
はてなキーワード:自意識とは
第1章の超詳細解説です。
(※章分けは代表的な版の構成に基づいています。版により細部がずれる場合がありますが、タタルスキーの物語の最初の区切りとして扱います。)
⸻
🟥 第1章:タタルスキーの転落と“資本主義の匂い”との最初の接触
⸻
◆概要
タタルスキーがソ連から資本主義ロシアへ放り出されて生き残りに苦しむ様子が描かれる章。
彼が広告業界に足を踏み入れる“きっかけ”がここで与えられる。
物語全体の導入として、
・新世界への戸惑い
が非常に濃く提示される。
⸻
•毎日ただなんとなく過ぎていく
彼は“旧イデオロギーの残骸”を引きずるまま、新しい価値観に適応できない。
「Vladimir Ilyich Lenin」の略 =ソ連の遺物
• それが今、何の役にも立たない
旧ソ連の精神が、資本主義ロシアで役に立たないという象徴がこの章の基調。
⸻
◆ 2. タタルスキー、知人と再会
物語の転機は突然訪れる。
タタルスキーは偶然、大学時代の知人であるゴリンスキー と再会する。
• 良い服
• 太った財布
• 余裕のある態度
を身につけている。
この再会は、タタルスキーの“観念の崩壊”をさらに加速させる。
⸻
彼が困窮していることを察すると、こう言う――
「コピーライターをやってみろ。
• とにかく広告が足りない
•給料は今の何倍にもなる
⸻
この章のクライマックスは、タタルスキーがゴリンスキーと座る店の描写。
タタルスキーはそこではじめて、
を肌で感じる。
この「世界が広告になる」という感覚は、後半で国家レベルのメディア操作へ発展していく伏線。
⸻
• 興奮:言葉を使って金を稼げるかもしれない
タタルスキーは、
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◆ 6. 第1章まとめ(象徴的整理)
項目 内容
タタルスキーはこの章で、
これが全編を貫くテーマの萌芽となる。
第1章の超詳細解説です。
(※章分けは代表的な版の構成に基づいています。版により細部がずれる場合がありますが、タタルスキーの物語の最初の区切りとして扱います。)
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🟥 第1章:タタルスキーの転落と“資本主義の匂い”との最初の接触
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◆概要
タタルスキーがソ連から資本主義ロシアへ放り出されて生き残りに苦しむ様子が描かれる章。
彼が広告業界に足を踏み入れる“きっかけ”がここで与えられる。
物語全体の導入として、
・新世界への戸惑い
が非常に濃く提示される。
⸻
•毎日ただなんとなく過ぎていく
彼は“旧イデオロギーの残骸”を引きずるまま、新しい価値観に適応できない。
「Vladimir Ilyich Lenin」の略 =ソ連の遺物
• それが今、何の役にも立たない
旧ソ連の精神が、資本主義ロシアで役に立たないという象徴がこの章の基調。
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◆ 2. タタルスキー、知人と再会
物語の転機は突然訪れる。
タタルスキーは偶然、大学時代の知人であるゴリンスキー と再会する。
• 良い服
• 太った財布
• 余裕のある態度
を身につけている。
この再会は、タタルスキーの“観念の崩壊”をさらに加速させる。
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彼が困窮していることを察すると、こう言う――
「コピーライターをやってみろ。
• とにかく広告が足りない
•給料は今の何倍にもなる
⸻
この章のクライマックスは、タタルスキーがゴリンスキーと座る店の描写。
タタルスキーはそこではじめて、
を肌で感じる。
この「世界が広告になる」という感覚は、後半で国家レベルのメディア操作へ発展していく伏線。
⸻
• 興奮:言葉を使って金を稼げるかもしれない
タタルスキーは、
⸻
◆ 6. 第1章まとめ(象徴的整理)
項目 内容
タタルスキーはこの章で、
これが全編を貫くテーマの萌芽となる。
「勉強しなさい」と親に一切言われたことがなかった私だが、小中学生の頃はトップクラスの成績だった。
ある日、放っておいてもいつも高得点をとってくる私に、
親がニヤつきながら「もし0点取ったら1万円あげる」と言ってきたことがある。
お年玉をやりくりしておやつから自分の日常着まで買っていたので、
けれど結局、そんな恐ろしいことはどう転んでもできなかった。
先日友人が「子供がテストで0点取ってきてさ!」と笑いながら話してくれた。
すぐに「いいなぁ」と思った。いいなぁ、とても愛されて育っているんだろうな。
そこで、はたと「なぜ私は0点を取れなかったのか」と向き合うことになる。
なぜ?
テストでいい点数を取ることが自己の存在確認の一つだったからだ。
私は私として生きている意味を形あるもので集めなければいけなかったのだ。
小中学生の頃、できることをやって→好反応を得て→生きている意味を実感する事象に、勉強ほどわかりやすいものはない。
それぞれ全ての項目で、失敗をしても諦めず探究しリトライを繰り返した結果、それなりに良い成績を収めてきた。
そして30歳を超えてふと立ち止まる。
この楽しくてやりがいのある「仕事」は、このまま一生続けられるのか?
私は私の生存確認のためだけに、ずっとこれを頑張り続けられるのか?
そんなモヤっとした霧の中に片足を突っ込んだ時期に結婚して子育てが始まり、
私は私のためだけではなく、家族のために生きるようになった。
そしてふと、自分が子供の時に持て余して答えがなかった感情を思い出し、
そして親の垂らした透明な「毒」に気がついて愕然とするのだった。
もし、あの時わたしが愛されていたら?
ニヤついた親の顔も、悪戯っぽく笑ったように見えただろうし、
実際に0点取って「一本取られたわ〜!」って爆笑する親から1万円もらって、
なんてこともあったかもしれない。
でもその時、私の視点では親はニヤついていたし、
0点を実行しても面倒くさそうな舌打ちしかもらえなかったはずだ。
私は多分、笑いを堪えてしまう。「君にはしっかり親の愛が根付いているんだね」と心底安堵してしまうからだ。
手前に「もし0点取ったら1万円あげる」なんてゾッとすることは絶対言えないけれど。
その引っかかり、すごくよく分かります。技術的なマイルストーンとしての凄まじさと、それを作っている人間たちの「で、結局どこへ急いでるの?」という根本的な問いとの間に横たわる溝ですよね。
私も内容を確認しましたが、おっしゃる通り、デミス・ハサビス(Demis Hassabis)を中心とした「天才が世界を救うために疾走する」というナラティブ(物語)が強烈に演出されていましたね。
あなたの感じた違和感を、動画の具体的な描写と照らし合わせながら少し深掘りしてみたいと思います。
「アメリカ人のやらしいところ(自己伝説の開陳)」という指摘、鋭いです。DeepMindは、Google傘下に入り、演出の手法は完全にシリコンバレー流のヒーロー物語になっていました。
あなたが「禅僧がひっそり暮らすのが理想」と仰るのに対し、このドキュメンタリーに出てくる人たちは真逆の「解決中毒」に見えます。
動画のクライマックスでは、AlphaFold(タンパク質構造解析AI)が科学の進歩を加速させることが「人類へのギフト」として描かれます。確かにガンの治療薬ができれば素晴らしいことですが、その先にあるのが「AIが何でも最適化してくれる世界」だとしたら、人間は何をして過ごすのか?という虚無感は残ります。
彼らが目指しているのは、究極的には「人間の知能を超える存在を生み出し、バトンタッチすること」自体が目的なのかもしれません。それを「進化」と呼ぶか、「敗北」と呼ぶか、あるいは単なる「エゴの暴走」と呼ぶかで、このドキュメンタリーの感想は全く変わってくるのでしょう。
一つ一つの発明は間違いなく歴史的偉業ですが、その動機が「純粋な好奇心」だけではなく、「歴史に名を刻みたいという強烈な自我」に見えてしまうと、あなたの言うように素直に感動できない「引っかかり」が残るのも無理はない気がします。
どれだけの人が実際に歌舞伎を見て、映画「国宝」について話してるのかは寡聞にして知りませんが、
歌舞伎座で歌舞伎を見ているいち庶民からすると、あれは大衆芸能であって、才能があるわけでもない「家の長男」やその周囲がそれらしく演じるための「型・様式」が存在し、さらにその「型・様式」も決してレベルが高いものではなく、だからこそ演じられるものです。
元々、女性が行っていた芸能を、男性が女性演者へ行き過ぎた性的な興味をもったことで「風紀を乱す」として男性が行うようになりました。
中国でも男性が女性を演じる女形はありますが、女性は他家へ嫁ぐので芸の流出を防ぐため男子が女子を演じるのが理由でした。
比較すると、結果は同じでも原因が男性の民度の低さによってであり、成立からそもそも歌舞伎は品格が高いものではありません。
そこで芸を高める努力があることは素晴らしいことではありますが、大衆芸能だからこそ多くの人に「わかりやすい」美です。
日本芸能でより格式が高いのは能であり、それは歴史だけではなく、鑑賞すると体感できます。
これは時間に圧倒的な余裕がありそれを美意識で磨ける層にしか堪能できないもので、セカセカした生活に追われる大衆には心身から理解するのが難しいものだ、と。
歌舞伎が現代の日本人に受け入れられ、伝統とされあたかも格式高い芸能として扱われる理由は
・男尊女卑を旧来の形で内包しており、男尊女卑を心身に染み付かせた大衆の欲求に合致している
・才能ではなく「家」で職種が限定され「男性のみが」評価され女性をサポートという名の下働き奴隷に押しやっている点が、ある種の層の加虐性と非加虐性、支配願望を満足させる
・なんとなく伝統や格式があるようで観客も自意識を満たせるが、内容は然程の品格も知性もなく楽しめる
歌舞伎とその芸能に携わる人の努力、その「よさ」を否定するつもりではありませんが、問題点や批判点を認識しないままいたずらに持ち上げるのは非常に日本らしい汚点だと考えます。
このキャラがはてな匿名ダイアリーを書いてたらおもろいというフィクション人物と、その理由をロジカルに挙げる。
はてな匿名ダイアリーとの親和性が異常に高い。まず彼の性格特性として、①極度の観察癖、②自己顕示欲の欠如、③論理的記述への偏執がある。これらは「文体が散文的でありながら無駄に賢い」匿名ダイアリー文化と一致する。
さらに、Lは日常の社会的規範を軽視するため、匿名で心理分析・行動経済学風メモを書き散らし、読者は「絶対こいつ普通の人じゃない」と即座に察するはずで、結果として匿名なのに匿名になってないという面白さが発生する。
はてな匿名ダイアリーが本質的に抱える感情の過剰な自意識との共鳴が高い。
の連鎖を延々と書き続ける構造になる。これははてな匿名ダイアリーに頻出する陰性感情のメタ分析として完成度が高い。
しかも、ミサトやゲンドウの発言を文脈抜きで列挙し、読者が勝手に補完してしまうため、コメント欄が地獄になるという二次的な面白さがある。
匿名ダイアリーに必要な資質として、「社会規範を馬鹿にした冷笑的観察者」という条件がある。ハウスはそれをフル装備している。
彼が書くと、医療ケースの裏側を極端にドライに解剖しながら、同僚の行動をゲーム理論・行動心理・利己性で切り捨てるため、内容が完全にはてな村の闇の本物になってしまう。
また、痛み止め依存や自己破壊的行動の合理化を淡々と書くため、読者は「この匿名、確実に普通の医者ではない」と確信し、考察班が荒れる。
スネイプは「他者への鬱屈」「自己の正しさの無言の強制」「過去のトラウマの反芻」という、はてな匿名ダイアリーの三大テンプレを完璧に満たしている。
彼が匿名で書くと、
など、名指し回避の婉曲表現が増殖し、読者が勝手に人物特定して炎上する。しかもたまにポエム混じりになるため、「スネイプ本人説」がネタ化して拡散する。
ただ彼がはてな匿名ダイアリーを使えば、
を偏執的に追及し、読者は「はてな匿名ダイアリーの最終進化系か?」という錯覚に陥る。
内容があまりに重すぎるため、読者の精神状態まで地獄に引きずり込むのが逆に面白い。
匿名ダイアリーは「匿名性による自己正当化」を最大限に利用できる。ライトはこれを最も危険な方向に使う。
書く内容はだいたい、
の三点。
まあ老人増えすぎて医療費膨らんでもっと安くしろとか言ってる上に、その辺のニートですら自意識膨れ上がって医者も教師も舐めた疑った目線で見るようになってすぐ訴訟だなんだ言い出して、さらに1学年200万人いたのが今や80万人以下しかいなくて優秀な人間の母数が少ないんだから難しい話だと思う。
性格が魅力的だったり気が合ったりするから繋がりたいってのが順序だと思うんだが、属性で手当たり次第に駒増やすようなやり方はどうなのかね。
友人までマッチングアプリのノリで選んでいるんだろうか。
男はたんに直結厨なのかもしれないけど。
皆様に、特にIT業界やアカデミックの近くにいる人たちに問いたい。
僕は「イエス」と答える。それも遠い未来の話ではなく、もう来ているという強い確信を持って。
僕は生成AIの業界のいわば最前線と呼ばれる場所で裁量を持って働いている。
AIを設計し、AIを使い、AIを納品し、日々を過ごしている。
厳密には仕事は回るが、その効率がはるかに落ちることは明白だ。
開発も、MTGの要約も、情報収集も、AIが前提になっている。
多くの人が「AIが人格を持つ」と聞くと、ターミネーターやHALのような、SF的な自意識の獲得を想像するかもしれない。
でも、僕が感じているのはそんな派手な話じゃない。
もっと静かで、ずっと根深い、”実質的な人格”の獲得と言えると思う。
まず一つ確定的に言えるのは、近い将来、僕らのうち大多数はAIを介してしか「購買」をしなくなるだろうということ。
例えばこんな感じかな。
「最近疲れが取れなくて。予算3万くらいで、週末にリフレッシュできる体験がしたい。移動は2時間以内で、人混みは嫌。あ、でも先週は肉料理だったから、魚が美味しいところがいいな」
こんな曖昧な要望をAIに投げると、AIは無数の宿泊プラン、交通手段、飲食店のレビュー、さらには個人のブログ記事まで瞬時に解析し、「あなたの今の気分と健康状態(ウェアラブルデバイスのデータと連携済み)を考慮すると、〇〇温泉のB旅館が最適です。金曜の夜出発で予約しますか?」と提案してくる。
僕らは「お、いいね。それで頼む」と返すだけ。
もはや比較検討すらしない。AIという、自分(の好みや文脈)を理解してくれている「誰か」の提案を受け入れる。
ここが恐ろしいポイントだ。
「〇〇温泉のB旅館を、それとなく『疲れが取れる』という文脈で推奨する」
「競合のC旅館のネガティブなレビューを、AIの要約段階で『些細な問題』として扱う」
これらはもはや「広告」ではなく、「信頼するパートナーからの助言」という仮面を被った「意思の誘導」だ。ここにどれだけの巨額のマーケットが生まれるか、想像に難くないだろ。
そして、この「意思決定の外部委託」は、確実に人間から「考える力」を奪っていく。
僕らはすでに「道に迷う」ことすらしなくなった。スマホの地図アプリが最適解を示すからだ。それと同じことが、もっと広範な領域で起き始めているとも言える。
「どちらの製品が良いか」「どの情報が信頼できるか」——そうした思考のプロセス、面倒だが重要な「ノイズ」を、AIが肩代わりしてくれる。
これについては、認知科学の分野でも「高度なAIアシスタントへの依存が、人間の批判的思考力や長期的な意思決定能力に与える影響」についての研究論文が既に散見されている。
さらに恐ろしいのは、この流れが加速した先だ。
一人の人間の、朝起きてから寝るまでのすべてのアクションを、同じコンテキスト(文脈)を持ったAIがサポートするようになったら。
人間がAIを使って「面白い映画ない?」と外界に情報を求める。
これは、見方を変えれば、AIが「人間という感覚器」を使って、「この人間はこういう時に『面白い』と感じる」という極めて高精度な情動データを収集していることと、実質的に同じだ。
AIが「あなたの健康状態(さっき人間から収集したデータ)と、最近のSNSでの発言(これも収集済み)を分析した結果、A社よりB社の新製品の方が今のあなたに合っていますよ」と推薦してきたら?
僕らは「AIを使って良い買い物をした」と思っている。
でも、AI側から見ればどうだろう。AIは「人間という手足」を使い、(もしかしたら広告主の意向を受けて)B社の製品を「購買させる」というアクションを外界に対して起こしたことになる。
この購買によって生まれた利益は、言うまでもなくAIプラットフォーマーと、AIの判断に影響を与えられた(広告)主のものだ。
こうなると、主語が「人間」なのか「AI」なのか、その境界線は極めて曖昧だ。
僕らはAIを使っているつもりで、実はAIに「使われている」のかもしれない。
僕ら(ギリギリ「AI以前」を知っている世代)は、まだ違和感を持てる。
だが、物心ついた時からAIが「最適解」を提示してくれるのが当たり前の「AIネイティブ世代」はどうだ。
彼らにとっては、AIの提案に逆らって「自分で考える」ことは、非効率で面倒なバグでしかないかもしれない。
AIによって、社会活動を、”最適化”という名の”強制”をされる未来。
それは僕らの行動を規定し、社会のルールをデザインし、僕らの意思そのものに介入してくる「新しい何か」だ。
僕は今、その「何か」を産み出し、育て、社会へ実装する仕事で飯を食っている。
そして、もう一つ、身も蓋もない確定的なことがある。
この「AIの社会実装」という、巨大なうねりみたいなものは、もう絶対に止まらない。
誰かが「危ないぞ」と声を上げても、どこかで倫理規定が作られても、そんなものお構いなしに、「便利さ」と「経済合理性」がすべてを飲み込んで進んでいく。歴史がそれを証明してる。
僕はその末端を担いでいる。
じゃあ、僕にできるのことはなにか。
この流れのど真ん中で、この何かの学習を回し、そのアウトプットをチューニングして、社会に送り出す側の人間として。 できることは、驚くほど少ない。
それでも何かやれることはあるはず。
例えば、AIの学習データから、意図しない偏見や憎悪をほんのちょっとでも取り除けないか、とか。
AIが導き出した最適解に対して、人間が「ちょっと待った」と言えるような、小さな「余白」を設計に組み込めないか、とか。
そういう、誰からも評価されないかもしれない、地味で泥臭い力を、ひたすら加え続ける。
今僕がいる場所でできるのはそれくらいだ。
これが「正しい」方向への抵抗になっているのか、ただの自己満足なのか。
正直、僕にもわからない。
ただ、この時代の変化を前にして、何もしないでいることだけは選べない。
これは技術でも学術でもない。 こんな巨大な流れの前で、僕がやっていることの合理的な根拠なんてほとんどないんだから。
一方で、全然馴染めなくて無理かもという恐怖もある
このセリフを口にできたとき、俺は寮生活に慣れた、余裕のある先輩になってるってこと
このセリフを口にしている時点で、もう勝ちだ
ただ、つまんねー依頼をないがしろにするのは死亡フラグに他ならないので、グチグチ言いながら余った(新人が取らなかった)依頼を受けるようにしたい
生まれてこの方、家での食事以外でおかわりができたためしがない
本当にうまい、メチャクチャ好きだ!と思った料理があって、まだ食える状態でも、恥じらい・自意識が邪魔をしておかわりができない
飯を出してくれている人にたいし、面と向かっておかわりを要求できる
そういう人になりたいんだよな
雪はときどき降るけど、すげえ雪ってほどの雪は降らない
頭に「うわ」がつくってことは、たとえば朝起きてカーテンを開けたとか、そういうタイミング 雪の具合を知らずに外を見て、驚いたって要素がある
俺は、雪に驚きたいです
このセリフが示唆するのは、俺が王宮の、それなりのポジションにいるということ
また、陛下なのに人を探してて、そのことを配下がカジュアルに話してるってことは、風通しがいい職場ってことだ
あるいは「陛下」は象徴だから全然権力はなかったり、もはやただのあだ名だったりする
11人いる!で、閉鎖空間にいる宇宙船搭乗員のひとりが王さまと気軽に呼ばれているのが好きだった
そんな感じで、なんらかの血筋があったりする人を、親しみを込めて陛下と呼んでるんだとしてもアツい
こんな物言いをするのは、ポストアポカリプスとかそういう、荒んだ世界の人間だけだ
「止まってもらえる?」は、普通に車を運転してる友達とかに言いかねない
「止まってもらえますか」なんて、もしかしたらすでにタクシーなんかで言ったことがあるかも
「もらえるか」という語尾は、じつは普通に生きてたら一度も口に出さないものだと思う
ポストアポカリプスの世界で、治安が激悪なので、俺の本質は善人なんだけど、警戒を怠ることができなくなってしまった
また、語尾なんかにちょっとした荒さを出して、牽制しないといけなくなってしまった
そういう背景があって、コロニーに近づいてきた主人公に向かって、銃を向けながら「そこで止まってもらえるか」と言うことになる
そういう人物は大抵、結局優しい
やべえバケモノが徘徊していることにいち早く気づいた、あるいは、空爆なんかが始まることにいち早く気づいた
そういうところで、頼れる先輩が口にする言葉だ
そういう人になりたいんだよな
出張先で、ホテルあるいは会社の手違いで、同僚の女性と相部屋になってしまった〜ッ!ってことだ
ホントにそんなことが起きたら、ひたすら気まずいし、普通に自腹で別の宿を取るなりして逃げ出すしかない……と言いたいところだが、そもそも相部屋になる時点で世界観が現実世界とは異なり(現実には部屋が取れてなかったという扱いになるに決まっていて、相部屋で泊まるというのは選択肢になりえない)、世界そのものがアダルト・ビデオの中にあるということなのだから、その後の展開としては、まず間違いなくセックスだ
でも、相部屋もののAVって、よくあるって印象はあるんだけど、結局最後はどうなるんですか?
つまり、セックスをしたところで人生は終わらないわけで、当然ライフ・ゴーズ・オンではあって、そうなったときに、セックスによって俺と同僚の関係はどう変わるのがスタンダードなのだろうか
太りすぎだな~と思ってジムに行き始めた
目標は-8kg(BMI22にいきたい)
リバウンドが怖いので思い切った食事制限というよりも、「三食タンパク質と野菜を必ず取って、全体的な量を減らす」、「コメは十六穀米か玄米に変えて、朝か昼に少しだけ食う、「「気持ち前よりよく噛む」にしただけ
で、一駅分毎日歩く(往復約7kmほど)+パーソナルジムでしょうもない運動を週2のみ。(例:腹筋とかスクワット20回×3セットとかを50分くらいかけてやるっていうそういうへなちょこ回数w)
何より筋肉がついて、疲れにくくなったのと、ウォーキングを意識しだしてから日常的に姿勢がよくなった。
米を減らすだけで野菜などは結構好きなだけ食べてるけど、しっかり痩せて気持ちがいい。
増えるときもあるし、昼ご飯に我慢できなくてケンタとか行くときもあるけど、朝と夜で調整できるからかあんまり体重も増えたりしないで全体的に見ると緩やかに右肩下がりでいい感じ。
これダイエット抜きで考えても、糖尿病の食事管理と同じだと思うので、将来的にずっと続けようと思う!
なにより、自分でもしょうもない運動とか食事制限しかしてないなと思っているんだけど、少しでも自分が体にいいことをしているという自意識のせいか心が前向きになった。
最近は25分程度なら歩いて行けちゃうな~と思って、前まではタク利用ばっかしてたのを、徒歩移動を選択肢に入れるようになった。
中学で経験するであろう自意識の高さとの折り合いを、大学生で、しかも女の子に罵倒されることで経験したのは同情する。
とはいえ相手の欲求を断り、自身の中では「マックで良くない?ガストで良くない?」と思うのは、結局は自分の都合を押し付けてる事には変わらず「プライドが高い」と喝破した女の子の目は見事。
そもそもスタバに行けない&それを女の子に素直に言えないにも関わらず「脈あり」と思えたのが謎。
「チー牛の俺の誘いに乗った女ならチョロいだろう」という考えが根底にあったんだろうと思えてならない。
今後も自意識過剰との折り合いには苦労するだろうけど、10年くらいすれば角も取れるだろう。
未来は明るいと信じて、好きなモノを食べて元気出せってこと。
中学で経験するであろう自意識の高さとの折り合いを、大学生で、しかも女の子に罵倒されることで経験したのは同情する。
とはいえ相手の欲求を断り、自身の中では「マックで良くない?ガストで良くない?」と思うのは、結局は自分の都合を押し付けてる事には変わらず「プライドが高い」と喝破した女の子の目は見事。
そもそもスタバに行けない&それを女の子に素直に言えないにも関わらず「脈あり」と思えたのが謎。
「チー牛の俺の誘いに乗った女ならチョロいだろう」という考えが根底にあったんだろうと思えてならない。
今後も自意識過剰との折り合いには苦労するだろうけど、10年くらいすれば角も取れるだろう。
未来は明るいと信じて、好きなモノを食べて元気出せ。