
はてなキーワード:説明とは
彼氏や夫が私とのセックスを求めてこない、いわゆるセックスレスになったら病むと思う。
だからこそ、彼氏や夫との関係性維持のために、求められたらセックスに応じることは、相手の心を守るためにも必要なことだと考えている。
そんな私だから、当然セックス要求を拒否することは、体調不良など明確な問題がなければしないし、明確な問題があって断るときは理由を説明し、その理由が解消されたらセックス要求に応じている。
そんな私だが、セックスは85%くらいの確率で痛くて、5%くらいの確率で痛くなくて、5%くらいの確率で多少気持ちよくて、5%くらいの確率でめちゃくちゃ気持ちいい。ちなみに彼氏はきちんと前戯をしてくれており、雑なセックスだから痛いとかではないと思う。
私は処女の頃からエッチなコンテンツが好きで、性に対する興味が旺盛だった。だからこそ、セックスそのものに「好き」という感情があるので、大半が痛いだけでもやっていける。
でも、もともとさほどセックスに興味ない女にとっては、あの痛みに毎回耐えるのは苦痛だろうなと思うし、拒否するのも無理ないよなと思う。セックス好きな私でさえ、挿入パートになると、痛いから早く射精してくれないとつらいよって気持ちになるし…。痛くなくてある程度気持ちよくなれる時も、それはそれで気持ちよくて疲れるから早く射精してくれないとつらいし…。女は男より平均的に虚弱だから、気持ちいいは気持ちいいで体がしんどかったりするのだ。ちなみにめっちゃ気持ちいいときだけは、頭がバカになってるので「もっとして!やめないで!」となるが、そこまで行けるほど気持ちよくなれる確率は5%くらいしかないので、ほとんどの挿入は(気持ちよくて体がしんどいを含めて)女にとってしんどい。
こんな状況だから、女が拒否したがるのも、良いことではないが、身体的負担を思うと無理はないよなあと思う。セックスという行為が女にとって0ならまだ彼のために頑張れる人ももう少し増えると思うが、痛い・しんどい・妊娠リスクなど、明らかにマイナスだからなあ。私自身も、セックスという行為そのものに好感を抱いてる人間でなかったら、耐えられていないと思うし…。毎回バカになるほど気持ちよくなれるとまではいわないが、せめて痛みがなければいいのになとは常々思ってる。
余談だが、痛みの原因は濡れづらいことだと推測してるし、彼氏も同じように考えてる。だからこそ膣内ローションを使いたく、以前何度かそれとなく提案してみたが「自分の力で濡らしたい、ローションに頼りたくない」と拒否される。まあ男のプライドというやつなのだろうと思い、それからは諦めているが、高確率で痛みを取り除けそうなアイテムがあるのに使わせてもらえず痛いのは残念ではある。
改めてズートピア1って良作だったんだな、と思い知らされたというか
2を見て1の面白さが良く分かる、という感じだった
1って「動物の社会が作られるとどうなるか」を丁寧に説明しつつ
人間社会の課題をそこに織り込んでいくっていう面白さがあったんだけど
2はそういう側面が無いというか、1でやってるからそりゃ2ではできなくて
じゃぁ別のことをやるかっていうとそうでもなかったから
つまんなくはないんだけど、期待が高すぎたっていうか、まぁこんなもんだよね、って感じかな
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle,FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictiveprocessing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulatecortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派受動的戦略(perception)能動的戦略(action)集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派多様性受容・矛盾統合制度改革・包摂拡大システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
彼氏は彼女と付き合う期間、彼女以外の女性とセックスする機会を全て捨てているんだから、彼女がセックスを提供するのが義理だと思う。
というのは理屈の部分で、実際のところを言うと、愛する人が「あなたが好きだから抱きたい」と自分を求めてくれるのを、拒み続けるなんて可哀想でできない。私は。
お互いに意見が食い違ったときに、歩み寄ろうとせずに、自分の意見を押し通そうとするのは幼稚だ。
彼にとってセックスが必要だと説明されたなら、自分にとって必要でなくても、お互いが納得できる妥協点を探さないといけない。
私はあまりセックスに乗り気になれない性格だけど、彼にとっては必要だと言う話をされたので、乗り気になるようにこういう誘い方をしてほしいみたいなお願いをしたり、自分側も乗り気になれるよう努力をしたり、頻度を決めたりしている。
もし貴方が、どうしてもセックスをしたくない・できなくて、それを譲れないなら、そう説明して納得してもらわないといけない。
もし相手が納得しなかったら、彼とは別れることになるかもしれない。それも仕方ない。
例えばどうしてもお金がない男性がいて、「本当に申し訳ないけどデート代はそちらが持ってほしい」と言われたとして、それに納得できなかったら別れるだろう。自分が求めるものを相手が提供してくれなくて、そこをどうしても妥協できないなら、別れるのは当然
それがセックスになると、「こんなことで別れるとかセックスでしか物事を考えられないのか」となる不思議…。
セックスはしたくないけど彼氏は欲しい、みたいなただの自分のわがままを、「女性にとってセックスは不快・不要!」と主語を大きくして、世間の認識の方を変えて押し通そうとする人に対して、私は正直怒ってる。いい迷惑だと思う。
20兆円程度の高市ガバガバ財政で早くも1ドル156-157円の円安になってますます物価高、単純計算したら石破のときより6%も円の価値が下がってるけど、れいわ新選組信者は息してるの
そもそも公共投資なんかしてもれいわ新選組の信者みたいな社会的弱者の末端に届くはずないのにね
・普段から他人に配慮されて生きてるから自分が優先されると勘違いしている
・道は譲られるものだと思ってる
・みんなが話を聞いてくれるから無視されると信じられないほど不機嫌になる
僕は、世の中のほとんどのことと同じように、この問題についても特に強い意見を持っていなかった。
それは、僕がそもそも強い意見というものを持つ才能に恵まれていないからだ。
雲を見ても、その形についてあれこれ考えることはない。
雨が降っても、それが自分たちの関係にどのような影響を与えるのかについて、深く考えることもない。
僕はいつも、世界の側面的な住人で、本来あるべき場所からは少しズレたところにいるのだ。
彼女はそれが嫌いらしい。
その言い方は、別に怒っているわけではなく、むしろ困惑しているような、腑に落ちないことがあるときの人特有の口調だった。
「何も考えていないなんて、それだけでも問題なのに」
僕たちの関係は、おおよそ三年続いていた。
三年というのは、人間の関係性において、ちょうど日常性がしっかりと根付く時間のように思える。
二年目は、その知識を自分たちの共通の基盤として使うことに費やされた。
そして三年目は、その基盤の上に、少しずつ、重力が働き始める時期だった。
重力というのは、退屈さのことかもしれない。
あるいは、責任感のことかもしれない。
どちらにせよ、何かが沈み始める感覚がある。
僕は一人、アパートにいた。
テレビをつけたり、消したりしながら、特に何をするでもなく時間を潰していた。
多くの男性がそうであるように、僕もまた、そうした場所の存在を知っていた。
僕は、スマートフォンを手に取った。
昼間、仕事で嫌なことがあったわけでもない。
ただ、そういう気分になったのだ。
それは、突然、冷たい水が飲みたくなるような、特に理由のない欲求だった。
僕たちの体は、時々、理由なく何かを求める。
その求めに応じることは、自然なことのように思える。
それから三十分ほど経ったのだろうか。
スマートフォンを置いた。
「何してた?」と彼女は聞いた。
それは、嘘ではなかった。テレビはついていたのだ。ただ、それが全部ではなかったというだけで。
その夜、僕がシャワーを浴びている間に、何かが起こった。
詳しいことはわからない。ただ、何らかの痕跡が残されていて、それが彼女の目に入ったのだ。
その視線には、怒りよりも、むしろ一種の悲しみが含まれていた。
その問いは、僕を困らせた。浮気という言葉が、それほどまでに的外れに思えたからだ。
「違う」と僕は言った。「それは浮気じゃない」
「何が違うの?」と彼女は聞いた。「何か別の人のことを見てるじゃない」
浮気という行為は、二人の人間の関係に関わるものではないだろうか。
しかし、僕が見ていたのは、実在する人間ではなく、スクリーンの向こうの、一種の虚構のような存在だった。
「それは、浮気ではなく、単なる...」と僕は言葉を探した。「気分転換みたいなものだ。歯磨きみたいな」
「歯磨きみたいな?」と彼女は眉をひそめた。「あなた、本気で言ってるの?」
僕は、本気で言っていたのか、そうでなかったのか、その時点では判断がつかなかった。
それは、表面的な冷えではなく、一種の根本的な誤解が、二人の間に横たわっているような冷え込み方だった。
僕たちは会話をしなかったわけではない。
むしろ、いくつかの複雑な会話もした。
僕たちは、同じ言葉を使いながら、全く別の世界について話しているようだった。
「愛情というのは、独占的なものじゃないの?」と彼女は言った。
「独占?」と僕は聞き返した。
「私があなただけを見て、あなただけを考えているのに、あなたは別の誰かを、画面の中だけにせよ、見ているということ」
その説明は、完全に間違っていないような気がしたが、同時に、完全に正しくもないような気がした。
愛情が、本当に独占的であるべきなのか、僕には確信がなかった。
そして、スクリーン上の虚構と、現実の人間を、果たして同じレベルで考えるべきなのか、それについても疑問があった。
なぜなら、そもそも僕たちが論じるべきなのは、論理的な正しさではなく、感情のレベルでの傷つきなのかもしれないと、漠然と感じていたからだ。
一週間後、彼女は少しだけ、僕に目を向けるようになった。完全に和解したわけではなかった。
むしろ、何かが変わってしまったような、そういう感覚が残っていた。
「ねえ」と彼女はある晩、言った。「あなたは、私のことが好きなの?」
「好きだ」と僕は答えた。
「本当に?」
「本当だ」
その会話は、ここで終わった。
僕たちはそれ以上、何も言わなかった。テレビがついていて、その中で登場人物たちが、何か重要なセリフを話していたかもしれない。
しかし、僕たちの耳には、それは入ってこなかった。
その夜、僕たちは一緒に寝た。ただし、何かが変わってしまったような感覚は、完全には消えなかった。
それは、一本の亀裂のようなもので、一度入った亀裂は、どれほど表面的に修復されたとしても、その下にはずっと残り続けるのだ。
世界というのは、時々、そうした亀裂に満ちている。
その亀裂を完全に修復することはできない。
僕たちにできるのは、その亀裂と一緒に生きることだけだ。
金曜夜の仕事帰りにレンタル屋に寄ってさ、そのとき見かけたんだよ。
赤ひげ。
いやいや長すぎwていうか昔の人って暇だったから観れた映画なんじゃないの?(笑)
なんて思いながらも、なんとなく借りてみた。
で帰宅してから「飽きたらそこまでいいや」ぐらいの感覚で、見始めたんだ。
最初は、若い医師である登が長崎から江戸に出てきて、小石川養生所という、いわば貧しい人のための施療院に配属されるところから始まる。
登はエリート意識が抜けきらない。
自分はもっと大きな仕事ができる人間だと思っているし、この場所にも、そこで働く人々にも、どこか距離を置いている。
そこにいるのが、赤ひげこと新出去定。
口数は少なく、ザンギにも見た目ちょっと似てて、それで無言なもんだから威圧感が凄い。
でも赤ひげは患者や人々の人生を一人ひとり背負うように生きていることが少しずつ、画面の端から滲み出てくる。
感動させようとする演出もない。
赤ひげは善を語らない。
その代わりに行動と、その大きな後ろ姿だけを見せ続ける。
印象的なのは、中盤で描かれるおとよという少女のエピソードだ。
おとよは売春の強要を拒否して虐待され、それによって心を閉ざし、誰に触れられることを拒んでいた。
登は医師として彼女に向き合おうとするが、最初はうまくいかない。
おとよの荒んだ心を治そうと登が懸命に治療しようとしても全てを拒む。
それでも登はめげない。
そんな態度をとってしまうほどに心を閉ざしてしまったのだと嘆き悲しみ、怒ることもなく、おとよの治療を続ける。
その場面に言葉はない。
ぎこちない手つきで、おとよが登の看病をする。
雨の日も風の日も、雑巾をぎゅっと手で絞って、登の頭に乗せる
次第に外は明るく晴れ上がり、おとよの表情に少しずつ変化が生まれる。
それ観たら……あれ?となった。
優しさを知らなかった少女が、優しさを知り、その優しさを返す。
おとよが言葉もなく少し照れるように微笑むその顔が、すべてを物語っていた。
それを目にした時、涙が止まらなかった。
ほんとうに涙が止まらなかった。
善悪を断じることもしない。
ただ起きていることを、そのまま映す。
その静けさが、胸に深く刺さる。
人はどれほど追い詰められても、ぎりぎりのところで気高さを失わない瞬間がある。
その姿は痛々しくて、だが美しい。
ただ、そこに置く。
現代の映画は、この時代の映画とは比べ物にならないほど迫力がある。
昔の映画は、そういったことができないからクオリティが低いものだと勝手に思い込んでいた。
名作といっても所詮は古い映画…等と侮っていた自分が馬鹿だった。
赤ひげは、昨今のアニメ映画にあるようなド派手で大きな戦闘シーンはない。
だがその分、観客の心が大きく動く。
映画の方が大きく動くんじゃない。観ている者の心を大きく動かしてくる。
それが映画の本質なんじゃないかということを、私はこの赤ひげを観て思い出すことが出来た。
3時間?長くない。
そんなことは、どうでもよくなる。
人の優しさ。気高さ。
暇空茜・Colaboに関する問題でColaboの領収書が黒塗りであり違法だと暇空茜側は主張しています この問題について法的・会計的に幅広い視点をください
以下、「領収書の黒塗り=違法」という主張を法的・会計的に切り分けて考えるための整理です(特定の当事者の正否を断定せず、一般論+公開情報ベースで書きます)。
「黒塗り」が問題になるかは、どこに出した領収書なのかで結論が変わります。
法人は、取引を記録する帳簿と、取引に関して受領・作成した書類(領収書等)を原則7年間保存する義務があります(一定の場合は10年)。
ここでのポイントは:
もし原本自体を黒塗りしてしまい、相手先・内容・日付など検証に必要な情報が失われると、
税務調査・監査で「証拠として弱い」扱いになり、経費性が否認されるリスクが上がります(違法というより“否認・修正”のリスク)。
加えて、2023年10月からのインボイス制度では、仕入税額控除のために適格請求書等の保存が原則必要で、証憑管理の重要性は増しています。
行政事業では、契約書・仕様書・交付要綱で「証拠書類の提示」「原本確認」などが定められ、見せないと経費として認めない、という運用が典型です。
実際に東京都の若年被害女性等支援事業をめぐっては、報道ベースですが、都が原本提示を求めたところ一部提示がされず、その分を**事業経費として認めない(約192万円)**とし、改善指示を出した一方で、委託料の過払いはないとして返還請求はしないとされています。
ここから読み取れるのは、「黒塗りだから即違法」よりも、提示・立証の不足は“経費から落とす”形で処理されやすい、ということです。
重要:もし「原本はあるが、第三者向け公開用の写しだけ黒塗り」なら、Bの要求(行政への原本提示)とは別問題です。
逆に「行政にも黒塗り写ししか出さない/原本提示を拒む」なら、Bでは不利になりやすい。
行政が情報公開で文書を出すとき、**個人情報や権利利益を害するおそれがある情報は不開示(黒塗り)**にする、というのが基本構造です。
女性支援・DV・性暴力等の領域は、支援対象者の安全や住所・立ち寄り先が推測されるだけで危険が生じ得るので、個人特定や行動推知につながる部分のマスキングは合理性が高い場面があります。
また、NPO等に関して「全部の領収書を一般公開せよ」という形の制度は通常なく、少なくともNPO制度のQ&A上は、閲覧対象は事業報告書等・役員名簿・定款等が中心です(領収書そのものが当然に閲覧対象だとは書かれていません)。
※Colaboがどの法人類型か(一般社団/NPO等)で細部は変わりますが、「領収書の全面公開が原則」という設計ではない点は押さえどころです。
裁判では、営業秘密・プライバシー・安全配慮の観点から、一部マスキングで提出すること自体はあり得ます。
ただし相手方が争えば、
という、「どこまで見せるか」の手続的争いになりがちです。
なので、ここも「黒塗り=即違法」ではなく、立証と保護のバランスの問題として現れます。
黒塗りがあっても、これらが“他の証拠で”固められるなら不正リスクは下がります。逆に、領収書しかなく、その領収書も情報が欠けるなら説明困難になります。
黒塗り“そのもの”というより、次のどれに当たるかが本丸です。
もしあなたが第三者として「黒塗りは妥当か」を見たいなら、最低限ここを分けて確認すると議論がクリアになります。
3 黒塗り箇所は「個人特定・安全リスク」なのか、「取引先・目的・数量」など検証に不可欠な情報なのか
4領収書以外(銀行明細、稟議、活動記録、ケース記録の匿名化統計など)でクロスチェックできるか
5事業が委託/補助なら、仕様書・要綱の証憑要件に照らし不備はどの程度か
必要なら、あなたが想定している「黒塗り領収書」が B(行政に出したもの)なのか/C(外部公開用)なのか/D(裁判用)なのかを前提にして、典型的に争点になる条項(仕様書・要綱・証拠ルール)を置いた上で、もう一段具体的な論点整理(どこが強くて、どこが弱いか)まで落とし込みます。
「セックスは女にとって、恋人相手だとしてもただ苦痛なだけだ!」なんて記事を最近よく見るけど、セックス好きな女性なんてたくさんみてきた。
こっちはその気がなくて、手持ち無沙汰だから適当に胸揉んだり乳首つまんだりしてたら勝手に興奮してくる。
Hした過ぎて、裸の四つん這いで求めてくる女性なんてのもいた。
知ってる?女性って興奮しすぎると、あそこの穴が開くんだ。
指2本くらい入れても隙間ができるくらいに。
冷めた声で、どうなってるか説明してあげると、羞恥心でいっぱいなのに、余計に興奮して求めてくる。
正常位だと愛液が出過ぎて、お尻の穴までぐちゃぐちゃになったりもする。
ひょっとしたら、そういう興奮するシチュエーションや辱め、羞恥的なことを他人に見せられないから、興奮もできない、Hが好きじゃない女性がいるのかな?
そんなパートナーが見つかったら性の楽しみはより高い段階にいくのかも。
新卒で入った会社に目標がなくて、どうしたらいいかわからない。
部→今期の目標とか、なにもない。
KPIはない。事業計画はない。今期目標もない。数字を出したり功績を出した人間が褒められるとかもない。
恐ろしいことに、それで会社の数字は全く問題がないらしいことだ。
うちの部署は特にそれが顕著で、部署会議なんかも一度もやったことがない。
というか、マニュアルもなければOJT制度もない。先輩によっては仕事に引き継ぎ書を作ってくれる人もいるが、
基本的に口頭で一度説明して終わり。(質問があればいつでも答えてくれるけど)
みんな、なぜか働いていて、なぜか数字を伸ばし続けている。
うっすらと、あの人は仕事してる、あの人はしてないくらいの周囲の評価くらいはある気がするが…。
先日、ちょっと機会があって役員にこの会社、どこに向かってるんですか?と聞いたら
知らない、とのことだった。社員が今何をやっているのかもよくわかってない、と。
「あんまり利益出されると税金が高くなるからもっと経費使ってくれ」とまで言われた。
部署で一番成績を出している人は「目標なんてない。やることやってるだけ」と言いながら自分で仕事を取ってきている。
若手頭みたいな人は、「働きたいと思ったことがない。こんな会社潰れたらいい」と言いながら、やはり自分で仕事を取ってきて、こなしている。
部長も「特に目標はない。困ったことがあれば言え」と断言していて、本当によくわからない。
それで、みんな何故か案件を増やし、働いている。成績は上がり続けている。
いや、いいんだけど、いいんだけれども。ノルマをこなすのにヒイヒイ、というのも嫌なのだけれど。
みなさん、どう思いますか?
界隈でそれなりに長く推してると、
「古参」「顔覚えられてる」「認知」みたいな言葉に一喜一憂しなくなるタイミングが来る。
認知とかじゃなくて、
誰にでも優しいし、誰にでも冗談を言う。
だから新規も同担も「自分は特別かも」と思いやすいタイプだと思う。
でも、
「それ今言わなくていい」
こういう言葉は、全員に投げてない。
私はオタクとして列に並んでるけど、
説明しなくていい、
気を遣わなくていい、
取り繕わなくていい。
それって、
ファンサをもらってる時よりずっと重い。
むしろ一番雑。
一番短い。
一番テンプレじゃない。
でもその雑さは、
「安心して雑にできる」雑さだ。
空気が荒れてる日、
そういう日に、
私は「盛り上げ役」にも「癒し役」にもならない。
ただそこにいて、
変なことを言わない。
推しはそれを知ってる。
だからたまに、
昔の話。
誰にも話してないはずの愚痴。
「そういえばさ」と前置きもなく始まるやつ。
その瞬間、
ああ、私は観客じゃないんだなと思う。
でもこのポジション、
同担が一番欲しがるやつだとも思う。
でも信頼は平等じゃない。
私はそれを取りに行って、
今ここにいる。
同担が「なんであの人?」って思う側。
たぶん、私。
まずcolaboがやってたこの事業は本来東京都がやるべきものだったんですよね
それをcolaboに委託してた
つまり本来その事業をやるべき主体である東京都はcolaboと同程度の個人情報を取得していて当然なんですよ
とりあえずパッと思いついたのは増田がオナニー見せるなり彼女に手や口でしてもらうとか?
彼女は挿入がないのではなく、私でチンコが勃つのか?が不安なんだろう。女として見られない云々の悲しさはわかる。
伊藤詩織って人、いつの間にか連帯してた側から距離置かれてない?
当時は擁護一辺倒だったよな。
最近は「印象が変わった」とか「突き放されても仕方ない」とか、
結局さ、本人が変わったんじゃなくて、
擁護する側の「居心地」が悪くなっただけなんじゃないの。
穴が使う「そんな女たちとしか関われないんだ可哀想」理論(一体この理論は、穴のどこから湧き出ているのだろうか)。穴の知能の低さに由来するのは明らかだが、匿名サービスでは証明できない(労力に見合わない)。率直に言うと、私は底辺とは言い難い(証明する気もない)。しかし百歩譲って底辺だとして、言説の正しさには何の影響もない。言説の正しさを「底辺」かどうか(要するに身分)で決めようと言うのだから女流論理学恐れ入る。穴と呼ばれる所以はここだろう。
受験や社会では、競争が激化するほど、男性比率は高まる。競争が激しい場では、頭のキレる女は増える。しかし人格とは何の相関もない。人間性は十人十色。知能は人格を担保しない。逆説的に、高知能かつ人格のバランスがいい人材は貴重。
私の周囲の女は、よくできた人が多い。しかし「私個人の環境と、私の哲学が独立しうる」ことを穴(≠女)は理解できない。穴は穴らしく、顔を削り、軟部を摩耗させ、爪に拘泥し、表層的な世相に流され、穴をひくつかせて、もたもた歩いていればよい。ネットでの討論は(貴穴の知能では、的を得た結論を得るのは)むつかしいと思う。
はてな界隈でたまに「上級国民」とか「地主」って単語がネタで飛び交うけど、たぶん自分はそのどれよりもしょぼい。
高祖父だかそのまた上だかが、維新のころに爵位をもらっている。
今どき華族と言ってもピンとこないだろうけど、簡単に言うと「歴史があるだけで、金がない家系」だ。
うちの家にあるものを並べると、だいたいこんな感じ。
そして、どれとも釣り合っていない、安物のこたつと量販店のテレビ。
親戚が集まると、年寄りたちは「この壺は昔は……」「この家もねえ……」と過去の話ばかりする。
ただ、固定資産税の話になると、一気に声が小さくなる。
没落って、こういうことを言うんだなと思う。
フルネームはさすがに書けないが、いかにも「旧華族の末裔です」と言いたげな名字をしている。
初対面で名字を名乗ると、だいたい二種類の反応が返ってくる。
1. 「あれ? どこかで聞いたことあるような……」と首をかしげる人
2. 「すごい名字ですね!」と、すごいのかどうか自分でもよく分からない感想をくれる人
たまに、歴史オタクっぽい人が「もしかして、昔の○○伯爵家と関係あったりします?」と聞いてくる。
否定すると嘘になるので、「まあ、そんな感じです」と曖昧に笑う。
そこから先の会話は、だいたい盛り上がらない。
現代における伯爵家の末裔なんて、インターネット回線を引いた一般庶民だからだ。
「貴族っぽいこと」を期待される場面はたまにある。
親からは、「せめて姿勢だけは良くしなさい」と小さい頃から言われてきた。
姿勢を良くしたところで、奨学金の返済が免除されるわけでもないのに。
没落貴族にも、一応それなりの悩みがある。
- 古い家を解体すると、親戚筋から「ご先祖様に申し訳ない」と言われそう
- かといって、このまま持ち続けると、固定資産税と修繕費で確実に詰む
- こっちは、「キラキラじゃない、でも読める名前」にしたいだけ
- 山の中にある先祖代々の墓をどうするかで親が揉めている
庶民的な悩みと、どうでもいい由緒の板挟みだ。
その瞬間、全員のテンションが目に見えて下がる。
「この家、次の代でどうするんだ?」
本音を言うと、「ガチ貴族の末裔です」と自己紹介しても、人生の何の役にも立たない。
就活のときにちょっとバクチで話してみたが、面接官の反応は「へぇ〜」で終わった。
それでも、家系図と古い写真と、やたら重い家訓みたいなものだけは残っている。
「常に誇り高くあれ」とか、「家名を汚すな」とか。
誇り高くあれと言われても、リモート会議でカメラオフにしてユニクロのスウェットで座っている。
家名を汚すなと言われても、SNSには普通に愚痴を書いている。
それでも、どこかで「まあこんなもんだろ」と諦めて笑える感じだけは、貴族っぽいのかもしれない。
なにもかも右肩上がりではない歴史を、家ごとまるっと抱えているという意味で。
たぶん、この増田を読んでいる人のほとんどは、「ガチ貴族」なんて言葉とは無縁だろう。
でも、代わりに「実家が自営業」とか「よく分からない家業」とか、「なんとなく守らされているもの」がある人もいるはずだ。
を迷っている感じは、階級とか由緒とか関係なく、だいたい同じだと思う。
こちらはただの「よろしくガチ貴族」だが、没落ルートを先に歩いている先輩として、一つだけ言えることがある。
でも、どちらか一つしか持てないわけでもないから、ときどき古い写真を見て笑ってやればいい。