
はてなキーワード:西和賀町とは
北があと2,3エントリ書くくらい残っているが、先に西和賀について紹介しておく。
岩手はいちおう全域が豪雪地帯に指定されているけれど、それほど雪は降らない。まあこれは"隣県と比べて"ということに過ぎないので過信は禁物ではある(冬場スタッドレスタイヤがなければ死ぬのはマンガにも描かれた通り)けれども、その中でも西和賀は例外にあたりそうなくらいの超豪雪地帯。どうもこの辺が奥羽山脈で微妙に標高が低いのか、日本海側の雪が山を越えてこっちにまで届くのね。これは西和賀を越えて少し東にある北上くらいまでは達するので、冬場に新幹線に乗っていると北上近辺だけ白くなっている光景を見ることが出来る。まあ今回は春~秋シーズンでの観光お勧めなので雪の話はこれ以上はしない。
西和賀町で観光と言えばまあ旧湯田町地域に点在している温泉がまずは観光の対象かと思う。おそらく一番有名なのはJR北上線の入替駅であるほっとゆだ駅に隣接する温泉かと。湯船の隣に鉄道信号機が設置してあって、列車の到着が近づくと点灯するという話は旅番組で数限りなく擦られてきたので知っている人もそれなりにいると思う。温泉の分布としてもここの温泉が町内のほぼ中心に位置していて、この北部と南部、そして西部にいくつもの温泉旅館が点在している(東部にあった"穴ゆっこ"という温泉は3年ほど前に閉館した)。多くの旅館は日帰り入浴にも対応しているので、宿泊しなくても多くの温泉を体験することが可能である。よくテレビで紹介されるのは北の方にある砂ゆっこと呼ばれる砂風呂。個人的には西の県境近くにある巣郷温泉が特徴的な泉質(好みはけっこう分かれる)で好きなのでお勧めしたい。なお一番大きい温泉街は少し北にある湯本温泉で昔はここにストリップ劇場もあるくらいのコテコテの温泉街だったのだけど、もちろんこの施設も10年以上前に閉館して跡形も残っていない。湯本温泉はそれよりも激安で有名なスーパーオセンでたぶん有名。このスーパーはNHKのドキュメント72時間で密着されたりもした。
西和賀の北側、沢内は近世から近代にかけて歴史的には重要な場所ではあるのだけど、そういうのを知れる施設はあんまりない。中心部(というほど繁華街でもないけど)にはなぜか寺が3軒まとまって建っているところがあって、その中の一番北の寺(碧祥寺)に個人博物館が民具をたくさん集めていて見どころになっていて、さらにそこの駐車場としても利用できる向かいのドライブインの名前がおよねであることに歴史がうかがい知れるくらいか。一番南の寺(玉泉寺)は本堂の裏の山道も参道化していて山登りと一緒に信仰も深められるのだけど、最近は熊の出没も多いので最近の観光地としてはあんまり勧められない。さらに北の方には岩手で一番古い地ビールである銀河高原ビールが建てた工場とリゾートホテルがあったんだが、ビール蔵はブランドごと沖縄の会社に身売りして現在では非公開だし、ホテルも閉業している。
サブカル的には六三四の剣の合宿地がこの近辺で、"ほっとゆだ"から湯本温泉に向かう時に必ず通る鉄橋は合宿でランニングをする扉絵の場所として使われたことがある。その他これは噂だがワシャエ森(鷲合森)という地名がこの近辺にあるところから、三田紀房の出世作"クロカン"の舞台となった鷲の森高校のモデルはこの地域に唯一ある高校ではないかと囁かれたことがある(最近までこの高校は地方大会1回戦負けの常連として知られていたが最近それを覆す成績をあげている)。
日帰りで行く場所ではないが、この地域の県境には北東北で最も登るのが難しい山とも言われる和賀岳がある。これはNHKBSのグレートトラバースで2度ほど紹介された。
納豆汁(なっとうじる)とは、納豆を加えた味噌汁の一種である。俳句における「冬の季語」となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86%E6%B1%81
江戸時代において納豆の一般的な食べ方として各種の文献に記されており、江戸をはじめ日本各地で食べられていた。幕末の風俗史書『守貞漫稿』に、当時の状況が記述されている。また要約であるが、「寒い地方では野菜が不足しがちなので、納豆で補う。江戸では夏もこれを売る。汁にして煮るあるいは醤油をかけて食べる。京・大坂では、自家製だけで、店売りのものはあまり見かけない」とも記述されている。
江戸においては、「納豆売り」が納豆汁の食材を売り歩いた。「叩き納豆」は、インスタント味噌汁のようなものであり「叩き潰した納豆」「青菜」「豆腐」がセットになっているため、出汁と味噌を溶いたお湯を注ぐだけで納豆汁となった。[要出典]
毎朝「なっと〜ぉなっと」と呼び歩く「納豆売り」は、川柳で多く読まれるほど日常的なものであり、朝食に上がることが多かった。以下のような川柳がある[3
東北地方の山形県や岩手県、秋田県などでは広く親しまれており、山形は山形市・新庄市・庄内町・酒田市・鶴岡市、岩手は湯田町(現:西和賀町)、秋田は湯沢市において地方料理として知られている。また秋田県や山形県の一部では正月の雑煮が納豆汁仕立てになる。熊本県、福岡県、大分県の一部地域では納豆雑煮が食されるが、納豆は汁の中ではなく別添えである。しかし納豆の消費量が全国1位の福島県福島市や水戸納豆で全国的に知られる茨城県水戸市では納豆汁の存在すら知らない者も多い。
岩手県
山形県
郷土料理となっており、具の多い汁となっている[9]。
秋田県(院内、湯沢市、横手市)
岩手県と山形県の中間といった具合。豆が細かく砕ける程度にすり潰した納豆を汁に溶き、具材はわらび等の山菜がふんだんに使われている。
ひきわり納豆の産地でもあるので、ひきわり納豆を入れることが多い。潰さなくてよいので、便利である。
県南では山形県寄りの文化が濃いせいか濃い納豆汁が多い。具には塩漬けのワラビやゼンマイ、キノコなど保存性の高い食材が用いられる。
とあるラピュタの考察で「ラピュタ人がラピュタに戻らなかったのは地上での生活の方が幸福だったから」とある。
でも、彼らは地上でそれまで支配していた人々に報復されるのを恐れ、谷で隠棲生活をしていたと考察している。
ここで矛盾が生じる。
「地上での生活が空中都市での生活より幸福だった」ことが「ラピュタ人が隠棲生活を送った」ことと結びつかない。
考えて欲しい。
文化、最新のシステムを備えたモダンな住宅やマンション、質の高い医療、質の高い教育…
例に挙げたのは港区で得られるもののほんの少しだが、そこに住む人を幸福にしてくれる。
…
ない。
劣等感、苦痛、閉塞、僻地の質の低い医療、教育という名の折檻と支配…
ラピュタを東京都港区とし、ゴンドアの谷を岩手県西和賀町だとすると、ラピュタ人が疫病の収束後にラピュタに戻らなかったことを説明できないのだ。
だって、例えば深刻な疫病で東京23区に住めなくなり岩手県や鳥取に避難したとする。
疫病がなくなって元通りに暮らせるってなったとして、100人いたら120人が東京23区に戻るじゃん。
この点についてすっきりとした考察を持ってる人いる?