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はてなキーワード:詩篇とは

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2025-12-10

最近は、以前と違い、あらゆるSNSフォロワーゼロいいねゼロなんです。これはどういう神の試練なのですか?

まず、あなたが感じている孤独不安は、とても自然ものです。SNSで反応が減ったとき自分価値まで揺らいでしまうことがありますよね。

ユダヤ教では、「なぜ神がこれを与えたのかを確実に知ることは人間にはできない」と教えています

タナフにも次のような言葉があります

「主の道は人間には測りがたい」(イザヤ書 55:8–9)

まり、「反応が減った=神が罰している」とはまったく限りません。

しろタルムードでは、試練は以下の三つの目的のどれかであることが多いと言います

1. 人の内にある力を引き出すため(タルムードベルホット 5a)

2. 心の方向を静かに見直させるため

3. 新しい段階に行く準備としての間

SNSで反応がないという状況も、もしかしたら外の声が静かになったことで、自分自身の声を聞く時間なのかもしれません。

タナフの詩篇にはこうあります

「人は外見を見て主は心を見る」(サムエル記I 16:7)

フォロワー数やいいねは外側の表面であって、あなた価値を測る基準ではありません。

ユダヤ教的に言えば、次のような方向性がありえます

あなたが今感じているつらさは、神の罰ではなく、むしろ 成長や方向転換の静かなプロセスかもしれません。

Permalink |記事への反応(0) | 07:07

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2025-11-05

anond:20251105191903

とても興味深いテキストですね。

内容としては、現代的なニヒリズム虚無主義)を感じさせます

人生意味はない、努力も業績も最終的には消える、誰も自分を見ていないという主張は、ある種の哲学的冷徹さをもって書かれています

ユダヤ教的な観点から見ると、これは根本的に人間世界に対する視点が異なると言えます。以下に、ユダヤ思想との対比を示します。

1. 誰もお前を見ていない vs. 神は見ている

この文書根底にあるのは、他者視線から自由になることで救われるという思想です。

一方、ユダヤ教では他者よりも神の視線が中心にあります

「人は心を見ることができないが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)

まり、たとえ人間あなたを見ていなくても、神はあなた内面と行いを見ている。

この認識は、ユダヤ的な倫理観の根幹です。

人の目を気にすることから自由になるのはよいが、それを誰も見ていないから何も意味がないと結論づけるのではなく、神が見ているからこそ自分の行いには意味があると捉えるのがユダヤの方向です。

2.努力意味を持たない vs.努力のものに聖性がある

この文書は、努力も結局消えるという無常観を述べます

ユダヤ教も確かに人間人生ははかないと認めますが、それを無意味とは見ません。

「われらの手のわざを確かにしてください」(詩篇 90:17

ラビ・アキヴァなど多くの賢者は、「行為の結果が見えなくても、行為自体が神の意志の一部である」と教えます

タルムードアボット 2:16)ではラビ・タルフォンがこう言います

あなたはすべての仕事を終える義務はないが、それを怠る自由もない。」

たとえ努力の結果が風化しても、その努力の瞬間は永遠価値を持つのです。

なぜなら、それは神の創造継続参与しているからです。

3. すべては無に帰す vs. 無の中に隠された神の目的

文書最後には無意味を受け入れたときに人は自由になるとあります

これは禅や現代哲学の影響にも似ています

ユダヤ思想でも、「アイン(אין)=無」という概念重要です。カバラでは、「アイン・ソフ(אין סוף)」=「限りなき無限なる神」として語られます

しかしその「無」は、意味の欠如ではなく、意味の根源です。

まり無意味ではなく、意味理解を超えたもの

人間には意味が見えなくとも、神の次元では秩序と目的存在すると考えます

4.意味求めない自由 vs. 神との関係における自由

ユダヤ教では、意味求めないことは自由ではなく放棄とみなされます

自由とは、神の像に似せて創造された存在として、自らの責任を引き受ける自由です。

「見よ、今日、私は命と善、死と悪をあなたの前に置く」(申命記 30:15)

ユダヤ教における自由は、何でもできるではなく、正しいことを選ぶ力です。

したがって、意味求めない自由よりも、意味を創り出す自由が尊ばれます

✡ 総括

この文章洞察は、一面では他者の期待から自由になるという点で真理を含みます

しかし、ユダヤ視点では意味否定は救済ではなく、神との関係の断絶です。

真の救いは、意味を見出せない時にもそれでもなお意味があると信じるところにあります

「たとえ彼が私を殺しても、私は彼に望みをかける」(ヨブ記 13:15)

Permalink |記事への反応(0) | 19:25

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2025-10-26

anond:20251026014624

ユダヤの教えには、「親に対する敬意」というテーマが非常に重く、深く扱われていますトーラー律法)にもはっきりと書かれています

あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20:12申命記 5:16)

現代ではSNSなどで自分感情を発信しやすくなっていますが、ユダヤ視点から見ると、親を公の場で批判したり恥をかかせたりすることは非常に慎むべき行為とされますタルムードでは次のように教えています

キドゥシン31a

「父や母に対して言葉で恥をかかせる者は、神の前でも罪を犯す。」

また、「ラションハラー(悪い言葉他人貶める言葉)」の禁止関係します。

ハフェツ・ハイム(Chafetz Chaim)は、「たとえ真実であっても、他人の悪を公に語ることは神の意に反する」と説きました。親もその「他人」に含まれます

ネット上に悪口を書くことは、まさに「公開の場で恥をかかせる」行為です。

もし親との関係が苦しく、傷ついている場合感情を抑え込むのではなく、「安全な形で」「尊敬を保ちながら」助けやカウンセリングを求めることが勧められます

トーラーが命じる「敬意」とは「盲目的な服従」ではなく、「人間としての尊厳を保ちながら関係を築こうとする努力」です。

詩篇 34:14

「悪を避け、善を行い、平和を求め、それを追い求めよ。」

1. 親を公に恥じ入らせないこと — 敬意の基本。

2. 怒りや苦しみを表すなら、建設的な形で — 信頼できる人・ラビカウンセラー相談する。

3.言葉現実を作る —ネットでの言葉も「ミツヴァ(善行)」にも「アヴェラ(罪)」にもなる。

ですから、もし親との関係で心が苦しいなら、ユダヤの教えは「沈黙しなさい」ではなく、「癒しと修復に向かう道を選びなさい」と呼びかけます

Permalink |記事への反応(0) | 01:56

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2025-10-19

愚痴ネット上に書けば発散できる」という現代的発想は、ユダヤ教的にどう映りますか?

愚痴ネット上に書くことで気が晴れる」という現代的な行為を、ユダヤ教的な視点から考えると、いくつかの重要な要素が浮かび上がります

1.言葉の力への意識

ユダヤ教では「言葉」は非常に大きな力を持つと考えられています

箴言ミシュレイ)18:21 にこうあります

"死も生も舌の力にある。"

まり言葉は単なる表現ではなく、現実を創り、人を癒すことも傷つけることもできるものとされます

SNS愚痴を書くとき、その言葉他者を傷つけたり、不必要な争いを招く可能性があるなら、ユダヤ教的には慎重になるべきと考えられます

2.ラションハラ悪口中傷)の禁止

タルムード(Arachin 15b)では、ラションハラ他人について悪く言うこと)を非常に重い罪として扱います

この教えは、単なる噂や愚痴でも、人の評判を傷つけることにつながるなら禁じられる、というものです。

ネット上に愚痴を書いても、もし誰かの名誉人格を損なうような内容を含むなら、それはラションハラにあたる可能性があります

たとえ名前を出さなくても、誰のことか推測できるような形なら注意が必要です。

3. 「心の健康」と「建設的な発散」

一方で、ユダヤ教人間感情否定しません。

悲しみ、怒り、失望といった感情を持つの自然なことです。詩篇(Tehillim)では、ダビデ自身が神に対して嘆きや怒りを正直に吐露しています(例:詩篇13篇、22篇など)。

ただし、彼はそれを「神に対して」表現しています。つまり自分愚痴や苦しみを神との対話に変えるのです。

この姿勢は、感情をただ撒き散らすのではなく、内省と成長の糸口に変えるという点で重要です。

4.ユダヤ提案ネットよりも「人」や「神」へ

もし愚痴を発散したいなら、ユダヤ教的には:

  • 信頼できる友人、ラビ家族などに直接話す(Mishnah Avot 1:6:「自分のために師を持ち、友を得よ」)
  • または、祈り日記を通じて神に心情を語る

といった形のほうが望ましいと考えられます

これは他者を巻き込まず、同時に自己理解を深める方法でもあります

まとめ

ユダヤ教視点から言えば:

判断根拠
感情を吐き出すこと自体肯定的詩篇などでダビデも嘆きを表現している。ただしネットでpublic発言するのは注意。
他者を傷つける愚痴中傷否定ラションハラ禁止(Arachin 15b)
感情神との対話内省に変える 推奨詩篇・アヴォートの教え

Permalink |記事への反応(0) | 23:03

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なぜ現代では愚者ほどSNS評価されるのでしょうか

この現象は、タナフ(聖書)やタルムードでもたびたび語られています

「なぜ悪や愚かさが目立ち、善や知恵が隠されるのか」

これは古代から人間が抱き続けてきた問いです。

1.聖書視点:「この世」と「来世」の区別

詩篇 73篇でアサフはまさに同じ苦しみを語っています

「なぜ悪しき者は栄え、傲慢な者が安らかに生きるのか。」—詩篇 73:3

彼は、愚か者が栄える現実を見て心が乱れました。しかし彼は神殿に入り、悟ります

「神の聖所に入って、私は彼らの終わりを悟った。」—詩篇 73:17

まりユダヤ視点では、今見える「栄え」は最終結果ではないのです。

SNS評価や人気は、「この世」の一時的な見せかけ(הֶבֶל, hevel=虚しいもの)にすぎません。

コヘレト伝道の書)1:2でもこうあります

「すべては虚しい(הֲבֵל הֲבָלִים, hevel havalim)。」

2.タルムード洞察:誰のための「評価」か

タルムード(エルヒン 15b)はこう言います

「人は、自分時代に称賛されるかどうかで真の価値を測ってはならない。」

真の価値は「天の裁き」で決まる。世間の人気は、多くの場合「耳に心地よい言葉」を語る者に与えられる。

しかトーラーの真理は、しばしば人に「挑戦」と「不快」を与えるものです。

からラビたちが評価されないことは、実は彼らが真理を語っている証拠でもあるのです。

3.現代観点:光が強いほど、影も濃く見える

カバラ的に言えば、世界は「クリッパー(קליפות, 外殻)」に覆われています

これは善の光を隠す「殻」のような力です。

SNS世俗文化の多くは、この「殻」の領域に強く働きます。なぜなら:

  • 愚かさや刺激は、人間欲望を直接くすぐる。
  • 善や知恵は、心の静けさを必要とする。

光は常に控えめで、影はいつも派手に目立ちます

でも、本物の光は静かに世界を変える。

派手な炎はすぐ消えるが、ランプの灯は長く燃える、という比喩タルムードにもありますシェバット 31a)。

4.ラビたちへの「報酬」:隠れた栄光

ピルケイ・アヴォット(祖先言葉)4:2にこう書かれています

「ミツワーはミツワーを生み、罪は罪を生む。」

まり、善の結果は目に見えないところで積み重なり、最終的に永遠世界で報われる。

そして、アヴォット4:3はこうも言います

「どんな人も軽んじてはならない。どんな行いも無視してはならない。すべての人に時がある。」

ラビや善人の評価が表に出ないのは、彼らの時がまだ来ていないだけなのです。

5.あなたへの霊的な指針

SNS世界では「声の大きさ」が価値のように見えます

しかユダヤ教では、「静けさ」が神に近い状態とされます

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」—詩篇 46:10

もしあなたが「善が報われない」と感じるなら、それは神があなたに「外ではなく、内に目を向けよ」と促しているサインかもしれません。

まとめ

世俗価値ユダヤ視点
人気・フォロワー 神の前での誠実さ(אמת, emet)
目立つことが成功 隠れた善が真の成功
今この瞬間の評価永遠次元での評価
愚者が栄える賢者は神のもとで報われる

この問いはまさに「アサフの苦悩」と呼ばれる、霊的成熟の通過点です。

あなたがその痛みを感じていること自体、すでに魂が真実を求めている証拠です。

Permalink |記事への反応(0) | 13:13

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引き寄せの法則」に対しユダヤ教はなんと応じますか?

引き寄せの法則」や「思考現実を作る」という考え方は、近代的なスピリチュアル思想でよく語られますが、根本的な違いも明確です。以下に整理して説明します。

1.ユダヤ教における人間思考現実関係

ユダヤ教では、人間思考言葉には霊的な力があると考えます

箴言ミシュレ)18:21にはこうあります

「死と生は舌の力にあり。」

まり、人の言葉思考現実を動かす潜在力を持ちます

ただし、それは「自分宇宙を動かす」意味ではなく、人の思考言葉を通じて、神が世界に影響を与えるという考え方です。

2. 「引き寄せ」ではなく「祈り」と「信頼」

ユダヤ教では、「引き寄せる」というよりも、「祈る」という行為が中心です。

祈り目的は「自分思考現実を変える」ことではなく、自分自身を神の意志に整えることです。

ラビ・シュネウル・ザルマン(ハバド思想創始者)はタニヤでこう述べています

「人の思考現実を形づくる力を持つが、それは神の意志に一致しているときにのみ力を発揮する。」

まりユダヤ視点では:

という位置づけです。

3. 「思考現実を作る」の危険

ユダヤ教は、人間神格化することを避けます

自分思考現実を創る」という考え方が強くなりすぎると、偶像崇拝(アヴォダ・ザラ)の一歩手前になってしまう恐れがあります

なぜなら、それは「自分意志宇宙の中心」とする発想だからです。

申命記 8:17–18にこうあります

あなたが心の中で『私の力と手の強さがこの富を得た』と言ってはならない。あなたの神、主を覚えなさい。」

まり成功や変化の根源は自分思考や力ではなく、神の導きであるということです。

4.ユダヤ的「思考の力」:ビトホン(信頼)とアハヴァ(愛)

一方で、ユダヤ教は「信頼」の力を非常に重視します。

人が神に全き信頼を置くとき、神の祝福がその人を通して現れる。これも一種の「霊的な引き寄せ」です。

詩篇37:3–5にこう書かれています

「主に信頼し、善を行え。…主を喜べ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

ここでいう「願いが叶う」とは、自分欲望を叶えるというより、神との調和の中で自分の願いが浄化され、現実化されるという意味です。

まとめ

観点引き寄せの法則ユダヤ教の考え
力の源自分思考
目的現実を思い通りに変える自分を神の意志に整える
方法イメージ自己暗示祈り、信頼、トーラー実践
結果自己実現 神との関係の深化と祝福

もしあなたが「ユダヤ的な引き寄せ」を実践したいなら、それは「神を信頼し、良い思考言葉を持ち、善行を積むこと」です。

それが最も強力な「霊的引き寄せ」の形といえるでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 12:58

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2025-10-12

観測限界宇宙の大きさや最小要素を決めるなら、認識能力が高すぎると不幸なのですか?

この質問は「世界限界私たち認識限界によって決まるのか」、そしてそれが「幸せ」にどう関係するのか、という哲学的テーマを含んでいます

1.観測限界カバラ視点

ユダヤ思想、とくにカバラユダヤ神秘思想)では、私たちの知覚は神の無限(אין סוף /Ein Sof)のごくわずかな現れしか見ることができないと説かれます

創造世界は「צמצום(ツィムツーム)」— 神が自らを「縮めて」存在を顕した結果とされます

まり限界があるからこそ世界存在できるのです。

もし認識能力無限になれば、ツィムツームの「隙間」が消えて、すべてがEin Sofに吸収されてしまう。

そこには「私」と「他者」も「経験」もなくなってしまう。

したがって、限界は不幸ではなく、存在の条件なのです。

2. 「知りすぎる不幸」 —タルムード的考え

タルムードにも似た感覚があります

ラビ・エリシャ・ベン・アブイヤ(通称「アヘル」)の物語(Chagigah 15a)では、彼は神秘知識を求めすぎて、最終的に信仰を失ってしまます

知識のものは悪ではありませんが、人が自分の器以上の光を受けようとすると破裂してしまうという警告です。

3.幸せとは何か

詩篇(Tehillim)16:11にこうあります

"תּוֹדִיעֵנִי אֹרַח חַיִּים שׂבַע שְׂמָחוֹת אֶת־פָּנֶיךָ"

あなたは命の道を私に知らせてくださる。御顔の光に満ち足りた喜びがある。」

ここでは、真の幸せは全てを知ることではなく、「命の道」を知ることだと示されます

まり限界の中で神の道を見いだすことが、幸せにつながるのです。

まとめ

観測認識限界は、存在のもの可能にする神の配慮(ツィムツーム)。

認識能力が高すぎることは、必ずしも幸福ではなく、時に破壊である(アヘルの教訓)。

幸福は「全知」ではなく、「限られた中で神と調和して生きる」ことにある。

Permalink |記事への反応(0) | 07:44

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2025-10-05

科学万能主義者に対し、タルムードはなんと警告しますか?

科学万能主義」つまり人間の理性や科学知識こそが世界のすべてを理解し、制御できると信じる考え方に対して、タルムードユダヤ思想は明確な警告を発しています

タルムード(Berachot 33b)に次のような言葉があります

「すべては天の御手の中にある。ただし、人が神を畏れることは別である。」

これは、人間の知恵や能力科学を含む)は神の創造した秩序の一部であり、完全な独立性を持たないことを教えています

科学は善ですが、それが「神の畏れ」を失わせると、危険傲慢へと変わります

タルムードTa’anit 7a)には次のように述べられています

「学ぶ者の徳(人格)がその知恵を上回るならば、その知恵は続く。だが、知恵が徳を上回るならば、その知恵は続かない。」

科学知識が増えても、それを導く倫理謙虚さ・神への敬意が伴わなければ、その知識社会人類を危うくする、これがタルムードの警告です。

ユダヤ思想では、科学のもの否定しません。むしろ、神が創った自然法則理解する行為として、科学探求を肯定します。

詩篇(Tehillim 111:2)にはこう書かれています

「主のみわざは大いなるかな。これを喜んで探る者はみなそれを尋ねる。」

まり科学探求は「神のわざを探る」ことでもありますが、それが「神の代わりになる」と思い上がる瞬間に、人間は道を誤るというのです。

タルムード観点からの警告はこうまとめられます

Permalink |記事への反応(1) | 17:09

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2025-10-04

神はなんで俺を無力に作ったの?

ユダヤ伝統では、「無力さ」「弱さ」は決して無意味ではなく、むしろ神と人との関係の核心にあると考えられています

タナフの中では、神は人間を「土のちりから」(創世記 2:7)造られたと書かれています

まり限界やもろさを持った存在として人間が創られたこ自体が神の意志なのです。

しかし同時に、その「ちり」に神の霊を吹き込んだとあります。これは、人の無力さの中にも神性が宿っていることを示しています

また詩篇にはこうあります

「主は砕かれた心に近く、打ちひしがれた霊を救われる」(詩篇 34:19)

まり、無力さや弱さを感じるその場所こそ、神との出会いの場になりうるのです。

タルムードでも、人間の弱さや不完全さは「試練」ではなく「成長のための条件」として語られます

ラビたちは「強いのは誰か?自分欲望征服する者だ」(アヴォット 4:1)と言います。外的な力ではなく、内的な克己こそが強さとされるのです。

ですから、「なぜ無力に作られたのか」という問いは、「その無力さをどう神との関係意味づけるか」「その無力さからどのように成長するか」という道に開かれている、とユダヤ伝統は教えます

Permalink |記事への反応(0) | 02:57

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2025-09-14

トランプ政権途上国援助予算を削っても宇宙開発予算は削らない理由

B:トランプ政権って、途上国援助の予算はバッサリ削ったのにNASA予算は守ったんだって?どっちも生活に直結しないのに、なんで宇宙開発だけ特別扱い

A: それはアメリカ保守派文化宗教観関係しているんだよ。ポイントは「ドミニオン」っていう聖書の考え方。

B:ドミニオンって何?

A:聖書創世記に「地を従わせよ、すべての生き物を治めよ」って神の命令がある。英語だと「have dominion」って言って、人類に与えられた使命と解釈される。自然管理し、文明を発展させる責任があるっていう発想だね。

B: ふーん、それが今の政策とどう関係あるの?

A:アメリカ保守派自分たちを「神に選ばれた民」だと考える伝統があって、新大陸開拓西部進出を神の計画の一部として理解してきた。その延長で宇宙も「最後フロンティア」と呼ばれるようになったんだ。だから宇宙探査は「使命を果たす行為」として語りやすい。

B: じゃあ途上国援助は?

A: そこが違う。保守派も援助自体は嫌いじゃないけど、本音では「福音を伝えながら」やるのが理想。ところが政府機関のUSAIDは宗教抜きで援助するし、リベラル価値観を条件にすることもあるから保守派にはむしろ不愉快に映る。「自分たち税金で、リベラル派の価値観押し付けてるだけじゃないか」と思われがちなんだ。

B: なるほど、そこは宗教観とぶつかっちゃうんだね。

A: そう。だからUSAIDは同床異夢ができない。保守派から見れば価値観対立がはっきりしてるから支持が集まりにくい。予算削減しても政治的に痛手が少ないんだ。

B: でもNASAは?

A:NASAは逆で、いろんな立場の人がそれぞれ別の夢を投影できるんだ。科学者にとっては純粋科学軍事にとっては宇宙安全保障産業界にとってはビジネスチャンス。そして保守派にとっては、神が作った宇宙人類支配する使命――いわば「宇宙ドミニオン」の実践になる。しかも、現実宇宙人が現れて神学的難問が突きつけられない限り、宗教とも衝突せずに同床異夢が成立する。

B:宇宙探査って、宗教的にもそんなに意味があるんだ?

A: そうだよ。たとえばマイク・ペンス副大統領は、NASA関連の演説詩篇引用してこう言ったんだ。「たとえ天にまで行こうとも、主の御手が我々を導き、その右の御手が我々をしっかりと支えてくださる」。これは「宇宙探査は神に導かれた使命だ」というメッセージのものだよ。

B: なるほど、それなら宗教保守派宇宙開発応援やすいね

A: そう。宇宙開発アメリカ人にとって「新しい天地を切り開く使命」であり、同時に神学的にも「神が作った宇宙理解し、人類舞台にしていく行為」として意味づけられる。だから国民生活に直結しなくても、文化アイデンティティを満たす政策として維持されやすいんだ。

B:途上国援助はそうはいかない、ってわけか。

A: そう。途上国援助は「誰の価値観でやるか」がすぐ衝突を生むし、宗教保守派が納得する形にはしにくい。NASAは「アメリカの使命」「人類未来」「神の創造舞台」という物語を共有できるから、同床異夢でまとまりやすいんだ。

B: つまり宇宙開発は、みんなが自分物語投影できる「安全な夢」なんだね。

A: その通り。だからこそ、トランプ政権はUSAIDを削ってもNASAは削らなかった。宇宙国民生活以上に、アメリカ自己像を支えているからなんだ。

Permalink |記事への反応(1) | 19:54

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2025-08-21

悪魔と交わる魔女について。なぜ女性が主として邪悪迷信に溺れるのか?悪魔と交わる魔女については、そのような忌まわしい行為いかにして遂行されるかという方法考察するにあたり、多くの困難がある。悪魔の側について:第一に、悪魔が装う肉体がいかなる元素から成るか;第二に、その行為に常に他者から受け取った精液の注入が伴うか;第三に、時と場所について、ある時期に他の時期よりも頻繁にこの行為を行うか;第四に、その行為が傍らに立つ者に見えないものか。そして女性の側について調べるべきは、このような汚らわしい方法で自らが懐胎された者のみが悪魔に頻繁に訪問されるのか;あるいは第二に、出生時に産婆によって悪魔に捧げられた者なのか;そして第三に、そのような者の実際の肉欲の快楽がより弱い種類のものなのか。しかし、我々はここでこれらすべての問題に答えることはできない。なぜなら我々は一般的研究にの従事しており、また本書の第二部において、第四章に現れるように、それらはすべてその働きによって個別説明されるからである。そこでは各々の別々の方法について言及されている。 それゆえ、今は主として女性考察しよう;そして第一に、なぜこの種の不信仰男性よりもかくも脆弱な性により多く見出されるのか。そして我々の探求は、第一女性一般的条件についての一般論、第二に迷信と魔術に身を委ねる女性の種類についての個別論、そして第三に、邪悪さにおいて他のすべてを凌駕する産婆についての特論となろう。迷信が主として女性に見出される理由第一問題、なぜより多くの魔女脆弱女性の性に男性よりも見出されるかについて;これは実際、信頼できる証人言葉による証言を別としても、実際の経験によって証明されているのであるから反駁することは無意味である事実である。そして神が常にその威力を広めることにおいて大きな栄光を取られた性を決して貶めることなく、この事実について様々な人々が様々な理由を挙げてきたが、それらは原則において一致していると言おう。それゆえ、女性への戒めのためにこの問題について語ることは良いことであり、それが慎重さをもって説かれる限り、彼女らがそれを聞くことを切望することが経験によってしばしば証明されている。 ある学識ある人々はこの理由提示する;自然界には三つのもの、すなわち舌、聖職者、そして女性があり、これらは善においても悪においても節度を知らない;そして彼らがその状態境界を超えるとき、善と悪の最高点と最低点に達する。彼らが善なる霊に支配されるとき、徳において最も優れているが、悪なる霊に支配されるとき、最悪の悪徳に耽る。 これは舌の場合に明らかである。その働きによって多くの王国キリスト信仰へともたらされ、聖霊キリスト使徒たちの上に火の舌として現れた。他の学識ある説教者たちもまた、死にゆラザロの傷と腫れ物を舐める犬の舌のようであった。言われているように:犬の舌をもって汝らは敵から魂を救う。 この理由で、説教師団指導者で父である聖ドミニコは、口に火のついた松明をくわえて吠える犬の姿で表される。今日に至るまで彼がその吠え声によってキリストの羊の群れから異端の狼どもを追い払わんがためである。 また一人の思慮深い人の舌が群衆の言い争いを鎮めることができるのも共通経験である;それゆえソロモン箴言10章で彼らの賞賛を多く歌うのは当然である:「悟りある者の唇には知恵が見出される。」そしてまた「正しき者の舌は選りすぐりの銀のごとし:悪しき者の心は価値少なし。」そしてまた「正しき者の唇は多くを養う;しか愚か者は知恵の欠如のため死す。」この理由で彼は第16章で付け加える「心の備えは人に属するが、舌の答えは主から来る。」しかし悪い舌については、シラ書第28章に見出すであろう:「中傷する舌は多くを不安にし、国から国へと追いやった;強固な城を引き倒し、偉人の家を覆した。」そして中傷する舌とは、争う二者の間に軽率にあるいは悪意をもって干渉する第三者意味する。 第二に、聖職者について、すなわち男女を問わず聖職者修道者について、聖ヨハネ・クリュソストモスは「彼は神殿から売り買いする者たちを追い出した」の箇所でこう語る。司祭からすべての善が生まれ、すべての悪が生まれる。ヒエロニムスはネポテアヌスへの書簡で言う:貧困から富へ、低い地位から高い地位へと上った商売をする司祭を疫病のように避けよ。そして福者ベルナルドゥスは詩篇についての第23説教聖職者について言う:もし公然たる異端者として立ち上がる者がいれば、彼を追放沈黙させよ;もし彼が暴力的な敵であれば、すべての善人は彼から逃れよ。しかし我々は誰を追放し誰から逃れるべきかをいかに知るのか?彼らは親しげで敵対的平和的で好戦的、隣人的で全く利己であるからである。 そして別の箇所で:我らの司教は槍兵となり、我らの牧者は毛を刈る者となった。ここで司教とは、自分では小指で触れることもしない重い労働を部下に課す傲慢修道院長たちを意味する。そして聖グレゴリウスは牧者について言う:聖性の名前位階を持ちながら罪の中に生きる者ほど教会において害をなすはいない;誰も彼の罪を告発する勇気がなく、それゆえ罪が広く広がる。罪人がその位階の聖性のゆえに敬われるからである福者アウグスティヌスもまたドナトゥス派のヴィンセンティウスに修道士について語る:我らの神である主の前で汝の愛徳に率直に告白するが、これは神に仕える者となって以来の我が魂の証人であるが、修道院を飾るか辱めるか以上に良くも悪くもない人々を見出すことが不可能であるという事実において、我が経験した困難は甚大である。 さて、女性邪悪さについてはシラ書第25章で語られている:「蛇の頭の上にある頭はなく、女性の怒りの上にある怒りはない。獅子や竜と住むほうが、邪悪女性と家を保つよりましである。」そして邪悪女性についてその箇所で前後に述べられる多くの中で、彼は結論する:「すべての邪悪女性邪悪に比べれば小さなものである。」それゆえ聖ヨハネ・クリュソストモスは「結婚するのは良くない」(マタイ第19章)の箇所でこう言う:女性とは友情の敵、逃れられない刑罰必要な悪、自然の誘惑、望ましい災い、家庭の危険、魅惑的な害悪、美しい色で塗られた自然の悪以外の何であろうか!それゆえ、彼女を保つべき時に離縁するのが罪なら、それは確かに必要拷問である;我々は彼女を離縁することで姦淫を犯すか、日々の争いに耐えなければならないかであるキケロは修辞学第2巻で言う:男性の多くの欲望は彼らを一つの罪に導くが、女性欲望は彼らをすべての罪に導く;すべての女性悪徳の根は貪欲からである。そしてセネカ悲劇で言う:女性は愛するか憎むかである;第三の段階はない。そして女性の涙は偽りである;真の悲しみからまれることもあれば、罠であることもある。女性が一人で考えるとき彼女は悪を考える。しかし善い女性については多くの賞賛があり、我々は彼女らが人々に至福をもたらし、国民土地都市を救ったと読む;ユディトデボラエステル場合に明らかなように。コリント第一第7章も参照:「もし女性に信じない夫がいれば、彼女は彼を去らせてはならない。信じない夫は信じる妻によって聖化されるからである。」そしてシラ書第26章:「有徳な妻を持つ人は幸いである。彼の日数は二倍となるであろう。」そしてその章全体を通じて善い女性の優秀さについて多くの高い賞賛が語られている;箴言最後の章でも有徳な女性について同様である。 そしてこのすべては新約聖書においても女性処女とその他の聖なる女性たちについて明らかにされている。彼女らは信仰によって国民王国偶像崇拝からキリスト教へと導いた。ヴィンケンティウス・ベルヴァケンシス歴史の鏡、第26巻第9章)を見る者は、最もキリスト教的なジゼラによるハンガリー改宗と、クロヴィスの妻クロティルドによるフランク族改宗について驚くべきことを見出すであろう。それゆえ、女性に対して読む多くの非難において、「女性」という言葉は肉の欲望意味するために使われている。言われるように:「我は死よりも苦い女性見出した」、そして「肉欲に従う善い女性」。 また他の者たちは、男性よりも迷信的な女性が多く見出される他の理由提示した。第一は、彼女らがより軽信的であること;そして悪魔の主要な目的信仰堕落させることであるから、それゆえ彼はむしろ彼女らを攻撃する。シラ書第19章を参照:「信じやすい者は軽率であり、減ずるであろう。」第二の理由は、女性自然により感受性が強く、肉体のない霊の影響を受ける準備がより整っていること;そして彼女らがこの性質を良く用いるとき彼女らは非常に善いが、悪く用いるとき彼女らは非常に邪悪である。 第三の理由は、彼女らが滑らかな舌を持ち、邪悪な技によって知ったことを仲間の女性たちから隠すことができないこと;そして彼女らは弱いので、魔術によって自らを復讐する簡単秘密方法を見出すことである上記引用したシラ書を参照:「獅子や竜と住むほうが、邪悪女性と家を保つよりましである。すべての邪悪女性邪悪に比べれば小さなものである。」そしてこれに加えて、彼女らは非常に感受性が強いので、それに応じて行動する。 また説教者が用いることについて非常に注意すべき他の理由提示する者たちもいる。旧約聖書において聖書女性について悪く語ることが多いのは真実であり、これは最初の誘惑者エヴァとその模倣者たちのためであるが;その後新約聖書においては、(聖ヒエロニムスが言うように)エヴァからアヴェへというような名前の変化を見出しエヴァのすべての罪がマリアの祝福によって取り去られた。それゆえ説教者は常に可能な限り彼女らの賞賛を語るべきであるしかし、この時代においてこの不信仰男性よりも女性により頻繁に見出されることを我々が実際の経験によって学ぶのであるから、もし誰かがその理由を知りたがるなら、我々は既に述べたことに以下を付け加えることができる:彼女らは心身ともにより脆弱であるから、魔術の呪文の下により陥りやすいのも驚くことではない。 知性について、すなわち霊的なことの理解について言えば、彼女らは男性とは異なる性質であるように思われる;これは聖書からの様々な例によって裏付けられた権威者論理によって証明される事実である。テレンティウスは言う:女性知性的子供のようである。そしてラクタンティウス(教育、第3巻):テメステを除いて哲学理解した女性はいない。そして箴言11章は、まるで女性描写するかのように言う:「豚の鼻の金の輪のように、美しいが思慮のない女性である。」しか自然理由は、彼女男性よりもより肉的であることであり、これは彼女の多くの肉的な忌まわしさから明らかである。そして最初女性形成に欠陥があったことが注目されるべきである彼女は曲がった肋骨、すなわち胸の肋骨から形成されたからであり、これは男性に対して反対の方向に曲がっている。そしてこの欠陥により彼女は不完全な動物であり、常に欺く。カトーが言うように:女性が泣くとき彼女は罠を編む。そしてまた:女性が泣くとき彼女男性を欺くために労苦する。そしてこれはサムソンの妻によって示される。彼女は彼がペリシテ人提示した謎を告げるよう彼を騙し、彼らに答えを教え、かくして彼を欺いた。そして最初女性信仰が少なかったことは明らかである;蛇がなぜ彼らは楽園のすべての木を食べないのかと尋ねたとき彼女は答えた:「すべての木について、等々-恐らく我らが死ぬことのないように。」それによって彼女は疑い、神の言葉への信仰が少ないことを示した。そしてこのすべては語源によって示される;フェミナ(女性)はフェ(信仰)とミナス(より少ない)から来るからであり、彼女信仰を保持し保存することにおいて常により弱いかである。そしてこれは信仰に関して彼女の本性である恩寵自然の両方によって、キリスト受難の時、すべての人において失われた時でも、祝福された処女において信仰は決して失われなかったが。 それゆえ邪悪女性は、その性質により信仰において動揺しやすく、結果として信仰を棄てやすく、これが魔術の根である。 そして彼女の他の精神性質、すなわち自然意志について;彼女が以前愛していた誰かを憎むとき、海の潮流が常に波立ち沸騰するように、彼女の魂全体で怒りと性急さで煮えたぎる。多くの権威者がこの原因について言及する。シラ書第25章:「女性の怒りの上にある怒りはない。」そしてセネカ悲劇、第8巻):炎の力も膨らんだ風も、致命的な武器も、結婚の床から離縁された女性欲望憎悪ほど恐れられるものはない。 これはヨセフを偽って告発し、彼女との姦淫の罪に同意しなかったために彼を投獄させた女性においても示される(創世記第30章)。そして魔女の増加に寄与する最も強力な原因は、既婚者と未婚の女性男性の間の嘆かわしい競争である。これは聖なる女性の間でさえそうであるから、他の者の間ではいかばかりであろうか!創世記第21章でサラがハガルの懐妊に対していかに性急で嫉妬深かったかを見よ:ラケル子供がいないためにレアいか嫉妬たか創世記第30章):そして不妊であったハンナが多産なペニンナを(列王記上第1章):そしてミリアムがモーセについてつぶやき悪く言い、それゆえらい病に打たれたか民数記12章):そしてマルタマリア・マグダレナ嫉妬たか彼女が忙しく働いている間にマリアが座っていたかである(ルカ第10章)。この点についてシラ書第37章:「彼女嫉妬する女性について、彼女相談してはならない。」つまり彼女相談することは無駄である邪悪女性には常に嫉妬、すなわち妬みがあるからである。そして女性が互いにこのように振る舞うなら、男性に対してはなおさらであろう。

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2025-07-31

ネットバカ話題で溢れているのは人間という存在設計ミス

Q:人間は「設計ミス」なのか?

A: いいえ、人間意図的に「未完成」に創られた存在です。

タナハ(聖書)ではこう語られています

「神はご自身のかたちに人を創造された」(創世記 1:27)

しかしそのすぐ後に、人間は間違い(エデンの園での罪)を犯します。

そして、タルムードニダー 16bなど)ではこうも語られます

「人が生まれる前に、天使は彼にすべてのトーラーを教え、彼はすべてを知っている。だが生まれる瞬間、その知識を忘れてしまう。」

まり人間は「完全ではない状態」で生きることを運命づけられています。なぜか?

これはタルムード的に見ると「自由意志」の問題です。

神は人間に「善と悪を選ぶ力」を与えました(申命記 30:19)

「命と死、祝福と呪いあなたの前に置いた。あなたは命を選びなさい。」

インターネットはこの「選択の自由」を広げた道具です。

それゆえ、価値ある知恵も、くだらない話題も、善も悪も、全てが並んで存在しています

タルムードハガーガー(Chagigah 15a)では、エリシャ・ベン・アブヤ(「アヘル」)というラビが、知識誤用して道を踏み外した話があります

彼はトーラーを知っていたが、その知識を神への謙虚さに使わなかった。

知識や道具は中立だが、それをどう使うかは人間次第。

インターネットが「バカ話題」で溢れているなら、それはむしろ自分が何を選ぶか、何に目を向けるかのテストでもあります

賢者はどこから学ぶのか?あらゆる人からだ」(タヒリーム /詩篇 119:99)

まり、「バカ話題」の中からも、何かを学ぼうとする姿勢が求められているのです。

Permalink |記事への反応(0) | 22:30

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2025-07-29

ユダヤ教ニューエイジ思想とは違う

引き寄せの法則」「風の時代」は、現代スピリチュアルの一部として知られています。これらはユダヤ教の教えとは明らかに一致しません。

人間意志祈りの力

ユダヤ教は、人間意志祈りを非常に重視します。

たとえばサムエル記では、ハンナが深く神に祈ったことで息子シュムエルが授かりました。

これは「願いが神に届く」という点で、一見すると、引き寄せの法則に通じるものがあります

ただし違いは誰に向かって願うのか。

ユダヤ教では神に向けた祈り重要であり、宇宙自分自身思考が直接現実をつくるという考えは採用しません。

神への信頼

ユダヤ教では「自分が望む結果が起こる」というよりも、「神の導きにすべてを委ねる信頼」が大切とされます

「主にあなたの重荷をゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。」(詩篇 55:23

まり、神の意志が最善であると信じ、安心して生きる姿勢が重視されます

積極的な行動

ユダヤ思想では、「ただ信じる・願う」だけでなく実際の努力を伴うことが重要です。

奇跡に頼るな」(シュルハン・アルーフなど)

まり「願えば叶う」ではなく、「祈って、信じて、努力する」ことが神にかなう生き方とされます

ユダヤ教は「星の力」や「時代エネルギー」を認めるか?

ユダヤ教古典文献、とくにタルムードには占星術の話が登場します。

ラビたちは「星の下に人が生まれる」という考えを知っていましたが、それに絶対的な力を認めていたわけではありません。

イスラエルには星占い支配しない」(タルムードシャバット 156a)

これは、神と直接の契約を持つイスラエル(=ユダヤ人)は、星や運命に縛られないという意味です。

まり、「時代の風」や「エネルギー」に流されるのではなく、トーラーとミツヴォットによって人生を導くべきだとされます

ある意味で、「時代に応じた使命」という考えはユダヤ教にも存在します。

しかしそれは「星やエネルギーによる変化」ではなく、神の意志による摂理です。

ダビデの詩:主はわが牧者、私には欠けるものがない」(詩篇23:1)

この詩のように、ユダヤ教では時代がどうであれ、神がすべての導き手であるとする信念が核にあります

まとめ1:ユダヤ教と「引き寄せの法則」の違い

観点引き寄せの法則ユダヤ教の教え
中心自分思考現実をつくる 神が現実を統べる
方法想像感謝・ビジュアライゼーション祈り(Tefillah)、努力(Hishtadlut)、トーラー学習
結果自分の願望が実現 神の意志が最善の形で実現

まとめ2:ユダヤ教と「風の時代」的価値観の違い

項目ニューエイジ(風の時代ユダヤ教立場
世界観宇宙エネルギー時代の流れが人生に影響する すべては神の御手の中にある(הכל בידי שמים)
自由・変化 「枠を超える」「自由流れる」ことが善とされる自由は大切だがトーラーに従う枠の中での自由が重視される
道徳 個々の「本当の自分」に従うことが正しいとされる 神が与えた道徳律(トーラー)に従うことが正義
価値観物質より精神、縛りより解放物質精神バランス必要、そして神の意志に従うことが根本

インスピレーションのことば

「主に仕えよ、喜びをもって」(詩篇 100:2)

人生で前向きな心を持ち、神を信頼し、善を求めることは、確かに「善を引き寄せる」人生につながります

ただしそれは「宇宙法則」「自己中心的世界」ではなく、「神との関係」の中で実現されるのです。

Permalink |記事への反応(0) | 23:06

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2025-04-13

シャローム

荒れた議論の波間に、美しい調和を求めるあなたの声は、まるで静かなシナイ山の風のように心地よく響きます

抽象数学超弦理論を語ろうというその心は、まさに「Tikkun Olam」(世界の修復)に通じています世界の混乱の中で、より高い次元思考を求める姿勢尊いものです。

混沌の中にも秩序があり、喧騒の中にも静けさがある。宇宙根本を探るその探究心は、きっと周囲にも良い刺激を与えるでしょう。

いつか、弦の振動のように、あなたのその言葉が周りの心にも美しい共鳴をもたらしますように。

「וְתִהְיֶה הַשָּׁלוֹם בְּתוֹכֵךְ」

—「そして平和あなたの中にありますように。」(詩篇 122:7)

Permalink |記事への反応(0) | 13:35

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2025-03-25

強靭精神の身につけ方

ユダヤ教観点から「どんな情報暴言誹謗中傷をされても平気でいられる強靭精神」を身につける方法を考えると、いくつかの大切な教えが浮かびます

1. ビトゥアホン(בטחון)

ユダヤ教では、「ビトゥアホン(בטחון)」、つまり 神への信頼を持つことが精神的な強さの基盤になります

詩篇(テヒリーム)56:4ではこう書かれています

「私は神に信頼する。私は恐れない。人が私に何をなしうるだろうか。」

もし、神があなたを導いていると信じるなら、人間言葉に揺さぶられることは少なくなります

2.ラションハラ(לשון הרע)を気にしない

ユダヤ教では、「ラションハラ悪口)」を避けることが非常に重要です。

しかし、人から悪口を言われることもあります。そのときに大切なのは、 「人の言葉価値を与えるのは自分自身」という考え方です。

ラビたちはこう言います

「もし人があなたのことを悪く言っても、あなたがそれを受け取らなければ、それはあなたのものにはならない。」

まり、誰かがあなたを悪く言っても、あなたがそれを気にしなければ、実質的ダメージゼロなのです。

3. アニ・リドゥミ(אני לדומי)

ユダヤ教では「静かに耐えること」も強さの一つとされています

ピルケイアボット倫理の教え)』4:1にはこうあります

「本当に強い人とは、自分自身抑制できる者である。」

怒りに反応するのではなく、冷静に受け流すことができる人こそ、精神的に最も強いのです。

4.アモールトーヴ(אמור טוב)

精神を強くするには、自分言葉の使い方も大切です。

もし人から悪口を言われたとき、 「悪には悪で返さない」 ことが大切です。

タルムード(タアニート 8a)ではこう教えられています

言葉は剣よりも鋭い。しかし、優しい言葉は傷を癒す。」

悪口を言われたときに、感情的に反応せず、むしろ「よい言葉」で返すと、相手の影響を受けにくくなります

5. 「エイン・オーデ・ミルヴァドー(אין עוד מלבדו)」

このフレーズは 「神以外に何も存在しない」 という意味です。

まり、「他人評価言葉は、神の前では無意味だ」と考えれば、誹謗中傷を気にする必要がなくなります

この考えを日々の中で強く持つことで、他人言葉から自由になれるのです。

結論

ユダヤ教の教えに基づく強靭精神を身につけるには:

1. 神を信頼する(ビトゥアホン)

2. 人の悪口を気にしない(ラションハラを受け取らない)

3. 静かに耐える力を持つ(アニ・リドゥミ)

4. 良い言葉を使い、感情的に反応しない(アモールトーヴ)

5. 神以外に恐れるものはないと知る(エイン・オーデ・ミルヴァドー)

このような教えを実践することで、他人言葉に動じない強い心を育むことができます

そして、ユーモアを忘れずに!もし誰かがあなた侮辱したら、心の中でこう言いましょう:

「おお、また修行のチャンスをもらった!」 😆

Permalink |記事への反応(0) | 19:36

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2024-12-31

謙虚さとはなにか

聖書における謙虚さは、人間の有限性と神の絶対性の対比からまれものであり、それは単なる道徳的美徳ではなく、人間存在根本に関わる霊的態度である

謙虚さは、神の御業に基づき、自己を見つめ、神の秩序の中で自己役割理解することによって深化する。

これは神との関係を基盤にして成立し、創造契約、裁き、赦しという聖書全体にわたるテーマに深く結びついている。

1.創造に基づく謙虚

創世記の冒頭に記される創造物語創世記 1-2章)は、謙虚さの根拠となる。

神は天地万物をその言葉によって創造し、人間は「神のかたち」として特別に造られた(創世記 1:27)。

しかし、この「かたち」とは神の全能を共有することを意味せず、むしろ神の被造物としての地位を明確に示すものである

アダムが塵から造られた(創世記 2:7)という描写は、人間が肉体的にも霊的にも神に依存する存在であることを物語る。

謙虚さとは、この依存認識し、被造物としての自己を受け入れる態度である

2.契約における謙虚

聖書には、神と人間の間に結ばれた複数契約が記されている。

ノア契約創世記 9章)、アブラハム契約創世記 15章)、モーセ契約出エジプト記 19-20章)は、いずれも人間が神の律法を守ることを求めるものだ。

この契約の中で、神は主権者であり、人間従属する存在である

イスラエルの民がしばしば契約を破り、神の裁きを受ける物語士師記、預言書全般)は、人間傲慢の愚かさと、謙虚に神の律法に従うことの重要性を強調する。

3. 裁きと謙虚さの学び

謙虚さは、神の裁きの中で学ばれる場合が多い。

例えば、ヨブ記におけるヨブの試練は、謙虚さを深く考察する重要物語である

ヨブは、自身の苦難に直面し、神の摂理に疑問を抱くが、神が自然界と宇宙の秩序を問いかける(ヨブ記 38-41章)中で、自分限界悟り、最終的に「私は塵と灰の中で悔います」(ヨブ記 42:6)と告白する。

ここでの謙虚さは、全知全能の神に対する人間無知と無力を認めることであり、神との関係回復する鍵となる。

4. 赦しに基づく謙虚

聖書では、謙虚さは赦しを受けるための条件ともなる。

ダビデの悔い改めの詩篇詩篇 51)は、罪を認め、神の憐れみにすがる謙虚さの典型である

彼は「あなたに対して、ただあなたのみに罪を犯しました」(詩篇 51:4)と告白し、神の赦しに依存する態度を示す。

このような謙虚さは、人間自己の力では救いを得られないことを悟り、神の恵みによってのみ生きることを受け入れる姿勢である

5. 神の知恵と謙虚

箴言伝道の書は、謙虚さを知恵の根本と結びつける。

「主を恐れることは知恵の初め」(箴言 9:10)という言葉は、謙虚さを神との正しい関係における認識として位置付ける。

伝道者の書では、「人は土に帰り、霊は神に帰る」(伝道の書12:7)と述べられ、人間の儚さと神の永遠性を対比している。

ここにおいて、謙虚さは虚無感ではなく、神の中に真の意味を見いだす態度として表現される。

総括

聖書謙虚さとは、人間が神の前で自己位置を正しく理解し、全能の創造主への信頼と従順を通じて成長する霊的態度である

それは自己否定ではなく、神の秩序と愛の中で自己発見する行為であり、創造契約、裁き、赦し、知恵というテーマを通じて人間の生の目的を照らし出すのである

この謙虚さは、神の御前での真の自由と平安をもたらす根源的な徳である

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2024-12-14

2024年に読んで良かった5冊の本(他年度も追記

追記

2021年から2023年の読んで良かった本とを紹介しています

『2021~2023年に読んで良かった本と2024年まで続いている影響』

https://note.com/kakeiakihiro/n/nd4afe617deb5

~~~~~~~~~

2024年は54冊読みました。

ブロガーとかがやっているピックアップ記事自分もやってみたかったので書きます

大賞 『最高の集い方――記憶に残る体験デザインする』

まりデザインがわかる本。

正直、集まりは嫌いだ。生産性が無いというか、実りがない。

行ったところで食事をして、言いたくもないことを話して、キャラじゃないことをやらされる。

そんな感じだった。

しかし、本書を読んで、やはりそういったイベント微妙に思えるのは当然のことだったと思えた。

実りのある集まりをする上で、必要なことが書かれていて、

など。

まりとは多くのことに繋がると思う。

日常生活で店に入ったり、テレビを観たり、そういう誰かの注目を得ることも、大きく「集まり」と言えるのではないか

自分が集まり主催するときは、実りあるものにしたいなあ。

技術賞『BIG THINGS どデカいことを成し遂げたヤツらはなにをしたのか?』

メガプロジェクトの本。

具体例が色々。エンパイアステートビルが100年前、18ヶ月で建てられたことや、日本の「もんじゅ」がどのように延期して廃止に至ったかも書いてある。オペラハウス歴史も知らなかった。

上手くいくアプローチが紹介されていて、

など。

メガプロジェクト数字が大きく、工期の延期や予算の超過や採算が合わないものが99.5%という。

ただこれはメガプロジェクト特有性質ではなく、小さなプロジェクトにも当てはまるという。

本質的には同じなんだろうなあ。

科学賞『Science Fiction あなたが知らない科学真実

科学研究実態と難しさについての本。

今まで読んできたものが覆されるような感覚がある。

科学真実に近づく方法であり、科学真実というわけではない。

科学者は必ずしも悪意があって不正をするのではなく、

があって、不正をするほど得になる環境になってしまっている。

小保方さんの話も出てきて、そういえばその上司自決していたな……と思い出し、不正お金や見栄だけの問題では無いと感じた。

読みながら、「見てきたものや聞いたこと 今まで覚えた全部 デタラメだったら面白い」と、ブルーハーツ情熱薔薇が流れていた。

健康賞『疲労とはなにか すべてはウイルスが知っていた』

疲労についての本。

疲労とは身体からアラートであり、無理やり無くそうとしても逆に身体を壊す。病的な疲労うつなど)は脳の炎症であることが多い。

うつ病について疲労視点から触れられていたのも良かった。まだ病気だと思っていない人もいるから。生理的観点から考察だけど、心因的な観点証拠が弱くなりがちだし。

エナジードリンクコーヒー比較面白かった。

1.エナジードリンクカフェインコーヒー以下。

2.エナジードリンク抗酸化成分が多い。

3. 「肝臓」のeIF2aリン酸化抑制

4. 脳が「疲れていない」と解釈

5. 休憩せずに身体ダメージが蓄積される。

軽い運動疲労回復する理由や、なぜ疲労があるのかというのも考察されていて面白かった。

疲労で鬱になるとかは今後修正されるかもしれないけど、休むことに若干の罪悪感みたいなものがあったので、疲れたら気兼ねなく休むようにしよう。

今の僕には理解できない賞『好き?好き?大好き?』

詩篇

『NEEDYGIRLOVERDOSE』というゲームプレイして、モチーフに『好き?好き?大好き?』があると知った。

読んだ感想としては……よくわからなかったです……。状況とか人間関係とかが。

ただ小説物語は何回か読んで自分の感じ方の違いを感じるものだと思うので、よくわからないという感想もアリだと思う。

最後はなんか綺麗な風景が見えた気がした。

好きな惣菜発表ドラゴン戸川純もこれが元なんだろうか。

その他良かったもの

『働くということ 「能力主義」を超えて』

能力主義への疑問と組織開発。

能力」が「高い」「低い」、だから「選ぶ」「選ばれる」。当たり前のようで、見えもしない「能力」で人を判断している。これが正しいのだろうか?

油断するとすぐに能力の優劣での説明に傾いてしまうので、『「できる」「できない」は状態のこと。固定的な能力ではない。』という言葉を忘れないようにしている。

感染法則ウイルス伝染から金融危機ネットミーム拡散まで』

感染に見られる共通法則ルール)について。

取り扱っているものが多いので、感染というもの日常に浸透していることに気付かされる。

私が読んだこれまでの本は自分で見つけたものじゃないし、誰かの影響に晒されて読んだものだし。

Permalink |記事への反応(8) | 16:05

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2024-11-15

anond:20241115214644

愚か者は心の中で『神などいない』と言う。」(詩篇14:1)とありますが、信仰は多くの人々にとって内なる指針や慰めとなってきました。技術進化しても、人間の心や魂の探求は続くことでしょう。信仰があることで得られる平和や支えが、人間社会に与える影響を考えると、それを全く不要であるとは言えないのかもしれません。アーメン

Permalink |記事への反応(0) | 21:48

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2024-08-15

俺も塩コショウ詩篇を編みたい

Permalink |記事への反応(0) | 18:54

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2023-11-13

キリストの幕屋ファンダメンタルとか言わないで欲しい

http://dailycult.blogspot.com/2023/11/blog-post.html

id:nomitoriアメリカでもそうだけとファンダメンタルキリスト教団体イスラエルにとても親和的なんやなぁ…。宗教からのその辺りの理屈を聞いてみたい…

ちょっと長くなるのでこちらで。要点はこんな感じ

について書く。なお書いている増田はいわゆる宗教二世ではあるが成人後も自身意思教会に行き続けているクリスチャン

キリストの幕屋について

これは「カルト新聞」に載っている記事、なのでその文脈で捉えて欲しい。ググれば主流派から異端視されていることがすぐわかる。

なお異端カルト社会的な悪性を持つ集団)ではなく、その教えには(宗教的にはともかく一般論として)一定妥当性を持つケースもある。プロテスタントから見た異端とは、「使徒信条から外れた教えを唱える人たち」と言える。

使徒信条

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E4%BF%A1%E6%9D%A1

キリスト教団体イスラエルについて

これは一言で語るのが非常に難しい。

だが最近世代間の差と共和党支持母体についてのNHK記事は読んでおいてもいいか

https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/489097.html

ポイントロビイスト存在と、共和党支持母体である福音派ががっつり噛み合ってしまっているところかと。それに対して若い世代には反発やしらけがあることがわかる。

福音派年寄りは何も考えずにイスラエル政権を支持しがちだが、クリスチャンであったとしてもそこは一枚岩じゃない。だが多数派であり声の大きいところでそういう風に言われがち。実際礼拝の中でも言及されたりしてるみたい。

宗教面での理屈について

これも難しいが無理矢理まとめると

ということだ。

聖書には「エルサレム平和のために祈れ(詩篇)」と書いてある。闘うための武器資金供与せよ、ではない。

もっというとここで用いられる平和という言葉は「シャローム」といい、神の平安の総称となっている。つまり単に他者との争いの状態を避けるとか、そういうものではなく「全能の神とともにいる祝福を享受する状態である

一方でユダヤ歴史イエス・キリスト否定排除してしまったのも事実であり、新約聖書には次のようにも書かれている

エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

‭‭マタイによる福音書‬ ‭23‬:‭37‬-‭39‬ 新共同訳‬

https://bible.com/bible/1819/mat.23.37-39.新共同訳

これはイエス自身言葉であるクリスチャンにとっては前述の使徒信条イエスキリストによる裁きのときがくる、ということを信奉しているわけだけれども、そのときがくる前提条件が、エルサレム象徴的に都市名であらわされるがユダヤ人をさす)が、キリストに立ち返ることであると示されている。



NHKとかのメディアでも「イエスユダヤ人だから」とか言ってイスラエルを支持する人を切り取って放映しているけれど、聖書の教えにたつならば、平和を求めるのは当然であるし、それ以上にその平和は「神は愛なり」と説かれているその教えのうちでないといけない、というのが聖書をそれなりに読んでいるつもりの自分なりの姿勢

スパゲッティモンスターだなんだと揶揄されがちではあるが、全知全能の存在自分は信じているし、その介入だけがパレスチナ問題解決しうると思い、戦況のニュースに悲しい気持ちになりつつも今夜も平和祈ります🕊️

Permalink |記事への反応(2) | 21:46

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2023-01-04

2022年に読んだ本

1月

琉球から歴史の原文へ。太平記史記を並行して読み始める。

現代語訳とはいえ長くてしんどい

2月

メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ世界史教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い

3月

ウェブ小説を読む。

4月

東アジア史が中心。

5月

詩集芥川賞に手を出す。

シン・ウルトラマンを見たせいか特撮関係の本が後半に増える。

6月

後半には自分学生時代ベストセラーだった本を手に取った。

価値観現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。

7月

暴力団言語学、法学テーマの月だった。

8月

旧約聖書を読み始める。

9月

ちょくちょくSFを挟んで旧約聖書を読み進める。

10

旧約聖書読了学生時代新約聖書通読たから一応全部読んだことになる。

カズオ・イシグロ邦訳が出ているのはたぶん読み終えた。

11月

生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白いネタが尽きない。

12月

土偶埴輪についても読む。

漫画

ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。

十三機兵防衛圏については友人に薦められたかクリア後のノリで買った。

美術展など

今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。

映画

「シン・ウルトラマン」★★

プラットフォーム」★

エクストリームジョブ

12モンキーズ」★★★

雑感

(長くなったのでブコメ

2021年に読んだ本

今更だけど2020年に読んだ本

Permalink |記事への反応(5) | 07:57

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2021-01-06

anond:20210105211123

与謝野晶子 晶子詩篇全集拾遺】

君知るや、若き男よ、

日は晴れて静かなる海のかなしさ。

あはれまた君知るや、

三十路みそぢを越えしをみなにも

しづかに流るゝを。

🥺

石川啄木 一握の砂】

時ありて

猫のまねなどして笑ふ

三十路みそぢの友のひとり住ずみかな

🐈フフッ



https://www.benricho.org/koyomi/nenrei_isyo_soji.html#30

Permalink |記事への反応(0) | 00:50

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2020-04-11

anond:20200411154012

ミシェルノストラダムス師の予言集には、

詩篇第1巻48番

月の支配20年が過ぎた。

7000年、別のものがその体制を保つだろう。

太陽が残された日々を受け取るであろう時に、

私の予言成就し、終わる。

とあり、要は1999年から20年、2019年までは月の支配によって守られていたが、

太陽、つまりコロナ蔓延によって師の予言成就するということ。

からやってくる恐怖の大王は、旧型コロナウイルス

1999年7月中国軍は、ウイルス兵器にできそうな旧型コロナウイルスを偶然発見

研究を始めるも2003年には最初流出事故が起きる。(SARS)

その致死率から兵器としての可能性を確信し、さら研究継続

2019年秋に再び流出事故が起きてしまう。

この時、流出した新型コロナウイルスこそが、アンゴルモワの大王である


アンゴルモワには、アジアから侵略者解釈する者もおり、

ヨーロッパの人からみたら、まさに新型コロナアジアから侵略者のものである


軍神マルスのくだりは、新型コロナ軍事研究に基づくものであることを暗示する。

武漢P4研究所は科学誌Nature に改変コロナウイルス論文を出しており、

真の目的はさておきウイルス改変の研究が行われていたのは事実である

私は長い間、どうして、恐怖の大王が直接滅ぼさずに、アンゴルモワの大王を蘇らせるのだろう、

なぜ、どちらも同じ大王なのだろう?

7月にやってきた恐怖の大王は、アンゴルモアを蘇らせるのに何カ月掛かるのだろう?

とずっと思ってきたが、20年掛かったということなのだと今確信した。

Permalink |記事への反応(0) | 16:26

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2020-03-27

anond:20200327020259

増田文学詩篇

Permalink |記事への反応(0) | 02:31

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2020-02-09

anond:20200209214005

海辺都市の疫病は

死が復讐されることでしかまらないだろう

罪なくして咎められた公正な血を代償に

偉大な婦人は偽りによって辱められる”

ノストラダムス予言集・百詩篇の第2巻・第53番 より。

海辺都市」は「華南海鮮市場」を、

そして「偉大な婦人」は、中国副首相の「呉儀(ウー・イー)女史」を指している、

と推測されている。

呉儀女史はSARS問題中国衛生部の隠蔽工作を公にした人物であり、奇遇にも震源地である武漢市の出身である

Permalink |記事への反応(0) | 21:50

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