
はてなキーワード:自分自身とは
弱者男性が一番キツいのは、女に相手にされないことじゃなくて、自分で自分を「どうせ俺なんて」って納得させてる瞬間なんだよな。そこに気付かずに「社会が悪い」で済ませてるうちは永遠に抜け出せない。モテないことを「顔と身長のせい」で終わらせてる奴ほど、実は女に対して一番失礼なんだよ。「お前はスペック以外に価値がない」って自分で認定してるようなもんだから。
「弱者男性だから仕方ない」って言い訳してる時点で、もうそのカテゴリーの底辺確定してる。言い訳してる間に、普通の男は地味に筋トレして、会話のネタ仕入れて、1ミリずつ殻を破ってるから。
女に選ばれない→自信がない→もっと選ばれない、のループにハマってる奴見てるとさ、結局一番残酷なのは女じゃなくて、お前が自分にかけてる呪いだよ。解呪の鍵はお前が持ってるのに。
「俺みたいな底辺は…」って予防線張ってる奴、実は一番プライド高いんだよな。傷つきたくないから最初から負けを宣言してるだけ。潔い負け方ならまだマシなのに、中途半端に逃げてるのが一番惨め。
弱者男性の最大の敵はフェミニストでもインフルエンサーでもない。毎日鏡見て「まぁこんなもんか」って許しちゃってる自分自身。それが変わらない限り、どんなに環境変えても同じ人生の繰り返し。
日本語圏のSNS、特にX(旧Twitter)において、興味深い現象が観察される。AI生成された文章には厳しい視線が向けられる一方、AI生成されたスライドやデザイン素材には驚くほど寛容な態度が取られているのだ。同一人物が「AIで書いた文章は見ればわかる。ああいう機械的な文はダメだ」と批判しながら、数日後には「AIでプレゼン資料を5分で作成!便利すぎる」と絶賛する光景が日常的に繰り広げられている。
この矛盾は単なる気まぐれではない。そこには人間の認知メカニズム、文化的価値観、そして社会的シグナリングの複雑な相互作用が潜んでいる。
公立はこだて未来大学の研究チームが2025年に発表した論文では、生成AIをめぐるSNS上の議論を分析し、賛成派が「功利主義」を中心とする価値観を持つのに対し、反対派は「著作権重視」を中心としつつも複数の価値観が混在していることが明らかにされた。しかし実際の行動レベルでは、同じ個人の中でさえ、対象によって態度が大きく変わる現象が生じている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsik/35/2/35_2025_015/_pdf
この非対称性を理解する鍵は、「道具性の階層」という概念にある。人々は無意識のうちに、創造的活動を本質的なものと装飾的なものに分類している。
文章は思考の直接的な表現とみなされる。論理展開、語彙選択、文体のリズムといった要素すべてが、書き手の知性や人格と不可分に結びついていると考えられている。ChatGPTが生成した文章に違和感を覚える理由の一つは、この「本質との一体性」が損なわれることへの抵抗だ。AI生成文章には「単調なリズム」「過度な順序表現(まず、次に、最後に)」「単語の繰り返し」「個人的視点の欠如」といった特徴があり、これらが機械的な印象を与える。AI判定ツールの精度はまだ発展途上だが、人間の直感は「この文章には人がいない」という違和感を敏感に察知する。
対照的に、スライドは思考を伝えるための「容器」として位置づけられている。レイアウト、配色、フォント選択は重要だが、それらは中身を引き立てる装飾であり、発表者の本質的な能力とは別物と考えられがちだ。CanvaAIが提供する膨大なテンプレートや自動デザイン機能は、この「装飾性」の領域に働きかける。デザインスキルを持たない人でも短時間でプロ品質の資料を作成できることは、単なる効率化として歓迎される。
この階層化は必ずしも論理的ではない。優れたスライドデザインは情報の構造化能力を反映するし、文章執筆も道具を使って行われる活動だ。しかし認知的には、文章は「私そのもの」、スライドは「私が使う道具」という区別が根強く存在する。
心理学者レオン・フェスティンガーが1957年に提唱した認知的不協和理論は、この矛盾を説明する有力な枠組みを提供する。人は矛盾した信念や行動を持つと心理的不快感を覚え、その不協和を解消しようとする。ただし、その解消方法は必ずしも論理的な整合性を追求するものではない。しばしば、自分に都合の良い解釈を採用することで不快感を和らげる。
「AI生成は良くない」という信念を持ちながらAI生成スライドを使う場合、認知的不協和が生じる。この不協和を解消するため、人々は様々な正当化を行う。「スライドは装飾だから別」「効率化のためなら仕方ない」「自分で内容は考えている」といった理由づけがなされる。こうした正当化は、矛盾を解消するための事後的な説明であることが多い。
さらに、一貫性バイアスと呼ばれる認知的傾向も作用する。これは他者の過去の言動が未来も一貫していると考える傾向だが、自分自身の行動については異なる基準を適用しやすい。「あの人はいつもAIを批判している」と他者を評価する一方、自分がAIツールを使う場面では「状況が違う」「これは例外」と特別扱いする。
内集団バイアスも無視できない。自分が属するコミュニティやアイデンティティグループの行動には甘く、外部グループには厳しくなる。たとえば「文章を書く人」というアイデンティティを持つインフルエンサーは、文章生成AIには厳しいが、自分が専門外のデザイン領域でのAI利用には寛容になる。
もう一つ重要な要因は、検出の難易度だ。AI生成された文章は、特徴的なパターンから比較的見抜かれやすい。一方、スライドがAIで生成されたかどうかを判別するのは困難だ。テンプレートを使ったのか、AIが生成したのか、手作業で類似デザインを作ったのか、外部から区別する手段がほとんどない。
この検出可能性の差は、社会的シグナリングに影響する。文章力は可視的なスキルとして評価されやすく、「この人は考える力がある」というシグナルを発する。AI生成がバレれば、そのシグナルが損なわれる。対照的に、スライドのデザイン品質は主張の説得力を高める効果はあるが、「この人はデザイナーだ」というシグナルを発することは少ない。むしろ「効率的に仕事を進める人」という別のシグナルになり得る。
X上のインフルエンサーは、フォロワーに対して自らの専門性や知的能力をシグナルし続ける必要がある。文章がAI生成であることが明らかになれば、そのシグナルの信頼性が損なわれる。一方、スライド作成にAIを使うことは、むしろ最新ツールを使いこなす能力のシグナルとなる。この非対称性が、態度の違いを生む強力な動機となっている。
X上のインフルエンサーは、特にこの矛盾を体現しやすい立場にある。彼らの影響力は、一貫した意見と説得力ある表現によって構築される。しかし同時に、効率的なコンテンツ生産と目を引くビジュアルも求められる。この二つの要求が、AI利用における選択的態度を生む。
2026年1月時点で観察される典型的なパターンとして、「AI生成コンテンツの透明性」を主張するインフルエンサーが、自身のビジュアルコンテンツにAI生成ツールを使用しながらその事実を明示しないケースがある。また、「AIに頼らない思考力」を強調する発信者が、投稿のアイデア出しや構造化にAIアシスタントを利用している事例も少なくない。
これは必ずしも意識的な偽善ではない。多くの場合、本人は「自分の本質的な仕事にはAIを使っていない」と認識している。しかし、何が本質で何が補助かという線引きは、極めて主観的で恣意的だ。
さらに、X社によるAPI改定とInfoFi(投稿で報酬を得る仕組み)アプリの締め出しが2026年1月に行われたことで、「質より量」のAI生成リプライが減少した一方、より洗練されたAI活用が主流派インフルエンサーの間で定着している。AIを使いながらも「人間らしさ」を保つ技術が発達し、矛盾はより見えにくくなっている。
この問題の根底には、創造性と真正性(オーセンティシティ)をめぐる根本的な問いがある。私たちは何に価値を置くのか。アウトプットの質か、それを生み出すプロセスか。効率性か、人間的な営みか。
従来、この問いには明確な答えがあった。芸術や知的生産においては、プロセスと人間性に価値が置かれてきた。しかしAI時代において、この前提が揺らいでいる。
興味深いことに、歴史的には技術革新のたびに同様の議論が繰り返されてきた。写真の登場時、絵画の価値は「手で描くこと」から「芸術的視点」へとシフトした。DTM(デスクトップミュージック)の普及により、音楽制作における「演奏技術」の相対的価値が低下した。DTP(デスクトップパブリッシング)は印刷業界の職人技を置き換えた。
今、同じことが文章とデザインの領域で起きている。ただし、その影響は均等ではない。スライドデザインは比較的早く「技術による代替可能な領域」として受け入れられたが、文章はまだ「人間の本質的な表現」として守られている。この防衛線がいつまで持続するかは不透明だ。
この非対称性は、AI時代における価値観の過渡期を映し出している。矛盾を指摘することは容易だが、実はこの矛盾自体が、人間が技術と折り合いをつけながら新しい規範を模索するプロセスの一部かもしれない。
実務的には、いくつかの示唆が導かれる。第一に、透明性の重要性だ。何にAIを使い、何に使っていないかを明示することで、信頼性を維持できる。第二に、本質と装飾の区別が文化的・主観的なものであることの認識だ。自分の価値基準を他者に一方的に押し付けることの限界を理解すべきだ。第三に、検出可能性が態度を決定する現状において、技術的な検出手段の発展が規範形成に影響を与える可能性がある。
インフルエンサーや情報発信者にとっては、自らの基準を一貫させるか、あるいは基準が状況依存的であることを率直に認めるか、いずれかの選択が求められる。後者を選ぶことは必ずしも弱さではない。むしろ、技術と人間の関係が流動的な現状を正直に反映したものだ。
最終的に、この議論が示すのは、AI生成コンテンツの是非ではなく、私たちが何を「自分らしさ」「創造性」「価値ある仕事」と定義するかという、より根源的な問いだ。その答えは、技術の進化とともに、そして社会的な対話を通じて、これから形成されていく。
Permalink |記事への反応(14) | 10:59
よっしゃー!
フルボイスじゃないんだ!
ボイスが脳内再生されるぐらいにはやってきたから全然問題ないわ!
弾が撃てないのはなんで?って16時間ぐらい思ってたらさすがに日が暮れちゃうので、
よーく説明書を読んでみてやると、
下にゲージが出てきて丸い玉が流れてくるタイミングで押すのね!
超理解!
なーんだ、
そう言うことだったのね。
やっば千束のボディの武装の企業マーク付きのものがないじゃん!
うわー!
私としたことが不覚にも陥る感じの感情を初めて覚えたときと同じ気持ちになって、
早速迎撃戦という武装などを報酬で手に入れられる戦いに挑んだの!
なかなかレアなのよね。
でも胴の武装の迎撃戦に挑戦のいつもはイカ漁だーつってクラーケン倒しに行ってるんだけど、
今日は胴のボディの武装のしかも企業マーク付きのものを得たいと思ってそこに挑戦したの!
そしたらよ!
な!なんと!
ピッタリとはまるこんなことある?って感じの
おおお!
運良いかも!
早速千束にフル装備完了のこれから強くさせつつと思わせといて、
とりあえず、
企業マーク付きの武装4つは千束に装備できたからホッと胸を撫で下ろすとともに私は他の用事を済まそうと思ったの。
スプラトゥーン3の私が自分自身自らに課している1日1勝と1日1ガチャのノルマ!
うわ!超私強い!
そんなのじゃあたらないってーって、
やったー!
ロボットボムであぶり出して追いかけるって作戦なかなか良いかも!
って思いつつも束の間の夢!
やっば!ナイスダマくるよ!
また千束が言いそうな台詞を私は脳内でつぶやきながらスーパージャンプで爆風に巻き込まれそうになりながら離脱するの!
超カッコいいんですけど!
まるでブルースリーの映画を見たときに熱い熱いヤカンを持っても熱くないかも!ってそんな修行のシーンを思い出して、
私も素手で鉄の部分のヤカンは熱くない!って触ったらめちゃ熱かったので
映画を見たからと言ってブルースリーのように熱さに耐えられるとは限らないのよね。
でも『リコリス・リコイル』観たから軽量ブキの赤ザップで快進撃を繰り広げられているのは、
多分気のせいじゃないかも知れないのは無いことも無いかも知れないく無く無くない?
軽量ブキもいいんだけど、
やっぱり私は重量級長射程距離のエクスプロッシャーかハイドラントとかの重火器のロマン系ブキを背負ってステージを走り回った方が好きかも!って思いつつも、
いつもとは違う私の戦い方に自分自身戸惑いながらも
でね、
すっかり話題になってないと思って私がもしかして窓から投げ捨ててしまっていると思われている、
『ドラゴンクエストVII Reimagined』もちゃんとやってるわよ!
君はなにを今見つめているの~って太陽が暮れた季節のイントロに似ているので、
戦闘のたびに私は君はなにを今見つめているの~って歌うのがお決まりになっているドラゴンクエストVIIなのよ。
で、
早速船を手に入れて大海原に出発だー!って、
過去でクリアした島を今の現在の時間軸でもまた冒険するの?って
1粒で2度美味しいやつ?
つーか、
これをこの石版の数だけやってくの?
ってこの最初のドラゴンクエストVIIの石版集めて第1話のドラマも
これがあの石版の数だけのもしかしてストーリーがあるってこと?
これを考えるともう途方もなさ過ぎない?
私クリアできるのかしら?って
不安になるけれど、
まあここは一旦セーブして終わってまたNIKKEの世界に戻っていくのよ。
今は楽しい楽しいNIKKEとリコリス・リコイルのコラボのお話が楽しくていいんだけど、
待ってよ!
多分新しく開放されたメインストーリーのチャプター43と44は、
恐らく恐らく超鬱展開の暗いまたこないだの周年イベントのように心をえぐられそうな展開になりそうなので、
多分楽しいあとはそう言うことがNIKKEでは待ち構えているから、
足もとすくわれないようにしなくちゃ。
なんだか気が逸るわ。
うー、
これから来ると思われる鬱展開に備えて、
これがせめてもの対鬱平気なのよ。
これ以上ハイボールが捗りすぎても困るけれどね!
うふふ。
思いのほか梅の酸っぱさに目がメガ覚めそうよ。
おお!すっぱー!って。
朝には効く酸っぱさ美味さね!
なくなくやむなくこの梅おにぎりにしたってわけ。
でもこっちも美味しいのでよかったわ。
ホッツ白湯ストレートウォーラーにルイボスティーのパックを入れる
ちょっと朝明るくなるの早くなってきてる?
身体を温めてくれるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
最近、教育現場やSNSで、ある種の"すれ違い"を目にする機会が増えました。
注意されたり、期待と違うことを言われたりすると、「自分とは合わない」と、そこでの人間関係そのものをリセットして離れてしまう。自己主張は強いのに、親や社会に支えられている事実への自覚が薄い。大人の側にも、責任を引き受けるより先に「自分の権利」だけを語ってしまう振る舞いが見える──。
あなたも、こうした光景に心当たりがあるのではないでしょうか。
もちろん、これは特定の世代を批判しようとしているのではありません。私が今回考えたいのは、「その振る舞いが"合理的"に見えてしまう社会の側の条件」です。なぜ今、対話よりも離脱が、協力よりも防御が選ばれてしまうのか。その背景には、私たち大人が気づかぬうちに変えてしまった「学びの物語」の喪失があるのではないか──。
そんな折、教育者の中土井鉄信先生のFacebook投稿に出会いました。
そこで語られていたのが、「学びは公共財である」という視点です。教科書は、人類が積み上げてきた英知の集積であり、私たちはそれを受け取って生きている。だから学びは「自分のため」だけで終わらない。受け取ったものを社会に返していく視点が欠かせない──。
「依存」「消費化」「対価志向」「関係の短期解約」──これらは別々の現象ではなく、学びの位置づけの変化と深くつながっているのではないか。
本稿は、その問題意識を整理し、立て直しの方向を考える試みです。中土井先生の問題提起へのリスペクトを込め、私が現場で向き合い続けてきた実践知から、その解決の糸口を提示したいと思います。
学びが"公共財"として扱われなくなると、何が起きるのか
学びや知識には、個人の便益(成績・進学・仕事)だけでなく、社会的便益があります。社会が一定のルールを共有できること、言葉が通じること、協力が成立すること。その基盤には、学校教育や読書を通じて広がる「共通の知」があります。
ところが近年、学びは少しずつ、「社会の基盤」よりも「個人の投資」「購買体験」に寄って語られるようになりました。
どれだけ得をするか
どれだけ早く成果が出るか
この枠組みが強まると、学びの場は「関係を育てる場」ではなく「サービスの場」に近づきます。すると、注意や指摘は「成長のための調整」ではなく「不快な体験」になり、合わなければ話し合うよりも「さっさとその場を去る(離脱する)」ほうが合理的、という判断を招いてしまうのです。
「うるさい!もうやだ!こんな学校(塾)辞めてやる!」──この叫びは、わがままではなく、ある意味で消費者としての合理的な選択になってしまっているのです。
学びが「買うもの」になったとき、私たちは何か大切なものを失いました。それは、学びを通じて人と人がつながり、社会を共につくっていく物語だったのではないでしょうか。
かつての日本が持っていた「学びの回路」
私が子どもの頃、勉強が得意な子に向けて大人が「末は博士か大臣か」と声をかけることがありました。実際私も、祖母や祖父、近所のおじちゃんたちに、何度となく聞かされたフレーズです。
今振り返ると、そこには単なる出世願望だけではなく、「力を持つなら、社会に役立つ人になってほしい」という期待が含まれていたように思います。欧米で言われるノブリス・オブリージュ(地位や能力を持つ者の社会的責任)も、根は同じです。
かつて学びや能力は、個人の利益で完結するのではなく、社会に返していく回路の中に置かれていました。この感覚は、言葉にされなくても、日常の中で自然に共有されていたのです。
この回路が弱まると、学びは単なる「受け取るもの」になりやすく、結果として「対価がなければ動かない」という感覚が広がります。それは個人の問題というより、学びの物語を社会が共有できなくなったことの反映ではないでしょうか。
私たちは今、この失われた回路を、新しい形で取り戻す必要に迫られています。
人が社会や他者と健やかに関わるために、最初に必要なのは「規範」でも「協調性」でもないと私は考えています。
私が多くの親子と向き合う中で、それら以前にもっと手前の問題として感じるようになったのは、「自分自身との一致感を持つことができていない状態」で生きている人が想像以上に多いという現実です。
たとえば、次のような振る舞いが見られるとき、私たちはしばしば「甘え」や「依存」として片付けてしまいがちです。
やる気がないように見える
注意されることを極端に嫌がる
しかし、丁寧に話を聞いていくと、その背景には別のものが見えてきます。
「どんなペースなら続けられるのか分からない」
「何を期待されているのか曖昧なまま、結果だけを求められている」
つまり、自分の特性と、求められている振る舞いとの間に深刻なズレが生じているのです。みんなと同じやり方で学び、同じ基準で評価され、同じ反応を期待され続ける環境に長く置かれると、人は次第に「自分はどこかおかしいのではないか」と感じ始めます。
この状態こそが、私が「自分との不一致感」と呼んでいるものです。
この不一致感は、単なる自信のなさではありません。それは、自分という存在が、この社会の中でどう機能すればいいのか分からない、という根本的な不安です。この不安を抱えたまま「協力しなさい」「もっと頑張りなさい」と言われても、人は動けないのです。
「自分との一致感」こそが、協力の土台になる
人は、不安や恐れが強い状態では、協力よりも「防御」を優先してしまいます。自分の中が不安定なままでは、注意は攻撃に聞こえ、期待は重荷に感じられ、関係そのものを避けることが合理的な選択になりやすいのです。
逆に、「このやり方なら理解しやすい」「この関わり方なら無理なく動ける」という安心感――すなわち「自分との一致感」があってはじめて、人は心理的に安定し、周囲と関わる余裕が生まれます。
自分のやり方や反応を「これでいい」と理解できている人は、常に評価や承認を求めて振り回される状態から一歩距離を取り、自分と違う人を「役割が違うのだろう」と捉えられるようになります。この視点の転換が起きたとき、違いは摩擦ではなく、補完関係に変わるのです。
協力とは、目標として押し付けるものではなく、自分を理解し、無理のない形で力を出せる人が増えた結果として、自然に立ち上がってくる関係性だと私は考えます。
「協力できない社会」の問題は、協力を強制することでは解決しません。それよりも、一人ひとりが自分との一致感を取り戻すこと。そこからすべてが始まるのです。
この「自分との一致感」を取り戻すために、私が提唱し、社会に先行して取り組んできたのが独自の「才能タイプ理論」による個別最適な子育ての実践です。
そして、その実践において最も重要になるのが、家庭を「才能発揮の中心基地」へアップデートすることです。
学校や社会が一律の基準を求めがちな外部環境であるからこそ、わが子の「才能の形(遺伝特性や認知形成のクセ)」を深く理解し、本人そのものを伸ばしきれるのは、親をおいて他にはないからです。
ここで改めて強調したいのは、個別最適とは、嫌なことを免除したり、好きなことだけを選ばせたりするための考え方ではないということです。むしろ本質は、「どの形なら、その人は役割を引き受けやすいのか」を探るための視点です。
言葉で説明するのが得意な人、作業で支えるのが得意な人、全体を見て調整するのが得意な人。同じ「責任」でも、担い方は一つではありません。その違いを前提に役割を考えることが、結果的に集団を安定させます。
個別最適は、わがままを許すことではなく、それぞれの特性に合った形で、社会的役割を引き受けられるようにするための設計思想なのです。
中土井先生の「学びは公共財である」という言葉に立ち返ります。
学びが公共財であるとは、個人より社会を優先しなければならないという意味ではありません。そうではなく、「社会から受け取った知や経験を、自分の特性に合った形で、社会に返していく」という循環を大切にするということです。
かつての「末は博士か大臣か」という言葉の根底にあった、能力を社会に返していく回路。それを、いま私たちは「個別最適」という新しいアプローチで再構築していく時代の扉の前に立っているのです。
公共性とは、画一的な基準に全員を合わせることではありません。むしろ、一人ひとりが自分の特性を理解し、それを活かして社会と関わること。その多様な関わり方の総体が、本当の意味での豊かな公共性を生み出すのです。
家庭という「中心基地」で、わが子の才能の形を認め、自分との一致感を育むこと。それは、お子さんが「自分に合った形で、社会と良い関係を結べるようになる」ための自立への第一歩です。
この記事を通して、今の社会や子どもたちを批判したかったわけではありません。なぜ「対話をあきらめ、つながりを断つこと」が合理的に感じられてしまうのか、その背景に私たち大人の側の設計はどう関わっているのかを、一緒に考えてみたかったのです。
私自身、「才能タイプ子育て」という活動を通して、一人ひとりが自分と一致した状態で力を発揮し、その結果として、無理のない形で社会と関われる人が増えることを願っています。
違いを前提にした関係の方が、結果的に社会は安定し、協力は回りやすくなる。この実感を、現場での実践を通じて、少しずつ社会に返していきたい──そんな立場からの問題提起です。
私たちが失ったのは、「協力する力」ではなく、「協力できる条件」だったのかもしれません。
そして、その条件とは、一人ひとりが自分との一致感を持ち、自分らしい形で社会に関われること。学びが公共財であるという物語を、個別最適という新しい形で紡ぎ直すこと。
今回の記事が、ご家庭で、職場で、教育の現場で、何かを考え直す小さなきっかけになれば幸いです。
あなたのお子さんは、どんな才能の形を持っているでしょうか?
世間知らずな低学歴の妄想だから、チラ裏程度に読み流して欲しい。
若者は「子どもはそんなに欲しくないけど、作らなきゃいけないのな?」とやんわり思っている。
「子どもを作らず、社会維持/発展に貢献できない、身勝手な人たち」と認識される可能性があるのではないか?
もしそうなったら、とても悲しい。ただ同性を愛する趣向だったがために否定されるなど、意味がわからない。
(ちなみに自分自身はバイセクシャルで、異性同性両方と交際経験がある。)
そんな悲しい分断が起こる前に、社会制度や科学の力で、人間が産まずとも子どもがつくれるようになって欲しい。
自分が生きている間になんとかなるといいな。
トランプが大統領やってるうちはSP500もオルカンも積み立てる気になれない
NISA国内では税金取られないけどアメリカの方では普通に税金取られてるらしいしな
一人一人の金額としては微々たる金でしかないしやめたところで日本の税金通して防衛費経由で搾取されてるのは変わらんけど
自分の将来の資産を増やすという、ある種利己的な目的のために「今」トランプに金送り続けるという行動を自らの意志で続けるの普通に精神衛生上悪い
自分自身への信頼が無くなりそうなことはしないと決めているのだ
※誰かを攻撃する意図はありません。自分自身の整理と今後、誰かが同じ状況になった際の判断材料として記します※
※「」内に関しては発言を書き起こしたものではなく、そういう趣旨の発言であったものになります※
そのインフルエンサー(以降「A」とする)がどんな人かと言うことをざっと並べると、
・当時推しの名前をXで検索すれば、そのインフルエンサーの投稿がトップの方で表示される
そして
推しと出会う以前・以後のビフォーアフターを写真付きでかなり赤裸々に明かしていた
…といった感じ。
影響力の大きい人だというイメージはあったけど、
Aはある日を境に
「ライブチケットで良席を得て、推しからファンサをもらえたのは“引き寄せの法則”を利用したから」
といった投稿を始める。
※引き寄せの法則とは、
今自分の手元にない欲しいものを“すでに持っている”ものと意図して生活していたら、
思いがけない形でそれを得ることができちゃうよ〜みたいな法則(ざっくり)※
その頃くらいから、
引き寄せの法則にまつわる発オンライン講座を少額(ワンコインほど)で複数回開催し始める。
当時の講座も受けたことがある。
AはSNSで見る姿と変わりなくよく喋るが、面持ちからは緊張を感じた。
講座自体もしっかりした作りで、私はAに人間味を感じ、さらにAを信頼することになる。
講座を受けた人たちの引き寄せたものの実績もみるみる積み上がっていった。
ほどなくしてAは、
長期かつやや高額(型式が古くて5万キロ強走行した中古車なら1台は買える額)
な講座を主宰することになる。
そこにいる人々の様々なビフォーアフターも講座宣伝よろしくタイムラインに流れていく。
“それなりの幸せで満足しなくていい、もっと私たちは欲しがっていいんだ”
『もしかしたら私も変われるかもしれない』という気持ちは膨らんでいく。
だがいかんせん、値段が高すぎる。
興味はあるけど、参加は見送るつもりでいた。
某日、Aが
「講座自体はとてもいいものになっているのに、思ったより集客が伸びない」
というような弱音を吐いたことがあった。
記憶はかなり朧げなので内容は正確ではないが、
その時点で絆された私は、飛び込みで講座の受講を決定。
契約書もろくに読まず記名し、受講料を払った。
これで人生変わるんだ、と本気で思った。
『私なんかが…』と遠慮して受け取れなかった様々に手を伸ばせるようになった。
この機会じゃなきゃ出会えなかった人と、
そこに対してはAに感謝している。
ただ、この話はここでは終わらない。
ある講座生(Bとする)が Aに対して声を上げた。
「私は提出した課題に対して、Aさんからフィードバックをもらいたくてこの講座に入った。
それがないならここにいる意味がない。引き寄せを勉強しようと思うなら、本を読めばいい。
そうではなく、Aさんから学ぶことに対してもっと意味のあるものにしたい。なんとかならない?」
講座生は各々課題を提出するわけだが、Aからのフィードバックは無かった。
Aが提出された課題に添削して、その添削が見える環境にしてしまうと、
講座生同士で提出した課題に関して意見交流してもらうのを優先しているためだった、
Aの主張も、Bの主張もわかる。
私はBと同じく消費者として、
この流れに期待感を持っていた。
しばらくそのやりとりは続き、Aのある発言で空気がガラッと変わる。
「けど私からのフィードバックがないと意味がないって思うのは、Bさんの課題なんだよ」
「買い手としての一意見が、私の精神的な許容量の問題って言いたいってこと?」
Bは声を荒げ、Aは「そういう意味じゃない、間違えた」と切り返そうとするが、
A本人から個人のキャパの問題だと一蹴され、なあなあに決着をつけられてしまった。
この一連の流れに、私は事業者としてのAに不信感を抱くようになる。
その後も、
講座生に向けた講義とは別の配信でAがBに対して苛立ちをぶつけるような場面
・Aのオープンハートとも取れるが、見方によっては講座生に対する雑な扱い
・私欲を満たすために講座生たちが払ったお金を使われたのち、
講座受講期間中にAから「金策に困っている」というような発言を何度も聞いたこと
などの出来事も重なり、
私は特に「お金がない」という話を聞き続けた結果、精神的に疲労してしまった。
講座を履修したら継続で入れるサロン(月額も決して安くはない)があったが、
退会を決め、Aの事務局に申し出るも、申出から退会の受理までの対応に1ヶ月以上かかるなど、
退会を申し出てからの1ヶ月分のサロン月額料金は請求されなかったことから、
これを機会にAから離れ、学んだこと以外は忘れたように過ごそうと思っていた。
しかし、
ある時のタイムラインでAの過去の投稿について、糾弾するアカウントを見かける。
著しく良識に欠けていて、推しの人権を侵害しているという趣旨の発言と、
インフルエンサーとして好感を持った側面でしかAを知らなかった私は、
どうやらとんでもないことに首を突っ込んでいたらしいとようやく気づく。
ただ、講座を修了している以上、できることはほぼないに等しいのも安易に予測がつく。
悩んだ末、ネットで調べた情報をもとに、地域の消費生活センターに相談してみることにした。
になる。
同じようなケースの人がここにたどり着いた時のために記載しておくが、
消費生活センターの窓口相談を利用するには電話予約が必須なので気をつけて欲しい。
私は電話口で説明できる自信がなかったので、窓口相談を利用した。
契約書や、 Aの事業用のHPなどをかき集めて相談した結果の見解は、以下の通りになる。
代表者氏名が未記載であることから、事業者としての信用性は極めて低く、悪質性は高い。
・決済手数料の扱い
支払い方法によっては、規約外である手数料が上乗せされていることも問題である。
・返金対応
最初に説明されたカリキュラム通りに講座自体は進行していたことから返金は求められない。
また、通信契約の特性上、契約書の規定が優先されるため、返金を求めることはできないという結果。
(契約書にいかなる理由でも返金には応じないといった趣旨の記載)
説明された内容と実際の講座内容に明らかな乖離ががある証拠がない場合は、返金は厳しい。
無いに越したことはないが、同じケースに鉢合わせた場合は、不信に感じたその時に相談して欲しい。
センター自体に強制力はないが、今後Aに関しての相談件数が増えた場合は指導が入る可能性はある。
消費生活センターとしては、本件は“霊感商法による被害”という位置づけになるらしい。
誰でも被害者になりうるというお話も相談員の方からお伺いした。
困っている人がいたら、ぜひ電話でも窓口でも相談してみては、と思う。
被害者に限らず誰でも申し出は可能だが、金銭トラブルの解決は目的としていない。
契約書上の“この契約は消費者契約法や特定商取引法の適用を受けない”という記載に対して、
“法律(強制法規)が優先されて効力を持たない”という意味では、法律違反にあたる可能性がある。
(本件を具体的に相談した結果ではないので、あくまで可能性という結果にはなる)
という感じだった。
・現品を見て買えないものは、買う前にとにかく情報を集めましょう。
・良い口コミばかり出てくるものはめちゃくちゃ疑った方が良いです。
・そのインフルエンサーのことが好きでも、
・同じ買い物をした人たちが同じように消費者として傷ついていたら、
もし勇気があるなら手を取り合って、声をあげてください。
でもその人から買い物する時は疑って欲しい。誰かが私と同じように傷つく必要がない。
勉強代としては決して安くはなかったが、
“信頼と契約は別物”という教訓をこれだけ大騒ぎして得られたのは、
まぬけではあるが。
Aは今でもどうやら、講座を主宰しているらしい。
私はもう離れてしまったけど、
Aなりに楽しんで推し活するんだろう。
チャーミングな人だった。
ようやくこれを書き上げた。
この件に対してのモヤモヤをここに置いて、
もっと身軽にやりたいことを楽しむつもりだ。
うん、悪くない響きだ。
これ以上、この件については
追求することはありません。
ただ、いつかの誰かにこの記録が
役立てばこれ以上のことはありません。
B含む講座生のみんなにも、
あの時タイムラインで見かけた投稿者の方にも、相談員さんにも、
そして、 Aにも。
ありがとうございました。
ばいばい。
転職活動したことないから新卒の時の話になるけど、何回もセミナーに顔出して、インターンも行かせてもらって、自分自身第一希望と心から思っていた会社にお祈りされた時はこたえたな。ただ恨んじゃあいない。
お祈りメールも定型文じゃなくてものすごく丁寧に書いてくれたのを今でも覚えてる。
そこそこ進んだ面接で最後の質問しなかったり(もう顔出し過ぎたし志望度高すぎて受かったら入るつもりだったから質問したいことがなかったんだけど、当時の就活では質問無しは御法度だった)したからかなぁと思ってたんだけど、まぁ普通に俺より学歴良くていい奴がいたんだろうな。
その会社にお祈りされた時に最終選考中だったところで今も働いてるんだけど、結果的には年収もぼちぼち一本届きそうだし、何がいいかなんて分かんねぇなという気持ち
まずは料理関係!レシピ系が多いが単に調理風景を映してどやあーってのも結構流れてくるぜ。ただし、レストランとか屋台とかのを撮ったどんぐり系は見ねえ。
あと、これは料理系の一種ということになるんだろうがコーヒー、特にエスプレッソを淹れてる動画がやたら流れてくるな。自分自身はネスプレッソで適当に飲むだけだが、何をどうこだわっているのかは初心者レベルの知識がついてしまったぜ。
他には工場の動画。国内海外問わず、規模もいろいろで、人の手が殆ど入らないほぼ完全自動クラスのものから職人の手による9割手作業みたいなのまである。
化学実験や電子工作系も多いな、有名なのや派手なのがウケやすいからか多く登場するが、たまに地味ーなのもある。
ゲームの動画も多い。もともと据え置き機のプレイ動画をよく見ているからだろうが、最近もちもちほっぺのやつが混ざるようになった。遊んではいない。
ちなみに、政治とかの動画は上下左右前後問わず全部ミュート送りしているし、上記デッキに含まれるとしても掲示板まとめみたいなやつは気に入らねえから同様だ。平和なサジェストの維持のためには欠かせない作業だぜ。
リベラル名乗ってないのに中道支持者に「リベラルなら○○しろ」とかいうのと同じようなもんだよな
愛国保守名乗ってないのに自民支持者に「愛国保守なら○○しろ」っていうのって
丸山眞男が提示した「抑圧移譲(よくあついじょう)」の論理は、日本社会の構造を理解する上で非常に鋭い洞察です。
ご質問の続きを補完するように解説すると、日本社会における「抑圧者」のあり方は、ピラミッドの頂点に君臨する独裁者一人に集約されるものではありません。
丸山によれば、日本的な組織や社会においては、ある個人は「上からの圧迫」を受けると同時に、そのストレスや不満を解消するために、自分より「下の存在」に対して同じように抑圧を加えます。
連鎖する抑圧:組織のトップだけが加害者なのではなく、中間管理職、平社員、さらには家庭内の関係に至るまで、誰もが「被害者」であると同時に「加害者」になる連鎖構造を指します。
心理的な均衡: 上から受けた理不尽な圧力を、さらに弱い者へ転嫁(移譲)することで、個々人が精神的なバランスを保とうとするメカニズムです。
日本社会における特徴
このシステムには、欧米的な「独裁」とは異なるいくつかの特徴があります。
特徴 内容
無責任の体系 全員が「上の指示だから」「社会の風潮だから」と責任を転嫁するため、最終的な責任の所在が曖昧になる。
権威への依存自分が抑圧する際、自分自身の信念ではなく「上の権威」を背景にして(虎の威を借る形で)振る舞う。
無限の連鎖 抑圧の対象がいない最末端の人間は、さらに弱い存在(あるいは身内や動植物、SNSでの匿名攻撃など)へ矛先を向ける。
彼はこれを、近現代日本の軍隊組織や官僚制の中に顕著に見て取りました。上官から殴られた兵士が、さらに初年兵を殴ることで自らのプライドを回復しようとする構造が、社会全体の「空気」を作っていると批判したのです。
この「抑圧移譲」の連鎖を断ち切るには、丸山が福沢諭吉から学び取った「独立自尊」の精神、つまり外部の権威に依存せず、自らの良心に従って判断する個人の自立が必要だと説かれています。
「上が悪い」と批判するだけでは、この構造からは抜け出せません。自分自身が「下の者」や「異質な者」に対して、無意識に圧力を移譲していないかを自省することが、この連鎖を止める第一歩となります。
俺の知る限りのフェミニズムによると、女性が自分自身の性をどう使おうとも個人の自由だったはずだ。
長らく社会によって女性たちの性のあり方が押し付けられてきた歴史がある。
いまは、フェミニストの努力によって女性の性が解放された時代だ。
俺はさ、昔は「図書館で数学する!」みてーな些細な投稿をFacebookで友人にシェアして楽しんでたのよ。
それが今はどうだ?インプ?外発的モチベーションはすべてのやる気をなくすんだよ。
あの頃の俺にとって、数学の難問と格闘してノートを埋める時間は純粋に俺だけのものだったし、それをSNSに上げるのは、ただ「今、俺は充実しているぞ」というささやかな生存報告に過ぎなかった。
誰に評価されずとも、せいぜい身近な友人が数人「頑張ってるな」と「いいね」をくれるだけで十分満たされていたんだ。
しかし、いつの間にか世界は数字という名の毒に侵されてしまった。
投稿すれば表示回数が可視化され、どれだけ拡散されたか、どれだけ見知らぬ誰かの感情を揺さぶったかという指標が、自分の行動の価値を決定づけるようになった。
インプレッションという麻薬は、確実に俺の好奇心の根っこを腐らせていったんだ。
本来なら自分が面白いと感じるから解いていたはずの数式が、いつの間にか「どう見せれば反応が良いか」という計算にすり替わっていることに気づいた時の絶望感と言ったらねえよ。
外側から与えられる報酬や承認は、一度味わえばそれなしでは動けなくなる劇薬だ。
脳が数字の増減に一喜一憂するようになると、内側から湧き出ていたあの静かな情熱は、騒がしい通知音にかき消されて消えていく。
今や図書館の静寂さえも、映える写真を撮るためのセットにしか見えない。
結局、俺たちは自分の人生を誰かに見せるためのコンテンツとして切り売りし、その対価として最も大切な「没頭する喜び」を差し出してしまったんだ。
かつての無邪気な投稿を振り返るたびに、あの頃の自分が持っていた無敵の自給自足的な幸福が、今のこの空虚な数字の羅列よりもずっと価値があったのだと痛感させられる。
他人の目に映る自分を磨くことに必死になって、肝心の自分自身が空っぽになっていくこの感覚は、まさに現代の病そのものだろう。
なんで中道がここまでボロ負けしたか、心理学の用語を使って解説してみる。暇な人向け。
まず外見バイアス。
高市早苗vs野田佳彦+斉藤鉄夫という並び、テレビで見ただろうか。高市は初の女性総理で「日本列島を、強く豊かに。」とキメ顔で言っているのに、中道側は野田のおっさんと斉藤のおっさんが記者会見で並んでいて「5G(爺)」と揶揄されていた。
有権者が画面で見た瞬間の印象が違いすぎる。特に若年層はビジュアルで「推し」を決める時代なので、二子玉川の最終演説に制服の高校生が殺到していた時点でもう勝負はついていた。
1月15日に立憲と公明が合流合意→16日に党名決定→23日に解散→27日に公示→2月8日投開票。つまり党名が世に出てから投票日までたった3週間ちょいしかない。
単純接触効果というのは「何度も繰り返し接触するほど好感度が上がる」という心理効果なのだが(キリッ)、そもそも「中道改革連合」という名前に国民が接触する回数が圧倒的に足りていない。「立憲」なら6年間の蓄積があったのに、わざわざ直前にリセットしたわけ。
現場の候補者が「比例の復活枠がほとんどない。小選挙区で勝たないと」と悲鳴をあげていたが、比例で「中道改革連合」と書く有権者がそもそも少なかったのは当たり前だろうと思う。名前を変えるなら最低でも半年は周知期間が必要なのに、3週間で浸透するわけがない。民主→民進→希望→国民→立憲のときと同じ失敗をまた繰り返していて、本当に学習能力がゼロだと思う。
自民は逆にこの効果を最大限ブン回した。高市のYouTubeショート動画は公示前日に投稿して10日足らずで1億回再生を達成している。YOASOBIの「アイドル」が35日かかった記録を余裕でぶち抜いた。
広告費で数億突っ込んだ説もあるが、とにかくXのタイムライン、YouTube、TikTok、どこを開いても高市の顔が出てくる状態を作り上げた。出口調査でSNS・動画を43%が参考にしたと出ている。中道の動画は最多で100万回。自民の1000分の1以下である。
接触回数の差が1000倍あったら、そりゃ好感度に差がつくに決まっている。金の暴力とはこういうことだ。
心理的リアクタンスというのは「お前これをやれ」「あいつはダメだ」と押し付けられると、人間は逆にやりたくなくなる心理のことだ。
中道は食料品消費税の恒久ゼロ、給付付き税額控除、奨学金返済減税、NISA減税、家賃補助、週休3日制など、それなりに具体的な政策を掲げていた。しかし有権者に届いた情報は「裏金批判」「税金の無駄遣い解散」「自己保身的な解散」ばかりだった。
野田氏自身が敗戦会見で「政策論争の機会を失し、独特の空気に結果が左右された」と認めている。落選した馬淵澄夫氏も「ネットや動画を通じた訴求力が十分ではなかった」と分析している。つまり政策を語っていなかったのではなく、語っていたのに伝わらなかった。これは前述の単純接触効果の裏返しでもある。自民が1億再生の動画で「ポジティブな高市像」を大量に流している横で、中道の動画は最多100万回。接触機会が1000分の1しかなければ、そもそも政策が届くわけがない。
結果として有権者に残った印象は「また野党が与党の非難をしている」だけだった。前回の2024年衆院選で裏金批判が効いて立憲が50議席増やしたものだから、「同じ手が通用するだろう」と二番煎じをやったように見えた。しかし人間は「また同じ批判かよ」となると逆に反発する。「自民がダメだから中道に入れろ」と言われれば言われるほど、「いや自分で決める」と自民に入れたくなるのがリアクタンスというものだ。
出口調査で無党派の投票先は自民が25%で首位だった。2022年参院選以来の数字である。野党が批判すればするほど与党に票が流れるとは、皮肉すぎる。元グラドルの森下千里に負けた安住は今頃何を思っているのだろうか。
全部、自分たちで転んでいる。小沢一郎、安住淳、枝野幸男、岡田克也が軒並み落選して、民主党系の歴史が一夜で焼け野原になった。中道幹部が「惨敗というより壊滅」と言っていたが、壊滅するべくして壊滅したとしか言いようがない。
いくつかコメントをもらったので返しておく。
そのとおり。心理効果は「これさえあれば選挙に勝てる」みたいな魔法ではない。ただ、この与太話で言いたいのは「全有権者が政策を熟読して比較検討した上で投票している」わけではないという当たり前の話だ。出口調査でSNS・動画を43%が参考にしたと出ているが、10秒〜1分のショート動画が再生数の7割を占めるような状況で、何を「参考」にしたのかは推して知るべしだろう。自分自身のことを振り返ってみてほしい。投票先を決めるとき、全政党のマニフェストを読み比べてから投票所に行っているだろうか。お前はそうかもしれないが、俺は感覚で決めているところが正直ある。その「感覚」の部分にバイアスが効いているという話をしている。
見かけたのはそうかもな。ただ単純接触効果には前提条件があって、ポジティブまたは中立的な文脈で繰り返し接触した場合に好感度が上がるという効果だ。ネガティブな文脈での接触は逆効果になることが知られている。「中道また批判してる」「立憲と公明が野合した」みたいな文脈で名前を見かけても、それは単純露出効果がプラスに働く接触ではない。一方、自民は高市のショート動画で「未来は自らの手で切り開くもの」みたいなポジティブなメッセージを1億回再生させた。同じ「名前を見かける」でも、文脈が真逆なのだ。
1999年の都知事選では石原慎太郎が告示2週間前に突然出馬表明してボロ勝ち、負けた側からは後出しジャンケンでズルいとまで言われてたくらいなので、後付けの理由はいくらでもつけれる
石原慎太郎の知名度の話と党名変更の話は全く別だ。石原慎太郎は芥川賞作家で国会議員を25年やって運輸大臣もやった人間で、出馬表明が2週間前だろうが「石原慎太郎」という名前の認知度は盤石だった。中道改革連合の問題は、候補者の知名度ではなく、投票用紙に書く「党名」が変わったことにある。中道に投票したい奴は比例代表で「中道改革連合」「中道」と書かなければならない。この新しい党名が有権者に浸透していたかという話をしている。書いた奴はそのときなんかひっかかる感じがしなかったか? 実際、中道は比例で42議席しか取れていない。石原の話を持ち出すなら、石原が「慎太郎」から突然「太郎慎」に改名して2週間後に選挙に出たようなものだと思ってもらえればいい。
これは正直、相当鋭い指摘だと思っていて、事実関係だけ整理すると、中道の基本政策は公明の西田幹事長が「公明党の考え方をベースに協議した」と認めている通り、ほぼ公明主導で作られている。安保法制は「違憲部分の廃止」→「合憲」、原発は「ゼロ」→再稼働容認、憲法改正論議も容認。立憲の看板政策がほぼ全部ひっくり返っているので、「180度曲げた」という表現自体はそこまで大げさではない。
ただ2点。
まず、それは中道に入れない理由にはなっても、自民に入れる理由にはならない。安保法制合憲への転向に怒った層の行き先は共産・れいわ・棄権であって、自民ではないだろう。とはいえ、比例代表の結果を見ると、共産は4議席(前回から半減)、れいわは1議席(前回の9議席から壊滅)で、リベラル票の受け皿として機能したとは言い難い。票が流れたのはむしろ参政党(15議席)やチームみらい(11議席)のような新興勢力だ。
もう一つ、安保法制が合憲に変わったとか原発ゼロが消えたとかを認識して投票行動を変えた有権者がどれだけいるのか。中道の動画は最多100万回再生、綱領の全文を読んだ人間はさらにその何分の一かだろう。この与太話の趣旨は「大半の有権者は政策の細部ではなく印象で投票先を決めている」という話なので、あなたのような政策転換の中身を精査して投票先を変えた人は正しいかもしれないが大多数ではないだろう。
「全部、自分たちで転んでいる」は言い過ぎだった。高市旋風、電撃解散、自民党のSNS戦略のうまさ、小選挙区制の構造、後付けでいくつも外部要因は書ける。
でも中道は負けた理由を外部に求めちゃだめだぞ。「高市人気には勝てなかった」「独特の空気に左右された」「時間が足りなかった」、全部他責だ。「自分たちは正しい」と訴え続けた政党が選挙のたびに議席を減らしつづけた例を直視してほしい。
続き https://anond.hatelabo.jp/20260210195337
Permalink |記事への反応(21) | 19:11
百合子と蓮舫の一騎打ちだったはずなのに、蓋を開けてみれば蓮舫は石丸とかいう地方から出てきた謎の人物にすら負けたじゃないか。
あの時に辻元清美が「もう通用せえへんのかな」って反省してただろ。
でも結局、あれから何度もチャンスがあったのに、左派が全然反省しなかったから、今回の衆院選で自民党が大勝しただろ。
#蓮舫流行ってる とか #ママ戦争止めてくるわ とかのやつね。
タグ芸をやる人達は知らないだろうけど、タグ芸ってかなり賛否両論別れる行為だよ。
アイドルのファンダムがよくやるんだけど、タグ芸やりたい派とタグ芸はキモい派で常に喧嘩してる。
タグ芸は、推しがコロナになって大きい仕事に穴を開けてしまったときとか、MVの再生回数が何百万回いったときとか、所属事務所の創業者が地獄にいるのに現世でも死刑になったせいで仕事がなくなったときとか、そういう大きいトピックがあったときに発生しがちだ。
声のデカいオタクが「#〜 ってハッシュタグをつけて気持ちを推しに届けよう!」って言い出して拡散していく感じ。
一方でそういうタグ芸が同調圧力だったり、エモの押し付けっぽかったりとかして、タグ芸に批判的なオタクも結構いる。
ただ、タグ芸好きな人はタグ芸好きな人同士でつるむし、タグ芸嫌いな人はタグ芸嫌いな人同士でつるむ(というかタグ芸キショいという話題で愚痴垢が盛り上がる)から、両者が分かり合うことはない。
オタクのファンダムですらタグ芸ってかなり危険な手段なのに選挙でタグ芸なんかやったら、身内以外からどう見られるか。
一旦立ち止まって考えた方がいい。
普段タグ芸を叩いてるオタク達は左派のタグ芸を見ただけで引くだろうし、非オタの無党派層にだってタグ芸が響くかは怪しい。
政治は推し活じゃないって言うけどさ、もう手遅れで政治は既に推し活文化に取り込まれてるんだよ。
高市早苗の名前うちわも、大椿ゆうこの名前うちわも見かけたからな。
その中で立ち回りが上手かったのが自民党とそのファンダムだったという話。
自民党支持のけーぽペンとか、共産党支持のジャニオタとか、趣味と党派性が一致してないオタクもいない訳ではないが、好きな若手俳優が学会員だから自分も学会に入ろうとするオタクが出現したりもする(大方、二世信者に止められるが)。
また、自分自身もそんな熱狂の中にいることを時折省みるべきなのである。
そして、熱狂している自分というものが、他者からどう見えているかも考えてみるべき。
その「薄っすらキモい人」が発信している情報というのが、他者からどういう風に受け取られるかを、たまには立ち止まって考える必要がある。
流行ってると勘違いしてるのはそのコンテンツが好きな人同士だけで、界隈の外から見たら内輪で盛り上がってる変なコンテンツでしかない。
「○○気になってたけど変なファンが多いから近づくの止めた」と言われないように。
政権批判をするなとは言わないが「我々が述べているのは誹謗中傷ではなく真っ当な批判」という言い訳は、菊池風磨のアンチと同じことを言っていると気づいて欲しい。
ただでさえ悪口と批判の区別がつかない人が多い中でこんな言い訳をするなんて、高市さんのアンチだ!とレッテルを貼られても仕方がないのだ。
そして自分が熱狂しているコンテンツが流行っていないことを自覚し、謙虚に振る舞う。
正しさでだけでは、人は動かないのだから。
中道改革連合の惨敗をうけて、野田代表は「万死に値する大きな責任だと思っている」と述べた。
「戦前と同じ状況が日本で続いているとしたら、戦前と同じ状況が日本で起きるでしょう」みたいな話をわざわざにAIつかって長々とさせたな。
今回の衆院選における自民党の大勝(というより高市氏個人への熱狂的支持)を見て、山本七平が『空気の研究』で指摘した日本人の意思決定プロセスにおける脆弱性が、2026年の現在も全く変わっていないことを再確認した。
政治的立場の左右は問わない。問題なのは、政策の是非や実現可能性(ロジック)よりも、その場の「勢い」や「全会一致を求める圧力」(空気)が優先され、理性的判断が機能不全に陥る構造そのものだ。
この構造的欠陥の分析と、個人がその影響下から脱して理性的判断を取り戻すための具体的な方法について記述する。
日本社会において「空気」が論理を凌駕するのは、以下の3つのプロセスによる。
特定の対象(人物、スローガン、危機感など)に対して感情的に強く同調(臨場感を持つ)することで、対象を客観的に観察する能力が著しく低下する。
「なんとなく頼もしい」「変わりそうな気がする」という主観的感情が、「過去の事例に基づけば成功確率は低い」という客観的事実よりも上位の判断基準として処理される。
一度「空気」が醸成されると、論理的な反論やリスク指摘は議論への貢献ではなく、集団の進行を妨げる「異物」として認識される。
「空気」に従って決定された事項は、失敗した際に「あの時は仕方がなかった(そういう空気だった)」として処理される。個人の判断ミスとして記録されないため、反省と修正が行われない。
この状態から脱却し、理性的判断を行うための唯一の方法は、対象と自己を切り離す「対象化(客観視)」である。
具体的には、自身が感じている高揚感や危機感が、外部環境(メディア、SNS、周囲の人間関係)からの情報によって生成された「反応」であることを認識し、その反応自体を観察対象とする必要がある。
「自分はこの政策を支持している」ではなく、「現在の社会状況と情報の流入により、自分はこの政策を支持したくなっている状態にある」と再定義するプロセスだ。
社会全体の空気を変えることは不可能に近いが、個人がその支配から逃れ、合理的な行動を選択する手法はある。以下に3つのアクションを提示する。
メディアやSNSから流れてくる情報は、「事実(ファクト)」と「解釈(ナラティブ)」が混合している。これを意識的に分離する。
判断の根拠には事実のみを使用し、解釈はノイズとして除外するか、参考程度に留める。
あらゆる政策や意思決定にはメリットとデメリット(トレードオフ)が存在する。「空気」はメリットのみを強調し、デメリットを見えなくする作用がある。
これに対抗するため、強制的に「失われるもの」「コスト」「リスク」を書き出す。
「積極財政」という言葉に対し、即座に「金利上昇リスク」「円安進行の可能性」「将来世代への負担」という負の要素を書き出し、利益とのバランスを冷静に比較する。
重要な意思決定(投票、投資、キャリア選択など)を行う際、情報に触れた直後の「感情が高ぶっている時」に判断を下さないルールを設ける。
情報を取得してから最低24時間、あるいは数日間の「冷却期間」を設け、その後に再度論理的な検証を行う。
「空気」は日本社会に深く根ざした構造であり、完全になくすことは難しい。しかし、その性質を理解した上で、個人の領域において対策を講じ、自分自身を制御することは可能だ。
ユーザーが感じた「かなしい」という感情は、過去の自分を否定された痛みではなく、**「自分自身の感性が、取り戻せないほど現代に最適化されてしまったこと」**への自覚ではないでしょうか。 anond:20260208164950
この話は順風満帆な経験談ではない。限界集落で嫁がブチギレ、深夜の田舎道を脱走、警察沙汰。最悪の関係を経験した男の話だ。 (「女の激情型」クソダリィと当時は思った。この表現は許してくれ)
俺の読者には男性が多いだろうから、存分に味方してやりたいところなんだが、結論を言う。
原因の90%は男性側にある。
世の中には「ダメ夫」コンテンツが溢れ返っている。妊婦たちはそれを武器に「やっぱり男が悪い」と自信満々だ。憎たらしい。 男側の視点で書かれた情報を探しても、ほとんど見つからない。
だが、10ヶ月を経験した俺の結論は「男側に問題がある」だった。
残酷な話なんだけど、世の中の問題が解決しない最大の原因は、事実を認識できず、自己正当化バイアスに浸かって相手の悪いところばかり探すことにある。俺自身がそうだった。
これを事前に知っていれば、どれだけ楽だったか。だから、伝えたい。
構成はこんな感じ。
価値観なんて全て合うはずがない
1.価値観なんて全て合うはずがない
冷静に考えてみてくれ。いくら愛し合っていても、生まれ育った数十年は全く違う環境だ。その過去の経験が今の価値観を作っている。完全に一致するわけがない。
ここで多くの男がやる失敗がある。 「価値観をすり合わせよう」とすることだ。
違う。価値観は「すり合わせる」ものではなく「広げる」ものだ。
相手の価値観を否定せず、自分の世界を広げる材料にする。これができないと、妊娠中どころか、一生喧嘩し続けることになる。
男側のよくある意見
「俺だって仕事で疲れてるのに、帰ったら不機嫌な顔されても困る」
「何が不満なのか言ってくれ。察しろは無理だ」
「同じことを前はスルーしてたのに、急にキレるのはなんなんだ」
女側のよくある意見
「私は24時間この体で逃げ場がないのに、あなたは外に出られていいよね」
「言わないとわからないって、ずっと一緒にいて何を見てたの?」
ここで残酷な事実を言う。 男には、どんなに想像しても、体の負担は絶対に理解できない。
つわり、腰痛、眠れない夜、胎動による内臓の圧迫。24時間、逃げ場なし。 俺たちはそれを「大変そうだね」としか言えない。想像の限界がある。
だからこそ、「どっちが正しいか」で争っても意味がないんよ。そもそも、同じ土俵に立っていないんだ。
問題は「正しさ」じゃない。「どう向き合うか」だ。
ここが核心だ。
男は「今」で評価する。今日ゴミを出した。今日優しくした。今日家事を手伝った。 だから「俺はちゃんとやってる」と思う。
女は「総合」で評価する。 この1週間、この1ヶ月、付き合ってからの全期間。 積み重ねた不満、言わなかった我慢、全てが蓄積されている。
男が「今日は頑張った」と思っても、女の帳簿には過去の負債が山積みになっている。 この評価軸のズレを理解しないと、永遠に噛み合わない。
ここで起きる負のスパイラル
男:「俺は稼いでる。だから十分貢献してる」 女:「稼いでるのは1項目。家事は?育児は?私への気遣いは?」
男:「今日はちゃんとやったのに、なんで不機嫌なんだ」 女:「今日だけじゃない。この3ヶ月の積み重ねの話をしてる」
男:「何が不満か言ってくれ」 女:「言わなきゃわからない時点で、見てないってことでしょ」
噛み合わない。永遠に。
「それでも満足して、幸せな家庭もあるじゃないか」と言いたい人もいるだろう。 残念ながら、それは精神年齢が遥かに高く、子供を守ることが第一優先の彼女らが「諦めている」だけだ。
@minatoku_genkai
·
ある程度成功してる経営者に共通して大いなる勘違いしてることがひとつある。
お金持ち
=それだけで旦那(彼氏)レベル10点満点中7点くらい行けてると思ってる
これ、俺的には大いなる勘違いで、お金持ちであることは五角形の1項目に過ぎないことを忘れている。
さらに表示
経営者に多い勘違いがある。 「稼いでる=旦那レベル高い」と思ってること。
違うんよ。稼いでるのは五角形の1項目に過ぎない。家事、育児、家族サービス、全部が横並びの項目だ。
「俺は稼いでるから」は、女の総合評価では1項目のプラスでしかない。 他の4項目がマイナスなら、トータルでマイナスだ。
家事をやらないのは、仕事で借金を抱えてるのと同じ。社会がどれだけ賞賛する人間であっても、お金をたくさん稼げたとしても、部屋を散らかして家事を投げ出した場合、大きな意味では「借金のあるニート」がたくさん家事を頑張っていることと変わらない。
そう気づけるかどうかが、分かれ道になる。
ここまで読んで、「じゃあどうすればいいんだ」と思っただろう。
まず、大前提を思い出せ。妊娠はとても幸せだという事実を忘れるな。
妊娠は奇跡だ。できなくて苦しむ人も多い。 これから可愛くて仕方ない天使と暮らせる。 今はその幸せの準備期間だ。
多少、相手にイライラを感じても、この状態が途轍もない幸せであり、さらなる幸せに向かうための準備だと思え。
より良い父親、母親になるために価値観を広げる準備。 楽せず楽しめる人間性を獲得するための準備。 そう捉えろ。
一方的にやってると、バランスが崩れて、相手が図に乗るから嫌だ。 そう思うこともあるだろう。
じゃあ聞く。子供にも同じことを思うのか?
そして、相手を変えることなんてできない。 ただ、どんなに図に乗る人でも、たくさんのことをやってもらったら人は変わるものだ。
自分が器を広げ、変わり続けることが大事。 (男にこれは期待できないがw男はどんどん図に乗ってあぐらをかく)
自分の器を広げること
@minatoku_genkai
·
結婚の決め手はなんだったの?って聞かれること多いけど、いつもこう答える。
みんなが欲しいのは条件とかなんだろうけど、人を条件で選ぶ。と言うこと自体が一番器が小さい状態だと思うんよ。
さらに表示
結婚の決め手を聞かれたとき、俺はこう答える。 「自分自身が器を広げて豊かになること」
条件で相手を選ぶ。相手に変わってほしいと思う。 それ自体が、器が小さい状態だ。
相手の責任にするのではなく、自分を変えていく。 これしかない。
@minatoku_genkai
·
せっかく自由手に入れたのに、なんで制限してくるような人と結婚するの?って聞かれるんやけど、自由でいることは、そもそも幸せではない、「楽しい」と「楽する」を履き違えてるだけ。
さらに表示
「せっかく自由なのに、なんで制限される結婚をするの?」 そう聞かれることがある。
答えはこうだ。自由でいることは、幸せではない。 「楽しい」と「楽する」を履き違えてるだけだ。
俺みたいな自由奔放な人間を制限できるパワーがある人といるほうが、一歩後ろを歩く人より、一緒にいて面白いに決まってる。
できることはなんでもしろ
大変なことは百も承知だ。俺が自分の無能さを自覚して行動した結果を見て学んでくれ。全然足りないと思うが、あまり人に感謝を伝えるタイプじゃなかった妻が毎日ニコニコ「ありがとう」と何十回も言うようになった。
@minatoku_genkai
·
俺は港区時代、今の妻と同棲中にも関わらず毎日朝まで飲みに行っていた。
当時は仕事だと正当化していたが、全て最高到達点の高い理想を実現できた方が絶対に良いと完全に気持ちを切り替えた。
さらに表示
幸せも、自由も、責任も、全て自分の手の中にあることを忘れないで生きたい行きたい。
そして、家族が誇れる、自分が誇れる魅力的な人間とは、常に理想を高く持ち、そのために変化を恐れずに行動し、葛藤を抱え、悩みながらでも前に進み続けることができる人ではないだろうか。
まとめ:俺が10ヶ月で学んだこと
稼いでるのは五角形の1項目。他の項目も上げろ
これを実行したら、警察沙汰から、途轍もなく幸せな夫婦生活になった。
変われない自分に言い訳してる時間があったら、一緒に行動しよう。
いろんな邪念がまだまだよぎるだろうが、より高い理想を目指そう。より良い父親、旦那を目指そう。高い理想には大きな痛みも伴うが、それでこそ楽しい人生だし、魅力的な人生なんじゃないだろうか。
もしこの記事を読んで、少しでも参考になったという人は引用などでより多くの人に届けてほしい。そして、各々のパートナーにシェアしてほしい。
まだ未婚の方はブックマークで保存を推奨する。
未だにこういうタグが大手を振るうのを見るに、女は今でも自分のために意見を言う事を許されず
子供や夫に仮託しないと発言できないんだと暗澹たる気分になるな
フェミニストの女性スペース保護運動も、中高年女性が自分自身の権利を主張する事はよしとされず、
「私はおばさんだからいいけど若い女性は~」「大人はいいけど女児は恥ずかしいから~」と、常に若い女性・女児のために発言する事が求められる。
いや、1990年代には一時期、そういうのが許されるような空気があったんだけどね
スレイヤーズの主人公リナとか、女が自分の意思で自分のために生きる事をポジティブに描いて肯定的に受け入れられていたし。
ところが今世紀に入って2、3年でバックフラッシュが進み、今じゃすっかり揺り戻しが完了したって感じ。
まあ、母性的と喩えられるような「他人のため」であっても、ナイチンゲールやマザー・テレサ的な博愛思想ならば問題ないと思うんだけど
「ママ」だとあくまで自分の身内可愛さから出てくる主張だからなあ。
「減税」合戦、その先は自己責任社会でいいのか 奪い合わない選択は
NPO法人POSSE代表理事・岩本菜々=寄稿2026年2月7日 9時00分
だが、こうした状況に対して、社会の多くの人は無関心である。それどころか、権利を要求する生活保護受給者をたたき、切り下げを積極的に支持していくような雰囲気すらある。こうした世論があるからこそ、国が司法の判断を軽視することが可能になっていると言ってもよいだろう。物価高騰にともなう社会全体の貧困化は、賃上げや社会保障の拡充要求へと向かうのではなく、むしろ「自分たちの生活を守るために他者を切り捨てる」という意識を広げているように思われる。
これを象徴するのが、現在行われている選挙で各党が掲げる「減税」合戦である。たしかに減税を行えば、多少なりとも手取りは増えるかもしれない。しかしその結果として社会保障が削減されることになれば、よりいっそう自己責任が強化された社会が待っている。
昨今の選挙では、外国人が社会保障に「ただ乗り」し、日本人の納めた税金を奪っているという主張や、高齢者の医療費負担が若者の生活を圧迫しているといった主張が人々の共感と支持を得ている。
私たちはこのまま、自分の生活を防衛するためなら他者を切り捨てることもいとわない、冷たい社会へとつきすすんでいくほかないのだろうか――。本稿では生活保護切り下げや「減税」合戦がもたらす現状を分析し、そこから抜け出す可能性を考えていきたい。
上がり続ける物価、夏場は生きるのがつらい
いま、私が代表を務めるNPO法人POSSEも含む支援団体で行っている生活相談会では、生活保護受給者からの相談が急増している。全国の支援団体や弁護士が連携し年3回開催する「なんでも相談会」の埼玉会場では毎回食料配布を行っているのだが、この2年ほど、生活保護を受給している人が食料を求めて列に並ぶことが増えてきた。
たとえば、25年春の相談会では、生活保護費と年金で生活する80代の夫婦が、朝早くに訪れた。2人は、生活保護費が足りず、食事を十分に取れずに痩せ細っていた。特につらいのはエアコン代のかかる夏場だという。電気代を払うと食費が足りなくなってしまうため、1日1食、安いせんべいを買って水に溶かして食べて空腹をしのいだり、コッペパンを3等分して食べたりして乗り切った。妻は、ひと夏で体重が4キロ落ち、夫はレタスもかめないほど衰弱してしまったという。
生活保護費が足りずに亡くなったと思われる方も出てきている。生活保護引き下げ違憲訴訟の集会では、生活保護を受ける当事者から「エアコンが使えず、生活保護を受給していた仲間が熱中症を発症して亡くなってしまった」という報告を、昨年だけで2回聞いた。亡くなったうちの1人は東京に住む女性で、もう1人は神奈川で生活保護裁判の支援もしていた男性である。
5年ほど前までは、失業した人や、病気で働けない人も、生活保護につなげばなんとか命を守ることができた。だからこそ、相談会でも「生活保護につなげる」ことが一つの目標だった。しかし、生活保護の減額が維持されたまま、物価が上がり続けていることで、生活保護を受けても生存が守られなくなりつつある。
セーフティーネットが十分に機能しない社会では、生活を維持するためには、ひたすら自己責任で働き続けなければならず、ひとたび病気になったり、高齢により就労が難しくなったりしたら、途端に死への恐怖と隣り合わせになる。その残酷さを、日々現場で実感している。
選挙で繰り広げられる「減税」合戦は、こうした状況に拍車をかけている。この数年は、減税による「現役世代の手取り増」が焦点化されてきた。この主張は、一部の政党の公約では、外国人や高齢者などへの社会保障削減と表裏一体の形で展開され、人々の支持を集めてきた。
たとえば、国民民主党や日本維新の会は、現役世代の保険料負担を軽減すると同時に、高齢者の医療費負担の引き上げを公約に掲げている。さらに、参政党は「終末期における過度な延命処置に高額な医療費をかけることが国全体の医療費を押し上げる要因の一つとなっている」として、尊厳死の法制化を公約に掲げているほか、外国人への生活保護の支給停止も訴えている。
大胆な減税への要求と、「税金を食い潰している」として高齢者や外国人などを攻撃する排外的な主張が支持を集めるなか、高市政権下ではすでに、様々なセーフティーネットの切り下げが検討されている。たとえば厚生労働省は、高額療養費制度の見直し案として、所得に応じて27年夏までに自己負担の月額上限を7~38%程度引き上げる案を提案している。さらに25年12月には、維新と自民党が、市販薬と成分が似ているOTC類似薬について、約1100品目について25%の患者負担増とすることで合意した。
減税合戦がエスカレートすればするほど、「次は誰を切り捨てるか」ということが問われ、不断に排除と分断が生み出されていく。
なぜなら、法人税増税、富裕層増税などが実現されないまま減税によって貧困を克服しようとすれば、「では、どの支出を削るのか?」という問いは避けられないからだ。そうした構図の中で、排除の線引きが、「外国人労働者」「高齢者」「難病患者」など、様々な形で引かれていく。
この構図を見て私が想起したのは、21年に大流行したNetflixドラマ「イカゲーム」だ。
様々な理由で多額の借金を抱えた貧者たちがデスゲームの会場に集められ、賞金を目当てに殺し合いをさせられるという物語。死者が増えるたびに生存者に割り当てられる賞金の額が増えるため、参加者たちは、自分自身や自分の家族を守るため、「自主的」にゲームに参加し、参加者同士で裏切り、殺し合う。その様子を、上から超富裕層が楽しげに見物しているが、ゲームの参加者は彼らの存在に気がつかない。
限られた財源の負担と配分をめぐり、人々は他者を排除し、少しでも自分の取り分を得るという競争に巻き込まれてしまっている。今の日本の政治状況は、まるで「イカゲーム」の世界がそのまま現実になっているかのようだ。
多くの人が、他者への分配を減らすことで減税を実現することが、自分の生活を防衛する唯一の方法であると思わされてしまっている。しかし、本当にそれしか方法はないのだろうか。「イカゲーム」ではシリーズの後半、主人公が参加者を説得して味方につけ、ゲームの主催者に闘いを挑むことで、ゲームそれ自体を終わらせようとする。
他国に目を向ければ、現実の世界でも、社会の99%を占める労働者が連帯し、富を独占する1%に闘いを挑むことで、富と貧困が同時に拡大する社会にNOを突きつけ、誰もが生存可能な社会をつくろうとする試みが広がっている。
たとえば、25年の米ニューヨーク市長選では、イスラム教徒で移民であるゾーラン・マムダニ氏が当選した。彼は、富裕層への増税を行い、その財源で幼児教育の無償化・市営バスの無料化・家賃の値上げ凍結などを実現するという主張を掲げ、貧困化する労働者層の支持を得たのだ。その背後には、若い世代を中心とする10万人近くの選挙ボランティアによる、地道な個別訪問による説得があった。ボランティアらは、生活苦のなか、敵対の構図は「白人労働者」vs「移民労働者」などではなく、「99%の貧しい労働者」vs「富を独占する1%の富裕層」なのだと、有権者に語りかけたのだ。
こうした動きは、アメリカ全土で広がりを見せている。25年10月にあった「NOKINGS(王はいらない)」デモは、「NOKINGS NO BILLIONAIRES(王はいらない、富裕層はいらない)」をスローガンに掲げ、主催者発表によると全米で700万人を動員したという。
労働組合を結成し賃上げを求める闘いも広がっている。アメリカのスターバックスでは、550店舗で働く約1万2千人が労働組合に加入し、CEOが平均的な労働者の6千倍近くの報酬を得ていることを批判し、賃上げを要求している。さらに、ニューヨーク市の複数の私立病院では、26年1月12日から看護師計約1万5千人がストライキに突入した。現場となった病院の一つでは、CEOが年間でおよそ2630万ドルもの報酬を受け取っていた。看護師たちは、賃上げや人員の確保を要求し、現場で働く労働者と地域住民のために富を使うよう経営陣に迫っている。
日本でも26年2月2日、減税合戦が繰り広げられる選挙戦のただ中で、「非正規春闘」の開始宣言が行われた。これは、労働者が様々な差異を乗り越えて連帯し、利益を分配しない企業や富裕層に対抗していくという世界の運動の流れをくむものだ。
今年の非正規春闘では、非正規雇用労働者を組織する35の労働組合が、160社、10自治体に対し賃上げを求める方針だ。日本企業がため込んでいる利益である内部留保が過去最高となる一方、社会を支えるエッセンシャルワーカーは低賃金でこき使われている。こうした状況に対抗するべく、10%以上の賃上げを求めて非正規労働者らが連帯し、交渉を始めたのだ。
記者会見には、保育士・語学講師・飲食店アルバイト・出版流通で働く労働者など、会社・職種・国籍の垣根を越えた非正規労働者たちが集まり、非正規雇用労働者全体の底上げを求めていく決意が語られた。
貧しい者同士の分断があおられ、誰もが目先の手取りに関心を奪われている日本社会で、仲間とつながり、賃上げや社会保障の拡充を求める連帯を地道に広げていくというのは、困難な道のりかもしれない。しかし、こうした取り組みを広げていくことが、誰もが手取りの減少におびえ、生活苦が進むほど財源の負担をめぐって互いを蹴落とし合うという絶望的なゲームから抜け出す唯一の方法だと、私は思う。
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