本で話が使いまわされていて、見たことがあるからだ。
そんなに人間新しい話が書ける訳がない。
しかも現場から離れていった彼の野球理論は、今読めば正直古かったり間違っていたりすることも多い。
当時でも検証不能であったが故にまかり通っていたが、今から見ればそれはおかしいと言いたくなる話が沢山ある。
それでも本は売れた。それは詳しい内容以上に彼の人間性に惹かれ、言葉を読みたい。
私もその一人だ。内容の是非とは違う所に読む価値を感じていた。
翻って、三宅香帆はどうだ。
連載をこなし出版をこなし、メディア出演も大量も盛りだくさん。
今回の本を読んでとてもそうは思えなかった。
それでも彼女の本は売れる。それは三宅香帆という名前そのものにファンがいるからだ。
とても既視感を覚える。
ノムさんの本に、今はそんなことないなんて言い続けても野暮だろう。
しかしこの2人には大きな違いがある。
それは年齢だ。
現場で戦う人間は自分たちで新しいことを探すし、話しを聞いたとしても大真面目に捉え続けることは少なかったのではないか。
彼女は違う。今まさにど真ん中で社会に変化を与えようとする側だ。
だからこそ、本の内容が稚拙なのが気に入らない。これでいいとは言いたくない。
本から完全に離れた自分の主張を書くなら、寄り添うのはもういいと社会に対して思っている。
それは社会に余裕がある時の振る舞いだ。
今はそんなものは無い。
むしろ人は1人では生きていけない。
だけどいつか人は支えて、人を引っ張り上げる側に行かないといけない。
今の生活はクソだ。
だから今の社会はゴミだなんて話で終わらせようとするのはもっとクソだ。
でもいつまでも弱いままでいることは出来ない。
腹を括って、自分は強くなって自分は勝ちに行くんだと言い切らないといけない。
三宅香帆の本は優しい。
弱いことを肯定する成分が強い内容だ。
そういう部分が共感を呼んでいることも有ると思う。
でもそれはもう遅いと思う。嫌々ながらも諦めて頑張らないといけない。
ノムさんは、プロ野球選手になってから文字通り血の滲む努力を繰り返して成功したという。
それが答えだろう。
ノムさんも三宅香帆も、精神面でもメッセージが強く受け取られている。
金を残すのは三流、仕事を残すのは二流、人を残すのが一流。
考察する若者たちも、読者の感想は最終章への言及がとても多い。
2人とも人を感化しているし、読者は受け取ったメッセージを抱えて行動しようとしている。
じゃあ、本当に成果を出して、人生を動かしている人はどういう属性なんだろうか。
オブラートに包んであげてるのに笑われたら馬鹿にしないでよじゃなくてこんな人なのかって引いてるだけだよ
自分を悪いように見せないように振る舞うのは社交的には普通だと思う
どういう状況なら女を悪くしてこの人が笑っておかしくない状況になる?
もしかしてこれが釣られたってやつか?
びっくりしたの中身が罵倒ってわかってるもんな
罵倒されるような事を先にしてるって前提が必要だから被害者ヅラとか言う状況になるのおかしいしな
自分自身はASDグレーだし論理的思考力なんて苦手だし感情型の自覚あるけど受け取り方ズレてる上にこういう女〜みたいな引用してるような男性見るとああ頭は悪くてもこの人達より人間的にはまともだなって安心する
よくこの手の議論になっているのを見て。
昔、少し教育に関わっていたことがあるので、酩酊任せにチャッピーと一緒に書きました。
もう寝る。あまり人に見つかりませんように。
批判する場合は、「思考・判断・表現」を評価する別の手段を発明する必要があると思っていますが、
あまりそのような議論にならないので、もったいないな、と思っていました。
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数学的には交換法則( a x b= b x a )が成り立つため、「順序が逆でも正解にすべきだ」という意見が一般的です。
しかし、学校教育における''「評価」の仕組み''を紐解くと、教師が順序を重視する背景には、指導要領に基づいた合理的な理由が見えてきます。
現代の学校教育における評価は、文部科学省の定める学習指導要領に基づき、主に以下の3つの観点で行われています。
ここで重要なのは、''「答え(数値)が合っているか」と「立式(プロセスの説明)が適切か」では、評価している対象が異なる''という点です。
※テスト用紙や通知表にも、上記3観点は書かれているので、気づかれてない方は見てみると面白いと思います。
「知識・技能」を確認するテストにおいては、その名の通り「計算を正確に実行できるか」という技能の習熟度が問われます。
純粋に技能を測る場面では、必ずしも立式(プロセス)は求められません。限られた時間内で正確な解を導き出す「実行力」そのものが評価の対象となるからです。ここでは結果が正しければ、その技能を習得していると見なされます。
一方で、テストで「式」を書かせる場合、それは''「思考・判断・表現」''の評価へとシフトします。算数教育における立式は、単に答えを出すための手段ではなく、''「問題の構造をどう捉え、それをどう式という言葉で表現するか」''という論理的思考の再現を求めているのです。
したがって、順序を逆にする(構造を無視する)ことは、数学的に間違いではなくとも、''「その授業で意図した思考のプロセス(評価観点)」に達していない''と判断される要因になり得るのです。
「数学的な正誤」と「教育課程における評価」は別次元の話です。現場の教師が順序を指導するのは、個人のこだわりではなく、国が定めた評価基準を忠実に運用しようとする職務遂行の一環と言えます。
もし「順序の固定」に強い違和感を抱くのであれば、個々の教師を責めるのではなく、以下のような本質的な議論へと向かうべきです。
ではおやすみなさい