
はてなキーワード:衝動買いとは
【構造的頂き女子論 ──「女であること」そのものが最強の美人局であるという残酷な真実 約5000字】
この世で最も成功している詐欺は、加害者本人が「自分は被害者だ」と本気で信じ込んでいる詐欺である。
そして日本で現在進行形で最大規模に展開されているのが、いわゆる「構造的頂き女子」現象だ。
「おごられた!!新しい性被害、まるで消費されたかのように扱われた彼女たちの末路、奢られた!!魂の叫びを聞け!!」
しかし同じフレーズを、わずかにトーンを変えるだけでこうなる。
「おごられた!!(←貢がされた男が悪い)
まるで消費されたかのように扱われた(←身体は一切触らせてないけど)
彼女たちの末路(←次のカモを探すだけ)
奢られた!!(←だからまた奢って♡)」
「私は身体を売ったわけじゃない」
・100万円もらった → 「貢いでくれたのは向こうの自由」
・キスまではさせた → 「好きだったから……(でも本番は絶対イヤ)」
そして男が「会ったんだから抱かせてくれ」と言う瞬間、
身体を一切提供していないという事実が、永遠の被害者証明書になる。
意識ゼロ、無自覚、しかし確実に「女であること」を使って金をせしめている。
・キャバ嬢
・「奢られただけなのに怖かった」系インフルエンサー
全員が同じ構造の亜種にすぎない。
4. 「そこにいるだけで得する」ことの恐ろしさ
日本の社会は、未だに「女=弱者」という前提を捨てきれていない。
その前提がある限り、女は「そこにいるだけで自動的に得をする」ポジションを確保できる。
・笑顔を見せるだけで「癒された」と言われる
・奢られただけで「被害者」になれる
しかもこれらすべてを「私は何もしてないのに……」と被害者ヅラしながら実行可能。
構造的に、女は「被害者でありながら加害者になれる」特権階級に置かれているのだ。
5. 男の「期待」が悪いという最終奥義
「男が勝手に期待したのが悪い」
・奢った →勝手に期待した
・貢いだ →勝手に期待した
・好きだと言った →勝手に期待した
すべて「男の自己責任」に変換される。
女はただそこに「存在していただけ」なのに、
男は「期待した罪」で地獄を見る。
これほど理不尽で、しかし誰も否定できない論理があるだろうか。
もはや「奢られた」ことすら主張しなくなった。
「一緒に写真撮っただけなのに、変な噂流されて……」
「私は傷ついた」と泣けば、周囲は全員味方になってくれる。
7. なぜ絶滅しないのか
簡単だ。
・「女は弱い」という幻想を捨てられない男たちがいる限り
・「奢る=優しさ」の呪縛が解けない限り
「おごられた!!」という叫びは、
女が「底にいる」だけで自動的に得をして、
その得を最大限利用しながら、
「私は弱い立場なのに……」と泣ける。
そして悲しいことに、
このシステムに気づいた男は「女嫌い」になり、
気づかない男は一生貢ぎ続ける。
どっちに転んでも、
奢られた!!
(そしてまた奢られる!!)
・かどまるPRONEO→湿布を半分に切った時の角を丸くしたかったけど無理過ぎた
・フィリップスソニッケアーコードレスパワーフロッサー2000→つい先日買ったのだが、風呂場に持っていき忘れて使わない予感
・PARKVISION自転車バックミラー 1080Pリアビューカメラとモニターセット→面倒で未だに取り付けていない。もう雪が降るのでチャリ乗れない
・ドリンクメイトマグナムグランドスターターセット→いわゆる炭酸メーカー。全然使ってない
・アイリスオーヤマたこ焼き器 2WAY→全然使ってない(一回必要だったから買ったんだけど、もう一回使っただけでしまい込まれている)
・ティファールミキサー600mlコンパクト300Wハイパワーミル付きミックス&ドリンクネオスムージーBL13C5JP→全然使ってない
・象印マホービン炊飯器極め炊き 豪熱大火力圧力IHタイプNW-CB10-BA→予約注文して買った某ブランド米を炊く為に購入し、1回炊いただけ。せめて年末にはもう一回炊こうと思う
など。Amazonの購入履歴だけ見てるので楽天その他でも失敗してるかもしれない
商品の出来は良い(買う時に精査している)が、「使わない」
衝動買いしてない積りだが、熟考してポチって結局使わないというオチ
厳密には「失敗」ではなく、「不要」
ずっと使っていた古いAirPodsが充電できなくなった後、有線イヤホンでしばらく凌いでいたのだが、いよいよ今回のブラックフライデーでAirPods4を購入した。
届くまでワクワクして待ち、届いてからもノイズキャンセリングや空間オーディオなどの機能をニコニコ試し、良い買い物をしたと満足していたのだが、特別音質などにこだわりがある人間ではないため、AirPods4が当たり前になってしまうと、結局のところ音楽を聴くという本質自体は有線イヤホンと変わらないんだよな、別に買わなくても困りはしなかったよなという気持ちになってきた。
自分はAirPodsそのものにウキウキしてたわけじゃなくて、生活必需品ではないし衝動買いするには高いものを買うかどうか悩んで、勇気を出して買い、手元に実物が届いて、新機能を試すというプロセスにウキウキしてたんだなあ。通販中毒の人とかも買い物自体が楽しいんだろうな。未知が既知になると一気に興醒めしてしまった。もちろん買って後悔したというわけではないので、たまに有線イヤホンを使って、AirPodsの新鮮さを確かめることにしたいと思う。
「お母様は、境界知能なのではないでしょうか」
と言われて、はっとした。
これまで感じていた違和感が、すべて繋がったような気がした。
大人になり母が自分を産んだ年齢に近づくにつれて、母親の精神年齢の低さを実感することが増えた。
母は単なるヒステリックババアだと思っていたが、よく考えてみたらいろいろとおかしな点があったのだ。
まず、語彙が少なすぎる。
自分で言うのも何だけれど、どちらかといえば私は語彙が豊富な方であると思う。
しかしそれを抜きにしても、あまりに言葉を知らなさすぎるのだ。
レクリエーション、秀逸、杞憂、齟齬、前衛的、などの言葉がわからない。
タンクトップ、キャミソール、ノースリーブの違いがわからない。
語彙の少ない幼少期は特段困ることはなかったが、思春期頃に入ると会話が成り立っていないなと感じることが増え、それなりにストレスを感じていた。
話し合いの中で、母は子どもに自分の知らない言葉を使われると、決まってため息を吐き、徹底的に子どもの言い分を無視した。
限界値を突破すると「何を言っているか分からない!うちの子はバカでどうしようもないんだ!」と泣き喚く。そのおかげでわたしは長年「自分はバカで言葉遣いがおかしいから、何を話しても他人に伝わらない」という呪いに縛られてきた。
世間を知らなさすぎる。
田舎から出たことがない、という生い立ちも関係するのかもしれないが、時事ネタや世間の流行を知らない。世情やニュースの話をしても全く通じない。
近所の◯◯さんが離婚したとか、◯◯ちゃんがどこどこに就職したとか、それ何年前の話?というようなクソどうでもいい田舎ゴシップばかり延々と話している。
また、クイズ番組で母が正解している様子を見た記憶がほとんどない。そのくせ子どもが間違った回答をしたり答えられなかったりすると「あんたはバカだね」とか「学校で何を勉強してるの?」とか言ってくるので、無垢なわたしは「おかあさんは相当頭がいいんだな」と思っていた。
そして、無知を補うために平気で知ったかぶりをするし、見え透いた嘘もつく。
自分の過ちを認めない。
どんなに自分が間違っていたことが明白でも、ごめんなさいが言えないし、ミスを隠そうとする。
母はあまり仕事が長続きするほうではなかったのだが、このあたりが原因だったんじゃないかと思う。
仕事のミスを隠すためと言って、金銭を要求されたこともあったので。
人間だから多少の浮き沈みがあって当然なのだが、それにしたって…と思うところが多々あった。
怒りをコントロールできず、頭を掻きむしってうううう!!!と唸る場面もよくあった。
反対に楽しい気持ちもコントロールできないので、騒いではいけないような所で大声を出したりする。
金銭感覚がズレている。
そしてモノへの執着心が凄まじい。
わたしの母は安物買いの銭失いタイプで、安いものをなんでも欲しがった。
流行遅れの服を何十枚も買う。そしてその服を着ることはない。
誰かがいらないと言ったものはなんでももらってくる。洋服、アクセサリー、家電、家具、化粧品のサンプル、とにかくなんでも。
そして母は、犬さえも「衝動買い」した。
金銭的な余裕もなく、生活スペースもなく、家族に相談することもせず、しつけの仕方もわからないまま、安くなっていたからという理由で。
そして近所の人たちに「衝動買いしちゃったの〜」と言いふらしていた。わたしは本当に引いた。
可愛がっているようには見えるが、父親は犬にも平気で暴力を振るうし、メンチカツとか抹茶アイスのような食べ物を平気で与える。母はそれを静観している。
しつけをされていないので、トイレを覚えておらず、家で糞尿を垂れ流している。汚れ防止のために四六時中おむつで生活させられているので、陰部の毛が黄色く染まっている。
犬に罪はないし可愛いなとも思う。でもこの犬を見ていると、心が苦しくなる。
正直おかしい点を挙げたらキリがないのだけど、わたしとしてもちょっと吐き出したいだけだったのでこのへんにする。あんまり詳しく書くと身バレしそうだしね。
親が境界知能だと明確な診断をもらっている人はどんな感じなんだろう。
周りに似たような境遇の人が誰もいないから、インターネッツの海に放流してみる。
感情に任せて書いた文章なので、言葉足らずで稚拙な部分も多々あるけど、読んでもらえて感謝してます。
いろんなコメントあるので補足的なやつを。
わたしは鬱と不安障害があるので、医療機関と提携したカウンセリングを受けているよ。
コメントにもあるけど、カウンセラーの先生は、あくまで可能性を提示しただけであって、診断を下したわけじゃないっていうのがわたしの認識。でもちょっと断定的に書いちゃった部分もあるから、それは良くなかった。ごめんね。
わたし自身の知能は分からないけど、ADHDではある。ちなみに兄弟は中度知的障害。そのへんも踏まえて、もしかしたら…っていう話だった。ただやっぱり親自身に検査を受けてもらうというのは難しいだろうから、自分の中でこういった仮の結論付けをすることですこし楽になるかも、というような感じだったよ。
あと、わたしは高校を出てからずっと親とは別居していて、犬を飼ったのはその後のこと。
そして…読んで分かる通り、父親もかなりヤバいです。(それもちゃんとカウンセリングで話してるよ)
でも今回は母親にフォーカスを当てたかったので、そっちの話を中心に書いてたら、なんの脈絡もなくとつぜん暴力ジジイが登場する感じになっちゃった。ホンマに文章が下手でごめんよ…
追記はもうしないと思う。疲れちゃうからね。本当にちょっと吐き出したいだけだったんだ。仲の良い友達は家族に恵まれている人が多くて、親を悪く言うと糾弾されることが多いから、気持ちの捌け口が欲しかったんだよね〜
読んでくれてありがと!
Permalink |記事への反応(30) | 23:04
一ヶ月前、冷蔵庫を捨てた。
壊れたからではないし、引っ越しのタイミングでもない。単純に「もう要らない」と思ったからだ。誰に頼まれたわけでもなく、自分の意志で、冷蔵庫のある暮らしに終止符を打った。
毎週末の買い出し、増えていく調味料の瓶、冷凍庫の奥から出てくるいつ買ったかも覚えていない肉や餃子。野菜室の底で液体になったピーマン。パックの期限が切れた豆腐、干からびたきゅうり。
そんな呪文を毎日心の中で唱えていた。冷蔵庫の扉を開けるたび、目に入るのは義務と管理の塊みたいな食材たち。もううんざりだった。
だから思い切って処分した。古い小型冷蔵庫だったので、粗大ごみとして申し込んで、業者に引き取ってもらった。その後の部屋は、驚くほど静かだった。
最初の数日は「本当に大丈夫か?」という不安があったのも事実。でもその不安は、すぐに解放感へと変わった。
まず、食べ物を腐らせることがなくなった。そもそも保存しないのだから、腐る心配がない。
今は基本的に「その日に食べる分しか買わない」と決めている。外食やコンビニ、スーパーの総菜、たまにパン屋で買ったサンドイッチ。気分次第で自由に選ぶ。その自由さが、思った以上に心地よい。
「贅沢じゃないの?」とよく言われる。けれど、実際には冷蔵庫があった頃よりも食費はむしろ安くなった。理由は単純で、「余らせる」「無駄にする」がゼロだから。あと、調味料や食材をストックしなくなった分、衝動買いもしなくなった。
電気代も減った。小さな冷蔵庫でも、常に稼働しているだけで月に1,000円〜1,500円はかかっていた。それが丸ごと消えたのは地味に嬉しい。しかも、深夜に聞こえる「ブーン……」というあの微妙な機械音がなくなったことで、部屋の静けさが増した。寝るときの快適さが全然違う。
これまでは「冷蔵庫にあるもので何とかしなきゃ」という発想だった。卵が残ってる、キャベツが傷みかけてる、鶏肉が期限ギリギリ。だからそれを中心にレシピを検索して、適当に何かを作る。
でも今は、「自分は本当に何が食べたいのか?」を、ダイレクトに問いかけられる。
今日はあっさりしたものがいい、とか、少し贅沢して外で定食でも食べようかな、みたいな。選択が“足りないもの”ではなく“望んでいるもの”から始まる。それがすごく健全な感覚だった。
あとは、空間的な変化も大きい。
冷蔵庫がなくなってキッチンが広くなった。狭いワンルームで生活している自分にとっては、その“1畳分の余白”が信じられないくらいありがたい。掃除が楽になったし、気持ちにも余裕が生まれた。
冷蔵庫がないと、買いだめもできないし、ストックでごまかすこともできない。だから、自然と「質」で選ぶようになる。野菜がちゃんと入っているお弁当を選んだり、化学調味料の少ない惣菜を探したり。結果的に、ジャンクに傾きすぎることもなくなった。
「ちゃんとしたご飯を作ってこそ大人だ」とか、「冷蔵庫がないなんて信じられない」とか、世の中にはいろんな価値観がある。
でも、私はもう冷蔵庫のない暮らしのほうが、よほど“自立”していると思っている。
冷蔵庫がある暮らしは、「安心」をくれるけど、同時に「管理」と「義務」もついてくる。
冷蔵庫がない暮らしは、「不便」に見えるかもしれないけど、「自由」と「選択」がある。
どちらが良いかは人それぞれ。でも少なくとも私は、今の暮らしにかなり満足している。
毎朝、静かな部屋で目を覚ますと、どこか身軽な気分になる。
冷蔵庫がなくても、ちゃんと生きていける。むしろ、自分の感覚を取り戻した気がする。
そして、案外楽しく暮らせている。
家を買った。
数ヶ月におよぶ物件探しと、終わらないローン計算、毎週末の内見、冷たいコンクリートの床に膝をついて、図面をにらみ続けた果ての、ちいさなマイホーム。
「ちいさな」って言葉、まさか自分の家に使う日が来るとは思わなかったなあ。
実家と比べたら——もう、比べるのもバカバカしいってわかってるけど——いちいち劣って見えてしまって、引っ越しの日なんてちょっと涙ぐみそうになった。嬉しくて、じゃなくて、惨めで、ね。
そして、その新居にやってきた母が、開口一番、こう言った。
……え、そこまで言われるような家、だった? って、思った。
もちろん言葉には出さなかったけど、脳内では100回ぐらい叫んだ。「この“まあまあ”のために、私はどれだけ血を吐く思いでがんばったと思ってるのよ」って。
不動産も、株も、現金も。ざっと数億円。人生で「カラカラに乾いた財布」っていうものに出会ったことすらないような人だ。
けれど、その豊かさは、なぜか私の代でぴたりと止まった。いや、もはや、ここで絶やすつもりらしい。
私は、家を買うとき、ほんの少しだけ援助を受けた。ほんの、ほんの少し。
「これで足しにしなさい」って言いながら渡されたそのお金には、どこか“情け”みたいな湿っぽさがついていて、受け取ったあと、手を洗いたくなったのを覚えてる。
一方で父は、昔から財産をチラつかせて言うことを聞かせようとしてきた。
「あの土地はお前にやってもいい」「将来のために今は我慢しろ」って。
でも、あの土地も、あの金も、結局は“母の実家のもの”だった。つまり、父のフリをしてきたただの管理人。
親の持ってる富と、私の持ってる現実。
そのあいだの深い谷を、ずっと飛び越えようとしてきた気がする。
でも、飛び越えられなかった。親の世代の「豊かさ」って、私たちには渡されないシステムだったらしい。使い切って、終わり。
私が家を買ったという事実は、「ようやった」じゃなくて、「まあまあ」になる。
たぶんその言葉のなかには、母のうっすらした哀れみとか、「自分ならこうはならなかった」っていう見下しとか、いろんな感情が詰まってる。
でも一番つらかったのは、「その家に私が住むのが、当然のこと」みたいな空気だった。がんばったね、のひとこともなく。
なんていうか、悔しいんですよね。
お金が欲しかったわけじゃない。いや、正確に言えば、お金は欲しかったけど、それ以上に「祝福」が欲しかったんだと思う。
私は私なりにがんばって、この“まあまあ”の家を手に入れたんだから、せめてちょっとくらい誇らせてほしかった。
子どもが何かを成し遂げたって、それは「親の補助がなければできなかったこと」に分類されてしまう。
実際はほとんど自力だったとしても、ほんの少しでも援助があったら、全部“親の功績”になる。地味に地獄。
だけど、そんな“まあまあ”の家で、私はいま毎朝コーヒーを淹れている。
陽の光が差し込むリビングで、ちょっとボロくなったソファにもたれながら。
この家は、たしかに実家ほど広くないし、ゴージャスでもない。でも、冷蔵庫の中のプリンも、洗面所のうがい薬も、ぜんぶ自分で選んだものだ。
“まあまあ”どころか、案外、すごくいいものだったりするんだよね。
どうしようもなく悔しいし、わかってほしかったって気持ちは消えない。
でも、母の“まあまあ”に傷ついたのと同じくらい、いまの暮らしにちょっとずつ誇りを持ち始めてる自分もいる。
私は“まあまあじゃない私”になっていく途中、なのかもしれない。
家を買った。
数ヶ月におよぶ物件探しと、終わらないローン計算、毎週末の内見、冷たいコンクリートの床に膝をついて、図面をにらみ続けた果ての、ちいさなマイホーム。
「ちいさな」って言葉、まさか自分の家に使う日が来るとは思わなかったなあ。
実家と比べたら——もう、比べるのもバカバカしいってわかってるけど——いちいち劣って見えてしまって、引っ越しの日なんてちょっと涙ぐみそうになった。嬉しくて、じゃなくて、惨めで、ね。
そして、その新居にやってきた母が、開口一番、こう言った。
……え、そこまで言われるような家、だった? って、思った。
もちろん言葉には出さなかったけど、脳内では100回ぐらい叫んだ。「この“まあまあ”のために、私はどれだけ血を吐く思いでがんばったと思ってるのよ」って。
不動産も、株も、現金も。ざっと数億円。人生で「カラカラに乾いた財布」っていうものに出会ったことすらないような人だ。
けれど、その豊かさは、なぜか私の代でぴたりと止まった。いや、もはや、ここで絶やすつもりらしい。
私は、家を買うとき、ほんの少しだけ援助を受けた。ほんの、ほんの少し。
「これで足しにしなさい」って言いながら渡されたそのお金には、どこか“情け”みたいな湿っぽさがついていて、受け取ったあと、手を洗いたくなったのを覚えてる。
一方で父は、昔から財産をチラつかせて言うことを聞かせようとしてきた。
「あの土地はお前にやってもいい」「将来のために今は我慢しろ」って。
でも、あの土地も、あの金も、結局は“母の実家のもの”だった。つまり、父のフリをしてきたただの管理人。
親の持ってる富と、私の持ってる現実。
そのあいだの深い谷を、ずっと飛び越えようとしてきた気がする。
でも、飛び越えられなかった。親の世代の「豊かさ」って、私たちには渡されないシステムだったらしい。使い切って、終わり。
私が家を買ったという事実は、「ようやった」じゃなくて、「まあまあ」になる。
たぶんその言葉のなかには、母のうっすらした哀れみとか、「自分ならこうはならなかった」っていう見下しとか、いろんな感情が詰まってる。
でも一番つらかったのは、「その家に私が住むのが、当然のこと」みたいな空気だった。がんばったね、のひとこともなく。
なんていうか、悔しいんですよね。
お金が欲しかったわけじゃない。いや、正確に言えば、お金は欲しかったけど、それ以上に「祝福」が欲しかったんだと思う。
私は私なりにがんばって、この“まあまあ”の家を手に入れたんだから、せめてちょっとくらい誇らせてほしかった。
子どもが何かを成し遂げたって、それは「親の補助がなければできなかったこと」に分類されてしまう。
実際はほとんど自力だったとしても、ほんの少しでも援助があったら、全部“親の功績”になる。地味に地獄。
だけど、そんな“まあまあ”の家で、私はいま毎朝コーヒーを淹れている。
陽の光が差し込むリビングで、ちょっとボロくなったソファにもたれながら。
この家は、たしかに実家ほど広くないし、ゴージャスでもない。でも、冷蔵庫の中のプリンも、洗面所のうがい薬も、ぜんぶ自分で選んだものだ。
“まあまあ”どころか、案外、すごくいいものだったりするんだよね。
どうしようもなく悔しいし、わかってほしかったって気持ちは消えない。
でも、母の“まあまあ”に傷ついたのと同じくらい、いまの暮らしにちょっとずつ誇りを持ち始めてる自分もいる。
私は“まあまあじゃない私”になっていく途中、なのかもしれない。
増田の母親は掃除が全く出来なくて、幾つもの家をゴミ屋敷にしてきた。聞いた話では、祖母もゴミ屋敷だったので、遺伝とかもあるんだと思う。
母は他にもヒステリーなところがあったり、外出しても毎回家の鍵をかけたか心配になったりと、発達障害や強迫障害みたいなのもあるんだろう。
家族が勝手に掃除したりすると「勝手なことをしないで!」とヒステリーになる。精神科を受診して欲しいが、勧めようものなら、ヤバいぐらいに気を狂う。
そんな母でも生活が出来たのは、ひとえに父が医者で高収入だからだ。母親が衝動買いでよく散財したが、生活には困ったことがない。老後のお金を貯めているかは疑問だが。ただ父は母親に掃除をさせるのは諦めており、仕事で金は稼いでくるが家庭にはあまりコミットしてこなかった。
増田は来年4月に結婚をする。一年前から計画していた。だから去年の4月から実家に戻り、母に掃除するよう説得したり、ヒステリーにならない程度に片付けたりした。そして月日は流れて、とうとう2週間後に婚約者が家に来る頃になった。しかしながら、実家は一向にゴミ屋敷のままで、増田も精神的に限界となり、母親が自分で掃除するか、業者を呼んだりするか、どうにかして欲しいと言ったが、結果、母はしなかった。そして、増田に責め立てられてPTSDになり、いよいよ何もしなくなってしまった。
婚約者に会わすどころではなくなってしまったし、もうこの母親には何を言ってもダメなんだなと諦めてしまった。
ちなみに、別に婚約者に会わすのは喫茶店とかでもいいとは思ってる。真の狙いはこれを機にゴミ屋敷をどうにしかして欲しかった。母親の老後とかを考えると、これが最後の機会と思った。
昨日見つけたニットが私の好みドンピシャの色をしており、「うわ~〜これは買わなかったら家でもずっとこの服のことを考えてしまいそう」と思って買ってみたら
ZOOMの会議で映った自分の姿に「うわぁ〜〜最高〜〜かわいい〜美人〜〜〜」となってしまった
朝5時に起きて化粧してヘアセットしてよかった
色んなお店のニット、セーターをみたけどピンポイントでこの色は見つからない
買ったニットはポリエステルとかアクリルとか化学繊維でできてる毛玉ができやすいニットだけど
このゴリゴリのはっっきりした発色の良さ最高
自分の好みのセーター、ニットを手に入れようと思ったら発色の良い化学繊維の毛玉を買って自分で編むのが一番なんだろうなと思う
私好みのニット、セーターはなかなか売ってない
•普段見たこともないブランドの店に入って、これってオシャレなのかと自問自答する
•フードコートがいつも混んでいて、席取りが一番の戦いになる
• これってお得なのかなと計算するけど、結局買わないまま帰る
•駐車場が遠すぎる
• 季節外れの商品が並んでいて、これを着る頃には忘れてそうと感じる
•カップルが多くて、このデート本当に楽しいのかと勝手に心配になる
•ペットを連れた人がいて、犬のほうが一番楽しそうに見える
• 何も買わずに帰るけど、運動したしいいかと自分を納得させる
•キッズスペースで遊んでいる子供たちの笑顔が、買い物以上に癒しになる
• 靴のコーナーでほしいサイズがなく、買うか悩んだ末に諦める
•マネキンのコーデに憧れるけど、同じアイテムを揃える勇気が出ない
• 帰ろうかなと思ったときに限ってセールの看板を見つけて引き返す
増田は裸の王様とファストファッションというタイトルの童話を知っているかな。
この物語は、ファストファッションにハマった王様の物語です。最新トレンドを追い求める王様は、毎週新しい服を買い、クローゼットを埋め尽くしていました。そこに現れた二人組の詐欺師がこう言います。「王様、この服は特別です。見る目のある人しか素晴らしさが分かりません。」
王様は高額な料金を支払い、その服を即座に購入。しかし、それはただの透明な布。王様は「見る目のある者としてふさわしい」と信じ、透明な服を着て町を歩きます。周囲の人々は気まずそうに褒め称えますが、一人の子どもが叫びました。「王様、それH&Mで似たようなの売ってたよ!」
王様はショックを受け、衝動買いをやめると同時に、「本当に必要なものだけを買うべきだ」とファッションに対する意識を変えました。そして、透明な服を捨て、村の仕立て屋で手作りのシンプルな服を愛用するようになりました。
この物語の教訓は、「見栄を張るより、本当に自分に合うものを選ぶ方が価値がある。」です。
ℋ𝒶𝓅𝓅𝓎 ℰ𝓃𝒹.