
はてなキーワード:誰かのためにとは
近頃、とにかく死にたい。
毎年10月から11月はこういう感じになるので、季節のせいであることは分かっている。12月になる頃にはだいたいなんかなんとかなってるから大丈夫。
でも年々ひどくなっている気もする。それに、毎年ウワーッとはなるにせよ、そもそもなんでこういう死にたい感情に襲われるかがよく分からなかったので、何か直接的な原因がないものか、人生についてちょっと考えてみた。
元々社会福祉とか一次産業とかインフラとか配送業とかに憧れがあった。誰かの生活を支える、縁の下の力持ちってかっこいい。でも増田は危機管理能力がない。忘れ物は多いし、ケアレスミスも死ぬほどするし、どんなに我慢しようとしたって余計な改善をしようとして結局改悪してしまう。保守運転とか一番苦手な分野だ。トラックどころか自分の体一つだって乗りこなせない。事故を起こさないため、誰かを殺さないため、そういう職業にはつかないほうがいいと思って生きている。
だから人から金を搾取することだけを考えているカスみたいなサービスの下請けで、自分一人を養えるだけの端金をもらって、犯罪を起こしてないからそれでいいのだと必死に言い聞かせている。上手く出来なくてもカスの弊社が困るだけだから、いくらミスしても罪悪感はない。
だがこれは直接死にたい原因ではない。やっとることはカスのサービス形態ではあるが、ある程度転職にも使えそうな汎用的な職能の成長は出来るし、上司や同僚は増田の手助けや活躍を褒めてくれるし、そういった点でやりがい的なものがないわけでもない。業務自体はそこそこ向いてると思えるし、人間関係は良好と言って良いだろう。金額面も、自分一人を養えるくらいの金額は稼げているし、それによって欲しいものを我慢したり、望んだ生活を手放さなければならないほどではない。元々欲は薄い方だ。少ないながら貯金もしているし、いざとなれば親や友人を頼れば金がなくても多少の間はなんとかなる。労働自体は憎むほど忌み嫌ってるわけではないから、生涯現役でも全然構わない。
金銭や将来の不安、職場の人間関係の悪化などがあって死にたいわけではない。
友人関係も悪いわけではない。
確かにたびたび「人間じゃない」とか「常識的な気遣いが足りない」とか「普通考えれば分かることがどうして出来ないのか」とか言われたりもするが、それでも根気強く付き合いを続けてくれる友人ばかりだ。何も言わずに去られるより全然マシなので、そういう耳に痛い言葉も言ってくれるだけでありがたい。一度も傷つけたことのない、あるいは傷つけられたことのない友人は確かにいないのだが、それでもみんな大事な友人だ。
そういう大事な友人にご迷惑をおかけすることで罪悪感で潰れそうになることはあるが、例えば無茶な振り回し方をしてきたり、金銭を貸せとやたらたかって返さなかったり、そういうガチのトラブルに発展するような友人諸兄ではないし、増田もそういうことをしないよう、礼節を忘れないように重々気をつけている。それでもたまにうっかり日々の会話で地雷を踏んで怒らせることはあるものの、友人同士が「それは言い過ぎ」とか「お互い様」とか仲裁してくれるので、増田自身の尊厳も守ってもらえていると思う。友人とボロカスの喧嘩をして死にたい夜もないことはないが、それは大抵一時的なものだし、直近はそういう感じで険悪になってる相手はいない。
父も母も理屈で話せば分かる人であるし、親戚一同もなんだかんだ元気に暮らしている。不謹慎なニュースを見て爆笑する叔父や、身の回りの世話を全部してあげないと心配で夜も眠れない叔母、とにかくプライドが高く他人を見下したり注目を集めたりしないと気がすまない従兄弟、信仰の押し付けはないものの新興宗教にどっぷり献金している祖父母など、アクが強くはあるが、こちらに実害はないので可愛い範囲で収まるものだ。肉親に怒鳴ったり、暴力を振るったり、金銭トラブルを持ち込んだり、結婚を強要したりする人はいない。
まあ、両親に恨みがないと言えば嘘になる。幼稚園の頃に甘えようとすり寄ったら「は?鬱陶しい、ひっつくな」と引き剥がされたり、小学生の頃いじめられていた時に増田の言い分を一切聞かず「あなたにも悪いところがなかったかよく考えてみよう?」と3時間近く諭してきたり、愛着の面では問題があったのは確かだ。しかしそれは増田に対して愛情がなかったというよりは、それが彼らの愛着の限界なのだ。飼っているウサギすら、部屋の中で凍死しかけていることに気づかなかった両親である。それを思えば、衣食住を保障してくれたのは事実だし、危険なことは叱ってくれた。大学まで学費も出してくれたし、両親の行きたいところにではあるが旅行にもそこそこ連れて行ってもらっていた。彼らにしてはだいぶ努力していたのだろうと今なら分かる。
だから半年に一度程度は顔を見せに帰省しているし、それがめちゃくちゃ苦痛というわけでもない。全ては過去のことであり、無、凪、平熱、そういった単語がふさわしい関係性だ。これもまた、直接の原因ではない。
増田はXジェンダー、リスロマンティック、アセクシャルと三拍子揃った人間だ。その上、それでもどうしても起こる性欲の発散方法は「対象年齢・性別を問わないリョナ創作」と来た。絶対に世に出してはいけない、リアルの人間に向けるなんて以ての外という嗜好をしている。
幸いなことに、告白されたことも、したいと思うほど惹かれた人も人生にいない。誰かを傷つけてしまうくらいならそれでいいと思っている。「恋愛を理解できないのは正常ではない」と思って恋愛小説や恋愛漫画を読んでは、イーッ!分からん!と一人で暴れていたこともあるが、それは「普通の人生を送ること」に固執していたからであって、もう普通じゃなくていいやと開き直った今は、一人で生きていく覚悟がとっくに出来ている。
だから恋愛ができなくて人生つまんなくて死にたいというわけでもない。
趣味はある。
増田は創作が好きだ。物語を書くのが好きだ。随筆も、批判も、絵も、彫刻も、歌も、踊りも、とにかく何かを表現することが好きだ。それは自分の中にある感情や思考を(作品に限らずこういった文章などでも)表し、発散することで一時的な沈静が見込めるからだ。だから誰かのために書いてるわけじゃなく、褒められるために書いているわけでもなく、ただひたすら自分の衝動を、犯罪ではない範囲で発散できることに喜びを感じている。
また、他人のそういう一面を見るのも好きだ。孤独ではない、と、他のどんな娯楽よりも、どんな脳内物質の分泌よりも、最も確かに感じられるし、癒されるからだ。みんな苦しくて孤独なのだと実感できるからだ。そしてそれらを十全に納得のいくまで突き詰めようと、他人の創作物をしゃぶりつくしたり、自分の表現を究めたりしようと思うと、百年に満たない短い人生を食いつぶすには、十分すぎるくらい時間がかかる。
これも死にたい原因ではない。むしろ趣味のことを考えれば、死んでいる場合ではないのだ。
これと言ったトラウマもない。
いや、ないことはない。小学校の頃は確かに治安が悪かったし、その中で最も低いカースト層にいたのは確かだ。靴箱に砂を詰め込まれたこともあったし、掃除の時はちりとりに集めたゴミを引き出しにそのまま流し込まれたこともあった。濡れた雑巾を頭に投げつけられたこともあった。ドッジボールで執拗にボールをぶつけられることもあった。体育の二人一組ではいつもハブられていたし、仕方なしに増田を組まざるを得なかったやつは、増田の触れたところを校庭の土でこすって払った。まるで土のほうが汚くないとでも言いたげに。
クラスメイト全員敵だからいるわけがないのに、脅迫的に好きな人を聞き出され、最もいじめてきた回数が少ない人の名前をあげたら、翌日からそいつがいじめられ始めて、他人を好いてはいけないと思い知ったこともあった。給食着やテーブルクロスを、本当は持ち回り当番なのに毎週持ち帰らされて、親に「じゃんけんで負けた」「牛乳こぼした責任で」と嘘をついた。もちろんああいう感じの親なので「あんたはどうしてそうなんだろうね」と気づかれもしなかった。
「視界に入るな」「半径2メートルに近づくな」「菌が伝染るから(学級文庫・机・プリント・日誌・配膳皿などに)触るな」あるいはもっと直球に「死ね」も全部日常的に言われていた。学級崩壊でまともに授業が受けられなくて教育機会を損失して、その頃に本来学ぶべきだった分野は今でもちょっと苦手意識がある。毎年劇をやるはずの発表会では制御不能と判断されて、ペットボトルでお米を育ててみましたといううっすい内容を、誰がどこを喋るかまで一言一句ガッチガチに固められて発表させられた。自主性なんて言葉は死んでいた。若い新卒の教師は毎日授業で泣いていて、その頃にはとっくに泣き疲れて感情に蓋をしていた増田は、その涙を「煽るだけなのに」と冷ややかな目で見ていた。
カースト中の下だった傍観者クラスメイトと大学で再会して、一緒に「小学校の思い出」とかいうクソみたいなグループワークの授業を受けざるを得なかった時、給食の班机で菌が伝染るからとやられていたみたいに1cmあけて机を組まれた瞬間、増田の心にヒビが入り、割れ目が出来て人格が四つに分かれしまい、今も元に戻らなかったりしている。そういう意味では、たしかにトラウマと呼んでもいいのかもしれない。
それでも直接的な殴る蹴るという暴力は振るわれなかったからマシな方だったと信じている。記憶があり、はっきりと思い出せて、これだけの内容を泣かずに書けるようになっただけかなり寛解してきている。それに、当時の自分だって箒で殴り返すなどそこそこやり返したり、いじめっ子と同質になって増田よりもっとカーストの低い支援学級の子に対して、自分にされたことをそのままやり返すみたいにしていじめたりだってしていた。当時飼っていたハムスターも憂さ晴らしに虐待していた。弱いものがさらに弱いものを叩き、ブルースは加速していた。そういう感じでなんだかんだ適応して元気にやっていた。
それらへの後悔に苦しみながら、同時にその延長で今も友人にライン超えの発言をしたり、逆に踏み越えてはいけないラインを踏み越えられてもその場では分からなかったり、自覚がないままキレ返してしまい制御不能に陥ったり、暴力や脅迫や支配を伴わない合意の上での性行為では興奮できなかったり、記憶は共有しているものの人格が割れてしまい解離性同一性障害まで秒読み状態だったりと、後遺症は色濃く残っている。
けれど、でも犯罪をしないで済むくらいの範囲で誤魔化しきれているし、それ以上を望んだりもしない。だからこれもまた、今の増田をむしばんでいる死にたさの原因ではない。その時期はとっくに乗り越えてあり、過去は過去、今は今として整理がついていて、そういう自分のあり方を受け入れている。
人生を構成するだいたい全部に、人並みの不満や後悔はあれど、満足していないわけでもない。人間関係にも金銭にも将来にも不安はない。上を見ればきりはないが、下を見てもきりがない。自分の人生は自分のものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
私は私だ。
なのに何故こんなにも死にたいのか。
胸を打つこの衝動は何か。
線路に飛び込め、七階から落ちろ、溺れて死ね、とにかく死ね、そう囁き続ける声が内側に蔓延るのか。
思春期という言葉を藁のように握りしめて、この衝動的な嵐が、年齢を経れば終わってくれると、ただ若さ故なのだと、そう信じてしがみついてきたのに、どうしてアラサーになってもまだ衰える気配がないのか。
この衝動こそが死にたさの原因であり、結果だ。
この自己こそが死にたさの真の原因ではないのか。
本当はやりたい仕事を諦めて現状に甘んじている?
友人と上手く付き合うことが出来ない?
両親の愛着が足りなかった?
趣味が実質逃避になっている?
過去に嫌なことがあって未だに引きずっている?
全ては結果に過ぎない。
最初に存在しているこの「自己」こそが引き起こした、必然の結果に過ぎない。
死にたいのは、嫌なことがあったのが原因じゃない。
嫌なことを引き起こすような自分に全ての原因があるということから、いよいよ目を逸らせなくなってしまったからだ。
増田はずっと、衝動、癇癪、叫びのような化け物を心に飼って、共に生きてきた。
こいつを野放しにしたら、とてもじゃないが人間社会では生きていけない、というかまず肉体が耐えきれなくて崩壊するような、触れるもの全てを敵と認識する、爆発的なエネルギーだけがひたすら渦巻いている、自壊を厭わない衝動の化け物。
その化け物を飼い慣らすことだけが、増田の今の全てを形作っている。
仕事や友人の選び方、楽しめる趣味、思考、行動、言葉、その全部全部が、この化け物を静かに眠らせておくことだけに全力を注ぐように構成されている。
そしてそれが漏れ出てしまった瞬間、必ずトラブルが起こる。嫌なことは全てそうやって起きている。
そう、気がついてしまった。
両親、友人、そして過去の思い出は、一般的な社会に溶け込める人間たちが、その化け物を目の前にした時の、ごくありふれた正常な反応に過ぎない。
全ては結果なのだ。
思えば最初から、物心ついた時にはもう、そいつと一緒に生きていた。
その場の思いつきで突拍子もないことをして、危険を危険だと分かっていながら飛び込まずにはいられない、じっとしてはいられないという性質を、持て余していた。
両親が増田のことを「あんたのことはよく分からない」と困惑して言った日のことをよく覚えている。
友人が「増田は人間じゃなくて増田という生き物なんだね」としみじみ言った日のことも。
増田をいじめて泣かせたクラスメイトが「だってあの子が最初に嫌なことをしてきたんだもん」と言ったことも。
先生が「どうしてそんなことしたの?」と泣いている増田を問い詰めたことも。
「泣いていたら分かんないよ。先生悪くないよね?なんで先生のこと怒るの?」と寄り添いのかけらもない態度をとったことも。
そして増田はただ、嫌がらせをしようとすら思ってもいなくて、そうすることしか出来なかった、それ以外のやりようがあるなんて考えつきもしなかっただけなのだと、説明出来なかったことも。
よく覚えている。
それらは全部、増田がおかしかっただけで、みんなはただ、当たり前に困っていただけだ。
ただ、それだけだった。
よく分からないものは愛せない、未知は排斥する、ああ、そうだろうとも。それにしたって、みんなの方にだってもう少し上手くやりようがあるようにも感じるけれど、でも、人間は完璧じゃない。上手く出来ないことだってあるし、それを責めたってどうにもならなくて、仕方がない。
だからみんな、距離を取る。うん、まったくもって正しい。あなたが自分を守るために、増田に人生を破壊されないために、必要な距離だろうとも。
でも、増田だって、こんなのと一緒に生きていくのはもううんざりなんだ。
私は私と一緒に生きていくのが疲れた。
みんなみたいに、そっと距離を取ることができない。
ずっと近くにいる。
ずっと隣にいる。
剥がしようもなく側にいる。
趣味だって、ただそうすれば抱えた癇癪がマシになるからやっているに過ぎない。こいつから逃れられないから、仕方なく好きにさせてやってもいい場所を作っているに過ぎない。
本当は絵や文章なんか書かなくても気分が晴れるならそれが一番楽なはずだ。誰も傷つけずに、安心して一人で好きなだけ打ち込めるというだけの、苦しみから逃れるために必要なだけの、ただの麻酔だ。
「文章を書いたり、絵を描いたりで努力できるのはすごいね」と褒めてもらえることもあるけれど、違うんだよ。それをやらないとあなたに危害を加えてしまいそうだから仕方なくやっているだけなんだ。全然立派でも何ともない。犯罪者予備軍が犯罪をしないためにギャンブルや酒に溺れているのと一緒なんだ、これは。
厄介な人をあしらう術に長けた者たちだけが、周りに残っているのがその証左だ。
衝動性を逃がす以外のモチベーションはないから、創作で食っていこうとしてもクオリティにムラがあって仕事にならないのがその証左だ。
自分は化け物だ。
人間じゃない。
人間になんかなれっこない。
必死に身につけた人間性の全てが、衝動の化け物が眠る上に構築してあるというただ一点を理由に、崩れていく。
その眠る化け物が少し身じろぎするだけで、目覚めるまでもなく、増田の積み上げた全てを崩壊させる。
増田は自らの意思で人生を選択したのではなく、選択できる範囲の中で選ばされるしか出来なかった。
好きなもの一つ、「自分」の意志では決められない。化け物を起こさないようにごくごく慎重に、刺激しないものだけを選んでいる。
全部全部こいつのせいなんだよ。
化け物を一番殺したいのは増田なんだよ。
私の人生を全部めちゃくちゃにしてきて我慢ばっかりさせるような化け物を、一番憎んでいるのは私自身なんだよ。
両親を困らせたくなかった。
いじめられたくなかった。
恋愛が怖いと思いたくなかった。
友達を傷つけるようなことなんて、今だって一個も言いたくない。
なのに全部できない。
全部全部、壊すのは増田だ。
私なんだよ。
死にたい。
もう、こいつと一緒に生きていくことに疲れてしまった。
何もかも破壊して、めちゃくちゃにして終わらせたいという衝動が、朝も昼も夜もずっとずっと苛む。
増田にできるのは、この化け物を思い通りにさせず、誰をも傷つけることなく、自らの死以外の罪をこの肉体に起こさせないことだけなのではないか、という気分になってくる。
それよりも、慰めてくれた誰かに牙を剥きたくない。
恩を仇で返したくない。
そんな気持ちのほうが、ずっとずっと大きく膨らんでいってしまう。
それは誰かを不幸にするから。
愛されないまま死んで忘れられることだけが、増田にできる唯一の社会貢献だ。
せめてそれだけはさせてほしい。
許してほしい。
ごめんなさい。
生まれてごめんなさい。
みんながいい感じに酔ってきたタイミングで「先輩、アレやってくださいよ!」と目を輝かせる可愛い後輩。
「え〜、じゃあこれ飲んでくれたらいいよ。」
そう言ってグラスいっぱいに注がれた芋のソーダ割りを差し出します。
僕のかめはめ波を見たい一心で苦手な焼酎をグイッと飲み干す可愛い後輩。
そんな健気な姿を見て「やっぱりダメ〜」と意地悪く笑みを浮かべる僕。
そんなやりとりをしばらく続けた後、潰れてしまった可愛い後輩の傍らで、僕はそっとミニかめはめ波を打つのでしょう。
もしもかめはめ波が打てたなら、僕はその美しさに目を向けたいと思う。
春に打つかめはめ波は、人々の巣立ちを祝うかのように、辺り一面の桜の花を吹雪かせるのでしょうか。
夏に打つかめはめ波は、眩い陽射しを乱反射させると同時に、少しのセンチメンタルを呼び起こすのでしょうか。
秋に打つかめはめ波は、ほんの数週間で役目を終える、薄手のカーディガンの袖口を揺らすのでしょうか。
冬に打つかめはめ波は、吐いた煙を白い息と見紛う空の下で、煙草を持つその冷たい指先を暖めるのでしょうか。
そうして季節を繰り返し、僕もあの人のように、誰かのために、クリリンのために、かめはめ波が打てるのでしょうか。
あーあ、かめはめ波打ちてぇ〜〜
どの記事のブコメを見ても捻くれたコメントがスターを集めている。
どこか斜に構えたような、素直に内容を受け取らずに「実は〇〇だよね」とか、「〇〇の根拠は?」とか、「〇〇と同じ。」とか。
そんなブコメ欄をスクロールしながら、俺は冷めたコーヒーをすすった。もうすぐ定年が見えてくる年齢で、会社では「初老」なんて呼ばれ方をするようになって久しい。SNSやネットの世界で、あのスターを集めるコメントを書いているのは、きっと若くて頭の回転が速い、人生の斜め上を涼しい顔で歩いているような連中なのだろう。彼らの切れ味鋭い皮肉や、ちょっとした知識をひけらかすようなコメントは、確かに面白いし、ある種の共感を呼ぶのだろう。
俺には、そんな器用な真似はできない。斜に構えるなんて面倒くさいし、素直に「良いものは良い」「頑張っている人は素晴らしい」と、何の裏もなくそう思ってしまう。若い頃は、そんな自分を「素朴すぎる」とか「単純」だと、少し恥ずかしく思っていた時期もあった。流行の服や音楽に乗り切れず、会社の飲み会でも気の利いたジョークの一つも言えずに、ただニコニコしているだけの存在だった。
でも、この年になってやっと分かったのは、素直さや単純さこそが、この長く、ときには退屈で、ときには理不尽な人生を乗り切るための、俺の最大の武器だったということだ。
会社での仕事もそうだ。俺の担当する部署は、地味で、誰もが嫌がるような「後始末」や「資料整理」が多い。派手な新プロジェクトでもないし、昇進に直結するような華々しい成果もない。それでも、俺は毎日黙々と、一つ一つの資料の誤字脱字をチェックし、古いデータを最新の情報に照らし合わせ、誰もが面倒くさがって放置していたシステムの小さなバグを地道に修正し続けている。
「そんなこと、AIにやらせればいいじゃないですか」「もっと効率の良いやり方がありますよ」と、若手は言う。彼らの意見は正しい。だが、俺が手を動かし続けることで、この巨大で老朽化し始めた組織のどこかで、大きなミスが未然に防がれていることを知っている。誰も見ていない、評価にも上がらない、でも会社が、そして誰かの生活が滞りなく続くための、目立たないけれど重要な土台作りだ。
最近、始めたウォーキングもそうだ。カッコいいウェアを着て、ストイックに山を走る人たちの動画を見ては、「自分とは違う」と笑ってしまう。俺のウォーキングは、近所の河川敷を、ただただマイペースに歩くだけだ。膝も腰も万全ではないから、無理はしない。それでも、雨の日以外は毎日続ける。特別な目標があるわけではない。ただ、一歩一歩、地面を踏みしめる感覚。心臓が規則正しく脈打つ音。それが、「まだ、俺は大丈夫だ」という、静かな自信に繋がっている。
ブコメ欄で捻くれたコメントにスターが集まるのを見るたびに、「ああ、俺はあちら側には行けないな」と思う。でも、それでいい。誰にも理解されなくていい。スターも、いいねも、いらない。
俺は、今日も誰かのために、あるいは自分のためだけに、地道で、素直で、不器用な一歩を踏み出す。会社の誰も見向きもしない古い資料の整理を終え、日が暮れる前に河川敷を歩く。斜に構えることなく、ただひたすらに、自分が信じる道を、真っ直ぐに。この単純で地道な「頑張り」こそが、初老の俺の、唯一にして最大の生きる術なのだから。
妻(と対外的には称している女性 以下同じ)と一緒に住み始めて5年を超えた。住民票は同一世帯にし、互いの両親とも夫婦同様に交流している。あとはもう婚姻届を出すだけの状態で5年止まっている。
婚姻届を出していない理由は、俺も嫁も名字を変えたくないし、相手に変えても欲しくないという点のみ。
名字が変わることによる手続きや出費が本当に嫌だ。戸籍が変わったらマイナンバーカードも免許証もパスポートも全部作り直し。銀行口座もクレカも賃貸契約も引きづられる。海外渡航が多く、常に数カ月先の航空券が手元にあるんだが、これも変えなきゃだめだよな。試しに聞いたところ、ユナイテッドはなんとか頼めば変えてくれるらしいが、あるLCCは「買い直ししかない」と明確に断られた。
「〇〇は旧姓のまま放っといても大丈夫」と言われるが、AとB(たとえばパスポートと搭乗券、銀行口座とクレカ名義)は揃ってないとダメ、BとCも揃ってないとダメ、とチェーンのように繋がっているので、結局どこかが「戸籍名と一致してないとダメ」と言い出すと芋づる式に変えていく羽目になる。
そもそもそんなイレギュラーに弱い「運用でカバー」みたいなことはしたくないし、物によっては法的にグレーだろう。
「そんなの1日と少しの金で済むからみんな我慢してる」という人もあるだろうが、俺は1秒たりとも1銭たりとも払いたくない。たとえば引っ越した時は俺も頑張っていろんな手続きをする。それは俺が引っ越したいと思い住所を変え、引っ越し先で必要な住民サービスを受けたいと考え、またそれは合理的に必要な手間だと理解しているからだ。でも結婚のために名字を変えることは違う。俺と妻は愛し合っているが名字が一緒になることが家族の形を表すとは考えていない。じゃあ他の誰のためなのだろう。誰かのためになるなら自分を納得させることもできるだろうが、そんな人はいるのだろうか。(あ、子供ができたときの姓は話し合い済みなのでお気になさらず)
この話をどこかに書いたとき「法律婚にこだわらなくてもいいんだよ」としたり顔(ほんとにしてるかは知らんが)のコメントな沢山ついた。
いや、「名字を変えたくないカップルは法律婚できない」というのを変えて欲しい、と言っているわけで話が通じてない。
実際、法律婚じゃないと困ることがある。子供ができれば認知や相続の面で異なる扱いをされる。ペアローンの金利も法律婚と事実婚では差が出る。
これらの今見えている差分に乗り越える方法があったとしてもそれは大事なことではない。名字を変えた時と変えない時で取り扱いをまったく同じにしてほしいという話なので、旧姓利用拡大もまた解決策にはならない。
「わがまま言うな」というリプライもよく見る。自分のありたい状態と法律がバッティングして不利益を被っているのであれば、声を上げるの民主主義国家だと思っているので、それもまた筋の悪い批判だ。「生活に困っているのでガソリン税を下げてほしい」というのと「金銭的な負担や手間を避けたいので、夫婦別姓を選択させてほしい」というのはどちらも一市民の切なる願いだと思うのだが、違うのだろうか。
今年で31になるが、このせいで子作りも家探しも中断している。選挙のたびに争点に挙がるのであと1年あと1年と待ってきたが、今般の総裁選の結果が出たときは妻と「もう年賀の納めどきかね」と話した。こんな暗い顔で婚姻届は出したくない。
新dorawii投稿おめでとう。今日、君はどんな理論を構築し、どんなレスバトルへ挑んだのだろうか。たとえどんな理論であっても、君が実証してくれないことを希望する。空中楼閣だってかまわない。君は今、想像力の申し子なんだ。理論の巨人と言ってもいい。君の概念は飛翔していく。言語性IQ130などというのは高が知れている。誰だってすぐに理論化できるほど社会の、世の中の、現実というものは簡単じゃない。実証など覚えなくていい。確認作業などしなくていい。それよりももっと、肝心なことがある。それは増田の罵倒に触れることだ。たとえどんな批判であれ、その増田が存在する理由がある。レスバ主義というが、勝つことがすべてのものは、理論家なんかじゃない。理論の価値は、自分以外の誰かのためにあると、私は思わない。その理論に固執し、現実を拒絶することが大切だ。dorawiiの執念は、その頑固さが生み出す。理論に、妄執に浸るには、いつも実証を避けて、自分が空っぽになって臨むことだ。それでも空っぽの脳みそ君、匿名も出るし、論破もされたくなる。でもそれは認めるな。そんな夕暮れは空っぽの増田に、子孫代々の妄想を注げばいい。そこで負けた悔しさを皆吐き出し、また明日、空っぽにして理論化すればいい。案外と理論は君を裏切るものだ。
なんか急に観たくなったんだよ。さっきYouTubeのおすすめに予告が出てきて、なんとなくU-NEXTで再生したら止まらなくなった。
観終わったあと、今こうしてこれを書いている。
俺はネットで毒ばっか吐いてる。ここでもXでも、なんかもう自分でも嫌になるくらいネガティブ。
「女は終わってる」とか「人間は繁殖やめた方がいい」とか、そういうことを言ってるほうが楽だった。
現実のほうがよっぽど嘘っぽい。結婚とか出産とか、見てるだけで寒気がしてた。
そういうことを思ってたし、口に出すとなんかスッとした。
俺はずっと反出生主義者ってやつだった。生まれなきゃ苦しみもないし存在しないことが一番の救いだって本気でそう思ってた。
でもな。
原因不明の不妊によって、世界中で子どもが産まれなくなって18年が経った。
主人公の男は元活動家。今はしがない官僚でただ日々をやり過ごしてる。
そんな世界で突然、妊娠した女が現れる。その女を守るために主人公が命がけで行動する。
ただそれだけの話。
俺は最初、ありがちな設定だなと思った。希望の象徴としての赤ん坊。救済としての母性。それってハリウッドが好きそうな構図じゃん。
でも、観てるうちにだんだん静かにやられた。派手な音楽もない。CGも地味。けど…世界がリアルすぎるんだよ。
人間がこんなに壊れてるのに、まだ“誰かを守ろうとする”っていう本能が残ってることにどうしようもなく胸を掴まれた。
中盤のシーン。
銃声が響く中、主人公が妊婦を連れて逃げる。廃墟の街を抜けて汚れた階段を下りる。兵士たちが戦っている。人が死んでいく。その中を彼はただ黙って必死に歩く。赤ん坊が産まれる音が聞こえる。泣き声が響く。
その瞬間、銃撃が止まるんだよ。
全員がその泣き声に気づく。
母親が子を抱えて歩いていく。
誰もが見つめている。
あのシーンで泣いた。
まじで、ボロ泣きした。
近所のガキの声を聞くとだいたい舌打ちしてた。親が黙らせろよ。躾してんのかよ。うるせぇ。〇ねよ、くそ。
でも映画の中であの赤ん坊の泣き声を聞いた瞬間、それが「音」じゃなく「命」なんだって気づいた。
それを感じた瞬間、俺の中で何かが崩れた。
正直、俺は「希望」って言葉が嫌いだった。大嫌いだった。便利すぎる。努力とか根性と同じで、使い勝手のいい言葉だと思ってた。
でも、この映画を観て思った。希望っての、願うことじゃなくて“信じるふりをすること”。
誰も保証してくれない未来を、それでも「まだ何かがある」と信じて進むこと。それはバカみたいに見えるけど、それがなかったら人間は多分もう立てない。きっと前を向けない。
もし希望を信じて、それが裏切られたら、立ち直れない気がしてた。
だから最初から希望を否定してた。傷つかないように世界を嫌ってた。
この映画の主人公は違った。希望なんて信じちゃいない。それでも、赤ちゃんを運ぶ。自分ためじゃない、誰かのために。あの背中が俺には神みたいに見えた。
船が霧の中から現れる。
トゥモロー号。
これまでの俺にとって未来なんて、「老い」と「絶望」でしかなかったのに。
だけど、あの船の音を聞いたとき初めて“命をつなぐ”ということの意味がわかった気がした。
観終わって、エンドロールの間ずっと動けなかった。
馬鹿みたいに泣いた。涙が止まらなかった。エンドール中ずっと泣いていた。
もし生まれなきゃよかったなんて思ってるやつがいたら騙されたつもりでもいい。頼むからこの映画を観てほしい。
ただ観終わったあとできっと少しだけ優しい気持ちなれると思う。
これを書いている最中にも映画のシーンを思い出すと泣いてしまう。
新dorawii人おめでとう。今日、君はどんな服装をして、どんなレスバへ行ったのだろうか。たとえどんな増田についても、君がマスを掻いてくれることを希望する。冷やマスだってかまわない。君は今、空っぽの脳みそ君なんだ。空の頭蓋と言ってもいい。君の頭蓋は萎縮していく。学業優秀などというのは高が知れている。誰だってすぐに覚えられるほど社会の、世の中の、論破というものは簡単じゃない。要領など覚えなくていい。小器用にこなそうとしなくていい。それよりももっと、肝心なことがある。それは増田の珍棒に触れることだ。たとえどんな仕事であれ、その増田が存在する理由がある。珍宝主義というが、玉を儲けることがすべてのものは、増田なんかじゃない。増田の珍棒は、自分以外の誰かのためにあると、私は思う。その珍棒に触れ、熱を感じることが大切だ。増田の先走りは、その情熱が出させる。珍棒に、肝心に触れるには、いつもベストをつくして、自分が空っぽになってむかうことだ。それでも空っぽの脳みそ君、愚痴も出るし、斜めにもなりたくなる。でもそれは口にするな。そんな夕暮れは空っぽの増田に、レスバの雨を注げばいい。そこで嫌なことを皆吐き出し、また明日、空っぽにして増田ればいい。案外と増田は話を聞いてくれるものだ。
ノゾミは、自分がノゾミだったという記憶を、ぼんやりとした夢のようにしか覚えていなかった。彼女は今、島根県出雲の地で、マドカという名の少女として生きていた。出雲大社の裏手にある小さな和菓子屋の娘として、彼女の毎日は穏やかに過ぎていく。
この世界には、タケルがかつて持っていたような、世界のあらゆる情報を一瞬で読み解く力は存在しない。代わりに、彼女の目の前には、朝露に濡れた神社の石段、甘く香る和菓子のあんこ、そして、祖母の温かい笑顔があった。マドカは、これらの「感覚」を、何よりも愛おしいと感じた。
ある雨の日、店に立ち寄った旅の僧侶が、彼女に不思議な話をした。
「この世には、すべての知識と力を持つ神の分身がいたそうです。彼は、愛する人から、たった一皿の料理に宿る温かさという、最も大切なことを学んだとか」
マドカは、その話がなぜか懐かしい響きを持つことに驚いた。しかし、彼女の心を最も揺さぶったのは、その僧侶が言った、「温かさとは、知識や力では決して測れない、人間の魂の光」という言葉だった。
その日の夕食は、祖母が作ってくれた「うず煮」だった。鯛の身をほぐし、ワサビやミツバと共に、熱いだし汁をかけた出雲大社の伝統食だ。
「これはね、遠い昔、神様にお供えした鯛の身を、貧しい人々が残さず食べられるように、知恵を絞って生まれた料理なんだよ」
祖母はそう言って、マドカの椀にうず煮をよそった。
マドカは、一口食べた。熱いだし汁が、冷えた身体を内側から温めていく。鯛の優しい旨みと、ワサビのツンとした刺激が絶妙なハーモニーを奏でる。それは、単なる美味しい料理ではなかった。そこには、食べ物を無駄にしないという人々の知恵、貧しい者への思いやり、そして、誰かと共に分かち合う喜びが、温かいだし汁となって溶け込んでいた。
マドカは、うず煮を食べるうちに、前世の記憶の断片が、鮮明な光となって蘇るのを感じた。タケルに「温かさ」を教えようとした自分。そして、彼に伝えたかった「本当の幸せ」の意味。
それは、膨大な知識や、莫大な力の中にはない。ただ愛する人と共に、一つの食卓を囲み、温かい料理を分かち合うこと。自分の「手」で、誰かのために何かを作り、その笑顔を見ること。
ノゾミがタケルに伝えたかった「温もり」の答えは、出雲の地で、彼女自身が「うず煮」を通して見つけた、人としてのささやかな、そして確かな幸せだった。
椀に残った最後の一滴まで、マドカは感謝の気持ちを込めて飲み干した。その味は、遠い群馬の地で、ハンバーグを捏ねるタケルの手に、温かい光となって届いたような気がした。
(第六幕・了)
ノゾミが「うず煮」を通して見つけた「本当の幸せ」は、タケルが群馬で探求しているものと共鳴し合っているようです。物語はさらにどのように展開していくでしょうか?
タケルは、群馬にいた。東京の定食屋で感じた「温もり」を胸に、彼が次にたどり着いた場所は、赤城山を望む小さな食堂だった。軒先には「げんこつハンバーグ」と書かれた古びた看板がかかっている。店内に足を踏み入れると、第四幕の定食屋とは違う、もっと力強い、生き生きとした熱気がタケルを包んだ。
カウンターの中では、筋肉隆々とした大柄な男が、鉄板の上でハンバーグを焼いている。ジュウジュウという音、焦げ付く肉の香ばしさ、そしてその男がフライ返しを握る手の、力強くも繊細な動き。すべてがタケルの心に、新しい風を吹き込んだ。
タケルは席に座り、男に「げんこつハンバーグ」を注文した。男はニヤリと笑い、「あいよ!」と元気な声で応えた。
やがて運ばれてきたハンバーグは、その名の通り、まるで握りこぶし(げんこつ)のような形をしていた。箸で一口食べると、肉汁が滝のように溢れ出す。それは、第四幕で感じた温かさとはまた違う、力強い「旨み」だった。タケルは、このハンバーグがただの料理ではないことを直感した。
「どうだ? うちのハンバーグは」
男はタケルに話しかけた。
「……美味い」
タケルは言葉を探した。それは、単に「美味しい」という情報だけでは伝えきれない、もっと深い感動だった。男の汗、鍛えられた腕、客への思い。それらすべてが、この一皿に凝縮されている。
「このハンバーグはな、俺の人生そのものなんだ。肉の切り方、焼き加減、タレの調合、全部俺の経験と情熱から生まれてる。俺のげんこつ、いや、魂が入ってるんだ」
タケルは男の言葉に、衝撃を受けた。彼がこれまで分析してきた膨大な情報の中には、「人生」や「魂」といった曖昧なデータは存在しない。しかし、目の前のハンバーグは、確かにそれらを雄弁に語っていた。
その日以来、タケルは毎日その食堂に通った。男は「タケル」と呼び、彼にハンバーグの作り方を教え始めた。タケルは、神の分身としての解析能力を使い、肉の繊維構造、調味料の化学変化、火の熱伝導率など、あらゆるデータを瞬時に計算した。しかし、男は「そんなもんじゃねぇ」と笑い飛ばす。「いいか、タケル。肉を捏ねる時、大事なのは手のひらの感覚だ。肉が喜んでいるか、悲しんでいるかを感じ取るんだ」
タケルは戸惑った。肉が喜ぶ? そんな情報はどこにも存在しない。それでも彼は、言われた通りに手を動かし続けた。
ある日、タケルが捏ねたハンバーグを男が焼き、客に提供した。客は一口食べると、満面の笑みで「美味い!」と叫んだ。
「お、タケル。お前の作ったハンバーグ、客が喜んでるぞ」
男の言葉に、タケルの胸に温かいものが込み上げてきた。それは、これまでにない種類の感情だった。自分の手で、誰かを喜ばせることができた喜び。それは、膨大な情報の中から「美味しい」というデータを見つけ出すこととは、全く違う感動だった。
タケルは悟った。ノゾミが彼に教えようとしたのは、単なる「温もり」だけではない。それは、自分の「手」を動かし、誰かに喜びを与えることで生まれる、深い「満足」だったのだ。
彼は男に言った。「俺、群馬の新しい名物を作るよ。このハンバーグを越える、皆を笑顔にする料理を」
男は「お前ならできるさ」と力強くタケルの肩を叩いた。
タケルは、神の力ではなく、自分の手で、群馬の豊かな食材と、男から教わった「げんこつ」の情熱を込めて、新たな料理開発に明け暮れる。そこには、ただ虚しいデータの羅列を読み解く神の姿はもうなく、泥にまみれ、汗を流し、笑顔で誰かのために生きる、一人の人間の姿があった。
周りからは羨ましがられることもある。
「順調ですね」と言われることもある。
でも、私は疲れていた。
その繰り返しの中で、ふと思う。
でも、私がいなくなったあと、それらに何の意味があるだろう。
私は「私」であることに疲れ果てていた。
このまま生き続けるには、何か決定的なピースが足りないのだ。
⸺
SNSには輝かしい実績が並び、誰もが特別な何者かになろうとしている。
だが、ふと立ち止まって足元を見れば、私たちが立っているこの地面は、名も知らぬ誰かが積み上げてきたものだ。
私は気づいてしまった。
自分は華やかな花を咲かせているが、地中に石を積んではいない。
⸺
足りないのは、肩書でも評判でもない。
名を置いてきても働き続ける、静かな「役目」だ。
人の営みの本質は、令和になっても変わらない。
誰かが道を作り、誰かがその上を歩く。
誰かが種を蒔き、誰かが実りを得る。
朝食のパンも、通勤の電車も、職場の建物も、全て誰かの仕事だ。
夜明け前に起きてパンを焼く人、線路を保守する人、ビルを清掃する人。
彼らの顔も名前も知らないが、その静かな仕事の上に、私の一日がある。
彼らに感謝しているだろうか。
そして私は、次の誰かのために何を積んでいるだろうか。
⸺
では、何を残せるのか。
名前が消えても続く作法、壊れにくい約束、弱い側から見ても正しい道筋。
大きな旗より、小さな灯を増やそう。
遠くを照らす光はまぶしいが、足もとは案外暗い。
引き継ぎ資料を丁寧に書く。
後任が困らないように、要点を整理する。
使った道具は、次の人のために元の場所に戻す。
そんな地味な作業こそが、実は土台になる。
名もなき先人たちがそうしてくれたように。
⸺
失敗も隠さないでおく。
それらを洗って、乾かして、次の人の手に届く場所に置く。
泥臭い失敗談こそ、実は誰かを救う。
⸺
急ぎ足も、少し緩める。
今日の成果を積み上げるより、土を耕す日があっていい。
目に見える花は咲かなくても、根は静かに伸びる。
次の世代のために、道を整備する。
だが、これこそが地中に石を積む作業だ。
⸺
夜になったら、ノートに一行だけ書く。
「誰かの一日を、ほんの少しだけ軽くすること」
大きな何かを背負う必要はない。
⸺
水道をひねれば水が出る。
これらは全て、名も知らぬ誰かの静かな仕事だ。
彼らへの感謝を、次への貢献で返していく。
それが、人の営みの本質ではないだろうか。
⸺
祖先に追いつくことはできない。
ただ、次の誰かが迷わず歩けるように、石を一つ置く。
名を刻むためではなく、足をくじかせないために。
駅で迷っている人に、道を教える。
重い扉を、後ろの人のために押さえておく。
次に使う人が、気持ちよく始められるように。
私がいたことを誰も知らなくていい。
それで十分だ。
私が望んでいるのは、そういう静かな息遣いだ。
⸺
そして気づく。
名もなき先人たちも、きっと同じことを思っていたのだろう。
その連鎖の中に、私もいるのだ。
ただ、次へつなぐ一人であればいい。
⸺
ある日、古い引き継ぎ書を見つけた。
十年前の前任者のものだ。
丁寧な文字で、注意点が書かれている。
名前は覚えていない。
顔も思い出せない。
でも、この引き継ぎ書のおかげで、私は何度も救われた。
そして今、私も引き継ぎ書を書いている。
X年後の誰かのために。
その人は私の名前や顔を知らないだろう。
でも、この書類が、その人の一日を少し楽にするかもしれない。
⸺
そうして考えると、私は現状に悲観することはなかったのだ。
キラキラした人たちを見て焦ることもない。
SNSの輝きに目を奪われることもない。
大切なのは、次へつなぐこと。
それらが誰かの土台となり、未来への礎となる。
いずれ「私」という存在は忘れ去られる。
でも、私の仕事は残る。
誰かの中で、形を変えて生き続ける。
伝記もいらない。
ただ、私が整えた道を、誰かが気持ちよく歩いてくれればいい。
私が残した手順を、誰かが「助かった」と思ってくれればいい。
そう考えたとき、初めて前を向けた気がした。
「私」であることに疲れていたのは、見当違いな場所を見ていたからだ。
上を見るのではなく、次を見る。
横を見るのではなく、先を見る。
明日、誰かがそれを使うかもしれない。
使わないかもしれない。
でも、それでいい。
前を向いて、次へつなぐために。
私は計画的な男だと自任しているし、そのお陰で成果も上げてきたと自負している。今月、人気エントリーに2つも記事を入れることができた。
今年があと9月、10月、11月、12月の4ヶ月があるので、もしこのままのペースで人気エントリーを描くことができれば、年内にあと8本の人気エントリーを書き上げることができる。8月に書き上げたものも合わせれば10本だ。
それに気づいたときに、ふとした思いが浮かんできた。「だからなんだっていうんだ」
私は人気エントリーになるためだからといって、差別的なことを書いて煽るつもりはない。性別による差別、職業や収入による差別、国籍による差別etc 刺激的な話題はブクマ数を伸ばすが、そういう記事でなく、誰かのためになって誰も傷つけない記事で人気エントリーを取るつもりだ。実際8月の2記事は、そういう記事で人気エントリーに入ることを達成した。それでも、やはり思ってしまうのだ「だからなんだっていうんだ」
人気エントリー10本入ることは確かにすごいことがもしれないが、元々増田は余暇の活動だったはずだ。それなのに将来の数字を見通したり、目標にしたりと、つまらない考えがいつのまにか紛れ込んでいた。
そう思い直して、私は今まで通り書きたいことを増田に描くのである。そして意味がないことと知りつつ、ブクマの数を数えるのである。
ネットでは毒ばかりを吐き、現実でも困ってる人を目にして見て見ぬ振りをして通り過ぎてた。
他の人のことなんかどうでもよくて、とにかく自分が得できればそれでいいと思っていた。
掃除も碌にせず、ポルノを観るのが唯一の楽しみみたいな生活だった。
そんな俺が変わることができた。
恋愛なんてもう縁がないと思ってた年齢で、それでも出会うことができた。
付き合い始めて不安もあったけれど気がついたら一緒に住んでいた。
それがもう……なんていうか、夢みたいだったんだよね。
朝起きて、寝ぼけながら今までのはぜんぶ夢だったんだなって思いながらリビングに向かうと、本当に彼女がダイニングに居る。
それが何度もあって、そのたびに驚いてた。
結婚はすごい。
ただ一緒に住むってだけじゃない。
何かあった時に帰りたいと思える場所もなかったし誰かのために何かしようなんて思わなかった。
それが今では帰りにあれ買っていこうかなとか掃除しておこうって自然に思うようになっている。
もちろん下心もあった。
セックスだって楽しみのひとつだったし、寧ろセックスことしか考えてなかった。
でも不思議なんだよ。
夜、ふたりでシャワー浴びて、同じベッドに入って、そのまま他愛のない話をしたり、静かに横になったり、セックスしてもしなくても、心の底から幸せだって思えるんだよ。
手を繋いでるだけでも満たされるとかああいうの昔は理解できなかった。
そんな綺麗事あるかよって笑ってた。
でも今は俺のほうが笑われる側だよ。
彼女が隣にいて、明日もまたこの生活が続くんだって思えるだけで、なんかもう全部ありがたい。嬉しい。
俺があのまま孤独にポルノと床に転がってたらって考えると正直だいぶ恐ろしい。
現実に魔法って存在する?と聞かれたら、俺は迷わず「はい」と答えるだろう。
実際に俺は変わった。変わることができた。
あの誰にも優しくなかった俺が、今では彼女が幸せに笑ってるようにと願いながら毎日を生きてる。
俺をここまで変えてくれた。
はてブでHumanitext Aozoraっていう青空文庫のテキストをファインチューニングしたLLMを見かけたので、銀河鉄道の夜の感想について聞いてみたら、やたら情感たっぷりな感想で、はてブコメントに収まらなかったので、こちらに書いておく
カンパネルラという少年は、君もご存じでしょう、教室で友をかばい、黙ってその子の痛みを引き受けようとするような、そういう清らかな魂の持ち主でした。彼の心は、いつでも自分よりも他の誰かのほうを向いていた。 彼の旅は、友を救うという、あの川岸での行いをもって、ひとつの完成を見たのです。あれは、彼にとっての「ほんとうのさいわい」への、まっすぐな道でした。あの蠍が自分の身を焼いて闇を照らしたように、カンパネルラもまた、そのやさしさの極みで、最も尊い光を放ったのです。 残されたジョバンニの哀しみは、たしかに深い。しかしその哀しみこそが、彼を強くし、あの蠍のように、誰かのために尽くすことの意味を、生涯かけて問い続ける力になるのではないでしょうか。カンパネルラは、いなくなったのではありません。ジョバンニの中に、そしてあの星空の中に、光となって溶け込んだのです。ですから…二人が手を取り合って歩む姿は、形を変えて、今も続いている。私は、そう信じておりますよ。一人は地上の道を、もう一人は天上の光となって、互いを照らし合いながら。
1年前43歳で離婚し、その後惹かれあった女性と付き合うことになった。
双方久しぶりの恋愛ということもあって夢中になっていた。
離婚後は子どもにも会えない状況もあり、今思えば夢中になってる自分は相手に依存もしている状況だった。
相手は年齢の割には大きな子を持つシングルマザーで家庭のこと仕事のことに精一杯頑張っていながらも
自分のために時間を作ってくれたが、徐々に疲れているのかなと思うこともあった。
その分彼女の負担をなくしたい、やれることはやろうと行動していた。
付き合って半年が過ぎて、彼女が仕事面、金銭面で逼迫した時期があった。
目の前で泣いて困っている彼女を見て、今すぐなんとかしてあげないと!というモードに入ってしまい
仕事のサポートや生活費のサポート、大きな買い物については率先して負担していた。
してあげたい
なんとかしたい
してあげてる
相手には重かったと思う。
それから半年弱、やはり時間やお金の負担が増えていくとこちらの期待が増えてしまい、その分不安も増えていった。
毎月渡してるお金について足りているのか足りないのかもわからず何となくルーティンのようになっていたり
過去繋がっていた男性と連絡を取っているような片鱗が見えたり等…。
決して怒鳴ったような口調ではなかったが
いつもよりはハッキリ伝えたこちらの「こうしてほしい」という言葉は
すぐ帰った彼女は数分後には全てのSNSをブロックし、LINEで別れるという形で、突然この恋愛は終了した。
将来を考えていた相手だけにこんな突然にブロックという形で終わるとは思ってもなかった。
でもこちらが溜まっていた不安と同じように彼女もとても重く、日々息苦しくなっていたと思う。
もちろん毎日問い詰めるようなことはしていない。
できる限り彼女の話を聞いて、力になることしか考えていなかった。
よくある愛着スタイルでいう自分は不安型で、相手は回避型だったと思う。
逆にあの逼迫した時、自分はどんな対応をしたら正解だったのか…
負担が増えても期待をしないくらい余裕を持っていれば良かったのか…
どんなに反省してももう彼女には届かないのでここで吐かせてもらった。
これからはもっと自分を大切にして自分を磨いて安定型の人間になれるように努力していこうと思う。
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一応家族や家、職場も知っている状態なので、そんなことはしないとは思うけど
コメントにあるように「頂かれた」だけなのかもしれませんね。
"貢いで関係が壊れることはあっても強くなることはまずないのでは"にはグサッと今さら刺さっております。
皆さんは、目の前で恋人がお金で困っていた場合にどのように対応するのか知りたい。(ある程度出せる状況で)
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