
はてなキーワード:被災とは
河合ゆうすけ市議が、クルド人の店に突撃し、店の許可も得ず突然客にインタビューを始めた。
「外国人がやるのと日本人がやる犯罪は一緒じゃない」と彼はクルド人に対して訴えていた。
河合市議といえば、都知事選でM字開脚してる全裸女性の股間と乳首に自分の顔を印刷したポスターを掲示しジョーカーメイクで選挙活動したので知られているが、戸田市議に選ばれていたのは驚きだ。
河合に嫌がらせを受けたクルド人店主は、能登の震災で埼玉からキッチンカーで支援にいき、頑張れ石川と被災者達に食べ物を配り支援をしてくれた方だ。
彼が支援してくれた人だというツイートに、その程度でクルド人の悪行は許されないクルド人だからやられて当然とネトウヨたちが噛み付いてる。
被災した方を助けた外国人に、日本人に選ばれた政治家が営業妨害の嫌がらせにいき、それを日本人が支持する。
あまりにも恩知らずで醜い。
まずは、本件について不快な思いをした方々に謝罪をいたします。申し訳ありませんでした。また、長文となるため読んでいただかなくても差し支えありません。
ひろゆき氏のツイートを引用リツイートしたところ、わずか数時間で800万インプレッションに達しました。
通知が鳴り止まず、返信が雪崩のように押し寄せ、最終的に私はアカウントを削除することになりました。
■ 今回の教訓
・ひろゆき氏とレスバ(論争)するな、引用して自分の意見を書くな
■ 経緯
発端は、「自らの命は自らが守るという原則に基づき」高市総理が1週間程度の注意呼びかけを行った、という旨の記事でした。
ひろゆき氏:
私:
「津波が来るような場所に住んでいるということは、自己責任といっても相違ないんじゃない?
大雨で川が氾濫して冠水する地域に住んでいる人と同じ見方なのかも。
すぐ逃げられる、すぐ避難するようにしましょう。子供は親の責任です。弱者....とはだいぶアバウト。独居老人のために避難所開放ありかな。」
(※現在は削除済み)
すると、ひろゆき氏からさらに引用リツイートで返信がありました。
ひろゆき氏:
都会の人が手に入れる野菜、魚、肉、水、電気、空気、ガスはどこから来てると思ってるのかな?」
1週間以内に大きな地震が来る可能性が高いから、"事前に"逃げる準備をしておき、自分の身は自分で守りましょう。
また、大雨で川が氾濫する地域も同様に、雨が降れば冠水して逃げられなくなるため、天気予報を見て"事前に"避難しましょう。
この「事前の備え」という文脈で、私は「自己責任」という言葉を使いました。
ひろゆき氏が先に「自己責任」という言葉を使っていたため、それに引っ張られてそのまま使用してしまったのです。
しかし、これは私の無知であり、言葉の選択が間違いでした。正しくは「自助努力」と表現すべきでした。この点については深く反省しており、申し訳なく思っています。
「都会の人が手に入れる野菜、魚、肉、水、電気、空気、ガスはどこから来てると思ってるのかな?」
そんなこと、私は一言も言っていないんだけどなあ……。
そう思いながらスマホを放置している間に、事態は急変しました。
雪崩のように押し寄せるリプライと引用リツイート。スマホを操作していないのに、通知の処理でメリメリと電池が減っていきます。恐怖を感じ、通知をオフにしました。
詳細は全て覚えていませんが、届いた返信には以下のような罵詈雑言が溢れていました。
・田舎の人が頑張っているから都会の人は食べ物を食べられているってわからないの?
・何も食うな
・中国人?
・今まで助けてもらったことがない人が、自己責任という言葉を使っている
・100年ROMってろ
・親ガチャ失敗だね
・返信が来ていない逃げんな
■ 「都会の人」というレッテル
罵詈雑言の中で、私はあることに気がつきました。
「住んでいる」とは一言も言っていないのに、なぜか私は「都会の人」として叩かれているのです。
「都会の人が手に入れる野菜、魚、肉、水、電気、空気、ガスはどこから来てると思ってるのかな?」
これだ……。
当事者として、「津波が来たら(誰かの助けを待つのではなく)自分で逃げないといけないよね」という自戒を込めて言っていたつもりが、完全に伝わっていませんでした。
私は「安全な都会から地方を切り捨てる人間」として、非難の的になってしまったのです。
■アカウント削除へ
・フラッシュバックするので消してください
これらの書き込みを見て、自分の発言が思慮に欠けていたことを痛感しました。ご指摘いただいた方には謝罪し、その上でアカウントを削除しました。本当に申し訳ありませんでした。
謝罪をすれば「謝罪したら許されると思っているのか」「インプレ稼ぎだろツイート消せ」と言われ、
ツイートを消せば「ツイ消しされたので貼っとく」「アカウント消せ」と言われ、
アカウントを消せば「アカウント消して逃げてる」「逃げるな」と言われる。
逃げ場のない言葉の刃に、ただただ圧倒されるばかりでした。
身を持って知ることとなった、苦い経験でした。
ひろゆき氏とレスバは避けたほうが良いです。引用もリプもしなうほうがいいと思います。
いつのまにか、論点が違うところに行ってしまいます。私が伝えたかったことを伝えようとしても
と言う人もでてきて、何を言っても聞いてもらえないです。
罵詈雑言には耐性があると思っていましたが、言い返せないストレスは計り知れないものでした。自分の気持ちが伝わらず言われっぱなしなのは、ここまで辛いものなのかと。
最近、YouTubeのおすすめに上がってくる「地震シミュレーション」と言う名の妄想動画、あれ本当に何なの?
サムネは真っ赤な日本地図に「震度7」「日本壊滅」みたいな煽り文字。再生すると、緊急地震速報のあのチャイム音(不協和音)が鳴り響いて、自動音声かアナウンサーごっこしてる奴が被害状況を読み上げる。
一見、防災啓発動画のように見えるし、想定を基にしてます!なんて言ってるけど、最終的にはただの制作者の妄想。
正直、「公共の場所でオナニー見せつけられてる気分」ですごい不快なんだけど、俺だけ?
あれを作ってる連中、防災意識なんてこれっぽっちもないだろ。彼らが好きなのは「人の命を救うこと」じゃなくて、「NHKのテロップのデザイン」とか「緊急時の管制システム」そのものなんだよね。
「ここでチャイム鳴らして、ここで赤テロップ出して、全画面切り替えて…」っていう、放送送出の手順をシミュレートして、自分がその司令塔になったような全能感に浸ってるのが透けて見える。鉄道ファンの中に「電車の運行システム」が好きな層がいるけど、あれのタチが悪い版。「危機的状況」を支配する快感に酔ってる。
一番タチが悪いのが、概要欄とかで「防災意識を高めるために~」とかもっともらしいことを書いてる点。
やってることは「不謹慎なパニック映画の自主制作」なのに、「これは教育です」って顔して正義の盾を構えてるのが本当に卑怯。
コメント欄も地獄で、「怖くて震えました!」「勉強になります!」とか称賛してる信者がうじゃうじゃいる。いや、それ勉強になってないから。ただ恐怖映像見てドキドキして、悪ノリして盛り上がってるだけだから。それを「予習」とか呼んで正当化するなよ。
昔はニコ動の片隅でひっそりやってた趣味だったのかもしれないけど、今はYouTubeで数百万再生とかいっちゃうから、投稿者の承認欲求がバグり始めてる。X(Twitter)でもフォロワー数万人とか抱えてて、もはや専門家・インフルエンサー気取り。
④実害がある
NHKや他局の素材やフォーマットを完コピしてるから、子供やお年寄りが本物と勘違いするリスクもあるし、実際に被災した人があの音聞いてフラッシュバック起こすことだってある。「架空です」って書けば何してもいいわけじゃないだろ。
人の不安や恐怖をダシにして、テレビ局ごっこで再生数稼いで承認欲求満たすの、いい加減にしてほしい。NHKの法務部あたり、そろそろ本気で怒ってくれないかな。
過去と同じ展開になるとは限らないけど、太平洋戦争中には昭和東南海地震てのが起きてる。当時の軍部は敵に被災状況を知られるのが嫌で情報統制・箝口令を敷いたので、他の地域からの救援を得られずに孤立無援となった被災地域もあったみたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%9D%B1%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87
平時でも能登の救援が鈍かったことなんかを思うと、戦略的に重要度が高くない地域への救援は手薄になるんだろうというのは想像に難くない。一方、戦略的に重要度が高い地域は集中的に攻撃を受ける可能性も高いから、国民としては痛し痒しだね。
前記事(anond:20251027134053)では、篠田氏が明言しているとおり「青の純度」はラッセンに着想を得たがラッセンのモデル小説ではなく、篠田氏がラッセンのモデル小説であることを否定した点をもって同氏が嘘つきであるかのように非難するのは的外れである旨を説明した。
さて、そうだとしても、「青の純度」は原田氏の研究を参考にしたにもかかわらずそれに言及しておらず不誠実でないか、という主張がある。なお、著作権侵害ではないこと(したがって表現の剽窃が無いこと)は原田氏自身も認めるとおりであるから前提としてよかろう。
ここから先は出題編だけでなくオチまで含めた全面的なネタバレがあるので、ネタバレを読みたくない未読者にはブラウザバックを推奨する。
原田氏が「青の純度」が自分の業績の盗用であると主張する主な根拠は次の4点である。
①悪徳商法と切り離して美術的評価を検討するという視点は自分が言い出したことである。
②「インテリアアート」という用語は自分たちが世に出したものである。
③日系人の墓が西を向いているという話は自分が現地で伝え聞き紹介したものと同じである。
④偽ラッセンが8年前の嵐で自宅を被災したという設定は、ラッセンが2023年のハワイ島大火災で一時行方不明になったという自分が発見した事実に酷似している。
このうち②は原田氏のラッセン展(2012)よりも前から「インテリアアート」という用語が広く使われていたこと、③は原田氏自身も現地で伝聞した旨を述べているとおり原田氏の独創ではないこと、④は「8年前の嵐」と2023年の火災は似ても似つかず、8年前の嵐は物語の重要な小道具であり、2023年の火災はエピローグで軽く触れられていることなどから、いずれも牽強付会と言ってよかろう。
そして、この点でも、以下の理由から、原田氏らの研究を参照したとは考え難いように思う。
まず原田氏らの研究について、ラッセンを再評価してみるというアイデアだけなら、永野の「ゴッホより普通にラッセンが好き」というネタを掘り下げれば容易に行き着くアイデアであって(それにしても「普通に」を入れた永野は慧眼である。)、研究成果とは言えない。研究的価値があるのはその先の、再評価するとどうなるかという部分だ。
それでは原田氏らの研究はラッセンをどう再評価するのか。これについては原田氏らの論考集に対するAmazon読者コメントがよくまとめてあるので引用する。
1.美術界がラッセンを無視した理由:純粋美術はラッセンの属するインテリア・アートを一段と下に見ていた。アートの美意識を理解しない層に支持されていて、大きなマーケットを獲得していることへの反発があった。また、芸術には必ずあるはずの作家の自己の投影がない「空っぽ」の作品としてラッセンを排除していた。ラッセン以前にも美術界は古くは藤田嗣治、岡本太郎、草間彌生、バブル期にはヒロ・ヤマガタ等に対して無視の態度をとってきた。
2.ラッセンの作品への評価:マーク・マッカイやロバート・ネルソンなどのマリンアートの模倣であって彼のオリジナルではない。同じ素材(イルカ、クジラ、星、波など)の組み合わせを替えて使い回す自己反復が顕著である。特徴は圧倒的な情報量と人工的な空虚さである。「調和」「エコ」「静寂」「浄化」などのイメージを散りばめることでリラクゼーション効果を発揮している。ラッセンはいわばアロマキャンドルである。
3.日本人がラッセンを愛した理由:バブル期に豊かになった市民は百貨店で自宅の装飾用に絵画やインテリア・アートを買うようになった。それはアールビバン(株)がヒロ・ヤマガタやラッセン展示会を地方都市で巡回して売りまくる素地となった。ラッセンの作品は、過剰であり、大衆的である。リアルで過剰な演出がバブル期の人々の心性と符合した。見た目がカラフルでわかりやすい、専門知識がなくても理解できる。1作品を1000枚単位で刷る大量生産によって全国で強引に売りまくった。
4.ラッセンのプライベート:ハワイの工房に100人の従業員を雇って作品を制作している。公式サイトでの肩書きは画家、詩人、作家、音楽家。ラッセンが愛好するものとして海、サーフィン、高級車、有名ブランド品、美食、マウイの豪邸などの徹底した成金趣味。彼が出しているCDアルバムの収録10曲のうち自作は2曲のみで他の8曲はカバーである。しかし、自作を装っているところにラッセンという人物の本質が窺える。
これに対し作中の偽ラッセンの作品の評価や背景は次のようなものである。
絵の特徴点とされるものが軒並み先行研究に表れていない篠田氏の独創である。特にその技巧的特徴や日本人に受けた理由を画家の日本人の血で説明している点は、本作のテーマに関わる重要な特徴だろう。そうなればこそ本作はハワイ在住日系人に関する参考文献を多数掲載した、現代の日系人と在ハワイ日本人の物語なのだ。
そして、作品の特徴を日本人の血に求める以上、本作の画家とラッセンの評価は全く無関係だ。本作はラッセンの再評価などまったく目的としておらず、ラッセンの再評価についての文献を参照する必要に乏しい。というか、もしラッセン研究での再評価を借用したならば、「青の純度」の物語は全く成り立たない。
原田氏自身が、「青の純度」と自身の研究の類似性を研究成果ではなく再評価というアイデアしか挙げることができていないように、これで篠田氏が原田氏の研究を剽窃した、不道徳だと言うのは、無理があるのではないか。
ysync商工会の公共性とかよくわからんが。常なら町外企業から商標使用料を取るのはまぁわからんでもないが、被災して移転を強いられた店をその枠に…。/「商工会部長という立場を悪用した典型的な商標ゴロっぽい」
cinefuk飲食業から売り上げ2.5%を毎月掠め取るビジネスモデル「地域団体商標を持つ浪江町商工会が10月から売上の2.5%を徴収するというエグい事やって昔から提供している店がなみえ焼そばの看板を外すというなかなかな事案に」
sekiryo 後から勝手に真似て商売を始めた奴のせいで元からやってた人間の利益が減るのはおかしいだろうが著作権や商標の原理原則だと思うのだが、この場合だと古くからやってる相手にみかじめ料取り始めた奴が悪だろうに。
soyokazeZZ こういう商標ゴロが嫌いなので「なみえ焼きそば」とやらは今後食べません。AFURIラーメンも不買してる
latteru馬鹿じゃねーの?ヤクザか商標ゴロかよ。ホントにPRするつもりなんてなくて、ポッケナイナイして飲み会に使うんじゃないの?って疑ってしまう
草津町長の言葉選びや態度にはしばしばはっとするような高い気組みが見える。
運の悪い被害者という要素を除けば、ただの地方自治体の偉いオッサンというだけなのに。その逆境に屈しないというだけでももちろんただごとではないのだが、ただ我慢強いという以上の迫力がある。
全く同じものを光市母子殺害事件や池袋暴走事故の遺族に、また東日本大震災で福島に留まる選択をした被災住民に見た。
人間あんまり酷い目に遭うと立派になってしまうのである。とてつもなくタフでクールに。もちろんただ崩れてしまう人も居るわけだが。
翻って、舌先三寸の虚業で成功した人の言動のいかにいやらしく弛緩していることか。
侵略されたほうが敵のもっといい男に出会えるとかいう人はよっぽど出目のいい楽勝ラッキー人生だったんだろうなと思う。
不運すぎて誇り高くなってしまった人をただ褒め讃えているわけではない。むしろそういう人を見ると胸がざわめいて落ち着かない。
この時期になると思い出すこと。ただの吐き出しです。
クソながいのに何の有益情報もないです。書きなぐったので不適切な表現があるかもしれないです。
でも自分で書いたら全然まとまらず読みづらいことこの上なかったのでGeminiに情報を整理してもらってます。なので半分AIが書いた日記ですw
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家の近所を流れる川が氾濫し、この地域が50年以上前に洪水被害にあったことは知っていたけど、土地や河川の改良も進んでいるし、「まー大丈夫でしょ」と軽く考えていた。
当時は”線状降水帯”なんて言葉も一般的じゃなかったし、道路が冠水するほどの大雨もめったにないことだったので。
ところが新築から半年後の台風で道路が冠水し、床下浸水を経験。
その時初めて、この川は海との高低差があまりないため、満潮に大雨が重なると排水しきれず沿岸のあちこちで小さく冠水していたことやこの場所も周囲より少しだけ土地が下がっているので水が溜まりやすく、冠水しやすい場所であることを知った。
「土地選びを失敗したな、調査不足だったな」と後悔もしたけど、その後は道路が冠水する程度で済んでいたから車逃がすの面倒だな位で、そこまで深刻には考えていなかった。
家族で遠出して夜9時頃帰宅し、疲れてそのまま爆睡していた私達。
尋常じゃない雨音で夫が目を覚ましたのは、夜中の1時だった。
「外がやばい。道路が冠水してきたから車を避難させよう」と起こされ、私も飛び起きた。
いつもの場所に車を移動させるため外に出ると、すでに膝下まで浸水していた。
車を逃してしばらく様子を見たけど、水は引くどころか増すばかり…雨も全然弱まらない…
港の満潮時刻を調べると5時過ぎ。「まだ3時間もあるのに、これからさらに水位が上がるの?」と恐ろしくなった。
正常性バイアスが働いて大丈夫だと思おうとしたが、一応夫に「家具、上にあげた方がいいかなあ?」と聞くと迷わず「やろう!」との返事。テキパキと「ソファ!子供のランドセル!電子ピアノ!テレビも!」と指示を出してくれた。
階段を何往復もしながら窓の外の水位を気にしていたら、なんと家の中が水浸しに!!
浸水するときは窓や玄関の隙間から水が入ってくると思っていたから、窓や玄関がまだ無事なのに床下の点検口から水が溢れてくるなんて本当にまさかだった。
足が水に浸かりながら家具の避難を続けたものの、完全に思考停止して目についたメモ帳とかテレビのリモコンとか小さいものを運ぶ私。
そんな中、押し入れにしまってあったひな人形を思い出した夫、本当にGJだった。
和室の畳が浮いてリビングに移動し、床に置きっぱなしだった子供のおもちゃが散乱し、重たい木製のダイニングチェアやテレビ台までプカプカと浮いていた。
水の入り具合から「もうこれ以上は無理」と判断し、自分達も2階へ避難してベランダから見下ろすといつもの道も前の家のポストも隣との境界の柵も全部見えず一面泥水。
避難できなかった近所の車が水没し、コンピューターが壊れたのかライトを点滅させているのを呆然と眺めた。
私はなんかもう笑うしかなくて、一階に降りて水没した冷蔵庫や、浮かんでいく畳の動画と写真をずっと撮っていた。
(後で罹災証明書や保険請求に役立ったから、結果的にはよかった)
子供たちは前日のお出かけの疲れで夜じゅうずっと爆睡していて、それがせめてもの救いだった。
もしこの状況で子供のケアまで加わっていたら、私は耐えられなかったと思う。
少しだけ高くなっている場所に避難させたけど、この水量では無事じゃないかもしれない。
家が無事じゃない上に車まで失ったら、もう絶望だ。
不安を伝えると、夫は「見てくるよ」と言ってくれた、が、外に出ると、道路は夫の身長以上に冠水していた。
通常なら危険だから外に出たらダメだと引き返すところを、判断力が狂っていた私たちは「浮き輪で泳いでいけばいい!」という名(迷)案を思いついた。
子供の浮き輪を膨らませ、防水ケースにスマホと車のスマートキーを入れて出発した夫。
行ってらっしゃい、と見送った後、私は何をしていいかわからなくて、SNSでひたすら情報収集したり、インスタのストーリーにさっき撮った動画を投稿してみたり、窓越しに隣人と会話したりして気を紛らわしていた。
すぐに帰ってくると思った夫は一時間以上帰ってこなくて、電話もつながらなくて、ちょっと不安だった。
そうこうしているうちに空が明るくなって満潮時刻の5時を過ぎ、夫が浮き輪で出発してから2時間ほど経った頃、ようやく電話がつながった。
「冠水した水に流れができて、家に戻れない。今は20メートルくらい離れた家の塀に登って待ってる」とのこと。
車はタイヤの半分ほどが浸かっていたものの、無事だったらしい。
電話を切った私は隣人に夫の様子を伝え、お互いおかしなテンションで「塀の上だって、やばいねwww」と笑い転げながら話していた。
朝7時過ぎ、ようやく少しずつ水が引き始めた。
「2時間も幅10センチの塀の上に立ってた。足が痛い」そう言いながら、夫も無事に帰宅。
(この時は知らなかったけど、後から河川が氾濫していたと知り、一歩間違えれば流されて海だったかもしれないとゾッとした)
子供たちも起き出し、外の様子を見たいとせがんだ。
トラウマにならないか心配で控えめに見せたら非日常感にテンションが上がっていたようだけど、私は疲れ果ててとても付き合える気力はなかった。
夜中に投稿したストーリーを見た友人が、まだ道路に水が残る中大量のおにぎりや飲み物を届けてくれて泣きそうなくらいありがたかった。
隣人も「親戚がマックを買ってきてくれたから」と分けてくれたので、物々交換をしてとりあえずの食事タイム。
改めて家の中を見回すと、畳はキッチンにあり、床には泥だらけの家具や物が散乱していた。
壁も扉も柱も水を吸ってぶよぶよで、システムキッチンの引き出しも閉まらない。
買い置きの食材は水浸し。冷蔵庫も洗濯機も、数時間水に浸かっていたことを思うともうダメだろう。
頭が全然回らないまま外に出て、家から流れて行ってしまったスタッドレスタイヤを探しがてら近所を見て回った。(見つからなかった)
ご近所さんはみんな同じように混乱し、途方に暮れた顔をしていた。
「大変なことになりましたね」と声を掛け合い、励まし合わないとやっていけなかった。
台風一過で空が晴れ渡る中、両親や親戚が駆けつけてくれて片付けを開始。
私も夫もあまりのショックに頭が回らず、代わりに実母がテキパキと指示を出してくれて本当に助かった。
保険請求のために写真を撮りまくり、床の泥を水で流し、濡れたものを外に出して使えそうなものは洗った。
子供たちは邪魔にならないよう妹が実家で面倒を見てくれた。これも大助かりだった。
他にも、手伝いを申し出てくれる友人、
断水しているからと水を持ってきてくれる友人、
「食べ物ダメになったでしょ」と保存食を差し入れてくれる友人、
ペイペイで見舞金を送ってくれる友人…
その他にも本当にたくさんの人の温かさに助けられた。
(行政を通じていただいた義援金ももちろんその一つ。あの時募金してくれた人本当にありがとうございました。)
近所づきあいの大切さも改めて感じた。
手伝う人がいないお年寄りの家の畳を一緒に運んだり、自治会を通じて届いたお弁当を分け合ったり。
結局、仕事は1週間まともに行けず、片付けや保険請求、罹災証明書の発行、修理に関する補助金の情報収集などで走り回る日々。
家の修理も、みんなが同じ状況だから職人さんが足りず、見積もりが出るまでに数ヶ月。工事が始まったのは被災から数ヶ月後だった。
行政の補助はあったけど仮住まいの家賃だけで、水道光熱費は自己負担。(仕方ないけど)
今の家と二重でお金がかかるし、そもそも短期で契約できる物件は数少ない上に良い物件は同じ被害に遭った人との争奪戦。
環境の変化に弱い子供が「絶対に他の場所で暮らしたくない、家で寝たい」と懇願したこともあり、最終的には1階の荷物をレンタル倉庫に運び(補助対象外)、自宅の2階で寝泊まりすることにした。
実家に頼って食事とお風呂を済ませ、寝るためだけに帰宅する二重生活。
これはこれで環境が変わるので子供のメンタルが不安定になって大変だったし物がどこにあるかわからなくて(倉庫なのか自宅なのか浸水被害で捨てたのか)とてもストレスだったけど、なんとか乗り切り、改修が全部終わったのは被災から8ヶ月経った頃だった。
長い復旧の日々を乗り越えて今はもうすっかり元の生活に戻ったけど、あの日の記憶は消えない。
大雨や台風が来るたびに胸がざわつくし、洪水被害のニュースを見ると泣きそうになる。
それでも、あの日にたくさんの人に助けてもらったことを思い出すと、心が少しだけ強くなれた気がする。
これからもその支えを大事にしながら、不安と付き合っていくしかないんだろうなと思う。
線状降水帯、まじでもう二度と発生するなよ。って、雨が降るたびに思っているけど。
我が家は1階がピロティになっているマンションの2階の角部屋である。
1階部分には建屋は違うものの隣接してごみ捨て場が設置されていて、何棟か分のごみがわが家の横に集まってきている。
ごみ捨て場の近くとなると臭い等気にする人もいるかと思うけれど、引っ越して以来、管理がかなりしっかりしていることもあって何の問題もなく過ごせている。
ただ、、これが災害時となるとまずいのでは、と最近思っていて、ゴミ捨てとなるとまず皆捨て慣れたごみ捨て場に捨てるだろう。しかし被災しているのだから管理人さんは来ない、そして掃除もされない。収集もしばらく難しいだろう。
するとごみ捨て場はごみで溢れ虫と悪臭の巣窟になり、となれば一番にその被害に遭うのは一番近くのわが家なのだろうな…と想像がつく。
防災用品としてソーラーパネル付モバイルバッテリーを最近買ったものの、そもそも虫がひどくてベランダに出られる状況ではないのではないか??
どうなのだろう。これまでの被災地では虫や悪臭等の衛生面はどんな感じだったのだろう。
生活がままならない中で些末な出来事なのだろうか。虫が苦手な人はどうしていたのか…
因みにマンション自体の被害は作りがかなりしっかりしているようなのであまり心配していない。ピロティには地震に弱いとされているが、解放面が少ないタイプなので大丈夫なのではと思っている。
どうすんのこれ、、、どうすんの、、、
はっきり言いますけど、やる偽善とか言ってオタクの献血を評価するのは、ヤ⚪︎ザが被災地でおにぎり配る、まやかしと同じなので、被災したら、おにぎりは貰いますが、彼らの存在を許すなんかに繋がるわけが無いのです。 #オタクの献血— えそたんまほたん (@esotan7)August 29, 2025
ヤクザがおにぎりを配る行為を評価するのは自由
ただ、空腹で死にそうな人がおにぎりを受け取ることを邪魔するなと説明してる。
オタクの批判評価を献血批判に持っていくな。
オタクなんて「やらない善よりやる偽善」大好きなんだから、そんな台詞はけるチャンス逃すわけない— B鰤夫 (@bibliomagic)August 29, 2025
自由ではありません。お前らが何をやろうと社会の外であるって態度を示す事が重要なのです。オタクの献血もヤ⚪︎ザの被災地のおにぎりと一緒で、その行為自体を評価してはダメなんです。 — えそたんまほたん (@esotan7)August 29, 2025
初潮なんてそれまでの短い人生の中では最も印象深い出来事の一つだろうに、全く覚えていない。私はこんな風に、たまに不安になるくらい子供のころのことを覚えていない。
でもまあ、中学の時点では始まっていたと思う。プールの授業を見学していた記憶があるから。
肌が弱かったので、蒸れたり濡れた感じがしたりというのが不快だった。ちなみに神アイテムのウィスパーは1986年に発売され、2018年に販売を終了したらしい。自分で生理用品を買うようになってからはずっと使っていて、でもこの記事にある通り近年はソフィとかの方が快適だったので買ってなかった。長年お世話になりました。
生理痛も出血量もひどい方だったと思う。高校時代、部活のお使いで生理2日目に電車ででかけたとき、あまりに生理痛がひどくてホームでしばらくうずくまっていたのをいまでもよく覚えている。貧血もひどくて、鉄剤を飲んでいたのでいつもお腹が緩かった。
高校時代は水泳部で、タンポンの使い方を覚えた。母親は何も教えてくれなかったので(聞かなかった私も悪いが)、生理関係は水泳部の友達にずいぶんと教わった。
大学時代の生理の思い出は特にないな。ただ、とにかく定期的に来ていたことは覚えている。ほぼぴったり28日周期。1日目が一番生理痛が重く、2日目が出血のピークで5日くらい続く。そんな感じ。生理痛はひどくても薬を飲むのに抵抗があったので我慢していた。いま思えば普通に病院に行って薬をもらっておけばよかったのだけど、自分のその状態が異常だとは思っていなかった。小さいころ薬で蕁麻疹が出たことがあり、よほどのことがない限り薬は飲みたくなかった。いまならためらいなくバファリンを飲む。マジで楽。
生理との付き合い方がガラリと変わったのは30歳直前、海外に出てからである。ある事情で2年ほど海外で過ごすことになり、薬局で普通に売られている低用量ピルを飲んでみることにしたのだ。
いやこれが楽。あり得ないほど楽。いままでの苦しみは何だったのかというくらい楽。血栓のリスクがあるのは分かっていたけど、結局帰国後も個人輸入して飲み続けた。この経験はのちに少しだけ役に立つ。
ピルをやめたきっかけは東日本大震災である。直接の被害はなかったものの家が被災して帰れず、それどころではなくなってしまった。まあ潮時である。
東日本大震災の時は奇しくも生理中で、避難させてもらった親せき宅に着くまで半日ほどナプキンが交換できずに膀胱炎になってしまった。避難先は病院が普通に機能していたので薬を処方してもらえてすぐ治ったものの、被災して膀胱炎に苦しんだ女性も多かったんじゃないだろうか。
ちなみにこのとき私はうつ病の治療中で、抗うつ剤と睡眠導入剤の減薬をしており、抗うつ剤は順調に減らせていたものの眠剤はなかなかやめられなかったが、自宅に帰った数日後にスッパリと辞めた。普通に震度5~6の余震が来るので、眠剤で眠りこけていたら死ぬからである。なによりも、日中気を張りすぎているのか眠剤が効いてくる前に眠れるようになっていた。でも余震が来ると一瞬でぱっちり目を覚ます。いま思い出してもあのころの精神状態は異常だった。
ピルを辞めてからも、生理はきっちり28日周期でやってきて、でも昔ほど生理痛はひどくなく、出血量も減った。ピルの影響なんだろうか。
出産後も割とすぐ生理は戻ってきた。母乳の出が悪く、産後1か月で完ミ(って久しぶりに書いたな!「完全にミルク」の略である)に移行したからだろう。
私はすさまじい産後うつで(そのときのことを増田に書いてバズった。皆さん暖かい言葉をありがとう。元増田は元気だろうか→https://anond.hatelabo.jp/20201012164343)、心療内科での投薬開始と同時に、生理前の気分の落ち込みがひどいということで、今度はちゃんと産婦人科でかつて飲んでいたピルと同じものを処方してもらった。不安なく飲み始められたのは若かりしころの経験のおかげである。ちなみに抗うつ剤も前と同じものを処方してもらった。こちらの方が恩恵がでかい。抗うつ剤は自分に合うものを当てるまでが大変だから(前回大変だったから)。
産後うつは投薬と休養、出産からの時間経過によるホルモンバランスの落ち着きにより2年ほどで寛解し、抗うつ剤ピルともに投薬終了。しばらくはまた規則正しく来ていて、生理痛は重かったり軽かったりだったが、5年くらい前、45歳から、周期が乱れ始めた。しかも、よりによって早い方に、である。
28日周期だったのが、26日、24日、23日・・と早まってきたのだ。普通に生理痛もあり出血量もあるのに、その頻度が増えたということ。おかげで旅行の予定がとても立てづらくなった。勘弁してほしい。
で、突然50日くらい来ないというときも出てきた。ついにあがったか?!と思ったらまた始まる。その繰り返し。若いころなら迷いなく病院に行く周期の乱れ方だが、この歳だと普通にあることなので判断が難しい。長年子宮頸が軽度異形成~異常なしをフラフラしていたので余計に心配だったが、定期検査では特に大きな異常はなかった。
そして、今年の4月26日、前回から21日後というだいぶ早い周期で生理が来て以来、今日まで101日間来ていない。
閉経の定義は、生理が1年間来なかったこと、だそうなので、正確にはまだ閉経とは言えない。ただ、なんとなく体型や気持ちの変化があり、もう来ないような気がしている。
正直、生理が来ないのは楽だ。ナプキンは信じられないほど進化しているとはいえ、不快なものは不快である。生理痛も、薬を飲めば落ち着くものの、ダルさまでは消えない。それがなくなったのだ。
ただ、これからは別の不安におびえることになる。まずは骨粗しょう症である。私はすでに同世代の91%ほどしか骨量がない。そして私の祖母はひどい骨粗しょう症で、90を過ぎて大腿骨を骨折したが骨がもろすぎてレントゲンに写らなくて固定ができず、でも折れた骨がこすれて痛いということで足を切断した。怖くてしょうがない。
ホルモンバランスの乱れというのもある。これは産後うつで嫌というほど感じたやつだ。2回もうつ病に罹っているんだから絶対にリスクが高い。
更年期障害も避けられない。どういう症状が出るかは分からないが、生活に支障をきたすようなのが来ないのを祈るしかない。
そして、いま強く感じているのは確実に死に近づいているという恐怖である。
出産後も感じたことだけど、明らかに生物としての役割を終え、後続に道を譲る時期が来ているのを感じる。
生理だけではない。関節は痛いし老眼は進むし、寿命にはまだあるかもしれないけど体はどんどん衰えていく。
子供を見ていると、年寄りから死んでいくのは全くもって正しいと断言できる。とはいえ死の恐怖が消えるわけではない。
だからいまは、せめて健康寿命を延ばそうと、せっせとストレッチしたり運動したりしている。
若いころからは考えられなかったが、1日に1時間は自分のメンテに当てている。
とりあえず自分の子宮および卵巣お疲れさま。13歳で初潮だとしたら、36年間、ブランクは多少あったもののずっと働いてくれた。こんな風に人生の途中から始まり途中で終わり、かつこれほど長い間続いたものは他にないと思う。無趣味だし。
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評論家であり、日本維新の会の公認を受けて参議院議員選挙に立候補。
彼は過去に一度出馬を取りやめたものの、2025年7月の国政選挙に出直すことを発表しています。
政策としては、対中外交の見直し、帰化制度の厳格化、大量移民の阻止などを掲げています。
石平氏は「奈良に骨を埋めるつもりの帰化人」として日本愛を強調し、国難に立ち向かう決意を示しています。
来日してから日本国籍を取得しており、熱海市内の土石流災害被災経験をもとに市政に関心を持ち立候補表明。
熱海市内で中国物産の店舗を開業し、地域の日本と中国の友好団体で活動しています。
ただし、帰化申請中で許可が下りれば立候補可能という段階であること、帰化人としての政治活動に対しては賛否両論が存在しています。
韓国にルーツを持ち、日本国籍を取得して東京都議会議員選挙に立候補。
かつての高度な交通網・通信網が十分に保守できず、地方では故障した基地局や新幹線車両を“掘り起こして”部材を転売する個人業者が台頭。半導体を取り出す「都市鉱山」ビジネスがスラムの定番職業に。
百歳人口密度世界一となり、海外の医療・老年学スタートアップがフィールドワーク目的で村ごと受託運営。老人ホームが“生きた博物館”として見学料を取る逆輸入モデル。
電力・通信を自前でまかなうオタク技術者がクラウドファンディングで“町内向けミニ発電所”を量産。コミケのノウハウをインフラ構築に転用し、自治体より早くサービスを復旧。政府が後追いで許認可を出す「公→私」逆転現象。
光熱費高騰で煮炊きが贅沢に。魚粉を超圧縮した“出汁キューブ”が主食扱いになり、食卓は湯に溶かすだけの流動食化。結果として味覚の微差を競うオタク層がガストロノミーを牽引し、“お湯割り職人”が登場。
ネット速度が不安定になる中、テキストベース+8bit音声のみの軽量メタバースが復権。昭和レトロなドット世界が若者の主ステージとなり、「現実はハードだがオンラインは8kbpsで優しい」という逆転。
輸入労働者と高齢日本人が意思疎通するため、ひらがな+簡体字+絵文字を混ぜた即席言語が広がる。やがてインドネシアやフィリピンに伝播し“コンビニピジン”として逆輸出。
中央税収が細り、巨大企業が道路補修や水道維持を肩代わり。結果としてトヨタ藩・ソニー藩・楽天藩など“企業領国”が自治権を持つ。住民は「どの藩に所属するか」を就職ではなく“帰属”として選択。
正規軍維持が難しくなり、個人オーナーのドローンをスマートコントラクトで束ねたバーチャル傭兵団が離島防衛を請け負う。トークン配当で機体を共有保有する“戦争版NFT”が出現。
高層マンション維持費が出せず、上層階が無人化。1–10階は低所得者が占拠、20階以上はクリエイターが格安アトリエとして使用。エレベーター運賃が電動キックボード並みに課金制に。
公教育が縮み塾も淘汰される一方、オープンソースLLMを使った“寺子屋AI”を町内で共同運営。江戸時代さながらの私設学習所にハイテクが融合し、学習の地域格差がむしろ縮小。
海外スタジオが費用を持ち、日本で食えなくなったマンガ家を国外アトリエに“流刑”する制度を創設。現地産業振興と日本マンガ存続を同時に図る“負けて勝つ”クールジャパン2.0。
国家保険崩壊後、外国製新薬のフェーズⅢ治験が日本全土で実施。高齢者が参加して医療費を浮かせる“治験ツアー”が一般化し、治験成績優秀者には「ゴールド被験者カード」が発行。
鎌倉大仏の譲渡担保で港湾を改修、浮世絵一括担保で衛星を打ち上げるなど、美術品がデジタル資産化され国際市場を回遊。やがてDAOが国宝を分割所有する“分散保護”へ。
災害多発と公的補償低下を受け、自宅をリビングシェルター化した住民が“被災シェアリング”の株式を発行。豪雨で止まった地域に対し、家ごと貸し出し配当を得る“寡占シェルター市場”が発展。
「町が無人になる瞬間」をYouTuberが24時間中継し、スーパーチャットで遺跡保存費を賄う。人口ゼロ記念セレモニーが国際的イベントに──“負の達成感”をコンテンツ化する逆転思考。
京王電鉄の新宿西口再開発が未定になってしまったというニュース。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.watch.impress.co.jp/docs/news/2002365.html
ただ、この中心となる京王デパートの土地、そして南街区の一部というのは実は京王電鉄は購入してないのだ。デパートの下には京王線の駅があるんだが元々京王電鉄の駅はここじゃなかったのだ。購入してないのに所有権が移転したのでありますな。そして元々この土地を地上げして権利を得ていたのは実は東急の後藤慶太なのだ。
この棚ボタ土地ゲットには実は戦争が絡んでいるのだ。具体的には戦時統制と敗戦後の占領政策が関係している。
そこをさらっと紹介したいと思う。
明治以降、帝都東京府東京市には様々な鉄道会社が立ち上がり路線を伸ばしていった。そのうち、買収合併を繰り返して「路線網」を形成する会社が出来ていった。城東の東武鉄道、京成電鉄、城西の西武鉄道、目黒蒲田電鉄(後の東京急行)の4つ。
今では鉄道会社はお固い業種だが、当時はそういう訳でもなかった。というか、西武の堤(ピストル堤)、後の東急の後藤慶太(強盗慶太)はかなりヤクザっぽい。手口もそうだし堤はスーツもヤクザで見るからになのだ。一方、東武鉄道の社主、根津嘉一郎は日中の古美術品を収集する文化人で派手を嫌い茶人。美味しんぼに出てくるような文化的素養が高い経営者だ。
ビックカメラの歌が戦前に有ったら「不思議な不思議な電気鉄道、東が文化人で西ヤクザ」と言った処か。
東京西側のうち、中央線の北側は田舎で畑だらけ、人口密度も低かった。一方南側は都市化が進んでいて人口も多く、横浜などの人口が多い京浜地区にも近い。その為に中央線南側には沢山の鉄道会社の路線が引かれることになった。
日中戦争が激しくなると共にナチスドイツ、イタリアと枢軸を形成すると、統制経済に移行する。鉄道の場合、インフラなので資源の効率化と経営の安定の為の資本の強化策として陸上交通事業調整法が施行される事になった。これはバス鉄道会社を有無を言わさず大資本に吸収させるというものだ。東京の場合は、先の東武、京成、西武、東急に全部合併させる。
この時に沢山あった中央線より南の私鉄はほぼ全部東急となったのであった。いわゆる大東急である。
具体的には、帝都電鉄(井の頭線)、京王電鉄、小田急、現東急線(東横線、池上線、目蒲線、大井町線)、京浜急行が全部東急。
因みに、地下鉄銀座線の渋谷~新橋も東急が所有していたが、こっちは同法によって出来た帝都高速度交通営団に取られてしまった。
京王線だが、元は始発駅は新宿西口ではなかった。もっと繁華街に近い「新宿追分駅」が始発だったのだ。
https://maps.app.goo.gl/vR4k78vXPLoueEK99 (ビルの上にKEIOの社紋)
https://maps.app.goo.gl/hnwYN9uwZT783SuH9
にかけてが京王線始発駅だったのである。このビルにもKEIOの社紋があるのが分かるだろう。この二つは京王の所有なのだな。
で、この駅を出た電車はなんと甲州街道の真ん中に躍り出て、道路の真ん中を走っていた。陸橋を登って新宿南口の前の駅(殆ど電停だが)で停まり、坂を下ってそのまま甲州街道の真ん中を走り、文化服飾学園の前で専用の線路に入る。
https://tks-departure.sakura.ne.jp/keio-shinjuku.html
電車が道路から駅に入る写真があるが、今のこの場所がIKEAなのだから驚きだ。
戦争末期、東京を焼き尽くすB29が現れるようになると初台にあった変電所も被災してしまう。すると変電所から新宿までが遠くなり、電圧が落ちてしまい新宿南口の甲州街道陸橋を電車が登れなくなってしまった。
仕方ないので客が全部降りて陸橋の上まで空で走りまた乗ったり、それでも登れないので客が電車を押したりと危ない事をやっていたらしい。
結局モームリって事で、坂の下で運転を打ち切る様にしたが、路上で切符の販売とかどうすんだって話でもあるし、転轍機がある駅まで複線を逆走する事になるしで無理もいいところだ。当時京王線を所有していた東急は困ってしまった。
ところがこれには決定的な解決策があったのだ。
国策で一気に城西地区の鉄道王になってしまった後藤慶太と東急だが、ターミナル駅が散らばっているのが気になる。元京浜急行:品川、元東急と井の頭線:渋谷、元東急:目黒、五反田、小田急と京王:新宿だ。
官営鉄道が線路幅1,067mmの狭軌を採用したのでこの線路幅が日本の標準になっていた。
大東急が所有する中で、京浜急行と京王はこれよりも広い線路幅であるので互換性が無い。でもその他の路線は日本標準の線路幅なので乗り入れが可能だ。
であれば、共に幹線の東横線と小田急線を乗り入れで連絡したい。しかも新宿駅西口の改良計画がある。
って事で、東横線中目黒から分岐して小田急線代々木八幡駅付近で合流する線路の計画を立てた。この区間には現在山手通りがあるが、途中まで川筋があるので高低差が少なく、トンネルを掘る量が少なくて済む。
そこでまずは参宮橋駅付近から新宿駅までの小田急線線路脇の土地を地上げでゲット。ここは複々線化用地である。現在でもこの区間は線路脇に空き地が残っている。
ところが…
戦況が芳しくない。経済もどんどん窮乏してくる。戦争に取られて物資も労働力も無い。これでは工事どころではない。
だからこれら用地は新宿付近で押さえただけで放置されたままになってしまった。
そこに起きたのが先の空襲による京王線陸橋登れない事件である。
東横線新宿駅用地は折り返し地点になった陸橋下交差点のすぐそばだ。だったらそこに駅を臨時で作ってしまえば!?
ってことで、東横線工事も進捗できないどころか戦争に負けそうな状態で最早それどころではない、だったら東横線新宿駅は諦めて臨時の駅を造り、交差点で急カーブさせてそこを終点にすればいい。交差点から追分駅までは廃止。
という事で、東急が押さえた土地に駅を作ってそこが終点になった。勿論工事をやったのも東急だ。だってその時は京王線は東急だったのだから。
空から現地を見てもらうと判り易い。
https://maps.app.goo.gl/9e6JNhFXD5Zt7Git8
京王デパートの下が今の京王線新宿駅だ。西新宿1丁目交差点から急カーブで入っていたのだね。
そして京王デパートから小田急線の踏切(地下に大江戸線が走る)までの区間の小田急線路寄りも東急が地上げで押さえた土地だ。
戦後にここは売りに出されて、国鉄が取得→国鉄本社→JR東本社という経緯を経ている。
日本は戦争に負けてGHQに占領された。戦中に合併した資本はファシズムを支えたものであるから解体されることになる。
過度経済力集中排除法が施行されて財閥は解体された。
後藤慶太も公職追放され、大東急も解体される事が目に見えていた。
そこで後藤は株主総会で大東急分社化を提案し自ら解体する事を選んだ。
こうして京王、小田急、東急、京浜急行の4つに分かれる今の形になったのである。
ところで井の頭線は京王が所有する事になった。ところが、井の頭線は元は帝都電鉄という私鉄で、それが小田急に買収→東急と来て何故か京王に付いて来てしまった。
戦争が終わって合併解除されたら、新宿駅にターミナルが出来てるし、新宿三丁目の繁華街に元の駅の土地が残ってるし、井の頭線も付いてきてる。なんかやたら京王だけ有利な条件で棚ボタが多すぎるんでありますな。
甲州街道の真ん中を大きい電車が走るという光景は1963年まで見られた。http://jorctk.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-9299.html
駅は63年に地下化されたが、この上にデパートを建てる事が出来た。無償で得た土地の大活用である。
https://maps.app.goo.gl/QxcauHLWBichSbEr6
これは何かと言うと、京王線のトンネルの上に建っていたのだ。というか、トンネルと躯体が一体化していた。勿論所有者は京王電鉄である。(最初は地権者は別で地上権設定だったのを後に所有権を買い取った)
今は再開発の為に解体されてなくなっているが、上から見たら京王線のトンネルが見えるんだろうか?上から見る機会が無いので不明だが興味津々である。
ここの葵通りという道路。
https://maps.app.goo.gl/F6jK1GiTz9zGc1iA7
実はこの下には玉川上水が通っている。とすると、この突き当りにあるビルの下も上水なわけで、このビルの場所は2000年頃まで建物が建っていなかった。上水設備=東京都水道局管理地なので建てられなかったのだ。
では今は誰がこの土地を取得していたの?となるが、実はこのビルの所有者は東京都なのであった。
京王線新宿追分駅跡のIKEAの甲州街道反対側に新宿4丁目地区があるが、この一帯には安ホテルが数件ある。
実はここは元はドヤ街で、日雇い労働者向けの簡易宿泊所が密集していた。宿泊費は今の物価なら800~1200円ほど。
その後日本が豊かになって廃れ、一部は安ビジネスホテルとなって生き残った。新宿駅徒歩数分、三丁目から1分という好立地で一泊5000円程で泊まれる超絶穴場だが、どこも余りにもやる気が無く、営業してるかよく分らんところばかりなのである。実に勿体ない。だから宿泊の穴場と云うよりインバウンド客向けB&Bやホステル経営物件をゲットできる穴場と言えるかも。
このメールを配信した中には、被災されている方が多数いると思います。
直接的な力にはなれないですが、
帰宅して、実際の東北の方に比べる程のものではないですが被災の怖さを感じました。
さて、先日は咄嗟のメールだったので、返信しなくても大丈夫ですからね。
会社は大丈夫です。揺れは大きかったですが、今のところ大きな事故・怪我の連絡は入っていないです。
本当は週明けに全員に送ろうと思っていたメールです。
こんなことくらいしか出来ませんが、履歴書とESをお送りします。
ただ、非常に厳しい条件をつけさせていただきます。
その条件とは1点だけです。
書類選考を希望される方は、添付の専用履歴書とエントリーシートをご確認いただき、
3月15日(火)消印有効でその2枚をセットにし、下記までご郵送ください。
直前に説明会へ予約が出来た場合は、ひとまず書類持参でお越しください。
自分で考えてみてください。
皆様にも言いたいこと、不満があるのは重々承知していました。
全部ではありませんが、私も様々な心の奥にある声を見て・聞いています。