
はてなキーワード:観測とは
2019年に東京都内にあるホテル経営会社が買収した経緯と場所から「堀江の庄」でないかとは言われている。
https://x.com/hahaha_____i/status/1347411303942430721
2021年のツイートに中国系に買われてるとの話はあるので事実であれば一条龍の一環とみてもよいだろう。
ちなみにX上で言われている「株式会社ALEXANDER &SUN」経営のホテルが取材源じゃないかというのはデマっぽいので注意。
たしかに株式会社ALEXANDER &SUNは中華系の企業で舘山寺温泉のホテルを買収したが、2024年であり時系列が合わないのでネトウヨの早とちりである。
https://www.chunichi.co.jp/article/956771
とはいえ舘山寺温泉の複数のホテルが中国系資本に買収されていてるのは観測できるので、
「Ryuichi Sakamoto: Diaries」という、坂本龍一さんが亡くなる前の数年間を描いたドキュメンタリー映画を見た。
坂本龍一さんの音楽は聞いたことはあるが、そこまでのファンというわけではない。
ただ、他に見たい映画も無かったし、その音楽の才能と功績が、世界中で認められた人の最期というのはどのようなものなんだろうという興味があったので見た。
坂本さんは日記をつける習慣があり、亡くなるまでの間もノートやiPhoneのメモ帳に、短い言葉を残していったようだ。
予期した通りではあったが、検査でステージ4の癌が発覚した後、ずっと「苦しい闘病生活を送り、わずかに延命することに意味はあるのか?」という問いと「まだ死にたくない」「音楽に没頭する間は死を忘れられる」というような心の変化が描かれている。
既に意識を失い、痩せ衰えたピアニストの指は、まるでピアノを弾いているかのように動き続ける。
これはとても悲しくドラマティックであると同時に、見る側に罪悪感のようなものを想起させる。と思う。
他人の、そして映画を見る人にとっては概ね「推し」の死を観測するというのは、どういったことなのか。意味があるのか。
死の瞬間まで、映画というある種のエンターテイメントに変換されることは、本人にとって幸せなことであるのかどうか。
そしてもう一つ、死が映画になり得る人間というのはほとんど存在しない。彼が特別な人間だからこそ、映画になり得たということ。
YMOや個人の音楽活動、アート活動で積み上げた実績、音楽の大きな才能があったからである。
そんな才能を持つ人でさえ、死に直面した際には「たった一年延命することに意味があるのか?」と問い続ける。
第三者から見れば、天才に一年の時間があれば、音楽が残る。インタビューが残る。その言葉から書籍が残る。それらを待ち望む人が世界中にいる。
しかし、ほとんどの人の最期には、そんな期待はあり得ない。客観的には、何も残さずに死ぬしかない。
そんな凡人にとっての延命とは何か。
自分が同じ場面に遭遇してしまったら、果たして闘病を決心することになるんだろうか。
個人的には、「凡人の死」「何も残さないであろう自分の死」を考えさせられる映画であり、心が冷たくなるような時間だった。
見てよかったかといえば良かった。
強くおすすめはしない。
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関連ブログ
(一般)
【おうさまびょう】
自分にとって気持ち悪いもの、うざったいものが世界に存在しない事が「正しい」と認識する病。
症状として「あれがキモい」「これがウザい」といった発言を頻繁にするのが観測される。
また他人のファッションに対して「ヤメテヤメテ」と連呼するなどといった行為も見受けられ、これも王様病であると考えられる。
こういった「気持ち悪い」「うざったい」といった感覚を持つだけでは王様病とは言えない。そのような自分の感覚に、他人が合わせるのが当然と思い込んでるところが王様病の王様病たる所以である。
応募した理由
・経験のある業種
・遊ぶ金欲しさに
詳しいことは省いて俺の経歴に魅力がないのも面接受けの悪さも重々承知の上で
いやまじで
人が足りてる業界のほうが聞かんわ
今回思い切った条件を提示して今までとは違う新しい風を呼び込みたくて~
思い切った条件の内訳
月給17万~22万
賞与前年実績1ヶ月(×2回)
家賃補助等なし
Wワーク禁止
そこは否定しない
でだ
社内の見学等はない
そりゃそうだ
量産型の篩を使って人を篩い落として「人がいないの~~~」ってか?
古式ゆかしい就職面接を突破できる程度に常識的な魅力を備えた新世代?
みんなそんなに面接受けいいのか
俺は誰とも知らないおっさんが偉そうな顔して値踏みしてくるあの面接ってやつが嫌いだ
面と向かって「なんで辞めたの?」「なんでうちなの?」「なにができるの?」「なにがしたいの?」
うるせーーーーーー
人手不足が叫ばれる昨今ではあるが
俺のように契約が切られる人
俺のように面接で落とされる人
いるんだよ
人は いる
人手が足りないなら他の企業が落とした残り物から選ぶ覚悟はないのか
働き方改革だの新時代への転換だのご立派な文句垂れ流して評価基準は旧時代的
同じ形の目
同じ粗さの目
強欲だなオイ
そうやって上むいてたら丁度良く熟れた果実が口に入るかもな
お前が今吐き出したそれ
追熟させたら十分食えるぞ?
お門違いだろ
「うちじゃなきゃいやって言って」「一生いっしょにいて」「贅沢はできないけどそれでもいいって言って」「他のどこにも行かないで」
それに付き合ってみようかと名乗りを上げた物好きにすら「あんたじゃだめ」
メンヘラかよ
やってらんねー
そういう恨み節
俺はしばらくニートするわノシ
こうなると、為替介入が二律背反を収拾するための唯一の手段になりつつある。為替介入によって円安そのものを先に解消できれば、ターミナルレート云々によって解消する必要がなくなるため、国債金利も自ずと落ち着く。そもそもここまで急速に現実化した12月利上げの位置付けは、為替対策の利上げから更に一歩進めてみると、為替介入を可能にするための利上げではないか。ベッセント財務長官はかねてから円安は日銀がビハインド・ザ・カーブになっているからだと指摘しており、日銀利上げが米側による介入了承の事実上の条件になっているとの観測がある。財務省が為替介入をやりたいと考える証拠はないが、もし為替介入をやりたがっているのであれば、日銀も利上げするしかないという整理となる。またベッセントの内政干渉を待つまでもなく、為替介入は金融政策と方向性が揃っていなければ効果を発揮しづらい。これまでの為替介入歴を振り返ると、2024年は6月に為替介入が行われ、7月に日銀が利上げを行った。2022年は10月に為替介入が行われ、12月に日銀がYCCを修正した。2025年1月の利上げと共に為替介入が行われなかったのは、就任したばかりのトランプをいきなり怒らせるのが怖かったからだろう。再び仮定となるが、もし財務省が為替介入をしたがっているのであれば、日銀の12月利上げ前後は、為替介入の効果が持続しそうな貴重なウィンドウとなる。このウィンドウを逃したらしばらく為替介入は困難だ。この間、米国側の金融政策が緩和側に寄ると更に好ましい。少なくとも神田財務官の時代において、財務省の為替介入はかなりトレーディング色が濃く、2022年11月はWSJのNick TimiraosがFedの利上げ幅縮小を報じた直後に為替介入を行っている。2024年6月ではCPI発表後に米金利が低下した場面で為替介入を行っている。Fedの12月利下げもほぼダンディールになっており、それに逆行する形で日銀が利上げをダンディールに固めていくモチベーションは、やはり為替介入が間に挟まっている点ではないだろうか。逆に12月FOMCが金利上昇イベントになった場合、それはそれでドル円の一層の上昇を為替介入で正面から阻止せざるを得なくなる。ここまでの整理が正しければ、12月FOMCから日銀12月会合前後にかけての日程が為替介入の危険日になる。2026年1月に入ってしまうと新たにできた新NISA枠による個人投資家の円売りアタックが再開すると思われ、改めて為替介入を行ってもほとんど相場を押し下げることはできないだろう。12月利上げがあった前提で12月中に為替介入をやらなかったとなると、財務省はかなり為替介入に後ろ向きであると判断せざるを得ず、2026年1月以降に円資産を保有する理由がほとんどなくなってしまう。
財務省が為替介入をやりたいかどうかは最後まで分からないが、ブレーンはかなりやりたそうな顔をしている。先ほどのエコノミストは「介入ラインと意識されている160円に達する前でも、あまりにも動きが大きければ動く可能性がある」と述べる。また外貨準備の規模が大きすぎるため、むしろ積極的に減らしたいとの発想が紹介されている。この手のブレーンが本当に政権の経済政策を支配できるとは思っていないし、高市政権も既に決定した路線をブレーンを使ってリークしていると判断できる証拠がないが、仮に当局全体の意思として外貨準備の規模を削減したいのだとすれば、日米金利差対比でも異常値になった高値で外貨準備を利食える為替介入をやりたくてウズウズしていることだろう。為替介入がカジュアルに行われる可能性に留意すべきである。
「為替介入利上げセット説」は、日銀の任務が想像以上に困難なものであった可能性を示唆する。2024年6月に為替介入が行われ、7月に日銀が利上げを行った後に、8月の雇用統計で日本株が暴落したことは記憶に新しい。この時の暴落がこの時の暴落が政府当局によって故意に筋違いに日銀のせいにされたことが、2025年の植田日銀の心理に軽くないトラウマを植え付けた。利上げペースは経済展望に基づいて決められるが、日銀執行部の具体的な利上げ月選びのマンデートには「日本株がクラッシュしなさそうなタイミングに挿入すること」が付け加えられたに等しい。本当に利上げが毎回クラッシュを招くなら淡々とやることをやるしかないのだが、そうじゃないからこそ難しいのである。その上で、為替介入利上げセット説が本当なら、為替介入はむしろ米国の経済指標が絶好調の間はあまりやらないわけで、為替介入が為替市場を一通りかき回した後に、日銀利上げの番が来て日本株がクラッシュしたらそれは日銀が悪いということになるのだ。あまりにもアンフェアではないか。何がコミュニケーションだ。
実際に為替介入が行われたとして、ドル円レートをどこまで押し下げられるかと言うと、前回や前々回と違って投機筋は円買いポジションを残しているため、それほどの効果はないと考えるべきだ。事前に投機筋の間で為替介入期待が盛り上がってしまうと更に効かなくなる。冒頭のワニの口が閉じる、つまり日米実質金利差が示唆する通りのドル円レートは130円近辺となるが、そこまでドル円を売り崩せるならかなり驚きであり、ワニの口が半分閉じた程度の水準でもかなり大掛かりな資産の外貨シフトを行う価値があるだろう。
急速に近付いてきた12月利上げ
円安が止まらなくなった結果、日銀の早期利上げが再び近付いてくることになる。かねてから本ブログは日本には中立金利がなく、代わりに中立為替レートが存在すると主張してきた。その中立為替レートも分かりやすいわけではないが、なんとなくの雰囲気として、ドル円が150円を超えると日銀に利上げ圧力がかかりやすくなる、という経験則は今サイクルで一貫して有用であった。元々金利市場が想定していた「ビハインド・ザ・カーブでない前提下の金融政策の正常化」は概ね1年2回利上げ程度のペースだったと思われるが、2025年に入ってから1月に利上げがあり、その後は「解放の日」と関税経済でそれどころではなくなる。関税経済がどうもそこまで景気に悪影響がないと判明する頃には、今度は高市政権が爆誕してしまう。関税経済を理由に1回分の利上げがスキップされるのはやむを得ないが、12月会合と1月会合まで据置きで通過してしまうと2回分のスキップになり、そもそもやる気がないと感じざるを得ない。
高市首相は昨年夏の利上げに際して「今利上げするのはアホやと思う」と発言したことで利上げを許さない印象が強いが、今のところ高市政権として金融政策への干渉が強かったわけではない。新政権爆誕直後の10月会合で利上げが行われなかったのは自然である。政権とのすり合わせを行わないまま金融政策を変更し、後になって政権との意見の不一致が目立った場合、金融政策への信認が損なわれるからだ。そういうことがあるから年8回もの決定会合予定が設けられているのである。
12月に入ってすぐ、植田総裁の講演で12月利上げ予告に入った。特に講演資料の実質金利のチャートが、それまで国債金利から日銀スタッフが算出した期待インフレを引いて算出していたのが、政策金利からCPIを引いたものに変更されたのが決定的であった。まさか日銀の中の参謀が本ブログを目にしたわけではないだろうが、本ブログがインチキと批判してきた日銀スタッフ算出期待インフレと基調的物価が消え、より直感的に実質政策金利の異様な低さを理解できるようになったのである。新しい実質金利は「利上げしても金融政策はまだまだ緩和的である」と政権を説得しやすくなったし、その明快さは基調的物価を言い訳とした逡巡を許さない。しばらくして「政権も利上げ判断を容認する構え」との観測記事が出たことで12月利上げはダンディールとなった。高市政権の円安に対する心境の変化まで記事にされている。植田総裁もこれまで異様なまでに自信を持てなかった「持続的な2%物価目標達成に近付いている」と踏み込んだ。
なぜ12月利上げが急速に現実化し、また政権によって容認されたのか。やはり鍵は円安と中立為替論だろう。もっとも0.25%程度の利上げによって円安を反転させるのは困難と、すぐに市場参加者に足元を見られた。1回の利上げだけでなく、2~3年スパンでもっと利上げを継続できる、つまりターミナルレートの高さを示す必要があると言われ始めた。今の国債金利カーブが織り込んでいるペース通りの利上げでは為替市場が反応するはずがないため、一旦当局が利上げによって円安を阻止すると決めた以上は相当の利上げが必要となる。それを先回りする形で国債金利が大幅に上昇すると、植田総裁がまた動揺したようで「国債金利が急激に上昇した場合は機動的に国債買い入れ増額で買い支える」と発言すると、それを見て更に円安が進んだ。荒れた時の機動的な国債買入れ増額自体はYCCを撤廃した時からの既定路線であるが、金融政策への興味が薄い為替市場の参加者によって円売り材料にされやすかった。日銀は国債金利と為替の片方の安定しか選べない二律背反に陥ってしまったのである。
誤解のないように書いておく。
(念のため付け加えるが、今回話題になっている企業とは一切の利害関係はない。)
1. わざわざ「チンパンジーが問題社員として入ってくる」表現を必然性がないのに展開したことには「人を動物に喩える」意図がある
2. なぜ人を動物、特にチンパンジーに喩えてはいけないのか、国際的なガイドライン等の提示
4.社会的な責任として、記事削除と謝罪だけではなく、今後このような記事が出てこないようにガイドラインをつくるべき(このスタンスが自社のPRにもなり得る)
1. 「チンパンジー」という比喩をわざわざすることには同意しない。
2. 社内ブログ/アドベントカレンダーはチェック体制が脆弱になりやすい。
3.執筆者はおそらく「ベロシティの安定」等のフレーズから、エンジニアやPM視点であり、HRの文脈を理解していない可能性がある。
4. すでに削除と謝罪対応は完了しているので、社名を挙げて断罪する必要性はない。
他でも指摘されているように、
「社内の労力を使う割には、色々な危険性を孕むアドベントカレンダーという文化をやめるべき」
というのが、本件に関する総括としては充分だと思っている。
↑「現場レベルでは存在すらよくわからないが、とても偉いステークホルダー」の一言で、何度もひっくり返るシステム開発プロジェクトのこと
仕事を円滑に進めたいが、それの障害となり得る人や事象を冷笑的に揶揄しているわけだが、
前者が問題とされたことは、私の観測範囲では存在していないように思う。
「隕石を降らせる神様」は許されて、「チンパンジー」は許されない
という価値観は、西洋の歴史・宗教・差別観を背景にした価値観じゃないのか。
倫理基準を底上げするべきという物言いは、そんなに正しいことなんだろうか。
その人は、
・ すでに謝罪もしている(多分注意もされている)
彼・彼女を吊るし上げることになりかねないことを、
「自社のPR」にもなり得る文脈の中で第三者、しかも法人が行うのは、醜悪ですらある。
本件では、社名を出さず、ガイドライン作成の呼びかけなどもせず、
「中国が“事前通告”音声を公開」→「高市は信用ならない」という理論は、
「日本政府より中国政府の方が信用が置ける」と言ってるのと同じなんだけど、
性犯罪って大体密室とか手元が見えないレベルの満員電車で行われるからそもそも普通の男からは観測できないので止めようがないんですよね…
一般男性ができるのは見えてるところで行われてるセクハラを止めるくらいです…
満員電車は男側も女性と隣り合ってしまった時の恐怖があり本当に乗りたくないので早く男女別になるようにお互い頑張りましょう!
はてな匿名ダイアリーがどういう意図で開発されたとしても、結局はどのように使用されているかが重要です。
個人的に観測している範囲では、(自覚的であれ無自覚的であれ)読み手からレスポンスを求める文章がちらほら見受けられます。
そのような文章の是非についてはなにも言いませんし、そもそも言えるものではありません。
ただ、読み手からの反応を期待する文章のなかには読み手に特定の感情を呼び起こさせることを企図したものがあります。
いわゆるアジテーションです。
書き手はアジテーションのつもりはなくとも、そのような機能を持っているのであれば、それはアジテーションでしょう。
メディアはオールドメディアとソーシャルメディアに分化し、だれでも大衆(マス)に呼びかけることが可能になりました。
つまり私たちの接する情報には、思想宣伝的ないし情報工作的なものが(正確な割合はわかりませんが)いくらか含まれている、ということになります。
なぜなら、情報について利害を有しているのは会社や政党のような法人だけではないからです。無数の個人も利害関係者であり、先述したようにその個人もメディアに参入できるようになったのが現代です。
言わずもがな、発信される情報というのは本質からして思想宣伝的であったり情報工作的であったりします。しかし、ここで言っているのはあきらかにそのような効果がある文章です。
さて、長々と書いてきましたが、結局のところ私がなにを申しあげたいのかというと、やはりここにもアジテーション的な文章はあるのではないか、と半ば自問自答的に述べたかっただけなのです。
それならチラシの裏にでも書いておけばいいじゃないか、とお言葉をいただくことは私にも想像できます。想像できるのですが、
自明に思えることを確認する作業というのは、人間の営みにおいて重要な意味を持ちます。むろん私のしたことは重要であると主張したいわけではありません。
ただ、文章というものの機能の一つに、情報もしくは思考の共有がありますので、そのような用途で文章を書くことができればと思った次第です。
妻が俺と同じように春を捨てたのに春を謳歌してるように見える(実際はそこに春はないのだが)のが気に食わないとか
似たような感情に覚えがあるけど、結局相手と一心同体になったと思ったのに相手が自分以外と楽しそうにすることが許せないんだと思うよ
許せないって言うのは男女じゃなくて、妻と私の間にある嫉妬で、それは恋愛のソレではなく充実感への嫉妬
じゃあお前はお姉ちゃんのいる店行ってるんだよね?ってなるし、相手も同じような事感じてる可能性があるよ
そもそも友人関係が減ってきたのはお前の観測範囲内の話で相手にもそうあってほしい(孤独であって自分だけが理解者でありたい)って望みを持ってるからで、そうじゃないように見えたのが許せないんだよ
器の狭い小さいでお前を叩こうと言うつもりはなく(俺も妻に対して大なり小なりそう思う事がある)、それが相手と一体になってから起きる出来事でお前と妻はとても仲が良いんだと思う
さらに予想して俺とお前が近い存在ならそもそも恋愛経験が多い方に分類されてないんじゃないだろうか
興味の範疇が子どもや家族に移行した(大切に思う)からこそ、そんな独りぼっちに感じる出来事が不意に自分刺さるんだと思う
飲み会でなくても妻がSNSで友人関係を深めたり、バズったり、もしかしたら絵とか得意で何者かになる事も許せない(程度の差がある)かもしれない
ただ妻とお前はあくまで別人だからお前はお前の人生を豊かにする事でその嫉妬は消滅する
頑張れよ
俺は妻に嫉妬し続けてるけど
XGという、その筋では有名なガールズグループのメンバー、COCONAが乳房を切除する手術を受け、自らの性別をノンバイナリーであるとカミングアウト。これからはもう少し男性的に生きていく、というトランス男性的な立場にあることを示唆
これがフェミにとっては大地雷だったみたいで、Xではラディフェミが大発狂し、普段は男を叩いている彼女らが、女性として生まれた人を叩くという珍しい光景が観測されている
女を捨てることに「おめでとう」と言うな、というのが中心にあるみたいだが
普段、フェミって女性の体がいかに窮屈かとか言ってるから、正直、女性の体を脱することがここまでフェミの地雷だとは思わなかった
抜け駆けは許さないって感じなのかな。ラディフェミじゃないから知らんけど
キリンさんは好きだが、ぞうさんはもっと好き、というこの世界最小規模の価値対立は、一般に「草食動物間選好矛盾」と呼ばれる。呼ばれないが、呼ばれたことにして話を進めたい。なぜなら、この矛盾を直視しない限り、我々は首が長いのか鼻が長いのか、自分がどちら側に立脚して生きているのかすら判断できないからである。
まずキリンさんだが、あの異常に長い首は、最初の一本の草を誰が食べるかという太古のメタゲームの副作用であると言われる。しかし専門家によれば、その首が長すぎて脳への血流を保つために特殊なポンプ構造を持つことになり、そのポンプを維持するためにさらに高い血圧が必要になり、その血圧が高すぎて葉っぱを食べているだけでめまいが起きるという噂も存在する。もちろん噂の大半は噂であるため、噂が噂であること自体が噂となる。これがキリン的循環論法だ。
一方、ぞうさんはもっと好きである。好きすぎて、なぜ好きなのか誰も説明できないほど好きである。鼻が長いのは有名だが、長い鼻を持つ者にしか見えない「象界(ぞうかい)」というパラレル知覚領域があるという研究が2021年に出ていないが、出たと仮定すると大変ロマンがある。象界の住民たちは常に重低音で会話しており、言語は鼻を通じて振動で伝わるため、インターネット回線は無意味である。この時点でキリンさんは敗北している。なぜならキリンさんにはインターネットが必要だからだ。首が長いとWi-Fiの届かない高さに頭が行ってしまうため、常に「二段ルーター問題」を抱えている。
だが、問題は単純な比較では終わらない。キリンさんを好きでありながら、ぞうさんの圧倒的存在感に心が揺れてしまうという心理的ねじれは、個体内で二強政党制が形成されるのと同じである。これは選好の二大政党制と呼ばれ、キリン党とぞう党が内面で議席を争う政治ドラマが日々展開される。多くの場合、キリン党は「高さから世界を見る」という高尚な政策を掲げるが、ぞう党は「まあ鼻でなんとかなる」という実務的な政策を提示し、大衆(つまりあなた)の支持を集める。一方、ゾウ党の公約の半分は鼻で適当に書いたものなので信用できないが、なぜか勝ってしまう。
さらに深刻なのは、キリンさんとぞうさんを同時に愛することが倫理的に可能なのかという問題である。両者は形態学的にあまりにも異なるため、「一貫した好き」という概念が成立しない。たとえばキリンさんを撫でようと思えば高所作業車が必要になるが、ぞうさんを撫でようとすると逆に地面側で作業しなければならない。この高度差は心の高度差として内面化され、精神的ジェットコースターを生む。高揚した直後に大地へ叩きつけられるような感情変動は、もはや恋愛に近い。
最後に、結論を出そうとしても出ない。なぜならこの矛盾には解決の概念が存在しないからだ。「キリンさんは好きだが、ぞうさんはもっと好き」という言明自体が、論理的証明を拒否し、観測した時点で形を変える量子的ゆらぎのようなものだからである。観測するとぞうさんが好きになり、観測しないとキリンさんが好きで、観測をやめた瞬間に両方どうでもよくなる。
つまりこれは、好悪の問題ではなく、観測者の姿勢の問題である。
そして、あなたがこの記事を読み終わった今、どちらが好きなのかをあえて問うことはしない。問うた瞬間にすべてが崩壊するからである。