
はてなキーワード:視線とは
昔の恥ずかしい記憶がフラッシュバックしそうになるとつい汚い言葉を叫んでしまう。セックス!!!!!!!!!!!
原理はわからないが、汚い言葉を叫ぶとそこで記憶の呼び起こしをキャンセルできるセックス!!!!!!!!!!!!!!!
小学校の廊下でレイザーラモンHGの真似をして腰をカクカクさせているところを姉の同級生に見られてああああちんぽ!!!!!!!!!!!!!!!
教室で自分の椅子の座面に頬ずりしていたつもりが実は間違えて女子の椅子にああああおっぱい!!!!!!!!!!!
空手の道場で100人くらいで練習している最中にうんこ漏らして「うんこ漏らしました!!!!」って絶叫報告ああああああああああセックス!!!!!!!!!
大学の廊下をつい走ってしまったときに教授にぶつかりそうになって、その教授にすごく迷惑そうな視線を向けられてまんこ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
男の子: (スマホから目を離さず、鼻で笑って) 「うわ、見てよあのおっさん。一生懸命投票箱に紙入れてやんの。マジで時間の無駄だと思わない?」
女の子: (汚いものを見る目で) 「ほんとだ。存在自体が公害レベルなのに、権利だけは一人前に行使するのね。男ってだけで優遇されてるのに、さらに何を求めてるわけ?」
弱者男性: (ボソボソと独り言のように、しかし二人に聞こえるように) 「……け、権利を行使して何が悪い。俺たちみたいな氷河期世代を……見捨てた国に……鉄槌を、下すんだ……」
男の子: (呆れ顔で) 「鉄槌? ははっ、笑わせないでよ。おじさんさぁ、その選挙に行く時間で資格の勉強でもすればいいのに。自分の市場価値が低いのは国のせいじゃなくて、おじさんの努力不足でしょ?自己責任だよ、自己責任。」
弱者男性: (顔を赤らめて) 「な、何を……! お前みたいな恵まれたガキに何がわかる!社会構造が俺を搾取してるんだ!上級国民が富を独占して……」
女の子: (会話を遮り、冷徹に言い放つ) 「搾取? 笑わせるわ。あんた『男』でしょ? 男として生まれてきただけで、女性より圧倒的にゲタ履かせてもらってるくせに。弱者ぶらないでくれる?私たち女性はあんたみたいなのが街を歩いてるだけで恐怖を感じてるの。女性支援の予算を削ろうとする候補者に入れたんでしょどうせ」
弱者男性: (震えながら) 「ち、違う……! 俺たち弱者男性を救ってくれる党に……!」
男の子: 「あーあ、現実見なよ。弱者男性向けの候補者なんて1人もいないよ。政治家にとって、金も落とさない、子供も作らない、文句だけ言うおじさんなんて一番コスパ悪い票田なんだわ。誰もお前のことなんて見てないって」
女の子: 「そうね。本来なら、その一票も女性に譲渡されるべきよ。歴史的に虐げられてきた女性の声を反映させるためにね。あんたみたいな生産性のない男が生きてるだけで、CO2と税金の無駄遣いなの。わかる? 分きまえてよ」
男の子: 「図星つかれて固まっちゃった。ねえ、今どんな気持ち?自分の人生が自分の怠惰の積み重ねだって認めなよ。底辺は底辺らしく、部屋の隅で膝抱えてれば?」
女の子: 「気持ち悪い。こっち見ないで。視界に入るだけでセクハラだから」
弱者男性: (二人の冷ややかな視線と言葉のナイフに、完全に退路を断たれる)
「……俺は……俺はただ……真面目に生きてきただけなのに……!!」 「誰も……誰も俺を認めないのか……!? 国も、女も、子供も、誰もぉぉぉ!!!」
弱者男性: 「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
より善い社会を作ることが政治の役割であるとすれば、そもそも”善い”とは何か。
それを知る必要がある。そして、それを知らずして語る政治論はいつも空疎に響いて聞こえた。
そんな自分の違和感を払拭し、政治について数多の本を読んできたがその上でも必読と呼べる三冊を紹介しようと思う。
これを読まずして政治は語れない。
むしろ、これを読まずに政治を語るのはフェアじゃないとさえ思っている。
はっきりいって読みやすい本ではない。
それでも20代の私は、この本に出会って初めて「正義は感情ではなく、設計の問題」なのだと理解した。
ロールズが提示する「無知のヴェール」という思考実験は有名だ。
自分がどの立場に生まれるか分からない状態で社会制度を設計するとしたら、人はどんなルールを選ぶだろうか。
ここで重要なのは、「誰が得をするか」ではなく「最悪の立場に置かれた人が、どこまで耐えられるか」という基準が持ち込まれる点だ。
この本を読んだあと、私は「過度に正当性を叫ぶ言葉」にどこか冷めた視線を向けるようになった。
なぜなら多くの正当性は自分がどの位置に立っているかを隠れた前提にしているからだ。
ローティは「普遍的な真理」や「理性によって保証された正義」といったものを容赦なく解体する。
我々の価値観は偶然の産物であり、言語も道徳も歴史的に作られたものでしかない。
それでも尚、他者の苦痛を減らそうとする態度だけは手放すな、というのが彼のスタンスだ。
本書で述べられている「リベラル・アイロニスト」といった概念は、自称リベラルにかなり刺さるだろう。
リベラルとは
自分の信念が偶然に支えられていることを自覚したうえで、それでもなお立場を引き受ける行為なのだ。
ローティを読んで以来、「正義を論破で勝ち取ろうとする」行為が誤りであることを知ることができた。
本書は政治思想というより、政治という営みそのものの解剖図だ。
扱っているのは市場・国家・社会が、どのように結びつき、どの地点で破綻するのかといったことを入念に描き出す。
ポランニーが繰り返し示すのは、市場は自然現象ではなく、徹底して政治的に作られた制度だという事実だ。
放っておけば自由市場がうまく回るという発想そのものが、実は国家権力による介入と強制の産物だった。
この逆説を、19世紀ヨーロッパの歴史を通して執拗に描いていく。
この本を読むと「政治は介入するか否か」という素朴な二択がいかに無意味かが分かってくる。政治は常に介入している。ただ、それが誰を守り、誰を切り捨てる形で行われているのかが見えにくくなっているだけなのだ。
自由か統制か。右か左かといったラベルがいかに粗雑で、思考停止に近いのかをこの本は静かに暴いていく。
ロールズが制度の正当性を問い、ローティが価値の偶然性を引き受けたとすれば、ポランニーはその土台である「社会が壊れるメカニズム」を描き出す。
政治を語るうえで避けて通れないのは、理念でも倫理でもなく、制度が人間の生活にどう作用するかという具体性なのだと、この本は教えてくれる。
これら三冊を読んで、ようやく腑に落ちたことがある。
政治における無理解は政治に対して無知だから起こるのではなく、政治が行うとしている行為そのものに対する知識の乏しさから生じるものであるのだと、理解するに至った。
無論これらの本を読まずとも、政治を語ることはできる。
だがそれは米の旨さについて語り合うときに産地を無視するようなものだ。
甘い。硬い。まずい。好きだ嫌いだと感想を述べることはできるだろう。
しかし「なぜその味になるのか?」や「なぜ違いが生まれるのか?」を理解しないままでは、議論はどこにも辿り着かない。
自らの発言に対し、責任を伴わず、好き勝手なことを言って容認されれば尚のことだ。
しかし自らの言説に責任を持ち、最低限の知識を以てして発言することこそが政治に参画する大人のマナーであり、嗜みなのではないだろうか。
まるで巨大な単一人格が存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコアを付与しているかのように扱われる。
しかしストア派の冷徹な自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。
世間とは主体ではない。世間はロゴスを宿した統一的意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象と衝動と欲望の乱流である。
つまり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想の審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。
ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。
すなわち、俺の支配下にあるもの(選択能力、意志、判断)と、俺の支配下にないもの(他者の評価、偶然、噂、流行、アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。
世間の認識は後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。
ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。
ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間の視線は外部財である。
外部財に依存する生は、最初から不安定に設計されている。株価に人生を賭けるようなものだ。
しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間を認識していないからだ。
この対称性が、ただの愚痴を形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である。
俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。
社会とは本来、相互に他者を他者として認識し合うことで成立する。
しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。
ユングは言う。人間は意識だけで生きているのではない。個人的無意識と集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。
世間というものは、単なる人間集団ではない。世間は集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である。
ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割に最適化された仮面を被る。
会社員の仮面、家族の仮面、SNSの仮面、善良な市民の仮面。世間は、無数のペルソナが互いのペルソナを認識し合って成立する、仮面の交換市場である。
そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体が認識されていないというより、俺のペルソナが市場に上場していないという意味である可能性が高い。
世間は本体を見ない。世間は仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的にタグ付け可能な記号、職業、年収、肩書、フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装のテンプレだ。
世間は個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間に認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。
つまり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。
分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会の意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。
これは現代のロゴスではなく、統計的なダイモーンである。世間は人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。
しかしユングはさらに深く刺してくる。俺は世間の人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。
俺は他者を見ていないのではない。俺は他者を世間という抽象概念に圧縮している。
これは他者の人格を剥奪する心理的操作だ。世間の人間は、顔も名前も欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。
つまり俺は他者を認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。
影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間を嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。
世間は薄っぺらい、世間は愚かだ、世間は凡庸だ、世間は空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないものに隔離している可能性がある。
これは心理的には合理的だ。自我は自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化のプロセスを阻害する。
ストア派の言葉で言えば、これは判断の誤謬だ。外部の現象に価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派が問題視するのは現象ではない。
現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体は中立である。
善でも悪でもない。ただの事実である。しかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値を付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。
そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的なものだ。
ストア派的に言えば他者の評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。
世間に認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会の舞台における座標がない。座標がないと、自我は漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。
だから俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。
人間は他者の眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己は自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己の輪郭を得られない。
だがストア派は冷酷に言う。そんなものに依存するな、と。自己の輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。
ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。
世間に認識されないことを害と見なさないこと。世間に認識されることを善と見なさないこと。これが精神の自律だ。
しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派は共同体を否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。
人間は宇宙国家の市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派は世間を無視して独りで悟れとは言っていない。
むしろ共同体に奉仕せよ。ただし、共同体からの評価に魂を売るなと言う。
これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。
世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。
ユングはここで、個性化の観点から別の地図を提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。
浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり、世間に適応するペルソナのゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己の徴候に出会う。
これは苦しいが、精神の錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独は病理である場合もあるが、同時に、個性化の必須条件でもある。
だから世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。
世間に認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナの牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。
これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。
しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。
これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間に理解されない天才だ、という物語は甘い。
だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。
自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神の事故だ。孤独が精神を鍛えることもあるが、孤独が精神を神格化することもある。
ストア派は、この危険をもっと簡単な言葉で切り捨てる。思い上がりだと。
宇宙の秩序の中で、俺が特別に悲劇的である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。
ここでストア派は残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。
世界は世界のロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要感からの解放である。
そして結局、俺が言うべきことはこうなる。
世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象だからだ。
世間は意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣の連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。
また、俺が世間を認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者を抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。
俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。
俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分の無意識と戦っている。
ストア派の結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。
俺が制御できるのは、判断と行為だけだ。ゆえに、世間の認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。
ユングの結論はもっと暗い。世間に認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。
つまり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識と対話できるかにかかっている。
だから、このタイトルの文章は、ただの絶望ではない。これは認識の構造の告白だ。
世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。
俺がすべきことは、世間に認識されるために仮面を磨くことではない。仮面が必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派の禁忌はそこにある。
世間を憎んで自分を正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユングの禁忌はそこにある。
残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日も淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。
世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。
ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。
「俺は世間を認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間を認識している。
「世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間の視線を前提にしている。
つまりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。
ロゴスに反し、元型に引きずられ、影を撒き散らし、それでも理性を求める生物だ。
自民党工作員乙。 「ママ」という旗印が守ってきたものを知らない、歴史への無知が現れていて笑う。
あなたは、持たざる者の悲哀を装っているけど、その本質は歴史の矮小化と、自らの境遇を盾にした他者への加害に過ぎないよ。
あなた「戦時中の母親は進んで子供を戦場に送った」言い切っているけどあまりに一方的な歴史観すぎるわ。軍国主義下での母親達が強制されて子どもを戦場に送り出さざる得なかったけど、戦後はその反発と反省から日本の平和運動を牽引したのは間違いなく「母親」だよ。
具体的な例を出すよ。
1955年に日本母親大会が誕生して、原子爆弾を許すまじという声から水素爆弾禁止署名運動が全国に広がった。
あとなあ、「わが子を戦場に送らない」という願いは「自分たちの子供さえ良ければいい」という特権意識ではないんだよ。一人の母親がわが子を想う切実な痛みこそが、自民党という巨大な強欲な装置が振りかざす「お国のため」という似非の大義名分に対抗しうる、最も根源的で強力な源泉なんだよ。聞いているか?妖怪人間。庶民の暮らしは円安でほくほくなんてしてねーぞ。
あなたが攻撃する「#ママ戦争止めてくるわ」という言葉の背景にある「誰も戦場に送らせない」という普遍的な願いすら読み取れていない。それを「ママになれなかった自分への攻撃」と受け取るのは、あまりに過剰な被害妄想で、自身だけを正当化するために「反戦」という崇高な目的を泥にまみれにしている。いかにも裏金を作ったり、統一教会という外国勢力と結びつく自民党の議員を支持する自民党候補者らしい視野や理解の狭さを感じる。
「国全体が目茶苦茶になってしまえ」という破滅願望は、結局のところ、自分よりも弱い立場にある子供たちや、今まさに声を上げている女性たちを道連れにしたいという「強権的な加害性」の裏返しだよ。これこそが、自民党政権下の自己責任論が生み出した最悪の副産物で、皮肉にもあなたは、自分が批判しているはずの体制側の論理(弱肉強食と分断)にはまっている。本当に滑稽だよね。貧しかったり庶民なのに自民党を支持したり、参政党や維新という強権右翼政党を支持している人って。
「お前等のガキなんて、とっとと戦争に行ってお国のために死んで来いや」という言葉は、もはや政治批判でも何でもありません。それは、かつて軍部が若者を戦地に送り出した際の冷酷な視線そのものです。恥じなさい。
氷河期世代が放置されてきた政治的不作為は、糾弾されるべき大罪で、その責任は自民党だけが償うべき。ただしその怒りを、未来を奪われようとしている子供たちに向けるのであれば、その瞬間にあなたは「特権階級に虐げられた被害者」ではなく、「未来を食いつぶす加害者」へと成り下がっています。もう一度言います、恥じなさい。
一つの経験談を話しているだけなのに、現実以外でもネット上でぶつかって来る人もいるが悲観しないでほしい。
私は不幸で社会的弱者だから道を譲ってくれて当然と言語化する事はおそらくないだろうが潜在的にそうなっている人もいる。
自分のSOSをこういう形でしか示せない人もいる。(中には検挙され犯罪者となってしまう人もいる)
相談できる人がいないとこうなるケースが珍しくない。犯罪を犯せば信頼度は無くなる事ががこうせざるを得ない人がいる。
存在の承認欲求:社会的に孤立し、誰からも認識されていないと感じる人は、負の形であっても「他人に影響を与えた(ぶつかった、怒らせた)」という事実に、歪んだ充足感を得ることがある。
置換(ディスプレイスメント):本来怒りを向けるべき対象(職場、家庭、社会制度など)に手が出せないため、無関係な通行人やネット上の見知らぬ人を「安全な攻撃対象」として選ぶ現象です。
認知の歪み: 「誰もが自分を蔑んでいる」という被害妄想的なフィルターがかかっていると、道を譲る・譲らないという些細な出来事が、生存をかけたプライドの闘いにすり替わってしまう。
これらを考慮して向かってきた相手とチキンレースをするメリットは無い。
自分を守るのであれば10m先に人が居たなら積極的に視線を合わせず避けたほうがいい。
道幅がなければ立ち止まっていも良い。田舎なら道幅は広い。
困っている相手を救いたい思いはあるが、個人ではどうしようもない。
一つの経験談を話しているだけなのに、現実以外でもネット上でぶつかって来る人もいるが悲観しないでほしい。
私は不幸で社会的弱者だから道を譲ってくれて当然と言語化する事はおそらくないだろうが潜在的にそうなっている人もいる。
自分のSOSをこういう形でしか示せない人もいる。(中には検挙され犯罪者となってしまう人もいる)
相談できる人がいないとこうなるケースが珍しくない。犯罪を犯せば信頼度は無くなる事ががこうせざるを得ない人がいる。
存在の承認欲求:社会的に孤立し、誰からも認識されていないと感じる人は、負の形であっても「他人に影響を与えた(ぶつかった、怒らせた)」という事実に、歪んだ充足感を得ることがある。
置換(ディスプレイスメント):本来怒りを向けるべき対象(職場、家庭、社会制度など)に手が出せないため、無関係な通行人やネット上の見知らぬ人を「安全な攻撃対象」として選ぶ現象です。
認知の歪み: 「誰もが自分を蔑んでいる」という被害妄想的なフィルターがかかっていると、道を譲る・譲らないという些細な出来事が、生存をかけたプライドの闘いにすり替わってしまう。
これらを考慮して向かってきた相手とチキンレースをするメリットは無い。
自分を守るのであれば10m先に人が居たなら積極的に視線を合わせず避けたほうがいい。
道幅がなければ立ち止まっていも良い。田舎なら道幅は広い。
困っている相手を救いたい思いはあるが、個人ではどうしようもない。
一つの経験談を話しているだけなのに、現実以外でもネット上でぶつかって来る人もいるが悲観しないでほしい。
私は不幸で社会的弱者だから道を譲ってくれて当然と言語化する事はおそらくないだろうが潜在的にそうなっている人もいる。
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相談できる人がいないとこうなるケースが珍しくない。犯罪を犯せば信頼度は無くなる事ががこうせざるを得ない人がいる。
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置換(ディスプレイスメント):本来怒りを向けるべき対象(職場、家庭、社会制度など)に手が出せないため、無関係な通行人やネット上の見知らぬ人を「安全な攻撃対象」として選ぶ現象です。
認知の歪み: 「誰もが自分を蔑んでいる」という被害妄想的なフィルターがかかっていると、道を譲る・譲らないという些細な出来事が、生存をかけたプライドの闘いにすり替わってしまう。
これらを考慮して向かってきた相手とチキンレースをするメリットは無い。
自分を守るのであれば10m先に人が居たなら積極的に視線を合わせず避けたほうがいい。
道幅がなければ立ち止まっていも良い。田舎なら道幅は広い。
困っている相手を救いたい思いはあるが、個人ではどうしようもない。
一つの経験談を話しているだけなのに、現実以外でもネット上でぶつかって来る人もいるが悲観しないでほしい。
私は不幸で社会的弱者だから道を譲ってくれて当然と言語化する事はおそらくないだろうが潜在的にそうなっている人もいる。
自分のSOSをこういう形でしか示せない人もいる。(中には検挙され犯罪者となってしまう人もいる)
相談できる人がいないとこうなるケースが珍しくない。犯罪を犯せば信頼度は無くなる事ががこうせざるを得ない人がいる。
存在の承認欲求:社会的に孤立し、誰からも認識されていないと感じる人は、負の形であっても「他人に影響を与えた(ぶつかった、怒らせた)」という事実に、歪んだ充足感を得ることがある。
置換(ディスプレイスメント):本来怒りを向けるべき対象(職場、家庭、社会制度など)に手が出せないため、無関係な通行人やネット上の見知らぬ人を「安全な攻撃対象」として選ぶ現象です。
認知の歪み: 「誰もが自分を蔑んでいる」という被害妄想的なフィルターがかかっていると、道を譲る・譲らないという些細な出来事が、生存をかけたプライドの闘いにすり替わってしまう。
これらを考慮して向かってきた相手とチキンレースをするメリットは無い。
自分を守るのであれば10m先に人が居たなら積極的に視線を合わせず避けたほうがいい。
道幅がなければ立ち止まっていも良い。田舎なら道幅は広い。
困っている相手を救いたい思いはあるが、個人ではどうしようもない。
絵の可愛さは感心する。最王道少女漫画誌の絵売れの屋台骨の自負心を感じる。ポコポコまつ毛は辞めたんだな。ツヤベタ美麗。
毎度だが、この人の描く正ヒーローの男キャラは刺さらない(好みの問題)
今回も見た目はあまり(いやとかではなく、刺さらない。強めに言うと『つまらない』)。性格はまだよくわからない。無味。
神格化というかいっとき強烈に救われた相手のことを合わなくなってからも心の中で飼ってそれと会話して自分を保ち続けるのは心当たりがある。自分の中で生成したそれと、オリジナルの実在人物両方がいて、そこで揺れるのはかなりおもしろいしおいしい設定だと思うのだが、それがおいしく活きるとしたらそれって主人公に猛烈に孤独感や苦境があることは必須なのではないかと思う。
もちろん口下手で誤解されてはいて孤独ちゃあ孤独なんだとは思うが、名言されないだけでかなり美少女として描かれており、男女と共々から気になる存在として一目置かれている。
美人であることがテーマやストーリに直接関係ある場合以外でも、ヒロインが無駄に美形設定なことはあるあるで、それは描いてて&読んでて楽しいからどうせなら、という即物的な理由も大きいだろうが、主人公に何らかの癖や回避性があったとしても周囲がほっとかないため、辛抱して待つため、周囲の人物の方からヒロインに持つ動機としての装置としてしばしば付与されているように思う。
だから正直、大変だろうけど、あんまり孤独が映えてないというか…すぐその生成AIみたいな亡霊消えそうですよね?ってなるし、説得力がない。
その人の視線の中では自分が認められるような自分でいられた、それはその人が認めてくれたから、っていう相手の虚像に執着する気持ちも異常だなと思いつつそれと会話するなかで自分を確認する行為もわかってしまうからこそ、その着眼点が今後活かされて面白くなるのか気になる。
バイクで流してたらさ、信号待ちで急に横から声かけられたんだわ。
「ねえ、キミナンシー?」
……は?誰だよお前。まず名乗れ。
振り向いたら、いかにもな弱者男性。年齢不詳、覇気ゼロ、でも目だけは妙にギラついてる。
「ナンシーなんだろ? お前が組織から盗んだカネを返してもらう」
次の瞬間、空気が変わった。
――聖域。
周囲の音が消えて、世界が膜一枚隔てられた感じになる。あ、これヤバいやつだわ、って直感した。
女たちの肉体のリミッターを解除。
人間の体じゃ耐えられない出力で動くから、肉体は崩壊していく。
弱者男性は叫んでたよ。
「やめろ! それは人道に反する!」
いや今さら何言ってんだよ。先に聖域張ったのお前だろ。
最終的に聖域は崩壊。
俺はバイクを発進させながら思ったね。
子育てがこれほど大変だとは思いもしなかった。
夜中の二時に泣き、三時に泣き、五時にまた泣く。
朝になっても休めない。
抱いても、歩いても、何をしても泣き止まない時間がある。
外に出ると周りの視線が痛い。「母親失格」という言葉が、どこからともなく聞こえてくる。
もう正解が分からなかった。
トイレに行くタイミングを逃し続ける。シャワーを浴びる間も、泣き声が頭の奥に残る。
昼なのに眠い。
夜なのに眠れない。
頭が重く、視界が少し白くなる。
何もしていないのに、常に責められている感じがした。
止めようとしても止まらなかった。
限界が来てベビーシッターを呼び、預け、逃げるように実家へ帰った。
でも玄関を開けた瞬間、両親は何も聞かなかった。
母は「寒かったでしょう」と言い、父は湯を沸かした。それだけだった。
理由を聞かれないことが、こんなにも楽だとは知らなかった。
何かを責められるわけでも慰められるわけでもない時間のなかで、私はソファに座った。
どうしていいのか分からないまま、何も考えれらずに沈んでいると母が「はい」と温かいお茶を渡してくれた。
両親もきっと、同じように眠れず、同じように不安になり、同じように「逃げたい」と思いながら、それでも私を育ててくれたんだと。
それに気付いて、はっとした。
胸の奥がじんと熱くなった。思わず泣きそうになる。
このままだと本当に泣いてしまう。お茶を飲むと、すぐに家を出た。
自宅に戻るとすぐにわが子を抱きしめた。
それでも……
その苦労を含めて、今はすべてが愛おしい。
画像のテキストは、ある本のページからの抜粋で、サルトルの哲学を引用・解釈したものと思われます。以下では、画像内のテキストを自然な文単位で分解し、各部分について「どこが間違っているのか」と「本当はサルトルはどういう話をしているのか」を対応させて指摘します。指摘は画像のテキスト順に沿って進めます。サルトルの主な参照元は『存在と無』(L'Êtreetle Néant,1943年) で、不安(angoisse, anguish)と自由の関係を議論した箇所です。画像のテキストはサルトルのアイデアを大まかに借用していますが、用語の置き換え、文脈の歪曲、偽の引用が目立ち、全体として自己啓発的な解釈に強引に当てはめている点が問題です。
#### 1. 「と、こんな風に考えてしまう人もいるかもしれません。でも、他人の人生を凝視している間は、自分の人生を生きていないということになります。」
#### 2. 「フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは、こう言っています。」
#### 3. 「『憂鬱とは、他人の人生を凝視しすぎた結果である。解決策は、他人の人生を凝視しないことだ。』」
#### 5. 「崖っぷちで下を覗き込むと、めまいが起きる。」
#### 6. 「それは、落ちる恐怖からではなく、自分が飛び降りる自由を持っていることを認識したからだ。」
#### 7. 「つまり、他人の人生を凝視しすぎると、自分の自由を直視できなくなり、憂鬱になる。」
#### 8. 「だから、他人の人生を凝視せず、自分の人生を生きろ、というわけです。」
####9. 「本当の成功者たちは、そんな他人の人生なんて気にしない。自分の人生を全力で生きている。だから、憂鬱になる暇なんてないんです。あなたも、そんな人になりませんか?」
全体として、このテキストはサルトルの絶壁の例を借用しつつ、「憂鬱」「他人の凝視」という独自の解釈を加えており、原典から大きく逸脱しています。サルトルの本質は、自由の重みを直視し、欺瞞なく生きることです。もし本の文脈が自己啓発なら、正確な引用ではなくインスピレーションとして扱うべきですが、ここでは誤解を招く表現です。
励ましなのだろうとは思う。善意であることも、たぶん疑ってはいない。
それでも、その言葉が私の中にすんなりと落ちてきたことは、一度もない。
自分らしく。
その「自分」とは、いったいどこにいるのだろうか。
自分というものは、ひとりで完結して存在できるものではないのではないか、と私は考えてしまう。
人は誰かに呼びかけられ、視線を向けられ、何らかの感情を向けられることで、はじめて自分を自分として意識する。
誰かの世界の中に、無視できない存在として位置づけられたとき、ようやく<私>は輪郭を持つ。
誰のものでもない純粋な自己など、少なくとも社会の中では、ほとんど意味を持たない。
そう考えると、「自分らしさ」とは、きわめて不安定な概念である。
それは、自分がこうありたいと願う自己像と、他者の中で形作られている自己像とが、かろうじて重なっている状態に過ぎない。
自分らしくいられないと感じるとき、その二つの像はずれている。
そして多くの場合、そのズレは、自分一人の内側だけでは修正できない。
そのどちらを選んでも、傷つかずに済む道はない。
「自分らしく生きる」という言葉が、決して軽やかなものになりえない理由は、たぶんそこにある。
それは完成された状態を指す言葉ではなく、調整し続ける過程の名前なのだ。
何も考えず、与えられた役割をなぞるだけでも、生きていくことはできる。
むしろ現代社会では、その方が穏やかで、安全である場合すらある。
それでもなお「自分らしくありたい」と願うことは、自ら進んで複雑さを引き受けるという選択に近い。
「自分らしく生きればいい。」
もしそれが本当に可能だとしたら、それはきっと、誰かに軽々しく勧められるような生き方ではない。
少なくとも私には、そう思えてならない。
オタクには、対象そのものが好きなタイプと、対象と対象の関係性が好きなタイプがあると現代表象論の先生に教わった
宝塚で言うと、男役が好きなタイプと、男役と男役/娘役の関係性が好き(いわゆるコンビ萌)なタイプにあたると思う。更に言うと、前者は"私"が介在するけど、後者は"私"が介在しない。ザックリ言うと、男役が好きな方は娘役に自己投影する形で"私"が介在することがありますが、男役と娘役の関係性が好きな方は"私"は介在しないことが多い。
置いていく置いていかれる関係、視線が交わらない関係、他人が入る余地がない二人だけの世界を作る関係、秘密を共有する関係、お互いに感情の湿度が違う関係……などなど………
「あんたは金玉が4つじゃない、だから今夜限りよ」「私は別にビッチなんじゃない、ただ金玉が4つの男を探してるだけ」そう言い残して、女は去っていった。
俺はズボンのファスナーを閉めながら、二つしかない標準装備の頼りなさに「……努力で増えるもんでもねえだろ」と毒づいた。
翌晩、彼女はカビ臭い地下のバーにいた。カウンターに座る男たちの股間を、まるで熟れ具合を確かめる果物屋の店主のような眼差しで、右から左へとなぞっていく。
「ねえ、あんた」
彼女は、一番端でウイスキーのロックを啜っていた、左右の肩の高さが不自然に違う大男に声をかけた。
「あんたのそれは、重力に逆らってる?それとも、重すぎて沈み込んでる?」
男はグラスを置くと、歪んだ肩をゆっくりと回し、濁った声で応えた。「重力なんざ知らねえが、俺の袋には宇宙が二つずつ、計二組収まってるぜ」
「合格。今すぐここで、その銀河系を私に見せなさい」「宇宙の誕生(ビッグバン)を目撃する準備はできてるんでしょうね」
男がベルトを外すと、店内の湿度が数度上がったような錯覚に陥った。ジッパーが下りる鈍い音に合わせ、カウンターにいた他の客たちが、吸い寄せられるように視線を一点に集中させる。現れたそれは、肉の塊というよりは、密教の法具か、あるいは未知の惑星から飛来した隕石の詰め合わせのようだった。
彼女は震える指先で、4つの宇宙が奏でる不規則な鼓動に触れようとした。彼女の指先がその「宇宙」に触れた瞬間、バーの喧騒は真空に飲み込まれたように消失した。
彼女が両手に力を込めて二組の質量を激突させると、網膜を焼くような純白の閃光が走り、男の股間から物質と反物質が互いを食い潰す絶叫が響いた。爆風が収まったあと、カウンターにいたはずの男の姿はなく、ただ彼女の手のひらで、消滅しきれなかった一欠片の「虚無」が青白く燃えていた。
彼女は手のひらの「虚無」を、吸いかけの煙草を消すようにカウンターの灰皿へ押し付けた。
「お代は、その消し炭で足りるわよね」
呆然と立ち尽くすマスターを背に、彼女は一度も振り返ることなく、再びネオンの檻へと足を踏み出す。対消滅の残光で火照った体を冷ますには、まだ夜風が足りない。
「さあ……次の四つ(カルテット)はどこに隠れているのかしら」
彼女の瞳には、まだ見ぬ質量を求める飢えた銀河が、不気味に渦巻いていた。
(了)
それを真似して、
というノリでひとつ。
受付の前に張り出された掲示板には、でかでかとこう書かれている。
「【重要】本日より、ギルド備蓄金貨の価値、大幅見直しのお知らせ」
「……なあ」
戦士のガルドが、手の中の金貨をじっと見つめながら口を開いた。
隣の魔法使いリーネが、いつもの計算用メモをめくりながらうなずく。
「本日より、金貨一枚の価値は『宿屋一泊のオマケについてくる朝食のパンの端っこ2切れ分』とする」
「暴落しすぎだろ!!」
ガルドの叫びに、奥のテーブルで飲んでいたドワーフたちも一斉に振り向いた。
「いやー、参ったねえ」
「王都中央銀行がな、“金はもう古い。これからは魔力本位制だ!”って発表しちゃってね。倉庫に積んでた金貨の価値が、一晩でパンの耳になっちまった」
「じゃあ、私たちが昨日まで命がけで集めてきたドラゴンの財宝は?」
「ドラゴンの硬貨ポートフォリオも、例外なく連動しておりましてな」
「市場はパニック売り、“金山ダンジョン”の株価も大暴落。昨日まで“金の山”だったあそこ、今は“お得なパン耳取り放題”くらいの評価だ」
がっくり崩れ落ちるガルド。
「じゃあ俺たち、パンの耳のためにドラゴンと殴り合ってたのかよ……」
「落ち込むのはまだ早いわ」
「今上がってるのは“魔力”なんでしょ? だったら──」
「新規通貨、“マナ連動証券トークン”を発行するわ。略して“MLT”。
魔力は今が高値。ここで私が“魔力バブル”を作って、売り抜けるのよ!」
ガルドがすかさずツッコむ。
その時、ギルドの扉が勢いよく開いた。
「聞いたかお前ら!!! 例の“金暴落”で、金貨を素材にした錬金術のコストが激安になったぞ!!」
「今なら金貨百枚で“高級な金箔入り回復ポーション”が作り放題だ! 市場価値は落ちてても、見た目のゴージャスさは変わらねぇ!!」
ガルドが顔を上げる。
「つまり……ドラゴンの財宝、まだ“ネタとしては”価値がある……?」
「そうよ」
リーネがニヤリと笑う。
「“金そのもの”の価値は落ちても、“金ピカで派手なものが好きなお貴族さま”は、いつの時代も一定数いる。
「結局、価値なんてものは“何に使うか、誰が欲しがるか”でコロコロ変わるってことかねえ……」
……案外、“金貨ってやつは、冒険者よりよっぽど転職上手”なのかもしれねえな」
「ドラゴンの財宝をパン耳とポーションに変える、前代未聞の錬金バブル」として、
2026年2月1日、NHK『日曜討論』のスタジオに、本来座るべき一国の宰相の姿はなかった。放送開始に遅れて自民党広報から発せられた「出演見合わせ」の報は、単なるスケジュールの変更ではない。これは、全国民を唐突に巻き込んで開始された今回の選挙において、唯一設定された「全国民に向けた党首討論会」という極めて重い場だったからだ。
各党党首への報告が生放送開始30分前、すなわち「ドタキャン」をしたという事態は、社会通念上の非礼にとどまらず、衆院選という民主主義のプロセスにおける瑕疵(かし)として記録すべきだろう。
まずは事の経緯を見てみたい。1月31日夜の時点では出演が告知されていたが、翌2月1日朝になり突如として欠席が公表された。理由は「前日の遊説中に手を強く引かれたことによる負傷」である。そして、13時30分には岐阜県可児市の自民党応援演説会場に姿を現している。そこではマイクを握り、身振りを交え聴衆に熱弁を振るっていた。計算上その放送終了後の午前11時台には総理官邸を出発したことになるだろう。
ここで素朴に思うのは、なぜ「座って話す」ことが不可能なほどの体調不良者が、「直後に数時間の移動」を経て「立ち上がって演説する」選択を採ったのかである。一般的に仕事の重要度を考え、今回の選挙の定義((選挙の定義:今回の選挙の目的は、1月19日の会見で解散を宣言した総理自らが位置づけた言によれば「私(高市)を選ぶかどうかを問う」選挙である。))と照らし合わせたとき、集結した各党首を置いて討論を休み、午前中から移動し、午後に自民党のために演説する、その判断はどう評価できるのだろうか。
公平を期すために付記すれば、高市総理が患っているとされる関節リウマチにおいて、現代医療のペインコントロール(強力な鎮鎮剤やブロック注射等)ですら奏功しない、叫びだしてしまうほどの激痛発作が起こり得ることは、医学的事実として否定しない。
仮にそのような極限状態にあったとすれば、まさにその痛みがあった午前中のうちに地方(愛知・岐阜)遊説への出発を強行するという判断は、医学的にもそうだが総理大臣という仕事の危機管理的に成立しないのではないか。
さらに言えば、そこまでの極限状態では無かったのであれば、首相公邸からの「リモート出演」という技術的な代替案は容易に選択可能であったはずだ。それらの手段を講じることなく、単に「欠席」を選択した事実は、痛みの程度云々以前に、「討論の場」に対する優先順位が低かったことを示唆している。
筆者がこの一連の行動を合理的に説明するなら、「戦術的ボイコット」となる。 先般の都知事選において小池百合子氏が用いた「公務優先・直接議論回避」の戦術を覚えているだろうか。都知事公務を現職として積極的に行うことで「都知事選のためのメディア露出」を代行し、それ以外の演説、記者会見、候補者討論会を「徹底的に避けた」ことで勝利したあの都知事選だ。
その成功事例を見ればわかるように、現職としての知名度と支持率優位性を今まさに持っている高市陣営にとって、他党党首からの追及や失言のリスクを伴う「討論」は、勝利のためにはもはや避けるべきコストとして計算されたのだろう。 「怪我」という不可抗力を盾にすれば、批判は一段階遠回しにならざるを得ない上に、現首相としてメディアへの露出は十分に確保できるからだ。 それが派閥のボスによる冷徹なリスク管理と指示の結果であったとしても、総理自ら「信認を問う」と宣言した選挙において、有権者が最も比較検討を必要とする場を意図的にパージ(排除)したのであれば、それは有権者の「知る権利」への侵害に他ならない。
しかし都知事選のように、「行うべきを行わない」ことで勝利する目もあるのだろう。高市陣営はそちらにベットしたということだ。
さて、この判断において高市総理に決定的に欠落していたのが、各ステークホルダーへの敬意と配慮である。急遽代役として矢面に立つことになった自民党代議士や、総理との討論を用意してきた各党党首、場を準備したNHK。何より、総選挙前唯一の党首討論という機会を注視し、貴重な時間を割いて視聴した国民が多数いる。
これら各方面に対する具体的な言及や謝辞、代替案はあっただろうか。欠席報告と直後の発信において、そのような気づかいが全く見られなかったという事実は、高市総理の視線が国民全体ではなく、自陣営のために向けられていることを冷徹に物語っている。
今回の総選挙は、2月の豪雪地帯における自治体職員の疲弊、予算編成の空白による国政の遅滞、海外投票の物理的困難といった多大な社会的コストを国民に強いてまで決断されたものである。 それほどの代償を払って用意された「判断の場」において、事実として総理はその中心地である討論会を30分前ドタキャンし、直後に自陣営の熱狂が約束された遊説地へと走った。
投票箱の前で問われるのは、もはや各々の「選挙区候補者の優劣」ではないのかもしれない。高市総理がこの選挙全体において何を行ったのか、そしてなにを行わなかったのかに対する採点である。
この日の朝日新聞夕刊一面には「自維300議席超うかがう 中道半減も 参政・みらい勢い 朝日調査」という記事が踊っていた。
Permalink |記事への反応(21) | 12:57
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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# 1週間分の総括
この週の会話は、**「生活防衛」と「変化への適応」**が大きな底流となっていた。
一方で、グルメ・エンタメ・買い物・趣味といった軽やかな話題も多く、
総じて、
👉 「将来への慎重さ」と「今を楽しむ姿勢」が同時に存在する、
現代的で実務感覚の強いコミュニティ像が浮かび上がる1週間だった。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
ぼく「……おい、聞いたかよ。ネットじゃ徴兵制がどうのこうの騒いでるけどさ。あんなの、日本じゃ出来るわけないんだよ。今のハイテク戦争で、数カ月訓練しただけの素人なんて足手まといなだけだ。効率が悪すぎるんだよ……(ボソボソと、濁った目でスマホを眺める)」
フェミちゃん「(冷ややかな視線で)……はぁ。おじさん、また自分の都合のいいように解釈してるの?効率とかハイテクとか、そんなのどうでもいいんだよ」
ぼく「……あ? どういう意味だよ。現実を見ろよ。ドローンや電子戦の時代に、俺みたいな低学歴のオッサンが銃持ったところで、戦場のゴミになるだけだろ」
フェミちゃん「そう。その『ゴミ』っていう自覚があるなら話は早いわ。まさにその通り。戦場のゴミ、あるいは使い捨ての肉壁(盾)として、男だけが徴兵されるべきなの。 むしろ、おじさんみたいに社会に貢献してない、低所得で未来のない男性から順番にね」
ぼく「……なっ、なんだと!? 俺だって国民だぞ!憲法の下の平等はどうなったんだよ! 女だって平等だって、いつもお前ら言ってるだろ!」
フェミちゃん「バカだなぁ。平等っていうのはね、『価値のある存在』の間で適用されるものなの。生命の再生産ができない、ただ消費するだけの、しかも社会への憎悪を撒き散らしてるおじさんなんて、生きてるだけでコストでしょ? だったら、最前線で弾避けになって、私たち女性が安全にハイテク機器を操作する時間を1秒でも稼ぐのが、唯一の『社会貢献』じゃない?」
ぼく「ふ、ふざけるな……! なんで俺がそんな……! 俺は今まで、このクソみたいな社会で必死に耐えて……」
フェミちゃん「耐えて何になったの? その汚い部屋で、誰にも愛されず、ただネットで文句を垂れ流すだけの人生。でも、戦場なら『英霊』とは言わなくても『統計上の1人』にはなれるよ?女性はね、これからの世界を作る大切な存在。おじさんみたいな『過去の遺物』が、女たちの盾になって消えていく。これこそが、究極のレディ・ファーストでしょ?」
ぼく「……っ、お前……!人間の心がないのかよ! 女が優遇されるのが当然だって、そんなの、そんなの狂ってる……!」
フェミちゃん「狂ってるのは、自分の価値がまだあると思ってるおじさんの頭の方。さあ、早く召集令状が来るといいね。あ、そういえば、おじさんの年収じゃ装備も自前で揃えられないか。……まぁ、裸で走ればいいんじゃない? 標的が増えれば、それだけ女の子たちが助かるんだから。感謝してあげる、『肉壁』さん?」
ぼく「…………(震えが止まらなくなり、視界が真っ赤に染まる)」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASV212VHMV21UZPS002M.html
ほーらな。ほーらな。
おれずーーーっと言ってきた。
そんなもんだーーーれも気にしてねえわ。
そんなことをキャッキャキャッキャと言い続けて
最近じゃさすがに朝日毎日ですら「急所はここじゃない」と気付いたから
ポストセブンとか三流メディアの壺記事をホッテントリにしてる。
俺が高市なら統一教会や裏金の話をし続けてくれるのは大歓迎だよ。だって既にそれは選挙に影響大きくないってわかってんだから!
そこを叩き続けて反自民の行動力をそこに向けてくれてたらありがたくってしょうがないの!スパイに「そういう方向へ誘導しろ」って指事してても驚かないわ。
あとは経済政策。明らかに三流の学者をブレーンにして間違った施策を打ちつつある。
そこへの視線がなく
千年一日のごとく壺が~裏金が~なんていつまでもやってるやつら
貴重で有限な批判エネルギーを効かないとこにぶつけてしまったお前ら
この重大な勝負どころでバカサヨクみたいなマニュフェスト増やして
参政党の怪しさが耐えきれなくなって流れる中堂保守層を掴めないぐらい左に行った。
バカだねー。
都内の歴史スポットを周るバスツアー(20〜30代女性限定)に参加して、なんやかんやと楽しく旅行をしていたら、最後のスポットでバスに50〜60代のスーツ姿のおじが30人ほどゾロゾロと乗り込んできた
バスの車掌はしれっと「それではこれから最後のスポットに参ります〜その後は皆様自由にお食事を云々」とか言い始めた
うわ〜何だよこれ、女をおじに当てがうためのバスツアーだったのかよ、詐欺じゃん、と思っていたら、後ろに座っていた参加者(なぜか全員知り合いだった)が、「ここで降ります!」と言い出し、女性は全員それに追随
私も慌てて立ち上がって最後に降りようとしたら、列に並んでいる時、座席に座っているおじが「固いこと言うなよ〜」と小声で言いながら横乳をつついてきた
振り返っておじの顔を見ると素知らぬふり
と車掌に言うが、車掌は「いや⋯⋯どうでしょう」としどろもどろ
埒が明かないのでおじを引っ立て、「警察行きましょう、一緒に降りてください!!」と無理矢理降りさせた
都内のターミナル駅の近くっぽい感じだったので、駅前まで行けば交番があるだろうと思い、おじの腕をぎっちりと掴んで歩き始めたが、通行人からの視線が痛い
じゃあもう誤解もされず、絶対逃げられない状態で移動しようと思い、おじの腹に手を突っ込んで腸を引きずり出し、腸をリードのように掴んで交番を探すことにした
交番はなかなか見つからないが、道の途中に知り合いがいて、駅の方角を教えてくれた
長時間歩きすぎておじの腸はどんどんダルダルになり、萎びたような感触になっていく
早く着かないとこのおっさん死ぬなと思いつつ、歩道橋を登りながら「なんであんな真似したんですか?」と問い詰めると、おじはもじもじしながら「あの〜、僕、お祖母ちゃん子でしてね⋯⋯」と語りだし、母性に飢えていたみたいな話を始めるのであった
「あ〜!??何なんだよ!!さっきまでふてぶてしいジジイだったくせに、かわいそぶって赤ちゃんみたいな顔しやがってよ!!ふざけてんのか!?死ね!!」
と罵倒してるところで目が覚めた
寝ている間ずっと強く歯ぎしりをしていたらしく、奥歯が妙に浮いている
ちなみに先日こんな増田(夢ではなく現実におじにセクハラされた話)を書いた