
はてなキーワード:言うなればとは
この本を読んだ。
#社会は、静かにあなたを「呪う」 思考と感情を侵食する“見えない力”の正体
https://www.shogakukan-cr.co.jp/book/b10140145.html
「日本は終わっている」という諦めや「幸せにならなければ生きる意味がない」といった押し付け―果たしてそれらは真実なのか?
社会の「呪い」を膨大なエビデンスで解き明かし、思い込みから自由になるための一冊。
だ。
「それってホントに?」というものも、自分で調べて結論づけるのは時間がかかるし難しい。だから「〇〇だから日本は終わり」という言説も「まあ……そうなのかも」と思ってしまう。それを毎日のように聞かされていたら本当に「日本は終わり」と信じてしまっても仕方がない。
取り扱っている呪いの一部
「この国は終わっている」
「生産性が低い」
脚注に「日本は終わり」発言の出典が書かれているのだけど、ひろゆきやホリエモンなど知っている人が出てきて笑ってしまった(本文中ではぼかされている)。ニュースメディアや警察発表などからも取り上げられていて、呪いは色々な場所からかけられているのだなと。
半端な説明は誤解を招くので書かないが、親から子への遺伝と生活への影響は思ったより少ないし、遺伝子は後から行動で書き換えられるという。
今の生活が悲惨に感じても、それは遺伝で決まっていることではない。
「じゃあ日本という環境が終わっているからじゃないんですか?」
と言われそうだが、それも前の章にある「日本人は劣化している」「少子高齢化する日本は衰退するしかない」などの呪いへの解説の章で、「そこまで悲観しなくていいんじゃない?」と思わせてくれる。
最後に、
コンビニ前でたむろしている人たちを少し馬鹿にする気持ちを覚えることがある。
ヤンキーの溜まり場だなと。集まって何も生産せずただ時間を浪費しているだけだと。
ただ、この本を読んで「日本は終わり」論を考えてみると、
新聞やニュースやはてな匿名ダイアリーなど、終わり終わりと言うだけでなんのモチベーションにもならない。
色々なことを悲観するせいで何が大きな重要な問題かわからなくなっている。
溜まり場を無くすべきとは思わないが、溜まり場に居すぎて偏った思考になるのはまずいなと。
日本はまだ終わっていない。
言うなれば電子書籍は本の死体だからね、コイツは既に死んでいる
反対に紙の本は生きている
紙の本はね
音楽を聴くのは楽しい。気分を上げたり、リラックスしたり音楽には様々な用途や効果がある。
私の場合、過去あるいは懐古の要素が強い。と言うのも私が聞く曲は思い出とリンクした物が大半になる。アニメやゲームとか別途主体になる物があって、それに付随する物として音楽がある。もちろん聞けば良い曲だなと思う事は多々ある。ただ、所詮”良い曲”止まりでそこに思い出は無い。
言うなれば音楽は思い出を開く鍵となる訳だが、音楽を聴いている時、ふと自分は今を生きていない。過去に浸っているなと感じる時がある。まあ、実際浸っているんだけども悪い意味で一旦冷静になってしまう。
日々の一時にそういう時間があってもいいとは思う。でも、音楽を聴く度にその時間を作ってしまっている事実が自分を蝕む。
聴きたくなってしまう自分の精神状態とそう感じてしまう焦燥感に似た物が根底にあるのだと認識している。「じゃあ聴かなきゃいいじゃん」と言われたら返す言葉は無い。
きっかけは先週末のライブだった。 もっとも、あれをライブと呼んでいいのかはわからない。
あの退屈な数時間がライブなら、小学生の頃に同級生のゴダイ君がやっていたハサミ回し、通称メガドラゴンハサミトルネードだって立派なライブである。
とにかく、散々な週末だった。
先に断っておくと、普段から彼のことを推しと呼んでいるわけではない。
この文章を読んだギャルに、バカ読みやすくて草、と言われたいので、ここでは推しという言葉をあえて使っていく。
最初に見たのは寿司を買って食うだけのなんてことのない動画で、その妙な脱力感に惹かれた。
てっきり同い年くらいの大学生YouTuberかと思っていたが、しばらくたってから吉本に所属している芸人だとわかった。
推しは同期の芸人と合わせて三人で活動をしていた。三人ともそれぞれ魅力があったが、俺は断然推し推し、つまり推しのことが一番好きだった。
彼のことを一番面白いと思っていたし、俺も推しもシングル家庭で育ったという共通点があり、それで勝手に親近感を覚えていたというのもある。
余談だが、親戚がいない者にとって夏休みほどその現実を思い知らされるものはない。
俺はこの話になるといつも、小学校に上がりたてだった頃に見た光景を思い出す。
昼下がり、プールの更衣室でクラスメイトたちが夏休みの予定を楽しそうに話していて、俺はそこではじめて、世の中の家庭には祖父母の家に遊びにいく習慣があることを知った。
俺は哀れみの目を向けられることを恐れ、とっさに「来来来来来週いく」と嘘をついた。作り笑いをすると頬がピクピクと動くことをはじめて知ったのもそのときだった。
更衣室に充満した塩素の匂いのせいで、鼻の奥のあたりがツンとした。
推しを見ていると、プールの更衣室で顔を引きつらせていた俺の少年時代が、少しずつ救われていくような気がした。
もしここにゴダイ君がいたら、アルティメットホワイトヒーロー、と彼のことを呼んだだろう。
推したちはあれよあれよという間に数十万人のフォロワーをかかえる人気YouTuberとなった。
芸人のライブは女性客が大半だとうわさに聞いていたのでひょっとすると場違いなのではと案じていたが、意外にも男性客はたくさんいた。
ずらりと埋まった客席に彼らの人気ぶりが伺えた。はじめて生で見る推しの姿に思わず胸が熱くなったのを覚えている。
そして数ヶ月後の全国ツアーも発表され、ギャルの言葉を借りるなら、コイツらの未来ガチ明るすぎなんだが、と思っていた。
しかし、油断すんなし。
公式から突然「スタッフになりたいファンを募集する」と発表されたのである。
ファンを?
スタッフに?
好意的に受け止めるファンもいたようだが、俺の中のギャルは、マ?大丈夫そ?と不安げな表情をしていた。
そもそも推しのライブは、元テレビ局員だという外部のプロデューサーがすべてを取り仕切っていて、どうやら彼の手伝いをしてくれる人を探しているようだった。
当該ポストがすでに消えているため確かめるすべがないのだが、たしか応募する際には得意分野をアピールしてほしいと書かれていたはずで、プロデューサーはそういった条件から、言うなれば精鋭の「ファンスタッフ」集団を選抜した。
そんな中、全国ツアーはおこなわれた。
会場は前回の倍以上も広くなり、俺と推しとの距離はずいぶんと遠くなってしまったが、彼は相変わらずアルティメットホワイトヒーローだった。
が、しかし。
いや、やはりというべきか。
ファンスタッフが生まれたことをきっかけに、「推し」「運営」「ファン」の境界線がどろりと溶けだしたのである。
精鋭のファンスタッフとはいえ、普段の彼女たちは「最高すぎた♡」「好き♡」などと発信しているただのファンにすぎない。
しかし、ライブ後には一転して「ご覧いただきありがとうございました。皆様のおかげで〜」と運営らしくふるまうのである。
ファンと運営とを都合よく行き来する様子に、首をかしげる者も少なくなかった。
そして同時に「推し」と「運営」との線引きも曖昧になり、なれあいが加速した。
言うまでもないがファンが見に行っているのは推しであり、推しのサポートをするのが運営である。
しかしあろうことか、プロデューサーやファンスタッフは自らステージに上がり、推したちと肩を並べて公演に参加するようになった。
こうなってしまうと、もはや「推し」と「ファン」との境界線などあったものではない。
本来なら外に出ないはずの情報を、ファンスタッフたちはレポと称してSNSで得意げに公開した。
たとえば推したちから受けた細かな指示のことから、ステージ裏で見た彼らの姿まで。
こうなると気になるのは一般ファンの反応だが、我々は大きく二つに分かれた。
俺に限って言えば、推しと公式以外のフォローをすべて外すことにした。俺が求めていたのはあくまで推しと俺というシンプルな関係だけだった。
中には推すこと自体をやめてしまった人もいたのだろうが、彼らは大抵静かに去った。
彼らは仲間になるためにプロデューサーやファンスタッフの仕事ぶりをこれでもかと持ち上げた。
それで気をよくしたのだろうか、スタッフたちは音声配信やオフ会などの交流を盛んにおこなうようになり、SNS上での存在感をさらに高めていった。
さて、今回の本題であるライブが発表されたのは、まさにこの混沌のさなかのことであった。
発表されたライブ情報を見てまず気になったのは、会場の規模が前回の半分ほどになっていたことである。
販売サイトに表示された「残席余裕あり」の文字はいつまで経っても変わらず、公式SNSには「残りわずか、お早めに」と景気のいい謳い文句が並んでいたが、やがてひっそりと消えた。
会場へと向かう電車の中で、俺は以前フォローしていた人たちのアカウントを久々に覗いた。
「今日楽しみ」「グッズ列やば」と何一つ変わらない様子のアカウントもあれば、半年以上放置されアイコンの上に埃が溜まっているようなアカウントもあった。
車窓の向こうには知らない町が見える。
降りる駅はまだまだ先だったが、ずいぶんと遠くまで来てしまった気がした。
その日の東京は38度を超える猛暑日で、会場へと辿りつく頃には、俺の顔はほとんどアイスクリームのように溶けていた。
人だかりを抜けてロビーへと向かうと、ちょうどそこにはプロデューサーがいて、複数のファンに写真をせがまれているところだった。
プロデューサーは待ってましたとばかりに撮影に応じ、それから二、三言葉を交わすと、さながら池の魚にエサでも与えるような手つきでキャンディを配った。
これはあとから聞いたことだが、どうやらプロデューサーとのひみつの合言葉を伝えた者だけが貰えるキャンディだったらしい。
手渡されたキャンディに喜ぶファンたちの姿は、まるでパクパクと口を開けてエサをねだる魚のように見えた。
ならばこの場所は底の見えない不気味な池といったところか。
もしここに小学生の頃のゴダイ君がいたら、きっとプロデューサーに近づいて、デュクシ、としただろう。
でも俺は大人なのでやらない。
そして誰かが言っていたように、グッズを求める人たちの列は延々とつづいていた。
その列の先では、ファンスタッフだろうか、ひとつひとつ電卓を叩いている姿が見える。
開演までには明らかに間に合わない。
どこからかハンディファンの風が吹いてきて、生ぬるい空気が頬に触れた。
そしていよいよ幕が上がる。
正直なところ、このときの俺には彼らに寄せる期待などほとんど残っていなかった。
だから公演のさなかにプロデューサーがいそいそとステージに上がったときも、そしてなぜかひとりで踊り始めたときも、もはやがっかりする気力すらなかった。
それでも推したちに対しては、心のどこかでわずかに期待を抱いていたのだろう。
彼らの、打ち合わせもリハーサルもろくにせずに臨んだことが一目でわかるような終始ぐだぐだな空気感と、そしてそれを隠そうともしない姿を目の当たりにして、自分の目から急速に光が失われていくのがわかった。
それから推したちは客席のひんやりとした空気を察したのか、「これにいくら払ってるの?」「返金しないと」などと冗談めかして笑った。
俺の席は前回よりもはるかにステージに近かったはずだが、推しの姿はずいぶんと遠くに感じた。
帰り際、ぽっかりと空いた二階席の後方あたりが目に入り、かつてそこにいた人たちのことを思い浮かべた。
数ヶ月前のことである。
「三人のことを見たいのにスタッフの声が耳障り」と。
それだけならさして話題になることもなかっただろうが、このコメントに推し本人が返信をしたことで、にわかに注目を集めた。
「もう今後見ないでください」
やがて書き込みは跡形もなく消えた。
そしてそこには「言ってくれてありがとう」「こういうとこ好き」などという称賛ばかりがいつまでもこだました。
この人の胸中を思うと、ひどくやるせない気持ちになる。
ゴダイ君がイップスを発症し、泣く泣くメガドラゴンハサミトルネードからの引退を余儀なくされたときと同じくらい、切ない。
ただひとつ、俺に言えることがあるとすればこの場所はどこまでいっても「彼ら」の池だということだ。
彼らというのは、この池の水温も生態系も、それからキャンディの味すらも愛してやまない魚たちのことで、そうじゃない魚は波を立てずに去るよりほかない。
あいにく俺たちは人間で、背びれも尾びれも持たないが、どこへでも泳いでいける自由ならある。
そして一週間が経った。
真夜中のコンビニを出ると、先週よりもずいぶんと涼しくなっていて、あの頃の夏を思わせる。
あれは何年生のことだっただろうか。
俺の通っていた小学校では夏休み明けにラジオ体操カードを提出しなければならなかった。
クラスでたった一人、俺だけが満点花丸の皆勤賞で、担任の先生はご褒美に特別なキラキラシールを貼ってくれた。
クラスメイトたちは口々に羨ましがったが、俺にとっては彼らの空白だらけのカードの方がよっぽど羨ましかった。
それからクラスメイトたちは、テレビもゲームも禁止されていた祖父母の家がいかに退屈だったかを話し、テレビを何時間見ても怒られない俺の生活がどれほど恵まれているかを熱く語った。
俺は大人ぶって「あの深夜のアニメのヒロインがさ」などと言ってみたりしたが、むなしくなるのは自分だった。
俺が本当に見たかったのは、彼らの語る変な匂いのする畳の部屋だとか、吠えてばかりの犬だとか、星しか見えない田舎の夜なのだということは、結局誰にも言えなかった。
しかしあの頃の記憶を思い出すのは、昔ほど嫌なことではなくなっている。
ゴダイ君は元気だろうか。
少年時代の俺を助けてくれたのはキラキラシールでもなく、アニメのヒロインでもなく、いつか未来で出会うアルティメットホワイトヒーローだった。
心地よい風が吹き、季節は秋へと向かう。
あまり語られてない視点から良かったところ悪かったところを述べてみたい。
総評的に言うなれば「ギリギリ成功」ってレベルじゃないかなと思う。
関西では盛り上がっているけどやはり、その他ではいまいちな反応ってのが正直なとこだろう。
米津さんはやり過ぎだし、YOASOBIかミセスあたりがやってたんじゃないかな?
ダンスも作られて音楽番組やバラエティでどんどん流されてたと思われる。
東京の人は万博の主題歌のタイトルは?と聞いて答えられる人少ないんじゃない?
大衆的な方向が出て場内の音楽も聴き馴染み良いどこかで聞いたことのある音環境になってただろう。
今回、大阪万博ではレコード会社のプッシュみたいなものもないため
https://expoworlds.jp/ja/sound/
そして、これはデザイン面にもでていて、大資本からのしがらみから外れたものとなっている。
そんな中クリエイティブディレクターの引地さんがとても優秀であり
東京オリンピックとは違ったトータルデザインを見せてくれている。
大衆的ではないのに大衆を巻き込み2次創作を促して全体の良い雰囲気を作っているのだ。
ミャクミャクも実は選ばれた当初からマイナーチェンジを重ねてかわいく変更されてる。
初期の変形構想捨てられたしな…(好きなんだが)
ミャクミャクやロゴからして東京万博だとこうはならなかったんじゃないかなと。
しかし、世界の万博なのにやたらと地域特産が多い、手作り感あるイベントが多いのは残念な点。
電通が入ればアリーナでのライブイベントも、もう少し良いイベント組めたんじゃないかな。
藤本さんの大屋根リング(見た目だけでなく避暑として大きな役割を果たした)、
引地さんのデザイン、イタリア、サウジや中東圏の力の入った展示、
ここら辺が奇跡的に化学反応を起こして成功にまで持ち込めたのだろうと思う。
チケットサイトや予約システムももっと洗練されたものになってたに違いない。
けど全体の雰囲気として自分の好きな万博になってただろうか?と疑問。
おそらく大資本の入った大衆的なものになっただろう。(それはそれで良いと思う)
男性向けエロとBL(というか女性向けエロ)の取り扱いの差について議論が沸き起こっているが、実は問題の本質自体はシンプルである(解決が簡単なわけではない)。以下が本質。
1.男性は女性向けエロ(BL)を見ても(あまり)気分を害しない
3.男性は男性向けエロを規制されること自体より、「自身を棚に上げた主張」に反感を抱いている
まず上記の1,2について、(特にちゃんと調べたわけではないが)生物学的な根拠があるのだと思う。たとえば人間をいち動物としてみた場合、メスを他のオスに取られることは、まあ残念かもしれないが本質的ではないダメージな一方で、オスを他のメスに取られると、妊娠時や子育ての面で大きなダメージがあるのでとか。とにかくここは、生物としての本能としてそういう感情を抱くことになっているだけなので、特に誰が悪いとかではないという話。
なので、最大幸福を実現するなら、男女それぞれが不快にならないラインで違いのエロを規制(まあ憲法上の表現の自由などの問題は別途あるが、ここでは一旦そこには触れない。なぜなら単に感情の問題でしかないから)すればそれで良い話で、事実今まではそうなっていた(男性向けエロの追いやられ具合が必要十分なレベルだったかは議論があるだろうが)。
ところが、藪蛇というか寝た子を起こしてしまったのが今で、それが3の「自身を棚に上げた主張」だ。1,2自体は先も述べた通り男女の生物的な区別によるもので、言うなれば男の方が身長が高いとか筋肉がつきやすいとかと同様のものであり、スポーツが男女別になっているように、理屈さえわかれば双方納得できるものであった。しかし、そのロジックに気づいていない人間たちが、結果としての現状を肯定するために、「BLは無害で男性向けエロは有害」というロジックを逆算してしまった。これが最大の不幸だと思っている。
結果、男性は現状「男性向けエロが規制されていること」そのものより、「女性向けエロ(BL)がのさぼっていること」に怒り、反発運動が始まっている。誰も得しない流れである。
なのでこの問題を解決したければ、男性たちは(感情的に難しいことは重々承知の上)異常な逆算ロジックを主張する者たちを無視し、ただ自身の対象の表現について最大限防御するように努めればよい。それは言われっぱなしで黙っていろというわけではなく、前提が通じないものとわかりあうことは不可能なので、生産的な方向にエネルギーを向けようという話である。
なお、これとは少しだけ軸をずらす問題として、男性と女性で、表現の責任を受信側に求めるか、発信側に求めるかの違いもある。男性向けは自衛の意識が前提になっている一方で、女性向けは発信側の気遣い(たとえば検索避けや、カップリング明記など)を前提とされていることが多く、これも規制という行為との相性に影響が出ているかもしれない。これについては、生物学的な性差によるものなのか、コミュニティとして過去にできた文化がそのまま受け継がれた後天的な要素なのかは、わからない。
金曜の夜。仕事でくたくたになって帰ってきて、シャワーを浴びて冷蔵庫を開けると冷えたプレモルの最後の一本。
プシュッと開けて、ぐびっと飲んだ。そこに帰宅した妻がリビングに登場。彼女の第一声がこれだ。
え、最後の一本飲んだの?
……沈黙。空になった缶を見つめる俺。妻の顔がスッと険しくなる。
私も楽しみにしてたんだけど?
いや、知らんがな!と思いつつも口に出せるわけがない。代わりに「ご、ごめん……」と謝る俺。
すると妻はふんと鼻を鳴らし、納得したようにくるりと身を翻す。そのままキッチンの方に行くかと思いきや、次の瞬間振り向きざまに俺の腹へドスッと蹴り。思わず「ぐふっ」と声が漏れる。
俺の頭がガクンと沈み、体がびたーんと揺れた。
原因は洗濯物。俺がユニクロのエアリズムを裏返しのまま洗濯カゴに入れていたのがバレた。
裏返しで入れるなって何度言った!?
その瞬間、妻の右足が俺の腹に。次の瞬間にはスタナーを食らって床に沈んでいた。
以来、スタナーは妻の得意技になっていた。喧嘩の最中、俺が謝って場が収まったように見える。油断した隙を突いて必ず繰り出される。言うなれば和解の儀式。
夏の夜、部屋の湿気が気になってソファやカーペットにシュッシュッとファブリーズを噴きまくっていた。そこに妻が帰ってきて一言。
「ごめん、でも除菌になるかなって……」と言い訳したその瞬間、彼女の足がまた俺の腹にドスン。スタナー。
俺は床でのたうちながら…これって俺そんな悪いか?と心で総ツッコミ。だが彼女は匂いに敏感な人の気持ちがわからないからダメ!と上から正論を叩きつけてきた。
日本のテレビを見てると、バラエティや旅番組で当たり前田のクラッカーのように
お寺や神社に旅をしたり、由緒を説明したり、参拝したりしてるシーンがあって衝撃を受けた
しかもバカにする内容ではなく、あたかもそれが正しいかのように紹介していた(例えば神社の参道は神様の通り道だから、真ん中を歩くな。とか鳥居の前では頭を下げろとか)
こっちでは、そういう怪力乱神の類の放送は宗教系のケーブルテレビでしか扱わない内容だよ?
言うなれば祝福結婚を受けないと地獄に落ちるという統一教会の教義を正しいことかのように紹介したり、幸福の科学の会館見学を公共の電波で放送するようなもんでしょ
だから日本人って宗教を信じてる奴が異常に多いんだなあって思った
こっちから見ると異常だよ
オフショア開発はもう先がない。
そもそもこれまでだって「安い労働力をうまく使っている」という建前の裏で実態はひどいものだった。
品質は低いし、まともに機能させるにはタスクをアホみたいに細分化し、単純作業に落とし込む必要がある。
しかもその過程をマネジメントする側の負担は途方もなく重かった。
日本人が開発するのに比べ何倍ものリードタイムになることもある。
調整に費やしたコストや機会損失を冷静に計算したら「オフショアで得した」なんて口が裂けても言えない。
円高になれば途端に割安感は吹き飛ぶ。単に安いから選ばれていた仕組みが、為替一発で競争力を失う。
言うなれば安さだけを拠り所にしていた商売が常に首の皮一枚で繋がっていただけだ。
一方でAIはその「単純作業に落とした領域」をまるごと引き受けられる。
しかも文句を言わず、サボらず、時差もなく、為替も相対的に影響が薄い。
既に現時点でもオフショアの労働力を完全に代替できるレベルに達している。
今後AIの精度がさらに上がればオフショア開発の存在意義は完全に消える。
残るのは無駄に消費された時間と割に合わない失敗の記憶だけだ。
オフショア開発は全滅する。逃げ場はない。
たしかに制限速度ピッタリで走ってると過半数の後続車はイライラすると思う。
「まあ制限速度ちょうどだし、しかたないからしばらくつきあうか」と思ってくれるか、そのイライラを「あおり運転」という行為で表現してしまうかは、後続車の人間の出来による。
人は前者であるべきで、どんな理由があろうとも後者であってはいけない。あなたがどれだけトロ臭い運転をしていたとて、煽りドライバーも(そして警官の態度も)弁護の余地なし論外野郎なので、そこは安心してよい。
制限速度はまあ目安としてあるけれども、でも周囲の速度感も意識して走りなさいよという、言うなれば暗黙に速度超過を勧める言葉だ。
ほとんどの道路では、その道のスピードの相場感で走るとおそらく制限速度を10km/h近くはオーバーしてしまうと思う。
そもそも日本の制限速度はもともと10~20km/hほどのマージンをとって設定されている。と、私は思っている。
お役所としては「ここは十分な制限速度で規制してたのだから事故が起きても役所に非はないよ、速度超過したドライバーが100%悪いんだよ」と言い切れなくては都合が悪い。なので少し過剰な速度規制をしている。と、私は思っている。
私の私見のように書いているが、一般的にヒト桁オーバーくらいの速度違反で検挙されることはないという事実は、規制がやや過剰であることをよく物語っていると思う。
ヨーロッパでは、国によっては「ホントにこれ以上出したら危ない」という速度が設定されていて、少しでもオーバーすると捕まってしまうからね。
上で相場感という言葉を使ったが、これがおそらくあなたには欠けている。
このくらいの道幅、このくらいの交通量、交差点などの条件から、慣れたドライバーは「安全快適に(かつ検挙されることなく)走れるスピード」で無意識に走ることができる。
そしてそのスピードはたいていその道の制限速度の+10km/hくらいなのだ。
このような暗黙のスピード相場の中をひとりだけ相場-10km/hで走れば浮いてしまう、ということ。
つまり制限速度+10km/hくらいで走れば煽り運転みたいな怖い目に遭う確率は下がると思う。
でもそうしなければいけないわけではない。+10km/hも出すのが怖いくらいの運転スキルなのだとしたら、出してはいけない。おとなしく制限速度どおりに走って、煽られても「制限速度どおりだもんねー」と泰然自若としていてください。
一時停止で完全停止する、30m手前から合図を出す、などの所作はとてもいい心がけです。
杓子定規に守らなくてもいいのは10km/hまでのスピード超過だけです。
ただ、近年はこの相場感と実際の交通規制をもう少し一致させようという試みが始まっている。と、私は思っている。
長らくひどい速度規制だな、と感じていた道の規制があちこちで徐々に緩み始めているからだ。
まあ、ひどい速度規制のある道は往々にして警察主催のサイン会のメイン会場になるので批判が多いこともあるだろうし、自動車の性能が向上して乖離が大きくなったということもあるだろう。
人気なのか?
いや人気っぽい雰囲気出てるような。
ジークアクスのはエグザベがパイロットだし登場シーンも戦闘もそれなりに良かったから人気は出るだろう。
でもファーストのアレはなんだろう。
戦艦並みのビームライフル持ってる奴に盾とサーベルとか言う前時代的な装備も良いとこなしょぼい装備で喧嘩ふっかけて、あっさり胴体をビームサーベル二刀流でジリジリと斬られてやられるとか言うどうにも格好の付かないやられ方。
しかもパイロットの死に際の台詞が「あの壷をキシリア様に届けてくれよ、アレは良いものだ!」
なにそれ。
そんなに良い壷なら自分で届けとけや。
イヤ死に際に壺ってなんやねん。
何で壺の話出てくる?形見ってこと?
上司に?
ぶっちゃけ地球でガンダムを檻みたいなのに閉じ込めて苦しめたり、条約破って水爆発射するあたりの方がまだ輝いてたな。
ようはこんな悪辣非道な奴の死に際にしてはちょいとショボいよな。いや、ショボいならショボいなりにもうちょい報いを受けた様な死に方したら良かったのに。
結局一年戦争も生き残って、連邦側に極秘情報諸共投降しようとしたら部下に後ろから撃たれて死ぬとかね。
水爆発射したカスにしちゃモビルスーツ戦で死ぬのはあんまりにも恵まれた最後じゃないのか?ええんかこれ?
でもってそのショボい死に方使われた、現状のニュータイプ様とかとも違うなんかしょぼい機体がギャンなわけですよ。
言うなればロマン兵器。時流は航空戦に移っていく中で大鑑巨砲主義信奉し続けたみたいな。いや、艦隊決戦かな。大鑑巨砲ならビグザムおるしな。
なのになぜか一部からは人気の様な気がする。名前だけならジークアクスみる前から散々聞いてたしな。一体どこら編に惹かれてるんですかね。パイロットの性格ではないことは確かだが
LLMで人間のように行動する仮想的な住民を最大100万人分作り出し、都市全体をシミュレーションするシステムを作ったとのこと。
研究者らは、AIに人格や記憶、欲求、長期的な目標を与えることに成功。
お腹が空いたり疲れたりといった基本的な欲求に加えて、社会的なつながりといった高次の欲求も持っています。
そして仮想住民一人一人が過去の経験を覚えていて、それに基づいて行動を決めます。
東京を舞台に設定し1000人分のシミュレーションを行ったところ、平日の通勤ラッシュや週末のレジャー行動、買い物パターンなどが、日本政府の実際の統計データと非常によく一致していたそうです。
渋谷の人混みの分布や、どの店が人気になるかの予測も、現実のデータとかなり近い結果が得られています。
なお、こうしたシミュレーションでは、学習データに含まれる偏見や先入観が反映される可能性があるリスクに気を付けなければいけません。
とはいえ、都市計画や災害対策、商業施設の立地計画など、実際に人を使った実験では難しい様々なシナリオを安全かつ低コストで検証できるツールとして期待されています。
これ読んで思ったんだけどさあ。
で、右の人と左の人の意見を見て、これは左の方が同意できるかなーいやでもこれは右の方が同意できるか? みたいに色々迷ってるんだけれども。
もしさあ、仮にAIシミュレーションで色々実験してみて、「右も左もギョッとするような一見素っ頓狂なアイデア」が最大幸福に繋がるって分かったら、どうなるんだろうな。
それを掲げる超テック政党、言うなればチームみらいの(ある意味)進化系みたいなのが現れたとき、選ぶ人はどれくらい現れるんだろう。
……え、なんやそれって?
そりゃまあ普通は知らんわな。でもな、これは数学界で言うたら…阪神が50年連続最下位から、いきなり全勝優勝して日本シリーズも完全試合で優勝したみたいな話やねん。
「ラングランズ予想」いうのはな、簡単に言うと数論と幾何学と解析と代数の頂上決戦が全部つながってますよ〜んっていう、神がかり的な予言みたいなやつで、数学者の間では“数学界のグランドユニファイド理論”とか言われとってん。
ほんで「ジオメトリック・ラングランズ予想」っちゅうのは、それを幾何学の舞台でキメ直す、いわば「阪神ファンの夢を甲子園で現実にする」みたいな位置づけなんや。
それをやで?
2024年〜2025年にかけて、デニス・ゲイツゴリっていう理論系のドンが、仲間らと5本立てで証明してもうたんや!!
しかも800ページ超の超大作!
論文の厚みで言うたら甲子園のビールの売上伝票を1年分積んだくらいのボリュームや。
それをやりきったって、どんな執念やねん!!
しかもその内容が、あまりに深すぎて、今の時点でちゃんと理解できてる数学者すら少ないらしい。
言うなれば、阪神のサイン盗みが高度すぎて誰も気づいてなかったみたいな話や。
けど確かなのは、ジオメトリック・ラングランズ、証明されたって事実や!
グロタンディークとかラングランズとかアンドリュー・ワイルズ(フェルマーの定理の人)とか、そういうとこ並み!