
はてなキーワード:見世物とは
舌の切除の仕方基部
愛してる醜見世物
ゾンビのたとえ
母に見られる阻止
指が挟まる満員
4コマ尻線
返却予定いったん解除
かわいそう屠畜
じゃあではないタイミング
全てをイベントに考える
アレンジヨアソビ
中二は大人に響かない
子供を助ける溺れる
オノマトペにあてはめる
御坂の夢
書くことの主題だけメモしとけば後で全部復元できるからってそうしてたんだがほったらかし過ぎて何を意図して書いたのかわからん。
これをもって供養。
dorawiiより
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本屋大賞をとった本だしと、読んでみたのだが、モヤっとした点を言語化したいので増田に書いてみた。
まず読んでみて、初めに思ったのは、登場人物たちがいい人たちばかりで、膳所という場所は平和な世界だなと。ジュブナイル向けの作品で、中学生や高校生たちの生活が楽しそうに描かれていて、成瀬の行動が常識外れだけど人々を幸せにしていくようなストーリー展開が受けているんだろうなと、初手で思った。
けれど、しばらくして、何か黒いモヤモヤという読後感が残り、これは何だろうという思いがふつふつと湧いてきた。
「掘り下げてみると、あまりにも良い話すぎるからだと気がついた。」
記憶力が良く、学校の成績も良い。視点が人と変わっていて、拘りが強いことで、人知れず、絵画や音楽などで賞をとったりする。けれど、人とのコミュニケーションはあまりとらず、笑顔を見せることなく、一見淡々と過ごしている。クラスの中では、成績の良さで褒められることはあれ、普段の生活は人とあまり会話することなく、端からみると我関せずみたいに思われている。無害なので、クラスの中では問題児としてみられず、特に注意されることはない。学校の規範を守り、外れることなく生活しているので、一見、順応しているように見えるが、本人は人知れず、苦しんでいると言ったケースを見てきた。
物語の成瀬は、人を呼び捨てにしながらも、自分の思ったように伝えることができているが、物語中で、思い込みとコミュニケーション不足からの齟齬が何度か生まれている。けれども、実は、周囲の人々の配慮やサポートがあって、それが表面化しない。一見、成瀬の意志の強さが、物語の推進力になっているように見えるが、実は彼女の常識から外れた行動を受け止め、サポートする人々がいて、初めて成り立つ話だとわかる。
これが、現実世界だとなかなか上手く行かない。特性を理解し、サポートするような人々には、こういった特性を持つ子供たちはなかなか出会わない。なので、本人は人知れず、周囲との齟齬を克服しようとするが、一人であがくだけで、余計に辛さが募るばかりとなり、ついには自己嫌悪とストレスから、学校を休んでしまったりする。上手く、教室内で教師やカウンセラーのサポートを得られるケースもあるが、成績が優秀であるがゆえに、また自分から言いださないゆえに、気がつかれずに時が過ぎていき、本人の体調が悪くなって、初めて気がつくといったことが起きる。
成瀬のような話は、一見、いい話だが、このような特性を持った子供の光の面を殊更に良く描き、困難さに対して蓋をしてしまっている。笑顔を見せず、侍のような口調でも周囲の人が彼女の天才的な特性を認め、好意的にみてくれている環境があるのが成瀬だが、彼女をロールモデルにしようとしたら、そんな環境は普通はないので、マネをしようとする同じ特性の子供はすぐ周囲との齟齬に苦しみ、破綻するだろう。
また、特別な才能がある子供であれば、常識外れでも大丈夫といった見方を世間的にするようになったら、それはそれで、当事者の子供は、自分の能力でマイナス面を打ち消そうとし、よりプレッシャーが増大するかもしれない。
コミュニケーション上の摩擦や孤立、困難さを軽視し、それを個性としてエンターテインメントとして消化する。何か、こういった特性を持つ子供を見世物にしている感じも受けてしまった。
「少し異なるかもしれないが、似たような物語は、実は以前にもある。フォレストガンプだ。」
知的障害の男性が主人公の波乱万丈の人生を描いた話で映画にもなったが、ある種、社会にとって「理想化された障害者像」が描かれている。正直で有能であれば、知的障害であっても社会的に有用だというようなステレオタイプ的な見方と国に従順であれば成功するといった保守的なイメージを負わせ、「突出した異能のマイノリティ」を見世物にして、現実のマイノリティの困難さに対して蓋をしてしまっている。
フォレストガンプにしても、成瀬にしても、世間的には評価が高い作品だからこそ、影響力があり、多くの人々に波及する。一方で、困難さを抱えるマイノリティに対して、ある種の歪んだステレオタイプを与えることにもなる。
表現の可能性を狭めるつもりではないし、こういった作品によるカタルシスを否定する意図ではなかったが、モヤモヤを言語化したかったことと、こういったエンターテインメントに負の側面も同時にあることを伝えたかった。好きな作品を貶されたと感じたのであれば、申し訳ない。
Permalink |記事への反応(16) | 02:34
道端で大きい荷物を持ってるおばあちゃんに手を貸す、迷い犬を保護する、職場いじめに加担しない。すべて「みんながよりよい毎日を送れますように」という小さな祈り。
自己満、青臭い理想論、弱者の味方、そうやって冷笑されることがある。助けたはずのおばあちゃんに「余計なお世話だよ!」と言われたり、犬に手を噛まれることだったりすることも……ある。おもしろ半分で石を投げられることだってある。すこし、辛い。
誰のせいで自分が辛い思いをしてるのか考える。解決したいから。自分が嫌な思いをしたときは、自分が悪いといい聞かせて納得できる。
けれども。
誰がこんな目に遭わせてるのか、どうやったら自分で解決できたのか考えるうちに、毎日の小さな祈りが、憎しみと呪いに変わった。
残ったのは憎しみだけ。
百歩譲って謝罪はいいよ。けど、誠意を見せてもいいんじゃないの? 相手に金を出させてるんだよ?
見に来ないでくれ。
『幻の群れ』
このごろのテレビは、どうも落ち着かない。
「パワハラだ」「辞任すべきだ」と、
まるで国の一大事のように。
でも、あの人がそこまで悪いことをしたのか、私は首をかしげている。
弁明もしていたし、訴訟になったわけでもない。
少し品がない気がした。
まるで見世物のように、
怒りの映像をつないで、辞任するまで囲い込む。
けれど私は、ほとんど関心が持てなかった。
どうも方向が違う。
少し変な右翼みたいな立ち上がり方をして、
正直、あきれてしまった。
罪のない人をどんどん罰した。
恐怖は数字を膨らませる。
幻の群れを見て、怯えるのがこの国の悪い癖だ。
SNSも同じだと思う。
彼らの発信に取り込まれて、
見えない恐怖を吸い込みすぎて、
冷静な判断をなくしているのは、
どこか苦しそうだ。
あの少し乾いた目の奥に、
どうしようもない寂しさがある。
けれど人は、本来そんなに悪くない。
煮物を焦がしたり、
どうにか一日をやり過ごしている。
そんな人たちが「世論」と呼ばれていることを、
だから私は、声を大にして言いたい。
しっかりしろ。
恐怖を数えて幻を作る、その癖を、
七十人を七十万人に見間違える時代を、
また繰り返すつもりなのか。
私は、あの画面の向こうで怒鳴っている人たちに、
そう言ってやりたいのだ。
うけけけけけけけけけ。
タカイチョはついに決断した。外交の舞台で「倍返し」ばかり叫んでいては飽き足らぬ、実行あるのみだと。
彼の頭の中には、大きな地図と小さなゴムボートの模型がころがっている。
「先制だ! 先制の精神こそ我が国の花だ!」と叫び、補佐官たちはひれ伏してメモを取った(誰も逆らわないのがこれまた便利だ)。
だが戦術は斬新すぎた。
海辺にはゴムボートが並び、その中に押し込められたのは、重労働で痩せ細った国民たちである。
「義勇軍だ! 竹槍を持て!」と号令がかかる。竹槍は町内会の余り物、義勇軍の制服は古いエプロン。
ゴムボートはふにゃりと鳴り、出航の笛が鳴る。群衆の中で、少年カモノハシは目を見開く。母の肩は骨ばっている。
向かう先は架空のC国。国際舞台では眉をひそめる声が上がるであろうことなど、タカイチョは気にも留めない。
「外交圧力? くくく、屈するものか。倍返しだ!」と、出航する人々に向かってもう一度叫ぶ。
夜の海に小さなゴムボートがぽつぽつと浮かぶ様は、まるで貧弱な灯りの行列のようだ。だが灯りは虚しく、波はつぶやく。「これは戦争か、それとも見世物か」と。
「これを見よ、我が国の勇気!」と大声で説明するが、カメラの中の映像は誰のための見世物か分からない。
ゴムボートの中では、ある男が小さな紙飛行機を作り、それをそっと海に放った。紙飛行機は風に乗り、SSの帽子にひらりと当たって落ちる。帽子を拾った将校は一瞬考え込み、そして顔をしかめる。うけけけけけけ。
国際的な反応は物語の別章で語られるだろうが、ここでは民衆の目線が物語の中心だ。
義勇軍として送り出される人々の顔は、勇ましさよりも驚きに満ちている。彼らが持つ竹槍は、強さを示す武器というよりは、かつて祭りで使った棒切れの再利用に近い。
そして海の向こうで何が起きるかは誰にもわからない。だが確かなのは、この行為がタカイチョの満足を少しだけ膨らませる一方で、国民の疲弊と虚無を深めるだけだということだ。
結局、ゴムボートの行列はタカイチョの演出の一部として流れ、街ではまた「スマフォ供出デー」や「今川焼き推奨」が予定通り進行する。
ガチでヤバい情況にある人のところに行って「あんたの悲惨なメシを日本のお茶の間の見世物にさせて下さい」と。
OKしてくれるの、現地でも周りのいいようにされてるような、うさんくさい取材を断る知恵もないような人ばかりなんだよな。
「自分の苦境を世界に伝えてくれるのなら」なんてバーターではなく。ただ言われるがままに撮られてる。
あれ観て直球でコレダ〜!とか思っちゃう奴は根本的にセンスがない。
「もの食う人びと」も金満左翼オッサンの思い入れの垂れ流しで本当に醜悪だった。
日本向けの猫缶作ってるタイの女工らに「これ日本じゃ猫の餌なんですよ。どう思いますか」「いや別に、仕事だから」「そうでしょうそうでしょう、そうやって何も感じないように心を殺してるんですネェー」みたいな
一座の政局、風雲急を告げしこの一月余、自由民主党の諸公、舞台に登場し、辞任の時機をめぐる沈黙と示唆、総裁選の前倒しをめぐる策謀、幹部の往来、言葉の綾を尽くし、政道の妙技を余すところなく披露せられたり。その演目、まことに華麗にして緻密、剣闘士の試合にも劣らぬ迫真の趣きあり。国民の耳目を奪ひ、政局の一挙手一投足に世の関心を集めしこと、比類なきものと申すべし。
然れども、民の膳に供されるべき「パン」は、いまだ姿を見せず。給付も減税も、言葉の綾にとどまり、実の施策は遠きにあり。古代ローマの為政者、剣闘士の血を以て民を酔はせ、穀物の配給をもって民を養ひたり。その政治、退廃の兆あらばとて、民の腹を満たすことを忘れざりき。今の政局、演出の妙において古代に比肩すれども、民の暮らしに資する施策の供給においては、いまだ及ばざる感あり。
願はくは、せめて古の世よりは、まことに叶ふ政の営まれんことを。
このたびの一座に対し、深き感慨とともに、ここに謝意を表すものなり。
ローマには 比すも畏れ 多きかな されども膳は いまだ空なり
こんな明らかに知能に問題あるハンディキャップ丸出しのひとにSNS与えたりTV出演させたりして晒し者にするの、活動家の連中は何を考えているんだ??
ブーメランな気がするんですけどどうなんでしょ。
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そういった行為はよく見かけるし、同時に多くの人から嘲笑されている
俺もやるし同時に嫌っている行為でもある
例えばさジャンプ漫画でいいけど、鬼滅の刃を好きな人が対抗馬としてヒロアカを引き合いに出して語っているとして、じゃあそれがなぜダメなんだろうか?
自分の中では「比較できないから」と考えているが、そもそも自分たちは常に何かと何かを比較対象に置いているし、そういうことが大好きだ
犬と猫のどっちが良いかとか、女の子と男の子はどっちがお利巧とか、戸建てと賃貸はどっちがお得かとか、コカ・コーラとペプシはどっちがおいしいとか
そういえば、かつてペプシコーラはコカ・コーラより下だという比較広告や、Macに比べてWindowsは使いにくいという比較広告があった
日本人にはこれらが滅茶苦茶不評だったし、俺自身もmacのことが嫌いになった
けど、なんでそういうことをしてはいけないのかということについて、自分の中で客観的な答えはでていない
「そうやって比較しないと自社製品をアピールできないってところが糞」というなら、ドコモやソフバンやau同士の料金を比較するYoutuberを見ている俺は何なのだ?比較する表を出されるてころっと騙せれてるだけじゃないのか?
大半の広告やコンテンツは何かと比較したりランキングを争っている
それを楽しんでいるし、参考にしている俺たちがなぜmacとwindowsの広告に文句を言っていたのだろうか?
双方が合意の上で異種格闘技の舞台に上がるというなら、それは面白くなるかもしれない
だけど、macが優れているって話の中に唐突に「windowsはカスだ」みたいな話を混ぜたら、macの土俵にwindowsが単に放り込まれて見世物にされているようにも見える
ようするにアウェイの会場で違うルールで戦わせられることが、windows側からは卑怯に思えるのだろう
やるなら同じような舞台でちゃんとどういう決着の仕方をすれば勝ちなのかがはっきりさせていた方がいい
とはいっても俺たちは常日頃から公平な心情で何かを比較してみているわけじゃない
ヒロアカを読んでいるときに「やっぱり鬼滅の刃の方が面白いな」ってことを言うのは別に不思議じゃないし、そう思うことをとがめるのも間違っている
そしてそれを誰かがみたところで、ヒロアカへの風評被害と捉えるのはあまりに短絡というか、早計というか
もっというなら、ネット上というのは上品で公平で自分を不快にしないのが大前提という人が多いからなのかもしれない
そうではない人間には死を与える、という人がネット上にはメッチャ多い
狭い世界だけで生きているから他と比較されたりすることに嫌悪感を抱き、無駄に共感を煽るようなものに翻弄されやすいからだろう
ずっとずっとそうなんだよ