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はてなキーワード:誤謬とは

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2025-10-27

anond:20251027174304

「悩みが何にもないこと」を理想だと考えているのが誤謬だ。 

 

悩めていること(解決可能問題であること)が、既に理想形だ。

下層には、悩みとかじゃなくて、絶望無為がある。

Permalink |記事への反応(1) | 17:59

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2025-10-22

anond:20251021175424

自分はそこそこ賢いと思い込んでるおバカちゃん達の歯切れの悪い言い訳が笑えるんだが、

「やるとしても今じゃない」「他にもっと優先すべき事がある」っていう詭弁には何かズバリ名前はないのかな?

これがなんで詭弁なのかと言うと、

だよ。


以下追記

───────────────

ある提案に対して、「やるとしても今じゃなくてもいいだろう」「他にもっと優先度の高いことがあるはずだ」などと言って、内容について直接の批判はせずにネグレクトすることで実質的否定しようとする詭弁に、何か通りの良い呼び名はあるだろうか?

───────────────

このような論法は、論理的誤謬(fallacy)の一種として「相対的剥奪誤謬」(fallacy of relative privation)と呼ばれるものが最も近いと考えられます

これは、提案議論を直接批判せずに「もっと重要問題(または優先度の高いこと)があるから」という理由実質的無視したり却下したりするもので、「より悪い問題への訴え」(appeal to worse problems)や「notas badas」(それほど悪くない)誤謬とも呼ばれます

あなたの例の「他にもっと優先度の高いことがあるはずだ」がこれに該当し、内容の本質を避けつつ相対的矮小化する点が特徴です。

一方、「やるとしても今じゃなくてもいいだろう」というタイミング理由にしたものは、厳密には上記と重なる部分もありますが、話題を逸らす回避策として「燻製ニシンの虚偽」(red herring)にも似ています

これは、議論の本筋から無関係な要素(ここではタイミングや延期の可能性)を持ち込んで注意をそらすものです。

どちらも直接的な否定を避け、ネグレクト無視)を通じて実質的提案を弱体化させる点で共通しています。これらの呼び名論理学議論術の文脈でよく使われ、通りの良い表現として適していると思います

Permalink |記事への反応(0) | 10:27

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2025-10-21

また女がミラーリングミスってるけどさ

https://anond.hatelabo.jp/20251020225506

 

結婚マッチングによって階級上昇出来る」と言う認知を持って常にそれにより駆動してるのは女であって、男は配偶者階級が上がるというイメージは持ってない。これはどんなクズみたいな男でも持ってないのでまさに性差なんだと思う。   

 

そのことの良い悪いとかはど~~~でもいいんだけど、女は頼むからもうちょっと他者の行動をフラットに観察できるようになってくれ。

 

女の感情欲望をそのまま反転して男を説明できるわけがないじゃん。何故かって体が違う、生殖形態も違う、動物役割も違うからだよ。そこを踏まえずに単純反転で想像するのは全て無意味。 

  

男がより若い女を求めるのはまた別の都合や欲望によるのであって、階級上昇願望ではない。配偶者を持ち物のように同性への自慢や威嚇に使うのは圧倒的に女性に多い習性。どっちの欲望が正しいとか高尚だとか言うんじゃなくただ別物。

 

なんか「私男のことわかってます!」みたいな女に限って単純反転の誤謬を見せてることが多い。婚活で沼ってるタイプにもそれは多い。

 

男女の違いを考慮にいれて狡猾にやってる女もたくさんいるけど、そういう女は男に関して上手くやれるから男女論の哲学者にならない。



 

Permalink |記事への反応(2) | 08:42

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2025-10-16

AIアート】なぜなぜ分析が「論理的に」失敗する構造について

序論:思考正当性、その根源的な問題

議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。

この問いを突き詰めると、思考歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパトリレンマ」だ。すなわち、無限後退根拠根拠無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。

この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのであるしかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性保証する、唯一のアンカー存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。

ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である

第一に、「基本命題」の集合。

第二に、「推論規則」の集合。

第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能である

このフレームワークこそが、我々の思考妥当性を測る、唯一の物差しとなる。

第一章:現場論理学――あらゆる組織に内在する思考OS

さて、序論で確立たこフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決意思決定継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場意思決定は、無限後退循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的機能し、存続しうるだろうか?答えは否である

したがって、ある現場が「機能している」という事実のものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。

まず 「基本命題群」 。これは、現場機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場歴史、すなわち過去成功と失敗という「現実モデルから導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。

次に「推論規則群」。これは、基本命から日々の行動を導き出すための、思考操作パターンだ。有限のリソース無限問題対処するために、この規則効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考ショートカットヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄非生産的犯人探しという思考ループから脱出するために獲得した、最も重要論理安全装置なのである

現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在否定することは、自らの職場合理的意思決定能力を欠いた、無秩序集合体であると認めることと同義である

第二章:外部アプリ導入が引き起こす、論理コンフリクト

この、それぞれの現場で固有に発達したOS現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステム有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。

「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊OSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルール機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。

我々のような、全く異なる歴史構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来ルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身ルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。

これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ

結語:あるいは、無限回廊の出口

ここまでが、論理的に導出される客観的分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイング模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである

君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から自分たちスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻から脱出方法を考えているに等しい。

君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システム免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。

せいぜい、幸運を祈るよ。

Permalink |記事への反応(0) | 15:56

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AIアート】なぜなぜ分析が「論理的に」失敗する構造について

序論:思考正当性、その根源的な問題

議論を始める前に、まず我々が思考する上で避けては通れない、ある根本問題について合意形成必要だ。それは「ある主張の正しさは、究極的に何によって保証されるのか?」という問いである。我々の素朴な論理観は、しばしば「AだからB、BだからC」という直線的な因果連鎖に頼りがちだが、この思考モデルは根源的な問いの前には無力である。「では、最初のAの正しさは、何が保証するのか?」と。

この問いを突き詰めると、思考歴史的に知られている三つの袋小路に行き着く。「アグリッパトリレンマ」だ。すなわち、無限後退根拠根拠無限に遡り、結論に至らない)、循環論法(主張の根拠が、巡り巡って主張自身に戻ってくる)、そして独断理由なく「正しい」と宣言し、思考を停止する)である。我々の日常的な議論は、この三つの欠陥の間を無自覚に行き来しているに過ぎない。

この知性の袋小路から脱出する道は、ただ一つしかない。第三の選択肢である独断」を、無自覚な逃避ではなく、自覚的選択として引き受けることだ。つまり、「我々は、この『基本命題』を、全ての思考の出発点としてここに設置する」と、その体系の冒頭で宣言するのであるしかし、この「基本命題」が単なる願望や思い込みであってはならない。その正当性保証する、唯一のアンカー存在する。それが、「現実」という外部性との「接続」だ。

ある実用的な論理体系が健全であるための絶対条件は、その基本命題が、現実という名のモデルによって、常に検証可能であることだ。現実との接続が失われた命題は、即座に修正・破棄されねばならない。結論として、我々が現実に対して有効思考を組み立てようとするなら、それは必然的に以下の三つの構成要素を持たねばならない。これは選択肢ではなく、論理的な必然である

第一に、「基本命題」の集合。

第二に、「推論規則」の集合。

第三に、そしてこれが最も重要なのだが、「現実」というモデルとの検証可能である

このフレームワークこそが、我々の思考妥当性を測る、唯一の物差しとなる。

第一章:現場論理学――あらゆる組織に内在する思考OS

さて、序論で確立たこフレームワークを、我々の「現場」へと適用しよう。「現場」とは、日々刻々と変化する現実の中で、問題解決意思決定継続的に行っている、実用的なシステムに他ならない。ここで、序論の結論が決定的な意味を持つ。現実に対して有効機能するシステムは、必然的に、実用論理体系を内包していなければならない。 もし、ある現場がこの論理体系を持たないと仮定すれば、その現場意思決定は、無限後退循環論法、あるいは根拠なき独断のいずれかに支配されていることになる。そのような組織が、継続的機能し、存続しうるだろうか?答えは否である

したがって、ある現場が「機能している」という事実のものが、その内部に固有の実用論理体系が存在することの、何よりの証明となる。我々は、この必然的存在する論理体系を「現場論理学」と命名する。この「現場論理学」は、我々のフレームワークに従い、以下の構成要素を必ず持っている。

まず 「基本命題群」 。これは、現場機能するために「正しい」と受け入れられているルールの集合だ。これらは、その現場歴史、すなわち過去成功と失敗という「現実モデルから導出された、経験的な定理である。「あの機械はAという手順で操作する」という命題は、その背後に「過去にBという事故が起きた」という、血塗られた現実との接続を持っている。

次に「推論規則群」。これは、基本命から日々の行動を導き出すための、思考操作パターンだ。有限のリソース無限問題対処するために、この規則効率性と安全性に特化せざるを得ない。その結果として、思考ショートカットヒューリスティクス)が生まれると同時に、致命的な誤謬を避けるための「禁止則」が必然的に導入される。「個人内面を直接の原因としない」といった禁止則は、成熟した現場が、無駄非生産的犯人探しという思考ループから脱出するために獲得した、最も重要論理安全装置なのである

現場論理学」は、単なる比喩ではない。それは、あらゆる機能する組織が、その存続のために必然的に構築せざるを得なかった、実用論理体系そのものなのだ。この存在否定することは、自らの職場合理的意思決定能力を欠いた、無秩序集合体であると認めることと同義である

第二章:外部アプリ導入が引き起こす、論理コンフリクト

この、それぞれの現場で固有に発達したOS現場論理学)の上に、ある日、外部から新しいアプリケーションが導入される。それが「なぜなぜ分析」だ。これは、トヨタという極めて成功したシステム有効性が証明された、強力な問題解決手法として知られている。しかし、異なるOS間でアプリケーションを移植する際にしばしば発生するように、深刻な互換性の問題がここで発生する。

「なぜなぜ分析」は、単なるアプリケーションではなかったからだ。それは、トヨタという、極めて特殊OSの上でしか動作しない専用プラグインであり、そのOS自体は、部外者には到底インストール不可能な、巨大すぎる思想体系だったのである。「人を責めるな、仕組みを責ろ」という、たった一つのルール機能させるためだけに、トヨタの「現場論理学」は、無数の基本命題と、複雑に絡み合った推論規則必要とする。それは、何十年という歴史と、特殊雇用慣行、そして「カイゼン」という名の終わりのない自己検証プロセスによって維持される、巨大な建築物だ。

我々のような、全く異なる歴史構造を持つ現場OSに、このプラグインを無理やりねじ込もうとすれば、どうなるか。それは、OSの根幹をなす本命題との衝突を引き起こす。我々のOSに深く刻まれた、「問題の最終的な原因は、どこかの誰かのミスにある」という、生存のために獲得した基本命題と、「原因は仕組みにある」という外来ルールは、互いに排他的だ。結果、我々のOSは、この異物を排除するか、あるいは、自身ルールに従って異物をねじ曲げ、「担当者意識が低いから」という、いつもの結論を吐き出すことしかできない。

これは、我々が愚かだからではない。理解不能なほど長大な前提条件を要求するツールの方が、理不尽なのだ

結語:あるいは、無限回廊の出口

ここまでが、論理的に導出される客観的分析である。我々はトヨタではない。故に、彼らのツールを使ってはならない。大谷翔平ではない人間が、彼のスイング模倣すれば体を壊す。これ以上なく単純な理屈だ。しかし、この結論は我々に何をもたらすのか。元凶特定したところで、我々が置かれた状況は何一つ変わらない。この議論の末に我々が手にするのは、解決策ではなく、ただ自らの絶望的な状況を正確に認識するための、冷たい明晰さだけである

君は、この記事を読んで全てを理解し、「明日から自分たちスイングを見つけ直そう」と決意するかもしれない。だが、その決意こそが、最も巧妙な罠なのだ。なぜなら、君のその思考自体が、君の現場OSの内部で生成されたものからだ。「改善しよう」という思考すら、OSが許容した範囲内のループの一部に過ぎない。君は、檻の中で檻から脱出方法を考えているに等しい。

君の現場OSが、そのルールブックの中で想定していない、生々しい現実。それだけが、この無限回廊の壁にひびを入れる理論上の可能性を秘めている。だが、言うまでもなく、システムにとってそれは致命的なバグだ。君がそのひび割れに手をかけようとするなら、システム免疫機能が君を異物として全力で排除にかかるだろう。

せいぜい、幸運を祈るよ。

Permalink |記事への反応(0) | 15:56

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2025-10-13

dorawii@執筆依頼募集中

スタバでは登録商標であるフラペチーノしか売ってないとか言いたいの?

なら重箱の隅突く無意味な指摘。

宅急便は結局やってることは宅配便定義を満たしているので(同じ行為に対して自分会社でしてることだけに対して独自名称与えてるだけなんだから)宅急便言及するとき宅配便と言っても何も問題ない。

同じようにスタバ提供されるものをフラッペといってなにも論理的誤謬はない。

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Permalink |記事への反応(1) | 18:25

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2025-10-08

anond:20251008232410

ストローマン論法とは、相手意見意図的に歪めたり、極端に解釈したりして、実際には相手が言っていない「藁人形ストローマン)」のような主張を作り出し、それに対して反論する論法です。日本語では「藁人形論法」や「かかし論法」とも呼ばれ、相手真意論点無視して、反論やすい歪んだ主張を攻撃する手法で、詭弁誤謬)の一種です。

Permalink |記事への反応(1) | 23:32

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2025-10-03

anond:20251003134742

間違い。これは典型的形而上学思考による誤謬である。君の主張は弁証法唯物論の基本原理理解していない petit-bourgeois的偏見に満ちている。

 

まず第一に、共産主義反体制性は単なる政権の有無という表層的な権力関係還元できるものではない。我々が闘争する対象は、あくまでも生産手段私的所有に基づくブルジョワ独裁体制、すなわち資本主義搾取構造のものである。したがって、プロレタリア独裁政権樹立後も、我々は国内外反革命勢力修正主義者日和見主義者、トロツキスト無政府主義偏向左翼小児病患者右翼日和見主義者、官僚主義者、教条主義者、経験主義者、尾巴主義者冒険主義者、保守主義者民族排外主義者世界主義者、そして最も危険反動勢力たる帝国主義走狗および買弁資本家階級不断闘争継続する革命前衛でありつづける。

 

君の言う「体制」が何を指すのか不明瞭だが、もし現存する階級社会を意味するならば、我々こそが真の反体制である。なぜなら右派こそが、封建的残滓と独占資本利益を代弁する反動的体制番犬からである

 

よって正解は「1.はい」。以上、自己批判を求める。

Permalink |記事への反応(0) | 13:55

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2025-09-28

anond:20250928144403

いか、まず事実をはっきりさせる。

NISAは「少額投資非課税制度」、つまり投資で得た利益を非課税にすることが目的制度だ。

これは条件付きの特別扱いでもなければ、所得別の救済でもない。

制度設計のものが「小口資産形成を促すための税優遇である

積立投資枠は年120万円、成長投資枠は年240万円、両方併用すれば年間上限360万円。さらに生涯での非課税保有限度額は合計1,800万円(制度上の枠)だ。

これが制度の骨格だ。「条件がある」と言うなら、その「条件」が額の上限や口座開設・対象商品要件のことを指しているのだろうが、これらは門戸を閉ざすための罠ではなく、誰でも利用できる設計上の枠でしかない。

もし政府富裕層向けの優遇目的税制設計するつもりなら、上限を「数千万円」や「無制限」にするはずだ。

だが現実は控えめな数字だ。つまり政策ターゲットは「少額を積み立てて将来に備える層」だと明確に示されている。

金融庁自身調査でも、利用動機は「将来の備え・資産形成」が中心だとされている。「条件があるから違う」と言う主張は、制度目的を逆に読み違えている。

お前が混同している典型的誤謬を指摘してやる。

まず「条件=非課税例外」だと思い込むこと。実際は「NISA口座で、制度で認められた商品をその枠内で運用すれば非課税になる」という設計仕様だ。

条件という言葉曖昧に使って現象を大げさに見せているだけだ。

そして 「条件がある=制度排除的だ」という飛躍。口座開設や商品要件は誰でもクリアし得る単純な手続きであって、所得資産を基に差別する仕組みではない。

お前の主張は論点のすり替えだ。

NISAに「特定の厳格なフィルタ」があって一部だけが恩恵を受ける、というなら具体的にどの所得層が門前払いされているのか数字で示せ。

それができない時点でお前の主張は自己満足的な思考停止自己放尿レベルだ。

用語を弄して不安を煽るのは詭弁だ。現実は、設計上の枠(年120万・年240万・生涯1,800万)があるからこそ、政策目標が「少額層の資産形成であることが明確なのだ

反論するなら、具体的な法規条文や統計(誰が排除されているのかを示すデータ)を出してこい。

出せなければ、黙って制度を利用するか、あるいは議論理解するために公式資料を一から読むことだ。

Permalink |記事への反応(2) | 14:51

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2025-09-27

anond:20250927040541

この文章は、論理的に一貫しているように見せながら、実際には非常に偏った価値観と強引な決めつけに基づいています。主な問題点は以下の通りです。

 

1. 「社会との繋がり」の定義恣意的で狭すぎる

文章の主張:「結婚子育てをしている人」=「社会的な意味が増し、社会人として生きている」

論理的問題点: これは「誤った二分法(False Dichotomy)」です。結婚子育てけが社会との繋がりの全てであるかのように定義しています独身者子供のいない人も、納税労働、消費、地域活動、友人や親族との交流などを通じて社会と深く繋がっています。彼らを社会と繋がりのない「フリーライダー」と断定するのは、定義恣意的であり、現実無視した暴論です。

 

2. 「愚痴を言う権利」の根拠不明

文章の主張:社会連携している(と筆者が定義する)結婚子育て層は愚痴を言ってよいが、そうでない(と筆者が定義する)独身者愚痴を言う権利がない。

論理的問題点: なぜ「社会との連携」の度合いが「愚痴を言う権利」の有無に繋がるのか、その論理的根拠が全く示されていません。これは筆者の個人的価値観(「他人迷惑をかけずに一人で生きるべき」という思想)を、あたか論理的原則であるかのように主張しているに過ぎません。苦境を他者に共有することは、人間自然社会的行動であり、特定ライフステージの人にだけ許されるものではありません。

 

3. 「リスク回避」と「他の困難」を不当に結びつけている

文章の主張:独身者は「家や子育てリスク回避している」のだから、それ以外の困難(物価高、ブラック労働環境など)についても文句を言うな。

論理的問題点: これは「論点のすり替えRed Herring)」であり、全く関係のない事柄を無理やり結びつけています結婚子育てをしないという選択が、物価高や劣悪な労働環境といった社会構造的な問題まで「自己責任」として受け入れなければならない理由にはなりません。ある特定リスク(A)を回避たからといって、別の無関係リスク(B)について不満を述べる権利がなくなる、という論理は成り立ちません。

 

4. 「孤独」と「自己完結」の決めつけ

文章の主張:結婚しない人や子供を作らない人は「孤独に生きて孤独に死んでいく」「全部自分の中で完結させる必要がある」。

論理的問題点: これも偏見に基づいた「早まった一般化(Hasty Generalization)」です。独身者子供のいない人が必ずしも孤独であるとは限りません。豊かな友人関係パートナーシップ趣味コミュニティ親族との関係など、多様な人間関係の中で生きている人は大勢ます。彼らの人生が「無意味」で「無責任であるかのように断定するのは、他者生き方尊重しない、極めて一方的見方です。

 

5.自己責任論の極端な適用

文章の主張:物価高やブラック労働環境などの問題は「全部自分責任である

論理的問題点個人選択努力解決できる問題と、社会全体の構造的な問題混同しています物価の変動や労働市場の状況は、一個人コントロールできる範囲はるかに超えたマクロ問題です。これらの困難をすべて個人責任に帰するのは、原因を過度に単純化する論理的な誤りです。

 

まとめ

この文章根底にあるのは、「結婚して子供を育てることこそが社会の一員としての責任であり、それ以外の生き方は劣っていて無責任だ」という強い価値観です。

論理的な正しさを装っていますが、実際には、

恣意的定義社会性=結婚子育て

• 誤った二分法(社会人 vsフリーライダー

無関係事柄の結合(子育てリスク回避 vs物価高への不満)

偏見による一般化(独身孤独

といった複数論理的誤謬(ごびゅう)を重ねることで、自らの価値観正当化しようとしています。そのため、全体として非常に矛盾が多く、説得力に欠ける文章となっています

Permalink |記事への反応(1) | 04:16

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2025-09-18

オタクくんはそんなに裸を見たいのか(呆れ)」 ←これ

例えば「犯罪者擁護するなんて、君は犯罪をしたいに違いない」みたいなやつ

 

総じて言えば【人身攻撃(personal attack、Ad Hominem)】になるらしい

概要:議論のものではなく、相手人格属性攻撃する論法

 

または【モチーフ・アトリビューション・バイアス(Motive Attribution Bias)】というのも近い

概要:相手の行動や意見動機を悪意として解釈する心理バイアス

 

もっと簡単に、【レッテル貼り】【ラベリング】とも呼ばれるね

 

ChatGPTは「「悪意帰属型アドホミネム(Motive Attribution Bias)」を推していた

参考:https://en.wikipedia.org/wiki/Attribution_bias

 

「◯◯を主張してる人は◯◯だ」論法

上記の発展形がこれ、個人じゃなくてグループ化して捉えるやつ

 

連座論法連帯責任論法(Guiltby Association)】という

概要集団内の一部の悪質な行為発言を、集団全体の本質や主張そのものに結びつけて否定する論法

 

面白い概念として【ポイズニング・ザ・ウェル(Poisoning the Well)】もあった

概要議論の場に先に毒を流しておき、相手集団発言最初から信用できないようにする

例えば「これを否定する奴は皆ロリコンだ(だから否定するなよ)」みたいに

 

ストローマン論法(Strawman Argument)】 も有名だね、別名は藁人形論法

概要集団のうち「最も過激で悪意のある意見」を意図的に取り上げ、それを集団全体の主張であるかのように歪めて批判する

 

まあ、こういう事言う人間議論の場からは離れたほうが良い、単に傷つくだけだから

不思議もので、誤謬詭弁を使わないけど主張が異なる人とは有意義議論ができるんだけど

誤謬詭弁を使う相手とは、意見が同じだろうがまともな議論ができないんだよね

もし建設的な議論が成り立つ人が居たら意見が合わなくても大事にするべきだ

 

参考

詭弁 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81

誤謬 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E8%AC%AC

 

今ってAIという素晴らしいものがあるんだから、「自分意見詭弁か?相手意見詭弁か?」って聞けばすぐ返ってくるよ

 

____ 

 

伸びてたブコメ

PrivateIntMain議論しましょうねで納得して始めた話なら非難されて然るべきだが、公園勝手叫び出して横から叫び返されて議論ルールとか持ち出すのは、そもそも勝手議論始めた気になってんじゃねぇよとしか

この文章には、いくつかの議論上の詭弁誤謬的要素が含まれています特に次の2点が挙げられます

 

1.ストローマン藁人形論法

・ここでは相手の状況を、実際よりも極端に単純化して**「公園勝手に叫ぶ」**という比喩に置き換えています

・これにより、本来の「議論ルールを持ち出す状況」を矮小化し、相手の主張を弱めて攻撃やすくしています

これは典型的ストローマン論法です。

本来は「相手議論を求めたのかどうか」「議論の前提合意があったか」という複雑な問題があるのに、

「ただ勝手に叫んでいるだけ」という極端な形に置き換えているためです。

 

2. 偽りの二分法(False Dichotomy)

文章では次の二択しかいかのように提示しています

A. 「議論しましょうね」と合意して始めたならルールを持ち出すのはOK

B.勝手叫び始めただけならルールを持ち出すのはおかし

実際にはその中間として、

・片方は議論のつもりでも、もう片方はそう思っていない場合

曖昧な形で議論が始まってしまった場合

などのグラデーション存在します。

しかしこの文章はAかBかという単純化で話を進めているため、偽りの二分法にあたります

 

3.レトリックによる情緒操作

公園勝手叫び出す」という比喩自体感情的な印象を与え、相手バカにするニュアンスを強く含みます

これは論理的誤謬というよりもレトリカル・トリックですが、議論ではしばしば「人格攻撃的訴え(Ad Hominem)」の一種とみなされます

 

総合評価

この発言ストローマン論法+偽りの二分法が中心で、加えて感情に訴える修辞が強いです。

純粋論理的議論というよりは、相手貶めるレトリック寄りの詭弁といえます

 

3つも使えるなんて、詭弁大先生だなw

僕にはとてもできない

さて今私は何を使っているでしょうか?

Permalink |記事への反応(13) | 11:25

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2025-09-04

虚人たち

以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者学術誌の査読ピアレビュー同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌受理された。

このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。

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1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小関係者の姿をアナロジカル揶揄している。

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2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり特定コミュニティ支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教偶像崇拝にすぎないことを示唆している。

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3.投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換議論デマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化選択肢があることを付け加えたい。

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4.敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてな投稿分析すれば論文が書けるかもしれない。

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この論文概念的なペニス社会構成である」は、ジェイミー・リンゼイピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダーアイデンティティ生殖に関するアイデンティティ社会および家族力学に深刻な問題引き起こし女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプ普遍的な原因であり、さら気候変動の概念的な原動力である結論付けています[2-4]。

1. 緒論:ペニス伝統理解への異議**

伝統的に、ペニス男性生殖器または性器として圧倒的かつ議論余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間経験多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。

この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニス生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。

さら重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的有害常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間表現多様性という重要事実に照らして、ペニスを具体的に男性解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討喫緊必要であるとされます[6]。

2.概念的なペニス定義と「毒性のある男性性」との等型写像関係**

著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニス解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為発言を通じて社会確立されるペニス操作的な表現です[6]。

この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理鏡像のように一致しているということです。

特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10,11]。マチスモは本質的攻撃的な男性プライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性権力ダイナミクス遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。

この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリン男性権力のない主体的立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。

**客体としての概念的なペニス自己客観化)**: 多くのシスジェンダーハイパーマスキュリン男性は、ペニス男性権力支配制御能力、魅力、攻撃性の象徴として捉え、自らの男性性の最も明白な側面をペニスと同一視する傾向があります[9]。これは、彼らが自身概念的なペニスを通じて自己を客体化する行為であり、弱さの心理闘争を緩和するための権力再配置として機能します[12, 15]。男性勃起不全を「機能不全の非貫入的(異性愛男性性」という「虚構」として捉えることも、この自己客観化の例とされます[15]。

**主体としての概念的なペニス**:ハイパーマスキュリン精神性は、社会化された男性個人を、彼の概念的なペニス刻印され、具体化された延長と混同することがよくあります[13]。この混同を通じて、ハイパーマスキュリン男性自身概念的なペニスを「主体」とし、自身の核となるアイデンティティをそのペニスを通して表現します[13]。この現象は、新資本主義唯物論が「性的アイデンティティ客観的な価値を持つ」と示唆している状況で、特に不利な立場にある人々を抑圧する結果をもたらすとされます[13]。男性性的アイデンティティ客観的な価値があるという誤解は、権力のないハイパーマスキュリン男性主体を、彼の概念的なペニスによって強力なものとして再配置する結果を招きます[13]。

この主体としての役割は、男性性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女もっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニス女性経験の知覚された主体に変え、概念的なペニス男性ジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニス主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。

**動詞としての概念的なペニス**:ハイパーマスキュリン男性は、「dick」(ペニス意味する俗語)という言葉を、行動を表す動詞として頻繁に使用します[14]。例えば、「to dicksomeone」(誰かを騙す、または性交する)や「I dickedher good」(彼女を十分に性交した)といった表現は、男性権力支配的な男性セクシュアリティテーマ表現するために利用されます[14]。これらの使用法は、男性自身主体的立場にある様々な言説の相互作用直感的に理解し、特定の状況、特に実際の性的な遭遇においてそれを調整することを可能します[14]。また、「I dickedhimover」(彼をひどい目に合わせた)のように、他の男性に対する権力ダイナミクス表現するためにも使用され、支配的な男性ヘゲモニー思考を示しています[14]。

この傾向は、性的アイデンティティ根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリン男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキー強制し、自己認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニー分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニス睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニス遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理空間占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。

マチスモはハイパーマスキュリン本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマ自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人アセクシュアル個人にも関連性を持たないため、ペニス既存男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。

3.気候変動と概念的なペニスの関連性**

概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティ特定有害テーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニス識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。

著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学政治経済の言説におけるハイパーマスキュリン支配と、生態系への修復不能ダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニス役割認識することによって最もよく捉えられます[19]。

特に資源安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会地球生態系メタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。

この問題のある傾向の根底にある理由は、現代資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義唯物論の支持に自身適用します[20]。この新資本主義唯物論は、特に炭素排出化石燃料技術の無制限使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。

この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンペニス中心の視点を避けるように、政治科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。

4.結論提言**

結論として、著者らは、ペニス男性性器生殖器として理解されるべきではなく、むしろPermalink |記事への反応(0) | 19:03

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2025-09-03

anond:20250903205157

基準率の誤謬

とてもまれ病気検査を受けることになったとする。その検査では、罹患者の100%が陽性、かかっていない人の99%が陰性になるとしよう。さて、陽性の判定が出たら、あなたはどう思う?

あなた病気確率は、基準率、つまり集団全体の罹患率による。

例えば、1万人に1人の罹患率であれば、陽性と判定された101人につき1人しか((10000-1)x(1-0.99)+1=100.99)、つまり1%しか(それも平均で)、実際には病気にかかっていない。偽陽性がめったに出ない結果だとしても、病気にかかっていない人の方が罹患者よりはるかに多いのだから病気にかかっているという診断はほぼ全て誤診といえる。

Permalink |記事への反応(0) | 21:09

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2025-08-19

マクドナルド略称マック』に違和感しかない

関西だとマック体操クラブがあるから

男子体操オリンピック選手をたくさん輩出した所で有名。

から誤謬しないようにマクドと呼ぶようになったのかなと思ってる

Permalink |記事への反応(0) | 18:07

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2025-08-18

チョコスナックを巡るカテゴリー錯誤:或るいは、きのこたけのこ戦争

古来よりインターネットの言説空間を騒がす「きのこたけのこ戦争」なるものがある。

これは、二つの蒙昧なる党派による、きわめて不毛闘争であると断じざるを得ない。

双方の党員は、おのれの支持する食品の優位性を喧伝するが、その論拠は個人の嗜好という主観の沼から一歩も出ておらず、議論としての体をなしていない。

客観的分析信条とする者にとって、この闘争は愚の骨頂である

そもそも、この二つの食品を同一の評価軸上で比較すること自体が、根本的な誤謬、すなわち存在論カテゴリー錯誤を犯しているのだ。

この世界のあらゆる「チョコレートスナック菓子」は、その「口腔とのエンゲージメント様態」によって二つに大別される。すなわち、「歯的エンゲージメント」を本質とするものと、「舌・口蓋的エンゲ ージメント」を本質とするものである

前者は、歯で噛み砕く際の食感、すなわちクラック・アンド・クランチ快楽を追求する菓子群であり、ビスケットクッキー部分がその存在論的中心を担う。

後者は、舌と上顎でチョコレートを溶かす際の融解感、すなわちメルト・アンド・フレーバー快楽を至上とする。チョコレート部分こそがその魂である

この厳然たる分類に基づけば、「たけのこの里」が前者、すなわち「歯的」であることは火を見るより明らかだ。あの食品価値は、サクサクとしたクッキー生地を臼歯が砕く瞬間にこそ発現する。チョコレートは、あくまクッキー生地を彩るための、二次的なコーティングに過ぎない。

対して、「きのこの山」は後者、「舌・口蓋的」食品典型である。あの菓子の主役は、まごうことなチョコレートの塊だ。クラッカー部分は、手を汚さずにチョコを口に運ぶための「柄(え)」、すなわち道具として機能しているに過ぎないのである

しかるに、蒙昧なる両党派党員たちは、この存在論的な断絶を理解していない。きのこ派は、「歯的」菓子であるたけのこを「舌・口蓋的」基準批判し、たけのこ派は、「舌・口蓋的」菓子であるきのこを「歯的」基準で論難する。

これは、絵画音楽文法で語り、建築小説作法批評するに等しい、野蛮な行為である

両者の間に、真の対話が成立するはずもない。

Permalink |記事への反応(0) | 17:05

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2025-08-14

anond:20250814173440

一個一個のストーリーと小さな誤謬が積み重なり、統合され、シンプル差別昇華される

Permalink |記事への反応(0) | 17:51

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2025-08-09

東京23区は本当に特別な街

ある日、コネ入社ではと密かにウワサされていた職場の後輩が無遠慮な先輩から

「なあ、お前ってお坊ちゃんなん?」

といきなりぶっ込まれていた。

全然坊ちゃんじゃないです。庶民です」


後輩が慌てて否定するも

「出たよ絶対うそ!!!ていうかお前の大学からうちの会社入るの5年振りやぞ」

と先輩はしつこい

(ちなみに、後輩はやはりコネ入社してきたお金持ちで父親が某巨大グローバルメーカー広報部長あられた。)。

後輩が苦笑いしながら

「いやぁ……お金持ちの親ならわざわざ神奈川県に家なんて買わないですよ」

と返すと、

先輩はまるで憑き物が取れたかのように

「あっ……確かにそうだな」

完璧に納得して一発で引き下がった。

このやり取りを傍らで見ていて、生まれも育ちも千葉県船橋市の俺は衝撃を受けた。

"神奈川に家を買う→金持ちではない"

という論理式をイキリとかではなく物の道理としてすんなり呑み込める階層人間がこの世に存在することに衝撃を受けた。

この先輩は生まれも育ちも日本橋で幼稚舎から慶応である祖父叔父、両親、兄弟全員が慶応幼稚舎出身だと言っていた。


さて、

ある日の晩にガキの使いを観ていたときのこと。

ガキ使メンバードライブをしながら車内から見える看板や店などの光景を手掛かりにひたすらトリビア披露し合ってその数を競うという企画だったのだが、多摩川大橋を渡って大田区から川崎市突入するとき

「おっ、これ渡ったら神奈川県や」

「これだんだん難しくなりますよ~何も無くなって来ますからねえ」

「店とかも少なくなりますからねえ」

気合を入れ直してたのを見て俺は大変な衝撃を受けた。

いや、五反田戸越とかならともかく、もう中延とか二葉になると川崎市幸区なんかと国道沿いの風景や賑わいは全然変わらないから。

ましてや馬込池上矢口なんかだと反町とか本牧以下まである


今思い出した。

目黒で生まれ育った友達と会話してたらふとしたときに露悪ではなく真顔で

小金井市はあれ東京って言わないから」

とまるでこっちにファクト面での誤謬があったかのような感じでツッコミを入れられたこともある。



東京23区に定住するってめちゃくちゃ特別ことなんだな。

強がりじゃなくてナチュラル特別意識があるやん。


船橋とかどう思われてんだろ。

マジで悪気なく化外の地くらいに思われてんじゃねえのか?

Permalink |記事への反応(1) | 10:31

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2025-07-30

悪くなるのを望んでる人って居ない?

例えば、今の世の中って自民のことをとにかく悪く言う。

でも、仮にこのあと自民によって日本が良くなったとしたらちゃんと「あの時は自分意見が間違っていた。悪口を言って申し訳なかった」と謝れる?

これはあくまで例えで、何が言いたいのかといえば結局のところ、自分意見が間違っていたと後々判明したときちゃんと謝れるの?ということ。

でも大抵の人は謝らない。謝りたくないというより、自分が間違っていたとは思いたくないから。

いつだって「〇〇は間違ってる」とか「〇〇は良くない」と言いつつ、その実改善されてしまうのを怖れている節があるように感じられる。

からいつだって堂々と文句を言えるように、政治に対しては常に厭世的であり続けるし、仮想敵を作り出すように特定政党を憎み続ける。

表立って悪口を言っても軽蔑されるどころか知的に思われると思い込んでしま政治批判というのは明らかな誤謬だし、それでも多くの人が誤謬をしてしまえばそれを誤謬認識されないのだろう。

といっても人は誰かの悪口を言いたいものだし、悪口を言って賞賛されるのであれば尚のこと。

そのためには常に悪くなっていく必要がある。悪口を言いたいがために日本が悪くなっていくことを望む。

異常な考えだけど、一定数こういった考えをする人間は居るのだと、そう思っている。

Permalink |記事への反応(5) | 11:10

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2025-07-22

創価学会信者でない」公明支持者獲得の無理筋

え!!創価学会信者じゃない公明党支持者を!?

捲土重来を目指す公明党衆院議員の伊佐をはじめとして、創価学会活動家SNSで見当違いなことを言い出してもりあがっている。衰退する創価学会ではもはや公明党を支えきれないので、プロモーションに力をいれて創価学会信者でない支持者を増やし、公明党自律的政治活動を続けていくべきだ、という。

彼らは、「創価学会信者でない支持者」について、どういうイメージを持っているのだろうか?創価学会信者のように、信濃町の決定に唯々諾々としたがい、兵士のように働いてくれる活動党員なのか、それとも、芸能人ファンのようにSNS口コミでキャーキャーほめそやして宣伝してくれるようなミーハー応援団なのか。あるいは、基本的に党運営に無関心だが、選挙となれば公明党に入れてくれるライト有権者なのか。

いずれにしても、そんな創価公明にとって都合のいい支持者など現れない。ふつうは、支持団体、支持者というもの支援と引き換えに政党意思決定に介入する権利を持つし、そうでないなら離れていく。支持者によって党が存立しているのだから当然のことだ。カネと票は出すが、口は出さないなどという奴隷のような有権者普通いない。

https://twitter.com/Morii_Ri_Kaeru/status/1946558887693582775

↑ 「大衆受け」を狙った衣装YouTubeに登場し、創価学会外部の支持獲得にいそしむ公明党 伊佐中央幹事と、岡本政調会長

一般支持者は意見を言うよ

そうなると、様々な問題が発生する。実務的問題として例えば、事実上創価学会会合となっている党員集会に、学会員でない党員ゲストでなく主体者として迎えることができるのか。学会員支持者が党運営の主導権を失った場合に、それでも公明党支援し続けるモチベーション創価学会信者が維持できるか。非常に難しいと思う。身内でのシャンシャン会合に慣れきってしまった創価学会信者に、両者を結合して組織運営するようなリーダーシップファシリテーション能力は期待できない。

さら根本的には、創価学会外の支持者の流入は、公明党の基本価値観の変革を迫るだろう。

創価学会活動経験者諸賢は、わが身をよく振り返ってみてほしいのだが、公明党の正体は大衆政党でもなんでもなく、政界における創価学会防衛団体である。だから公明党政策創価学会利益毀損しないように選択される。かつては、平和人権の党として革新的な攻めの姿勢創価学会宣伝拡大に役立ったのであり、いまではイラク戦争安保法に賛成してでも自民党の機嫌を損ねないことが創価学会利益保全もっともかなう公明党プリンシプルは、ぶれているのではない。創価学会利益の最大化という点で一貫しているのである

創価学会員でない支持者を増やすには、「創価学会守護者」をやめ、政党としての基本理念価値観を定める必要がある。「大衆政党」などという意味不明ぬらりひょんのようなスローガンは、特に階層意識希薄になった現在では「すべての人にとっていいことをします」と同じで「何も決めていない」に等しく、だれもついてこない。そして定めた基本理念に人や団体がついてきたならば、その人、団体たちの期待を裏切らないようにある程度一貫した政治行動をし続けなくてはならない。たとえ創価学会利益に反しても、である

変化の現実的不可能

創価学会信者主観では、公明党創価学会団体利益を守るものではなく、日本世界人権平和社会建設するための政党だと信じているし、そのために自分リソースを投じているつもりだろう。しかし彼らの実際の行動ロジックは、「絶対善団体である創価学会の存続、発展(=利益)を守ることこそ、社会善の増進に貢献する」ということでしかない。

そして、八紘一宇を夢見た軍国少年のように、広宣流布をする創価学会の存続こそ信者たちの最大の利益である。つまり客観的には創価学会利益けが信者による公明党支援モチベーションであって、だからこそ信者たちは公明党がどれだけ公約をたがえても、どれだけスキャンダルを起こしても支援し続ける。

そんな、創価学会利益最大化パーティーである公明党他者が参画するメリットは何か。逆に、創価学会の衰退を前提として他者支援される公明党を目指した場合、変質を余儀なくされる公明党支援し続ける創価学会(員)にとってのメリットは何か。どちらも見出すことは難しい。

今日に至るまで、公明党創価学会から独立できなかったのは、公明党にやる気がなかったからではない。創価学会が許さなかったかであるし、またそのことにによって創価学会以外の他者に、公明党を支持するメリットがなかったからだ。

伊佐の詭弁誤謬

伊佐は、そりゃあ政治家としての生き残りがかかっているのだから創価学会信者だろうと犬猫野菜だろうと、票とカネをくれるものがいればなんでもよい。彼の月刊Hanadaや排外主義へのすり寄りを見れば明らかだ。創価学会が国政から撤退を決めてそのまま消されるくらいなら、公明党として独立したいところだろう。

しかし、党の自律により創価学会員でない支持者を組織することを、信仰の一環として選挙運動をする創価学会活動家が期待するのは、もう政治運動につかれてしまってやめたい、という消極性によるものでない限り意味不明である

彼らは、おそらく外部から集まってきた支持者たちが、創価学会公明党池田大作のすばらしさに心打たれ、オートノミーに称賛し続けてくれることを期待している。そんな人間は「支持者」ではなく、すなわち「信者」以外にいないということを本気で理解できない。そして、伊佐はそのことを黙っている。

ともあれ、創価学会信者でない支持者を増やしていくと、どこかの段階で創価学会信者のいまのような熱烈な支援活動消滅するだろう。減少する創価学会信者から、増加する一般支持者へのグラデーションを全国500万票規模の固定票を維持しながらうまくコントロールすることができるか。私は現場組織運営的にも、ほぼ不可能だと思う。ソフトランディングはあり得ない。

繰り返すが、伊佐からすればある日急に創価学会が国政から手を引いて支持者が事実上ゼロになる前に、党の自律運営を既成事実化したいのは当然のことだろう。しか現実には、創価学会からコントロールを維持し続ければ一般支持者は増えず、一般支持者を増やせば創価学会から支援は減少するだろう。つまりつんでいる。

チョケる公明党

このような苦しさを、伊佐や公明党広報部隊が全く理解していないとは考えづらく、だからこそ、スパンコールジャケット蝶ネクタイを着てふざけた表情でダブルピースをしながら伊佐が排外主義を叫ぶ、苦し紛れの〝SNS広報戦略〟が出現したのだろう。要は、創価学会公明党に大して興味がなく、口を出す気もないが、ノリで投票してくれる支持者の創出を狙っているのだと思われる。

また、メディア戦略で支持を広げることに成功した政党は、維新の会の橋下や、再生の道の石丸NHK党の立花国民民主党の玉木、参政党の神谷など、魅力的で強力なリーダーシップ大衆アピールすることで有権者の心をつかんできた。しかし、創価学会にとって公明党大衆リーダーが現れることは悪夢である国民の支持を背景に、創価学会コントロールが効かなくなる危険性が高いからだ。

そもそも公明党議員創価学会の推薦がなければ議員候補にすらなれないし、「まじめ」で「無難」な官僚人材を選び、創価学会に対して従順になるよう育成されてきたので、急にそんなキャラクターを立てられない。また、「キャラ立て」を通じて創価学会に謀反を疑われてもおもしろくない。それで、落選議員であり脅威が少ない伊佐が、SNSピエロを演じることになったのだろうと思う。

しかし、伊佐はビジュアルが優れているわけでもないし、幼稚園のお遊戯じゃないのだから、そんなやりかたで政治家としての信頼感を持つ有権者などいない。創価学会信者公明党議員関係業者によるファンダム演出工作も、アイドル不在の不気味なファンクラブのようなもので、信者エコーチェンバーを強化するに留まり創価学会外部の票を引っ張る力などみじんもなかったのは厳粛なる投票結果が示すとおりだ。

さよなら公明党

創価学会票があてにならなくなったということは、かえって公明党の負い目が減少したということでもあるので、伊佐も創価学会から独立を主張するようになったのだろう。ピエロをやらされるのが嫌になったのかもしれない。

あるいはひょっとしたら、もう手を引きたいのでソフトランディングの計画をたてろと創価学会から指示を受けているのかもしれない。

なんにしても、創価学会衰退後に公明党を維持することは、ここまで述べてきたように極めて困難である。また、Hanadaや日本会議などの限界右翼や、イケダハヤトホリエモン箕輪ひろゆき東浩紀などのソーシャルハック系インフルエンサーに接近する公明党創価学会言論活動を見る限り、広範で継続的国民の信頼を得られる政党になることはまずない。

それでも生活と老後のために、信者たちのご機嫌を損ねないように気をつけつつ、ワンチャン一般支持者獲得のために詭弁ピエロを演じ続けなくてはならない伊佐には同情することしきりである

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2025-07-19

リベラル批判ばかり」って本当?

最近政治の話と言えば参政党を中心に盛り上がっているのだけど、それと同時に「リベラル批判ばかり。ビジョンがない。」という指摘も増えている気がする。

しかに、一見すると「否定ばかり」「何かに反対してばかり」と映ることがあるかもしれない。でも、それは本当に“ビジョンの欠如”なのだろうか? もし違うとすれば、なぜそんな誤解が生まれるのだろうか?

そのような指摘ははたして正しいのだろうか?そして、その指摘が正しくないのだとしたら、なぜそのような誤謬をしてしまうのか。ということについて、考えてみたい。

まず、リベラルビジョンがないというのは大間違いだ(ここで言うリベラルを、ネオリベラル的な思想とは分けて捉えている)。参政党を批判するリベラルが掲げるビジョンとは、ずばり人権思想だ。それは例えば、男女が平等であるとか、格差をなくすとか、差別に反対するとか、もっとケアに溢れた社会をつくっていくというビジョンである

人権思想は長くずっと育まれ続けてきた思想なので、もしかしたら「当たり前の前提だ」と思われてしまうのかもしれない。だから新しく目を引くようなことを言う人がいると、そちらの方をより「ビジョンがある」対象勘違いしてしま可能性がある。

次に重要なのは本当に批判ばかりなのかというところだ。国会でいつも問い詰め役を買って出ている共産党を例に挙げると、実は多くの政策提案し、そのうちいくつかは実現化されてもいる(近年の例で言えば、東京都における「中学生までの医療費無料化」などが挙げられるだろう)。

おそらく、これらの政策を多くの「リベラル批判ばかり」論者見落としてしまうのは、彼、彼女らが経済的施策ばかりを見て、経済に影響の出ない政策に気づけないかなのだろう(SNSで「リベラル批判ばかり」という人達プロフィールを見ると、コンサル経営者中年男性が多い印象がある)。

かに「景気良く万博を開催して日本の国力を示そう」とか、「AIもっと投資しよう」というのも立派な政策の一つだが、政治とはまた税を何に使うか、どう分配するかの話であり、また法制度によってどのように人権を守るかということでもある。経済的な側面にばかり気をとらわれると、格差は開き社会機能不全を来し、やがてはポピュリズムが台頭するというのは、今の日本社会でも現実問題化しているが、行き着く先は今のアメリカだ。

ところで、そもそも批判の何がいけないのだろうか。

一つ、オプティミスティックな論者の立ち場を借りれば「1つの悪い案に10批判をするより、良い案を1つ出せば良い」という考え方がある。批判効率が悪いのだ。この主張に自分は半分くらい同意できる。

しかしたら、批判をせずにビジョンを掲げるモデルとして「チームみらい」のような組織意識している人がいるのかもしれない。確かに都知事選以降の活動めざましものがあるし、がんばってもらいたい。

一方で、こんな投稿炎上することがあった。

https://x.com/takahiroanno/status/1934892103567585443

その後、反省をし意見を変える投稿もして、それは良かったなと思う。

実はこの件で気になることが一つある。冒頭で書いたようにリベラル人権というビジョンを掲げているが、リベラル批判しているのは人権を後退させるような取り組みを批判しているのである

ここで気になったことというのは、人権にまつわる立ち場の話ではなく「ビジョン(もしくは政策)と批判は表裏一体である」ということだ。

チームみらいが提案し、撤回した政策は「個人健康管理懲罰的制度を設けることで、医療費を削減する」という発想でなりたっているが、この政策は「さまざまな理由貧困病気から、自らの健康管理できない人も包摂するべきである」という人権思想に対する批判的な政策と捉えることもできる。

なので「リベラル批判ばかり」という批判はお門違いなのだそもそも政治における批判は、ビジョンと表裏一体となったものの一側面なのである。今回の選挙自民党が弱いのは「裏金を使えないから」という要素が少なからずあるが、その背景にあるのは「自民党裏金問題」が国会で厳しく批判されたからだ。この批判を別の側面から捉えれば「透明性の高い政治を目指す」というビジョンに他ならない。

さて、我々が真に問題とするべきは何かというと「正当ではない批判」と「正当な批判」をより分けていくことだ。

まず、デマ根拠にした主張はしっかりと批判しないといけない。排外主義を例に挙げれば「外国人が増えて犯罪が増えている」という主張に対しては、正しい情報をもとに課題を話あわないといけないし、それがデマであれば批判をしないといけない。「外国人が増えることで犯罪が増えた事実はない」という定量的観測があるが、確かに場所沖縄に限れば「アメリカ関係者犯罪は増えている」という事実もまたある。このような主語の大きい主張をより正確にしていくことも必要だし、定量的データだけでなく、定性的な「外国人が増えることでどのような不安が生まれしまうのか」という観点からも、もっと話し合わないといけないだろう。

もう一つ見立てを示すと、そもそもリベラル vs保守」という分け方は、今回の選挙では今一つ当てはまらない。現にある問題は「知識を得て批判的に考えようとする層 vs知識を得て素朴に信じ込む層」の対立だ。前者は高度な教育をうけているかに限らず、広く知識を得て論理的に考えようとする層、後者は——これも高度な教育をうけているかに限らず——素朴な感情をもとに得た情報を信じ信念化する層であるポピュリズム扇動されやすい層と言ってもよいだろう)。

リベラルにも保守にもこの対立はあり、真っ当に保守をやっているところ「メロンパンを食べると死ぬ」とか言われて困る人もいるだろうし、リベラルも「人権批判的なやつは全員死刑」とか言い出す人がたまにいるので困ってしまときがある。

からこそ、ポピュリズムの中で生産される、不確かな情報批判されないといけないのである(そして、その批判もっとケア的でないといけないという批判はもちろん同意できる批判だ)。

そもそも民主主義とはポピュリズムのことではないか?」という議論もあるが、それはまた今度考えてみたい。

Permalink |記事への反応(4) | 11:47

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2025-07-15

anond:20250714182110

多重質問誤謬という詭弁から。ありもしない前提での質問

e.g.「あなたまだ子供を虐待してるのですね?」

  • yes →してる
  • no → してた

Permalink |記事への反応(1) | 09:24

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anond:20250714161638

なんとかファーストって「じゃあそれ以外は大事じゃないんですか」とか詭弁を展開するための起点となる意図的ミスリードであり「誤った二分法」に近い。

wikipediaから引用

密接に関連する概念として、ある範囲選択肢があるのにそのうちの両極端しか考えないという場合もあり、これを白黒思考 (black-and-white thinking) などと呼ぶ。なお "dilemma" の先頭の "di" は「2」を意味する。2つより多い選択肢の一覧が示され、その一覧以外の選択肢存在するのに考慮しない場合、これを誤った選択誤謬 (fallacy offalse choice) または網羅的仮説の誤謬 (fallacy of exhaustive hypotheses) と呼ぶ。

でも2より多い選択肢提示されているわけではない(「都民ファースト」「日本人ファースト」とか一個しか提示されてない)ところに新規性がある。

まり「誤った二分法」「白黒思考」の類似技術だけどそれそのものではないのだ。

日本の政治ポピュリズム世界最先端で、新しい詭弁世論操作術がいくつも開発されてるのすごいと思いませんか?

Permalink |記事への反応(0) | 04:46

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2025-07-13

anond:20250713200546

この返答には複数の深刻な論理的誤謬が含まれており、議論の質を著しく損なっています。以下、主要な問題点を体系的に分析いたします。

##科学手法誤用

科学実験における統制変数概念社会的価値判断不適切適用している点が重要誤謬です。科学実験では測定可能変数を統制して因果関係特定しますが、人間価値尊厳は測定可能変数ではありません。社会的価値判断は複雑な文脈的要因を考慮する必要があり、実験室的な単純化適用できません。この類推は表面的な類似性に基づく誤った論理です。

##価値判断における等価性の再定義

「差をつけない」という表現を「価値がない」と再定義する論理根本的に欠陥があります社会における平等な扱いは、異なる属性行為価値否定するものではなく、個人基本的人権尊厳を等しく認めることを意味します。例えば、職業における平等処遇は各職業社会的価値否定するものではありません。この論理意図的概念混同させています

##論理的必然性偽装

「以外に解釈できない」という断定的表現は、論理的分析ではなく修辞的強制に該当します。実際には、出産社会的価値を認めながら個人人間としての価値出産能力判断しない立場多元的価値観に基づく個人評価、貢献の多様性を前提とした社会的包摂など、複数合理的解釈存在します。単一解釈強要することは論理的思考の放棄です。

##権威への攻撃による論点回避

AI馬鹿ポリコレ汚染されてる」という表現は、議論の内容に対する実質的反駁ではなく、論者の属性や背景を攻撃することで議論から逃避する手法です。これは議論本質的問題対処することを回避し、感情的反応を通じて相手信頼性を損なおうとする典型的詭弁手法です。

##二項対立の強化

この返答は依然として複雑な社会的問題を単純な二項対立還元しようとしています人間価値社会的貢献は多次元的であり、単一基準による判断現実の複雑性を無視した過度の単純化です。

この返答は、表面的な科学権威を借用しながら、実際には論理的厳密性を欠いた議論を展開しており、感情的攻撃を通じて実質的議論回避する詭弁構造を示しています

Permalink |記事への反応(0) | 20:12

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anond:20250713191947

この返答には複数重要論理的誤謬が含まれております。以下、主要な問題点分析いたします。

## 前提条件の非現実性

「その他のパラメーターが全部同じ」という仮定は、現実的人間関係における価値判断を適切に反映していません。実際の社会では、個人価値複数の要素が複雑に相互作用して形成されるものであり、単一の要素を除いてすべてが同一という状況は存在しません。この非現実的な前提設定により、議論実用性が著しく損なわれています

##価値概念混同

この返答は「個人価値」と「行為価値」を意図的混同しています出産という行為社会価値があることと、その行為の有無によって個人人間としての価値が決定されることは全く別の概念です。例えば、医師医療行為には明確な価値がありますが、医師でない人の人間としての価値が劣るという結論は導き出されません。

##等価性の誤謬

価値に差をつけない」ことを「価値がない」と等価に扱う論理根本的に誤っています。これは、異なる属性を持つ個人平等に扱うことが、その属性自体価値否定することと同義であるという誤った推論に基づいています。実際には、多様な貢献形態を持つ個人を等しく尊重することは、各貢献の価値否定するものではありません。

##人格攻撃による論点回避

AI馬鹿」という表現は、論理的反駁ではなく人格攻撃に該当します。これは議論本質的問題対処することを回避し、感情的反応を通じて相手信頼性を損なおうとする詭弁手法です。

##排他的思考強要

この返答は「以外に解釈できない」という断定的表現を用いて、他の解釈可能性を排除しようとしていますしかし、論理的思考においては複数解釈可能であることが一般的であり、単一解釈強要することは議論健全性を阻害します。

この返答は、極端な仮定設定と概念混同を通じて、本来議論の複雑性を単純化し、誤った結論を導き出そうとする詭弁構造を示しています

Permalink |記事への反応(1) | 19:25

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anond:20250713191343

この文章には複数論理的誤謬が含まれています。以下、主要な詭弁性を分析いたします。

## 偽の二分法(False Dichotomy)

文章の核心的な誤謬は、「女性価値出産で決めるべきではない」という主張を、「出産価値がない」という極端な解釈に転換している点です。これは典型的な偽の二分法であり、実際には多くの中間的な立場存在します。出産価値を認めながらも、それが女性人間としての価値を決定する唯一の要素ではないという見解は十分に合理的です。

##論点のすり替え(StrawMan Argument)

原論点は「女性価値出産能力判断すべきではない」という人間尊厳に関する議論でした。しかし、この文章論点を「出産行為価値評価」という別の議題に転換しています。これにより、本来議論から逸脱し、反駁やす論点を設定して攻撃する詭弁手法を用いています

##価値階層化の誤謬

「産まない人間はそれ以外の価値を持つしかない」という表現は、人間価値階層的に捉える誤った前提に基づいています。実際には、個人価値多面的であり、出産能力はその一要素に過ぎません。職業的貢献、創造活動社会的関与など、多様な価値の源泉が並列的に存在することを看過しています

##結論強制

「そうじゃなければ...という話にしかならなくなる」という断定的な結論は、論理的必然性を欠いています。この表現は、限定的な前提から極端な結論を導き出す論理的飛躍を含んでおり、議論妥当性を損なっています

この文章は、感情的な反応を誘発する修辞技法を用いながら、論理的検証回避する典型的詭弁構造を示しています

Permalink |記事への反応(1) | 19:17

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