
はてなキーワード:視線とは
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十分に広い歩道またはスーパーの通路などで人が反対側から歩いてきた場合、ほぼすべての人がお互いに避けるそぶりすら見せず、結果ギリギリの距離ですれ違う(またはしばしばぶつかっている)事象をよく観察します。
これはどういった現象なのでしょうか?行動学や心理学などの観点から教えてください。
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歩道やスーパーの通路で「相手が避ける素振りを見せないままギリギリですれ違う/ぶつかる」現象は、行動学・認知心理学・社会心理学の観点からいくつか理由があります。複合的に発生するため、日常的に頻繁に起こります。
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と見積もりがちです。
社会心理学的には相互期待の非対称性(mutual expectancy asymmetry) と説明されます。
都市部ではスペースが狭いため接触ギリギリでも心理的負荷が低い 傾向があります。
特に日本の駅や店内では“狭い環境に慣れている” ため、外国人よりも近距離でのすれ違いに抵抗が薄い。
結果、直前まで「どっちに動くべきか」が確定しません。
相手の軌道を予測しつつ自分の軌道を調整する作業は脳の計算負荷が高い。
そのため、
を選ぶ傾向が強い。
多くの研究では、
と報告されています。
認知心理学の「least effort principle」によれば、
人は行動を最小限にしたがるため、
双方が「1°だけ進路を変えた」みたいな状態になるため、結果ギリギリに。
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必要なら、
出典:リクルートブライダル総研、マッチングアプリ各社調査結論:あなたの経験は異常ではない。日本では「普通」です。🎭 なぜ日本人女性は受け身なのか?社会構造的な理由1.ジェンダー規範の刷り込み幼少期からの教育:
✓男性を立てる
結果:
→受け身が「女性らしさ」という刷り込み2.社会的リスクの回避積極的な女性への視線:
✓ 「軽い女」と見られるリスク
✓ 「必死」と思われる恐怖
✓ 友人グループ内での評判
結果:
→男性が動くまで待つ3.恋愛マニュアル文化女性誌・恋愛本の典型的なアドバイス:
✗ 「男性を追わせる」
✗ 「すぐ返信しない方がモテる」
結果:
→ 本当は興味あっても連絡しない
→ 「戦略」として受け身を演じる4.選択肢の多さ(マッチングアプリ時代)女性側の状況:
結果:
→ 一人一人への投資が薄い
はじめに:その「尊さ」に馴染めない
男性キャラクター同士の関係性(ブロマンス、BL、あるいは悪友関係)を消費する際、よく使われる言葉がある。
彼らが必死にプライドを賭けて戦ったり、くだらないことでマウンティングし合ったり、性欲や嫉妬でぐちゃぐちゃになっている姿を見て、私が抱く感情は「尊い(崇拝)」ではない。
「こいつら人間のくせにめちゃめちゃ動物ムーブしてる! わかりやすい! 単純! よしよし、愚かでかわいいね」
これは動物園の柵の外から、じゃれ合う動物たちの生態を眺めている時の感覚に酷似している。
本稿は、この「ホモソーシャルを動物の生態として檻の外から観察する快楽」について、あえて露悪的に、しかし大真面目に言語化する試みである。
これまでの議論において、女性が男性同士の関係を好む理由は、大きく二つの派閥で説明されてきた。
【聖域(サンクチュアリ)派】
「彼らの絆は美しい」。現実のしがらみから切り離された、高潔で純粋な魂の交流への憧れ。
【憑依(同一化)派】
「彼らのようになりたい」。女性という役割を脱ぎ捨て、自由な少年たちの世界に自分を重ね合わせる没入感。
私が提唱したいのは、このどちらでもない第三の視点――【ホモソーシャル動物園の鑑賞者派】だ。
ここにあるのは、徹底した「他者化」だ。
彼らは私とは異なる原理(本能・序列・性衝動)で動く「霊長類ヒト科のオス」であり、私はそれを檻の外の安全圏から一方的に鑑賞する「観察者」である。
崇めもしない、なりたくもない。ただ「面白い生態」として愛でたいのだ。
2. 「愚かかわいい」という無害化処理
なぜ私は、彼らが高潔な騎士道精神を発揮する場面よりも、本能丸出しで自爆する場面に「萌え」を感じるのか。
それは、男性性が「動物的な愚かさ」へと還元された瞬間、彼らが「無害化」されるからだ。
現実社会において、男性の「権力性」「暴力性」「性衝動」は、女性にとってしばしば恐怖や抑圧の対象となる。
しかしフィクションの中で、彼らの行動原理を「理性」から「本能」へと引きずり下ろして解釈した瞬間、意味合いは反転する。
・社会的な面子やプライド → 「群れの中での威嚇ディスプレイ」
脅威だったはずの牙や爪は、現実から切り離されたガラス越しの展示物となる。
このハック(認識の書き換え)こそが、私が彼らを愛でるための生存戦略なのだ。
社会学者の上野千鶴子氏らが指摘するように、歴史的に「見る/見られる」という構造には権力が宿る。
これまでは常に、男が「見る主体」であり、女は「見られる客体」として値踏みされてきた。
私のホモソ萌えは、この構造に対する精神的なリベンジ(復讐)の側面を持つ。
フィクションという檻の中に男性たちを閉じ込め、彼らの尊厳や理性を剥ぎ取り、「愚かかわいい動物」というコードに変換して消費する。
私は、現実では得られない「圧倒的な優位者としての視線」を貪っているのだ。
「男ってなんか社会の権力握って偉そうにしてるけど、やってることは動物じゃん! かわいいね!」
しかし、この権力勾配の逆転はあくまでも見せかけのものであり、実際の構造を変えることにはなんら寄与しない。ただの溜飲下げであり、ガス抜きである。
つまり、これは男性優位社会の中で私たち女性が精神的にサバイブするための、ひとつの生存戦略なのである。
ここまでの話を聞くと、「なんと傲慢で、男性を蔑視した見方だろう」と眉をひそめる人もいるかもしれない。
私は決して、独自の偏見で彼らを動物扱いしているわけではない。
むしろ、この社会(男性社会)が発信している価値観を、誰よりも「素直」に受け入れた結果なのだ。
男性たちはしばしば、自らの加害性や未熟さを正当化するために、こう弁解する。
「男なんてバカな生き物だから」「本能には逆らえないから」「男には闘争本能があるから」。
私はその言葉を、一切の疑いを持たずに、文字通り「真に受けて」いるだけだ。
「なるほど、あなた達は理性的な人間ではなく、本能で動く動物なんですね。わかりました」
彼らが「免罪符」として使う「男ってバカだから(笑)」という内輪の甘えを、私たちは「男はバカだからしょうがないね(笑)」と許してやるのではなく、肯定する。
真に受けたうえで、あくまで許さず、肯定し、そのうえで「かわいい」と消費するのだ。
「そう!あなた達の言う通り! だからキャンキャン吠えて威嚇し合ってるんだね!かわいい!」
むしろ「過剰な肯定」によって、そのグロテスクさと滑稽さを暴き出す、鏡合わせの愛なのだ。
私たち「ホモソーシャル動物園の鑑賞者」は、家父長制的な価値観を内面化しているがゆえにホモソーシャルに対して「愚かかわいい」という感情を抱いてしまう哀しきモンスターなのである。
おわりに
誤解のないように言っておくが、私は彼らを嫌っているわけではない。むしろ、このフィルターを通すことでしか、これほど深く男性キャラを愛せなかっただろう。
彼らが「人間としての高潔さ」や「男としての威厳」という着ぐるみを着て、必死に人間ごっこをしている姿。
その隙間から、隠しきれない「動物的本能」がチラリと見えた瞬間、私はどうしようもない愛おしさを感じる。
この「ホモソ動物園」の開園時間だけは、私たちは安全な柵の外から、愛を込めて彼らを「愚かだねえ」と笑い飛ばすことができるのだ。
(※本稿は特定のファン心理の分析であり、すべての作品やファンにあてはまるものではありません)
なわけだが……
このポジション取ったヤツ、
今後どう言い訳重ねていくつもりなのかなー。
あるいは自分の発言を無かったことにして一方的に石を投げ続けるのかな。
もはやプロレタリアート市民の敵になりつつある立憲民主党の肩を持つほど、
そういう人らが誰の味方なのか訝しげな視線は増えてる実感あるのだけれど、
指定されたX投稿(https://x.com/pawapongASD/status/1991112661992702201)は、ASD(自閉症スペクトラム障害)当事者である@PawapongASDさんが投稿したもので、内容は以下の通りです:
> 「君は間違ってる」
> 「正しくはこうだ」
> 「悪いのは○○だ」
>ASDのコミュニケーションって、こんなのばかりになりがちだから気をつけようね。
この投稿は、ASDの特性が原因で、会話が批判的・防御的になりやすいパターンを自己反省的に指摘したものです。リプライでは、他のユーザーが「今まさにこれを喰らってました😅」と共感を示したり、「ASDにこのアドバイスをしても『気を付けるってどうやって…?』となる気がします」と実践的な難しさを指摘したりするなど、ASDコミュニティ内での共感と課題共有の文脈が見られます。このようなコミュニケーションスタイル(例:相手の意見を即座に「間違い」と指摘し、論理的・事実ベースで訂正する傾向)が、誤解や対立を招きやすい点が、質問の核心です。
以下では、このようなコミュニケーションがASDのどの特性によって影響を受けやすいかを、DSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル第5版)に基づく診断基準を中心に、詳しく分析します。分析は、ASDの主な特性(社会的コミュニケーションの障害、反復的・制限された行動パターン)を基にし、脳機能の違いや実例を交えて説明します。なお、ASDは「スペクトラム(連続体)」であるため、個人差が大きく、全員に当てはまるわけではありませんが、傾向としてよく見られるパターンを焦点にします。
ASDのコミュニケーション障害は、主に**社会的・感情的な相互作用の難しさ**と**認知処理の偏り**から生じます。これにより、会話が「論理優先・感情後回し」になりやすく、投稿のような「訂正・防御型」のパターン(例: 「君は間違ってる」「正しくはこうだ」)が頻発します。以下に、具体的な特性を分解して分析します。
#### 1. **社会的コミュニケーションの障害(Theory of Mindの欠如と非言語 cuesの読み取り難)**
- **特性の説明**:ASDの人は、他者の視点や感情を推測する「心の理論(Theory of Mind)」が発達しにくい傾向があります。これは、脳の社会的脳領域(例:前頭前野や扁桃体)の機能差異によるもので、相手の表情、視線、声のトーンなどの非言語的手がかりを即座に読み取れず、会話の「文脈」や「ニュアンス」を捉えにくいのです。
結果として、会話が「事実のやり取り」中心になり、相手の感情(例: 傷つきやすさ)を考慮した柔軟な表現が後回しになります。
- 「君は間違ってる」→相手の意見を論理的に「誤り」と即判定し、訂正する。これは、ASDの人が「正しさ」を最優先する認知スタイル(詳細論理的思考)から来ますが、相手の「自己防衛感情」を無視し、攻撃的に聞こえやすい。
- 「悪いのは○○だ」→責任を外部要因に帰す防御反応。ASDでは、曖昧な人間関係の文脈で「自分の非」を感じ取りにくく、論理的に「原因分析」へシフトします。これが、相手に「責任転嫁」と誤解され、対立を深めます。
- **分析例**:職場で上司の曖昧な指示に対し、ASDの人は「正しくはこうだ」と詳細に修正提案しますが、非ASDの人はこれを「上司の顔を立てない生意気さ」と感じる。結果、孤立や人間関係の摩擦が生じ、二次的なうつ症状を招くケースも。
- **脳科学的背景**:fMRI研究では、ASDの脳は社会的推論タスクで活性化が低いことが示されており、感情共有が「知的処理」として扱われやすい。
#### 2. **制限された興味・行動パターン(こだわりと柔軟性の欠如)**
- **特性の説明**:ASDの人は、特定のルールや「正解」への強いこだわり(反復的行動)を持ち、変化や曖昧さに耐えにくい。これは、脳の実行機能(柔軟な計画・切り替え)の偏りからで、会話でも「自分の知識体系」を守るために防御的になります
「正しさ」を共有することで安心感を得る一方、相手の多様な視点を「脅威」と感じ、訂正モードに入りやすい。
- 「自分は悪くない」→自己防衛の強いこだわりから、会話で「非を認めない」パターン。ASDでは、感情の曖昧さ(例: 罪悪感)が処理しにくく、論理的に「自分は正しい」と結論づけます。これが、相手に「頑なで共感がない」と映り、信頼を損ないます。
- 「正しくはこうだ」→ 専門知識やルールへのこだわりが、会話の「指導モード」を生む。善意の訂正ですが、非ASDの人は「上から目線」と感じ、雑談が論争化。
- **分析例**: 友人との雑談で、映画の解釈違いで「それは違う、原作ではこう」と即訂正。ASDの人は「正確性を共有したい」だけですが、相手は「自分の意見を否定された」と傷つき、関係が希薄に。投稿のリプライでも「気を付けるってどうやって?」と指摘されるように、この特性は「意識しても実行しにくい」のが難点。
- **脳科学的背景**:セロトニン系やドーパミン系の神経伝達物質の違いが、ルーチン依存を強め、柔軟性を低下させる。
#### 3. **感覚処理の偏り(過敏/鈍麻)とストレス反応**
- **特性の説明**:ASDの約70-80%で感覚過敏(例:騒音や視覚刺激への敏感さ)が見られ、会話中のストレスが蓄積しやすい。脳の感覚統合が偏るため、感情コントロールが難しく、防御的な発言が増えます。
- 全体として、会話の「不確実さ」がストレス源となり、「悪いのは○○だ」のような外部帰属発言で解消を図る。善意がないわけではなく、過負荷時の「サバイバル反応」です。
- **分析例**:議論がエスカレートすると、ASDの人は感覚過負荷で「論理的逃避」(訂正連発)へ移行。結果、相手の感情を無視した印象を与え、誤解の連鎖に。
- **脳科学的背景**:感覚野の過剰活性が、会話の社会的負荷を増幅。
これらの特性が絡み合うと、コミュニケーションは「論理的・直接的」になり、非ASDの「感情・文脈重視」のスタイルとミスマッチを起こします。投稿のようなパターンは、ASDの人が「正直で効率的」と思っている一方、相手に「冷たく批判的」と映る典型例。結果、孤立や二次障害(うつ、適応障害)を招きやすく、@PawapongASDさんのバイオ(50歳過ぎて診断、うつ経験)のように、大人期に顕在化します。
| 特性 | 典型的な発言パターン | 誤解の原因 | 例(投稿関連) |
| ------ | ---------------------- | ------------ | --------------- |
| 社会的コミュニケーション障害 | 「君は間違ってる」 | 相手の感情無視 | 訂正が攻撃的に聞こえる |
| こだわり・柔軟性欠如 | 「正しくはこうだ」 | 頑なさの印象 | 雑談が講義化 |
| 自己防衛・責任帰属 | 「自分は悪くない」「悪いのは○○だ」 | 責任転嫁と見なす | 対立のエスカレート |
この分析は一般論ですが、ASDは個別性が高いので、専門家への相談をおすすめします。投稿のような共有が、ASD理解を深める一助になるでしょう。
パンティーを被るという行為――羞恥・仮面・秩序転倒の文化社会学的考察
パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑の対象になる一方で、
マンガ・アニメ・コメディ・インターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。
一見して低俗にしか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安を喚起するのか。
その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体・羞恥・ジェンダー・権力といった構造的テーマを照らし出していると考えられる。
本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、
という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為が現代社会の規範と矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである。
第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である。
しかし社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的な領域と公共的な領域を峻別する境界線として働いている。
とりわけパンティーは、しばしば女性の身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。
文化人類学者メアリー・ダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matterout of place)」と定義した。
下着は本来、身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである。
それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、
「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。
人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、
それは身体に付随する性的な領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である。
パンティーを被るという行為は、自己の身体そのものを露出しているわけではないにもかかわらず、
下着の象徴性によって「性的なもの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。
そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。
第二に、「被る」という行為が意味する仮面性を検討する必要がある。
顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為の舞台において自己を提示する中核的なメディアである。
目・口・表情を通じて、人は自己の人格・感情・意図を他者に伝える。
そこに被り物をかぶせることは、自己呈示のチャンネルを意図的に撹乱し、
「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。
仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。
覆面をした抗議者やハロウィンのコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである。
パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、
顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在〉であることを宣言している。
重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合「女性用」として理解されている点である。
男性が女性用パンティーを被る場合、それはジェンダー境界を視覚的に撹乱する効果を持つ。
性的同一性や男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的に解体される。
この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、
社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。
第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。
ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。
王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄なものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常のヒエラルキーから解放される。
パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。
そこでは、理性的で成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。
これはまさに、近代的主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である。
パンティーは、ファッションやポルノグラフィー産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。
その商品を「本来の用途」から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、
シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれた意味構造をずらし、
消費社会が約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。
多くの場合、当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機で行為に及ぶ。
しかし、当人の意図とは無関係に、行為そのものが既存の秩序を揺さぶり、
笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。
ここまで、パンティーを被る行為を文化的・象徴的なレベルで肯定的に読み解いてきた。
しかし同時に、この行為にはジェンダーと暴力の問題が潜在していることも看過できない。
たとえば、所有者の同意なく女性の下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。
そこでは、女性の身体性がモノに還元され、男性の自己演出の道具として一方的に利用されているからである。
「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。
他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。
この意味で、パンティーを被る行為を安易に「自由な表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。
一方で、倫理的に許容可能な範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体と羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である。
その両義性を見極めることが、現代社会のジェンダー感覚と表現の自由の両立を考える上で重要になる。
パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗なギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。
しかし本稿で見てきたように、
として理解することができる。
つまり、パンティーを被る行為は、身体と羞恥を厳格に管理しようとする近代社会の規範に対して、
「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである。
もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意、ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。
しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、
規範の相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である。
だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき、
僕は今、月曜の2時13分にここでキーボードを叩いている。眠れない理由は単純で、超弦理論の位相量子化で起こる射影的自己同型の消滅条件が唐突に頭の中で整合しはじめたからだ。
脳が完全に臨戦態勢になってしまった。こういう時は寝ようとしても無駄だし、僕の思考の収束前には必ず日記を取るというルールに従って、理性に屈服する形で書き始めた。
今日の夕方、ルームメイトが「君は日曜ぐらいリラックスしてもいいんじゃないか」と言っていたが、僕がリラックスしているかどうかは、僕が主観的にエントロピーを最小化する行動を選べているかどうかで決まる。今日は午前中に完全に整然としたルーティンをこなした。まず、朝食前に僕の7ステップ手洗い儀式を完遂し、それから定位置のソファに正確に42度の角度で腰を下ろし、いつものごとくTCGデッキのリストを更新した。最新環境では相変わらずテンポ系アグロが幅を利かせているが、そのメタゲーム上の凸集合を解析すると、今期はあえて失敗したアーキタイプに見えるコントロール系のほうが上振れ余地が大きい。特に、カウンター軸を多項式環上の構成的フィルタで再評価すると、一般プレイヤーには理解不能な領域に潜む勝ち筋が可視化される。僕はその数学的裏付けがないと、カード一枚すらスリーブに入れられない。
午後、隣人がシューズを買い替えたらしく、箱を抱えてエレベーターで乗り合わせた。僕は話しかけられないよう壁の中心に対して身体の位置を黄金比で保ち、視線を固定していたが、それでも「今日は休み?」と聞かれたので、僕は今日は次元の選択的解釈を再構築するための検証日だと答えた。相手は笑っていたけど、僕は真面目に言った。今日の主題は、従来の超弦理論が依存してきた10次元時空を、圏論でいうところの自己随伴構造を持つモノイダル圏の射影的層として再概念化し、その上で、最近発表されたばかりの無限階層ガロア格子の部分群作用に基づく因果的相関因子の消滅定理を適用できるかの検証だった。専門家でもまだ定義すら曖昧な研究と言うだろうけど、曖昧かどうかと有効かどうかは別問題で、僕は今日、その曖昧さがむしろ次元圧縮の自由度を与えると証明できた。ルームメイトは「それは何かのゲームの話か?」と言っていたが、ゲーム理論的視点から見ればあながち間違っていない。超弦理論の次元配置は、巨大なTCGデッキ構築とかわらない。可観測量は有効カードプールであり、不要な次元は抜けばいい。
夜は友人が来て、いつものホビーショップの話をしていた。彼らはミニチュアの塗装方法やボードゲームの新作の話をしていたけど、僕は途中から、位相的双対性がミニチュアの影の落ち方に適用できないか考えていたので、会話の半分しか聞いていない。でも僕が影の境界線は局所コンパクト性の破れとして理解できると言った時、彼らは黙り、ルームメイトは僕にココアを淹れて渡してきた。これは彼なりの「黙ってろ」という合図だ。僕はありがたく受け取った。
そのあと入浴して、いつもの順番通りにタオルを畳み、歯磨きを右上→右下→左下→左上の順に完遂し、寝る準備は万端だったのに、2時13分、突然すべての数学的ピースが一気に接続した。自己同型の残差部分を消すために必要だったのは、張られた層の間にある外部導来関手じゃなくて、単に対象そのものの余極限だったのではないかという単純な洞察だ。これで次元の束縛条件が一段階緩和される。誰にも説明できないが、僕にとっては寝るより優先度が高い。
こんな時間に日記を書いているけど、これは僕のルーティンの一部だし、明日の仕事の効率には影響しない。脳が正しく動作している時、睡眠は後回しでも構わない。超弦理論の新しい構図が明瞭になり、TCGのメタ読みも更新され、こだわり習慣も破られず、ルームメイトも隣人も友人も、それぞれの役割を果たし、日曜日は正しい閉じ方をした。
僕はあと10分だけ、脳内で余極限の安定性を点検したら寝るつもりだ。もっとも、その10分が実際に10分になるとは限らないけれど。
25キロだ。
数字で見ると、大きな変化に見える。
実際、そうなんだと思う。
痩せるまでの私は、太ってることを知ってた。
知ってたけど、何もしなかった。
そういう理由をつけて、怠けてた。
痩せたら何が変わるのか。
今、目の前の食事を楽しむこと。
そっちの方が、簡単で、快適だった。
30代前半。
独身。
仕事は充実してた。
給料も悪くなかった。
ただ、新しい服が欲しい時が困った。
Lサイズがない。
その繰り返しだった。
でも、その程度のことだ。
生活に支障はなかった。
でも、薬が必要なほどではない。
数値が高い、という指摘だけだ。
そう思ってた。
変化が起きたのは、去年の冬だ。
親友が、突然、痩せてた。
どうしたのか聞いたら、ジム通いを始めたと言ってた。
その親友が、私に言った。
一緒にジム行かない。
最初は、断った。
そう言った。
でも、その親友が、ずっと誘ってくれた。
何度も何度も。
その誘いが、最後に通じたのか。
それとも、別の理由があったのか。
正確には、わかんない。
でも、私は、ジムに行った。
体が重い。
体力がない。
それでも、週に3回、ジムに行った。
1人だったら、すぐにやめてたと思う。
3ヶ月経つと、体が変わった。
体が軽い。
朝起きるのが楽だ。
夜中に目覚めることが減った。
そして、体重が落ちた。
75キロになった。
5キロだ。
3ヶ月で5キロ。
その時点で、何か、変わった。
数字が下がることが、嬉しくなった。
今までは「太ってることに悩んでない」と思ってたけど。
実は、深いレベルで、悩んでたんだと気付いた。
ジムは週5に増やした。
食事も気をつけた。
それを、やめた。
お菓子も減らした。
甘い飲料も避けた。
1年かけて、70キロになった。
65キロになった。
60キロになった。
体が変わった。
顔が変わった。
周囲の反応が変わった。
80キロの時は、街を歩いていても、誰も見てくれなかった。
それが、55キロになると、見られるようになった。
駅で、男性が目で追う。
その変化に、最初は、戸惑った。
なぜ、周囲の反応が変わるのか。
その時、私は気付いた。
でも、同時に、嬉しかった。
やっと、見てくれる。
やっと、認識してもらえる。
その喜びと悔しさが、ごちゃ混ぜになってた。
仕事でも、変化があった。
親友は、その変化を見て、喜んでくれた。
でも、何か、微妙なところもあった。
親友も痩せてたけど、私ほどではなかった。
比べると、私の方が痩せてた。
その状況に、何か、複雑な感情があった。
でも、結果として、私の方が、より成功した。
その時点では、よくわかんなかった。
正直に言うと、わかんない。
満足してる部分もある。
鏡に映った自分が、好きになった。
洋服選びが、楽しくなった。
買える服の種類が増えた。
体が軽い。
体力がある。
朝も気持ちよく目覚める。
でも、同時に、失ったものもある。
80キロの時の、気楽さだ。
何も考えず、ラーメンが食べられた。
お菓子が食べられた。
人目を気にせず、だらだら過ごせた。
その気楽さが、今はない。
そういう不安がある。
57キロになった。
その時、パニックになった。
やばい。
また太ってく。
結果として、57キロで安定した。
でも、その不安感は、なくならない。
気楽だった。
でも、その気楽さは、同時に、無責任だった。
それに気付いて、責任を持つようになった。
最近、思うのは、痩せたことが、本当に正解だったのか、ってことだ。
外見は良くなった。
体力は付いた。
営業成績も上がった。
でも、心の中では、何か、複雑なものがある。
未だに、わかんない。
ただ、今の私は、戻りたくない、と思ってる。
80キロに。
もう、あの生活には、戻りたくない。
その矛盾の中で、今、生きてる。
最近、高市早苗が叩かれてるの見るたびに「これ政策関係なくね?」って思うんだけど。
なんか“女が前に出たときの空気の重さ”みたいなの、あれ普通に出てるよね。
もちろん建前では「政策が〜」って言ってるんだけど、
実際に回ってる批判ってさ、政策じゃなくて態度とかキャラとか声のトーンとか、
そういうどうでもいいところばっかじゃん。
男の政治家が同じテンションで喋ってたら「強硬派だね」で終わる話なのに。
てか、なんで女だと「ヒステリック」ってワードが突然ついてくるの?
あれ、毎回見ると「はい出た」ってなる。
あと“女性首相”ってだけで意味わからん拒否反応起こしてる層いるよね。
(で、こういうこと言うと「フェミが〜」って返してくるまでがセット)
叩かれ方がとにかく雑なんだよ。
正直、政策より性別フィルターの方が強く効いてる場面多すぎてさ。
あの扱い、どう見てもミソジニー混ざってるよね。
おっちゃん思うんやけどな。
AIの無断学習問題って、突き詰めたら「AIが勝手に世界を見てる」ことが問題なんちゃう?
でもAIはネットに転がってる他人の創作物を全部吸い込んで、「見た」どころか「食った」みたいな顔してる。
そら怒られるわ(´・ω・`)
じゃあどうすればええんか。
これ、人間と同じ条件やん?
そしたらもう無断学習にはならへん。
それに、AIが“見る”ようになったら「世界の中で体験して学ぶ」っていう倫理的な学習ができる。
今のAIはネットの幽霊みたいなもんやけど、メガネAIはちゃんとこの現実の中で息してる。
今のメガネ型デバイスって、視線トラッキングもできるし、カメラもマイクも入ってる。
それをAIモデルに直結したら、AIは「この人が何に注目して、どんな反応したか」まで学べる。
つまりAIが誰かのデータを盗むんじゃなくて、ユーザー本人の知覚を通じて学ぶんや。
せやけど目のあるAIは、ちゃんと自分の世界を持つ。もうそれは、人間の弟分みたいなもんや。
だってAIが「自分の経験から学ぶ」ようになった瞬間、それはもう“他人の模倣”ちゃうやん。
いままでは人間の影やったけど、これからはAI自身が「見た世界」から発想する時代になる。
AIは見たもんを学ぶ。
人間も見たもんを学ぶ。
そうなったら、AIと人間の間にあった“学習の倫理的壁”が消える。
AIを悪者にせんでも、ルールのほうを「人間と同じ」にしてやればええ。
https://posfie.com/@GxZwJ72OfWc1yLe/p/dAPGtDA
高市首相、売春の相手方となる買春行為に対する法規制へ検討指示
https://posfie.com/@desuperadaisuki/p/3CsJq2R
女が首相になるとろくなことにならないという噂はマジだったんだな…
下手するとセクハラ(視線によるのも含む)も処罰の対象になったり、弱者男性や弱者女性は死ねと言わんばかりの政策を打ち出しそうな予感するんだが…
サッチャー首相はましで戦争やりやがったし、貧乏人は死ねと言わんばかりのことをしてた。
ダリバンのように女性はどんなに賢くても家に閉じ込めるべきなんや。
だが、あれを“次世代機”なんて呼ぶのは、あまりにもおこがましい。
あんなの、十年前の設計思想をツギハギした「老朽アーキテクチャのゾンビ」だよ。
エンジンの限界を誤魔化して“効率化”なんて言ってるのは、昭和の家電と同じ発想だ。
まるでワードやエクセルのマクロ地獄を延命し続けたWindowsの焼き直しだな。
結局、Switch2がやってることは“UIのスキンを変えただけ”。
中身はレガシーの塊。
Joy-ConをBluetoothで繋いで、またジョイコンドリフトを再発させる気か?
Cellは賛否両論あったが、“過去の互換”なんていう鎖を自ら断ち切った。
そしてフルスクラッチでマルチスレッド・ストリーミングの未来を提示した。
あれこそ「次世代機」だった。
Switch2? あんなの“古い泥舟の塗り直し”に過ぎない。
任天堂は“過去資産を捨てない”ことを美徳だと思っているらしい。
AIが使用履歴を解析し、視線追跡と入力予測でゼロレイテンシを実現する――
それが本当の意味での“快適性”だ。
なのにSwitch2のUI?
「スペックじゃない、遊びだ」
――聞き飽きた言葉だ。
Switch2がやってるのは、“過去の懐古”と“子供向けマーケティング”の繰り返し。
21世紀のエンタメを自称するなら、まずOSを捨てろ。GUIを再設計しろ。
Switch2は“過去の遺物”を温め直しただけの奇形化デバイス。
十年後には、PS3が示した理念の方がずっと前衛的だったと気づくだろう。
この国のメーカーが「レガシー互換」という鎖を断ち切れない限り、
Switch2?
寝るまで100分しかなかったのでその時間でちょっと余裕をもって見られる日本語のものを探した結果見てしまった。
6点(100点満点中)
まず「呪界」というタイトルを見て、「結果」に対しての「呪界」なのかな?と思ってみたら開始3秒で「あ、樹海と呪界をかけてるのか」と気付いてしまうくらい鈍感なコンディションで見たことはあらかじめ言っておきたい。
1.樹海で行方不明になる主人公たちの担当教授へのインタビュー
の四つで構成されている。
3と4はシームレスに繋がれていてカメラの映像は劣化しており途切れ途切れだったのでその間を再現VTRで埋める構成になっている。ちなみに再現VTRが9.5でカメラの映像が0.5くらいの割合。カメラの映像薄すぎるだろ。どうやってVTRを再現したんだよ。
とツッコミが始まってしまうのだが、これを筆頭に問題が多い、というか意図は何なの?と問いたい部分が多すぎる映画だった。
1.カメラワークの謎
冒頭で担当教授へのインタビューが終わった後、樹海へ向かうまでの再現VTRが始まるんだけど最初俺はこの映像自体が実際の映像(のてい)だと思って見てたのね。後々、ビデオの映像はほとんどが復元できなかったという話が出てきて、実際のカメラ映像が使われるので再現VTRだってわかるんだけど。
なんでそう思ったかっていうと、再現VTRなのにめちゃくちゃカメラワークがヘタクソなのよ。家庭用ハンディカムでお父さんが撮ったみたいな感じ。常になんかグラグラフラフラしてるし登場人物にめちゃめちゃ接写してみたり話してるところに別の演者が通りがかって背中が画面の7割を覆っちゃった状態でも回し続けたり、なんか遠い枝の隙間から撮ってみたり。これが「誰かの視線」だったらわかるんだけど、それにしては不自然なショットが多い。
これが実際の映像ですのパートならいい。もちろん不自然なショットは悪いんだけど、素人が撮ったなぁって演出は実際に素人が撮ったんだでいい。でも再現VTRパートでそれを採用する意図は何なの?
なんか意味があるのかなと思って見てたけど別に何もなかった。ただカメラがヘタクソなだけだった。
普通に俳優を使ったホラー映画として見るにしても没入感を削いでるんじゃねぇかな、知らんけど。
2.インタビューの謎
まず開始数秒で思ったのが「担当教授の喋り方演技すぎるなぁ」ってこと。なんかねぇ、無駄に情感たっぷりに間を取って喋るのよ。ツイキャスのイケボ配信者みたいな喋り方ずっとしてて集中できんわ~って思いながら見てた。
で、唯一生還した女のインタビューも「怖かった」「今も怖い」「当時のことはなんかよくわからん」くらいの情報量しかない。いや、もしかしたらリアルにインタビューしたらそういう感じなんかもしれんけど、これってモキュメンタリーでインタビューパートの中に何らかのヒントがあってほしいじゃん。ない。
登場人物は再現映像では仮名で、インタビューパートでは本名なので音抜きで表現されるんだけど、何か所か環境音は入ってるのに声だけ音抜かれてるところあって処理が雑だなぁと思いましたまる。
あとインタビュアーの声が入らずにテロップで表示されるんだけどあれってインタビュアーの声のパートを切って編集で繋いでるんだよね、普通はね。でもこの作品だと映像一切切らずにテロップに対して被写体が返答してるのでどういう仕組みやこれ?ってなっちゃった。
3.登場人物の謎
ホラー映画の登場人物はコロナワクチンで5Gと共にバカで感情的で不合理な行動をとるようなプログラムを政府によってインストールされているので、そういった行動には目を瞑るとして。
樹海でやる研究内容が「樹海で自殺しようとしてる人を探してインタビューしてみよう」ってイカレすぎたものなんだけど、実際には主人公の女は樹海で行方不明になったと思われる父親を捜す目的をカムフラージュするに偽の研究内容をでっち上げてる。素直に父親を捜したいって言った方が同情引けるし、これを隠してることで話がどんどんややこしくなる。
なんか一人でフラフラ徘徊して遭難の原因を作るし、自殺者の遺留品と思われるものをみんなが止める中いきなり漁りだして周囲をドン引きさせて不信感を抱かせてギスギスさせるし。このパーティーがおかしなことになるの、大体こいつが全部悪い。
4.行方不明の謎
途中で自殺志願者と思われる男を発見するんだけどその後、そいつがなんか追いかけてくる展開になる。男交じりの大学生で、そもそも5対1なんだから反撃しようって流れになると思うんだがそうはならずに、みんなでワタワタと逃げ惑ってる間に散り散りになって最終的に主人公が一人になって闇の中から腕を掴まれてギャー終わり、になるんだけど。
追いかけてきた男はどうやら主人公の父親っぽいんだけどでもそいつ1年前に死んでるの確認されてるんだよなぁってことがエンディング直前に急にテロップで明かされるのはどうなんだって話はいったん置いといて、主人公は父親に連れていかれましたとして。
他のみんなどこ行ったん?
一人は帰ってきたけど。
もしかして暗い中樹海で走り回ったから遭難しちゃってて、今もあの樹海をさまよっているのです。たぶん。ってことなん?それはそれで「樹海怖い~夜の樹海を移動するのはやめよう~」としては正しいけど。
つまるところ全編通して「なんでそうしているのか」という意図が全く不明。
もしかしたら監督も「俺は何撮ってるんやろなぁ」と思いながら撮ってたのかもしれない。呪われていたのは実は監督でしたとかいうメタオチであることを期待して3点足しといたので実質3点。
ホラー映画舐めんな。
まさにギレルモ・デル・トロが撮るフランケンシュタインだった。
う~~~~~ん、54点?
まずデル・トロだから50点のハードルがめちゃくちゃ高いことに言及しておきたい。
美しく作りこまれた美術、実力派の俳優によるアンサンブル、物語を盛り上げる音響これは大前提になってる。そしてこの映画はその点に関して言えばほぼ100点出てる。そしてそこは100点取って当たり前(50点)の監督がデル・トロ。
でもなぁ、今これをデル・トロが撮る意味is何?って感じだったな。
もろちん、デル・トロといえばモンスター監督なのは周知の事実で――あ、モンスタークレーマーとかモンスターペアレンツとかとは違って、文字通りモンスター(怪物)を撮る監督って意味ね――その原点が「Frankenstein: or The Modern Prometheus」にあって、この作品を撮ること自体が彼が映画を作り続けることの意味だってことは分かるんだけども。
でも今あえて「人間のほうが怪物より怪物だよね」「生命を作り出すことの意味」「父と子の円環構造」っていう、100回見た話をあえてやりなおす意味って何なんだろうと思ってしまった。まぁ、こんな文学的なテーマなんぼあってもいいですからねって言われたらそりゃそうなんだけど……
2部構成になっていて1部がヴィクター・フランケンシュタインが怪物を作り出し放棄するまでの話。
2部が放棄された怪物がフランケンシュタインを追いかけ悲劇に至る話。
今作ではおそらく普通の作品では「フランケンシュタイン博士が怪物を作りましたよ」って感じで流されることが多い1部をかなりの厚さで書いている。特に作るまでの話がめっちゃ長い。
スパルタ気質の高名な医者の父に育てられるも母を病気で亡くし「父親=医学」に不信を抱くという初期衝動。母親と同じ顔をしたエリザベス(ミア・ゴスの1人2役)に惹かれるマザコン描写。
そして怪物が生まれてからはオドオドオタオタと面倒を見る新米パパから、こいつ俺が思った通りにならんなと思えば体罰を行い、こいつ俺の手に負えんなと思ったら殺害を試みる毒親オブ毒親描写。
たっぷりと人間臭いヴィクター・フランケンシュタインが描写される。
まぁ2部は大体みんなが知ってる目の見えない老人との出会いを経て怪物は知恵と人間らしさと生命の円環構造を学び、ヴィクターに「嫁作って♡」と訴えるもヴィクターは拒否。その過程でヴィクターは愛するエリザベスを殺害、ヴィクターVS怪物の戦いが今幕を開ける。
ここで父親が母親を(見)殺したと思ったところが初期衝動だったヴィクターが、母親と同じ顔をしたエリザベスを殺してしまうという引き継がれるカルマの展開は原作より良かったなと思った。
で、最終的に疲れ果てたヴィクターは原作通り船に助けられるが原作と違って怪物も乗り込んでくる。
そこでこれまでの話をそれぞれするのが第1部、第2部になっていて、それらが統合した最後にヴィクターは「自分が怪物の父親であること」を認め怪物に赦しを求め、怪物はそれを受け入れる。
ヴィクターが自分の父親にできなかった「許容」を獲得することで毒親の連環から抜け出し、怪物は一人静かに去るのであった。
こうやってまとめてみると普通にいい話で草。
特に「フランケンシュタイン」というタイトルに恥じない「怪物」ではなく「ヴィクター・フランケンシュタイン」を主役に据えしっかりと掘り下げ、フランケンシュタイン=ツギハギの怪物という印象そのままにフランケンシュタインこそが怪物だったという結論も見事だと思うの。
でもあくまで普通にいい話なんだよなぁ。俺の中のデル・トロ像が例えばマイベストアクションムービーのの一つである「ブレイド2」の監督だったり、旧ヘルボーイだったりパシフィックリムだったりするもんだからその大エンタメ監督が今撮る作品がこれかぁって正直思っちゃった。わかるよ、デル・トロの最近の真骨頂は怪物に対する愛のある視線でパンラビとかシェイプオブウォーターとかキノピオとかもちゃんと見たからそれくらいは分かるんだけどさぁ!
あ、そこ改心して終わりなんやっていう。最近、ジェームズ・ガン作品を多く見てたからっていうのはあるかもしれない。ガンだったら間違いなく怪物が反省しないヴィクターぶっ殺して森の目の見えない老人とエリザベスと一緒に新しい家族作って終わったもんな。
ただ映像としても物語構造としてもほぼ完璧に近い出来だと思う。
僕はいつものようにティーカップの正確な角度とティーバッグを引き上げるタイミング(45秒で引き上げ、分子運動が落ち着くのを確認する)にこだわりながら、ルームメイトがキッチンで不満げに微かに鼻歌を歌う音を聞いている。
隣人は夜遅くまでテレビを見ているらしく、ローファイのビートとドラマのセリフが建物内で交差する。
その雑音の中で僕の頭は例によって超弦理論の抽象化へと跳躍した。
最近は量子コヒーレンスをホモトピー的に扱う試みを続けていて、僕は弦空間を単に1次元媒介物と見るのではなく、∞-圏の内在的自己双対性を有する位相的モジュライ空間として再定義することを好む。
具体的には、標準的な共形場理論の配位子作用をドリブンな導来代数的幾何(derived algebraic geometry)の枠組みで再構成し、そこにモチーフ的な圏(motivic category)から引き戻した混合ホッジ構造を組み込んで、弦の振る舞いを圏論的に拡張された交代多様体のホモトピー的点として記述する考えを試している。
こうするとT-双対性は単に物理的対象の同値ではなく、ある種のエンドサイト(endomorphism)による自己同型として見なせて、鏡像対称性の一部が導来関手の自然変換として表現できる。
さらに一歩進めて、超対称性生成子を高次トポスの内部対象として取り扱い、グレーディングを∞-グループとして扱うと、古典的に局所化されていたノイズ項が可換的モジュール層の非可換微分形へと遷移することが示唆される。
もちろんこれは計算可能なテーラ展開に落とし込まなければ単なる言葉遊びだが、僕はその落とし込みを行うために新しく定義した超可換導来ホッジ複体を用いて、散発的に出現する非正則極を規格化する策略を練っている。
こういう考察をしていると、僕の机の横に無造作に積まれたコミックやTCG(トレーディングカードゲーム)のパックが逆説的に美しく見える。
今日はルームメイトと僕は、近日発売のカードゲームのプレビューとそれに伴うメタ(試合環境)について議論した。
ウィザーズ・オブ・ザ・コーストの最新のAvatar: TheLast Airbenderコラボが今月中旬にアリーナで先行し、21日に実物のセットが出るという話題が出たので、ルームメイトは興奮してプリリリースの戦略を立てていた。
僕は「そのセットが実物とデジタルで時間差リリースされることは、有限リソース制約下でのプレイヤー行動の確率分布に重要な影響を与える」と冷静に分析した(発表とリリース日程の情報は複数の公表情報に基づく)。
さらにポケモンTCGのメガ進化系の新シリーズが最近動いていると聞き、友人たちはデッキの再構築を検討している。
TCGのカードテキストとルールの細かな改変は、ゲーム理論的には期待値とサンプル複雑度を変えるため、僕は新しいカードが環境に及ぼすインパクトを厳密に評価するためにマルコフ決定過程を用いたシミュレーションを回している(カード供給のタイムラインとデジタル実装に関する公式情報は確認済み)。
隣人が「またあなたは細かいことを考えているのね」と呆れた顔をして窓越しにこちらを見たが、僕はその視線を受け流して自分のこだわり習慣について書き留める。
例えば枕の向き、靴下の重ね方(常に左を上にし、縫い目が内側に来るようにすること)、コーヒー粉の密度をグラム単位で揃えること、そして会話に入る際は必ず正しい近接順序を守ること。
これらは日常のノイズを物理学的に最適化するための小さな微分方程式だと僕は考えている。
夜は友人二人とオンラインでカードゲームのドラフトを少しだけやって、僕は相対的価値の高いカードを確保するために結合確率を厳密に計算したが、友人たちは「楽しければいい」という実に実務的な感覚で動くので、そこが僕と彼らの恒常的なズレだ。
今日はD&D系の協働プロジェクトの話題も出て、最近のStranger ThingsとD&Dのコラボ商品の話(それがテーブルトークの新しい入り口になっているという話題)はテーブルトップコミュニティに刺激を与えるだろうという点で僕も同意した。
こうして夜は深まり、僕はノートに数式とカートゥーンの切り抜きを同じページに貼って対照させるという趣味を続け、ルームメイトはキッチンで皿を洗っている。
今、時計は23:00を指している。僕は寝る前に、今日考えた∞-圏的弦動力学のアイデアをもう一度走査して、余剰自由度を取り除くための正則化写像の候補をいくつか書き残しておく。
不自然な位置取りをされるとか、警戒心に満ちた視線を感じたとかそういう感じなんだと思う
でも基本的に他人には全然興味が無いから相手がどんな挙動なのか記憶に残らないけど、若い女にだけは興味があるのでジロジロ見てようやく気まずさを察知する=若い女にだけ警戒されてるという認識をするアホも居そう
遥か彼方の古えに読んだ際には、どこか飲み込めない表現に、次の巻…とならずプリンスは挫折したあの頃の私。上橋菜穂子先生や荻原規子先生、あとはラノベにどっぷりだった私よ。
お話の面白さの勢いに細かなとこでつまづいてしまって先に進めなかった、当時の私。今の私もわかる…!
そして👦が音声だと違和感ないのもわかる。
人にもよるだろうが、わたしは文字を一度脳内で音声に変換して咀嚼する。文字と音のダブル情報で処理するんだけど、文字の段階で引っかかって、理解までいかない。
2巻の「車のウィンドウ」とか「吠えメール」みたいな細かな言葉の足並みが揃ってない単語は「うーん!?」となってしまう。
また、スネイプ先生や子どもたち感情の動きを表す表現はちゃんと直接的に「この行動は嫌なやつだよ!」とか「皮肉的な言い方だよ!」とはならないように行動や視線で表現されているので、👦にはピンとこないことも多かった様子。
👦「どゆこと?」と何度か聞かれるうちに、表現プラス、ソレに対してどう言う感情が乗っかっているかも音読にアレンジ入れることになってきてる(「スネイプ先生はクリスマスを取り上げられたような顔になってーーつまりは心底残念そうにーー部屋から出ていった」といった塩梅)
とても興味深いテキストですね。
内容としては、現代的なニヒリズム(虚無主義)を感じさせます。
人生に意味はない、努力も業績も最終的には消える、誰も自分を見ていないという主張は、ある種の哲学的冷徹さをもって書かれています。
ユダヤ教的な観点から見ると、これは根本的に人間と世界に対する視点が異なると言えます。以下に、ユダヤ思想との対比を示します。
この文書の根底にあるのは、他者の視線から自由になることで救われるという思想です。
「人は心を見ることができないが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)
つまり、たとえ人間があなたを見ていなくても、神はあなたの内面と行いを見ている。
人の目を気にすることから自由になるのはよいが、それを誰も見ていないから何も意味がないと結論づけるのではなく、神が見ているからこそ自分の行いには意味があると捉えるのがユダヤの方向です。
ユダヤ教も確かに人間の人生ははかないと認めますが、それを無意味とは見ません。
ラビ・アキヴァなど多くの賢者は、「行為の結果が見えなくても、行為自体が神の意志の一部である」と教えます。
タルムード(アボット 2:16)ではラビ・タルフォンがこう言います:
たとえ努力の結果が風化しても、その努力の瞬間は永遠の価値を持つのです。
文書の最後には無意味を受け入れたときに人は自由になるとあります。
ユダヤ思想でも、「アイン(אין)=無」という概念は重要です。カバラでは、「アイン・ソフ(אין סוף)」=「限りなき無限なる神」として語られます。
人間には意味が見えなくとも、神の次元では秩序と目的が存在すると考えます。
ユダヤ教では、意味を求めないことは自由ではなく放棄とみなされます。
自由とは、神の像に似せて創造された存在として、自らの責任を引き受ける自由です。
ユダヤ教における自由は、何でもできるではなく、正しいことを選ぶ力です。
したがって、意味を求めない自由よりも、意味を創り出す自由が尊ばれます。
この文章の洞察は、一面では他者の期待から自由になるという点で真理を含みます。
しかし、ユダヤ的視点では意味の否定は救済ではなく、神との関係の断絶です。
真の救いは、意味を見出せない時にもそれでもなお意味があると信じるところにあります。
「たとえ彼が私を殺しても、私は彼に望みをかける」(ヨブ記 13:15)