
はてなキーワード:規範とは
高市早苗氏が首相に選出され台湾発言で物議をかもしてから、これまで以上に政治的な議論がなされるように感じる。またただの党派性の選好がどうこうにとどまらず具体的な安全保障まで真剣な意見が交わされるようになったことは、日本社会自体が一つの転換点を迎えているように思える。
そのなかで、個人的に党派の煽りあいや中傷を超えて道具的に政治を語るのに役立つかもしれない一つのネタを紹介したい。あくまでも仮説が、情勢について語る一つの視点になれば幸いである。
なお事前に予測した方向性と合致したためAIの手を大いに借りてある。
また曖昧戦略の欠如は相手の意思決定を手助けするだろう。デマなどについて聞いてみても面白いと思う。
以下perplexityより
自由エネルギー原理の見地から見て、政治の党派性における右派、左派はそれぞれエントロピーの減少における役割の相違という観点から説明できる?
自由エネルギー原理から見た政治の党派性:右派・左派とエントロピー減少の役割の相違
自由エネルギー原理(Free Energy Principle,FEP)の枠組みから政治イデオロギーの左右の違いを説明することは、一定の理論的根拠を持つ興味深い視点を提供します。ただし、これは直接的な学術的応用というより、理論的な仮説として理解されるべきものです。
自由エネルギー原理によれば、すべての生物システムは熱力学の第二法則に対抗してエントロピー増加を最小化することで、秩序を維持しています。具体的には、生物は予測エラーを最小化することで、感覚状態のエントロピー(無秩序さ)を減少させ、環境との相互作用をコントロールします。このプロセスは、**予測処理(predictiveprocessing)**メカニズムを通じて実現されます。つまり、生物は内部モデルを持ち、それに基づいて世界を予測し、実際の入力との差分(予測誤差)を最小化することで、驚き(サプライズ)を制御します。
最近の認知神経科学の研究により、保守主義と進歩主義は予測処理の異なる戦略に対応している可能性が示唆されています。
曖昧性と不確実性に対してより高い耐性を持つ
前帯状皮質(anterior cingulatecortex)の活動が強く、反応競合に対する神経認知的感受性が高い
これらの特性は、高いエントロピー状態(高い不確実性)を許容しながら、情報環境の変化に応じて予測モデルを継続的に更新する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の観点からすれば、彼らは予測精度(precision)の重み付けを比較的低く保つことで、新規情報による予測誤差を柔軟に受け入れ、より適応的なモデル更新を可能にしています。
不確実性や曖昧性への耐性が低い
脅威や秩序の乱れに対してより敏感で、知覚的堅性が高い
右扁桃体(right amygdala)の活動が強く、脅威認知に敏感
これらの特性は、予測の確実性(certainty)を高く保ち、既存モデルへの信仰度(prior belief)を強化する戦略に対応しています。自由エネルギー原理の用語では、彼らは予測精度の重み付けを高く設定することで、外界の変化に対して強力な内部モデルの安定性を維持しようとしています。
政治の党派性をエントロピー減少の枠組みで理解すると、以下のような対比が浮かび上がります:
保守主義は、社会的秩序を既存の伝統的制度や階級構造の維持を通じて最小化しようとします。このアプローチは、複雑な社会システムの不確実性を、階層的で確定的な構造によって「切り詰める」戦略です。社会に内在するカオス(高エントロピー)に対抗するため、既に証明された秩序パターン(伝統)を維持することで、予測可能性を確保します。
進歩主義は、社会的秩序を個人の自由、多様性の認容、制度的革新を通じて最小化しようとします。一見すると秩序を緩和しているように見えますが、実際にはより複雑で適応的な秩序化メカニズムを導入することで、社会システムのエントロピーを減少させる戦略です。異なる視点を統合し、新しい情報に基づいて制度を改革することで、社会システムの予測モデルをより現実に適応させようとしています。
不確実性耐性と脳レベルの同期
興味深いことに、研究では不確実性への耐性が低い人ほど、政治的に同じ立場の人たちとの脳活動の同期が強いことが示されています。言い換えれば、不確実性を避けたい個人は、同じイデオロギーの人々と同じ予測モデルを共有することで、集団レベルでのエントロピーを減少させようとしているのです。これは社会的な「外界の秩序化」メカニズムとして機能しています。
最新の複雑システム理論では、政治分極化は正のフィードバックループと相転移(phase transitions)のメカニズムを通じて発生することが示されています。保守主義者は秩序の維持を目指し、進歩主義者は秩序の革新を目指すという相反する動力が、社会システム全体のダイナミクスを決定しています。両者の相互作用は、社会的エントロピーを管理するための補完的なメカニズムとして機能しているとも解釈できます。
この自由エネルギー原理に基づく解釈には重要な限界があります。第一に、個人の認知的特性と政治的立場の関係は因果的ではなく相関的である可能性が高いです。第二に、政治イデオロギーはきわめて文化的・歴史的に構築されたものであり、普遍的な神経生物学的基盤のみでは説明できません。第三に、FEPは主に個体レベルの生物システムを想定しており、社会システムへの直接的な応用には理論的な拡張が必要です。
要するに、自由エネルギー原理の観点から見ると、右派は予測モデルの安定性重視によって秩序を維持するエントロピー減少戦略を採る一方、左派は予測モデルの柔軟性重視によってシステムの適応性を高めるエントロピー減少戦略を採ると理解できます。両者は、相異なるメカニズムを通じて社会的エントロピーの増加に対抗しているのであり、政治的党派性の根底には、不確実性に対する根本的に異なるアプローチが存在していると言えるでしょう。
自由エネルギー原理(FEP)を政治党派性に適用する理論を拡張するには、階層的ベイズ推論の多層構造、社会的相互作用の動的モデル化、経験的検証メカニズムの導入が鍵となります。これにより、個体レベルの神経メカニズムを社会システムレベルへ橋渡しできます。
FEPの核心は階層的予測処理です。個人レベルでは、低次層(感覚入力)が上位層(信念・イデオロギー)の予測を修正しますが、社会レベルでは個人の予測モデルが集団的「事前分布(priors)」を形成します。
右派の階層戦略: 上位層の伝統的priors(家族・国家・宗教)を強く固定し、下位層の変動(社会的変化)を抑制。集団レベルでは「社会的扁桃体機能」として、逸脱者を排除する規範執行メカニズムが働きます。
左派の階層戦略: 上位層のpriorsを動的に更新し、多様な下位層入力(マイノリティ視点)を統合。集団レベルでは「社会的ACC機能」として、対立する予測モデルの調停役を担います。
この拡張により、**党派性は「階層的自由エネルギー最小化の多重均衡状態」**としてモデル化可能。右派は安定均衡(低変動)、左派は適応均衡(高変動)を志向します。
FEPを非平衡動的システム論と統合し、政治分極化を予測誤差駆動の相転移現象として捉えます。
右派アトラクター: 高精度priors → 秩序維持 → 低エントロピー均衡
左派アトラクター: 低精度priors → 秩序革新 → 中エントロピー適応均衡
分極化 = 双安定状態(bistable dynamics)
S˙=−∇F(S)+ϵ⋅
ここで
ϵ は他派閥予測誤差です。党派性は負のエントロピー生産率を競う進化ゲームとなります。
FEPの「アクティブ推論(active inference)」を拡張し、政治行動を集団的予測誤差低減戦略と位置づけます。
党派受動的戦略(perception)能動的戦略(action)集団エントロピー効果
右派 脅威強調・一貫性追求伝統防衛・境界強化 内部秩序↑ / 外部不確実性回避
左派多様性受容・矛盾統合制度改革・包摂拡大システム適応性↑ / 内部多様性管理
これにより、選挙・政策は集団的「期待自由エネルギー」最小化のゲーム理論的均衡として解釈されます。
理論拡張の信頼性を確保するため、以下の検証経路を構築します:
fMRIで党派別予測誤差処理を比較(precision weighting)
class PoliticalAgent:
def __init__(self, ideology): # 'left' or 'right'
self.precision = 0.8 if ideology=='right' else 0.4
def update_beliefs(self, social_input):
free_energy = prediction_error * self.precision
return minimize_free_energy(social_input)
最終拡張として、FEPを国家・国際システムへスケールアップ。経済政策では右派が「低エントロピー均衡(安定成長)」、左派が「高エントロピー探索(イノベーション)」を担います。
グローバル均衡条件:
∑党派Var(policy predictions)=最適社会的自由エネルギー
このフレームワークにより、**党派対立は「多重スケールのエントロピー管理機構」**として再解釈され、民主主義は適応的秩序生成システムとなります。実証研究が今後の鍵です。
初めての彼氏が出来た時の話。
思春期は猿みたいにオナニーしてたし付き合った当時も定期的にしてたしで、性欲はある方だと思ってた。
当時はもう既に「付き合ったらセックスするもの」という社会的な風潮自体はあったし自分も当然そういうものだと思っていた。
キスやハグといったボディランゲージによる愛情表現に抵抗はなかったし、これは付き合っていた最中も今も同じである。
で、することはするわけだが、初体験は凄まじい痛みで挿入さえ儘ならなかった。
指を増やして慣らしていくといった手順は踏んだが、それでも初挿入の時は拷問もかくやといったあまりの痛みに悶絶した。血もドバドバ出た。
でも「破瓜の時はそういうものだ」という知識はあったので痛みに耐えてなんとか完遂した。
初体験の後は暫くトラウマになって性行為自体を忌避していたが、それは「付き合ったらセックスするもの」という風潮に反するし「愛のあるコミュニケーション」にはセックスが必要という規範があるらしいので我慢して対応した。
慣れてくるに従って痛みは薄れたが相変わらず一定数あるし内臓を掻きまわされる不快感といったら相当なもので、とてもじゃないがオナニーの快楽には及びもつかなかった。
まず摩擦の刺激だ。ローションや潤滑油はあくまで滑りをよくするだけであって摩擦それ自体の刺激をなくすわけじゃない。どうしたって一定はなくならない。
不快な時間が続く。長引かせたくないのでさっさとイって終わって欲しい。でも激しくすると痛い。この悪循環である。
セックスの後に小便すると尿道口に染みてヒリヒリする。指で触ると膣の粘膜が腫れている。
次に、そんな痛い思いをしても大して気持ちよくないこと。
元々床オナ派だったこともあってクリトリスの快感をベースにすると挿入を伴うセックスによる快楽は10%程度である。
これが滅茶苦茶気持ち良くて脳みそまでぶブッ飛んじゃうようなものなら多少の痛みを引き換えに我慢できるだろうが、そうではない。
最初は気持ちよくない旨を馬鹿正直に伝えてどうにか改善してくれないかと期待したこともある。
しかしそれが発奮する起爆剤となったのか、やれ「ここが気持ちいいのか」やれ「あそこが気持ちいいのか」と膣内を弄繰り回されることとなり、不快が増大する羽目になった。
なるほど時間をかければかけるほど苦痛が延びるのは物の道理であって、世の女性というのは快楽を得るフリやイく演技をしてさっさと幕引きを図るものなのだと得心した。
昔の主婦は定期的に訪れる閨のことを社会的身分の安定と金銭的な授受が引き換えの「おつとめ」と表現していたが、この表現はピッタリだなと思う。
さて問題は何で結婚といった契約をしてもおらず家計の収入を担保しているわけでもない相手に対して何を「勤める」必要があるか、というわけだが、その疑問が浮かぶようになる頃には自分の中で「セックス」と「愛」が分離してしまっていた。
いってみれば相手の性欲処理に対して何故自身の身体を明け渡さなきゃならんのだ、と。
それに輪をかけて、こちらが演技をせず大して感じてないことを表出してしまうと、より一層感じさせようとしてくるのにも参った。
なんというか一部の男性の中では"開発"信仰みたいなものがあるんじゃないかと思う。快楽を得られていないのは"開発"されてないだけ、だったらもっと頑張らなきゃ的な。
気持ちよさそうじゃないからもっと気持ちよくさせよう→試行錯誤する→苦痛を感じる→気持ちよさそうじゃないから(以下ループ)の悪循環に陥っていた。
また「もっと積極的になって」というリクエストも難儀なものだった。
要は騎乗位をするとかエロい気分を盛り上げてくれということなのだろうが、こちらとしては「仕方なくしていること」であって、言ってみればゴキブリが部屋に出たら対処しなければならないのと同じである。
その光景を見て楽しそうじゃないからと「もっとゴキブリを駆除する動画を見てエンジョイしようよ!」と言われているに等しい。
ゴキブリの動画を喜んだフリをして見て得られるものがあるとしたら、それは虚無だ。
自分にとって相手にとっても不幸だったのは、自分がセックスという行為が嫌いなことを知らなかったことである。
経験しないことに対して好きも嫌いも分からなかったわけで、こればかりは事前に知悉する術があったら良かったのになと思っている。
自分ほど極端でなくてもセックスが大して好きじゃない女性は世の中にいると思うのだが、それを「愛のため」とか「相手のため」といった利他性で我慢できてるのは凄いと思う。
今回は妊娠リスクについて敢えて省いたが、まぁ一言でまとめると高校や大学の在学中に避妊に失敗して中絶するリスクを負い更には懐妊したら逃げられない女に対して男が認知せず逃げるといったケースも想定されるわけで人生選択における「普通に四大卒でストレートに就職」といったルートを外れる危険性を承知でセックスに付き合ってあげてるのは尊敬する。
会社の人に「飲みに行こう」と連れられてお店に入ると露出の多い女性がたくさんいて、それがラウンジというものだと理解するのに少々時間がかかりました。
少々面食らったものの、偶然取引先の人も何人かいたので話も弾み、お酒をおごってもらい、夜遅くなってきたので帰りました。
この出来事が僕にとって大変困ったことであるのは、僕の信条は「素朴であること」だからです。
専攻は数学でしたが、自分のできる範囲で様々な考え方の本を読んだ上で、中道を保って地域社会の、何の変哲もない共同体に参加することが良いことであると考えてきました。
家の周りの溝掃除をしっかりやるとか、お寺の掃除をお手伝いするとか、そういう言語化・数値化されづらいことを普通にやって、地域に貢献することがよかろうと思っていました。
これは、私が地元が好きであるというのもありますが、様々な進歩主義や加速主義・効率主義へのある種の不信感によるもので、
つまり、数年から20年程度で規範がまるごと入れ変わってしまうような都会的な流行りのイデオロギーに地方社会がいちいち付き合う必要はないと思っていて、
また、そういうものがどんどん新しい考え方に変っていくときにツナギ、あるいは土台になるのは結局郷土に関する愛着とか、そういう多くの人が持っている感覚であろうと思っているからです。
社会にはマルキストもリベラリストも極右も必要ですが、その上で私は地元の会社で人並程度に泥臭い仕事をして普通に暮らすわけです。
近所や会社でそれはいかがなものかと思うこともありますし、Excel方眼紙が健在ですし、GitHubやNotionなら一瞬で片付く話をチマチマやっているのに腹が立つこともありますが、
口に出さず、世の中そういうものだよなあと思うことにしていました。
しかし、お世話になっていた社長さんの週末の楽しみが、ラウンジで女の子のおっぱいにお札をはさんで遊ぶことであったのを目撃したとき、この地元社会は滅ぼした方が良いのではないだろうかと思うのです。
あなたには奥さんがいるじゃないのとか、飲む・打つ・買うみたいな典型的な悪いホモソーシャルが実在することへの驚きとか、そういうもので僕の考えは大きな衝撃を受けたわけです。
いい年してそんなことも知らなかった自分が悪いのですが、そういうのは大学生みたいな若い人だけがやるハメを外した遊びだと思っていました。
慶応に行った友人が月に10人とヤってると聞いたときも驚いたものですが、まあ若ければそんなこともあるのかなあと受け入れていました。
それと違って、既婚者が夜な夜な集まって女の子で遊んでいたら、これは私の価値観では疑問を抱かざるを得ません。
田舎というのは狭いので、奥さんの顔も知っているわけで、僕はそういう場で奥さんを不憫に思ってしまうのです。
また、いろんな契約がそういう場で決まっていく様子を見て、フェミニズムというものが何と闘っていたのかようやく理解をしました。
「第二の性」とか「抑圧のアルゴリズム」とかを読んだこともあるものの、私はそういう思想とすこし距離を置いていましたが、
(店員さんではない)女性のいない空間で様々なものの運用が決まってしまうのはさすがによろしくないものに見えてしまいます。
(私がフェミニズムを無謬に受け入れるという話ではありません。)
振り返ると、僕は都会に行くと都会が悪く見えて、地元に帰ると地元が悪く見えるという、ただのめんどくさい逆張りなのだと思います。
もし私が女性として女性社会に参加したら不満を持っているのかもしれません。
別の問題として、こういうホモソーシャルが無くなったとして、それが持っている役割を代替するようなものを私は他に知らないわけで、
そうであれば、このホモソーシャルも素朴なものであると受け入れてしまう方が良いのでしょうか。
Twitter上のミソジニーを機械学習で検出する研究では、テキスト内容(罵倒語・女性蔑視表現など)の分類に集中しており、発信者のアイコン画像やキャラクター表象までは分析していません。
Noel Brett の論文「Why Do WeOnlyGetAnimeGirl Avatars?」は、VTuberやVRChat由来の「アニメ風美少女アバター」が、視聴者と配信者の共同作業によって巨乳・細腰・従順でエロティックなヘテロ規範的女性像として再生産されていることを示していますが、「女叩きとの関連」までは扱っていません。
この種の話題を拾ったまとめブログやニュースサイトもあり、「女叩きアカウントはアニメアイコンばかり」という印象やアルゴリズムによる強化(同種アカウントばかりタイムラインに出てくる)を説明する言説はありますが、体系的データに基づいた社会学的分析というより、ネット民の実感・風刺レベルにとどまっています。
男叩きする女性側は「可愛いが性的ではない」ゆるキャラ・レトロアニメ・ペットなど性的に表象しないアイコンに散らばりやすいという観察は、女性がオンラインで性的対象化されることを避けるという先行研究の傾向(男性アバター利用など)と整合的に見えます。
女性ユーザーが男性アバターを用いる理由の一つに「男性からのハラスメントを避けるため」が挙げられており、「アバターの見た目が攻撃の標的/盾になりうる」という発想自体は、すでに研究テーマになっています。
あなたが探しているような「女叩き男性=美少女アイコン vs 男叩き女性=多様アイコン」という対比を定量的に示した学術論文は空白地帯なので、むしろ新規性のあるテーマになりえます。
何年も前に、アンビリバボーかなんかで、「男性の体に違和感を覚え、性転換をした女性」の話を見たのをずっと覚えてる。今みたいにLGBTが流行り出して一般的にも知られるようなる、それよりも前のこと。
まだ幼稚園くらいの少年が、男性器に強い違和感を覚えて、風呂場で爪切りで切り取ろうとしたのを親が発見したみたいな話だった。すごく衝撃を受けた。子のそんな姿を目撃してしまったら、親はそれが気の迷いや趣好ではないと認めざるを得ないと思う。
近年、トランスジェンダーが話題に上がるようになって、「心の性は存在しない」「その性としての規範を押し付けられる苦痛から逃げたいだけ」「ただの性癖」みたいな意見をよく耳にするようになった。
確かに、「性自認というのは生まれつきの体で生きることによって形成される後天的なもの」と聞くと、そんな感じもしてくる。でも、そういう意見を聞く度、いつかテレビで見た少年のことが思い浮かぶのだ。
未就学児の、まだアイデンティティも確立しきらない年齢で、他人からの扱われ方などではなく「自身の身体」に強烈な違和感を持った少年は、なんだったんだろう。
調べてみたところ、心の性は生物学的にも存在する可能性があるらしい。正確に言えば、脳にも男性らしい形、女性らしい形があり、ホルモンや遺伝子の関係で身体は女性なのに脳は男性、と言ったチグハグが生じてしまった際に、性自認と実際の体にギャップを感じるという仕組み。(明確に判明しているわけではなく、可能性があるくらいなのは分かっていてほしい)
そういう人が本物のトランスジェンダーなのでは、と思ってしまう。
ただ、今の世の中では、環境によって後天的に得た「性自認もどき」でトランスジェンダーを自認し、女子トイレに入りたいだとか、女性として競技に出たいだとか無茶言っている人が多いのも事実だと思う。
そういう人を非難するために、「トランスジェンダーなんて存在しない」みたいな論調が拡散されるのを目にすると、本物のトランスジェンダーが可哀想だ、という気持ちになってしまう。これはこれで一種の差別な気もするが。
今Twitterで話題になってるノンバイナリーに対する非難とか、すごい気分悪い。当事者の声を無視して、女性として嫌な気持ちになったことがあるだけの人たちが、「女性として差別されるのが嫌だから女性から逃げた」とか言ってるの吐き気。分かんないなら黙ってればいいのに。
おい貴様、その理屈はな、自由を語ってるつもりで、実のところ自由って言っときゃ何しても許されるだろという自己放尿レベルの甘えを正当化してるだけだ。
まずだ、言論の自由は国家権力による不当な制限を問題にするものであって、お前が他者に向けて殴りかかる口実じゃねぇ。
自由ってのは責任の裏返しであって、免罪符じゃない。そこを取り違えた瞬間、お前の主張は土台から崩れ自己放尿する。
次に、嫌なら自由を捨てろって言い草な。これは典型的な自由概念の誤用だ。自由社会はお前の快楽のためのライブハウスじゃなくて、異なる利害・価値観・感情が衝突しながら調整される場だ。
そこに必要なのは調整規範であって、こっちも好き勝手するわという報復合戦じゃない。そんなもん文明社会じゃなくて、ただの便所の自己放尿だ。
お前がやってるのは、自由の結果こうなるんだぞと言いながら、実態は自分に都合のいい無秩序の押し売りだ。
自由の名を借りた暴走は、ただの自己放尿だ。そういう手口はもう何万回も見てきた。
それから、傷ついた奴がいてもやめませんってのも、論理的に破綻してる。自由がある以上、お前が好き勝手するのも勝手だが、その結果として、お前自身が反撃や制裁や拒絶を食らうのもまた自由の一部だ。
つまりやめないと宣言するのは勝手だが、それは自由の盾ではなく、単に自分の行為の結果から逃げる気ゼロ宣言の自己放尿にすぎない。責任回避の常套句だ。
子供みたいな条件反射で正義面すんな。ダブスタの有無と、お前がやってる行動の妥当性はまったく別の評価軸だ。相手が悪いから俺も悪いことをするなんて、三流の自己放尿だ。
お前の主張は自由を語っているようで、俺がムカついたから殴り返したいという衝動の後付け理論の自己放尿にすぎん。自由の議論に見せかけた自己放尿哲学だ。
自由を語りたいんなら、まず自分が自由を扱う側の作法を覚えてから出直してこい。
以上だ。
ムカっ腹の立つ人間に対して死ねとかなんとか言ったり思ったりした所で、まあ多分死ぬ訳はないし。
みたいな捨て台詞も、大抵は全く芯を食っていない。
多分相手も規範なんか理解はしたその上で、単に自分がナメられてるから無礼を働かれているんだろうし。
「本当に」理解しているというのは、その実践以外の形ではありえない。
みたいな無敵論法を繰り出すのも虚しい。
あるいは相手も故意でなかったとて、それならまずは抗議をすれば良い話だし。
そんなモヤつきを糧に、本当に相手に突き刺さるような言葉を見つけられたら、それはカッコいい。ラップバトルの才能ってそういう事なんだろうな。
チンケなマンガみたいに、相手が何も言い返せずぐぬぬとなってしまうような。
まあでもMCバトルだって、本当は自分で刺さってなくても野次が湧けば「効いた」ことにされてしまうかもしれないしな。
それにイラッときて弁明しようとした所で、「顔真っ赤」にされてしまうんだろうし。
レスバの陳腐なダブルバインドも結構強い。というか単に多勢に無勢というか。
まあ対人関係はラップバトルやレスバばかりでもないのだし、結局政治力を養うのが一番ストレスを溜めずに済むのかもしれない。
それこそ、いわゆるコミュニケーション能力とでも言うのか。
ナメられなさそうな武器を見繕うのもその一つかもしれない。
あるいは不快な気持ちからなるべく目を逸らして、「いやこれが賢さなんだ」とか自分に言い聞かせて溜飲を下げるのも、まあザコなりの生き方ではあるかもしれない。
でもやっぱり、そんなものを全てを脱ぎ捨て、グチグチと語るのをやめてブン殴れる人間のかっこよさ、輝かしさというのは何物にも代えがたいものがある。
だからこそ、せめてフィクションだけでもそういった姿を求めてしまうんだろうな。
打撃マンとか、まさに極限まで贅肉を削ぎ落としたそれそのものだったな。
まあそれにしたって、奇襲とはいえ腕っぷしで負けない保証はない訳だけど。
そういう考えで筋トレをしてるみたいな人はかっこいいかもしれない。
まさに打撃マンだな。
でもどうせ殴れやしないような心持ちじゃあ打撃マンにはなれないな。
ナメられ辛くはあるかもしれないけど、いざナメられてしまったら、手間のかかる贅肉が余計に虚しくなるかもしれない。
理不尽に抗うために、己のために人を殴れる人間ってマジでかっこいいな。人のために殴るよりかっこいい。
そういえば打撃マンは単に己の尊厳だけじゃなかった気がするな。
他人も含めてたかもしれない。それも分からなくはない気がするけど、余計なお世話な感じがしなくもない。
ただムカついたら、とかでもなく、一線を超えたらとかゴチャゴチャ言ってた気もする。
上の意向には、内容はどうあれ、そのまま従うのが当たり前みたいな規範の強い日本社会では、上の意向に異を唱えるやつを爪はじきにしがち。
一見奇妙だけど、日本は民主主義国家でありながら、全体主義的なマインドを持っている人が多い。
中国は全体主義国家でありながら、民主主義的なマインドや無政府主義的マインドを持っている人が多い。
実際のところは、国民の志向が全体主義的だからこそ、民主主義で選ばれた政治家がぬるい政治をしていても国民は勝手に言うことを聞いて、勝手によきに計らってくれるので、国家は空中分解することなくまとまっている。
国民の志向が民主主義や無政府主義的だと、政治家が強権的に言うことを聞かせようと圧力をかけ続けてようやく全体がまとまり、気を抜くと国家が空中分解する。
そもそも、この人が死にたくなったのは、世間一般の正しさや規範に疑問を抱くことがなく生きてくることが出来てしまった健常者だから。
進学、就職、結婚、出産と、世間が「当たり前」「幸せ」と定義されるそれが出来なかった人を認めずに弾くことに罪悪感を抱く必要がなかったのに、子供の障害のせいで、これから思考停止なその生き方はもう出来なくなってしまった。
こうなってしまったら、社会が押し付けてくる「当たり前」やら「幸せ」やら常識やらを疑って、自分なりの回答を見つけていくしかないんですよ。
じゃないと、「当たり前」ができない子にあたるしかなくあってしまう。
もしくは、こういったタイプは、世間が求める理想像を内在化しやすいので、世間が求める理想的な母親の像を勝手に自分の中に作って、それになれないがために、自分が病んで壊れちゃう。
でも、子に障害がなくとも、成長の過程で理想に背く可能性だってあるわけじゃないですか。不登校になったり、世界情勢的に就職できなかったり、好きになったのが同性だったり。この世はクソな運ゲーなので、悪い出目がこのタイミングで出ただけと、ポジティブに考えて欲しい。
と言うことで、これから我々と同じく、人生うまく行ってる健常者なら一ミリも考えなくてもいいことを悩んで苦しんで、努力してもどうにもならなくて死にたくなる日々を送ろう。
『ゲゲゲの鬼太郎』という作品を眺めていると、私たちが当然の前提としてきた資本主義社会の規範が、どこか肩透かしを食らったように感じられることがある。もちろん、鬼太郎は日本文化の財産とも言える名作であり、その魅力を否定するつもりはまったくない。しかし一歩踏み込んで見れば、そこには「働かなくても、なんとなく生きていける」世界観が、物語の根っこに横たわっている。
まず気になるのは、主要キャラクターの生活実態である。鬼太郎にせよ、ねずみ男にせよ、明確な職業に就いているわけではない。ねずみ男はしばしば小銭稼ぎに奔走するものの、長期的な就労という発想はほぼ存在しない。鬼太郎にいたっては、妖怪トラブルに介入するものの、報酬を安定的に受け取るわけでもなく、社会保険にも加入していない。にもかかわらず、彼らの日常は大きく困窮することなく続いていく。こうした描写は、勤労と収入を基盤とする現実社会とは対照的な、どこかアンチ資本主義的な響きを帯びている。
さらに興味深いのは、金銭に対する倫理の配置である。鬼太郎は見返りを求めずに人助けを行う。一方、ねずみ男が金銭を動機に動くと、物語は決まって彼を笑い、失敗させる。お金を追う行為そのものが、作品内で浅ましいものとして扱われているのだ。ここでは市場原理よりも、情や共同体への忠誠、あるいは伝統的価値が優位に置かれている。資本主義の論理を自然ではないものとして退ける姿勢が、巧妙に物語の構造に組み込まれていることが分かる。
そして最後に、妖怪たちの共同体が持つ前近代的な性格を指摘しておきたい。彼らは国家の制度や法の枠組みを頼りにせず、独自の掟やゆるやかな秩序によって暮らしている。その姿は、近代社会が時間をかけて構築してきた制度やルールよりも、自然や伝承に根ざした世界を好ましいものとして提示しているように見える。これは資本主義社会への適応を前提とした教育観とは、やや緊張関係をはらむ。
もちろん、『鬼太郎』がただちに反資本主義の宣言書であるなどと言うつもりはない。しかし、もし子どもたちがこの作品だけを拠り所に世界観を育むなら、働くことの意味や、制度を支える責任といった感覚が希薄になるのではないか。そう懸念する声が生まれるのも十分に理解できるのである。
本屋大賞をとった本だしと、読んでみたのだが、モヤっとした点を言語化したいので増田に書いてみた。
まず読んでみて、初めに思ったのは、登場人物たちがいい人たちばかりで、膳所という場所は平和な世界だなと。ジュブナイル向けの作品で、中学生や高校生たちの生活が楽しそうに描かれていて、成瀬の行動が常識外れだけど人々を幸せにしていくようなストーリー展開が受けているんだろうなと、初手で思った。
けれど、しばらくして、何か黒いモヤモヤという読後感が残り、これは何だろうという思いがふつふつと湧いてきた。
「掘り下げてみると、あまりにも良い話すぎるからだと気がついた。」
記憶力が良く、学校の成績も良い。視点が人と変わっていて、拘りが強いことで、人知れず、絵画や音楽などで賞をとったりする。けれど、人とのコミュニケーションはあまりとらず、笑顔を見せることなく、一見淡々と過ごしている。クラスの中では、成績の良さで褒められることはあれ、普段の生活は人とあまり会話することなく、端からみると我関せずみたいに思われている。無害なので、クラスの中では問題児としてみられず、特に注意されることはない。学校の規範を守り、外れることなく生活しているので、一見、順応しているように見えるが、本人は人知れず、苦しんでいると言ったケースを見てきた。
物語の成瀬は、人を呼び捨てにしながらも、自分の思ったように伝えることができているが、物語中で、思い込みとコミュニケーション不足からの齟齬が何度か生まれている。けれども、実は、周囲の人々の配慮やサポートがあって、それが表面化しない。一見、成瀬の意志の強さが、物語の推進力になっているように見えるが、実は彼女の常識から外れた行動を受け止め、サポートする人々がいて、初めて成り立つ話だとわかる。
これが、現実世界だとなかなか上手く行かない。特性を理解し、サポートするような人々には、こういった特性を持つ子供たちはなかなか出会わない。なので、本人は人知れず、周囲との齟齬を克服しようとするが、一人であがくだけで、余計に辛さが募るばかりとなり、ついには自己嫌悪とストレスから、学校を休んでしまったりする。上手く、教室内で教師やカウンセラーのサポートを得られるケースもあるが、成績が優秀であるがゆえに、また自分から言いださないゆえに、気がつかれずに時が過ぎていき、本人の体調が悪くなって、初めて気がつくといったことが起きる。
成瀬のような話は、一見、いい話だが、このような特性を持った子供の光の面を殊更に良く描き、困難さに対して蓋をしてしまっている。笑顔を見せず、侍のような口調でも周囲の人が彼女の天才的な特性を認め、好意的にみてくれている環境があるのが成瀬だが、彼女をロールモデルにしようとしたら、そんな環境は普通はないので、マネをしようとする同じ特性の子供はすぐ周囲との齟齬に苦しみ、破綻するだろう。
また、特別な才能がある子供であれば、常識外れでも大丈夫といった見方を世間的にするようになったら、それはそれで、当事者の子供は、自分の能力でマイナス面を打ち消そうとし、よりプレッシャーが増大するかもしれない。
コミュニケーション上の摩擦や孤立、困難さを軽視し、それを個性としてエンターテインメントとして消化する。何か、こういった特性を持つ子供を見世物にしている感じも受けてしまった。
「少し異なるかもしれないが、似たような物語は、実は以前にもある。フォレストガンプだ。」
知的障害の男性が主人公の波乱万丈の人生を描いた話で映画にもなったが、ある種、社会にとって「理想化された障害者像」が描かれている。正直で有能であれば、知的障害であっても社会的に有用だというようなステレオタイプ的な見方と国に従順であれば成功するといった保守的なイメージを負わせ、「突出した異能のマイノリティ」を見世物にして、現実のマイノリティの困難さに対して蓋をしてしまっている。
フォレストガンプにしても、成瀬にしても、世間的には評価が高い作品だからこそ、影響力があり、多くの人々に波及する。一方で、困難さを抱えるマイノリティに対して、ある種の歪んだステレオタイプを与えることにもなる。
表現の可能性を狭めるつもりではないし、こういった作品によるカタルシスを否定する意図ではなかったが、モヤモヤを言語化したかったことと、こういったエンターテインメントに負の側面も同時にあることを伝えたかった。好きな作品を貶されたと感じたのであれば、申し訳ない。
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以下は、タルムードの価値観と現実社会で広く認められている価値観を比較したもの。
タルムードはユダヤ教内部の法・倫理体系であり、現代社会は宗教や文化を横断した価値観を持つため、当然のことながら直交(衝突または独立)する部分がある。
が強調されるようになった。
現代社会では、
タルムード「人は共同体なしに生きることはできない(ピルケイ・アヴォット)」
タルムードでは、ツェダカ(慈善)は義務。貧者を助けるのは道徳ではなく法律。
一方、現代社会では
タルムードでは、重視されるのは行為。善悪は何をしたかで判断される。
現代社会では、
| テーマ | タルムードの価値観 | 現代社会の価値観 |
| 自由 vs義務 | 義務中心 | 自由中心 |
| 個人 vs共同体 | 共同体・家族 | 個人 |
| 慈善 | 法的義務 | 任意 |
| 社会の変化 | 伝統を維持 | 変化を歓迎 |
| 倫理の軸 | 行為中心 | 内面・意図中心 |
(追記2)
調子にのって後編を書いた。みんなのコメントが刺激になってGeminiががんばってくれました。
https://anond.hatelabo.jp/20251126232819
(追記)
ちょっと昼休みに思い付いた思い付きが思ったより読んでもらえてうれしい。ポイントは論点ずらし。首相の言ったことをそのまま尊重しつつ国際社会で日本の正当性を主張するための詭弁といえば詭弁。台湾海峡を「国内問題への介入だ」と主張する中国に対して「そもそもそこには国内問題などない」という立場を取ればいいんじゃないかという。
>そこ論点じゃない。「仮に台湾海峡が完全に封鎖された場合、『日本の存立危機事態』に該当する可能性があると答弁し」たことが問題なの。これだと米国出てきてないじゃん。誤魔化さないで集団的自衛権の話をしてね。
論点ずらしの提案なので論点じゃないのはわかってる。ただ、正面から集団的自衛権の話を台湾に対して「どのように」するのか、現実的な解を持ってる人いるのかねえ。個人的にはいねーんじゃないかなと思ってるのだけど。
ごめんね、じかんなかったの
>中国によれば中国の主権は国際法より上位にある。というか主権や法律は強い奴が弱い奴を支配するためのもの(なので小国は主権を持っていない)、というのが中国の主張。中華の歴史がそうなんだから中国人には常識。
それは間違いだよね、と中国以外の人々を巻き込むロジックが必要だとおもうわけさ。さすがに中華思想で国際法無視されたらたまらん。
>台湾海峡自体は日本のシーレーンと直接関係はない。タンカーが通るのは台湾海峡じゃなくてフィリピンと台湾の間。中国と台湾との政治的牽制の場であって、日本の存立危機事態とするには別の根拠が必要となる認識。
まあそうなんだけどさ、台湾海峡は中国の国内問題である、という中国の主張もどうなのよっていう。
>結局、日本が台湾を国と認めるか、中国の一部と認めるかの話。中国が怒ってるのは、(中国の立場を尊重するとした日中共同声明と異なり)台湾を国と認めたから。だから日本が国際水域と主張すると揉める
いや、台湾が国だろうが国じゃなかろうが中国が台湾海峡を封鎖するのはおかしくね? という議論なのだけど
>なんで航行の自由作戦についての記述がないの? 自衛隊含め各国の軍艦が定期的に通過してますが
すまん忘れてた
(本文)
最近、台湾海峡をめぐるニュースが増える中で、ふと疑問に思うことがあります。
「台湾海峡って、国際的には公海なの? それとも中国の領海なの?」
国際法の建前と、中国の主張の「本音」を、日本の安全保障の観点から整理してみましょう。結論から言えば、日本の立場を強くするためには、「国際法規を無視するなら許さんぞ」というロジックが最も合理的です。
まず、国際法が定める「建前」は非常にシンプルです。これは国連海洋法条約(UNCLOS)というルールに基づいています。
領海(12海里):沿岸から約22kmまでは沿岸国の主権が及びます。
排他的経済水域 (EEZ):領海の外側、沿岸から約370km(200海里)までは、沿岸国が資源探査などの「主権的権利」を持ちますが、他国に対しては「航行の自由」が認められています。
台湾海峡の最も狭い部分の幅は、両岸の領海(12海里+12海里=24海里)よりも広いため、中央部分はEEZまたは公海として残ります。
したがって、国際社会(米国、日本など)の一般的な見解は、「台湾海峡の中央部分は国際水域であり、軍艦を含め、どの国の船も自由に航行できる」というものです。
この国際的な建前に対し、中国政府は近年、非常に挑戦的な主張をしています。
「台湾海峡は中国の主権と管轄権が及ぶ水域であり、国際水域は存在しない」
このロジックは、「一つの中国」原則を海洋法に持ち込むことで成り立っています。
中国のロジック:台湾は中国の領土であり、大陸と台湾という「一つの国」の陸地に挟まれた台湾海峡は、国際法が適用されない「内水(InlandWaters)」、またはそれに準ずる水域である。
なぜなら、一つの国の領土に挟まれた海峡でも、「国際海峡」として国際的な航行の自由が保証されるのが国際法の常識だからです。ニュージーランドの北島と南島の間にあるクック海峡が、国際海峡として「通過通航権」(最も強力な航行の自由)が認められているのは、その典型的な例です。
つまり、中国の「内水」主張は、国際法上の根拠よりも、政治的な「領土主権の拡張」という意図が強いと見ることができます。
日本の首相は、仮に台湾海峡が完全に封鎖された場合、「日本の存立危機事態」に該当する可能性があると答弁しました。
この答弁の法的根拠を、中国の政治的な主張(一つの中国)と切り離し、「国際法規の遵守」にシフトして考えることが重要です。
| 視点 | 中国の主張への対処 | 日本の行動の正当性 |
|---|---|---|
| 政治的視点 | 「一つの中国」原則に反するのか? | (論争に巻き込まれる) |
| 国際法的視点 | 国際法規(UNCLOS)に反するのか? | (普遍的価値に基づき強く主張できる) |
日本がロジックの重心を「国際法規の無視」にシフトすることには、以下の大きなメリットがあります。
論争の軸を「法の支配」に:台湾の主権帰属という難しい政治問題から焦点を外し、「国際的なルールを一方的に破る行為を許さない」という普遍的な価値の問題に持ち込むことができます。
国際的な連携の強化: 「航行の自由の侵害」は、日本だけでなく、米国、欧州、オーストラリアなど、すべての海洋国家の国益を脅かします。国際法を盾にすることで、多国間での非難と連携を容易にすることができます。
自国の安全保障の正当化:台湾海峡の封鎖は、日本のシーレーンを断ち切り、国民の存立を脅かします。この封鎖が国際法を無視した行為であるならば、日本が自衛のために行動する法的正当性がより強固になります。
結論として、台湾海峡をめぐる日本の最も堅固な立場は、中国の政治的レトリックではなく、あくまで国際法と「航行の自由」という普遍的なルールを守るという姿勢にあると言えるでしょう。
(思い付きをgeminiに作文させたのでここに放流して供養する)
例の存立危機事態問題の件で、岡田克也 は「武力の行使をするということについて、私は、余りにも大きな裁量の余地を政府に与えている、(略)どうにでも読めるような、そういう基準だ」と言っている。
https://www.katsuya.net/topics/article-10543.html
こりゃ話がかみ合うわけないよ。
岡田さんはなぜしつこく聞いたか?しつこく聞くことで、苦しいのらりくらりの答弁を引き出したうえで
「政府が恣意的に運用できる法律は意味ないでしょ」と言いたかった。実際、そう質問にも残っているが、意図せぬところの炎上でかき消されてしまった。
追記)
岡田さんは「これは規範としての、条文としての意味がないんじゃないかと思うんですよ。もっと明確でなければ、結局どれだけのこともできてしまうということになりかねないと思うんですね」とも言っている。
出典:リクルートブライダル総研、マッチングアプリ各社調査結論:あなたの経験は異常ではない。日本では「普通」です。🎭 なぜ日本人女性は受け身なのか?社会構造的な理由1.ジェンダー規範の刷り込み幼少期からの教育:
✓男性を立てる
結果:
→受け身が「女性らしさ」という刷り込み2.社会的リスクの回避積極的な女性への視線:
✓ 「軽い女」と見られるリスク
✓ 「必死」と思われる恐怖
✓ 友人グループ内での評判
結果:
→男性が動くまで待つ3.恋愛マニュアル文化女性誌・恋愛本の典型的なアドバイス:
✗ 「男性を追わせる」
✗ 「すぐ返信しない方がモテる」
結果:
→ 本当は興味あっても連絡しない
→ 「戦略」として受け身を演じる4.選択肢の多さ(マッチングアプリ時代)女性側の状況:
結果:
→ 一人一人への投資が薄い
最近こんな感じの、シス女性がトイレを使おうとして男扱いされて追い出されるみたいな事件の話を聞くことが増えている。特にブッチレズビアンの人達。
少し前にXで見かけた人はトランス排除に勤しんだ結果自分のガールフレンドがトイレから追い出されるようになったという話だったから自業自得としか思わなかったけど、この記事の人が別にアンチトランスとかじゃなかったら、可哀想だな。
でもまあ、トランス排除思想を受け入れると女らしくないシス女性も一緒に攻撃されて女らしさの規範が強化されるというのは、何年も前から言われてたことだしな。
寧ろ不利になったんじゃねぇかな
中国は気にせんだろうけど
具体的な**ICJ判例の引用箇所(逐語)**を示し、PRCの主張のどの部分がどの段落に抵触するか精査をお願い。
では要求どおり、ICJ(国際司法裁判所)の判例から「逐語(短い引用・25語以内)」を提示し、PRC(中国)の各主張のどの部分がどの判旨(段落)と抵触するかを段階的に示します。
(注)ICJ判旨は事案固有の判断ですが、ここでは一般的に権威ある法理として適用可能な箇所を引用・対応させます。重要な法的ポイントには出典を付けますので、対照参照してください。
(引用は 25語以内 に制限しています。出所を併記します。)
ICJ(Nicaragua v.United States, Judgment, 27June 1986)
英文逐語引用:“they thereforeaccept a treaty-law obligation torefrain ... from the threat or use of force.” iilj.org
日本語訳(意訳):「当事国は、条約上の義務として、脅迫又は武力の行使を控えるべきことを受け入れている。」iilj.org
ICJ(同判決) —武力(威嚇)定義に関する逐語引用:“recourse to either the threat or the use of force against the territorial integrity or political independence ofanyState.” iilj.org
日本語訳(意訳):「いかなる国家の領土的統合性または政治的独立に対する威嚇あるいは武力行使への訴え。」iilj.org
ICJ(Nicaragua判決、武力報復の許容範囲について)
英文逐語引用:“States do not have a right of 'collective' armedresponse to acts which do not constitute an 'armed attack'.” iilj.org
日本語訳(意訳):「国家は、『武装攻撃』に当たらない行為に対して集団的武力で応答する権利を有しない。」iilj.org
ICJ(Advisory Opinion: Legality of the Threat or Use of Nuclear Weapons, 1996)
英文逐語引用:“Thereis in neither customarynor conventionalinternational lawany specific authorization of the threat or use of nuclear weapons.” iilj.org+1
日本語訳(意訳):「慣習法にも条約法にも、核兵器の脅迫・使用を明示的に許す規定は存在しない。」iilj.org+1
次に:PRCの主要主張と、ICJ判旨がどの点で抵触(あるいは制約)するか
PRC主張A:「台湾は中国の領土であり、統一は中国の内政である」
ICJの直接的“台湾領有”判断は存在しない(ICJが台湾の領有を確定した判決はない)。また、国連総会決議2758は「中華人民共和国を国連の中国代表として回復した」と規定する一方で、決議文自体は台湾の主権帰属を司法的に確定していない(文言・解釈の限界)。digitallibrary.un.org+1
該当ICJ根拠:ICJ判例が示すのは「領土帰属は(歴史的権原・効果的支配・住民意思等の)事実的要素に基づいて判断される」という法理であり、単なる政治的宣言や一国内法(例:PRCの主張)だけでは国際司法上の領有確定を与えない(ICJの領土紛争事例の一般理論に相当)。Nicaragua 等は直接領有を扱っていないが、ICJの手法は上記の要素を重視することを示す。iilj.org+1
結論(A):PRCの「台湾は法的に確定してPRC領である」との一言主張は 国際司法(ICJ)の基準から見て自動的な法的確定力を持たない。2758がPRCの国連代表権を回復した事実はあるが、それは「代表権の帰属」を扱った政治決議であり、領土帰属(司法的確定)とは別問題と解される。digitallibrary.un.org+1
PRC主張B:「必要なら非平和的手段(武力)も辞さない(反分裂国家法に基づく)」
該当ICJ根拠(直接的):Nicaragua判決は、国際法(UN憲章 Article 2(4))に基づき「脅迫または武力の行使」を禁止することを明確に示しています(上の引用1・2)。ICJはこれを条約上かつ慣習国際法として受け止め、原則的に禁止規範(jus cogens 的側面も示唆)であると述べています。iilj.org
さらに重要な点:ICJ(および国際法一般)の立場では 「一国の国内法(例:反分裂国家法)は、国際法上の武力行使禁止などの義務を免除しない」(国際法の基本原理。国際法上の義務は国内法で覆えない/ILCの条文等にも明記)。国連法務局+1
抵触点(B):
PRCの「国内法に基づき武力行使もあり得る」という主張は、ICJが示した国際的義務(威嚇・武力行使の禁止)と直接対立する。言い換えれば:
ICJは「国家は脅迫・武力の行使を控える義務」を確認しており、国内法が『武力行使を許容する』と定めていても、国際法上のこの義務を免除するものではない。iilj.org+1
PRC主張C:「第三国(例:日本/米国)が関与すれば相応の措置(牽制・報復)をとる」=威嚇は許される、あるいは正当」
該当ICJ根拠:Nicaragua判決は、「国家は武装攻撃に当たらない行為に対して集団的武力で報復する権利を持たない」と明言しています(上の引用3)。また、ICJ(Nuclear WeaponsAO)は「脅迫・武力の使用がArticle 2(4)に反する場合は違法である」と示しています。iilj.org+1
retorsion(合法的外交措置)とcoercion(違法な強制)の区別:国際法は経済措置や外交関係縮小といった「retorsion」は元来外交ツールとして許容する一方で、武力の威嚇や違法な強制は許されないという線引きを持ちます(ICJ論旨の応用)。iilj.org+1
抵触点(C):
PRCが「第三国介入ならば軍事的な威嚇を含む強い報復をする」と明示する言動は、ICJが確認する『威嚇・武力行使禁止』原則と衝突する可能性が高い。外交的抗議や経済制裁は国際政治の範囲内だが、武力による威嚇や実行は国際法上の重大な障害を生む。iilj.org+1
台湾の領有(PRCの主張)について:UNGA2758はPRCを国連における中国代表にしたが、それ自体が台湾領有を国際司法上確定するものではない(司法的確定は別途、事実審理・ICJ判断が必要)。digitallibrary.un.org+1
第三国に対する軍事的恫喝はICJの法理と抵触する危険が高く、外交的圧力と武力威嚇の線引きが法的評価の鍵になる。iilj.org+1
参考・出典(主要)
ICJ, Military and ParamilitaryActivities inand againstNicaragua (Nicaragua v.United States), Judgment, 27June 1986. iilj.org
ICJ, Advisory Opinionon the Legality of the Threat or Use of Nuclear Weapons, 8July 1996. iilj.org+1
UN GeneralAssemblyResolution 2758 (XXVI) (25 Oct 1971) —text &解説(2758は代表権問題を扱い、領有帰属を司法確定しない)。digitallibrary.un.org+1
ILC / ArticlesonState Responsibility —「内法は国際義務違反の正当化にならない」等の一般原則。国連法務局+1
まず時間軸を正確に整理すると、AさんとBくんとの出会いは完全に同時期だった。
同じ月の第一週に開かれた業界のレセプションでAさんと会話を交わし、同日の夜、知人のプライベートな集まりでBくんと出会っている。
つまり俺の感情は最初から並列的に発生しており、一方を主関係としてもう一方を後発的に付加したという構造にはなっていない。
一般に二股と呼ばれる行為の本質は、既存の排他性コミットメントを前提とした上で、新たな関係を秘密裏に構築することにある。
しかし俺の場合は、どちらとも排他性を前提とした約束を明示的に結んでいない。
Aさんに対してもBくんに対しても、俺はお前だけを愛する、という独占的契約を一度も交わしていない。
恋愛における排他性は、当事者間の合意によって初めて成立する社会的契約にすぎない。
その契約が未形成の段階で複数の好意を抱き、それぞれに誠実に応答することは、論理的には背信行為とはならない。
むしろ、感情の真実を歪めず伝えることの方が、誠実さの基準を満たしているとすら言える。
俺はAさんにもBくんにも、俺の感情が複数方向に開かれている可能性については曖昧にしていない。
直接的に他者の存在を明言してはいないが、お前だけに限定された関係を要求されているかという確認も受けていない。
明示的な排他性要求がない以上、俺は契約違反を犯しているわけではない。
道徳的非難を正当化するには、まず明確な約束の裏切りが要件となる。
その約束が存在しない状況で複数の人間を同時に愛することに、論理的・倫理的な欠陥は見いだせない。
俺はただ、起きた感情に忠実だっただけだ。
パンティーを被るという行為――羞恥・仮面・秩序転倒の文化社会学的考察
パンティーを頭に被る人物は、多くの社会において「悪ふざけ」「変態」として嘲笑の対象になる一方で、
マンガ・アニメ・コメディ・インターネットミームの反復的なモチーフにもなってきた。
一見して低俗にしか見えないこの行為は、しかしなぜこれほど強く人々の笑いや嫌悪、あるいは不安を喚起するのか。
その過剰な感情反応は、単なる嗜好の問題を超えて、近代社会における身体・羞恥・ジェンダー・権力といった構造的テーマを照らし出していると考えられる。
本稿の目的は、パンティーを被るという行為を「逸脱行動」や「性的倒錯」として切り捨てるのではなく、
という三つの観点から文化社会学的に分析し、その行為が現代社会の規範と矛盾をどのように露呈しているのかを論じることである。
第一に着目すべきは、対象が「パンティー」であるという点である。
しかし社会的には、身体のうち「隠すべき部分」を覆うことで、性的な領域と公共的な領域を峻別する境界線として働いている。
とりわけパンティーは、しばしば女性の身体性・性的魅力・純潔観念と結びつけられ、強い象徴性を帯びている。
文化人類学者メアリー・ダグラスは、「汚れ」を「あるべき場所から外れた物質(matterout of place)」と定義した。
下着は本来、身体の奥まった場所で皮膚に密着し、「見えないこと」自体が期待されるモノである。
それを頭部という最も視線の集まる位置に、しかも外から見える形で持ち出すことは、
「隠すべきもの」を意図的に「あるべき場所から外す」行為であり、ダグラス的な意味での「汚れ」を自ら演出することに他ならない。
人々が感じるのは「汚い」というよりもむしろ「恥ずかしい」「みっともない」という感情であり、
それは身体に付随する性的な領域が、モノを媒介して公共空間に溢れだしたことへの反応である。
パンティーを被るという行為は、自己の身体そのものを露出しているわけではないにもかかわらず、
下着の象徴性によって「性的なもの」が表面化したかのような錯覚を生み出す。
そのギャップこそが、笑いと嫌悪が混じり合う独特の印象をもたらしている。
第二に、「被る」という行為が意味する仮面性を検討する必要がある。
顔は、社会学者エルヴィング・ゴフマンが述べたように、対面相互行為の舞台において自己を提示する中核的なメディアである。
目・口・表情を通じて、人は自己の人格・感情・意図を他者に伝える。
そこに被り物をかぶせることは、自己呈示のチャンネルを意図的に撹乱し、
「いつもの自分」とは異なる人物への一時的な変身を可能にする。
仮面はしばしば、道徳的・法的な責任性を希釈し、人に「普段ならしない行動」を許す。
覆面をした抗議者やハロウィンのコスプレ参加者が、日常では抑制されている言動に踏み込めるのも同じメカニズムである。
パンティーという「ふざけた素材」を用いた仮面は、暴力性よりも滑稽さを強調しつつも、
顔を覆うことで〈誰であるか〉を曖昧にし、同時に〈何者にも属さない、ルール外の存在〉であることを宣言している。
重要なのは、ここで用いられる下着が多くの場合「女性用」として理解されている点である。
男性が女性用パンティーを被る場合、それはジェンダー境界を視覚的に撹乱する効果を持つ。
性的同一性や男性性の「まともさ」を象徴する顔の上に、女性性の象徴物を被せることで、従来的なジェンダー秩序は一時的に解体される。
この解体が、笑いとして消費されるのか、あるいは違和や嫌悪として反発を招くのかは、
社会がその時点で受け入れうるジェンダー規範の幅を測る指標ともなりうる。
第三に、この行為はしばしば「笑い」と結びついて登場する。
ミハイル・バフチンが論じたように、カーニバル的な笑いは、既存の秩序・権威・聖性を一時的に転倒させる力を持つ。
王と道化が入れ替わり、崇高なものが下卑たものに、清浄なものが汚穢に置き換えられることで、人々は日常のヒエラルキーから解放される。
パンティーを被る人物は、多くの場合「くだらない大人」「オトナなのに子どもじみたことをする存在」として描かれる。
そこでは、理性的で成熟した市民として振る舞うことが期待される大人が、もっとも幼稚で性的規範に反する身振りを自ら演じてみせる。
これはまさに、近代的主体の理性と節度という自己イメージを、身体と笑いのレベルで裏切る行為であり、バフチン的な意味での秩序転倒である。
パンティーは、ファッションやポルノグラフィー産業を通じて商品化された「性的魅力」のパッケージでもある。
その商品を「本来の用途」から外し、頭に被るという過剰にズレた使用法は、
シチュアシオニストたちの言う「デトournement(転用)」にも似て、商品に埋め込まれた意味構造をずらし、
消費社会が約束する「ロマンティックで洗練された性」のイメージを滑稽なものとして暴露する。
多くの場合、当事者は「面白いから」「ウケるから」という動機で行為に及ぶ。
しかし、当人の意図とは無関係に、行為そのものが既存の秩序を揺さぶり、
笑いを通じた不安定化をもたらしている点に、カーニバル的な力があるといえる。
ここまで、パンティーを被る行為を文化的・象徴的なレベルで肯定的に読み解いてきた。
しかし同時に、この行為にはジェンダーと暴力の問題が潜在していることも看過できない。
たとえば、所有者の同意なく女性の下着を盗み、それを被って笑いのネタにするような事例は、明らかに性的暴力であり、先の分析とは質的に異なる。
そこでは、女性の身体性がモノに還元され、男性の自己演出の道具として一方的に利用されているからである。
「誰のパンティーか」「どう入手されたのか」「誰の前で行われるのか」「誰が笑う権利を持つのか」といった文脈と切り離しては成立しない。
他者の所有物を奪ってネタにすることとの間には、倫理的に越えがたい差がある。
この意味で、パンティーを被る行為を安易に「自由な表現」「笑いだから許される」として擁護することはできない。
一方で、倫理的に許容可能な範囲で行われるこの行為が、規範の硬直性をほぐし、身体と羞恥をめぐる議論を促す契機となりうることも事実である。
その両義性を見極めることが、現代社会のジェンダー感覚と表現の自由の両立を考える上で重要になる。
パンティーを被るという行為は、表面的には「低俗なギャグ」「一部の嗜好」に過ぎないように見える。
しかし本稿で見てきたように、
として理解することができる。
つまり、パンティーを被る行為は、身体と羞恥を厳格に管理しようとする近代社会の規範に対して、
「本当にそれが唯一の生き方なのか」と問いを突きつける小さな反乱なのである。
もちろん、その反乱が倫理的に許容されるためには、所有や同意、ジェンダー権力といった条件を精密に考慮しなければならない。
しかし、その条件さえ満たされるならば、「くだらない」と切り捨てられてきた行為の背後に、
規範の相対性を示す批評的なポテンシャルを見出すことが可能である。
だが、その笑いが何に支えられ、何を脅かし、何を許さないのかを問うとき、
回答が揃ってないとのことだが、一旦現時点のトコまででメモっとくわ。
これは「学界の有力説」
政府は1950年代から一貫して “限定的な集団的自衛権は可能” という立場
国会答弁にも大量に残っている
つまり:
などの影響で「違憲」が学界で強勢になった時期はあるが、
1954年の自衛隊法制定時から現在まで “合憲の範囲内での集団的自衛権の可能性” を残している。
むしろ「ズルズル変えた」のは
●国民投票で決着させたい
など複合しており、
● “正しくあるべきだった姿”
● “本来こうだったはず”
● “自民党が歪めた”
そのため:
●政府答弁の実際
●国際法の実務
●自衛隊法の制定経緯
増田なりの正しさはあるんだろうし、その辻褄合わせの努力は普通にスゲーと思う。