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「肺結核」を含む日記RSS

はてなキーワード:肺結核とは

2025-05-07

anond:20250507113739

出血箇所が肺胞かどうかはさすがに知らんけど、肺や気管支から出血して口から吐き出すのが喀血やな

んで、肺結核が進行すると喀血はそれなりに起こるらしいで

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anond:20250507111517

肺結核なので喀血吐血)は一般的な症状の一つやで

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2024-10-13

名作といわれるドラマおしんをみたので感想を書く その4

https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く

おしん物語根底を流れているのが、「恩」であり「仁義であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語ハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。

今回は、物語類型としての「おしん」をみてみたい。

流浪するおしん股旅物としての評価

おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしん1901年昭和天皇と同年に生まれた設定である

そしておしんが生きた少女時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治回想シーン時代を一気に2世代くらい遡るときタイムトリップ感が半端ない

1983年おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的大手スーパーへの並木土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店隠居の大旦那並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである

それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。

おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである

おしんと人の縁

おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどいしかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語類型ひとつで、一宿一飯の義理人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人やくざなどが主人公である股旅物の元祖長谷川伸は、その後の日本小説戯曲、そして映画テレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である明治が遠く過ぎさり、大衆大正デモクラシー自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である

おしん回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことな股旅であるしかし、おしん物語面白いところは、浪花節陳腐化し、古臭いものになってしまった現代1980年代)と交差している点である

キーワード加賀屋への恩】

並木浩太とおしん最初出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋加賀屋奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売イロハから茶道裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしん人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命うんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動活動家・浩太と出会った。酒田訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初出会いであるおしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシー時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動先進的だと中身もわからず憧れていたのである農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動ロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしん小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋奉公へ行く決心をしたのであるいかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである

ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心最初からおしんが好きだったのである

おしんは加代の家出理由加賀屋に伝えることが忍びなく、おしん加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしん女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さら実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。

一方、加代は、浩太の心がおしんしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。

キーワード日本髪結いのおたかへの恩】

こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしん東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結い師匠たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。

しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである

大衆身分から解放され、より自由髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかおしん独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚挨拶たかを訪れたとき言葉である。その時、5人いたたか弟子はついにたった一人だけになっていた。

田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代おしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である

一方、田倉商店開店休業状態に陥るほど経営悪化していたが、おしん髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たか相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店再生が進んで、おしん洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災おしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである工場火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀ゆっくり休みたかおしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄佐賀編がスタートすることになった。

さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしん佐賀地獄から脱出を心ひそかに誓い、東京師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのであるたかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしん絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。

こうしておしん流転の人生が始まる。屋台出店からまり故郷山形酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである

キーワード:浩太の恩】

浩太の実家貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢実家網元のひさの家であった。浩太は、流浪人生を送るおしんを見かねて、伊勢網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄酒田の飯屋をやってきたおしんめし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。

伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしん魚屋をやる決意をしてくれ、おしん人生好転し始めていた。

一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代苗字も変えなかった。

一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。

田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望兄弟のように母おしん魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。

屈折10年、陶芸師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。

股旅物を取り込んだ現代劇~義理人情は古臭い観念かという現代人への問いか

さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ1983年の場面)に戻りたい。

仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。

ここには、自ら築き上げてきたスーパー廃業も辞さなおしんの思いは、長谷川伸の「夜もすがら検校」で大切な琵琶を燃やしてまで恩に報いたい思いと通じるものがある。

ドラマ構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしん戦後現代にいたる高度経済成長おしん自身義理人情を忘れてしまたことに気が付く、というメタで重層的な構成であるおしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパー事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしん問題17号店開店当日、失踪する。この世話物時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である

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2022-08-25

anond:20220824200743

昔の文学には無かったどころか、まんま大正から昭和初期の文学じゃん。

口語記述という新しいツールを手に入れて、社会が大きく変わり行く中で内省を描く。ポップでスタイリッシュサンチマンタリスム。切腹ダサい。服毒、情死、肺結核

本人たちが真剣にやっている試みを表面だけ掠めとって食い物にするこういうやつらこそ死んで欲しいが、感性が先に死んだから自分の醜い姿も見えないんだよな。

Permalink |記事への反応(1) | 08:24

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2022-08-12

白血病結核は「美人薄命」、糖尿病は「怠惰デブ」という差別

日本糖尿病患者の増加が深刻なのって絶対

糖尿病」という病名から来るネガティブイメージすなわち「怠惰デブ」というスティグマ故に多くの人達が診断を怖れて発覚が遅れるせいというのが大きいだろうに

政府医療関係者個人への生活習慣改善や通院を促すばかりで絶対にそれは改めようとしないのが凄い

糖尿病の「怠惰デブイメージとは真逆で、白血病結核は寧ろ「美人がかかる病気」「美人薄命」という美しいイメージがあるよな

夏目雅子白血病でなく糖尿病で死んだら悲劇のヒロインとして記憶される事はなかったろうし、沖田総司肺結核だったか悲劇美少年イメージがついたんだろう

如何に致死率が高くとも、白血病結核にはネガティブイメージは皆無でそれどころか「美人薄命」の美しいイメージがつくので

病気にかかった人達はどんどんカミングアウトするし世間もそれを応援する

病気自体が辛いとしても、その扱いが正直羨ましい

Permalink |記事への反応(1) | 08:29

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2022-02-21

世界名作劇場強さ議論

世界名作劇場の中で一番高い戦闘能力を誇るキャラクターって誰なんだろう

傭兵アルムおんじ?

スターリングボクシングを教えた黒人

冒険野郎マクガイバー並みのサバイバル能力を持つ医者エルンスト

大人を一撃で倒すジョバンニと肺結核を患いながら互角に渡り合う最後最後まで作中最強の戦闘能力を隠してた羊の皮を被った獅子アルフレド?

増田世界名作劇場詳しそうな人多そうだからネット上でもう増田ぐらいでしかこういう話できない気がするので投稿

Permalink |記事への反応(7) | 20:42

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2021-11-10

anond:20211110093504

痰壷

詳しそうなのでもしわかれば教えてクレメンス

昔、学校病院、駅、劇場などあらゆる公共の場には痰壷と言うものが設置されていたらしい。

字を見るだけでも気持ち悪いのだけど、街中で痰を吐いて捨てるためのものという。

自分子供の頃の1990年代には駅にそんなものがあったようや微かな記憶があるけどそれが何なのか認識していなかったし使ったことはない。

なんでそんなもの存在たかと言うと、ここのページに書いてあったのだけど、

http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/blog-entry-1601.html

昔の人は土埃とかがあったのであたり構わず唾を吐く人がいて、肺結核を予防するためにそれではいかんということで、ここに吐きなさいという入れ物を作ったよう。

一応、衛生状態改善する目的があったんだね。

それで洗面所通路鉄道客車の床には痰壷が埋め込んであったらしいんだけど、人前で堂々とぺっとやるのとかちょっと想像がつかない。

狙って吐いても外して周囲に被害を及ぼしてそうだし、みんながやってたら結構な頻度でそれを掃除する仕事もあったはずでかなりキツいものがある。

明治時代法律で設置が義務付けられて驚くことに2005年までは法律規定があったそう。

ということなんだけど、自分経験がないし話にも聞いたことがないので、みんなそれを使ってたのかとか、どんな感じだったのか知っていたら教えて欲しいです。

Permalink |記事への反応(3) | 13:01

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2021-09-04

オラ、美しい日本偉人白人コンプにワクワクすっぞ!

福沢諭吉

人種改良を推進し、脱亜入欧を唱える。中国人朝鮮人を「豚」と呼んでいた。日本近代化西欧化に多大な貢献をする。

アメリカ人少女テオドーラアリスと一緒に撮った写真家宝にし常に周囲に人々に見せびらかしていたという。

新渡戸稲造

アメリカ人女性結婚国際連盟事務次長ジャンヌ・ダルク尊敬していた。

野口英世

アメリカ人女性結婚エクアドル共和国陸軍軍医名誉大佐

出国後、二度と日本には帰らなかった。

夏目漱石

イギリス留学中、黄色人種である自分容貌の醜さに苦しみ神経衰弱

本当はイギリス女性結婚たかった。

樋口一葉

日本女性である自分の醜さを悟り許婚者の求婚拒否肺結核のため25歳で死去。

死に際の床でも来世は白人女性に生まれることを願っていたという。

Permalink |記事への反応(2) | 10:05

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2020-03-28

anond:20200328064226

世の中には新型コロナインフルエンザ以外の多くの病気がある。

肺炎だけでも何種類もあるし、肺結核という病気もある。

Permalink |記事への反応(2) | 07:02

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2019-03-20

偉人たちの白人コンプレックス

福沢諭吉

人種改良を推進し、脱亜入欧を唱える。中国人朝鮮人を「豚」と呼んでいた。日本近代化西欧化に多大な貢献をする。

アメリカ人少女テオドーラアリスと一緒に撮った写真家宝にし常に周囲に人々に見せびらかしていたという。

新渡戸稲造

アメリカ人女性結婚国際連盟事務次長ジャンヌ・ダルク尊敬していた。

野口英世

アメリカ人女性結婚エクアドル共和国陸軍軍医名誉大佐

出国後、二度と日本には帰らなかった。

夏目漱石

イギリス留学中、黄色人種である自分容貌の醜さに苦しみ神経衰弱肺結核に陥る。

本当はイギリス女性結婚たかった。

樋口一葉

日本女性である自分の醜さを悟り許婚者の求婚拒否肺結核のため25歳で死去。

死に際の床でも来世は白人女性に生まれることを願っていたという。

Permalink |記事への反応(0) | 17:54

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2019-01-08

anond:20190108193123

父が抗生物質で命助かってるからなぁ(肺結核

いろいろ子供の私に来てるのかも。

周囲が静かだと、ずっと聞こえるよ。

お互い頑張りましょう。

Permalink |記事への反応(0) | 19:39

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2016-05-26

就活つかれた

うまく喋れなかったらもちろん落ちてるし、うまく話したと思っても落ちる。そしてそれまでその会社に費やした全ての時間と金無駄になる…。

つらい、どんどんつらい記憶が心に溜まっていく。そしてそれらの記憶はふとした時に記憶によぎり、自分を苛む。もともと人と会話した後、思い返して死にたくなる人間だ、面接の後はその比じゃない死にたさが待っている。

しかも人との会話は明確に結果が返ってこない(話がつまらないと面と向かって言われることは少ない、だからまだ希望を持っていられる)が、これは不合格という結果が突きつけられる。人間失格

しかも諦めるという道がない。諦めたら無職だ。それがやばいのは誰でも分かる。

しかし気力が追いつかない。常に頭の中では「安らかになりたい」と願っている。それは死の中にしかないだろうが、決して死にたいわけではない。安らかになりたいだけだ。

家に帰ると姉が「早く仕事をやめて結婚したい」と喚いている。就職している自分仕事を辞めたいと言っている姉の共存する皮肉

就活やめたい。自分よりもっと辛い目にあった人は沢山いるだろう、甘えと感じる人もいるだろう。だが自分ダメ人間なのでこれくらいでも弱音を吐いてしまうのだ。

家には要介護祖母がいる。家族で世話をしている。娘夫婦の金を勝手に使ったりする元々人間的に難のある祖母で、その実娘である母は嫌々世話をしている。齢90くらいだがまだまだ元気なようだ。といっても歩いたりは出来ないし、元々の性格が難があるので祖母友達家族もそのうち誰も積極的に会話しなくなった。インターネットは勧めたが食わず嫌いしてしまう。孤独に退屈そうに部屋で生きている。そんな姿を見ていると長生きというもの価値が見えなくなる。肺結核にでもなって30歳くらいで亡くなることができたらどんなに人生先のことも考えず気楽に生きれるか…。さすがに不謹慎が過ぎる意見だとは自覚している。

今日も自ら命を絶つ度胸もなくこの世を呪いながら生きている。疲れたなあ

Permalink |記事への反応(1) | 15:53

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2013-09-04

「臨床環境医」悪者にされ過ぎワロタwwww

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/NATROM/20130829%23p1

などで「臨床環境医」が一部の人から嘲笑と憎悪の対象となってるwww

ブコメを見てすぐ気づくけど、一部の「臨床環境医」ではなく、「臨床環境医」全般がその対象だ。

でも、「臨床環境医」って本当にそんな存在のん

シックハウス症候群マニュアル―日常診療のガイドブック という本がある。「日本臨床環境医学会」が編集した、この8月に出たばかりの本だ。厚労省科研費の報告書が基になっているという。

学会編集たからといって、即「学会会員一致した見解」とはならない(w)のはそうだけど、まあ現時点での臨床環境医で作る学会代表的な見解が述べられている、とみなして良いだろ。

また、これは「シックハウス症候群」についてのマニュアルであって、「化学物質過敏症」MCSを主対象とした本ではない。しかし、症状的にきわめて似たところもあって(ww)、臨床環境医がこのマニュアルに基づいて行うシックハウス症候群の診断が、化学物質過敏症についての診断と方法・考え方で大きく異なる、と思える人はいないだろう(とくに実際に読んでみれば)。

w 実際読んでみると、シックハウス症候群を「広義」でとらえようとする者と「狭義」に限定しようという者といて、やや不整合がみられる。しかし、強調しておくべきことは、学会編のこの本のトーンは「狭義」路線が採られていることだ。

ww そもそも用語のさす範囲が人、場合によって違うようだ。たとえば、http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20130902142408605 でいう「化学物質過敏症」は「狭義のシックハウス症候群」と呼んでも差し支えなさそうに思える。

全体で79ページの薄いマニュアルであるが、たとえば、その51ページには

すなわち、既存の疾患では説明できない患者場合、本症を疑うという側面もあり、除外診断を旨とすべきである

「除外診断を旨とすべきである。」 実際、全体の1/5の分量、「Ⅱ.診断の手順」内では半分以上にあたる16ページが「鑑別疾患」にあてられている。そのうちでもアレルギーは8ページ、中毒は非常に短いが、精神心理は4ページ、それに感染症3ページ。十分であるはいえないかもしれないが、とりあえず「臨床環境医」が、他の疾患との区別を重視していることは明らかだろう。

このように同じ建物の居住者に集団発生することがあるため、シックハウス症候群との鑑別上、肺結核症は常に想起されるべき疾患の1つである

だそうである

69ページ以下がQandAであるが、そのQ10専門医にご相談くださいという言葉をよく聞きますが、何科を受診すればよいですか」に対しては、症状部位によって、眼科、皮膚科内科

初めに受診するのがよい。これらの症状が複合的にある場合は、環境医学専門医受診を勧める。

とはっきり書かれている。

こういうことが「臨床環境医」の学会編集した最新の冊子に書かれている。

ちなみに60ページの「自然天然素材」という項では、スギヒノキなどのテルペン類に触れており、かつては筏で木材を流したりしてるうちに揮発した、昔と今では建物の気密性が違う、など、「天然素材から、昔もそうだったから」という主張を批判している。

くりかえすが、これが「臨床環境医」の団体が編集した記述だ。

こうしてみると、冒頭のブクマのように「臨床環境医」全体をひとからげにして非難する、というのはどう考えても2013年日本の実態に沿うものはいえない。

もちろん、いろいろと突っ込むところはあるだろう。当然だ。それは、1.この本の内容そのもの、2.実際の臨床環境医がここに書かれているような診断とかけ離れてことをしている、に二分される。ただ、2.についていえば、でたらめな診断をくだす医師は臨床環境医以外にもたくさんいるわけであり、「臨床環境医」全体を非難しようというのなら、当然それなりの定量的エビデンスが求められるだろう。 個別の例で非難することはできるが、それがどこまで敷衍できるのか示せるのだろうか。また、患者に向かって「あなた胃潰瘍主治医に言われているようだけど、胃癌ですね」と(とくにネット上で)安易に言うことができないように、主治医でもない人間安易に憶測を述べる危険もある。

ともかく、「現在日本の臨床環境医」についてが中心に論じられるべきなのは言うまでもない。

さて、冒頭のブックマークなどで「臨床環境医」全体を非難嘲笑している者と、「奇跡のリンゴ」という映画などでの「農薬」の扱われ方について批判していた者は、かなり重なるようだ。

農薬」については「40年前と今は違う、日本の基準は安全だ」と言いながら、「臨床環境医」については「昔も今も、外国日本もすべてひとからげにして非難する」wwww 空気を吸うようにダブルスタンダードを用いるニセ科学批判者の特徴がよく現れているwwww

Permalink |記事への反応(3) | 17:36

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2013-08-14

映画風立ちぬ」でのタバコの扱いについて(回答)

2013年8月14日

日本禁煙学会理事長 作田学 殿

映画風立ちぬ制作担当者 一同

映画風立ちぬ」でのタバコの扱いについて(回答)

2013年8月14日付け標記要望おいて、映画風立ちぬ」なかでのタバコの描写について苦言を頂戴しました。ご指摘のとおり、現在、我が国を含む177か国以上が批准している「タバコ規制枠組み条約」の13条であらゆるメディアによるタバコ広告宣伝を禁止していますしかし、参照を指示された別冊を拝見する限り、この条項はタバコ販売の広告宣伝を禁止しているのみで、本作品が条約違反ということには到底なりえません。

上記文書では、教室での喫煙場面、職場上司を含め職員の多くが喫煙している場面、高級リゾートホテルレストラン内での喫煙場面など、こと細かに列挙していただいております

特に肺結核で伏している妻の手を握りながらの喫煙描写を問題視しておられますしかし、夫婦間の、それも特に妻の心理を描写する目的で、この場面でタバコが使うか使わないかについては、表現の自由にかかわる問題であり、集団的な圧力製作者にかけることの問題点学会が十分認識されているのかはなはだ疑問です。

また「学生が『タバコくれ』と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙助長し、国内法の『未成年喫煙禁止法』にも抵触するおそれがあります事実、公開中のこの映画には小学生も含む多くの子どもたちが映画館に足を運んでいます過去の出来事とはいえ、さまざまな場面での喫煙シーンがこども達に与える影響は無視できません。」というご指摘については、「言葉狩り」ならぬ「表現狩り」に近く、NHK-BS等での過去実写映画の再放映についても逐一喫煙シーンをカットすべしというような、現代の映像焚書坑儒につながりかねません。

誰もが知らない無名学会ではありながら、有名医師や弁護士が名を連ねている貴学会表現の自由重要性を無視することはいかがなものでしょうか。研究者法律家社会的責任がいろいろな場面で取りざたされている昨今、貴学会におきましてもぜひ基本的人権の尊重をした学会活動をお願いいたします。

なお、このお願いは貴学会誹謗中傷する目的は一切なく、貴学会ますます繁栄し今後とも非喫煙者生活やす社会の構築に関わられることを心から希望しております

どうぞその旨をご理解いただき、学会活動にあたっては表現の自由の扱いについて、特段の留意をされますことを心より要望いたします。

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2012-08-20

 先日、私の祖母が亡くなった。85歳だった。

 

 祖母との思い出といえば、私が生まれてから成人するまでのおよそ20年間、元旦に直系の親族一同とともに正月祝いを行っていたことを思い出す。正月祝いと言っても、細田守の「サマーウォーズ」に描かれるがごとき祝祭的な性格のものというよりは、近況報告を兼ねて親族同士で気を使いあう儀礼的な色彩のつよいものであった。

 祖母には一人の息子と三人の娘がおり、息子が一番年長、その下に長女、次女、三女と続く女風上の一家で、この末娘が私の母である。四名とその家族が毎年元旦に祖母のいる実家帰省していたわけだが、態々そのような古臭いまりを続けていた理由は簡単で、いずれの親族実家から車で1時間以内の場所に住んでおり、集合するのが容易だったためである

 長男は、礼儀正しく気の優しい人で、奥方とも仲睦まじいが、子宝には恵まれなかった。長女は結婚してすぐ最初の孫――――私のいとこに当たる娘を産み、次女もまた結婚後すぐに娘を一人もうけたので、祖母からすれば、自身の若いうちから孫を抱いて可愛がる楽しみを得ることが出来た。私が生まれたのは次女の娘よりも5年ほど遅れてのことだったが、あとから母に聞いたところによれば、祖母にとっては初めての男の孫であったから、幼少時の猫可愛がりは尋常ではなかったということだった。現在を見てみれば、いい年をして結婚もせず、祖母の期待に沿う形には成長できなかったのだが。

 私に遅れて妹と弟がそれぞれ誕生したが、正月にはこれらが皆、映画のように広い日本家屋などではなく、昭和のごく平均的な一軒屋に集まるわけだから私たち孫の小さいころの祖母は片付けや食事作りなどにてんやわんやで、忙しそうに家中を動き回っていた。

 

 生前における祖母と祖父のおしどり夫婦ぶりは母や親戚から伝え聞いているが、その足取りは大抵のものではなかった。

 大正生まれの祖父は、呉服屋の息子で自らも商店を営んでおり、利発聡明と専ら評判の若者であったが、当時の男性としては体は丈夫なほうではなかった。そのためかは定かではないが、第二次大戦時もなかなか徴兵されることはなく、結局日本敗戦する直前になって突如として徴兵されることとなったという。

 終戦後、祖父は無事帰還したものの、兵役最中肺結核を患っており、生業である商売もままならず、しばらくは寝たきりの生活を余儀なくされた。戦後結核治療確立から一命はとりとめたものの、後遺症か定かではないが、原因不明の発熱と咳に生涯悩まされることとなり、商店経営にも難渋した。

 祖母は、看護学校卒業していたが(戦中、従軍看護婦になることを希望していたのかもしれない)、卒業後すぐに祖父と結婚したことから看護婦となることはなく、祖父の徴兵後は夫に代わって商店を切り盛りしていた。しかし、祖父の体調不良もあって戦後いよいよ先行きが怪しくなり、結局私の母が生まれて5年後に閉店したという。

 その後の祖母は、しばらく職を転々とした後、昭和42年ごろ、某市の市立病院看護婦となる。祖母にとっては、高校以来の看護業であり苦労は並大抵ではなかったというが、持ち前の剛毅さと天性の快活な性格ナース天職であったようで、中途採用者としては異例の副婦長の地位まで昇進したという。60歳で定年した後も、市内の私立病院嘱託職員として居場所を得、4人の子供を成人させ、病の夫を支え続けた。

 しかし、その祖父も私が5歳のときに癌で帰らぬ人となる。確かではないが、病室で遺族が泣き伏せる中、祖母は一度も涙を見せなかったと幼いころの私は記憶している。

 

 祖母との最後の思い出らしい思い出は、一昨年の夏のものである

 何とか就職が決まり自分の車を手に入れた私は、何を思ったか一人で先祖の墓を参りたいと考え、祖母に親類の墓地場所を尋ねに行った。その前の年、私の父が母と離婚しており、20年続いていた正月の集まりは中止されてしまっていた。祖母の顔を見るのは、同年の冬、祖母が初期の癌を患っていることが判明し、見舞いに訪れた病院以来であったと思う。これは治療により完治し、祖母は実家一人暮らしを再開していた。

 唐突に尋ねてきた孫に、祖母はメロンを振舞ってくれた。墓地場所を教えてもらい、私はひとり車を走らせる。天気は伸びぬけるような快晴であった。セミが絶息の声を漏らして、草だらけの殺風景墓所に風情を齎していた。確か、わざわざ花を携えて行ったと記憶している。

 墓めぐりが終わって、私はもう一度祖母の自宅を訪ねた。最近腰が痛くて食器の片付けに苦労するというので、洗物を手伝い台所の片づけをした。年季の入った炊事場の汚れを見ると、正月に走り回りながらおせち料理を拵えてくれた、祖母の苦労が感じられるようだった。帰り際に、祖父の眠る仏壇へ線香を立てた。

 帰り際、私を何事か心配そうに見つめながら、祖母は言った。

 「私はもう、長くない。私が死んだら、後のことは頼む」

 私は、何を言っているの、おばあちゃんは癌になったって死なない人でしょう、と言った。豪快な祖母のしおらしい一面を見て、私は意外に思いつつ、やや後ろ髪を引かれながら岐路に着いた。

 その2週間後、祖母は脳梗塞で倒れた。


 以後の祖母の容態は、芳しいものではなかった。脳梗塞からただちに生命の危機には至らなかったが、脳の神経が一部破壊されてしまったことから記憶の維持に支障が生じ、軽度のアルツハイマーの様相を呈していた。また、翌年の冬、恐れていた癌の再発が認められた。

 近年の病床の不足から、祖母は短期間の転院を繰り返し、結局地元病院(かつて勤務していた病院ではない)に落ち着いた。最後に会ったのは、今年の5月ごろであったと思う。もう、私の顔はあまりからなくなった様子であったが、お見舞いに来てくれているのはわかっているようで、こちらが手を振ると童子のように身振りで返してくれた。黒かった御髪はすっかり白くなり、顔も痩せて、さながらどこぞの聖人のようでもあった。母は週に一度見舞いに行っていたが、亡くなる前日までは、元気に呼びかけに応えており、当日は眠るように安らかに逝ってしまわれたという。


 通夜には、上述した親族はもちろん、各地に散らばっていた祖母の兄弟の他、長女の娘の息子と次女の娘の娘、つまり祖母にとっては曾孫に当たる二人も参列した。二人とも終始、お経が退屈で帰りたいとぼやいていたが、赤ん坊ときにまだ健全だった祖母に抱かれたことは記憶にないのだろう。

 私にとっては従甥・従姪にあたる二人の相手をしながら、私はかつてこうして祖母の実家で遊んでいた時代のことを思い出していた。辛櫃の前をずいぶん騒がしくしてしまったが、生涯をかけて一家を守ってきた祖母にとっては、たぶんこの光景が一番望んでいたことであったのだろう。


 おばあちゃん、生前は本当にお世話になりました。

 貴方は心から尊敬できる、偉大な女性でした。どうか、天国でも安らかに。

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