
はてなキーワード:記号論とは
プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How toMake OurIdeas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to anidea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1]https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2]https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3]https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った /メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less ThanNothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「WokenessIsHere ToStay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"WokenessIsHere ToStay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a personwho identifiesitselfas awoman usingits penis to rapetwo women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
Theanswer lies inhis misplaceddesire to be oppositional. Ironically, heisguilty of the thing he accuses others offalling prey to within thepiece, that of envisioning forhimself an Other that hauntshim.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]
の具体的になんて本(ネットのpdfでもよい)の何ぺージあたりからが元増田の問いにとって核心なのって話よね
てか、ラムダ計算よりむしろ記号論理学のほうが学問としての領域が気持ち広くなってね?
2.ラムダ項M, Nに対して (M N) はラムダ項。この形のラムダ項を適用(ラムダ適用)という。
(後略)
という定義があるんだけど、これに基づけば(x x)というのもラムダ項じゃないのって思ってた。
でもラムダ式で(x x)なんて形のは見たことないし、違うんだろうなと。
でも論理的にはなぜ違うのか全く納得できてないので(納得感が正しさにとって問題じゃないとはいえあえて言うが)(x x)だってラムダ式でしょって胸を張って言い張れる。
「Aかつ¬Aの証明を得ることができる」に対して、「いいや得られない。お前がそのように見せかけているだけだ」おれの計算(記号処理)手続きこそ推論規則に適っているし正しいと、反論されたら?
また、「そもそもここでいう『得る』とは」どういう意味か?と突っ込まれたら曖昧でなく『得る』ということが『得る結果の具体例ではなく』『どういうことか』記述できるのかという話です。
¬¬A→Aという規則に基づいた結果が
¬¬¬¬¬A→¬¬¬(¬¬A)→A
なんだよ!と言い張られる。もちろん常識的にはおかしいと思えますが、いまは突き詰めたことを言っています。
一般には、¬¬¬¬¬Aを書き換えるために、この記号列の一部分¬¬Aに着目して、規則からAと書き換えられるから、この結果を¬¬¬(¬¬A)に代入?して、¬¬¬Aに書き換えられる、という思考プロセスをとるでしょう。
しかしあくまでものとしては、ここで考えているのは¬¬Aではなく¬¬¬¬¬Aなわけです。
規則通りに書き換えられてない、言い換えるなら同じ規則を使っていないという主張に対して、そもそも同じ規則が適用できているということ、規則が同じとはどういうことか自体を定義や公理に組み込むことはできるのか。
矛盾や証明ということはまだその概念を記号列で示す余地があるが、規則が同じかどうかという定義もとい「規則」は厳密に定義可能かということです(無定義語として関係性の定義でもよい)。図形が合同か、みたいな合同の概念の定義など比べてもまたレイヤーが一段メタ的になっていて厄介というか。「違うのは自明じゃないか!」といっても、自明は説明できてこそ自明なのですが、ここでいう同じかそうでないかということについてはそれを根拠だてる定義は原理的に無理なんじゃないかと思えてしまいます。
さきほど『得る』という言葉に突っ込まれたら云々ということを言いました。
ブコメには「自然言語の曖昧さで数学をの厳密さ否定しようとしてるだけだ」というのがあります。
別に私は自然言語の曖昧さを問題にしていません。そこは問題の本質ではないです。
むしろこうした言葉は一般に疑いようなく明らかなものです。「左右」とか「これやあれ」みたいな近称や遠称の概念などもそう思われるでしょう。
しかしむしろこれらの概念には一切曖昧さはないという前提に立っても、これもごく単純な話で、曖昧でないからといって、いままでその概念を持ってなかった知性的存在に対して、「これ」や「左右」といった「概念」を、対面やジェスチャーを使えばいざしらず、記号列を用いて一意に定義できる保証はないよね、ということです。定義の厳密さを担保する必要条件が、記号論理学に基づくということにあるのなら、数学を厳密とのたまうかぎりにおいて、当然対面やジェスチャーではなく、これとか同じとかみたいなもっとも原始的な部類の言葉まで全て記号で一意に定義できることを示せなければならないでしょう。
あとあなたが↓のトラバと同一だと言ってくれたら以降↓の方のツリーに返信書いて一元化するのでそのつもりで
https://anond.hatelabo.jp/20240216215810
ちなみに関連しそうな話題として自分自身ラムダ式を勉強した経験があるけど
2.ラムダ項M, Nに対して (M N) はラムダ項。この形のラムダ項を適用(ラムダ適用)という。
という定義があるんだけど、これに基づけば(x x)というのもラムダ項じゃないのって思ってた。
でもラムダ式で(x x)なんて形のは見たことないし、違うんだろうなと。
でも論理的にはなぜ違うのか全く納得できてないので(納得感が正しさにとって問題じゃないとはいえあえて言うが)(x x)だってラムダ式でしょって胸を張って言い張れる。
分かってる人からみれば、そして俺にとっても¬¬¬¬¬A→Aと同程度にバカげた主張なんだが、そのわかってる人にとっても「この規則ならこういうことが言えると思うのに、なんで正解とされてるのと自分が思ってることが違うの?」ってなることはあるはずで、それはこの世で一番数学ができる人であってもありえること。この世で一番数学ができる人さえ規則を正しく適用できていないらしいとき、そもそも正しい適用とはなんだってなりそうに思うんだが。
正しいものならコンピューターで証明できるが短時間で計算が終わる保証はない。また、正しくないものであれば計算が永遠に終わらないことがある
あと、どんな数学的主張も記号論理学でいう記号列に翻訳できるものなら(逆にいえば翻訳できないものは数学の問題としての資格はない)コンピュータで機械的に証明が正しいか確認できるっていうけど
望月がトンデモなのじゃなくて、数学の定義は原理的に厳密であり得ないという可能性も否定されないよね。
あと、どんな数学的主張も記号論理学でいう記号列に翻訳できるものなら(逆にいえば翻訳できないものは数学の問題としての資格はない)コンピュータで機械的に証明が正しいか確認できるっていうけど、
それならなぜABC予想の証明は記号列に直さないんだ?それが完了すりゃ紛糾の余地なく白黒はっきりつくはずなのにね?やってるけど難しいからまだできてないってだけ?
そもそも証明論文から記号列に直した「つもりになってる」ある記号列を作ったとして、それがコンピューターが正しいと言った時、記号列が正しいことにしかならなくないか?
つまり「つもり」ではなく、論文という多少なりとも自然言語の部分をはらむ文と、記号列が厳密の翻訳元と先として対応していることを、この自然言語が原理的に介在してしまっている「対応してるか」という問題を解けるのかということ。
言及されている状況を(記号論理のような)推論規則を用いて何らかの証明を書いていると仮定します.
「証明」というものも特定の条件を満たす公理と推論規則を用いた操作の列として(数学的に)定義されています. ここで公理や推論規則などはあらかじめ固定されています.
与えれた記号列,文字列が証明であるかどうかもその定義に基づいて判定することができます.
言及されている状況での会話ですが,あくまで推察ですがおそらく生徒の書いた証明が証明の体を成しておらず,皮肉混じりに言ったのではないでしょうか?
記号論理学の問題だって複雑なのだと解答を間違える人はいるわけじゃん。
それは記号の生成・操作規則に対して「正しく理解してる人」と異なる法則として理解しちゃってるからなの?
でもじゃあその法則が間違ってるってどうしていえる?淡い想像だから自信ないけど究極的には「こうだからこれで合ってる!」「いいや違う!」と蒟蒻問答みたいになりそうだけど。
まあもちろん例題そのとおりの、考えうるもっともシンプルな問題については与えられた「規則」を用いて誰もが同じ解を出すだろうけど、複雑な問題に対して、習熟してるとされる先生と学生とで答えが異なったとき、どうして前者だけの規則の適用の仕方が正しいと証明できるだろうか。しかも本人はそれなりに納得感を持ってその解を出しているのに。
規則に対して正しく内容を理解してる、言い換ええば、規則に対してその規則と異なる規則を持っているのではない、ということを解(途中式含めて)「こうだからこう!」じゃなくて、筋道立てて学生側の未熟とされる解を否定しきるのは「困難」なんじゃないか。そもそも正しいってなんだ。
でも記号論理学でもなんでもいいけど、結局は数学の定義を正しく理解するかにかかってるわけじゃん。
理解と解釈を区別すべきかどうか知らんけど、理解すら数学の外だと否定するなら、世の中には数学の概念を伝える手段などなくたった一人の人間しか数学ができないことになるよ。
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
Permalink |記事への反応(31) | 12:43
正直言って俺も胡散臭いと思っているし、信用もしていない。
理由は簡単。マナー講師の奨めるマナーというものが一般的ではないように感じるため。
マナー講師が独自のマナーを作ってそれを流布しようとしている。
だが少し待ってほしい。
恣意的なものというのは果たしてマナー講師のマナーだけだろうか?
本題に入ろう。
掻い摘んでいえば助詞の使い方についてであり、文法規則のことだ。
例えば、次のような文章があるとしよう。
一般的に正しいのは1。
では2はどうだろうか?
違和感を覚える?そうだろうね。
でも、2が間違っているわけではない。
それはただ読み難いというだけに過ぎない。
そもそも我々が「は」を「が」と同様にしない理由はあるのだろうか。
はっきり言おう。
そんなものはない。
ええ、その通り。だからこそ世の中のルールというのはおおよそが恣意的である。
にもかかわらず、恣意性であることに気づいていない人が大半なのは悲しいことだ。
しかしこれは悪いことではない。寧ろ必要なことであり通念がなければ社会は成立しない。
だからこそ必然性のない恣意性を我々は教育として受け入れ、それを是として正しいと認識する。
緩やかな洗脳。必要悪。それは洗脳と呼べばそうであろうし、常識と呼べば好まれる。
だからこそマナー講師を糾弾するというのは同時に、自分の洗脳に対する嫌悪でもあるはずなのだ。
世はSNS全盛期。
人々は情報に踊らされ、偏った情報に洗脳されている人々を笑う。
洗脳されている奴らを洗脳されていることに気づいていない奴らが笑う。
拙い文章ながらブクマやコメントをいただきありがとうございます。
そしてコメントにおいて何点か気になるものがあったため追記しました。
君は自分が思ってるほど頭良くないし作文も上手くない。もってまわった言い回しを全部切って文量を半分にすると頭良くなるし作文も上手くなる。騙されたと思ってやってみな。
まず、これは頭が「良い」や「悪い」の話ではありません。
そのため本文の内容を理解できたのであれば感想として「頭が良い」「頭が悪い」といったものは出てきません。
何故なら本文が示す意味は準拠するものを問うからであり、意味を理解したなら「そもそも頭が良いとは何か?」といった感想になるはずです。
つまり「分かりやすい文章を書けた方が”頭が良い”のならば、その分かりやすさはどの程度の知能を基準とするのか?」という問題です。
本題と言いつつ本題ではない部分だけど、文法的に通じることと同じ意味として通じることを混同している。愛の告白をする時に「僕は君は好きだ」なんて言ったら十中八九「じゃあ誰が嫌いなの?」って返されるよ。
その上で「じゃあ、どうしてそれを”混同”と呼び、差異を認めるのか?」といった話です。
ただ例として出した文章が分かり難いといったことは否めず、それは完全にこちら側のミスと言えるでしょう。
すみません…。
問題は、それら「が」と「は」が同じではないとして、では何故同じではないのか?という話です。
本文を書くきっかけは、部下と言語についての話をしたことでした。
私は言語学や記号論を学んでおり、当時はそれらが時代の潮流に乗り、栄えた時代でもありました。
そこで私がジェラール・ジュネットやマリー=ロール・ライアンを持ち出して話をしたところ、ポカンとした表情を見せられ、
じゃあロラン・バルトについてはどう思うのかと聞きました。
すると彼は「それってガンダムのキャラクターですか?」と笑って尋ね、私は愕然とし、構造主義としての思想はもはや廃れてしまったのか?
憂慮する思いを抱きつつ、多少の啓蒙目的で本文を書き記した次第なのです。
Permalink |記事への反応(11) | 21:32
おすすめまとめ
良さげなのあったら教えてください
生化夜話
http://visual-memory.co.uk/daniel/Documents/S4B/japanese/
http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/
https://bellcurve.jp/statistics/course/
統計学
他人の発言には記号論理的な正誤以上の高い理性を求めるくせに、自分の発言はそもそも事実関係からして間違っていても「被害者だから大目に見ろ」と。卵が先か鶏が先か知らないけど、お互いに「あいつらが先に!」と言ってるうちは「どっちもどっち」でも、ここまで自分に甘く他人に厳しいのは流石に狂人。
彼らそれぞれが本当に言いたいのはこう。
小山「北村は自分を"若い女"だと言った(事実誤認)。北村はナルシスト(レッテル貼り)」
Spica「"生意気な若い女"という表現を使ったのは嶋(事実)。嶋にはそのつもりがなくとも、このような文章を書いたこと自体が北村に対する侮辱である(意味不明)」
小山と嶋は手がつけられない狂人。前提となるべき基礎的な対話能力が欠落してる。「1+1は2じゃない」と大真面目に言うタイプ。ブロック推奨。
それはそれとして、Spicaと吉峯も冷静ぶってるけど、どさくさに紛れて事実確認の隙間に「敵への攻撃」を仕組んでいて、それは「白とも黒とも言えないグレーを黒と言い張る」ような不誠実さがある。
しかしまあ実際のところ、Spicaや吉峯レベルというのはだいぶマシな方で、小山や嶋みたいなレベルの狂人が「論壇」ぶっているというのがTwitterの現実ではある。