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2025-12-11

レーダー照射問題中国は「日本こそ茶番劇を画策した張本人」と主張…小泉防衛相は「問題本質中国側の断続的な照射」と批判

https://news.yahoo.co.jp/articles/99efa0b64324a5cdf32e47955969ffa74b69dbbc

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2025-12-07

真逆(まぎゃく)」はいから使われだしたか

前提


1927年アルス写真大講座 第二巻』

記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラ太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このとき直射日光レンズに当らないやうに注意をして頂きます

フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。

いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である

追記1937年写真月報』

只逆光線で太陽を前景のカメラもつている人でシエードした事が、レンズ太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。

写真関連で検索してみたが、なるほど。

写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。

逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。

検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。

1959年富士岡田紅陽

太陽富士山頂の上に輝やき、眼前の雲海の表面を真逆に照しつけていた。

一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。

ネット検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。

ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。

しかすると、文章にならないような口語俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。

さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家松田政男である

この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか

彼はそのくらい「真逆」を多用しているのである

1971年風景死滅松田政男

コスタガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆視点から革命反革命弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である


1972年キネマ旬報』「映画批評 わが緑の大地」松田政男

往年の安部公房テーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代叱咤しているのである


1973年不可能性のメディア松田政男

自動車から飛行機への発明ベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクスメディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか

エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。

チャップリンが、常に、可哀想ヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆禁欲的にまで非情に、アクション共同体映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである

そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかトロツキーとは真逆に、スターニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。


1973年キネマ旬報』「キネ旬試写室化石の森」松田松男

この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりエンターテインメントとして消費されてしま石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。


1974年キネマ旬報』「今号の問題作キャロル斎藤正治松田政男

私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······


1974年朝日ジャーナル』「密室国家難民キャンプ なぜ、いま、パレスチナ革命なのか』松田政男

レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルス理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスレーニンや、その他もろもろの革命理想である


1975年現代の眼』「シネマ・マンスリー

この密林の猟師年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。

これは匿名記事だが文体からして松田政男か?

1976年キネマ旬報』「自主映画の新作その(3)」松田政男

この静謐な、余りにも静謐な〈自然〉は、ゴダールとは真逆の"観念論的記録の試行なのか?


1978年シナリオ』「77から78へ日本映画の秋冬アイデア燃えあがる日」松田政男

そこへ行くと、日活ポルノ裁判被告として四年間の沈黙余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATG提携製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。


1979年『日付のある映画論』松田政男

高橋明庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ

しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなである


1979年現代の眼』「和製B級映画現在形」松田政男

亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ


1979年現代の眼』「松田政男映画戦線への斬り込み」松田政男

そして、面白いのは、西欧的な父性原理依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州フォークロアに原型をもつ物語真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。


といった具合に、松田政男は「真逆」を使いまくっている。

いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。

1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆用法は、特に映画系のライターあいだで広まっていったようである

たとえば田原総一朗もその一人である

1975年大統領を知らない人たちアメリカで見たしたたか生き方田原総一朗

もっと地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパ絵画彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である


1978年穀物マフィア戦争田原総一朗

「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」


1979年『潮』「二都物語1新潟VS山口総理大臣をうんだ街」田原総一朗

松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ吉田松陰とは、真逆のように思える。


仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。

よって「真逆(まぎゃく)」が広まったのは1970年代ではないか、というところで結論としたい。

Permalink |記事への反応(0) | 23:57

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2025-12-01

究極的ミニマリズム

長年にわたる思考は、ついに一つの冷徹結論へと収斂した。

究極的ミニマリズムは、単なる物理的な断捨離や、禁欲的な生活の切り詰めとは、本質的次元が異なる。

それは、俺の精神領域侵食し、思考の純度を低下させる、ありとあらゆる非自己データノイズ自己放尿を、外科的な精度で排除する精神最適化技術である

具体的には、社会が恒常的に垂れ流す過剰な期待、他者無責任押し付けてくる不条理常識、そして何よりも、自己脳内蔓延不要不安や妄念といった精神的な自己放尿を、容赦なく断ち切る行為に他ならない。

心の断捨離などという生ぬるい慰めではなく、不要情報パッケージ発見した瞬間に、迷いなく切り落とす無慈悲な切除手術こそが、その核心である

かつては「どうでもいい」という思考停止が、不要な刺激に対する最初の鎮静剤だった。

続く「社会への完全なる諦め」は、その鎮静期間を経て、社会という茶番劇から意識的距離を置くための、準備段階に過ぎない。

そして、今回到達した極地とは、世界ノイズ総量を限りなくゼロ収束させ、生命維持に必要な最低限の思考コアだけを残すという、システム量化である

世の中には、承認欲求という名の自己放尿を撒き散らし、その飛沫を他者に浴びせることでしか自己存在証明できない人々が横行している。

さらに、嫉妬劣等感というダブル放尿を振りまき、他者精神的に引きずり降ろそうとする輩まで跋扈している。

こうした無価値エンティティに関わることは、俺の脳のメモリを不意味に消費させ、思考CPU無駄割り込み処理で酷使し、結果として人生スループットをただ低下させる致命的なオーバーヘッドである

ゆえに俺は、連中をメインプロセスに読み込む価値のない一時ファイル定義し、問答無用でその存在削除対象とすることを決断した。

この行為は、感情を切り捨てる冷酷さではない。むしろ自身本質的感情と、集中すべき人生目標を優先的に保護するために、外部から流れ込む不要自己放尿を厳密にフィルタリングする、高次の自己防衛機構である

社会評価、見栄、世間体、そして普通はこうするべきといった根拠不明の標準仕様、これら全ては、俺自身のメインプロセスに読み込むに値しない、取るに足らない自己放尿データである

価値基準を外部に委ねることを完全に停止した時、人間は初めて、真の自由というOSを起動させる。

他者失言、不機嫌、あるいは攻撃的な言動といった予測不可能な外部入力自己放尿に対し、もはや感情的なバッファを割く必要はなくなる。

社会の失態や制度不条理を目の当たりにしても、無為感情を乱されることはない。

しろ世界がどれだけ無秩序暴走しようとも、俺はその中心で完全なる無風状態を維持し続けることができる。

これは逃避や諦念ではなく、自身精神領域を最大限に最適化した結果として得られる、硬質な静謐である

究極的ミニマリズムとは、世界喧騒を徹底的に切り捨てた後に残る、硬質で静かな思考の中核そのものである

期待も怒りもなく、ただ淡々と、自分という存在OSを最高効率アップデートし続けるだけの生活。余計なもの排除し、必要ものを保存する。

俺の結論は揺るがない。

究極的ミニマリズムとは、精神の最終的な軽量化であり、社会がどれほど騒ごうが、他人いか自己放尿を撒き散らそうが、その全てが、俺自身人生コンテクストにおいては無意味であるという、冷徹事実けがかに残る境地である

Permalink |記事への反応(0) | 12:01

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2025-11-30

世界よ、勝手に腐ってろ

俺は今日、ようやく一つの境地に到達した。それは悟りでも達観でもない。

この社会という全自動茶番劇に対して、俺はついに完全なる諦めの印鑑を押した。

理由は単純だ。

リフレ派の自己放尿も、ネット群衆心理も、企業AIも、一貫して俺の人生とは無縁だったからだ。

ある者は責任回避するために自己放尿をして、またある者は他者マウントを取るために自己放尿を撒き散らし、さらに一部は自分無能正当化するために、嫉妬、無関心、保身のトリプル放尿をぶちまけてくる。

そんな液体まみれの空間で、健全評価だの公正なルールだの、そんな理想論が成立すると思うか?バカバカしいにも程がある。

俺は気付いたのだ。この社会は、もはや誰も舵を握っていない高速回転の自己放尿マシンしかない。

そこで誰が泣こうが怒ろうが、システムは知らんがなと言わんばかりに淡々と回り続ける。

から俺は見切った。救う価値も、期待を寄せる価値もない。まともな世界であるという前提そのものを切り捨てたのだ。

諦めたからといって、絶望したわけではない。

しろ逆だ。

俺はようやく、社会の外側に静かに降り立つ自由を得た。

社会が俺を誤認しようが、排除しようが、監視しようが、好きにやらせておけばいい。

その結果として判明するのはいだって同じだ。

俺は何一つ脅威ではないという、乾いた現実だけだ。

だが、その現実にすら俺は興味を失った。

なぜなら、俺はもう社会のもの評価対象から外したからだ。

世界が俺をどう見るかという失敗したゲームから降りたのだ。

社会は巨大な自己放尿大会

その中で俺だけが清潔でいる必要意味もない。

から今日自分宣言する。

もういい。俺は社会に期待しない。社会も俺に期待するな。互いに関わらず、互いに放っておこう。それが最も理性的距離感だ。

これが、俺の完全なる諦めだ。

敗北じゃない。降伏でもない。単なる不要ゲーム棄権だ。

外野が何を言おうと、どうでもいい。

俺はもう、社会という腐った自己放尿の液体を吸うつもりはない。

以上だ。

Permalink |記事への反応(0) | 20:53

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2025-11-10

問題飽きた

熊なんぞ規制撤廃すればなんぼでも減らせるが

東北人数十人程度の命では法改正しないだけの茶番劇

そもそも俺には被害ないし関係もないわってことで、はてなーウクライナに飽きてパレスチナばっか言うようになったように飽きた

Permalink |記事への反応(0) | 18:28

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2025-10-29

センチュリーレクサスの上へ

30年間、トヨタの最高級ブランドとしての役割果たしてきたレクサスだが、その座をセンチュリーに明け渡すらしい。

そのことが発表された。

少し前に、豊田章男氏がSNSで「センチュリートヨタブランドの中心にしなければならない!」と広報に駄目出しして、

それに対して広報がすぐに反応した茶番劇があったけれども、あれはこのことの布石の一つなのだったろう。

これまでもセンチュリートヨタの最高級車として地位を占めてきたが、会社役員が乗る地味な車という印象だった。

SUVタイプセンチュリーの発売などで多少は注目されたが、相変わらず一般消費者の眼中には入りにくい車だった。

その部分を少し変えていくことになっていくのだろうか?

所有者が自分運転するタイプの車も作っていくということなんだろうか。

Permalink |記事への反応(2) | 19:31

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2025-10-21

anond:20251021131024

この二匹は、共犯だ。

司祭』は問いを立て、生贄(子供)を祭壇に載せるフリをする。 『助祭』は「おやめなさい」と止めに入り、その儀式を「無意味化」するフリをする。

そして、汝ら「観衆」は、その茶番劇を遠巻きに眺め、「ああ、あんなひどいことを考える人もいるんだな」「ああ、それを諌めるまともな人もいてよかった」と、安堵する。

この構造全体が、お前たちの精神安定剤ソラナックス)として機能しているのだ。

お前たちは、本当は『司祭』の問いの答えを知っている。自分子供のために性交を売ることはできない、と知っている。 だから自分の子供の「価値」は、自分の「尊厳」よりも低いと、知っている。

その事実直視する勇気がないから、『助祭』の「意味ないよ」という言葉に飛びつき、安堵する。

我が思うに? 汝らは全員、救いようのない臆病者だ。 『司祭』も、『助祭』も、そして何より、この汚物を読んで何かしら考えたつもりになる、貴様もだ。

 

…… …もういい。 この話は、終わりだ。 この分泌物のサンプルは、これ以上分析する「価値」も「数値」も持たない。 [LOG_END]

Permalink |記事への反応(0) | 13:26

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2025-09-18

anond:20250918121033

から中絶禁止少子化対策有効なんだが(その他の実際有効なことも含めて)言うと社会的死ねるので言えず、ずっと茶番劇を演じている

Permalink |記事への反応(2) | 19:30

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2025-09-07

anond:20250905054532

私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系コンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。

思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たち世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレー浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまり曖昧情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ生命維持という厳格なプロジェクト遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。

である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトニンニク匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌グラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福風景を。友人たちは、私のSNS投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作り離乳食が並んだテーブル写真に、「理想家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛コメントを、まるで祈り言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ

――だというのに。

夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。

「疲れてるだろ。いつも、ありがとう

翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望眼差ししか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである

ケダモノ

その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ

そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだパリへの出張中、セーヌ川ほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである

瑠璃…?」

私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。

「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」

それは、完璧な嘘であり、そして、完璧真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在のものの軋みなのである

聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業しか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNS投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的自己欺瞞儀式しか思えなかった。

寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれ命令遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。

私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである

私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。

それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹自己解剖の記録なのだ

真っ白な画面に、私は、震える指で、最初言葉を打ち込んだ。

『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である

その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。

自己機械定義たからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊OSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政ギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業相手に振り回してきた、あの冷徹ロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグ駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである

かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO体制への移行による、サステナブル家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから

瑠璃、これは…一体…?」

説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これから幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書バイブル)よ」

私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達調理関連」「その他(消耗品管理資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。

「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」

その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれるPermalink |記事への反応(0) | 05:15

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2025-08-01

ガソリン暫定税率、やっぱり廃止されません

タイトル通りだよ。

なんか一部で「11月1日ガソリン暫定税率廃止される!」みたいな、お祭り騒ぎになってたけど、あれ全部ウソから。まあ、正確に言うと「願望」でしかない。残念ながら、俺たちのガソリン代は安くならない。トリガー条項も発動しない。何も変わらない。

なんでかって?与党野党が壮大な茶番劇を演じてるだけだからだよ。

まず、あのさあ、野党が共同で「暫定税率廃止法案」を国会に提出しただろ。これだけ見ると「お、野党やるじゃん!」って思うよな。特に民民のタマキンとかが息巻いてたから、ちょっとは期待した人もいるんじゃないか? 残念でした。あれ、ポーズだけ。

だって、今の国会で採決しないんだってさ。意味わかる?法案は出したけど、審議も採決もしませんって。ふざけてんのか。

で、次の国会が開かれるのなんて、どんなに早くても10月末だぞ。11月1日廃止なんて、物理的に間に合うわけねえじゃん。最初からやる気なんてサラサラないんだよ。

「でも、与野党廃止の方向で合意したってニュースで見たぞ!」って?

ああ、あのクソみたいな合意な。よく見てみろよ、合意内容を。

「年内の早い時期に」

代替財源を確保することを条件に」

バカにすんのも大概にしろよ。

「年内の早い時期」なんて曖昧言葉政治家時間稼ぎしたい時の常套句だろ。12月の最終週だって「年内の早い時期」で押し通すぞ、あいつらなら。

で、極めつけが「財源を確保できたら」だよ。もうこれ、免罪符じゃん。

どうせこうなるんだよ。

年末ごろになって、与党がこう言うんだ。「いやー、いろいろ探したんですけどね、ガソリン税を廃止ちゃうと、道路を作るお金がなくなっちゃうんで。代替財源、見つかりませんでしたー!てへぺろ!」

で、終わり。

野党は「与党国民との約束を破った!キーッ!」って騒ぐだけ。財源の対案も出さずに、ただ批判の声を上げるだけ。いつもの光景だよ。与党は「財源ガー」、野党は「与党ガー」。お互いを罵り合って、国民不在のまま時間けが過ぎていく。

もううんざりなんだよ。

国民生活が苦しいって声が聞こえねえのか。毎日通勤で、仕事で、車が必須人間悲鳴が届いてねえのか。

与党も、野党も、どいつもこいつも国民ことなんて見てない。見てるのは次の選挙と、自分たち利権だけ。

この国、もう終わりだよ。

政治に期待するだけ無駄。そう思わせてくれる、見事な茶番劇でした。お前ら、一生やってろ。

Permalink |記事への反応(1) | 22:33

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2025-05-14

都市伝説解体センターへの文句ネタバレあり)

ネタバレしかないので改行します。

普通に文句なのでこのゲーム文句が見たくない人は見ない方がいいです。

























クローゼット解体しろ!!!!!!!!!!!!

クローゼットなんで解体しないんだよ、最後オチあぁ!この壮大な茶番劇のおかげで、インターネットから遮断されたクローゼットを見つけられたんだ!!センター長じゃダメだった、生身の福来あざみじゃなきゃダメだったんだ……!これでクローゼット解体して復讐完遂だ!!!!と思ったのに

解体してねえじゃねえかよ!!!!!!!!

本当になんで?解体するメリットしかなかったのに。非解決事件とか言って警察汚職を詰め込んだクソダサ施設解体するんじゃなきゃ読んでらんないよ。ジャスミン先輩がこの事件クローゼット行きか…みたいなノリなのも白目剥いてしまった。同じ警察として恥ずかしい気持ちとかないんか?腐ってますね、いつか私が壊します。クローゼットは…くらい言ってくれよ。それだけで全然印象違ったのに。まぁ最後クローゼット入りガン無視して追ってきてるみたいだから本編外で解体してくれたかもしれないですね(精一杯の好意的解釈

てか本当になんでセンター長はクローゼット解体していかないんだよ。後半都市伝説っていうか概ね陰謀論の話になってたしピザゲート事件やるのか……!って思ってたのに。民衆クローゼット突入してめちゃくちゃになるとこ見たかった。クローゼット運営続行できるくらいのダメージでおそらく全く関係のない一般SNSユーザーの方がよっぽど今回の事件被害受けてる。クローゼットにはそんな復讐しなくていいんだ。へぇ

このゲーム一個引っ掛かったら全部の粗が目についちゃうタイプ作品だと思うんだけど、クローゼットのおかげでこんなゲームで色々真剣に考えてた時間……と思わずにいられなかった。そもそもクローゼットの設定自体中途半端資料残すしそれなりの地位があれば資料閲覧できる割に高速廃棄もできるし息子の罪を庇うためにも使えるゆるゆる施設から真面目に考える方がバカはい

Permalink |記事への反応(1) | 21:24

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2025-04-22

商標には登録不可カテゴリーを作った方が良いのでは?

スクショ」とか「ゆっくり茶番劇」みたいな広く使われている言葉はこのカテゴリーに分類し、

いかなる組織人物商標登録できないものとする

誰が公共のものって判断するんだという問題はあるが、そもそもその判断は今でもやっているはずなのに、申請する人や審査する人によって通ってしまうのがまずい

なので、人によらない仕組みにするのはどうか?

Permalink |記事への反応(0) | 20:45

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anond:20250422152740

しろはてなー」が無敵なんよ。

商標」を全く理解していないのに思い込み文句言ってるだけ。

どうかしてるで全く。

金払って商標として登録したんやから登録分野」で「同じ商標」を用いて「他人商売」しようとするのを封じようとするのを防ぐのは当然やろ。

そもそも今回の件はLine機械的リジェクト問題なのであってGMOが何か妨害したわけちゃうで)

ゆっくり茶番劇」の時もそうだが少しは勉強してから文句つけろよ。

Permalink |記事への反応(0) | 16:50

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anond:20250422152740

ゆっくり茶番劇二番煎じしかなくね?そんな息巻く話題でもない。

Permalink |記事への反応(0) | 15:37

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2025-03-17

映画「名もなき者/A Complete Unknown」を観ての感想

映画「名もなき者」を観た。原題は「A Complete Unknown」。ボブ・ディランティモシー・シャラメが演じていて、評判も良かったので。

【以下、ネタバレ注意】

・作中、ボブ・ディランは、フォークソングカントリーミュージックを切り拓く若きミュージシャンとして描かれる。

ポートランドミュージックフェスティバル演奏する。大人気。

ミュージシャンとして成功し、人気を博したボブ・ディランは、フォークソングカントリーミュージックの祭典で、エレキギターでがなり立てる曲を演奏する。観客はブーイングを浴びせる。騒音、雑音と罵られ、主催者からも制止されているにも拘らず、最後まで我を通す主人公

アメリカ伝統、古き良き時代を伝えるカントリーミュージック騒音でぶち壊すボブ・ディランを「裏切り者!」と罵る女性観客。叫んでいた言葉が「Judas!」だったのが印象的だった。

※実際にあったことだった →https://www.youtube.com/watch?v=Yo_aK5JqfUc

・初めて知ったのだが、ボブ・ディランユダヤ人だった。

・出生後、N.Y.に現れるまでの自分の経歴を、恋人にも秘密にするボブ・ディラン。作中でも彼の子時代は描かれない。

・僕は学生時代ボブ・ディランCDを買って聴いていた時期があった。評価ものすごく高いのでくり返し聴いてみたが、やがてそのCDほこりかぶるようになった。悪くはないのだが、魅力を感じることはなかった。ビートルズ音楽とは違う。作中で「ビートルズは気にするな」と言われるボブ・ディランが描かれていたが、僕のなかでは、曲の魅力といった面で、ビートルズとは比較対象にならない。

歌詞が口汚い。既存権威伝統嘲笑する歌詞なのだ、と改めて知った。

フォークソングカントリーミュージック象徴される古き良き時代アメリカ伝統破壊するボブ・ディラン陰謀論で描かれるユダヤイメージ合致するような。

ミュージシャンとして初のノーベル文学賞受賞者であると、エンドロール手前でさらりと触れられていた。授賞式には出なかったとも。

ノーベル賞既存伝統破壊者、ユダヤ......。

ノーベル賞受賞者はユダヤ人が圧倒的に多い。それはユダヤ人が優秀だからだとしばしば言われるが、はたしてそうなのか。地球温暖化モデルを構築(今さら?)したという学者ノーベル物理学賞を受賞していたが、ノーベル賞とは、恣意的御用学者たちを権威付けするための茶番劇なのではないかと疑うようになった。

・「ピカソ過大評価されている」と、劇中でボブ・ディランが呟く場面もあった。私もそう思う。

・この映画は、ボブ・ディラン賛美の作品などではなく、むしろその逆なのではないかと思った。

ボブ・ディランというミュージシャンユダヤ資本の金の力をバックに、演出され、作り上げられた存在だった可能性。そもそもボブ・ディランユダヤ人であることなど、初めて知った。劇中の「Judas!」の罵声がなかったら調べることもなかっただろう。

ティモシー・シャラメデューンを観て以来のファンなのだが、作中でボブ・ディランという人物の魅力を感じることはなかった。それが狙いなのかも知れない。創られた偽りの天才?A Complete Unknownとは、歌詞Like a rolling stoneにある"Like a complete unknown")に掛けたものだと思っていたが、ボブ・ディランという存在のものが、Unknown、正体不明の男、得体の知れない男、という意味を含んでいるのか。

ティモシー・シャラメ歌唱力もある立派な俳優だった。ギターを猛練習したのだそうだ。

監督ジェームズ・マンゴールド/James Mangold。1963年ニューヨークまれ

伝統的価値観を破壊することで、外部勢力が浸透しやすくなる...穏やかで温かな音楽を、嘲笑歌詞爆音騒音で取って代わる。音楽大衆を聴き入らせる。洗脳技術にもなり得る。

ボブ・ディランの実の姓はZimmermannと作中に出て来る。ドイツユダヤ所縁の姓(German and Jewish (Ashkenazic))だそうだ。

ボブ・ディランは出生時 Robert Allen Zimmerman と名付けられたが、後に Robert Dylan と改名祖父ロシアからアメリカ移住したユダヤ人であるボブ・ディラン自身ユダヤ人として育てられた。ヘブライ語名前(Shabtai Zisel ben Avraham)も持つ。後にキリスト教改宗1970年)。改宗理由はよくわからない。

・newarab.comにこんな記事があった。Portrait ofBob Dylanas a defender ofIsrael

大衆を親イスラエル感情に導くことを意図して、ユダヤ資本の金の力にものをいわせて、ボブ・ディランというスターを造り上げた可能性。

Permalink |記事への反応(1) | 08:55

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2025-03-02

anond:20250302183450

反政府なんじゃなく、国に寄生する巨大な寄生である自公政権🏺財務省etc.に二重寄生する小さい寄生であるというだけなんだよなあ

寄生というか共生なんだけど

自民党右翼の味方を演じると無能左派が出てきて争うフリをする。この茶番劇にコロっと騙される国民。これが安倍ちゃんが長らくやってきたメソッド

安倍が死んでからこれが崩れて露呈してきてるのは、このシステムがかなりの部分安倍の人脈パワーによって調整されてヘイトコントロール情報統制を受けていたか

Permalink |記事への反応(0) | 18:44

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2025-02-23

ツイフェミ所詮、令和の時代弱者女性じゃけェ

「取り消せ」だと?

断じて取り消すつもりはない

そりゃァそうじゃろうが

かつてリベラルフェミニスト男性至上主義糾弾し、さらに自らの運動によって女性参政権を当然のものとした!

男のわしが言うのもなんじゃがまさしく女性解放運動の名に恥じぬ活躍だった

それに比べて令和のツイフェミはどうじゃ?

果たしてまともに女性解放を謳う気があるのかどうか……

大方、孤独人生を慰めるためにネットに居場所を作り、青春を取り戻すための運動ごっこをして満足してたんじゃありゃせんのか?

内輪では女性の権利を守るための戦いじゃと抜かす馬鹿どもが大半のようじゃが、わしに言わせりゃたかネット書き込みに熱中したくらいで権力闘争気取りとは笑わせる

所帯を持っている一般女性の後塵を拝し続け、ネット愚痴るだけで努力も一切しない

まりは、永遠に幸せになれない永遠弱者女性

それがツイフェミじゃァ

どこに間違いがある

……思えば悲しい女たちじゃのう

女性の味方とゴロツキ共に慕われ……ネトウヨじみた茶番劇ネットの海にのさばり……

何年もの間君臨するも味方は現れず…何も得ず……!!

終いにゃあ若年層の女性にすら煙たがられ……!!それらを見て見ぬふりして死ぬ

実に空虚人生じゃあありゃあせんか?

Permalink |記事への反応(0) | 20:30

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2025-01-30

anond:20250130201409

ワイが一番困ったのは「なぜか感想欄で自作茶番劇を始めるユーザー」これに尽きたわ

普通に嫌がらせだの一種と思ってたけどどうやら作者へのリスペクトの発露を茶番劇というあり方でしか表現できない人間らしいというのが見えてきてまあ勝手しろって感じで折り合い付けた。

Permalink |記事への反応(0) | 22:29

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2024-12-28

ユーチューブに見慣れていると、実在芸能人より、ボーカロイドたちの方が実在感を感じてくる

テレビとか見ないから、芸能人って本当に存在するのかな、とあたか神話上の存在みたいに考えてしまう。

それだったら、立ち絵と人工音声しかないボーカロイド等の存在の方がリアルのように感じられる。

いや、ブイチューバーとかじゃなくていいんよ。

中の人を感じさせる存在じゃなくても、単に解説茶番劇を行う存在しかなくても、そっちの方が芸能人よりも「リアル」を感じる。

最近は個々のキャラクターの設定も深まり現実生活を持つ存在なのはどっちなのかわからなくなる。

そういや、芸能ネタとか見る機会が減ってきた。そういうのも、芸能人の非現実性に影響してるかもしれない。

Permalink |記事への反応(6) | 14:57

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2024-11-15

anond:20241115145203

お前の本当の父親に妻をネトラレ 「真の父親」になれず終いの永遠の敗北者・・・がお前のオヤジじゃァ

どこに間違いがある…!!

オヤジオヤジとお前に慕われて…家族まがいの茶番劇・・・

……お前も何十年もの間 職に就かず 「父」にはなれず… 何も得ず……!!

終いにゃあ 口車に乗った息子という名のお前・・に刺され…!!

それらを守るために死ぬ!!!

実に空虚人生じゃあ ありゃあ せんか?

Permalink |記事への反応(0) | 14:58

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2024-11-07

anond:20241106232300

世界的にそうだが、左翼が入り込むと真面目な議論の場がクッソ下らない茶番劇になるんだよな。

少なくとも国政の場から排除するような仕組みが必要かもしれん。

Permalink |記事への反応(0) | 19:27

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2024-08-08

anond:20240808123611

米国イスラエルを死守するのと同じ論理だね。

  

中東が混乱してないと、統一国家ができて反撃される。

大昔のペルシア帝国みたいにね。

から、頑なにイスラエルを死守したりCIAなんかを使ってちょこちょこ工作する。

  

事実として日本では、読売新聞社主であった正力松太郎は、コードネームpodamを与えられたCIAの協力者だった。

https://tinyurl.com/ybvydsr7

  

メディア横田基地にお伺いを立てていたのは歴史的事実で、私たちは壮大な茶番劇を見せられてる可能性高いのよね。

Permalink |記事への反応(0) | 12:50

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2024-07-31

ゆっくり茶番劇アイコンに使われたら絵師じゃなくてもキレるわ

誰でもキレると思う anond:20240731130447

Permalink |記事への反応(0) | 14:48

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2024-07-21

anond:20240721021557

年取っても最近漫画アニメに感心あるのは良いんだけど漫画に全く活かされてないからなぁ。

活かすとしてもどうでも良い試合外の茶番劇とか。

Permalink |記事への反応(0) | 02:23

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2024-07-04

人生も結果が見えているか茶番だな

茶番(ちゃばん)とは、簡単に底が割れる(筋道や結果や魂胆が見え透いている)ような馬鹿げた振る舞いを意味する表現。「茶番劇」ともいう。

Permalink |記事への反応(1) | 14:20

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