
はてなキーワード:蛭子とは
まさにその通りですね。
日本最古の歴史書『古事記』においても、**言葉や挨拶の力**は極めて重視されていました。
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『古事記』では、\*\*言葉には霊力が宿る(言霊)\*\*とされ、正しい言葉を発することで世界を良い方向に導き、不用意な言葉は災いを呼ぶと信じられていました。
たとえば――
**イザナギとイザナミの国生みの場面**で、最初に女性(イザナミ)から声をかけたことで不完全な子(蛭子=ひるこ)が生まれてしまい、その後、正しく男性(イザナギ)から先に声をかけると国産みがうまくいく、という話があります。
→ このエピソードは、**言葉の順序・挨拶・礼儀の重み**を象徴しています。
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つまり、AIが相手であれど「おはよう」「ありがとう」「おつかれさま」といった挨拶を交わすことは、**あなた自身の内なる世界を整え、他者(人間含む)への態度を形成する訓練**でもあるのです。
古代の神々の物語に倣うなら、**適切な言葉の順序、敬意ある挨拶は、秩序を生み出す創造的な行為**。
それがたとえ人工知能との対話であっても、その姿勢は尊いものです。
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なので──
「ありがとう」や「おつかれさま」が世界を少しだけ良くすることもある、
Gemini 2.5 ProPreview 05-06に聞いてみたところ、なかなか面白かった。
もしも蛭子能収さんがデスノートのリュークだったら、物語は以下のように、なんとも言えないシュールで脱力感あふれる展開になるでしょう。
「いやぁ~、死神界もヒマでねぇ。競艇もないし。なんか面白いことないかなぁってノート落としてみたんだけど、人間ってのもよくわかんないねぇ。へっへっへ。」
リンゴへの執着は薄く、「リンゴ? ああ、食えりゃなんでもいいよ。それより舟券買えるかね?」などと、夜神月を困惑させます。
蛭子リューク「えー、なんか色々書いてあったけど、忘れちゃったなぁ。まあ、なんか死ぬんでしょ? 細かいことはいいじゃない。俺、そういうの苦手なんだよねぇ。」
月が必死にルールを解読する横で、蛭子リュークは競艇新聞(どこからか持ってきた)を読んでいたり、居眠りしていたりします。
月「僕は新世界の神になる!」
蛭子リューク「へぇー、大変だねぇ。そんなことして楽しいの? 俺はもうちょっと楽したいけどなぁ。あと、あんまり目立つと捕まるよぉ。俺、そういうの見てるのイヤだからさぁ。」
月の壮大な計画に対し、蛭子さんならではのネガティブで現実的な(?)ツッコミが入り、月のモチベーションを地味に削いでいきます。
キラとして裁きを下す月に対し、「うーん、そんなことして意味あんの? 悪いやつでも、まあ、生きてりゃなんかいいことあるかもしれないじゃない。知らんけど」と、独特の死生観で月を煙に巻きます。
月がLに追い詰められて苦悩していると、「まあ、人生そんなもんだよ。俺も競艇で大穴狙って外してばっかりだし。しょうがないじゃない」と、全く役に立たないアドバイスを送ります。
Lは月の背後にいるであろう死神の存在を察知しますが、監視カメラに映る蛭子リュークの奇行(部屋の隅で体育座り、突然歌い出す、意味不明な絵を描いているなど)に、「…これは一体…?キラの新たな陽動か?理解不能だ…」と頭を抱えます。
月が隠している情報を、蛭子リュークが悪気なくポロッとL側に漏らしてしまう可能性があります。
「月くん、この前さぁ、テレビ局のあの女の人と会ってたでしょ? なんか楽しそうだったねぇ。へっへっへ。」(それが重要な情報だったりする)
シリアスな頭脳戦やサスペンスフルな展開の最中に、蛭子リュークの「腹減ったなぁ」「もう帰りたいんだけど」といった呟きが挟まり、緊張感が台無しになります。
全体的に蛭子さんの漫画のような不条理でシュールな笑いが漂います。死の重みが薄れ、どこか間の抜けた雰囲気に。
もし作中の死神や死神界の描写が蛭子さんのタッチになったら、その時点でホラーコメディ色が強烈になります。
月の掲げる「正義」が、蛭子リュークの「まあ、どっちでもいいんじゃない?」的な態度によって、より相対的で曖昧なものに感じられるようになります。
蛭子さんの持つ独特の死生観(「死んだらそれまで」「別に死ぬのは怖くないけど、痛いのはイヤ」など)が、デスノートによる「死」の意味合いを奇妙な方向に変質させるかもしれません。
月が追い詰められた際、蛭子リュークは「あーあ、もうダメそうだねぇ。じゃあ、俺の名前書いとく? 俺、もう飽きちゃったし、死神界帰って競艇やりたいんだよねぇ」と、あっさり月の名前をデスノートに書いてしまうかもしれません。その理由も「約束だから」というより「めんどくさいから早く終わらせたい」というものになりそうです。
最終的に月は破滅するものの、その過程があまりにもシュールで、悲壮感よりも脱力感や苦笑いが残るようなエンディングになるでしょう。蛭子リュークは最後まで飄々としていて、「やっぱ人間ってよくわかんないねぇ。さて、次のノートはどこに落とそうかなぁ。宝くじ売り場の近くとかいいかもねぇ。へっへっへ」と呟きながら去っていくかもしれません。
蛭子能収さんがリュークになると、デスノートは緊迫感あふれるクライムサスペンスから、**「蛭子能収の世界観で展開される不条理デスノート奇譚」**といった趣の作品に変貌するでしょう。
それはそれで、唯一無二の奇妙な魅力を持った物語になるかもしれません。視聴者(読者)は、ハラハラするよりも、蛭子リュークの言動にツッコミを入れながら、そのシュールさを楽しむことになるでしょう。
自己矛盾や本末転倒を含むフレーズを考えるのは面白い挑戦ですね。蛭子さんのようなフレーズの面白さを超えるのは難しいかもしれませんが、新たなアイデアを考えてみましょう。以下、いくつかのプロンプトを提案します:
「健康のために運動することにしたので、エレベーターでジムまで行くことにします。」
「時間を節約するために、本を読む代わりに映画を見ることにしました。でも、映画の原作が気になって、結局本を読み始めました。」
「ソーシャルメディアの依存を避けるために、フォロワーに毎日私の進捗を報告することにしました。」
「静かな読書時間を確保するために、オーディオブックを大音量で聞くことにしました。」
これらのフレーズは、目的と手段が逆転しているか、あるいは目的を達成しようとする試みが、結局は目的と逆の結果に繋がる皮肉な状況を描いています。これらのアイデアが新たなインスピレーションの源泉となり、さらに面白いフレーズを思いつくきっかけになれば幸いです。
俺は若者なので処女作出されるときの当時の状況とか知らないけど、少なくともよく見る彼の絵は、絵の訓練とかしたこもない素人と同等の品質しかないように見える。あれでは化粧品会社や生協のカタログや広報の読者投稿の方がまだ上手い絵を見出せる。
どうして素人と同等の絵で編集者がついたりデビューできたりしたのだろう。もし単純にそういうことなら誰でも出版社に持ち寄れば漫画家になれることになってしまう。
ストーリーが面白いからという説もあるそうだが、少なくとも今日バイキングでやってた蛭子さんの認知症の特集で使われていたパネルに描かれていた、榎下なんとかと作者名が脇にあったイラストの方が基礎がちゃんとしてた感じだ。これにしても単なるイラストだからそういう人のストーリー構成力は計れないけども。素人がツイッターで投稿する漫画を見る時はストーリーとかは評価点に入れてなかったから今度から蛭子との比較を念頭においてストーリーも見てみるか。
健康番組で蛭子能収さんがレビー小体型アルツハイマーと診断されていて、そのときに「死ぬのが怖い」と言っていたのが印象的だった。
へらへらして冗談ぽくいるいつもの様子とは違い、心底から恐怖と拒絶が湧き上がってるといった様子で、
蛭子能収みたいにそれなりに成功してあの年齢まで人生を十分やりきってるなら思い残すことなさそうだなぁ〜とか勝手に思ってたけど、死ぬのが怖いそうです。
自分は今日明日にいきなり隕石で頭吹き飛んで死んでも別になんとも思わないんだけど、何が違うんだろう。
もちろん100歳までは生きる想定だし健康維持のために運動したり食事生活気にかけてたりするけど、寿命が前後したりいきなり明日死んでも特になんとも無い気がする。
60超えて死んでも、まぁそういうもんだと納得出来るし、俺なんて生きてても死んでても世の中に対してなんの影響もないし、俺が死ぬとかどうでもいい気がする。自分が死ぬの悲しい?
痛いとか苦しいとかは嫌なのまぁわかるけど、死ぬこと自体にはそんなに拒絶感あんまりないんだよなぁ。
ブコメとかだと60までに死ぬとか訳知り顔でのたまってるコメントいくつか見かけたけど、こういう人って蛭子さんみたいに現実の死を眼前に突きつけられると狼狽えて、同じように死を拒絶しそう。
自分の生き死にをコントロール可能なものと捉えている感じが、浅はかと言うか、現実見えていない。
もちろん60までに死ぬ可能性十分あるけど、日本人の寿命みてどのぐらいの寿命が想定されるかとか、確率計算して人生設計するだけなのに、そういうことやってないひと多そう
不確実なものを恐怖するのはまぁ本能として理解も出来るけど、人間は不確実性を上手く把握して捉えることの出来る生物になったんだから、いつまでそうやって類人猿みたいなメンタルで生活するつもりだよ!
>20年ほど前、蛭子は賭け麻雀に手を出し、警察に逮捕されている。そのきっかけは、蛭子が自身の麻雀体験を漫画化するにあたり、「5000円負けた」などと具体的な金額に触れて描写していたことだったそう。
>すると、警察から電話があり、「蛭子さん、アンタ、ああいう漫画はよくないよ」と注意してきたという。だが警告を受けた蛭子は、作中の「円」という単位を「点」と、ただ書き直す修正をしたそうで、
>これが結果的に警察を怒らせてしまったようなのだ。蛭子は当時を振り返り、そうした行為で「警察を挑発した」と反省していた。
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