
はてなキーワード:観測とは
正確時刻を書くと隣人が「それって軍事衛星に追跡されてるの?」とか言い出して話が面倒になるので省略する。
僕は陰謀論を嫌悪している。理由は単純で、陰謀論は説明能力の低い仮説を感情的に強い語り口で上書きする、知性のコスプレだからだ。
今週は、超弦理論の物理の直観で押し切る系の議論をいったん破壊し、純粋に圏論とホモトピー論の言語に落として再構築していた。
具体的には、世界面の共形場理論を2次元量子場などという古臭い語彙で扱うのをやめ、拡張TQFTの枠組みで、(∞,2)-圏に値を取る関手として扱う方向を整理した。
従来の弦理論屋はCalabi–Yauをコンパクト化に使うと言うが、それは情報量が少なすぎる。
重要なのは、Calabi–Yau多様体を点として見るのではなく、その導来圏 D^bCoh(X) を持ち上げた A∞-圏、さらにそれが持つCalabi–Yau構造(非退化なトレース、Serre双対性の∞-圏版)を物理的状態空間の生成機構として見ることだ。
ここでの本体は幾何ではなく、圏の自己同型とその高次コヒーレンスにある。
さらに、僕が今週ずっと悩んでいたのは、いわゆるミラー対称性を単なるホモロジカルミラー対称性の同値(Fukaya圏と導来圏の同値)としてではなく、より上位の構造、つまり場の理論のレベルでの同値として捉えることだった。
言い換えると、これは単なるA-model ↔ B-modelの交換ではない。
A/Bモデルを生む背景データ(シンプレクティック形式、複素構造、B-field)を、派生スタック上のシフト付きシンプレクティック構造として再記述し、AKSZ型の構成と整合させる必要がある。
そしてこの視点では、物理的なDブレーンは単なる境界条件ではなく、(∞,1)-圏におけるモジュール対象として統一される。
Dブレーンのカテゴリーが境界条件の集合だと考えるのは初歩的すぎる。境界条件は高次射を伴うので、最初から(∞,n)-圏で話さないと本質が消える。
特に僕のノートでは、弦の摂動展開で現れるモジュライ空間の積分を、単なる測度論の問題としてではなく、Derived Algebraic Geometry上での仮想基本類のプッシュフォワードとして扱う形式に書き換えた。
これをやると発散する積分を正則化するという話が、より厳密にオブストラクション理論に沿った積分の定義へ置き換わる。
そして、ここが本題だが、僕が今週ずっと考えていたのは、ウィッテンですら「直観的にはこう」と言うしかない領域、つまりM理論の非摂動的定義が、どのような普遍性原理で特徴付けられるべきかという問題だ。
僕の作業仮説はこうだ。弦理論が背景依存的だと言われるのは、結局のところ背景が点として与えられるという時代遅れの前提が残っているからだ。
背景は点ではなく、モジュライの高次スタックであり、その上に束ねられた量子状態の層(正確には圏)として理解されるべきだ。
つまり、弦理論はある時空での理論ではなく、時空の変形をも含んだファンクターにならなければいけない。
この視点では、背景の空間は単なるmoduli spaceではなくderived moduli stackであり、さらにgauge symmetryを含めるならhigher groupoidとしての性質を露わにする。
そして量子補正は、そこに定義されるshifted symplecticstructureの変形量子化として現れる。
問題はここからで、弦理論の双対性は、異なる理論が同じスペクトルを持つなどという安っぽい一致ではなく、ある(∞,k)-圏における同一対象の異なるプレゼンテーションだと考えるべきだ。
たとえばS双対性やT双対性を群作用として扱うと話が狭くなる。より正確には、双対性はスタックの自己同値であり、その作用は対象の上に定義された圏(ブレーン圏やBPS状態圏)の上で自然変換として実装される。
しかもその自然変換は単なる自然変換ではなく、高次のコヒーレンス条件を持つ。つまり、双対性は対称性ではなく、高次圏論的な同値のデータなんだ。
このあたりを真面目に書こうとすると、最終的には量子重力とは何かという問いが、どの(∞,n)-圏が物理的に許されるかという分類問題に変形される。
僕はこの変形が気に入っている。なぜなら分類問題は、少なくとも数学としての礼儀があるからだ。
さらに進めると、弦理論に現れるBPS状態やwall-crossingは、単なるスペクトルの不連続ではなく、安定性条件の変化に伴う導来圏のt構造のジャンプ、あるいはBridgeland stabilityのパラメータ空間上での構造変化として理解される。
ここでは物理粒子は、導来圏の中の特別な対象として現れる。つまり粒子は点ではなく、圏論的存在だ。
普通の人間はこの文章を読んで発狂するだろう。だがそれは読者側の責任だ。
この議論の延長で、僕は弦理論の非摂動的定義は、ある種の普遍性を満たすextended functorial QFTであるという形の定理(まだ定理ではなく、僕の願望)に落とし込めないか考えている。
要するに、弦理論は世界面から時空を作る理論ではなく、世界面も時空も両方まとめて、ある高次圏の中で整合的に生成される構造であるべきだ。
今の僕のノートの中心は「非可換幾何」「導来幾何」「圏論的量子化」の三点集合の交差領域だ。そこは地図がない。地図がない場所は、馬鹿には危険だが、僕には居心地がいい。
次に、趣味について書く。これも重要だ。なぜなら人間社会において、知性の維持には糖分と娯楽が必要だからだ。残念ながら僕は人間である。
MTGは今週、デッキ構築の方針を少し変えた。勝率最大化のためにメタを読むのは当然だが、僕が注目しているのは局所最適に陥るプレイヤー心理だ。
つまりカードゲームとは、確率と情報のゲームである以前に、認知バイアスのゲームだ。相手が「このターンで勝ちたい」という欲望を見せた瞬間、こちらは勝ち筋を計算するのではなく、相手の誤りの確率分布を計算するべきだ。
隣人にこの話をしたら、「え、怖い。僕、あなたとポーカーしたくない」と言った。賢明だ。僕も隣人とポーカーはしたくない。隣人はたぶん手札を口に出してしまう。
FF14は、ルーチンの最適化がだいぶ進んだ。僕はレイド攻略で反射神経を重視する文化が嫌いだ。
反射神経は筋肉の問題だが、攻略は情報処理の問題であるべきだ。ギミックは有限状態機械として記述できる。したがって最適行動は、状態遷移図の上での制御問題になる。
友人Aにこの話をしたら、「お前はゲームしてるのか研究してるのか分からん」と言われた。僕は当然「両方だ」と答えた。彼は笑ったが、この種の笑いは知性の敗北宣言である場合が多い。
アメコミは、相変わらず現実の倫理を歪めた寓話装置として優秀だと思う。
僕は「正義とは何か」という議論が苦手だ。正義は定義が曖昧だからだ。
登場人物が持つ制約(能力、社会構造、情報、感情)を明示すると、物語は心理学ではなく数理モデルに近づく。そうすると面白くなる。
ルームメイトにこの話をしたら、「僕はただ派手な戦闘シーンが見たいだけなんだけど」と言われた。
僕は「君の知性は観測不能なほど小さい」と言ったら、彼は不機嫌になった。観測不能は存在しないことと同義なので、むしろ褒め言葉に近いのだが、彼は数学が分からない。
僕の習慣についても書いておく。
今週も、朝のルーチンは完全に守った。起床後の手洗いの手順、歯磨きの回数、コーヒーの抽出時間、机の上の配置、すべて変えない。
人間の生活はノイズが多すぎる。ノイズが多い世界で成果を出すには、制御できる変数を減らすのが合理的だ。これは精神論ではなく、統計的推定の分散を減らす行為だ。
隣人が「たまには適当にやれば?」と言ったので、僕は「適当とは、最適化の放棄だ」と言った。彼は「そういうところが宇宙人っぽい」と言った。
宇宙人は証拠なしに導入する仮説ではない。彼はやはり陰謀論者の素質がある。
友人Bが「お前の生活、息苦しくないの?」と聞いてきたので、「息苦しいのは君の思考だ」と答えた。友人Bは笑った。知性の敗北宣言である。
これからやろうとしていること。
今の段階では、圏論と導来幾何の言葉でかなり書けたが、まだ計算の痕跡が残っている。僕はそれが気に入らない。真の理解とは、計算を消し去った後に残る構造のことだ。
具体的には、次は弦の場の理論を、factorization algebraの言語で記述し直す予定だ。
局所演算子代数を、E_n-代数として整理し、そこから高次の演算構造を復元する。
これがうまくいけば、弦理論における局所性の概念を、時空幾何に依存せずに定義できる可能性がある。
もしそれができたら、次は双対性を圏の自己同値ではなく、圏の上の2-表現あるいはhigher representationtheoryとして書き換える。
これにより、S双対性を単なるSL(2,Z)の作用として扱う雑な議論から脱却できる。
要するに、僕が目指しているのは物理理論を群で分類する幼稚園レベルの発想ではなく、物理理論を高次圏で分類する文明的発想だ。
その後はMTGの新しいデッキ案を詰める。今の構想では、相手の意思決定を局所的に歪ませる構造がある。人間は選択肢が多いと誤る。
これは心理学的事実であり、カードゲームに応用できる。倫理的に問題があると言われそうだが、そもそもカードゲームは戦争の抽象化なので倫理を持ち込む方が間違っている。
夜はFF14の固定活動。友人Aは相変わらず「気合いで避けろ」と言うだろう。
議論はループする。ループはコンピュータ科学の基本概念だ。だから僕はそれを受け入れる。
最後に、ルームメイトが「今度、隣人と映画を見よう」と言っていた。
僕は断る。なぜなら隣人は上映中に喋る。上映中に喋る人間は、社会契約を破っている。社会契約を破る人間に、僕の時間という希少資源を与える理由はない。
少なくとも、隣人の会話よりは。
家にテレビがなくて映画館にもほぼ行ったことがない。ゲームは小さい頃から全然やってなくてポケモンもピカチュウくらいしか知らない。小説も漫画も読まない。一人旅はそれなりにするけど家族旅行に行ったことは一回くらいだけで、親が親戚と仲が悪いから帰省もしたことがない。インターネットにも疎く、SNSはやらないし匿名掲示板に張りついているようなタイプでもない。音楽も聞かないし、料理が好きなわけでもない。ギャンブルもタバコも酒にも興味がない。受験勉強は好き。
こういう友人がいる。距離を置こうと適当な嘘をつかれているわけではないはず。もちろん普通の人間として生活しているのだが、この人に娯楽はあるのだろうかと勝手に心配になる。勉強は好きなようだが、あくまで受験勉強のような答えが出る勉強が好きなようで研究者にはなりたくないという。本当に面白いと思えないから本や映画、ゲーム、音楽といった一般的なエンタメに触れていないのならば全然良いのだが、幼い頃に親からそれらに触れる機会を与えられなかったために、そういうエンタメの選択肢があるということすら知らないのだろうという印象がある。勉強が好きなのも、多分それくらいしかドーパミンが出る行為を許されなかったのだろうと勝手に推測している。
毒親からインターネットに逃避するケースはよく観測できるし、グレる場合も存在は認識できる。ネットにハマるわけでもグレるわけでもなく、多少衝突しつつも進学なり就職なりで順当に親元から離れるパターンも、自分から見えてなかっただけで世の中には結構いるんだろうな。
国の借金、過去最大1342兆円 25年末、国債依存の構図続く
円安と金利上昇という結果は市場で観測されている現実で、今この瞬間にも日本政府の信用は失われ続けている。
恐らく、有権者の半数は円安が何なのかを理解していないし、金利上昇に至っては9割ぐらいが何なのかよくわかっていないだろう。
昔、借金が1億あるけど幸せです、という人がテレビに出演して美談として語られていた事があったが、これが庶民の感覚をよく表している。
1億円使い込んで返さない人が幸せなのは当たり前で、泣きたいのは言うまでもなく貸している側だ。
しかしテレビドラマでは返済に苦しむ食堂のおばちゃんが善で、借金取りの黒服は悪人だ。彼らにとって、借金を踏み倒すのは正義の振る舞いだ。
しかし、現実でそれをやるとどうなるか?生活は日々苦しくなっていくのに、円安も金利上昇も何が何だかわからないので何で苦しいのかわからない。
実質賃金はインフレによって延々と下がり続けるが、なんで下がり続けるのかもよくわからない。
無知は恐ろしいが、痛い目に遭わなければわからないこともある。米が高い、ガソリンが高いと騒いだ割に、大した痛みは感じていなかったようだ。
その考えは半分は正しい。そして半分間違ってる。
まず正しい部分。どの調査方法でも完全に正しい情報を得ることはできない。
観察者効果といって、観察した時点で、観測データと事実の間にはズレが生じる。電話調査なら電話を取らない人の情報は欠落するし、極論したら電話を持ってない人の声は拾えない。ここまでは正しい。
次に正しくない部分。調査方法を電話調査と固定すれば、ズレは毎回同じ程度になる。
例えば前回の総選挙で電話調査によって事前推定した議席数(推定値)と、選挙の後の確定した議席数(真値)を引き算すればズレが計算できる。このズレは毎回同程度になる。
だから前回の総選挙で計算したズレをつかって、今回の電話調査での推定値を補正することで、より正確な推定値が得られるようになる。この仕組みがあるから、電話調査による予測はかなり正確で信頼できる。
もう少し正しい用語で説明する。まず、ズレは科学的には「誤差」と言う。
誤差には2つの側面があって、「正確度(=真値のとズレのばらつき)」と、「精密度、精度(=電話調査の結果のばらつき)」がある。
電話調査とか出口調査の報道は注意してみると、調査方法や調査人数、回答率、年齢、性別、などが細かく説明されている
これらの情報で正確度や精度がどの程度か、統計的に評価できるようになっている。
まず正しい部分。電話調査は正確度は低い。なぜなら観察者効果により調査結果にはバイアスが含まれている。(バイアスの例:電話に出ない人の投票行動がデータに反映されない)
まず前提を疑うべきなのは正しい。
ただし「提示された前提を疑わない」は、批判として成立するために条件が要る。
前提には2種類ある。
もう1つは「結論を成立させるためにこっそり埋め込まれた仮定」(隠れ前提)。
これは疑うべき前提ではあるが、同時にかなり検証可能な命題でもある。
実際、質問セットを変えたら結果が変わるのは観測できるし、重み付けが影響するのは数学的に自明。
つまり、ここで前提を疑うなら、疑い方は
「影響するとしてどの程度か?」
という方向になるべき。
ところが「前提を疑わない」と言うだけで止まるのは、実質的には検証作業をせずに、態度だけで上から殴っているだけ。
前提を疑い続けるだけなら、永久に何も言えない。「私は存在するのか?」から止まる。
この3点。
そして皮肉なのは、「提示された前提を疑わない」という批判自体が、別の前提を疑ってないこと。
その批判の隠れ前提はこう
「疑う姿勢があれば正しい方向に行く」
でもこれは正しくない。
疑うのは知性ではなく手段であって、疑い方が雑ならただのノイズ製造機になる。
「前提を疑え」は正論だが、反論として成立するには、どの前提が誤りで、どう修正すべきかまで言わないといけない。
単純に「観測範囲の問題」だと思う。要するに、問題視してる人たちもインターネットのオタクと同じ観測範囲でものを見てるから、実写版のレズAVが視界に入ってないんだよ。ある意味では、オタク同士の内ゲバなんじゃないかな。
それから、BLがあれこれ言われることが多いのは、BLファンの中に、一定数「政治的正しさ」を掲げて政治的に正しくない創作を攻撃する人がいるから、カウンターとして言われてるっていう面もあると思う。
「やおい論争」だって、フェミニズムの同人誌に載ったゲイからの批判が発端だったじゃない。
……オジさんが女性のヌード眺めて喜んでいるの見たら、変態ジジイ! と叫びたくなるくせに、暗い青年が部屋でしこしこと、女同士がセックスしてる漫画描いてる図を想像したら、大概の女性はゾゾッと体をなめ回されたような不快感を覚えて、やめろよなー、お前! とド突きたくなるくせに、自分たちも平気で同じ次元まで堕ちてしまう。こういう男たちと同じなんだ、という自覚があるのかね? 俺たちから見たら同じよ。わかってんのかね?
もしも、男性向けのエロ創作が女性から何も言われてこなかった世界線なら、BLについてあれこれ言う人の数は少なかったはず。
もちろんほとんどの腐女子にとっては「何それ、知らん」と言いたくなる話だろう。それはわかってる。ほとんどの腐女子が男性向け表現に寛容なのは理解してる。BLを愛好しつつ男性向け表現を叩くなんていう特級呪物がごく一部であることも理解してる。
ただ、フェミニストでありなおかつ腐女子であるというごくごく例外的な一部のアレな人たちがいるせいで、「じゃあBLもダメじゃねーか」っていう反論が生まれてきちゃう構図にあるんだよね。
一般的な、男性向けへの攻撃に与さず、コンビニのエロ本とかも気にしてこなかった多くの腐女子の皆さんが、そういう連中のツケを払わされるのはすごく不当だよね。それはよくわかるよ。男性も、ごくごく一部の痴漢のせいで通勤時に乗りたい車両に乗れないっていうツケを払わされてるから、「なんで自分とは関係ない一部のキチガイのせいで不利益を被らないといけないんだよ。そんなん不当だろ」っていう気持ちはよーくわかる。腐女子叩きも女性専用車両もどっちも不当だよね。そういう差別は認めちゃいけないと思う。
だから、「レズAVも叩けよ」じゃなくて、「BL・GLを叩くな。男性向けも女性向けも叩くな」という方向で、いっしょに声を上げていこう!
対物レンズ越しに合った目
一生の丈合わせ
生きてるスケール違うので
これで逢いに行けます
ざわつく教室抜け出して
旧校舎の理科室へ
泳いで 捉えて
こっちみて
対物レンズ越しに合った目
等身大 目の前に揃っちゃって
君の名前も知らない
おちかづきになりたい
好きな水質とか聞いてみたい
素っ頓狂 信じるわけないんだって
おっしゃらないで頂戴
同じ目線に立ちたいの
観測続行 諦めちゃ、め
▼それで馴染めるのは才能ね
▼でも、申し訳ないけど覚えておいて
▼いつかは解けるのが魔法なの
理想郷 特等席
旧校舎の掛け時計は
狂って 止まって
おっこちて
取り壊されるんだって
百年目の春休み
君に会いたい
うまく走れない
対物レンズ越しに合った目
おうちみたいな涙を溜めて
かける言葉も知らない
嘘で騙したくない
ほんの少しだけを聞いてほしい
その光に惹かれたんだって
対物レンズ越しに合った目
等身大 目の前に揃っちゃって
君の心は透けない
かみさまごめんなさい
素っ頓狂 信じるわけないんだって
終わらないで、恋
体も全部透けちゃうの
聞いて
まるで巨大な単一人格が存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコアを付与しているかのように扱われる。
しかしストア派の冷徹な自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。
世間とは主体ではない。世間はロゴスを宿した統一的意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象と衝動と欲望の乱流である。
つまり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想の審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。
ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。
すなわち、俺の支配下にあるもの(選択能力、意志、判断)と、俺の支配下にないもの(他者の評価、偶然、噂、流行、アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。
世間の認識は後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。
ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。
ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間の視線は外部財である。
外部財に依存する生は、最初から不安定に設計されている。株価に人生を賭けるようなものだ。
しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間を認識していないからだ。
この対称性が、ただの愚痴を形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である。
俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。
社会とは本来、相互に他者を他者として認識し合うことで成立する。
しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。
ユングは言う。人間は意識だけで生きているのではない。個人的無意識と集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。
世間というものは、単なる人間集団ではない。世間は集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である。
ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割に最適化された仮面を被る。
会社員の仮面、家族の仮面、SNSの仮面、善良な市民の仮面。世間は、無数のペルソナが互いのペルソナを認識し合って成立する、仮面の交換市場である。
そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体が認識されていないというより、俺のペルソナが市場に上場していないという意味である可能性が高い。
世間は本体を見ない。世間は仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的にタグ付け可能な記号、職業、年収、肩書、フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装のテンプレだ。
世間は個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間に認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。
つまり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。
分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会の意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。
これは現代のロゴスではなく、統計的なダイモーンである。世間は人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。
しかしユングはさらに深く刺してくる。俺は世間の人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。
俺は他者を見ていないのではない。俺は他者を世間という抽象概念に圧縮している。
これは他者の人格を剥奪する心理的操作だ。世間の人間は、顔も名前も欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。
つまり俺は他者を認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。
影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間を嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。
世間は薄っぺらい、世間は愚かだ、世間は凡庸だ、世間は空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないものに隔離している可能性がある。
これは心理的には合理的だ。自我は自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化のプロセスを阻害する。
ストア派の言葉で言えば、これは判断の誤謬だ。外部の現象に価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派が問題視するのは現象ではない。
現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体は中立である。
善でも悪でもない。ただの事実である。しかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値を付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。
そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的なものだ。
ストア派的に言えば他者の評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。
世間に認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会の舞台における座標がない。座標がないと、自我は漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。
だから俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。
人間は他者の眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己は自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己の輪郭を得られない。
だがストア派は冷酷に言う。そんなものに依存するな、と。自己の輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。
ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。
世間に認識されないことを害と見なさないこと。世間に認識されることを善と見なさないこと。これが精神の自律だ。
しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派は共同体を否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。
人間は宇宙国家の市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派は世間を無視して独りで悟れとは言っていない。
むしろ共同体に奉仕せよ。ただし、共同体からの評価に魂を売るなと言う。
これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。
世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。
ユングはここで、個性化の観点から別の地図を提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。
浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり、世間に適応するペルソナのゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己の徴候に出会う。
これは苦しいが、精神の錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独は病理である場合もあるが、同時に、個性化の必須条件でもある。
だから世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。
世間に認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナの牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。
これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。
しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。
これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間に理解されない天才だ、という物語は甘い。
だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。
自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神の事故だ。孤独が精神を鍛えることもあるが、孤独が精神を神格化することもある。
ストア派は、この危険をもっと簡単な言葉で切り捨てる。思い上がりだと。
宇宙の秩序の中で、俺が特別に悲劇的である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。
ここでストア派は残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。
世界は世界のロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要感からの解放である。
そして結局、俺が言うべきことはこうなる。
世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象だからだ。
世間は意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣の連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。
また、俺が世間を認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者を抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。
俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。
俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分の無意識と戦っている。
ストア派の結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。
俺が制御できるのは、判断と行為だけだ。ゆえに、世間の認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。
ユングの結論はもっと暗い。世間に認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。
つまり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識と対話できるかにかかっている。
だから、このタイトルの文章は、ただの絶望ではない。これは認識の構造の告白だ。
世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。
俺がすべきことは、世間に認識されるために仮面を磨くことではない。仮面が必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派の禁忌はそこにある。
世間を憎んで自分を正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユングの禁忌はそこにある。
残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日も淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。
世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。
ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。
「俺は世間を認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間を認識している。
「世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間の視線を前提にしている。
つまりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。
ロゴスに反し、元型に引きずられ、影を撒き散らし、それでも理性を求める生物だ。
最初は、中道の支持者たちも「戦争反対」なんてムーブをしていなかった。
それどころか、立憲民主党が安保法制を合憲と認めて、これまでの立場を翻した。(憲法改正への姿勢、沖縄の基地問題も、立憲側が公明党に合わせて変節した)
共同代表の野田・斎藤は、このような防衛方針を取ることを「中道」路線と定義した。
左派系の立憲議員たちは、苦渋に耐えながら中道改革連合の旗の下に集結した。
それなのに、選挙終盤になって、いきなり「戦争反対」で盛り上がるのっておかしくない?
https://anond.hatelabo.jp/20260207195816
https://anond.hatelabo.jp/20260207001814
共産・社民が「戦争反対」と言うならばわかるが、なぜか、中道改革連合の支持者たちがこのムーブをしている。
だがそもそも、新党の構想は、現実的な防衛政策を取るところにあった。極端な右翼・左翼を退けて、穏健な中道政党を作るとは、ずばりそのことを意図した宣言だった。
とはいえ、新党のスローガンは「生活者ファースト」である。もし安全保障を論じると、立憲民主党が見解を変節させたこと、新党内部で意思統一されていないことが露呈してしまう。野田代表もその弱点に気づいていたので、なるべく経済政策を争点にしたがっていた。
斎藤代表にしても、公明党がこれまで安倍晋三の安保法制、岸田文雄の安保三文書に賛成してきた手前、今さら共産・社民の左翼勢力といっしょに「戦争反対」を叫ぶわけにはいかない。だから平和を訴えるときに、中道主義を掲げることで節度を守ろうとしていた。
ところが、予想外のことが起こる。選挙の最終盤になって、X上では「#ママ戦争止めてくるわ」が流行した。オールド左翼のごとき「戦争反対」の煽動合戦が始まった。しかも、そこには中道改革連合の候補者、地方議員と、公認のサポーターたちが参加しているのだ。党の公式アカウントもこれに乗っかり、リポストでハッシュタグを拡散している。
この運動の是非は措くとして、中道の支持者たちは、なぜ終盤局面でこんな主張を始めたのか? それが私の疑問である。(もし選挙期間の序盤〜中盤に、高市政権に対して"戦争""徴兵制"のレッテルを貼れば、早期に「戦争反対」を争点化することができたはずだ。それをずっと抑制してきたのに、なぜ今になって急激に騒ぎだしているのか。)
私が思うに、支持者たちは、ヤケクソになっているのかもしれない。野田・斎藤は左派を切り捨てて、まじめに中道路線をやろうとした。支持者たちも最初は黙って追従した。ところが、終盤に惨敗が見えてくると、もう統制が効かなくなってきたといったところだろう。
結局、中道は経済政策で独自色を出せず、無党派層への支持が広がらず、それで焦って「戦争反対」に飛びついたように見える。選挙が終盤になると、同党は若者・現役世代へのアピールをあきらめて、年金暮らしの老人票を固めにいった節があるのだが、安保政策にもその傾向がある。結党当初は右寄りにウィングを広げて、高市に不満を抱える自民支持層を引きよせて、新規の支持者を増やしていく方針だったと思うが、その計画は破綻した。この局面に至っては、旧来的な左派の固定票をがっちり集めるのが得策という判断か。
追記2
私の観測範囲では、中道改革連合でこのムーブメントに参加しているのは、あきらかに公明党、創価学会の人々が多い。やはり彼ら彼女らは"平和"への熱意が凄まじい。与党時代には抑えていたが、野党になって「平和の党」に回帰したということだろうか。
今回、斎藤代表は、立憲民主党に政策転換を迫った立役者だ。彼の手腕によって、立憲民主党は、公明党が与党時代に通した安保政策をほぼ丸呑みする形となった。ところが、噂で聞くには、創価学会の信者たちの間では元来、自民党の安保政策は不評であったという。連立政権の裏側で、信者たちの不満は燻っていた。要するに、創価学会には"平和"重視の気風が強く根付いていて、だからこそ長年のフラストレーションが溜まっていたのだ。この土壇場で、それが一斉噴出したということかもしれない。
なお、立憲民主党側の人々は、シラケているのか、あまり参加していないようだ。(無論、ハッシュタグを広めている候補者・支持者たちがいるにはいる。ただ公明・創価陣営に比べると、その熱量が低めに見える)
Permalink |記事への反応(23) | 21:10
もっとも大きい影響は1~2昔前の2chまとめサイト(現5ch、いわゆるコピペブログ)だよ。
当時からそういうコンテンツを見て育った層はほとんどが自民・維新・国民・参政へ投票する。
民主主義という題目こそ肯定するが、その実装である適正手続や人権やリベラル政党については敵だと思っている。
この層は裏金や憲法含む法令違反のような反社会的行為を減点対象にしない。
現在の自分に直接関わる人権保護以外には反対している(例えば労働法◯社会保障法☓諸条約☓)。
また自分の観測範囲内だけの話になるが、この政治的傾向が後に変化することはない。
今アメリカではトランプが去っても陰謀カルトと宗教右派は残っててどうすんの的な話があるけど
お前は何に憤っているんだ?
まず「several rare-earth minerals including theseven types」と書いているので、7品目でけ(ママ)と翻訳しているお前は英語の勉強をし直して来い。
高校生だって、直訳だけでも「7品目を含むレアアース鉱物」と読み取れるだろ。
あとな、高市の台湾有事発言は11月で、12月に入る頃にはレアアース規制の観測が強まっていた。
そして、12月末には日本で精製したレアアースや機器の対中輸出サボタージュが発生して、中国側も多少困ったことになり、年明けには現場レベルで手打ちの雰囲気が醸成されていたんだよ。
だから、1月上旬に規制撤回の方向で中国側が動き始めていても変じゃないの。
中国だってアメリカとレアアース輸出規制で揉めた直後で、あまり政治の道具として使うのも躊躇われるから「民生品はOK」というエクスキューズを残した。
そもそも日本が最終処理してくれないと中国企業は在庫が積み上がって困る。
金曜日、21:21。
僕は今日という日を、いくつかの確定事項と、いくつかの許容できないノイズの除去によって完成させた。世界は混沌を好むが、僕は世界を甘やかさない。
まず進捗報告から書く。午前中に洗濯を済ませ、タオルを用途別に畳み直した。世の中の大半の人間はタオルを大きさで分類するが、それは分類学の敗北だ。
タオルは水分吸収後に人体へ与える温度変化のパターンで分類すべきだ。僕はその分類をすでに完成させている。
昼は例のプロテインとナッツ。ルームメイトは「鳥かよ」と言った。僕は「鳥は飛べる。君は飛べない」と言った。会話終了。
最近、僕の頭を占領しているのは、もはや弦が振動して粒子になるみたいな子供向けの比喩ではない。
そんなものは学部生の精神安定剤に過ぎない。今僕が追っているのは、弦理論の存在論そのものが、より抽象的な数学的構造に吸収されていく瞬間だ。
従来の弦理論は、時空を背景として仮定し、その上でワールドシートの共形場理論(CFT)を構成する。
僕が最近読んでいる議論は、その揺らぎを、もはや幾何学ではなく圏論とホモトピー論の側から扱おうとする。
弦理論の真の姿は、たぶん幾何学的対象ではなくある種の高次圏の中の関手だ。
例えば、Dブレーンは単なる境界条件ではなく、導来圏の対象として現れる。
これは有名な話だが、僕が今考えているのはその次の段階で、ブレーンを対象として並べるだけでは足りないという点だ。
重要なのは、それらがなす安定∞-圏の中での自己同値性、そしてその自己同値群が物理の双対性を生成しているという構図だ。
つまり、S双対性もT双対性も、時空の幾何学変形ではなく、圏の自己同値の作用として理解されるべきだ。
幾何学は副産物だ。主役は圏のオートエクイバレンスで、その影が僕らに空間や次元という幻覚を見せている。
この視点に立つと、超弦理論は10次元の時空の上で定義される理論ではなく、あるモジュライ空間上で定義される圏の族になる。
しかもそのモジュライは通常の多様体ではなく、スタック、いや派生スタックとして扱わないと整合しない。量子補正が幾何を壊すからだ。クラシカルなモジュライはもはや粗すぎる。
そして今僕が面白いと思っているのは、物理的な散乱振幅やBPSスペクトルが、派生代数幾何の言語でいうコホモロジーの生成関数として現れるのではなく、より根源的にスペクトル代数幾何として再解釈される可能性だ。
普通の環ではなくE∞環、そしてそれを層化したスペクトル層の上で物理が書かれる。
これが意味するのは、弦理論の量子性が、確率解釈とか演算子代数とかのレベルではなく、もっと深いホモトピー論的ゆらぎとして実装されているということだ。
観測値の不確定性ではなく、構造そのものが同値類としてしか定義できない。
だから時空は何次元か?という問いは、すでに古い。正しい問いはこうだ。
この物理理論は、どの∞-圏に値を取る関手として実現されるのか?
そして粒子とは何か?はこうなる。
スペクトル化された圏の中で安定化された対象の、ある種のトレースとして現れる量が、観測可能量として抽出されるのではないか?
この辺りまで来ると、たぶんウィッテンでも「面白いが、それを計算できるのか?」と言う。
僕も同意する。計算できない数学は、芸術に片足を突っ込んでいる。
もっとも、芸術を嫌うわけではない。ただし芸術は、計算不能であることを誇るべきではない。誇るならせめて証明不能で誇れ。
さらに言うと、AdS/CFT対応も、境界CFTが重力をエンコードしているという話ではなく、境界側の圏論的データが、bulk側の幾何の生成規則を決定するということに見える。
bulkの時空は、境界の量子情報から復元されるというより、境界の圏の中の拡張のパターンが距離を定義してしまう。
距離とは、メトリックではなく、圏における対象間の関係性の複雑さだ。
局所性とは公理ではなく、圏がある種のt-構造を持ち、かつ心臓部が準古典的に見えるときに現れる近似現象だ。
つまり、局所性は幻想だ。役に立つ幻想だが。そして役に立つ幻想は、だいたい人間社会と同じだ。
昼過ぎに友人Aが来て、僕のホワイトボードに勝手に謎のロボットの落書きを描いた。
僕は当然、ホワイトボードをアルコールで拭き、乾燥時間を計測し、表面の摩擦係数が元に戻ったことを確認した。
友人Aは「こわ」と言った。僕は「科学を怖がるな」と言った。
そのあと友人Bがオンラインで通話してきて、「今夜FF14で極いかない?」と誘ってきた。
僕は予定表を開き、金曜夜の21:00〜23:00が知的活動に適した黄金時間であることを説明した。
友人Bは「お前の人生、イベントトリガーが厳しすぎる」と言った。僕は「君の人生はガチャ排出率みたいに緩すぎる」と言った。
とはいえ、FF14は僕の中で単なる娯楽ではない。あれは人間集団の協調行動の実験場だ。
8人レイドの失敗は、ほぼ例外なく情報共有の遅延と役割期待のズレで起きる。
つまり、ゲームではなく組織論だ。だから僕は攻略を感覚ではなく、ログを読み、DPSチェックを式で理解し、行動をプロトコルとして最適化する。
ルームメイトはそれを「楽しんでない」と言う。僕は「最適化は楽しみだ」と言う。
そして隣人は昨日、廊下で僕に「また変な時間に掃除機かけてたでしょ」と言った。
僕は「変な時間ではない。床の振動ノイズが最小になる時間帯だ」と説明した。
隣人は「普通に生きて」と言った。僕は「普通は平均であって、理想ではない」と言った。
僕はデッキのマナカーブを見直した。土地事故の確率を計算し、初手7枚からの期待値を再評価した。
僕は「確率分布を無視して勝てるなら、人類は統計学を発明していない」と言った。
アメコミは少しだけ読んだ。
スーパーヒーローの倫理体系は大抵破綻している。正義を掲げながら、法の外で暴力を振るう。
それは秩序のための例外という名の危険物だ。僕は物理学者なので、例外を嫌う。例外は理論を腐らせる。
だから僕はヒーロー物を見ると、いつも「この世界の法体系はどうなっている?」が先に気になる。
友人Aは「お前は物語を楽しめない病気」と言った。僕は「病気ではない。解析能力だ」と言った。
習慣についても記録しておく。
今日も、夕食の箸は右側に45度、箸置きは正中線から3センチ左、コップは水位が7割を超えないように調整した。
水位が8割を超えると、持ち上げる際の揺らぎが増える。揺らぎが増えると、机に微小な水滴が落ちる確率が上がる。水滴が落ちると、紙の上のインクの拡散が起きる。インクが拡散すると、僕のメモが汚染される。
誰も理解しない。だが宇宙も僕を理解していないので、引き分けだ。
さて、昨日の日記の内容は正確には思い出せないが、たぶん「量子と日常の無意味な会話」について書いた気がする。
ルームメイトの無駄話と、僕の理論的思考が衝突するあの感じだ。昨日の僕は、おそらく世界の愚かさに苛立ち、同時にその愚かさが統計的に必然であることに納得しようとしていた。
宇宙が示すのは、美しさとは、人間の圏が勝手に定義した関手にすぎないということだ。
これからやろうとしていることも書く。
まず、FF14の週制限コンテンツを消化する。効率的に。感情は挟まない。
次に、MTGのサイドボード案を2パターン作り、友人Aのプレイ傾向に対してどちらが期待値が高いかを検証する。
そのあと、超弦理論のメモを整理し、派生スタックとBPS状態のカウントがどのように圏の不変量として抽出できるか、もう一度筋道を立てる。
リフレ派の議論は、表向きは景気を回復させるための合理的金融政策を装っている。
しかし実態は、貨幣の価値という社会の基盤を削って短期の快楽を買う、典型的な自己放尿である。
フリードマンが繰り返し言ったのは、インフレとは道徳問題でも精神論でもなく、貨幣現象だということだ。
つまり物価が上がるかどうかは、根性でも国民性でもなく、制度設計とインセンティブ構造の帰結である。
ここを理解しない政策は、どれだけ善意で飾っても経済学的にはただのノイズであり、最終的には国民の購買力を破壊し自己放尿する。
日本がこれから直面しうるのは、「需要が足りないから財政で押し上げる」という単純化された世界観が、期待形成に殴られて崩壊する自己放尿だ。
インフレは静かに始まり、ある瞬間から臨界点を超えて、貨幣需要の崩壊とともに加速する。
そしてその時、リフレ派はいつものように言うだろう。「想定外だった」と。
問題の連鎖は単純だ。にもかかわらず、政治はこれを「景気刺激策」という包装紙で包み、国民に配布する。
減税する。税収が減る。だが歳出は減らない。むしろ選挙インセンティブのもとで増える。
そして次の段階に進む。
日銀が吸収する。つまり中央銀行が国債を買い取り、政府債務を事実上マネタイズする。
国債買い入れでベースマネーが増え、銀行システムを通じて信用創造が増幅され、結果としてマネーサプライ増加が起きる。
そしてフリードマン的には、ここから先はもはや議論ではない。恒等式と確率の世界だ。
貨幣価値が下がれば、同じ商品を買うのにより多くの円が必要になる。つまり物価増加が起きる。
この連鎖は、願望で止められない。
政治家がマイクで叫んでも止まらない。新聞が「インフレは一時的」と嘘を書いて自己放尿しても止まらない。
だが深刻なインフレの本体は、需要増ではない。貨幣需要の崩壊だ。
国民が円を持ちたがらなくなる。企業が円建て長期契約を嫌がる。労働者が賃上げ要求を強める。
輸入業者が先回りして価格を上げる。資産家が外貨や実物資産に逃げる。
このとき物価は上がるのではない。円の価値が下がるだけである。
インフレ期待がインフレを生み、そのインフレがさらに期待を押し上げる。
これは合理的行動だ。誰も損したくないから、先に値上げし、先に買い、先に逃げる。
この時点で政府ができるのは、金融引き締めか、歳出削減か、信用回復のための痛みを伴う制度改革しかない。
リフレ派がよく使う詭弁に、「日本は自国通貨建て国債だから財政破綻しない」というものがある。
この言い方は、形式的には正しい。日本政府は円を発行できる。だから名目上の債務不履行(デフォルト)は避けられるかもしれない。
しかしフリードマン的に重要なのは、デフォルトの形態は一種類ではないという点だ。
政府が返済不能になったとき、紙面上は返せる。なぜなら通貨発行で返済できるからだ。
だがその瞬間、実質的には国民の購買力が毀損される。つまりインフレ税という形で、国民から徴収する。
これは「破綻していない」のではなく、破綻を「通貨価値の下落」という形で実行しただけだ。
これが金融抑圧であり、インフレ課税であり、事実上の資産没収である。
破綻しない?
最大の問題はここにある。財政と金融の境界が溶けた瞬間、中央銀行は「物価安定の番人」ではなく「政府債務の処理係」になる。
「政府は歳出を削らない。日銀が支える。だから国債は安全だ。だがその安全性は貨幣価値を犠牲にしている。」
この理解が広まると、国債の信用は保たれるかもしれない。だが円の信用は落ちる。
そして本当に恐ろしいのは、インフレが進んだ後に引き締めをやろうとすると、国債金利が上がり、利払い費が増え、財政がさらに悪化する点だ。
つまり日銀は、インフレを止めるために金利を上げると政府を殺し、政府を救うために金利を抑えると通貨を殺す。
そしてこの状況は、政策の失敗ではなく、最初から制度設計の帰結である。
ここで多くの人が短絡的に言い出す。「じゃあ増税すればいい」と。
増税は、財政を健全化するどころか、政治経済学的には逆の方向へ向かう可能性が高い。
なぜなら増税とは、「政府がもっと使える余地」を与える行為だからだ。
「税を上げれば金が取れる。なら歳出を削る必要はない。」
すると歳出は固定化され、既得権益が制度として結晶化し、公共選択論が示す通り、予算は削れない構造になる。
さらに悪いことに、増税で景気が悪化すれば税収は伸びず、結局また国債発行に戻る。つまり、
増税 → 成長率低下 → 税収鈍化 →国債発行 →日銀吸収 →インフレ圧力
結局、政府債務を増やし続ける構造が変わらない限り、増税は「健全化」ではなく「延命治療」にしかならない。
延命治療は医療では尊いこともあるが、マクロ政策では単に時間を買うだけだ。そして買った時間で政治が改革する保証はない。むしろ改革しない確率が高い。
インフレを語るとき、リフレ派は「需要ギャップ」や「潜在GDP」を持ち出す。
だがそれらは観測不能であり、推計モデル依存の幻影でもある。そこに政策の正当性を置くのは危険だ。
重要なのは、政策当局がコントロールできる変数と、できない変数を区別することだ。
政府が確実に増やせるのは支出だ。日銀が確実に増やせるのはマネタリーベースだ。だが経済成長や生産性は、命令で増えない。
だから「金融緩和すれば成長する」という発想は、因果を逆に見ている可能性がある。
成長するから貨幣需要が増え、結果としてマネー供給が吸収され、インフレが抑制されるのであって、貨幣を増やせば成長するとは限らない。
貨幣供給を増やしても、資本蓄積と技術革新と労働供給が増えなければ、ただの通貨希薄化で終わる。
リフレ政策の本質は、短期的な快感のために長期の制度を犠牲にすることだ。
しかも犠牲になるのは抽象的な制度ではない。国民の生活そのものだ。
貨幣価値の放尿、財政規律の放尿、中央銀行独立性の放尿。つまり、「貨幣、財政、制度のトリプル放尿」である。
中央銀行の独立性が壊れれば、インフレを止める最後の手段が失われる。
この三つは別々の問題ではない。相互に補強し合う。悪い意味でのシナジーを持つ。
インフレが進むと、賃金は追いつかない。追いついたとしても遅れる。結果として実質賃金は落ちる。生活水準が落ちる。格差が広がる。
インフレは税制上、資産を持つ者に有利で、現金労働者に不利だ。インフレは見えない再分配装置であり、政治が選挙で決めたわけでもない所得移転を勝手に起こす。
長期雇用、年金、保険、貯蓄、国債、家計設計。これらはすべて「通貨が安定している」という前提で成立している。通貨の信認が揺らぐと、社会の基盤が揺らぐ。
そして一度壊れた信認は、戻らない。戻すには時間と痛みがいる。これは歴史が何度も証明している。
「減税して景気を良くする」「国債を出して支える」「日銀が買えば問題ない」
この一連のストーリーは、現実の制約を無視した願望のパッケージだ。
減税 →国債発行 →日銀が吸収 →マネーサプライ増加 →貨幣価値低下 →物価増加
だが同時に、「増税すればいい」という発想も救いにはならない。
歳出が固定化し、政治が改革を回避し、借金を借金で返す構造が温存される限り、結末は変わらない。
問題は税率ではない。
問題は「支出を削れない政治」と「貨幣発行でそれを隠蔽できる制度」だ。
リフレ派がやっているのは、景気刺激ではない。
色々観測してたけど、もう護憲派が議席取るのは「高市さんなんか頑張ってる😁」と同じくらい短いセンテンスで行かないといけないんやろなと思った。
本当は議題はそこにはないけど。
・皆AIは使っている、たまに使ってない人が居る、そろそろ使ってくれと全社的にいわれる
・足並みが揃わない
・楽になった面もあるが、仕事の精度が若干落ちるため、ストレスがかかる
・タスク量は変わっていない
・全員が早くなるわけじゃないから
・早くなったからって複雑度を上げる輩が散見される、複雑度を上げると仕事量なんて指数的に増える
・MCPで繋がっているものと繋がっていないものがあってだるい。例えるならトラックがあるのにラストワンマイルが人力みたいな
・他社でどうなってるのか皆いまいち知らない(俺はなぜか知っている)
・設計とか、仕事の方法とか一回ひっくり返されたので議論が停滞している(AI前提の話を足並み揃えて語れる人は少ない)
・難しい設計や複雑な仕様は普通にAIも間違うので、凝ってるプロジェクトほど活用できていないはず
・大抵「AI推進」みたいな人達がいるけど、AIの進みが早すぎて野良AIユーザーのほうが詳しかったりする
・ゴール設定が難しい、指標・観測・計測をちゃんと整備したほうが良いんじゃね?と思うけど口は出さない、藪蛇
・今日「ClaudeCodeの新しいのが出た」と言ってみたが「ふーん」って空気だった、皆飽きてる?
・RAG意外と使ってない、ああいうのって整理しても使ってくれるかどうかだからやっぱMCP接続してぶん回したほうが早いのかも
・デザインチームはFigmaAIとか使ってるらしい、現状「他チームがどうやってるか」まで進んでる会社は見当たらない、チーム内でも統一できてないし。これRPAを定着させる作業と変わらんな多分
なんか、皆飽きてる?
あとでまた書く
日本経済の長期停滞を説明する理屈はいくらでもあるが話は驚くほど単純だ。
原因は需要不足でもデフレ心理でもない。ルールを破壊し、価格シグナルを歪め、貨幣を政治目的に従属させたことだ。
ケインズ派の基本動作は、景気が悪いと見れば政府が需要を作り、財政赤字と金融緩和で穴を埋めることにある。
だが成長は支出から生まれるのではなく、生産性とインセンティブから生まれる。
それを中央銀行と財政当局が踏み潰す行為は、市場という分散計算機に砂糖水をぶちまけて自己放尿するようなものだ。
日本で起きたのは、貨幣の中立性を信じない政策当局が、期待形成を自分たちで管理できると誤信した結果だ。
量的緩和でマネタリーベースを膨張させ、金利をゼロに貼り付け、将来の不確実性を消せると考えた。
しかし合理的期待の世界では、予見可能な政策はすでに価格に織り込まれる。予測可能なインフレ目標は、予測可能に無力化される。
ここで起きるのは刺激ではなく、リスクの社会化とゾンビの温存だ。
退出すべき企業が退出せず、資本は低生産性部門に拘束され、全要素生産性は下がる。
財政側も同じ構図だ。公共投資で需要を作ると言いながら、実際には政治的配分で資源を歪める。
限界効用の低い支出に税と国債を投じ、将来世代に負担を転嫁する。
リカードの等価定理を完全に満たさないにせよ、将来増税の予想は現在の消費を抑制する。
さらに悪いのは、金融と財政の結託である。中央銀行の独立性を空洞化させ、財政規律を金融で肩代わりする。
これは金融抑圧と財政拡張のダブル放尿だ。金利という最重要の価格を潰し、政府の予算制約を見えなくする。
市場参加者は学習する。将来のルールが恣意的だと分かれば、長期投資は萎む。短期の裁定だけが増える。
k%ルールに象徴されるように、裁量ではなく予測可能性が重要だ。
日本は逆をやった。状況に応じて目標を変え、手段を増やし、説明を付け足した。
その結果、政策はノイズになり、期待は不安定化した。貨幣は中立でなくなり、しかも望ましい方向には動かない。
これらは症状であって原因ではない。
原因は、価格システムを信頼せず、政府が最適配分を計算できると考えた傲慢さだ。
日本で観測されたのは、ケインズ派の自己放尿が制度化され、止めるブレーキが外れた状態だ。
結論は地味だが冷酷だ。
貨幣政策は予測可能に、財政は制約を可視化し、退出を許容する。
それができない限り、自己放尿は続き、成長は戻らない。