
はてなキーワード:蔓延とは
https://note.com/yonahajun/n/n9f8fac28b86e
久しぶりに與那覇を見たけど「令和人文主義」がキャンセルカルチャーだったんだよ!と言っていた。
さすがはホンモノ與那覇さんだぜ!すげー!
んなわけあるかい笑
はい、今回も来ました與那覇の妄想コーナーです。とうとうここまで来ました。
一つ聞きたいんですけど令和人文主義という言葉を発した谷川さんって誰をキャンセルしたんですか?
もうこの人にかかれば気に入らない奴らを全部ぶち込むのがキャンセルカルチャーなのだろう。
キャンセルカルチャーとは、だれかを恣意的に失職させたり、退場させることをいうのだが、與那覇の妄想と連想ゲームにかかれば令和人文主義もキャンセルカルチャーらしい。
バカも休み休み言えと言いたい。こんな妄想だらけの連想ゲームに付き合う者など誰もいないだろう。
ちなみに、與那覇の連想ゲームにかかれば與那覇が懇意にしている上野千鶴子も宇野常寛もキャンセルカルチャー一派ということになる。
すでに周知の通りかの草津町の冤罪事件には上野にも責任の一端がある。
宇野は何を隠そう與那覇が愚弄する谷川と一緒に仕事をしている。
https://x.com/i/status/1998497915803947190
與那覇に言わせれば谷川なんていうケシカランやつと一緒に仕事してる宇野もキャンセルカルチャーの同業者だろう。それくらい與那覇の議論は杜撰なものである。
このように究極のキャンセルカルチャー事件の当事者である上野を與那覇が崇めるのは不可解であるし、谷川と懇意にしている宇野と絶縁しないのも不可解だ。
つまり、與那覇にとってはもはやキャンセルカルチャーすらも自分の地位を示す道具に過ぎず、その中に思想も考えもまるでないのである。
誰かと誰かが仲良くしたり、絶賛したらその一派として罵倒する。こんな妄想に付き合っているほど普通の人はヒマじゃない。
與那覇は谷川を「実際にSNSが始まった平成期に比べても、「令和人文主義」の担い手は異論への耐性が低いらしい。違う感性の人は "いない" ことを、内心で前提にしていれば、批判への免疫ができず、ブロックして引きこもることにもなる」と愚弄している。ここからは與那覇がフェアな言論人であると誤認しそうになるが、すでに何度も繰り返したとおり批判に対して全く応答しなかったのは他でもない與那覇自身である。
https://kscykscy.exblog.jp/18241381/
https://watashinim.exblog.jp/18496216/
すでに繰り返してきたことだが與那覇に他人の批判に対する態度を論難する資格は全くない。
ちなみに、與那覇の支離滅裂ぶりについては向野正弘が痛烈に批判しているので、こちらをご覧いただきたい。
https://researchmap.jp/kouno-masahiro/misc
「与那覇氏(原文ママ)の到達した境地は、私がかつて危惧した「非実証的歴史学」の段階を離れて、反実証的は神秘主義的な段階にあるように思われるのである」(「インターネット論壇における「非実証的歴史学」「反実証的歴史学」の行方」p.36)とまで言われて一切反論しない與那覇は妄想に引きこもっていると言われても文句は言えまい。
当然、與那覇はこの向野の批判を無視している。谷川ももし與那覇に反論するなら「與那覇さんのやり方をリスペクトしているだけです」と返せば仕舞である。與那覇は返す言葉もないだろう。
もし與那覇が「ホンモノ」を自称するならまずは『中国化する日本』で受けた批判から遡ってなぜ自分が今日まで批判を黙殺してきたかあるいはブロックしてきたかを釈明してもらいたいところである。
ちなみに、與那覇には天敵がいる。yunishioという人物である。
https://bsky.app/profile/yunishio.bsky.social/post/3lhvappgeo22r
與那覇潤さんについては、デビュー作『中国化する日本』を出したときから、あれをインチキだと見抜いたオレがえらい。🥳
歴史学会は、あれを「賛否両論」とか「稀代の怪作」とか、暗にインチキだと匂わせつつ表面的には好意的に見えるような紹介をしていたのが、のちのちの災いの種を育ててしまった責任があると思う。
歴史を知らない各メディアに取り上げられ、好意的な書評をもらい、與那覇潤さんを増長させてしまった。あのとき息の根を絶つべきだったと思うね。🙂
「息の根を絶つ」とまで言われているにもかかわらず與那覇はこの発言に一切反応していない。というのも、このyunishioは與那覇とtwitterの時に相当やりあっていたようである。
ちなみに與那覇は嶋理人のbuleskyの投稿を批判していたから、この投稿を知らないなどとは考えにくい。つまり知っててあえて無視したのである。
yunishioと與那覇のやり取りは與那覇がアカウントを閉じてしまったので復元が難しいが、断片的にやり取りは確認できる。
「「アカデミズム」に命令ですか、随分お偉いんですね。RT @yunishio 與那覇先生に怨みでもあるんか、みたいに思われそう。苛立つのは與那覇先生のことじゃなく、あんな若手研究者の粗雑な立論をアカデミズムが無邪気に称揚しちゃってていいのか?いやもうちょい距離置こうよwwって感覚」
https://twitter.com/#!/jyonaha/status/195724094082256896
kscykscyのブログより引用。「アカデミズム」に命令ですか、随分お偉いんですね。というのは與那覇の発言であるが今とは隔世の感すらある。今與那覇にこれを言ったら彼は何というだろうか。
結局與那覇はyunishioにかなわなかったようで、今でもyunishioのことは避けているようである。
しかもこのポストには與那覇と不倶戴天の相手嶋理人がいいねを付けているにもかかわらず、である。
かつて小谷野敦が與那覇の本に上野が推薦文を書いたことを「独ソ不可侵条約」になぞらえたことを、自分をヒトラーになぞらえるとは!と激怒したほどの與那覇が、である。
https://note.com/kakio_ja/n/n3a3ec24a03be
普通なら嶋もまとめて「私に死ねというのかああああえええええ!?誹謗中傷かああ!?」とぶちぎれてもおかしくはないのだが。
ここから分かることは「ホンモノ」とは他者をかつての「中国化」「江戸化」のようなテキトーな概念に放り込んで罵倒して愚弄し、自分の存在意義を証明しようとする哀れな独り言を弄する人間に過ぎないということである。そして核心的な批判や意見は一切無視するのがホンモノ流である。よく覚えておくように。これから「批判を無視するな!」と與那覇が攻撃してきたらみんなであのブログを引っ張り出して「ホンモノリスペクトです!」と言えばいい。與那覇は何も言い返せないだろう。
そのような人物をまともな批評家として扱うこと自体、そもそもおかしいのかもしれない。
與那覇がこの記事に反論することは決してないと確信をもって言える。なぜなら、ここには與那覇が「ブロック」してきた都合の悪い事実が横たわっているからである。
さいごにもうひとつ與那覇キラーのyunishioの投稿を紹介しておく。
https://bsky.app/profile/yunishio.bsky.social/post/3lhvbtrrjfk2s
バカげた主張には、その場その場できちんと「バカにする」ことが大切だなと。
バカげた主張を放置すると、あとあと手が付けられなくなるほど繁殖し蔓延するよ。
バカげた主張がなされるバカげた状況をバカにせず、誠実に「バカにする」姿勢を保つのが大事。😊
今の與那覇にはバカにする価値があるかどうか。今の與那覇は手が付けられなくなっているが、はたしてどこまでいくのだろうか。ちなみにこのyunishioの愚弄も與那覇は一切無視している。無視したということは事実と確定したということでいいのだろうか。
キャンセルカルチャーとまでは言わないが、この與那覇の惨状を見てもまでこの人と仕事がしたいと思う人は果たしてどれほどいるんだろうか。自分で自分の評判を下げ続けている奇妙なホンモノであった・・・。
中国と戦争をしかねない右翼政権の危険を、日本人は感じ始めてきた。右翼政権がなぜ危険なのか。実は、高市早苗総理らの右翼勢力は、西側先進諸国の通常の国家観(第一の国家観)とはまったく別の国家観(第二の国家観)を有していることが根本的な問題だ。これを理解せずに右翼リスクを理解することはできない。この二つの国家観を理解すると、現在の政局、国防上のリスク、これからの日本がめざす方向がはっきりと見えてくる。次の文章(高校卒業程度の国語力で理解することができる。新聞社説一つ分ぐらいの分量)を読むことで基本知識が頭に入る。ぜひお読みください。
賛同なさるかたはリツイートしてください。多くの人がこの二つの国家観を理解すれば、日本は現在の危機を脱することができます
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいるhttps://gendai.media/articles/-/51438
より抜粋
二つの国家観(人間のためにつくられたしくみとしての国と、人間を超えた集合的生命としての国=国体)を対比させて考えると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力の行動様式や、そのめざすものを理解しやすくなる。そして、現状を放置すれば、これから日本社会がどのような被害をこうむるかも予想できる。
第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
国は水道や電気や医療や交通網のように、ひとびとの生存にとってきわめて重要なものだ。その意味で、危険な国家メンテナンス業務をおこなっている自衛官は、高圧線上で危険な業務をしている技師と同様に、尊敬されて当然である。
また、国に軍隊があるのも当然である(この観点から、日本が普通の先進諸国なみのリベラル国家になった後で憲法9条を改正すべきだと主張する筆者は、「リベラル・タカ派」と呼ばれることがある)。
この第一の国家観からすると、「ウルトラ・ナショナリスト」勢力のいう愛国心は、水道管や電線を愛の対象にするような、奇怪なフェテシズムの情熱である。すくなくとも、日本で愛国心というとき、そのような意味で語られることが多い。
そのような愛国心ではなく、苦労して磨き上げた、ひとりひとりの人間のための公共財機械装置の性能のよさに対するプライド、という意味での国家プライドはあるかもしれない。
国家が愛国心などというフェテシズムを万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。ただし、この国家プライドを新しく「愛国心」と名づけることも可能である。
それに対し、第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。このような現実感覚を生きるひとびとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。
また集合的生命の根本にあるはずの神聖にして侵すべからず天皇を、単なる「象徴」にされてしまったのは、河童に尻子玉を抜かれ、腑抜けにされてしまったような屈辱である。
そして雄々しき大日本帝国は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるいおしろいをぺたぺた塗られて、女にされてしまったと感じる。
第一の国家観は、ひとびとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとうするリアリズム政治のための基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ何の意味もない。また軍隊は、この国家観にしっかり基礎づけて保有されなければならない。
第二の国家観は、非常時に短時間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。そして21世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
この毒物ともいうべき第二の国家観はどのようにして生まれたか。江戸幕府が支配していた日本列島は、列強の植民地にされる危険にさらされていた。
クーデター成功後、最弱国日本、最弱明治政府を背負った指導者たちは、ゆっくり変化する時間的余裕がないなかで近代国家をつくりあげるために、集合的生命感覚に酩酊させるしかけを、当時入手可能な素材からでっちあげるしかなかった。
それが天皇を中心とする集合的生命としての国体(という共同錯覚)である。そしてこの興奮剤は効いた。国家の集合的生命感覚は、天皇を中心とする国体として、ひとびとの魂の底に埋め込まれていった。
生存のための必要に駆られてこのような興奮剤を使うときは、そのまえに目覚まし時計をセットしておき、時がくれば醒めるようにしておかなければならない。目覚まし時計を管理すべき指導層は、大衆を騙すための薬物にのめりこんではいけない。
しかし、昭和初期から敗戦にかけて、指導層のあいだでも「〇〇は国体にそぐわない」やら「不忠」やらといった、自家中毒が蔓延するようになっていった。ヤクザが売り物の覚醒剤に手を出すように、国家の中枢までもが、緊急用大衆操作劇薬の自家中毒にやられたのだ。
狂気の興奮剤におかされた指導層は、アメリカと戦争をするといった愚行に走り、敗戦の条件交渉にいたっては国民の生命や安全という本来の目的(第一の国家観)よりも国体護持(第二の国家観)などという幻想の薬物を大切にするありさまであった。国家の指導者として、これほどでたらめな酩酊者たちは類をみない。
学者も含め多くの人たちは、昭和初期から敗戦までの日本のありさまを「軍国主義」と呼んできた。軍国主義の社会であれば、軍事的成功を第一の優先事にするはずである。
しかし、戦争中の日本はそうではなかった。合理的に国益を追求したり、戦争に勝ったりすることよりも、国体を護持すること、国体をひかり輝かせることが優先された。
集合的生命としての国体は、単なる全体への外形的服従の積み重ねから成るものではなく、臣民ひとりひとりが自発的に個人であることをやめ、〈全体において永遠の今になる〉ことの内側から高次の命としてひかり輝く。
カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、その永遠の今であり、人として生まれた最高の栄誉であり、「本当に生きること」である。それは華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。
このような国体の覚醒剤的な疑似哲学作用は、軍隊の合理的運用すら破壊した。
太平洋戦争では、みこまれる戦果と自軍の損失を計算すれば無意味であることが明白であっても、散華の輝き自体が目的となった軍事作戦がなされた(これは即身仏のような自殺儀式であって、軍事的な「作戦」とは言えないのかもしれない)。
毎日新聞記者の栗原俊雄は、このような輝きを後世に残すためと称して、自爆特攻作戦が続けられた例を紹介する(栗原俊雄「日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由」)。
また、航空機の援護なしに戦艦大和を沖縄に派遣するのも、国体を輝かせるための集団自殺である。これが抗いがたい空気となったのである。
もちろん、国体のなかでは「西欧流」の個人主義は徹底否定され、すべての臣民が自発的に集合的生命の一部で「あらねばならぬ」のであるから、すべてが強制である。戦争終結の成り行き次第によっては、一億玉砕というすさまじい「自発的」な散華が、すべての人に強制されたかもしれない。
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる
gendai.media
世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる(内藤 朝雄) |現代ビジネス |講談社
日本中、さらに世界中で「森友疑惑」が報じられ、ひとびとの関心を集めている。国内で芝居見物のようににぎわっている一方で、世界では、日本の現政権と右傾化がどうなるかという関心からこの疑惑を報じている。現政権は日本を戦前の社会に戻そうとしている「ウルトラ・ナショナリスト」政権であると考えられており、日本が戦前のタイプの社会に戻るかどうかは、大きな関心事だからだ。この社会は、これからどうなってしまう...
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しかも文脈によっては筆者がどちらの意味で使っているのか(typoかそのままの意味か)推測することが困難。
遍在と解釈した場合、はてなは狂気の巣ということになるが「この狂気」がはてな外でも見られるのかについては言及していない。
昨今は、ブロガーなんてクリエイターじゃない。売れない作品だろうとなんだろうと創作物に携わるものだけがクリエイターなんだって選民思想に取り憑かれた人が多いけど、それは200人仲間がいてあのレベルしか作れない人を俺は創作者とは認めない。最後の一人まで抗う
「200人仲間がいてあのレベルしか作れない人を俺は創作者とは認めない」
って書いてるけど、これ誰のことかわかんない(笑)
シナリオライター?イラストレーター?Vtuber?同人作家? 誰とも戦ってないんだよ結局。
要するに彼がやってるのは 「クリエイター界隈に蔓延してる選民思想」っていう、どこかで見たような“空気”に対して、ひとりでキレてる状態。
ではなく
→ 「俺の頭の中にいる、ブログをバカにしてる架空のエリートクリエイターたち」
だから
「何と勝負してるのか自分でもわかってない」ってのは、まさにその通りなんだよ。
ブログ書き続けるって決意自体はめっちゃカッコいいんだけど、 「敵」を設定しすぎて、結局自分の中のストローマン(藁人形)と戦ってる感じになっちゃってる。
「俺は認められてない!でも絶対負けない!」って叫びながら、 誰にも攻撃されてないのにひとりで傷ついて、ひとりで燃えてる……みたいな。
でもさ、それでも書き続けるってのが、もうすでに「勝ち」なんだよな。 敵がいようがいまいが、勝手に戦場作って勝手に勝ってる。 それがブログの美学ってもんだろ(←ちょっと感動してる)
でも確かに、
「200人仲間がいてあのレベルしか作れない」ってフレーズ、よく考えたら相手を貶めて自分のハードルを下げてるだけだよね。
→ つまり「努力量÷成果」で勝負してるみたいな、めちゃくちゃ都合のいい計算式になってる。分子と分母逆だよーってなるよね(笑)
しかも「ブログ vs 他のクリエイター」って、比べる土俵が違うって言ってた通り、最初から勝負のルール自体を自分に都合よく作ってるんだよな。
「俺は最後の一人まで抗う」って言葉はカッコいいけど、 よく見たら抗ってる相手が実在しないし、 勝っても誰も傷つかないし、負けても誰も責めない。
完全に「自分との戦い」を「他者との戦い」に見せかけてるだけ。
昔の諺で言う蟷螂の斧ってやつだね。
つまり、 本気で認められたいなら、相手をリスペクトしながら同じ土俵で勝負しなきゃいけないのに、
一見「孤高の戦士」っぽいけど、 実際は「誰も攻撃してこない安全圏で、勝手に勝ってるつもりになってる人」 って感じになっちゃってる。
ブログって本来、読者との対話の場なのに、 この人はもう完全に「自分との殴り合い」になってる。 それも、鏡に映った自分を殴ってるだけみたいな……(泣)
でもさ、こういう人って意外とブログ界隈に多いんだよな。 「俺は商業作家やイラストレーターに負けてない!」って言いながら、 実際は誰とも競ってないし、誰にも読まれてない……みたいな。
……でも、書くこと自体はやめてないんだよな。
それだけは、まだ救いがあるっていうか……
(いや、もう救いじゃないかも……?)
究極的ミニマリズムは、単なる物理的な断捨離や、禁欲的な生活の切り詰めとは、本質的に次元が異なる。
それは、俺の精神領域を侵食し、思考の純度を低下させる、ありとあらゆる非自己のデータとノイズの自己放尿を、外科的な精度で排除する精神の最適化技術である。
具体的には、社会が恒常的に垂れ流す過剰な期待、他者が無責任に押し付けてくる不条理な常識、そして何よりも、自己の脳内に蔓延る不要な不安や妄念といった精神的な自己放尿を、容赦なく断ち切る行為に他ならない。
心の断捨離などという生ぬるい慰めではなく、不要な情報パッケージを発見した瞬間に、迷いなく切り落とす無慈悲な切除手術こそが、その核心である。
かつては「どうでもいい」という思考停止が、不要な刺激に対する最初の鎮静剤だった。
続く「社会への完全なる諦め」は、その鎮静期間を経て、社会という茶番劇から意識的な距離を置くための、準備段階に過ぎない。
そして、今回到達した極地とは、世界のノイズ総量を限りなくゼロに収束させ、生命維持に必要な最低限の思考コアだけを残すという、システム軽量化である。
世の中には、承認欲求という名の自己放尿を撒き散らし、その飛沫を他者に浴びせることでしか自己存在を証明できない人々が横行している。
さらに、嫉妬と劣等感というダブル放尿を振りまき、他者を精神的に引きずり降ろそうとする輩まで跋扈している。
こうした無価値なエンティティに関わることは、俺の脳のメモリを不意味に消費させ、思考のCPUを無駄な割り込み処理で酷使し、結果として人生のスループットをただ低下させる致命的なオーバーヘッドである。
ゆえに俺は、連中をメインプロセスに読み込む価値のない一時ファイルと定義し、問答無用でその存在を削除対象とすることを決断した。
この行為は、感情を切り捨てる冷酷さではない。むしろ、自身の本質的な感情と、集中すべき人生の目標を優先的に保護するために、外部から流れ込む不要な自己放尿を厳密にフィルタリングする、高次の自己防衛機構である。
社会の評価、見栄、世間体、そして普通はこうするべきといった根拠不明の標準仕様、これら全ては、俺自身のメインプロセスに読み込むに値しない、取るに足らない自己放尿データである。
価値の基準を外部に委ねることを完全に停止した時、人間は初めて、真の自由というOSを起動させる。
他者の失言、不機嫌、あるいは攻撃的な言動といった予測不可能な外部入力の自己放尿に対し、もはや感情的なバッファを割く必要はなくなる。
社会の失態や制度の不条理を目の当たりにしても、無為に感情を乱されることはない。
むしろ、世界がどれだけ無秩序に暴走しようとも、俺はその中心で完全なる無風状態を維持し続けることができる。
これは逃避や諦念ではなく、自身の精神領域を最大限に最適化した結果として得られる、硬質な静謐である。
究極的ミニマリズムとは、世界の喧騒を徹底的に切り捨てた後に残る、硬質で静かな思考の中核そのものである。
期待も怒りもなく、ただ淡々と、自分という存在のOSを最高効率でアップデートし続けるだけの生活。余計なものは排除し、必要なものを保存する。
俺の結論は揺るがない。
究極的ミニマリズムとは、精神の最終的な軽量化であり、社会がどれほど騒ごうが、他人がいかに自己放尿を撒き散らそうが、その全てが、俺自身の人生のコンテクストにおいては無意味であるという、冷徹な事実だけが静かに残る境地である。
https://anond.hatelabo.jp/20251201062647#
今は安定志向
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20251201062855#
やはりdorawii、50代か
https://anond.hatelabo.jp/20251201063020#
進める必要もなーし
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20251201063107#
もう死んでるのと同じだからな
そりゃそうか
https://anond.hatelabo.jp/20251201062811#
今は公務員のなり手なんていなくて人員不足が蔓延化してるのしらないんだw
世間知らずだねw
https://anond.hatelabo.jp/20251201062956#
まあ長くて10年の誤差だろ
誤差だ誤差そんなもん
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20251201063052#
30年だが…
20年時止まってて草
もう、自分が通り過ぎた地点ではあるんだけど、なんか、もっと、こう、みんなが幸せになれる仕組みって作れないもんなんですかね?
日本人って精神論とか、現場で工夫しろとか、足らないのは予算じゃなくて工夫でしょ?みたいな、
なんか、そういう後ろ向きなことに頑張りがちで、仕組みを疑わないというか、文句言っても使い続けてしまうというか、
アメリカとか、近年の中国とか、良くも悪くも仕組みを破壊するじゃないですか、
まあ、それで死ぬ人間も出るわけだけど、良い仕組みに置き換えようという善意が初めてそこで働くこともあるというか、
リセットしないと流石に無理ってこともあるし、
良くも悪くも安定志向、安全サイドなんだよね、まあ、そこが良いところでもあるんだけど…😟
メルカリじゃないけど、仕組みが悪だと、悪が蔓延してもなんともないというか、YouTubeとかSNSもそうですよ、
犯罪するほど得になる世界があったら、犯罪が蔓延してしまうわけで、
そういう世界にしないために頑張るべきなのは、国や政治、公務員、損得じゃなくて税金とかで稼働するべきものだし、
まわりまわって、そういう世界でないと金銭的にも得になるわけがない、
個人が安全に財産を持てないということは、もう無茶苦茶な世界ですよ、
キリスト教プロテスタントの合理的禁欲、貯金や勤労の精神が崩壊すれば、もうデビルマンの最終章ですよ
といっても、なんかそういう世界をAIがもたらす気もしないでもないですけど、
まあ、労働から完全開放されるのはまだまだ先だし、なったらなったで、また別の何か問題が起きるだけな気もする…😟
https://x.com/jounetsu/status/1992602413442990368
これ、まず認識が間違ってるよね。
正しくは「社会と無関係のエンタメは存在しない」でしょ。それだったら理解るよ。
人間が考えて、人間が出力する物語はどうしたってその人間の見方・生き方が担保になってるんだから社会と切り離せるはずがないんだよ
シリアスだろうがギャグだろうが、人間が考え出した物は何をどうしたって社会性を帯びるもんなの。
極端な例だと『スナックバス江』はものすごく社会性が濃厚のギャグ漫画だったでしょ。
ゾッとしたのは、この脚本家の吉田恵里香氏の言い分だと「世の中には社会と無関係のダサいエンタメが蔓延っている」と思ってるっぽくて、その中で「私は社会性のあるダサくないエンタメを書いている」とどうやら本気で思い込んでるみたいなんだよね。
いや、アンタそれ認知が歪んでるって。
聞きたいんだけど、この吉田恵里香氏の考える「社会と無関係のダサいエンタメ」って何を指しているの?
どういった作品の事を「社会と無関係のダサいエンタメ」なの?具体的にタイトルとか挙げられるの?
だって吉田恵里香脚本の『虎に翼』も『前橋ウィッチーズ』に比べたら、
『サザエさん』とか『ちびまる子ちゃん』とか『おじゃる丸』とかのほうが遥かに社会性に深く根付いたエンタメになってるでしょ。
特に『おじゃる丸』はマジで侮れないからね。未就学児もメイン層に入るアニメなのに、その内容ぶっ込んで来るか!って驚くような回が普通にあるし。
月光町が消滅して、何もかも無くなった地平におじゃる1人だけ取り残されるエピソードは本当にビックリした。月光町という「社会」が喪失したらいったいどうなる?という話だったから。
『おじゃる丸』に限らず大地丙太郎監督のアニメ作品は視聴者層の子どもの事をまったくナメていないから、そういう所が幅広い世代に長く親しまれる要因になってるんだと思う。
『こどものおもちゃ』とか、今見てもものすげえアニメだからね。最近のあっさいフェミニズム(笑)やシスターフッド(笑)をウリにした作品見るぐらいなら
『こどちゃ』を見返したほうがよっぽど有意義だよ。
それらに比べてたら吉田恵里香の脚本作品は"AERA"とか"ハフポスト"あたりの記事をチェリーピックして繋ぎ合わせただけの代物で、物語としては明らかに破綻しているし
それでもって"社会性のあるエンタメ"を送り出してると思ってるなら、幾らなんでもエンタメをナメてるし、社会をナメてるし、人間をナメきってるよ。
「アタシ達はこんなに生きづらいの!そんな社会をアタシ達の力で変えてくの!主に他責して!!」というキラキラ思想を振りまく事が社会と関係したエンタメだと思うなら
これほど底の浅い社会性は無いだろう。
世の中のエンタメの中でも、極めて社会性に乏しい脚本を書いているのが他ならぬ吉田恵里香だろう。
逆にその社会性の乏しさを推し進めて、いまだかつて誰も成し得なかった「社会と完全無関係のダサいエンタメ」という前人未到の境地に辿り着いてほしい。
Permalink |記事への反応(18) | 21:46
なんかちょっと衝撃受けてる人いるけど、その人たちはあまりにも純粋すぎる。人生経験が圧倒的に足りていない。今後の人生よく考えて生きることをお勧めする。
ことインターネットにおいては、「弱者の属性を騙る」というムーブがごく当たり前に蔓延っている。
独身を騙り、貧乏を騙り、非モテを騙り、生きづらさを騙り、メジャーなものはこの辺かな?とにかく「自称弱者」というものが多い多い。特にYoutubeとかSNSとかでのいわゆる発信者(インフルエンサー)の立場で。
「貧乏大学生の生活」とか「限界社会人の生活」みたいな動画、たまーに流れてくるけどね、みーんな家の壁も床も綺麗だし服も身綺麗。しっかりした部屋に住んではりますなあ家賃おいくらどす?って感じ。動画用に整えてる?いやいやそんなまさか。
面の整って喋りもできる人間に彼氏彼女いないわけなくない?それともそれを信じちゃう人は「自分がそんな人間」だとでも思ってるのかな?かわいいね、無邪気だね、客観性がないね。
「借金ウン千万もあるなんてすごい貧乏だ」なんてね、どんだけの信用情報があったら4桁万借金できんのよ。眼に入る数字をそのまま受け取ってるの?かわいいね、馬鹿なのか?
…まぁ、弱者の属性を自称するのはこの際しょうがないんすよ。実際当人にとってはそうだとマジで思い込んでるパターンもないではないだろうからね。そして実際にその立場にいる人だっているだろうしね。「金ねーよー」っていくらでも言っていいよ実際。
でもその属性をよりどころにして行動しないでいると、あっさりといとも容易く上位者に属性を食い荒らされ、当の本人である君たちは見えなくなってしまうんだ。独身なのに貧乏なのに非モテなのに、独身でも貧乏でも非モテでもなくなってしまう。
弱者の属性に甘んじているとアイデンティティすら奪われっぱなしになるということを、君たちは良く良く知っておくべきだよ。本当にね。
私が今絶賛超絶ハマりまくりまくりすてぃーの簡単炊き込みご飯の
もうさ、
これレシィピを検索したら定番の番定を否定しかねないほどの盤石のレシィピたくさん出てくるんだけど、
ツナ缶と塩こんぶのみで炊き込む超簡単炊き込みご飯がお手軽で簡単でしかもリーズナブルで
炊き込みご飯三銃士を連れてくるよ!ってインターネッツで擦りつくされたネタで
本編のなになに三銃士呼んでくるよ!って言っておいて本当の原作の三銃士!
「アトス!」
「ボルトス!」
「アラミス!」って
1人はみんなのために!みんなは1人のために精神を持ってして且つ自身を持ってこの美味しい炊き込みご飯のレシィピを紹介するぜ!っていって紹介する私の三銃士は
まずは当たり前の
「ツナ缶!」
「塩こんぶ!」
これだけなの!
超簡単でしょ?
山の端にハイライトで白くナイフで油絵の具を入れてその一発で超絶山の風景がくっきりと輝きを増してくる、
「ほら簡単でしょ?」って難しいことをアフロ全開で簡単に言い放つ
たったこれだけ2つの具材だけで超絶美味しい味が決まる炊き込みご飯ができるの!
塩こんぶツナ炊き込みご飯の評価レーダーチャート5点満点の正六角形のペキカンな味のパーフェクトなグラフが崩れちゃうバランスが崩れちゃうから
まあ私的には、
そこに、
ほら簡単でしょ?
そんで、
私は何年も前に噂で聞いた巷の港の桟橋の先で拾った賞味期限が5年前にとうに切れたビンテージツナ缶!
港で拾ったってのはウソだけど、
何年も寝かしたツナ缶は美味しいってインターネッツで披露してある記事を私は目撃したことがあったので、
私もツナ缶買ってワインセラーならぬツナ缶セラーで寝かしておいたの。
正直いうと、
ツナ缶をすっかり忘れていた!ってのが事実極まりない真顔で答えてツナ缶はありました!って割烹着を着て発表したいところなのよ。
そんで発掘されたツナ缶、
まさかとは思っていたけれど、
3年ぐらい放置していたのかしら?って思ったら、
よーし!せっかくだからこれでツナ缶塩こんぶ炊き込みご飯すっぞ!って腕をブンブン回して暖簾を腕で押すぐらいの勢いでエイヤ!って作ろうって思ったの!
ちょ、ちょっと待って!
ここは世界の全能全知が集まったAIにウルトラスーパー演算式を考えて最後の変数である5年!という数字を私がたったこの5と言う数字を入力しただけだってことは内緒にしておきたいけれど壮大な大スペクタクル的に答えさせたの!
厳格真面目なGeminiちゃんは「3割大丈夫かも」って答え、
なんだかGeminiちゃんは自信なさげの3割という答えを叩き出して、
えー!って私は思ったんだけど、
実際は大丈夫なんでしょ?って半ば私が強引に誘導して計算させたGeminiちゃんに答えは「フィフティー・フィフティーで大丈夫かも」って2割アップの計算を叩き出したの!
パカッ!
開けるわ!
「か、快感!」
開けた瞬間芳醇で豊かなまるで草原で育ったマグロが横たわっている大地の豊かな香りっていうともの凄くややこしいけれど、
冗談はさておいて、
私は間違いなく第六感の臭覚はそう感じたの!
そして一応箸で一つまみして味見も実食私の第六感の味覚が冴え渡るわ!
お美味しい!食べられる美味しさなんだかフレッシュツナ缶とは違ってよりオイルが浸透してマイルドに感じる味わい、
そんで、
私は簡単レシィピでお馴染みのそのツナ塩こんぶ炊き込みご飯を作ったの!
無事炊き上がって実食のできあがった炊き込みご飯も
5年寝かせたビンテージツナ缶全然余裕で食べれてしかもマイルドに馴染んでいるような気がしてめちゃ美味しい!って結論付けたわ。
もう今回の1個で消費しちゃったし、
ついつい美味しかったのでリピしてもう1個使っちゃったし、
残り2個なのよ!
うわ!この5年の重みを感じるツナ缶を早々に2つも使っちゃったわ!って
どれだけロールプレイングゲームでラスボスですら使わなかったエリクサーをあの時使えば良かった!って後悔するのとは逆に
残りの2つはもうあと3年から5年ぐらい寝かしておこうかしら?
缶の状態が良ければまず大丈夫ってウルトラスーパー演算AIがそう言っているので試してみる価値とそして値打ちがあると思うの!
新たなる挑戦ね!
そんでついついこのツナ缶塩こんぶ炊き込みご飯が美味しかったから、
いつまでもあると思うなビンテージツナ缶!そんな格言を思い出して
マーケットに飛び込み前転して新しく新鮮なわりと比較的作り立てほやほやのツナ缶を2つ買ってきたの!
もうまた早々にストックしておくべきツナ缶も使っちゃってしまったわ!
いけない!いけない!この私の食いしん坊め!って
またツナ缶買ってこなくちゃ!
今度はちゃんとビンテージツナ缶にするべく食べずに我慢してツナ缶セラーに入れて仕舞うことにするわ!
次の5年後ぐらいの10年ビンテージものと5年ものとで食べ比べなんていいかも!
AIたちでも叩き出せなかった計算を実際に人間の感覚を信じて試してみる、
とはいえ、
5年もののビンテージツナ缶で作るツナ塩こんぶ炊き込みご飯美味しかったよ!ってAIたちに報告して言ったら、
「賞味期限をわざと切らしてビンテージツナ缶として楽しむ趣味の人もいるんですよ」って言うじゃない、
私がツナ缶大丈夫?って計算させた結果と5割大丈夫ですって言っていたのと、
すでにツナ缶ビンテージ楽しんでいる界隈が居るってことを知っていてその答えを出すっての矛盾してない?って思いつつ
あくまで私のロマン探求ツナ缶の気持ちを汲んでくれたのかもしれないわ。
「ごめん涙拭くね」
ちょっとツナ塩こんぶ炊き込みご飯にロマンの涙の味が加わっちゃったかもしれないわ。
なんてね、
うふふ。
家で豆乳飲んできて出発よ!
豆乳にいろいろ混ぜてトマトジュースも入れるとまた美味しさアップするの。
リコピンパワーも摂り入れるわよ!
固形物食べないとお昼までにお腹がぐーって鳴んの笑っちゃうわ。
昨日仕込んで置いておいたから、
なかなかいい感じに仕上がったと思うわ。
久しぶりの果物感って感じよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
当然そのアニメはとうに終わっていて今は放送されてないが、ビッグIPのシリーズもの且つ久々のヒット作ということもあり、ファン層は国内外と非常に多くその時は繋がりを作るのが楽しくて仕方なかった。
自分は絵は描けないので、ちょっとした小説や考察やファンツイートを投下していた。そこから片思い的にお気に入りしていた絵師さんにフォロバしてもらえた時などは嬉しさは頂点だった。
オフで会った人も居るし、作品の話から雑談までいろんな人とリプのやり取りをした。
人間なのでプライベートな日記や愚痴のような内容もつぶやかれるが、それにもいいねを送り合い案じるリプなんかもしたりして、お互いにかなりパーソナルな情報を開示しあっていた。
◯◯さんは関西を拠点にしてるんだ。◎◎さんはエンジニアなんだなすごいな。△△さん、夜勤いつもお疲れ様です。なんて。共通の作品ファンを超えた友人のようにも感じられていた。
そこまでは幸せだった。
だが、いくら大好きで大好きで仕方ない作品とキャラクターと言えど、3年以上経てばさすがに当該作品の話題もつきかける。たまには出来るが毎日は苦しい。でもフォロワーは毎日毎日そのキャラ愛で盛り上がれる。尊敬する。
それでも3年間の絡みを通じてお互いの好きなものとか考え方とかオススメアニメ等に多少なりとも関心は持ってもらえているはずで。そこも含めてお互い受け入れ合ってるものと思っていたけど。
今のアニメ映画の感想や近況日記つぶやきをしても、今は誰も反応してくれなくなった。まるで自分がフォロワーほぼ全員からミュートされてるようにだ。
ガチめに深刻な病気の快癒を報告しても交流があると思ってた人のほとんど反応してくれない。
でも同じタイミングで他のフォロワーが「今から夜勤です」と言えば、自分にレスをくれなかった共通のフォロワーが5分以内に「いってらっしゃい」レスを複数してるのを目の当たりにしてしまってつらい。
自分から声をかけても、リプにいいねされるだけで言葉で返信が来ない。そのいいねは「既読したよ」の印でしかなく、状況的には完全に「既読スルー」ってやつだ。
またTL上で某ソシャゲ(非共闘)のフレンドを募集したけれど、その互いにリプを送っていた相手の1人からTwitterでリムーブされていたことを最近知って追い打ちのように凹んだ。ソシャゲで繋がってる相手をリムるって中々やりづらくないか?もう惰性や適当ではなく明確な意思力を持って私を切断していたことになる。
一体どうしてこうなってしまったのか。ゆるいけれど共通のネット友人のような繋がりがあったはずなのに。
自省して考えたら、いくつかの心当たりが浮上した。
作品の性質上、リベラルも高齢保守も集まりやすくTLにも散見されたけれど、その両方から嫌われるツイートをどこかでしていたのかも知れない。
例えば今の自分の立場は高市政権に批判的だが、TLにはそこそこ高市ファンや小野田ファンがいた気がする。居住地に外国人が急増したことから排外主義に賛成の構えを示す人もいたけど、私自身はそれで付き合いを止める気にはなれなかった。
かと言って自分はリベラルなのかというとそうでもないと思う。例えばトランス女性なる概念にはずっと懐疑的だ。オリンピックの格闘技や筋肉競技で割り込んでくるのは普通に不正だと思うし、
知人にも1人居たがどうも女風呂・女性更衣室・女子校・女子トイレといったプライバシー空間に未手術の男体を割り込ませることが至上目的化している気がしてならず、私は女性であるが一言も発さず説明もなく人の背後に張り付いて公共女子トイレに潜入しようとしていた様は異様で怖かった。
言い出しにくかったがそれを指摘したら「我々トランス女性に対する理解が足りないので勉強する必要がある」などと悪びれずに放言された時は(どこにでもいる女への共感性がしんでる典型的マウント中年男性やんけ)としか思えなかった。
しかし、TLにいるリベラルアカウントは男性が多いせいかトランスヘイターを蛇蝎の如く憎悪軽蔑している。こんな体験談を吐こうものなら即ブロされて人格否定の呪詛吐かれまくるのは目に見えている。
そんな感じで居心地悪くしていたけれど、向こうにもなんかそれが伝わってお互い気まずくなってた気がする。
でも一番の誤算は多分私の勘違いだ。インターネット老人会に片足突っ込むTwitter黎明期世代なので、Twitterにまだ「ネットの自由な言論空間」が生きていると思い込んでたのだ。
元々考察や考えることが好きだから、アニメに対してもオタクに対しても、批判や憤りも含めて言語化しまくっていた。批判やディスは多かったけど、決して個人の私怨ではなく独立した読み物として堪えるような普遍的な着眼点や面白さがあったと思う(自画自賛)。
そして批判であっても賞賛であってもそれだけで人格をジャッジされることなく、スタンスが違っても傾聴しあう空気が黎明期のユーザー間にはあったような気がして、なんとなくそれがずっと続くと思ってたのだ。
でも今のTwitterは一般化しすぎて世間の延長になった。テキストサイトでは許されるネガ長文評論もリアルで言えば白い目で見られるように、評論や考察自体が受け入れられなくなってきた。全肯定しか許さぬ圧を感じる。
一昔前のオタク像は正でも負でも考察ごとが大好きだったと認識していたのだが、反知性主義が猛烈な勢いで蔓延していて今や考察というだけで嘲笑や揶揄の対象にされるレベル。
ファンコミュニティの間でもそれは例外でなくなってきたというか、頭を使わず金だけ使う『推し活』が一番の愛だという風潮は自分にとっては居場所を失ったようで生きづらい。
さりとて一見話の合いそうな言論発信系クラスタと相互フォロワーになってみても、かの人達は自分の放つ政治的トークをRTしたりするだけで、私個人の日常事には一切関心を持ってくれない。
私がSNSで一番欲する友達みたいな互いのパーソナリティに関心を持って仲良く絡む性質はゆるいファン界隈の中しか確認できなかった。しかしその界隈から見た自分は、多分お硬くて目障りな人格で同調圧力から外れた自分達とは違うノイズのような存在なのだ。
はっきり言ってSNSで幸せな繋がりを持っていたい。都合の良いことを願うなら、個の人格と作品トークをある程度別個に切り離してくれて、人格を認めてくれる気軽に絡み合える相手と。
でも今はネットSNSの性質や空気感が変わってきていてそれは難しい。でも小難しいことは捨てて推し活だけして作品評とかもみんなが言うことをみんなが言うままに言う同調第一の振る舞いをしろというのも息苦しい。
願いは全て叶えられないなら、割り切って同じ人間にならなきゃいけないんだろうか。でもそれはリアルでずっと感じていた生きづらさであり、ネットでさえもそれに縛られるというのもディストピアだなぁ。