
はてなキーワード:自己研鑽とは
https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5
https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5
「なぜはた」の明確な問題点は「タイトルの主語が大きすぎること」です
<以下本文>
まず大前提として、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、「かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々」という特定の層が抱える悩みについて、それが個人的な問題ではなく社会構造上の問題であることを論じた本です。
→大前提となる、「『かつて読書習慣があったにもかかわらず、働き始めてから読めなくなった人々』という特定の層」が存在することをデータで示さないと、「実感」としてそういう層の存在を主張したとしても議論が始まりません。
「この神聖な水飲んだらがんが治ったんだもん」とデータなしに主張しても、そこから先の議論に至らないのと同じです。
これに対し、飯田さんは国民全体の平均値であるマクロデータを持ち出して「全体で見れば変化はない」と反論しました。が、これはいうなれば、「日本人の平均寿命は伸びているから、あなたの今の病気は存在しない」と言っているのに等しい議論です。
→この例えは明白に誤りです。なぜなら前者は「全体の読書量」と「特定の層の読書量の推移」を比較する主張であり、後者の「寿命」と「特定の疾患の存在」とは評価対象が異なるからです。
あえて寿命で例えるなら、「日本人の平均寿命は延びているから、喫煙者の平均寿命も延びている」などがあります。これならば「全体」と「特定の層」を共通の評価軸である「寿命」で比較できますし、「日本人の平均寿命が延びていること」を示しても「喫煙者の平均寿命が延びていること」を示さないのはその通りで、これならば矛盾と言えます。
(しかしその仮説を論じるなら、タイトルを「喫煙者の平均寿命~」とするべきで、主語を日本人全体としたり、明確に示さないことが明らかに誤りであることは誰にでもわかると思います。)
全体平均の中に埋もれてしまっている「特定の属性の変化」に光を当てるのが拙著の役割です。マクロデータのみで個人の実感を否定することは、分析の手法として適切ではありません。
→マクロデータのみで個人の実感を否定すること。確かによくないですね。
おじいさんおばあさんの中には、煙草を決してやめない人がいます。「私は煙草を吸っても今まで病院のお世話になったことないんだから、それでいいの」 大変結構だと思います。
こういう人たちに、「タバコは健康に悪いからすぐやめなさい」と言っても、個人の経験則を否定することになり、もめます。
マクロデータの目的は、「特定の属性の実感」を否定することではなく、全体を解析して現状やその傾向を把握することです。分析の手法として、データで示されない実感を大切にすることは重要ですが、解析の結果「実感」を否定する結果になってしまうことはままあります。
だからこそ、「実感」を前提とする議論をするならば、実感の存在そのものをデータとして示す必要があるのです。
拙著で統計データを多用することは本題からそれてしまうため(何度も書きますが、私の書いた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はマクロデータで語ろうとした本ではありません)必要最低限にとどめていました。が、本稿ではあえて氏の提示したものと同じデータソースを用いて反論を試みます。
→繰り返しになりますが、主張には前提が必要で、前提が正しくなければ主張も意味を成しません。したがって、前提をデータとして示す必要があります。それが必要最低限に至っていないということなのです。
飯田さんは「高校生の時点で読書量は減っており、働き始めてから急に減るわけではない」と指摘されています。しかし、この主張は「誰を対象にするか」という分析対象のセグメントを見誤っています。
まず、拙著が対象としているのは「元々読書習慣があった人々」です。では、統計的に見て「読書習慣がある人」とはどのような層を指すのでしょうか?
次図「読書習慣のある人」の月平均読書冊数を見ると、過去約40年にわたり、本を読む習慣がある人の読書量は月平均3-4冊の間で安定して推移しています。つまり、統計的な定義として、「月3-4冊読む」という行動こそが、日本の「読書習慣がある人」の姿であるといえます。
→対象としているのが「もともと読書週間があった人々」なら、なぜ書籍のタイトルが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」と主語が示されていないのでしょうか。ここが反論とその反論の大きなズレの原因です。
ちなみにこの統計、データ(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/94111701_03.pdf)が35ページ目(pdfだと39ページ目)にあるんですが、16-19歳の調査人数、なんと83人なんですね。
これだと1人減ったら1.2%割合が動くことになるんですよ。以下に書き起こしたものを記載してみます。
<16-19歳の読書数>
0冊=66.3%
1-2冊=22.9%
3-4冊=8.4%
5-6冊=1.2%
7冊以上=1.2%
あれ?1.2%が二つ。つまりこれ、5-6冊、7冊以上の人は1人ずつでしたね(笑)
3-4冊の人も1人減ったら7.2%になり、2人減ったら6%になって20歳代の人と同等になっちゃいますよね。
おおよその割合をみるには使えると思うんですけど、「16-19歳とその他の世代の比較」には非常使いにくいデータだと思いませんか?もし複数回同じ手法で調査したら、ひっくり返っちゃったりすることもあり得そうです。
しかも、令和5年の大学、短大、専門学校の進学率を合わせると約8割、大学に限ると約6割で、ちょうどこの統計の年齢階級を跨いじゃってるんですね。
だから、このデータで「働くと読めなくなるかどうか」を議論するのって、そもそも無理なんですよ。
ご覧の通り、「1,2冊」というライト層では加齢による減少は見られませんが、「月3-4冊読む習慣のある層」においては、労働期間中(生産年齢)に数値が底を打ち、退職後に回復するという明確な「U字カーブ」を描いています。
学生時代の読書減と社会人の読書減を同列に語ることはできません。なぜなら、このグラフが示すように、「労働から解放された世代(70代以上)」では、数値が学生時代の水準まで回復しているからです。 もし「加齢による文字離れ」や「スマホ普及」だけが原因であれば、高齢層でここまで数値が戻ることは説明がつきません。
もちろん、今回のような一時点の調査である以上、厳密には加齢による変化とコホート効果を切り分ける分析が必要です。しかし、データの限界を差し引いてもなお、この「労働期間中にのみ、特定の読書層が凹む」という事実は、労働環境がまとまった読書習慣を構造的に阻害している可能性を強く示唆しています。 全体平均にならすことで分布の特異性を捨象してしまう飯田さんの分析は、データに表れた当事者ーー働いていると本が読めないのだとほんとうに感じている人々ーーの痛みを見落としていると言わざるを得ません。
→この主張も前述したように、1人動くと1.2%動くデータで示唆するのは無理があります。
U字カーブ?あなたは70歳以上の人が自在にスマホをいじくってネットサーフィンしているのを想像できますか?
交絡(データに影響を与える別の要素)がありすぎて、単純に就労の有無だけを結果の原因として求めるのはちゃんちゃらおかしいと思いませんか?
「痛み」ですか、はあ。タバコ吸っても健康でいられると思ってる人の痛みを想像したことありますか?(笑)
一見すると、「書籍の読書冊数と市場規模は相関しないが、雑誌は相関する」という飯田さんの主張は正しいように見えます。しかし、ここで気を付けなければならないのは、市場規模の根拠として用いられているデータの定義です。これは「出版販売額」、つまり新刊市場の推移にすぎません。
雑誌のみが市場規模と相関する主要因は、書籍と雑誌の読書習慣の違いというより、市場構造の違いにあると考えるのが妥当です。書籍は図書館での貸出や、古書店・メルカリ等の二次流通市場といった新品購入以外のタッチポイントが豊富です。
→なるほど、たしかに書籍は図書館や古書店で接触がある分、新品市場だけで語ると乖離が出そうですね。
つまり、「読書数の総量=新品購入+レンタル・中古」になるってことですな??
ということは「読書数>新品購入の勢い」が成立するということだ。ふむふむ。
こうした「読む」と「買う」を短絡的に結びつける考え方はよく見られる。しかし、読む量と買う量は単純にイコールにはならない。イコールになるなら「積ん読」という言葉は存在しない。
→えーっと、積読があるから「読書数<新品購入市場の勢い」もありえると。
……市井氏は積読があるから「読書数<新品購入市場」と言い、その反論として三宅氏は中古やレンタル市場があるから「読書数>新品購入市場」と言っている!かみあってない!
まわりくどいんだけど、結局どっちも「書籍の読書数と新品購入に相関がない」が「雑誌は読書数と新品購入に相関がある」というのが主張で、一致している!反論すると見せかけて同じことを主張するという高等テクニックである。
また、拙著の「雑誌や自己啓発書を中心として、労働者階級にも読まれる書籍は存在していた」という記述に対し、飯田さんは「雑誌と書籍の区別がついていない」と批判されています。しかし、拙著の記述は明治時代の出版状況についての記述であり、いうまでもないことですが雑誌はコミックや週刊誌の割合も時代とともに変わっていきます。明治の雑誌出版に関する記述を、現代の雑誌と同様の枠組みで捉え、区別がついていないとするのは、論理が通らないのではないでしょうか。
以上のように、構造的に相関の低い「新刊販売額」を指標として用いて「書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき」と主張するのはデータの選定として不適切です。本来であれば、図書館の貸出しや二次流通市場におけるタッチポイントも考慮したうえで読書冊数との相関がないことを示すべきです。また時代によって役割の異なるメディアを十把一絡げに扱うのは、妥当性を欠いていると言わざるを得ません。
→えーと、前半の文章は市井氏の引用した部分が明治時代の話をしているから不適切ってことだな。うむ作者が言うならそうなのだろう。
後半は……
構造的に相関の低い『新刊販売額』を指標として用いて『書籍と雑誌は読書習慣が異なるので分けて考えるべき』と主張するのはデータの選定として不適切」
あれ、あなたも書籍読書数と販売数は相関しないけど雑誌は相関するって言ってましたよね?
市井氏のnoteをみると、扱っているデータは70年代以降のもので明治時代の話はしてなさそうですけどね。
それに市井氏の
なお、『読書世論調査2016年度』には書籍の読書率について「戦後、読書世論調査の開始以来、多少の変動はあるものの、おおむね5割前後で推移している」と書いてある。『なぜはた』は読書世論調査を引用しておきながら、読書世論調査サイドの「長年そんなに変化がない」という見解とは異なる「本離れが進んでいる」という主張をしている。
この部分に関する反論はしなくていいんですかね。マスデータだから?
引用元の文献(黒田祥子・山本勲「長時間労働是正と人的資本投資との関係」)を見る限り、これは事実ではあるものの、解釈と適用先が間違っていると考えられます。
というのも、ここで引用されている論文が測定している「自己研鑽」と、拙著が指摘する「自己啓発書の読書」は、行動の質が全く異なります。論文が指すのは資格取得やスキルアップのための「能動的な学習」であり、これに対して『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が論じているのは、新自由主義的な不安に駆られた人々が救いを求めて読む「自己啓発書の消費」です。むしろ、「労働時間が減っても、能動的な学習に取り組むほどの気力や体力は回復していない」という論文の結果は、人々が手軽な「やった感」や「効率的な正解」を得られる自己啓発書(=ファスト教養)に流れるという拙著の仮説と矛盾しません。
「キャリアアップのための能動的な学習」の機会が減ったからといって、「手軽なノウハウ本」のニーズがないことの証明にはならず、このデータを根拠にするのは的はずれです。
→確かに「自己研鑽の時間が減ったから」といって「手軽な自己啓発本を読む時間が減った」とは言えない。それはその通りだ。まあ手軽な方が増えたとするのはあくまで仮説で、それを証明する手段もそうないよね。
飯田さんは「市場規模において、依然として小説は自己啓発書より大きいため、自己啓発書へのシフトという説は誤りである」と主張されています。
第一に、議論の焦点は、現時点での「絶対量」ではなく「変化の方向性(トレンド)」です。たとえパイの大きさが小説の方が大きくとも、書店の棚構成の変化や、人々の意識における効率性の重視といったトレンドの変化を否定する材料にはなりません。
第二に、ここで飯田さんの論理には明確なダブルスタンダードが存在します。飯田さんはこれまでの議論において、「市場動向と読書実態は書籍においては必ずしも一致しない」と主張されました。しかし、ここでは一転して、「小説の方が推定発行金額(市場規模)が大きい」ことを根拠に、「小説の方が読まれている」と結論付けています。
→いったん整理すると、
<三宅氏の主張>
読書の方向性が手軽な自己啓発書にシフトしているから読書量が減った。
<市井氏の主張>
小説の市場規模の方が大きいので自己啓発書の読書量に対する影響は大きくないはずだ。
市場規模では確かにそうだが、トレンド(推移)は見てないですよね?だからその論は否定の根拠にはなりません。
さっき書籍と雑誌の比較で「市場規模と読書量は相関しない」って言ってたのに、自己啓発書と小説を市場規模で比較するのはおかしい!ダブルスタンダード!
→
反論①については、たしかにトレンドはそうかもしれないけど、象に犬がキックしても効かないように、市場における小説の占める割合の方が圧倒的に大きいのだから、自己啓発書のトレンドがまあまああっても全体のムーブには影響しにくいっていうのは確かなんじゃないですかね。
反論②については、雑誌と書籍の比較と、小説と自己啓発書(どちらも書籍に含まれる)の比較は全然別だから、まずダブルスタンダードとは言えないのは明らか。これは間違いない。
ご自身にとって都合の良い時だけ売上と読書実態を切り離し、別の場面では売上を読書実態の根拠とするのは、論理的一貫性を欠いています。
→これは完全にどっちもどっちと言わざるを得ません。データ分析を仕事にしている人ってこのレベルなんですね。というかそもそもデータの部分よりも文章の方が蛇行運転になっていて、上記したように論理が合わない箇所がいくつかあります。心配になりました。
<お わ り>
第三者検証全体がこうではなく、ある巡り合わせにあったテスター一人がこんなふうに思ってたんだなというのを記録するために書きます。
この文章を読んで誰かにどうこうして欲しいとか誰かを上げ下げしようとかいう意思はないです。
## 単価と工数
私はエンジニア生活の2/3くらいを派遣契約で過ごしたため、仕事の良し悪しについてはやっぱり単価と工数で評価されることが多かったです。
残業すればするだけ会社の売上になるので、どんどん残業しましょう。残業しただけ働いたことになるから。という文化でした。
単価が上げていくことは現場責任者や営業の実力に左右され、そう簡単に変わるものでもなく、なかなか自分ではコントロールできなかったので、やっぱり容易く売上を上げていくには残業するしかありませんでした。
業務時間中に開催される研修やシンポジウム参加等は売上を下げることに繋がるので、明確なトレードオフ条件がないと参加が難しかったです。
私はそれでも構わないと思いますが、参加しようとするたびに一々上長に「売上減らしてごめんなさい」と頭を下げにいくのが変な感じがしました。
やっぱり残業時間が正義なので、中でどんな仕事しているかはあんまり重要ではなかったです。
品質向上の提案やテストの効率化を提案・実行したところで単価アップに繋がらなければ大きな成果には繋がりませんでした。
※私の場合はたまたまそういった点を評価してくれるお客様に出会ったこともあって、汲み取って営業にフィードバックみたいなこともしてくれました。給料には反映されませんでしたが、、
私は無関係な期間もありましたが、BP投入が最も評価されます。
何かにつけてプロパー/BP率を評価されて、BPを投入した分だけ利益が出るので営業頑張ろうとなるみたいです。
QAに関する提案についても第三者検証の商売として成り立つかどうかが判断基準になります。
例えば自分の会社では難しいテストレベルやテストタイプについてはその現場で必要に思えても、提案や計画には盛り込まないなどのことがあったかもしれません。
基本的に体系的なソフトウェアテストを行なっている現場に関われたらだいぶラッキーでした。
体系的なソフトウェアテストができていれば外注しなくてよかったりしますので、良くないテストマネジメントであったり、いびつなテスト設計をしています。
で、現場はお客さまの言うことを聞くことで精一杯なので、体系的な経験や知識を得るためには自分で勉強して頑張るしかありません。
10年、20年やっているようなベテランはJSTQBとかで整備された知識よりも勘と度胸と経験で頑張るみたいな場合があるので、自分で知識を取りに行かないとそういったベテランと同じ道を歩むことを頑張ろうとしてしまうんじゃないでしょうか。
本文は削除されました
私の結論は上記の通りです。やっぱりどんな現場であっても、どんなメンバーでも、どんなお客さまでも結果を出していくのがプロの第三者検証なんだと思います。
”品質のプロ"と名乗るのもいいですが、"第三者検証のプロ"と名乗る道もあるのではないかなと思います。
私は、
よさももちろんあります。思いつく限りたくさん書いていこうと思います。
様々な現場や製品に携わることができるので、一般化する実力さえあれば、様々な経験やナレッジを一般化して、ドメインに依存しない実力をつけることができると考えています。
自社QAだとどうしても社内の文化ややり方に依存した能力になっちゃうと思いますが、第三者検証テスターとしてたくさんの現場を経験していると、どんな製品でも対応できるようになるんじゃないかなと思います。
複数の現場を俯瞰して、より多くの現場をコンサル的な立場で関わることが第三者検証ではできます。
体系的な知識がある会社であれば、つよつよの人々からバックアップを受けながらコンサルをすることができます。
最近は法人を立ち上げてQAコンサル的な動きをする人が多いですが、事業が失敗するリスクとかを会社が請け負いつつ、コンサル体験を行う経験を得ることができます。
お客様から依頼を受ける形でテストするので、変な話、製品や事業がうまく行かなくても、ニーズがあればテストの業務を続けることができます。
また、現場やプロジェクトがなくなっても他の現場にいけばいいだけなので、その辺のリスクがないことが良い点だと思います。
第三者検証ということで、おそらくたくさんのテストエンジニアがいると思います。ベテランの人もいれば初心者の人もいますが、やる気さえあれば様々な人と繋がれることができます。
実際に私はいい出会いがたくさんありましたし、そういった出会いが私をQAとして成長させてくれたのではないかと思います。
2年目3年目くらいは色々悩んだ時期もありましたが、ある程度実力にも自信がついてきて、第三者検証テスターのつらさはどうでも良くなったきたというのが正直なところです。
第三者検証テスターとして一生過ごすかはわからないですが、第三者検証テスターになれてよかったと私は思いました。
まず、受注側から発注側になることで、「第三者検証」という呼び方をしなくなりました。
また、自分が成長できないこと、現実をうまくできないことを「第三者検証である」ということを言い訳にしていたと感じました。
テストベンダーの良さは、人材への投資があることだと思います。
だから、自分が投資に値する人間であれば、とてもいい選択だと思います。
「いきなり事業会社に行きたい」は、素晴らしいですが、事業会社の多くはあなたを育てようなんて思っていませんよ。
私にはテストベンダーで働くモチベーションについて、いくつかアイデアがあります。
ただ、それについて聞きたい人は私を探して私に直接聞いてください。
いやもうさ、それ信じてる時点で恋愛という戦場で一生素振りして終わるマンなんだよ。
お前ら弱者男性ってさ、「女が嫌う行動をしない」「嫌われないようにする」「空気を読む」ってことだけは努力するんだよな。
でも肝心の好きになる欲しがる踏み出すって部分になると急に腰が引けて、
「いや俺は女よりも自己研鑽してるし」「恋愛はコスパ悪い」みたいな言い訳フル装備しちゃう。
いやそれ、負けたくないから試合に出ないって言ってるだけだって。
「女はチヤホヤされてズルい」とか「イケメンばっか得してる」とか、すぐ被害者ポジションに逃げる。
そのくせネットじゃ女性目線の味方ムーブして、キモいオタク叩きに加担してイキってる。
もうさ、その時点で終わってんだよ。
自分の側すら守れないやつが、誰かの心を守れるわけないじゃん。
ほんとは欲しい。
でも欲しいって言った瞬間にプライドが傷つきそうだから、最初から欲しくないふりをする。
そして「でも清潔感は意識してます」って、最低限の安全地帯に丸まったまま生きてる。
違うんだよ。
お前らに足りないのは清潔感じゃない。
キモく見えるのが怖いなら一生変わらない。
好きって言うのもキモい。
本気になるのもキモい。
清潔感磨いて、性格良くして、マナー完璧にして、それでもモテない?
そりゃそうだろ。
「傷つきたくない」が人生の最優先の男を、誰が好きになるんだよ。
中学〜高校生の頃は1週間のほとんどが学校と部活で、テストがあればテスト勉強を頑張り、部活の大会があれば練習を頑張った。受験があれば志望校合格に向けて塾に通って勉強を頑張った。
大学生の頃も周りの怠けたいわゆる「ウェーイwww」大学生にはなりたくなくて、授業では良い評価を狙うために勉強したし、部活にも所属した。怠けたくないというよりかは、「怠けた自分なんて評価されない」とか「どうしようもない人間になってしまう」とかそういう気持ちの方が大きかったかもしれない。かといって就活は自分がやりたいことが分からなくてそこまで頑張れずにブラックではないところに入ることができればと思い、大手とは言えないけど上場はしていて社員数も多め、資本金多め(日本語の使い方が間違っているかも)の会社に入社を決めた。
ここまでは何かしら人生に「頑張らないといけない理由」があった。学校には行かないといけないし、部活にも行かないといけない。(行きたくないなら辞めなさいと言う人もいるが、辞めるのが怖くて辞められなかった)就活もしないといけない。
でも今はいわゆる普通の会社員として日々働いているだけで、特に頑張ることができていない。頑張らないといけない環境にないからだと思う。(自分が本当は怠けた性格なのに、今までは無理やり頑張らないといけない環境にいられたから頑張れていた?)
資格を取るとか、何か勉強するとか、副業するとかが完全自由で、成長するもしないも自分次第な環境になってしまった。
最近冷笑系がどうのこうのという話題があるが、いわゆる冷笑される「意識高い系」の人がめっちゃ羨ましい。社会人になって、色んなことに挑戦して自分を高めていく姿ってかっこいい。自分も何かやれば良いだけなんだけど、何をすれば良いか分からないし何かしたいこともない。
そもそもしたいことがないんだよなー。小学校〜中学校は義務教育で行かなきゃいけないし、高校大学も「普通は行くよね」だったし、就活も「普通の企業には就職するよね」というような環境だったからどうにか普通レベルはこなしたくて、やりたいというより「やらなきゃ!」でやってこれた。
でも社会人になった今、やらないといけない仕事をやっているだけでは足りないのでは?と急に不安になってきている。自己研鑽は勿論、結婚とかそういうライフスタイルの変化も含めて。恋愛に関しても今まで興味なく過ごしてきてしまって、今も結婚をしたいとか子育てをしたいとかいう思いもない。正直何にもしたくなくて全然今人生を断たれても良い。(病気の方とか生きたくても生きられない方がいるよ!とかいうお話は承知の上で)でも痛い思いをして死にたくないし、首吊りは後遺症が残るとかいう話を聞いてから怖くてできないし、本当にわがままなんだよね。
頑張りたいけど何をがんばれば良いかわからない。なんで頑張りたいのかというと、頑張っている人はかっこいいから。はー。何をすれば良いんだろう。
中学〜高校生の頃は1週間のほとんどが学校と部活で、テストがあればテスト勉強を頑張り、部活の大会があれば練習を頑張った。受験があれば志望校合格に向けて塾に通って勉強を頑張った。
大学生の頃も周りの怠けたいわゆる「ウェーイwww」大学生にはなりたくなくて、授業では良い評価を狙うために勉強したし、部活にも所属した。怠けたくないというよりかは、「怠けた自分なんて評価されない」とか「どうしようもない人間になってしまう」とかそういう気持ちの方が大きかったかもしれない。かといって就活は自分がやりたいことが分からなくてそこまで頑張れずに、大手とは言えないけど上場はしていて社員数も多め、資本金多め(日本語の使い方が間違っているかも)の会社に入社を決めた。
ここまでは何かしら人生に「頑張らないといけない理由」があった。学校には行かないといけないし、部活にも行かないといけない。(行きたくないなら辞めなさいと言う人もいるが、辞めるのが怖くて辞められなかった)
でも今はいわゆる普通の会社員として日々働いているだけで、特に頑張ることができていない。頑張らないといけない環境にないからだと思う。(自分が本当は怠けた性格なのに、今までは無理やり頑張らないといけない環境にいられたから頑張れていた?)
資格を取るとか、何か勉強するとか、副業するとかが完全自由で、成長するもしないも自分次第な環境になってしまった。
最近冷笑系がどうのこうのという話題があるが、いわゆる冷笑される「意識高い系」の人がめっちゃ羨ましい。社会人になって、色んなことに挑戦して自分を高めていく姿ってかっこいい。自分も何かやれば良いだけなんだけど、何をすれば良いか分からないし何かしたいこともない。
そもそもしたいことがないんだよなー。小学校〜中学校は義務教育で行かなきゃいけないし、高校大学も「普通は行くよね」だったし、就活も「普通の企業には就職するよね」というような環境だったからどうにか普通レベルはこなしたくて、やりたいというより「やらなきゃ!」でやってこれた。
でも社会人になった今、やらないといけない仕事をやっているだけでは足りないのでは?と急に不安になってきている。自己研鑽は勿論、結婚とかそういうライフスタイルの変化も含めて。恋愛に関しても今まで興味なく過ごしてきてしまって、今も結婚をしたいとか子育てをしたいとかいう思いもない。正直何にもしたくなくて全然今人生を断たれても良い。(病気の方とか生きたくても生きられない方がいるよ!とかいうお話は承知の上で)でも痛い思いをして死にたくないし、首吊りは後遺症が残るとかいう話を聞いてから怖くてできないし、本当にわがままなんだよね。
頑張りたいけど何をがんばれば良いかわからない。なんで頑張りたいのかというと、頑張っている人はかっこいいから。はー。何をすれば良いんだろう。
Permalink |記事への反応(11) | 12:13
おもしろい。
セックスを好まない女性って、普通に男性的な魅力は求めるんですね。
若さや年収、容姿、包容力、気遣いといった、遺伝子を末永く未来へ残すことが出来そうな指標で異性をジャッジする。
それらの指標は現代日本社会における成功に直結しますので、そんなのは間違ってるという話をするつもりはないですし、逆にセックスを求めない男性だって同じようなものだと思います。女性だけを悪しざまに言うつもりはありません。
しかし、ここで一つ大きな問題となるのは、世の男性が年収や容姿、包容力、気遣いといった、女性が求める魅力を磨く動機は、「女にモテたい!」という欲求によるケースが少なくないという事実です。
つまりセックスをする必要がない=「女性にモテなくていいや」と考える男性は、女性の視線を意識して身なりや体型に気を遣う、奢る、紳士的な振る舞いを心掛ける、共感する、金を稼ぐ、女性が嫌いそうな趣味や話題を避けるなどの努力をするモチベーションが、「おれは金と時間を掛けてでも自分に投資して女とセックスしたい!」と願う男性に比べて著しく低いことが予想されます。
それら類の自己研鑽は、少なくない男性にとって、女性にモテるために仕方なく行うものだからです。必要に迫られないのならば全くやりたくない努力なのです。
好きな人ができた。
同じ大学とだけ知っていた。それ以外の共通項は特になかった。ただ、話が合うような気がしたから、思い切って食事に誘った。
私はもう一度、祈る気持ちで誘った。今度はもう少し時間のかかる予定を考えた。
彼女をその誘いを受けてくれた。
そのようにして、知り合ってから何度か出かけた。
出かけるための口実を作り、そして、先の何ヶ月かにおいて、それぞれに約束を取り付けた。
嫌われてはいないと信じたい。
多くの男性がそうであるように、私も演技をしている。理想的な男性と騙せるように、彼女の前では猫をかぶっている。
おれは気が利かない。だって、何をすれば女性が、おまえが喜ぶのか、逆に何をしたら怒るのか、おれには未だよく分からない。だから、気の利かせようがない。
おれは要領が良くない。おれは頭を棚にぶつける。小指も棚に打ちつける。料理をすれば、コンロ・シンク・冷蔵庫の三者間を反復横跳びのように忙しなく飛び回る。
おれは頭が良くない。第一、おまえが高校を出てすぐ入った大学に、おれは1年遅れてようやく入ったのだから。
おれはハイソではない。おれは本を読まないし、映画も見ない。音楽だって詳しくない。おれの故郷と、通った高校のある隣町は、恐ろしいことに両方の名が"ナンバープレートカースト表"の一番下に並んでいる。地元のバイパスでは今も、羽の生えたプリウス同士が大競走しているのだろう。おれはそれが別段特別なことに見えないし、思えない。
おれは甲斐性がない。わずかな貯金と、基礎と熱意を欠いた不安定な学問的知識と、同じくらい不安定な職の3点以外、何も持ち合わせていない。今までの無駄な時間を有意義な自己研鑽と職探しに使っていれば、真っ当な職業人として巡り会えていたかもしれないと思うと、まこと慚愧の念に堪えない。
おれは飄々としていない。大学から帰るのが遅くなったとき、おまえはあの汚らしい駅の猥雑なロータリーで、耳を塞ぎたくなるような話を、眉を顰める大声で、夜空に向かって不明瞭に叫んでいた、不愉快な学生集団を見たのではないか。だとしたら、その中にはおれがいたかもしれない。おれは調子にも乗りやすい。
いずれ綻びが顕になるのだろう。
あまねく人間に、私に、綻びがあることは当然で、そのことに対しては何も思わない。そもそも「綻びが(これだけ)ある」と悩む必要は、実はないのではないかとさえ思う。綻びの総量それ自体、個人の主観に左右されるものだろう。そして、人の内面を変更する術を、あるいはcharmを、少なくとも後者を私は持たない。
ただ、それとどのように綻びを知らせるのか(全て私の誤解で、意地でも隠し通すのが定石なのかもしれない。そうなんですか?)という問題は別のはずだ。失望は避けられないことで、かつ、その最大瞬間風速が相手の許容できる閾値を超えたとき、一般論として人間同士の関係は崩れる。
私は減速剤を知らない。他者の失望の速度を、どう制御すればいいのか分からない。今までは流れの向くまま、それで良かった。今度は違う。化けの皮のせめてその剥がれ様だけは、自分で決めたい。できることなら、なるべく遅く、なるべく波風立たず、悟られないように。
思うに、あまねく人間に綻びがあることは当然で、人にどう知らせるかという点に上手下手があるのだろう。
社会に出てから20年以上今もずっと非正規なのだが、生まれて初めて、今後の不安を感じない職場に就くことが出来た。詳細は控えるが、自分の立場を脅かされることのない、要するにクビの心配をする必要のない職場、立場という意味である。もちろん長期的に安心な職場などどこにもない。そんなことはバカでもわかる。ただ過去の実績などから見て、短期的に私がこの職場を解雇、または異動となる確率は限りなく0に近い。待遇もとても良い。そして大企業。
その時実感した。人は、私生活に不安がなくなって、初めて先のことをしっかり考えられるようになる。休日にフルスロットルで趣味に打ち込める。結婚?子育て?そちらに労力を避ける。今迄みたいに休みの日も、Wワークや、読書や自己研鑽に時間を費やす必要がない。のんびり休日を味わうことが出来るのだ(まあ、今後のことを考えると、決してそんなことはしないが)。そして思った。正社員という奴らは、社会に出た直後からこの「社会に守られている」感覚を味わっていたのか。しかもずっと。だからこそ、のんきに休日に趣味に打ち込み、出会い活動に力を割けるのだなと。彼らの言う「金がない、結婚できない」と俺たちの言う「結婚できない」は到底意味が違うことを今初めて知った。結婚だけではないが。
つまり、正社員お前らはとてもクソだ。俺たちが常に味わっている「いつ先の仕事がなくなるかわからない」という不安を感じたことがないというこの1点において。
看護学生/看護師アカウントをwatchし続けて早10年近く。本当にこの界隈に生理的嫌悪感を覚えている。
女が多いからではない。男女等しく、この界隈に浸りきっている奴は気持ち悪い。
そもそもTwitterで職業アカウントを作る人に気持ち悪い人間が多いからなのかもしれないが。
彼女/彼らは看護学生や新人看護師の頃、自分を「意識低い系」と自称する。もしくは異常に「勤勉さをアピールする」のだ。
意識低い系は読者の想像する通りであろう。自らを勉強していない「限界看護学生/新人看護師」などと名乗り、とにかく勉強をしていないこと、”患者に興味を持てない”ことなどをツイートする。
特にこの”他人(患者)に興味を持てない”ということをツイートするのは看護アカウントの特徴なのではないだろうか。看護師が対人援助職であることはわかりきってるだろうに、なぜ彼女/彼らは看護師を職業として選択したのだろうか。その件について「お金のため」と明言するアカウントもあるが、それはそれで「プロとして割り切れない」という技量や意識の低さが目立つ。
問題、というか看護師として予後が悪いのが「勤勉さをアピールする」タイプだ。
彼女/彼らは看護学生時代はレビューブックを分厚くすることに専念し、せっせと語呂合わせの付箋をアップロードし、さらに理想のキャリアプランや看護師像について熱く語る。
彼女/彼らは根が真面目なので、模試で良い点数をとり、面接も手堅く通過。そして試験結果を意気揚々とアップロードしたのちに志望の診療科に入って目を輝かせる。熱い目標と学びを語る。
だが、そういう人に限って夢潰えるのだ。
彼女/彼らは次第に愚痴と弱音のツイートが増えていく。自己を卑下し、次第にそれは他責へと変化する。
一番わかりやすいのが「先輩看護師」や「社会構造」への攻撃だ。先輩をお局様と称し、自己を防衛する。自身の環境を社会構造のせいにして看護協会を悪の親玉に仕立て上げる。社会人として何年経っても看護学生時代のことを「絶対悪」として語り続ける。
だが自己研鑽で現状をどうにかしようとはしないのだ。いや、自分が変わるのではない。
彼女/彼らは「環境を変える」ための努力に勤勉さを発揮するようになる。そうすれば今自分を苦しめているものは全て解決、心機一転ハッピーな看護師ライフを送れると思い込んでいるからだ。
転職先としては第二新卒、クリニック、施設、訪問看護、美容、派遣、一般企業など多岐にわたるが、共通するのは”病棟”を避ける傾向にあるということだ。
まあそれは無理もない。人間誰しも、嫌な思いをした場に戻ることには抵抗を覚えるだろう。だが、病棟を辞めて他の職場に行った人らがずっとネチネチと病棟の悪口を言っているのを見るのは滑稽だというものだ。また、そういった病棟叩きのツイートがバズりがちなのも、そうやって自己の選んだ道(病棟を辞める)という選択を肯定してもらいたい人間がTwitterに数多く存在しているということの証だろう。
だがそうやって自己を正当化する物語を探してばかりでは、永遠に病棟を去ったことを後悔するばかりだろう。それに”病棟を続けることができなかった自分”は行動なしには永遠に変わらないのだから。
それに、Twitterに入り浸る限り彼女/彼らに転機は訪れない。「傷の舐め合い」が万バズし、数多のフォロワーを得る手段となり得るTwitterでは彼女/彼らは変わることができない。ただただ指を動かし、愚痴を投稿していれば承認欲求が満たされるからだ。永遠にぬるま湯に浸ることができるからだ。それはいつしか煮え湯になっても、彼女/彼らはそこから出ることはできないだろう。
そう、看護アカウントの界隈では愚痴や泣き言が万バズしやすく、フォロワーを得やすいのが最大の欠点だ。
彼女/彼らは看護アカウントを作り、愚痴を吐くだけでフォロワー数を何百も、時には何千も得る。いいねもたくさんつく。自己を肯定するコメントも貰える。そうすると気が大きくなる。「ああ、私たちの行動は間違っていなかった」のだと。
しかし面白いことに看護師としての年数が経過し、看護学生/新人看護師ではなくなると、余程のアカウントでない限り新規にフォロワーはつかなくなる。いいね数も目に見えて減っていく。”愚痴”も称賛を得られるのは若いうちだけなのだ。
そして限界まで煮詰まったアカウントは……もう目も当てられない。
彼女/彼らは”過去の栄光”に縋る。新しくアカウントも作ることができず、そこに留まり続け、同じようなツイートを重ねていく。時たま思い出したかのように過去のバズったツイートを掘り起こすが、焼け石に水に過ぎない。結局看護アカウント界隈の「おじさん/おばさん」として生きていくしかないのだ。しかし、新規に看護アカウントに参入した若い奴らは知っている。
「こいつらはやばい人物だからここまで看護アカウントを続けているのだ」、と。
看護アカウント界隈は定期的に看護アカウントを卒業(アカウントが動かなくなる)する。それぞれの別の日常に向かって新しくツイートを始める。看護という物語に縋らないと生きていけないやつは異常者なのだから。
付き合った当初からお互い子供は欲しくないという点で意見が一致しており、結婚後も何も揉めることなく子なし夫婦としてやってきた
20年の結婚生活を振り返って本当に幸せな人生を送れているなと思う
そしてこの幸せはきっと子供を作ったら味わえなかった代物だろうとも思う
子どもを産むにあたって不安がっている人に「大丈夫だよ」「私も不安だったけど産んだらなんとかなったよ」みたいな体験談を語ってる場面はよく見る
一方で子どもを産まない選択をすることに不安を覚えている人に対してそういう体験談を教えている場面はなかなか見ないので、全国の子どもいらない勢に対して子なし夫婦の素晴らしさをご紹介しようと思う
子なし夫婦のメリットは色々あるけどお金の心配がいらなくなるというのは非常に大きいと思う
育児関係でキャリアを断念することもなかったので今となってはお金にかなり余裕がある
夫は年齢の平均ど真ん中、私は年齢の平均年収+3〜400万くらい稼いでいて毎年新NISAの枠を全部埋められている
若い頃に夫が鬱を患って転職を余儀なくされたこともあったけどそのときも子なしなので不安は少なかった
なんなら「専業主夫やれば?」と夫に言っていたくらいだ
実際、余裕があるかはともかく生活するだけなら子どもがいない分当時の私一馬力でもなんとかなりそうだった
よく「子どもがいないと老後が〜」「介護が〜」みたいなことを言われるけどお金の力でどうにでもなると思う
むしろ子持ち夫婦だって子どもが介護に携わってくれるかなんてわからない
そもそも自分の子どもに将来の介護要員としての期待を持つってことそのものが不健全な気もするし
上記の話に関連するけど
女の立場としてはやはりキャリアを捨てなくていいってのが非常に大きい
産休育休制度は普及してるし、そういう休みを取ったからといって不利な扱いをしてはならないって定められているけど
じゃあ実際に産休育休後に仕事を再開した場合と子供を作らなかった場合とを比較して前者が後者と同等のキャリアを歩めるのかといえばそんなことはないでしょ
産休育休って言ったって休みは休みなんだからその間仕事はできない、仕事の評価もつかない、キャリアにおいてプラスには働かない
仕事に復帰したあともその空白期間を埋め合わせるのには実際の休み以上の期間が必要だし二人目三人目を作るなら言わずもがな
女性がある程度キャリアを作っていくならやっぱ子どもなんて産んでられないよ
私はいま部長の立場だけどやっぱり子どもを産んだ女性は役職につきにくい傾向があるなって思う
なんやかんや言って女性に限定すれば私は会社において上から二番目の役職
子持ちの社員は絶対的な仕事量の差、評定の差でどうしたって出世が遅れる
しかも私はバリキャリってわけでもなく基本的に定時ダッシュだし暇な時間に自己研鑽なんてこともしたことはない
そんな程度の社員であっても休まず出社してるだけで部長クラスになれる
子ども産まないメリットとしてはかなり大きいと言えるんじゃないかな
私の趣味は映画を観ることと小説を読むこと、ラジオを聞くことなんだけど特に子どもを産んだら映画趣味は捨てざるを得なくなるなと思う
少なくとも子供が小さいうちは映画館なんて行けないしある程度大きくなっても子供向け映画を一緒に見に行くことしかできない
私の好みのゾンビだのホラーだの銃撃戦だのバイオレンスだのといった映画をちゃんと映画館に通って観るなんてしばらく無理になるでしょ
映画館に通う頻度としては週1くらい
本当は週に2〜3本、年間100本くらい観たいんだけど流石に昼間働いていると厳しい
(映画オタクの中では年間100本がシネフィルかどうかのボーダーって言われてるよね)
映画は上映期間に限りがあるし一度機会を逃すともう基本的には映画館で観ることはできなくなってしまう
じゃあ例えば子どもの養育期間は配信で我慢するとしても、なにか本当に素晴らしい映画を配信で見た時に「私はこの映画を劇場で観ることはできなかったし今後も観られることはない」って後悔に苛まれることになるよね
いまでさえそう思うことは少なくないのに子どもを産んで年単位でそんなことが生じるなんて耐えられないよ
映画館にはたまに夫もついてきてくれて、そんなときは適当に外でランチやディナーを食べたりもしている
こっちはこっちで別ベクトルの文化系だけど子どもを産んだらまぁ同人活動は無理になるんじゃないかな
少なくとも今のペースで本を作るのは難しそう
好きなゲームの発売日には有給取って一日中、とりあえず一周クリアするまで部屋にこもってプレイし続けるなんてこともしてるけど子どもがいたら当然不可能
これは人によるかもしれない
ただストレス源、責任、プレッシャーなんてものは少ないから夫婦円満にはなりやすいんじゃないかな
少なくとも私は未だに夫と仲良しでいられている
たまに懐石料理やホテルブッフェのお高めのランチ・ディナーを2人で食べたりもする
割と頻繁に旅行にも行ってるよ
若い頃でもボーナス使えば結構いいお宿に泊まれたし、ある程度お金に余裕ができてからは相当いいお宿に泊まれるようになった
パパママなんて立場にならずに済む分、夫婦でずっといつまでも恋人同士のようにレジャーを楽しむことができる
あと生々しい話、セックスレスにもならずに済んでいる
子どもを産むとやっぱり体型維持は難しくなる
それでなくてもホルモンバランスが狂って大変なことになるし夫側妻側双方にとって性的な関係の維持には相当な努力がいると思う
自分の人生を自分のために使いたいと思っているのならやっぱり子どもは作らないほうが幸せになれるよ
大好きなパートナーといつまでも仲良く添い遂げながら自分のキャリアをきちんと積み上げ趣味にも時間を注ぐことができる
なにか人生において夢中になれることがある人、抑圧されたくない人、個人の幸せを追求したい人に子なし夫婦はかなりおすすめです
少なくとも私に後悔は一切ない
むしろ本心では子どもをいらないと思ってるのに何となくの不安感から子どもを作っちゃったら大変なことになると思うよ
Permalink |記事への反応(10) | 14:46
大学時代、個人Vにドハマりしてずっと見てた。毎日配信に律儀に参加して、配信内容はしっかり真面目に見て、コメントも随時送って、めっちゃ楽しんでた。
正直、楽しかった気持ちに嘘偽りはない。でも、1日うん時間を無駄にして勉学はおろそかになり、自己研鑽の機会をずっと逃してたって思うともうあんなハマり方はしたくないなって思う。
趣味だけど人との繋がりでもあるからトラブルも起こりうるし、常連になればなるほど参加しないことに抵抗が生まれる。過疎ってた人にハマってたから余計に自分がいなかったらっていう勝手な義務感も生まれる。シリーズものはちゃんと追いたいって欲も重なる。
付き合い方が下手だったと言えばそれまでだろう。現に健全にVTuberを追い続けてる人もいる。自分の時間も確保しつつ配信も楽しんでる人だって多くいる。突き止めたら私がアホだったって結論にしかならない。
人生上手くいってなかったし、友人も消滅してってたし、どっか心の拠り所というかコミュニティが欲しかったんだろうと改めて思う。当時Discordのゲーム部屋みたいなのに入って子持ちのおばさんとゲームしたりもしてた。人間関係リセットしがちな人間にとってネットは居心地がよすぎる。
反省はいろいろある。時間を無駄にするなとか当たり前すぎるようなことばかりだけど、今までなんとなくうまくやってきたばかりに実感のないことばかりだった。今までなんとなくうまくやってきた自分自身にとっていい薬になった。それと同時に人生をうまくこなしてる人らに尊敬を覚えるようになった。
これは現代人特有なことではなく、時代とともにどんどん話題は短くなっていっているらしい。
飽き性なのだ。
新しい刺激を常に求めている。
そんな中での選挙。話題を二週間引っ張れるのはとてもすごいこと。
だけれども、石丸旋風は都知事選では吹いたけど、もうみんな飽きたのだ。
恥をしれ1ワードではそこまで引っ張れないのだ。
参院選では勝てないのだ。
話を戻そう。
現代人は飽き性なのだ。一つのことをずっと追いかけれないのだ。
ただ、女を孕ませるということは、
その女をずっと追いかけなければならないのだ。
これがとても難しい。
マッチングアプリでセフレを探していても、そのアプリはスマホである。
同じスマホでFANZAをみて、一区切りしたら、もうセフレなんていらないのだ。
男は容易に賢者になれる。
まぁ女の心変わりも早いけどな。
(ここで拒むならこんなとこ来んなよとか言わない。現代人は紳士でなくてはならない。)
セフレを見つけるのも、年々むずかしくなってきたなと思う。
いやちょっと違うかもしれない。
またを開かせるためにはそれなりに押さないといけないが、
3デートでパコという暗黙の了解とかあったし、今はどうなのかはよくわからんけど、
もっと昔は1デートでテイクアウトパコは普通だったように思う。
僕には、パズルのラスト1ピースのような最高に最良のセフレを追い求めるという
折れずにずっと探しているのであるが、
それでもちょっと賢者タイムになってしまったりしたらもうどうでも良くなったりもする。
面倒くさいからな。
くだらないことは置いといて、
それらは高い集中力をそれなりに継続して初めて成功するものであり、
雑にできることじゃない。
当たり前である。
女に自分のガキを命をかけて産んでもらうなんていう役割を負わせるのだ。
無責任にできることじゃないし、願望だけ抱いて行動しなくてもできることじゃない。
意中の女史を自分に振り返らせ、
YouTubeを見て、Xをみて、はてなはまぁあまり見ることなく、
漫画を読み、ネトフリを見て、
お前らをスマホに釘付けにしようと日夜頭をこねくりまわしている結果であり、
お前らはその結果釘付けになっているのだ。
スマホを見てシコってるくらいなら
知り合いの女性に飯いこうよって言ったほうがよっぽどマシな世の中なのに
お前らはそれをしない。
しないことを不思議に思っていない。
そしていろんななにかを言い訳にして何もしない。
そんな奴らに父となる準備ができているのであろうか。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
俺も一昨年一年発起して、20年勤めた従業員50人ちょいしかいない中有小企業から、グループで12万人いる一流企業(時価総額は日本で50番以内)に転職したら色々と衝撃的だったので書くわ。
Permalink |記事への反応(10) | 12:08