
はてなキーワード:船長とは
私はですね立憲民主党と新たにできる この浸透合流には加わりません これまで国民民主党の代表として まあ船長として 今申し上げたような今の日本に必要な政策提案型の改革中道のポジションということを
より明確にですね 仲間と共にこれからも訴えていきたいと思いますしそのことを通じてコロナだけではなく日本が直面する諸問題にへ 堂々と向き合っていきたいと思っています
https://www.j-cast.com/2020/08/19392473.html
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-08-20/QF18SMDWRGG201
五十噸の補助機関つき帆船で海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオやインドに久しく滞留、仏教を研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国の事情を知りたいと希望している人々のためには最近の東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単な商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉中であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。
『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。
直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日神戸より」。
臍主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。
第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破の体験を本として、其遭難の顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物はまことに稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである。
『楚人冠全集』より、1937年の杉村楚人冠「バルサ」という記事。
逓信省の船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社で明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞社主催の団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。
1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎特攻観音の縁起について」という記事。
昭和二十一年から、神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋で貿易をしておったのでありますが、戦争がたけなわになりますと、日本の航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。
(中略)
はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。
これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。
(中略)
そういうものをお土産にもって廻って、六年間というものは休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京と東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上に特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。
『吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治の発言。
近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州で塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。
「いったい君はなにして歩いているんだ?」
「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房が神戸の区役所の人夫をしている」女人夫ですね。「子どもは小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初は九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。
近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである。
近江君と私は一年の時からの同級で、しかもふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである。
しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊の実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問に精魂を打ち込んだのであった。
戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。
私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親が船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこちに設計を頼んだり資金の相談にきたりした。
この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。
近江一郎の著書に『小舟を住家に南洋へ』『斜に視たる神戸一中』がある。『小舟を住家に南洋へ』は読めなかったが、大まかな内容は上記で説明されている。『斜に視たる神戸一中』は、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、上記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉・長崎・京都・東京知事を歴任)」なども登場する。笑いあり涙ありの平和なものだが、支那事変(日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親の名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸の野田高等女学校に入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。
ボア・ハンコックはアマゾン・リリーの女王であり、九蛇海賊団の船長です。彼女は『ワンピース』の主要キャラクターとして活躍し、ルフィへの揺るぎない愛は物語の中で繰り返し描かれてきました。
ルフィへの揺るぎない献身は、多くのファンの心を打ってきました。ハンコックは強さと美しさ、そしてルフィとの暗黙の絆を兼ね備えています。これらの資質が、彼女をルフィの妻の有力候補にしています。また、ルフィへの忠誠心と強い保護心も、麦わらの一味の船長であるルフィとファンを魅了しました。
その港はいつものようにコンテナ車とクレーンの音が絶え間なく鳴り響く、豪奢な喧騒の中にあった。ある船長はもう乗船しており、船積みの完了を待っていた。午前中にコンテナの一つにトラブルがあったらしい。作業服の男がスーツ姿の男とともに、コンテナのあいだを縫って船長室に向かっている。港湾局長の新任の部下である。コンテナに薬剤散布が必要なことが分かったという。
出発は夕方になりそうだ。ただ、感染症はいつも国際問題だ。自動車運搬船の積荷証券が3000万ドルを超えているとしても。12日後にはロサンゼルス港近くのホテルのプールでくつろいでいるだろう、と船長は思った。貿易が政治問題化しているが、私が入港料を負担する訳でもないから。
https://anond.hatelabo.jp/20250722002739
元増田の中段以降の各首相の支持率変動は以下のような感じなのでリンクさせてもらう
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何やったのか当時の反応を含め記憶が曖昧なので内閣支持率を元にトピックスを書きだした。
前月と比較して7%以上内閣支持率の増減があったときのみ書き出した。
5%増減だと時事を調べるのが面倒で無理だった為。
今まで書いたのは、2022年8月、2023年11月、2024年11月。今回は9カ月分を追記。
トピックス以外の雰囲気を掴む為、次のようなものも合わせて記す。(適当に作った)
内閣支持率の出典
https://www.nhk.or.jp/bunken/yoron/political/1998.html
■すずかけ写真館
日本の子供向け文学。細かい所は憶えていないが、中年のオッサンが林の中でふと辿り着いた写真館に入ってみると、自分の子供の頃からの色々な場面の写真が壁にかかっていて……
という話。
特段オチがあるわけではないファンタジックな出来事の話で、シメは確か『聞こえてくるはずだからねえ。見えてくるはずだからねえ』みたいな一文だったと記憶している。
子供の頃は『楽しい話』という感想しか無かったが、自分が年食ってみると、この写真館を一度は訪れてみたいような、訪れるのが怖いような、そんな気分になる。
■水門で
欧米の田舎が舞台で、主人公は少年で両親と住んでいる。歳の離れた兄は出征している。
そんなある日、大雨が降ってきたので主人公は父親と共に水路へ水門を閉めにいく。
そこで見たものは……
という話。
自分も兄がいるので、悲しい気持になる話だった。
■少年の日の思い出
多くの作品で登場する人名である『エーミール』の中でも、おそらく日本人に最も嫌われたエーミールがここにいる。
ものには言い方ってもんがあるだろう。
■あの坂を登れば
海を目指して歩く少年の話。
テーマが取りようによって色々考えられる話で、そういう意味で教科書に採用されたのも分かる話である。
シンプルに考えれば『諦めずに目標を追う重要さ』もしくは『目標を追うと立ちはだかる試練』の話であるが、現実にはサンクコスト効果というものも警戒しなければならない。
■おみやげ
こいつはくせえッー!教育してやろうってにおいがプンプンするぜッーッ!
『白い服の男』なんかも載せるべきではないのか。
■鷹の巣とり
森に鷹の巣を取りに行く子どもたちの話。
木から落ちた子どもが一時的に甘えん坊になってしまうところが妙にリアルで微笑ましいが、本人にとってはとんだ黒歴史であろう。
コナン君ならこの記憶を抹消するために殺人事件が起きてもおかしくない。
■内蔵允留守
剣で有名な人の所に剣術指南を請いに行った虎之助が、出会った女の子と良い感じになって、当初の目的を捨てる話。
要約するとこれで間違ってないはず。
■とびこみ
船長の息子がサルに帽子を取られ、頭に血がのぼってマストにものぼって、危ない事になる話。
子どもだから仕方ない浅はかさと言えなくもないが、人類の伝統戦術である『釣り野伏せ』に引っかかるやつのメンタルはこれと同じである。
人前だからといって引っ込みがつかなくなるような事をするな、という教訓の話だろうか。
小学1年の国語の教科書の最初の1作で、「おはよう! おーいおはよう!」から始まってたのを憶えているが、それ以外のところは憶えていない。
アメリカではちゃんと入植者の名前が記録されており、そこからさらにヨーロッパにさかのぼれる
そして姓でルーツを検索する有料サイトもある。日本人が大好きなDNA検査もオプションでできる。
有名なアメリカ最古級の姓
1. Smith(スミス)
アメリカでは1600年代初頭、ジェームズタウン(1607年)などの入植者にすでに存在。
有名人:ジョン・スミス船長(Captain John Smith) – 初期ヴァージニア植民地の指導者。
2. Washington(ワシントン)
初代大統領ジョージ・ワシントンの姓として有名。
そんなわけで1600年代がルーツというのはアメリカ最古級になる。
そして、ヨーロッパから入植しているので、さらにルーツがさかのぼれるものがあり、アメリカで有名な例はヨーロッパまでさかのぼれるもの。
その一つがO'Brienで、ブライアンの孫を意味する。西暦 900年代初頭のアイルランドのクレア州出身ということがわかっている。