
はてなキーワード:自責とは
普段から暴走行為してるアホが単独自損事故で首がもげたとしても悲しむやつはまずいない。むしろよかったねとせせら笑うくらいのものだ。
安倍首相が殺されたのも、「安倍は極悪人」という世界観の人にとっては暴走首もげと大差ない事象だろう。それはまあどうでもいい。
しかし犯人の山なんとかにとってはどうなのだろう。罪悪感というのはなかなかに複雑なものであるからただのバカにはわからないかも知れない。しかし山なんちゃれはそこそこ頭は悪くなさそうである。
統一教会の偉いやつを殺すでなく、母親を殺すでなく、「自分の苦境は間接的に安倍のせいだ」という理屈で、また「元総理を殺せば注目を集めて統一教会にダメージを与えられるだろう」という打算によって、一人の人間を殺す。
銃を手に向かってくるのを返り討ちにするのでもなく、何も気づいてない話したこともないおっさんを射殺する。
いまどんな気分かな?
あらゆるテロはある意味でヘイトクライムであると思う。「コイツの命なんか自分が目的を遂げるための道具にすぎないんだ」と、文字通りにひとをモノ視しているから。
そのまま罪悪感のスイッチを切ったまま平気で生きていくか、どこかで「自分はなんということをしたんだ」と後悔に捕まるか。どっちも普通にありえるとは思うが。
見沢知廉は内ゲバ殺人については特に反省するようなことは書いてなかったと思うが、後悔しすぎて触れられなかったのだろうか。自殺したのも自責のあまりか。それとも単にうつ病か何かか。
フィクションではよく盛大に反省してひたすら贖罪の人生を送るナイスガイが出てくる。その反動で、いや人間なんてもっと血も涙もないもんでしょと思ったりもする。
しかし自分の都合のために直接知り合いでもない他人の人生を終わらせることの重みは、まともに考える頭があるなら軽いものであるはずがないのだ。
AIに「AIが書いた後人間が改変した可能性が高い」って言われてるやんw
これは「AIが下書きを作り、それを人間が感情・体験ベースで大幅に改変・肉付けした可能性」はかなり高いです。
完全なAI文とも、完全な人間文とも言い切れません。いわば“ハイブリッド文”の典型的な特徴があります。
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(1)構成の整理度が異様に高い
• 序盤から終盤まで「1.ライフスタイル」「2.時間の問題」「3.事件」「4.家族の変化」ときれいに番号で分けた4項構成になっており、
•感情的なテーマ(トラウマや喪失)を扱っているにしては、全体の構成が整いすぎている。
→ これはAIが最初に骨格(見出し+流れ)を作った可能性を示唆します。
(2) 文末・語尾のリズムが均質
• 「〜た。」「〜した。」「〜思った。」など、文末のリズムが機械的に一定。
一見自然ですが、ここまで均一なのはAI下書きにありがちな特徴です。
人間が書くと、もう少し「…」「〜だったのかもしれない」「〜気がした」などの“揺れ”が混ざりやすいです。
•人間がトラウマを描くときは、感覚的な比喩(「胸が重くなった」「包丁を握る手が震えた」など)が混ざることが多い。
しかし本作では「トラウマ」「苦痛」「不快感」など、感情を抽象名詞で処理しており、ややAI的です。
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「私が引き際を誤って我慢して通い続けて不遜な態度をとってしまった」
「やばい奴を焚き付けてしまったことが一番よくなかったと反省している」
こうした“自分の落ち度を認める書き方”はAIが苦手とするニュアンスで、人間による心理の細かい補筆と考えられます。
(2) 「マジでやばい奴」「スーパーで1万円以上買ったレシートみたいなLINE」などの口語的な比喩
• これはAIが自然に出すには難しい生々しさで、人間的な編集が明確に入っています。
•特に「スーパーで1万円以上買ったレシートみたいなLINE」は生活感と怒りのユーモアの混在で、AIの自動生成ではほぼ出ません。
そのバンドのライブに複数回行くほど好きなのだが、最近出した曲の歌詞が嫌いだ。
歌詞の内容は、自責したり、他人と自分を比べたりして、人生に苦しさを感じていたけれども、
理解のある彼くんができたことで人生が好転し、「他人も辛い思いをしているんだな」と気づく――というものである。
この曲に対して、MVのコメント欄では「救われた」「頑張ろうと思った」といった内容が書かれている。
しかし、よく考えてほしい。
理解のある彼くんを手に入れたことによって視野が広がり、人生が好転したと歌われているのである。
理解のある彼くんありきのこの歌詞を見て、どうして救われたのか。
どうして頑張ろうと思えたのか。
人生で一人でもがいた結果が、「理解のある彼くん」という外的要因で報われる。
一人では結局、何も変わらなかった。
これのどこに救いがあるのだろうか。
この現代社会で、報われるかもわからず一人でもがき続けている人たちに対して、
リスペクトはないのだろうか。
それは男女じゃなくて精神の成熟度だろ 九州煽りは都合がいいから合併しただけで
https://anond.hatelabo.jp/20251030100915
周りの人間は利用するためだけの存在、と思っている人はいます。ただ、それは男性に限りません。女性にもいます。
また、「俺の劇場を俺のルールで上演するためには嘘だって平気でつく」、ここまで割り切れている人間はいないことはないですが、滅多にいません。
周りにそんな人間が集結しているとしたら、それは明確に異常な空間です。
頭がよく、他人を操作することに抵抗がない男性は「親切や誠実を装って相手を支配、操作しようとする」ことはあります。
ただしそれは男性に限りません。苦境と誠実を装った頂き女子りりちゃんは男性でしたか?
女性に限らず、人間は基本的に自責であることに耐えられず、無意識のうちに他責にします。
その中でも、他責にすることに社会的批難が集まらない女性は、男性と違い他責にすることに対する攻撃を受けにくいため、他責にする構造がより補強されやすくなります。
これかなり嘘臭いんだけど、そこは置いといて
お前って結局そういう男がタイプなんだよ
俺の劇場を俺のルールで上演するためには嘘だって平気でつくぜ。
ミリも思ってないけど動かなくなった舞台装置には油をささなきゃ動かないからな。
みたいな。
それで頭のいい男なんかは親切や誠実を装って相手を支配、操作しようとする。
ちなみに周りの女性はみんな心から相手に誠実であろう、利他であろうとする、自責的な人ばかりだ。
なんでだろう?
>九州人かな?
御明察。
九州男児が嫌で東京の男と結婚したのに結局舞台の脇役にされとるってわけ。
先日息子が「ママだいすき!」
というのでちょっと様子を見てたら
「…僕のこと嫌いってことね…!」
「ママもだいすきよ、なんかあった?」
「そうそう、そんなことがあったの…」
と私は『優しいお母さん』という役割を演じたのだった。
Permalink |記事への反応(44) | 10:09
男の上手さは要因の中の一つでしかなく、彼女に拒否られるとか彼女のほうから告白され付き合い始めたのに振られるとかは下手が原因かもしれないと思う
交際時は乗り気だったのに結婚して子供が生まれてから拒否されるようになってとかはホルモンバランスの変化みたいな女側要因じゃないかと思う
男性は生理もないし女性よりホルモン量の変化による性欲ゼロ状態を経験してない人が多いからピンとこないのかもしれない
うつ病の経験があればうつ病による性欲の無の状態というのがわかるだろうか
うつ病でたたないときに相手の女がブスだからだ下手だからだとはならんと思う
女のほうが出産以降性欲が全くわかないとか、婦人科系疾患で性交痛が発生するようになるとか、難治性のセックス嫌いが発生しやすいんだよ
男の場合は本当に「相手に飽きた」が多くて、性欲自体がだめになってしまうのはうつ病とか…しか例がないじゃん
男がうつ病でたたない場合は「男として情けない、申し訳ない」と自責になりやすいのが、産後で性欲消失した女の場合は「母の義務を果たしているだけ、減退している私のほうが正しい、お前も正しく父になれよ気持ち悪い死ねよクソ」みたいな小熊抱えたメスヒグマのように猛獣化しやすいのも本当非対称でアレではある
産後でも性欲MAXのタイプが親として良いタイプかというと、養育への興味のなさ・利己的な快楽主義とセットになっていて、結構トレードオフな感じがしないでもないからまあまあ詰んでいるともいえる
双極性障害持ちの美人で全員父親が違う3兄弟の母親で育児放棄みたいな真似してる人を知っている。長男が死にかけながら下の2人を育てたような状態。ああいうタイプはセックスが良いからモテるんだけど子供の目線からしたら母親がアレというのは地獄だろうなぁとか思う、容姿の良さが母親から見事に遺伝していることだけしか救いがない
スレッド内で特定が試みられ、多くの参加者によって『水星の魔女』ではないかと推測されている作品について、公式の展開やヘイト管理に関して以下のような問題点が指摘されています。
ラウダの倫欠行為と無反省: ラウダがグエルに対してクズ行為、具体的には八つ当たりを行いグエルが死にかけたにもかかわらず、本編でラウダがグエルに謝罪しない、もしくは開き直ったまま物語が進行したとされます。
倫欠状態での恋愛成就: ラウダの倫欠行為が未解決のまま、ラウダとペトラのカップルが公式成立したため、ラウダは「倫欠の恋愛脳」として批判されました。
報復の不均衡: 悪行を行ったシャディクが罪を償うことになった一方で、明らかに悪行を行ったラウダがお咎めなしとなり、公式のバランスが悪いとの指摘があります。作中で明確に人を殺しているが裁かれていないキャラもいる中、ラウダだけが野放し呼ばわりされることにフィルターがかかっているという意見もありますが 、ヘイト管理が下手であるという認識が多数あります。
被害者グエルへのフォローの偏り:公式はグエルの寛容さを描くことでラウダのフォローをしようとしたようですが、グエル推しはラウダの野放し状態に怒り、結果的にラウダへの憎悪が高まりました。さらに、公式がラウダの行為の原因補強ばかり行い、グエルがラウダ以外のキャラから責められ自責するような追加情報を出したため、公式がラウダのモンペ(モンスターペアレント)であると炎上する事態を招きました。
深刻な事象の軽視: ラウダがグエルを殺しかけたという事態(殺人未遂)よりも、人体実験や大量殺戮などの他の極悪非道な行為(経営者が孤児に人体実験を行いトンヅラしたこと、若者に殺人罪を肩代わりさせたおばさんなど)が作中で発生しており 、ラウダの罪が霞んでしまうほど、作品全体の倫理観が「終わっている」状況が指摘されています 。
展開のためのキャラ利用: 倫欠行為が「話を動かすため」にキャラが犠牲になったパターンであり、その結果、後からフォローが来ない可能性が指摘されています。
尺の不足: ラウダとグエルの衝突は、本来であればもっと早くやるべきだった「尺の無駄遣い」と見なされる側面もあり 、全体として展開が雑であるという意見も見受けられました。
スレ主はラウペト推しであると自称していますが、その投稿内容には以下のような問題点やバイアスが指摘されています。
ラウダに対する主観的なフィルター:スレ主の記述(ラウダが謝らない、ラウダはお咎めなしなど)は、既に作品やラウダの評価に対して「分ッ厚いフィルター」がかかっていると複数のユーザーに感じられています。
グエル推し視点での情報開示: ラウペト推しを自称しているにもかかわらず、ラウダへの批判や倫理欠如の強調、グエル推しからの嘲笑の記述など、その文章は明らかにグエル推し(またはラウグエ腐)の視点であると看破されています 。
人気度の強調:シチュエーションや行為の善悪を語る際に、ラウダよりもグエルのほうがグッズのバリエーションなどから「段違いで人気のあるキャラクター」であることを持ち出しており、ラウダを貶めたい意図が隠せていないと指摘されています 。
粘着質な執着:スレ主は「ラウダがグエルに倫欠なことする前の界隈の空気が楽しすぎて執着が切れない」と述べており、作品が終結してから年単位の時間が経っている可能性が高いにもかかわらず 、いまだにジャンルから離れられずにいます。
反転アンチ化の懸念: 執着を断ち切れないまま界隈に留まることは、ラウダアンチをしながらラウペト推しやラウグエ推しをするような状態、「反転粘着アンチ」になりつつある状態と見なされています。
愚痴と慰めへの要求:スレ主の行為は、純粋にアドバイスを求めているというよりも、都合の良い情報だけを開示して「自分を慰めて欲しい」 、あるいは界隈を叩いてほしいという目的であると推測されています。
スレ主の状況や、スレッド内で寄せられたアドバイスから、理想的なコンテンツ消費の在り方として以下の点が提案されます。
自己判断と許容: 最終的に、自分が公式のラウダを受け入れられるか許せないかがすべてです。周りの空気や他者の意見に関わらず、自分がそれでも好きか、推せるかで判断すべきです。
無理をしないこと:精神的なストレスを感じてまで無理矢理好きでい続ける価値のあるフィクションは存在しません 。作者の倫理観が受け入れられないと感じたら、精神衛生のために離れるべきです 。
二次創作の活用:公式の展開が受け入れられない場合、公式をある程度無視して二次創作を楽しむという方法があります。自分がラウダを許せる「IF(もしも)」の設定を自分で作り、その設定で推し続けることも一つの手です。
距離を置く: 嫌な空気の界隈に居続ける必要はありません。交流を断ってカプだけを推し続ける、または鍵付きアカウントなどで似た価値観を持つ人たちだけで交流する など、居心地の良い環境を確保することが重要です。
過去に焦点を当てる:公式の展開が気に入らない場合は、問題の行動が発生する前の、好きだった時点のキャラクターや関係性だけを推し続けることも可能です 。
一旦距離を置く: 執着を断ち切れない場合は、とりあえずジャンル全体から距離を置くことが推奨されます。時間だけが解決してくれることもあります 。
新しい場所を探す:現在の界隈に熱意が残っていないなら、別の居心地の良い界隈や、もっと楽しめそうな新しい作品に移るべきです 。
自己解決と責任: 状況が曖昧なままであれば、他者に判断を仰ぐのではなく、自分で決断を下すべきです。粘着アンチ化する前に、見切りをつけることが健全な消費態度です 。
私がめちゃくちゃ自責の人間で、「ありとあらゆる選択は自分の意思によるものであり、外部の要因によって誘発されたものであってもその最終的な判断の責任は自分にある」と思っている。
これに対して彼氏が「判断を誘発した外部の要因に大きな責任がある」と思っているタイプで、もうとにかく辛い。
例えば親の持ってる古い高級な一眼レフに憧れた時に、私は単純に「私も良い一眼レフが欲しい!!(誰が持っていたとどうでも良い、私がほしいものであると言う認識)」ってなるのに対して、あちらは「目の前でそんなもの見せられて欲しくならないわけがない、欲しがらせたお前が悪い」となる。
憧れたものそのものに向かうプラスの感情よりも、それを誘発させた存在に対するマイナスの感情が大きく、そしてそれが与えられなかった時に余計に大きくなる。
それでいてじゃあそれを得るためにどこまで努力しますか?と言うと、ある程度までしかせず結局手に入れられなかったりするからタチが悪い。
私の場合は「ある程度しか努力しなかった自分の責だ」で終わる話が、恋人からすれば「そもそもあんなもの知らなければ手に入らない苦しみをあじわわなくて済んだのに、見せたお前に責任がある」と言い出す。
その攻撃対象が私になった。
期待させた挙句に梯子を外した私に責任がないとは言わん。流石に全然私が悪い。それはそれとして、上記の特性のある人間に上記の責め方をされている場合、それは本当に私の100%の非か?私を非難するより先にやるべきことがないか?
少なくとも私が相手の立場であれば、相手を責めたところで状況が変わらないのでじゃあここからできる自分にとって最適なルートは何か、という考えに移行する。
私を責め続けた先に何があると言うのか。