
はてなキーワード:聞き手とは
https://anond.hatelabo.jp/20251201041250#
最初の1文で間違えているよ。
https://anond.hatelabo.jp/20251201041444#
「ほんとだねー」
「おひるどうするー」
「うち社食ー」
一文やん
dorawiiより
https://anond.hatelabo.jp/20251201041615#
なんだこれ…
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最初の1文で間違えているよ。
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「ほんとだねー」
「おひるどうするー」
「うち社食ー」
一文やん
dorawiiより
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なんだこれ…
日常会話や世間話なら一人当たり一文。ほとんど一文ごとに話し手と聞き手は入れ替わる。
このやり方である限りにおいては先生と弟子があるテーマに沿って対話して一緒に学びを深めていくようなことにも当てはまることだが、話す順番は特に意識する必要はない。相手が聞いてきたことから答えればいい。
それは問いも答えも文章的には一文によってやり取りされることに関わっている。
これが二文以上を費やしてもっとまとまりのある情報を一度に伝えようということになる段階で文章の組み立てというものは意識される。
長い文章ほど推敲もしないで思いつくままに話したり書かれたりされても受け手はどんどん置いてきぼりになっていく。
やみくもに話したり書いたりしたとしても偶然話の組み立てとして最適解な順番になっていて推敲した時と同じ効果を受け手に及ぼすこともあるかもしれない。
むしろそれが偶然よりも高い確率で起こるようにするためにこそ推敲をするのだと考えるべきだろう。
ここまでのことを踏まえれば、結局逆に言えば挨拶や英会話のような単純な質問と応答のような世間話のような類をラインやネット上の掲示板でチャット感覚で行なうことにおいては、その文章は本質的には形式に囚われて文章と分類していても仕方がないのではないかということだ。
文章は他人の目に触れた瞬間それは解釈的に作者の手から離れるというが、まさかチャットで書き手が誤解されて誤解であることを釈明した後でも「お前の先の文章ではそう解釈できるんだからお前がどういう意図で書いたかは関係ない」とか言ったらただのキチガイだろう。
政治家が発言を撤回したならば撤回したという事実自体は受け入れられ、批判されるのだとしても「撤回するなら最初から言うな」といったような類であるのが健全であり、まるで撤回したことなど知らないかのように「なんであんなことを言うの」と言い続けるのが異常とみなされることに対応する。
また一般的な文章では同じ言葉は極力使うべきではないという考え方があるようだがチャット的な単なる意思疎通のための文章では別にそのようなこだわりは求められていないと思う。
これも音声での対話でも同様に同じ言葉を何度使おうが全く気にしないのと対応している。
そもそももし我々が声帯も手も失ってしまったら何が望まれるだろうか。
脳から口を動かしたりキーボードを叩くときの命令が検出されたらそれに対応した人工音声の再生なり、ネットを対象としているなら端末への文字の入力なりが望まれるのではないか。
ネットを対象をしてなくて対面でもあえて胸元にiPadみたいな液晶をぶら下げておいてそこに言葉を発しようとする時の脳の命令に対応する文字が出てくる仕組みを望む人もいるかもしれない。
いずれにせよこうやって考えてみると、音声のときと文字の時とで文章かどうかの扱いが変わってしまうという考え方には本質を欠いた印象を受ける人も出てきているのではなかろうか。
しかし現行の考え方では人工音声か胸元に文字が表示されるいわゆる筆談形式をとっているかというだけで文章という呼称を適用すべきかの判定をしていることになる。
増田というある種の仮想空間においても我々は喉を潰され筆談を強制されているようなものだ。
筆談する障がい者の表現は全て「文章」力という尺度によって評価されるべきなのだろうか?現に「口下手」だった後天的啞が筆談でコミュニケーションを取っている場面でその巧拙が考察される場合、おそらくそれは会話という捉え方で分析されるように思えるし、このような場での表現の巧拙をやみくもに全て文章力と呼んで処理する傾向は腑に落ちない。
dorawiiより
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それでも趣味とか普段何やっているか聞かれるので、回答を用意しておく必要がある。
趣味の中でも具体的に本やゲームならタイトルや内容、釣りやスポーツなら場所や頻度を細かくメモしなければならない。
面接みたいな感じで嫌になってくる。
というかね、大して興味無いのに人に趣味を聞くな。脈絡ないのに聞くな。
人をイジるなその場をイジれと。
その場で「この店前にも来たことある?」からの「どこに住んでいるの?(家近いんだっけ?)」と聞くのはわかる。
いきなり「どこに住んでいるの?」と聞くのは違うだろと。ヤリモクか?
それで、期待外れの回答だった場合にすぐ「趣味とかある?」と聞くのやめろ。ヤリモクインタビューか?
いきなり私を知ろうとするなと、その場から私を知ってくれと。
文を書いているうちに考えが変わったけど、自分会話が苦手なんじゃないわ。
よかった。
はてサは、その場で相手を言い負かすことで満足してしまって本当にいいのだろうか。
そもそも言い負かしでは、聞き手の態度硬直を招くなどして理解も広がらない。
そうなれば相手が納得することもまず無いし、出目が悪いと傍目にイジメに見えさえもする。
ましてやシーライオニング(納得も共感もないまま質問攻めを続ける消耗戦術)のような、
「言い負かすためだけ」の詭弁や不毛なテクニックはいくらでも存在するわけで、
ああいう手合いに晒されれば、言い負かされた側がそのまま耳を塞いでしまうのは当然だ。
だからこそ、知恵あるものとして理知を誇る聡明なはてサ諸氏には、ぜひ期待したい。
――高市政権の誕生が予感されていた10月上旬、「初の女性首相が誕生するかもしれない、と聞いてもうれしくない」とSNSに投稿されましたね。どのような趣旨だったのですか。
「初の女性○○が事件になる時代は、とっくに終わりました。女なら誰でもいいという時代では、もうありません」
「たとえば女性知事は00年以降これまでに全国で7人誕生しており、首都にも初の女性東京都知事(16年就任)がいます。それらの中にはフェミニストが支持する知事もいたし、しない知事もいました」
――性別で評価するのではなく、個々人の政策や姿勢を見て政治家を評価するべきだということですか。
「その通りです。もし選択的夫婦別姓制度を推進しようとする女性政治リーダーが誕生したとしたら、フェミニストはもっと歓迎したでしょう。それは、弱い立場や劣位に置かれがちな女の声に、積極的に耳を傾ける政治だからです」
「選択的夫婦別姓に反対しており、政策的には、ジェンダー平等への流れをせき止めようとした安倍晋三政権のコピーのような感じです。フェミニストが歓迎する理由はありません」
――とはいえ、国政のトップに初めて女性が就任したこと、それ自体にはやはり意味があるのではないでしょうか。
「世界にはすでに様々な女性政治リーダーがいますが、彼女らは『女性だから』という理由で選ばれたのではありません。また英国初の女性首相はマーガレット・サッチャー(1979年就任)でしたが、私の知る限り、英国のフェミニストでサッチャー政権誕生を歓迎した人はいません」
「2016年の米大統領選で民主党のヒラリー・クリントン候補が『初の女性大統領』になりそうに見えたときでさえ、英国のフェミニストは冷静でした。女がトップになれば希望を持てるという単純な話ではないことを、歴史の教訓として知っていたからです」
「女性政治家に関するこれまでの調査からは、政治家は男女を問わず、ジェンダー政策よりも所属政党の政策を優先する傾向があることがわかっています。女なら誰でもよいとは、もはや言えない時代です」
――高市首相はサッチャー元首相を「憧れの人」だと公言しています。
「サッチャー首相は、市場原理主義的なネオリベラリズム改革をした保守革命の推進者です。優勝劣敗の原則に基づく弱者切り捨ての論理で、福祉を縮小しました。また、南半球にまで軍を送ってアルゼンチンとのフォークランド紛争を戦った武断政治でも知られます。つまり、強さを追求した政治家でした」
――サッチャー氏は「鉄の女」と呼ばれていたことでも知られていますね。
「社会学の理論によれば、少数派が多数派集団に食い込んでいこうとするとき、多数派よりも多数派らしくなる傾向があります。過剰同一化と呼びます」
「サッチャー首相に対しても当時、フェミニストから、男以上に男らしくふるまう傾向が指摘されていました。この理論は、高市首相を含めた今の自民党の女性政治家の多くにもあてはまると私は見ています」
「男並みになろうとか強者になろうとしなくても、女が尊重される。そんな社会をつくる政治の誕生を期待しています」
上野千鶴子さん
うえの・ちづこ 1948年生まれ。東京大学名誉教授(女性学)。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。「アンチ・アンチエイジングの思想」「家父長制と資本制」など著書多数。
日本銀行は30日の金融政策決定会合で、6会合連続で利上げを見送った。米国の関税政策の影響をなお見極め、高市早苗新政権ともコミュニケーションを図っていく考えだ。一方、高市氏が後継を自任する安倍晋三・元首相の経済政策「アベノミクス」を理論面から支えた浜田宏一エール大学名誉教授はいま、利上げを主張している。大規模な金融緩和を唱えていたリフレ派の経済学者が、「必要なのは金融引き締めだ」と訴えるようになったのはなぜか。詳しく聞いた。
「最大の問題は物価が上がり続けるインフレの放置です。『物価の番人』である日銀はなぜ、利上げをためらうのでしょうか。円安も是正されず、交易条件の悪化で日本人は輸入品を高く買わされる一方、外国人が『安い日本』を買いたたいているような状況を見過ごせません。国民を苦しめ、国家の基盤を揺るがす事態です。金融引き締めが必要です」
「状況が違うのだから、対応が変わるのは当然です。暑ければ冷房を入れ、寒ければ暖房を入れる。ケインズいわく『事情が変わったのに意見を変えない人は愚か者だ』と。第2次安倍政権でアベノミクスを始めた2013年初頭は1ドル=80円台で、製造業はコストカットに追われ、物価が下がり続けるデフレが問題でした。今は1ドル=150円台、インフレ、人手不足で、状況が正反対です」
――物価上昇率は日銀の目標の2%を3年6カ月上回っています。ただ、原材料など供給側のコストプッシュが主因で「一時的」として、日銀は慎重に利上げを進めています。
「国民は一時的だと思っていますか。3%のインフレも3年続けば10%。人件費や家賃なども上がり始め、デフレマインドも変化しているはずです。1970年代の石油ショックや、コロナショックも供給側を起点としたインフレでしたが、実際に価格が上昇すると、需要曲線も上がるのです。『一時的』と見ていて、利上げが後手にまわった例は少なくありません」
「確かに日本では少子高齢化による需要の弱さや、デフレへの逆戻りに懸念もあるのでしょう。ただ、もしそれらが表面化したら、また利下げすればいいのです。日銀は昨年夏の利上げ直後の株価急落がトラウマなのかもしれませんが、政治や市場の反応を過度に恐れて、正攻法である金融引き締めができないようなら日銀は要りません。今すぐ利上げをするべきです」
――高市首相の「金融政策の責任は政府にある」との発言をどう評価しますか。
「同意します。政治家には『難しい』といって日銀に任せきりにしたがる人もいましたが、それではダメです。金融政策は景気や物価、雇用に直結する重要な政策です。私たちが大規模緩和を主張したのは、変動相場制になって以降、米国の金融緩和が円高を通じて日本経済を冷やす構造に、日銀が対応できていなかったからです」
「一方、日銀は膨大な経済データを駆使する金融政策のプロ集団で、政策手段を巧みに操作できるため、その独立性は極めて重要です。だからこそ、政府と日銀は互いの立場を尊重しつつ、よく意思疎通するべきです」
――車利用者の家計を助けるガソリン旧暫定税率の廃止はどう考えますか。
「対症療法にすぎず、筋違いです。インフレの影響は年金生活者や勤労者だけでなく、利上げ時に価格下落リスクを負う株式投資家など国民全体に及びます。国民全体の物価上昇を抑えることが重要で、ガソリン利用者の負担だけを軽減するのは不十分。ガソリンが安くなれば車の利用も増え、かえってインフレを強めかねません。減税は本当に困っている人を助けるよりも、結果的に国民全体の負担を重くする恐れがあります」
「そう単純ではありません。インフレによる税収増は景気の過熱を緩やかにする役割があり、経済学では『自動安定化装置』といいます。バラマキ的な財政拡張はインフレを強めかねません。逆にデフレや不況の時には借金してでも財政出動が必要です」
――アベノミクスは課題もあったと思いますが、いま再設計するならどうしますか。
「第2次安倍政権では雇用を約500万人増やし、デフレ脱却の土台となりました。ただ、賃金や生産性、男女平等では課題も残しました。いま必要なのは『量』ではなく『質』の向上です」
「アベノミクス第3の矢の成長戦略は不十分でした。高市首相が掲げる官民による危機管理投資や成長投資は大いに期待します。特にデジタル分野では、米国や中国のようにデジタル技術で世界規模の付加価値を生み出す力を持たなければなりません。そのためには、記憶力偏重の教育から脱し、議論を通じて創造性や独自性を伸ばす教育も欠かせません」
経済政策の「正解」とは?
――経済政策に「正解」はあるのでしょうか。
「私は過去に重いうつ病を患いました。外から見ていると、医者は病の治し方を完璧に知っているように見えますが、実はそうではないようです。経済政策も同じで完璧な答えはありません。それでも、物価高に苦しみ、『安い日本』と呼ばれる現状に自信を失っている国民にとって、いま本当に必要なマクロ経済政策は何なのか。私は経済学者として考え続けたいですし、高市政権の閣僚も考え抜き、議論を重ね、最善の政策を実行してほしいと願っています」
浜田宏一氏の経歴
はまだ・こういち 1936年生まれ。米エール大名誉教授、東大名誉教授。専門は国際金融論、ゲーム理論。第2次安倍晋三政権で内閣官房参与を務め、アベノミクスの理論的支柱とされた。著書に「21世紀の経済政策」(講談社)や「うつを生きる」(文春新書、内田舞氏との共著)など。
YouTubeの積読チャンネルの「中世ヨーロッパはなぜウソだらけなのか?#100」の回
https://www.youtube.com/watch?v=nRWu0LhEwD0
を見てたら、
堀元見(向かって左側の人)が「オウム真理教地下鉄サリン事件って平成か昭和かわかります?」みたいなことを言い出して、
聞き手の人も「え、どっちだろう?」みたいなリアクションしてて
「無茶苦茶な事件だから昭和っぽいなと思いがちなんだけど実は平成なんですよ~」みたいに
さも意外な事実かのように言ってたのでめちゃくちゃびっくりした。
いやいや。
(てか、堀元見って「若い人」でいいのだろうか? 調べたら今33歳らしいが)
1995年は平成7年だから全然ギリギリ平成か昭和かみたいなラインではないし、
(昭和かなぁってなるのってせいぜい平成2・3年あたりまでじゃない?)
そもそもこの1995年というのは阪神大震災が起きた年と同年なので
「阪神大震災とサリン事件」を当時の大事件として記憶している人が多いと思うけど、
彼らは同年ということも覚えてないってこと?
まぁ、とはいえ、40代以上の人だと当時のニュース等の記憶があるから覚えてるし、(自分は40代)
逆に20代以下の人だと教科書に載ってるはずだからそれを習うだろうし、
あとは堀元見が北海道出身なので、サリン事件の報じられ方も関東とは違うのかもしれない。
いや別に日本のどこにいようと大ニュースに変わりはないと思うが、
「あの満員電車で毒ガスが!?」と実感を伴って認識できるかできないかの違いはあるだろうし。
- 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
- 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
- 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
- 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
- どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
- 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
- その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
- 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
- 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
- スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
- 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
- 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
- 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
- 羊頭狗肉。
- わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
- わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
- ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
- ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
- 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
- 「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。
DX(デジタルトランスフォーメーション)のインフルエンサーが「説教臭い」と感じられる背景には、いくつかの理由が考えられます。
DXは、企業や組織の「変革」を促すテーマであり、現状の課題を指摘し、新しい行動や考え方を推奨する内容が多くなりがちです。
そのため、「今のままではダメだ」「変わらなければ生き残れない」といった強いメッセージが多くなり、それが聞く側にとっては「説教」のように聞こえることがあります。
多くのインフルエンサーは、DXの重要性を広く伝え、知識やノウハウを共有する「啓蒙」や「教育」の役割を担っています。
専門的な内容を分かりやすく、かつ危機感を持って伝えるために、断定的な表現や指導的な口調になる傾向があります。
自身の成功事例や、変革を成し遂げた事例を紹介する際、「このようにすべきだ」「これが正解だ」という口調になりやすいです。
これは聞き手にとっては「それができない/していない自分」を責められているように感じられ、「説教」と受け取られることがあります。
DXに関する情報は非常に多く、その中で目立ち、影響力を持とうとするために、強い言葉や極端な表現、あるいは「正論」をあえて振りかざすスタイルを選ぶ人もいるかもしれません。
もちろん、これはあくまで一般的な傾向の分析であり、すべてのDXインフルエンサーがそうだというわけではありません。受け取り手の立場や、そのインフルエンサーの語り口によっても印象は大きく変わります。
「なんか面白いこと言って」という発話を語用論的に分析するには、文の表面的な意味(直示的意味)と、話し手の意図や文脈によって推論される意味(含意・発話行為・会話の含意)を分けて考える必要があります。
⸻
1. 直示的意味(literal meaning)
• 文の表面上の意味は、「何か面白い内容を言ってください」という依頼の命令文に近いものです。
• 「なんか」=曖昧な指示詞、「何かの」意味(カジュアル・曖昧)
• 「言って」=発話行為を求める命令形(ただし、柔らかく使われている)
⸻
Searleの発話行為理論に基づくと、この発話は以下のように解釈できます:
•実質的には「話を盛り上げてほしい」「場を和ませてほしい」といった娯楽的または関係構築的な依頼。
•聞き手が笑う、話を続ける、話題を変える、などの効果を狙っている。
⸻
3. 会話の含意(Conversational Implicature)
Griceの会話の公理(協調の原理)に基づくと、発話者は以下のような含意を持っている可能性があります:
• 量の公理:
•情報は足りていない(「なんか」という曖昧な言い方)→受け手に裁量を委ねている。
• 「いまここで面白いことを言うべき状況だ」と暗に伝えている。
•曖昧にして、直接的な命令を避けている(「面白いことを言ってください」ではなく「なんか…」と曖昧化)。
この含意は、しばしば冗談半分の軽い依頼であり、場の空気を読むことが求められる。
⸻
Brown & Levinson の理論に基づけば、この発話は聞き手の負のポライトネス(freedom toact)をある程度脅かす依頼にあたるが、以下のような戦略で緩和されている:
• 「なんか」や「面白いこと」などの曖昧な語彙で距離を取ることで、親密な関係性の中で成立するカジュアルなやりとりに見せかけている。
⸻
• 友人同士の気軽な会話なら:
• 緊張した場面で言われたら:
• →空気を和らげるための緊急依頼
• →能力を当然視している含意もあり得る(=フェイスを脅かす)
⸻
まとめ:語用論的分析の要点
公明党の斉藤鉄夫代表が14日、朝日新聞のインタビューに応じ、自民党との連立政権離脱の経緯と今後の対応を語った。「石破政権だったら離脱はなかったと思う」とした上で、選択的夫婦別姓の導入をめぐり「自由に動いていきたい」と強い意欲を示した。
(略)
「人事ではない。基本姿勢を問うている」
――自民の裏金問題に関わった萩生田光一氏を幹事長代行から外す人事が仮に行われていたら、離脱の判断はどうなっていたか。
変わらなかったと思う。萩生田氏の話は聞いていない。党首会談の際に自民の鈴木俊一幹事長が「不記載問題で我々の人事が」という話をされたから、「私たちは人事のことを言っているのではない。基本姿勢を問うている」と返した。
その後、「これから起こる不祥事に対しては厳しく対応する」とも言われた。自民側は裏金問題は決着がついていると考えていると感じた。
――夏の参院選で大敗後、続投表明をした石破茂首相を斉藤氏は「支える」と述べていた。仮に石破政権の継続なら離脱はなかったか。
石破政権では自公と立憲民主で3党党首会談もやった。石破茂首相は企業・団体献金の問題に非常に積極的な姿勢をとっていた。政権が続いていたら、新たな政策協議もなかったわけで、連立離脱はなかったと思う。
(略)
https://digital.asahi.com/articles/ASTBG4FS0TBGUTFK004M.html
進次郎構文の特徴は「当たり前のことを、あたかも新発見のように言う」「言葉のループで聞き手を混乱させる」ことなので、「ワークライフバランス」にも応用できます。
1.ワークライフバランスって言葉がありますけど、仕事と生活のバランスを取るってことなんです。
バランスを取るということは、バランスが崩れることもあるということなんです。
2.ワークライフバランスを大事にするということは、仕事だけでもないし、生活だけでもないということです。
3.ワークライフバランスがあるからこそ、仕事が生活にならないし、生活が仕事にならない。
これがワークライフバランスなんです。
4.ワークライフバランスって英語ですけど、日本語にすると「仕事と生活の調和」なんです。
つまり、それがワークライフバランスなんです。
進次郎構文の特徴は「当たり前のことを、あたかも新発見のように言う」「言葉のループで聞き手を混乱させる」ことなので、「ワークライフバランス」にも応用できます。
1.ワークライフバランスって言葉がありますけど、仕事と生活のバランスを取るってことなんです。
バランスを取るということは、バランスが崩れることもあるということなんです。
2.ワークライフバランスを大事にするということは、仕事だけでもないし、生活だけでもないということです。
3.ワークライフバランスがあるからこそ、仕事が生活にならないし、生活が仕事にならない。
これがワークライフバランスなんです。
4.ワークライフバランスって英語ですけど、日本語にすると「仕事と生活の調和」なんです。
つまり、それがワークライフバランスなんです。
――かけた時間に対する効果を示すタイパ(タイムパフォーマンス)という言葉がよく聞かれるようになりました。そのひとつの現象として倍速視聴があります。
僕ね、実はやりますよ。ニュースはそれで見ているんです。ずいぶん長くやっているんですけれど、夜7時のニュースを30分そのまま見るのは、かったるくてね。全部録画して1.3倍とかで倍速視聴しています。リアルタイムで見ると、時間がもったいない。けちなのかもしれないけれど。
名古屋の生まれで、中日ドラゴンズのファンです。野球の試合って今、長いんですよ。年間約140試合、全部録画して、その日のうちに見る。ここは大事というところはそのまま見て、それ以外は倍速でという風に分けるんです。
低成長で余裕なき社会、生き抜くためのタイパ Z世代あおる大人たち
筋金入りの倍速視聴派だという鈴木さんは、ジブリ映画について「倍速しにくい作品」と言います。その理由は――。「トトロ」「ハウル」「千と千尋」など、名作の舞台裏を交えて語ります。
どう時間を盗むか
――なぜ、そうやって見るようになったのでしょう。
18歳のときに読んだ本が面白くてね。「時間」について書かれていた。時間というのは2種類あり、「社会的な時間」というのが24時間。それとは別に「自分の時間」がある。人がストレスを感じるのはどういうときか。「社会的時間が、個人の時間を搾取するとき」と書いてあった。これは面白かった。
――現代にも通じるような話ですね。
そう。だから、搾取されちゃ駄目だと思ってがんばってきた。自分の時間をとにかく大事にしよう。それは思っていました。
割と強いかもしれない。社会的時間がどんどん流れていても、自分のもう一つの時間があるでしょう。大事なのはこっちに決まっている。だからといって、それを大事にすると1人よがりになる。その闘いですね。
――朝日新聞の連載「タイパ社会 豊かな時間はどこに」の取材をするなかで、「自分の時間」という言葉は、いろんなところから聞こえてきました。
映画ってまさに「時間と空間」ですよ。どう時間を盗むか。だから時間をどう使うのかに対して関心が強い。
――倍速で映画を見る人がいることは、ジブリの映画制作で意識されているのでしょうか。
それは関係ないですね。映画のつくり方って二つしかない。一つはストーリー主義。もう一つは、表現でみせる。
つまり、倍速で見る人たちはストーリーを知りたい。映画って、本当はどっちをみているんですかね。ストーリーか、表現か。
シンプルなストーリーにして、表現を豊かにしてもらう。これがベテラン監督への要求ですよ。ところが、若い人にはなかなかできない。若い人にはストーリーを複雑にして、そこで面白さを保証し、つくってもらうというこの方法しかない。
だから、宮崎駿は「表現」の人ですよ。僕ね、宮さんに怒られたことがあるんです。「となりのトトロ」はいい例で、「単純なシンプルな話」と言ったら、宮さんが怒っちゃってね。「俺がどれだけ苦労して考えたと思ってるんだ」と。
時間を操る宮さん
――「ジブリの最大の魅力は表現」だと本で書かれていました。表現自体も変わっていないのでしょうか。
変わっていないです。だからジブリの作品は、そういう意味でいえば、倍速をしにくい作品。だってそこを速くしちゃったら、おもしろさが半減するんだもん。スピードが出ないように、いろいろやりますよね。だから、お話の複雑さだけでみせるものだったら、僕は速く見ても全然かまわないと思う。
宮崎駿の作品はすぐ横道にそれる。でもそこで結構面白いことをやっている。そこが目に焼きついて、この話は何だったのか忘れちゃうわけでしょう。でもそこに大きな特徴がある。
だから、お客さんの時間を奪っているんですよ。でも観客は「奪われた心地よさ」があるわけです。多分そういうことじゃないかな。
たとえば、「千と千尋の神隠し」。千尋が不思議の町へ潜入して、お父さんお母さんが豚になっちゃう。その後、千尋という名前を奪われて、働かなきゃいけなくなるっていうところまで、40分くらいかかるんです。その40分間の時間の流れと、それ以降の時間の流れが違うんです。
要するに名前を奪われるまでは、あるテンポで丁寧にやっている。ところが、名前を奪われた後、突然、速くなるんです。僕の知る限り、1本の映画の中で、時間を操る人はなかなかいない。
「ハウルの動く城」についてのエピソードもあります。宮さんは大体、ワンカットが平均すると5秒。でも、実際にフィルムになったときは、絵コンテには5秒と書いているやつが8秒とか9秒になる。
映像の試写で、ワンカットの中の時間が違うと気がついた。いまの調子でつくったら、2時間と思っていた映画が4時間になっちゃう。
悩んだんですけどねぇ。「宮さん、いつものよりカットの秒数長いですよ」と僕が指摘した。そうしたら「どういうこと?」って。宮崎駿という人はすごい人で、全く気がついていない。天才なんですよ、やっぱり。
その後、宮さんがどう言ったか。いまだに忘れられない。開き直って「主人公がばばぁだからね、時間がかかるんだよ」って。
――すごい切り返しです。
そう、切り返しがすごいんですよ。
で、さぁどうするかでしょう。そうしたら宮崎がね、ここでぱっと切り替える。それまでワンカット8秒、9秒だったものを、4秒台にするんですよ。それで、次から次へと、できてくるものが短くなってくる。最初、丁寧に長かったやつが、途中でぽんぽんぽんぽんとテンポが良くなる。
ぼくはあきれたんです。だってこんな監督いないもん。普通の映画監督って、1本の映画の中での時間の流れをすごい大切にするわけです。それを無視ですよ。
「こいつ覚えてる?」
――宮崎さんの初期の作品から、つくり方としては変わっていることはないんでしょうか。
だんだん自由になってきたよね。良く言えば自由です。でも、本当にいい加減だなって。なんでこの人はこうなんだろうか、考えざるをえなかった。だから僕は、時間とか空間に興味を持たざるを得なくなるわけです。
――プロデューサーという立場は結局、どこかで折り合いをつけて、つじつまをあわせなきゃいけない。
だから言わなきゃいけない。「宮さん、これワンカットが倍になってますけど」と。
「そんなことないよ。おれはそんなことするわけがない」と言っても、僕が「じゃあ絵コンテを見せろ」と言うんです。
――かけひきですね。
本当にそうですよ。そこが面白いですけどね。
これまた「千と千尋の神隠し」。千尋が名前を奪われた後、「この後どうするかを考えた」と宮さんが言ってきた。
千尋はまず名前を奪った湯婆婆(ゆばーば)をやっつける。ところが、湯婆婆には、もう1人のお姉さんの銭婆(ぜにーば)がいて、こいつが湯婆婆よりも強靱(きょうじん)な敵だった。千尋とハクは力を合わせて銭婆をやっつける。「どうかな?」って。
ちょっと大変だなと思いました。普通の映画だと、敵をやっつけたら終わり。たいがい1時間半から2時間かかる。それをお姉さんがいたってことで、もう1回話を立ち上げて、やらなきゃいけないでしょう。
「映画は3時間になりますね」と宮さんに言ったら「やだよ俺。どうしよう」と言うんです。
でも、ここがすごいんですよ、あの人。「ちょっと待って」と言い出して、5分後に「こいつ覚えてる?」と、カオナシの絵を描いて見せてきた。その時まで、カオナシはちょっと出てくるくらいの大したことないキャラクターで、僕は覚えていなかった。
でも宮さんは「こいつにしようよ」と言って、あの話をつくり上げた。カオナシが千尋に喜んでもらいたい一心で金を出したり、金に群がってきた者たちや食べ物を食べてふくれあがったり……。その後、千尋と一緒に銭婆のところに行って、カオナシは銭婆のところにとどまることになる。この物語を5分で。これも、時間の問題から生まれたものなんです。
だから時間の問題は、もう日々の仕事の中で、ものすごい大きなテーマです。僕は「自分の時間が大事」と言いながら、一方で、社会的時間の流れというのをすごい気にしている。(映画を見た)みんながどう思うかというのは、そちらにあるわけだから考えざるを得ない。作品がどれだけの長さになるか、監督がわからないなら、僕が考えなきゃしょうがないでしょう。
最新作、構想から7年
――鈴木さんは学生時代から、「少ない労力で大きな成果を出す」というマインドをお持ちのようです。一方、ジブリ作品の制作は、とても「少ない労力」とは思えません。時間や手間暇をかけて予算がオーバーしたり、制作期間が延びたりしたこともありました。
だって効率がいいものは売れないもん。効率が悪いものがお客さんは好きなんです。「風の谷のナウシカ」の時からそうです。
――ナウシカの漫画連載にあたって、鈴木さんが宮崎監督から3種類の絵を見せられ、どれにするか選ぶお話がありました。一つ目はすかすかな絵で、これなら1日20枚書ける。二つ目はそれよりもう少し複雑で、1日4~5枚。三つ目は緻密(ちみつ)なタイプで1日に1枚描けるかどうかというもの。鈴木さんは緻密なものを選ばれたと。
だって、すごい絵だったんですよ。実際、それが漫画になっているんですけど、時間とお金をかけたものは、結局やっぱり、いろんなものを生み出してくれる。ちょこちょこやったものは生み出してくれないんです。
――最新作「君たちはどう生きるか」の制作も長い時間がかかっていますよね。
2016年の7月かな。宮崎がこんなものをつくりたいと書いた。そこからです。
――タイパ重視の世界では、短い時間でいかに大きな成果を出すかが問われます。
それを感じないようにしないといけないですね。その「短い時」が10年という時もある。だって今作ってる映画もね、そういうことでいえば、考え始めてから本当に7~8年かかったけど、短いと思いますよ、僕は。
そういうことでいえば、ものすごいコストパフォーマンスいい作品ですよね。見たらびっくりしますよ。こんなものをつくったのかって。ぼくがびっくりしていますから。本当はもっと時間をかけたかった。人間ってね、待たされたほうが幸せなんですよ。
無駄は嫌いです。いたずらに時間を使うのは好きじゃないから。それは有効に使いたい。
――鈴木さんの言う「無駄」は、かける時間の長さじゃないんですね。
関係ないですね。新聞記者には「時間を無駄に使いなさい」と言いたい。そのほうがいい新聞ができるに決まっている。
記者は勉強する時間がなければ、いい記事ができないじゃない。そのためには、あっちみたりこっちみたり。そういうことでしょう。
――ぐさぐさ刺さります。最新作は7月に公開ですが、時間に追われている感覚はありませんか。
自分でそうならないように努力しています。それはもうずっとやっていました。
――最新作の内容について、東宝の会見では「ファンタジー作品」という発言もあったようですね。
内容ってね、ぼく今回ね、あんまり言うつもりないんです。みなさんが楽しもうと思っていることを奪うわけじゃないですか。それは奪っちゃいけないです。
ポスター1枚だけでいいんじゃないか、と言ったんです。宮崎はすごい喜んでくれた。彼が描いた絵です。本当は全体があるんですけど……。あ、これ以上言うとまずいですね。
――最近出版した本の最後に「『君たちはどう生きるか』のさらに次の映画の企画もたてている」と書いてありました。
宮崎はつくりたいでしょうね。今回の最新作で世に問うて、いろんな評価があると思いますが、それを聞きながら、次になにをやるか、本人は考えるんでしょう。僕は「これでやめてくれ」とは、もう言いません。言ったって言うことをきかないんだもん。
https://digital.asahi.com/articles/ASQDY438JQDSUTIL00C.html
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https://digital.asahi.com/articles/AST9L31JNT9LULFA00KM.html
片岡剛士氏 50点
植田氏は就任前、前任の黒田総裁の下での大規模な金融緩和に批判的な目を持っていたと思う。マイナス金利政策は「副作用」が出かねないので、早くやめるべきだと考えていた節がある。
就任して1年ほどは動かなかったが、2024年3月に大規模緩和を転換し、同年7月に利上げした。だが、経済はそれほど力強いものではなく、この判断は拙速だった。
今年1月にも追加利上げに動いたが、日本経済の動向からすると、必要なかったと考える。
日銀にとって幸運だったのは、食料やエネルギー高に由来するコストプッシュ型の物価上昇が長引き、物価の勢いが止まらなかったこと。そして日本人の多くが、今後も物価は上がっていくと思い始めたことだ。日銀の政策が成功したというより、「結果オーライ」だった。
しかし、政策金利が0.5%を超える次の利上げはそうはいかない。何十年も実現していない領域だ。拙速に利上げすれば、動き始めた賃金と物価のサイクルが止まってしまう。日銀は、経済動向がどうなれば利上げするのか、具体的なコミットメント(約束)を示すべきだろう。
物価目標を日銀だけで実現するのは難しい。日銀は財政出動を含め、政府の役割についても発信するべきだ。財政拡大によって需要が増え、その下で物価が上がる。それに対し、日銀が適度に利上げしてそれを抑えていくのが理想だ。
お前ら、会話をただ受け流して満足してるんじゃねえぞ。会話とは剣戟だ。相手の一撃をまともに受け止めたら、その時点で負けだ。頭の中で次の一閃を構えて、いつでも相手の言葉を弾き返せ――それが真の会話術だ。
相手が「今日は天気がいいですね」なんて軟弱なつかみをしてきたら、「そうですね、紫外線のスペクトル波長が430ナノメートルを越えると人間のメラニン生成が活性化しますが、それでも晴れの日のほうが心理的ストレスは低減するんですよ」くらいに返せ。晴れという凡庸な命題を一瞬で専門分野に変換して、相手を動揺させろ。
「最近忙しくて大変で…」なんて情緒タックルには、「大変って言葉自体が主観的評価でしかなく、定量化されていない。もし工数を時間単位で割り出し、その成果物のROIを算出できるなら、真の“忙しさ”が見えるはずですね」 と理路整然と斬り返せ。感情を論理に変えるパリィは最強だ。
聞き手が弱点を突こうと「あなた、語彙が難しいですよね」と言ってきたら、「語彙が豊富であることは、多彩な概念を瞬時に表象できるという脳機能のポテンシャルを示すんですよ。つまり、俺の語彙はお前の理解限界を超えているだけだ」と逆に持ち上げつつ一歩も引かない。
第一に、相手の言葉を受け止めず、即座に別の武器(数字、専門知識、言語遊戯)に転換すること。
第二に、情緒的な攻撃は論理で、論理的な攻撃はユーモアで跳ね返すこと。
第三に、自分のフィールド(好きな領域)に引き込んでから一閃を浴びせること。
これらをマスターすれば、お前の口はもう盾じゃない。最強の剣に変わる。会議室でも飲み会でも、どこでも即座に会話をパリィし、相手の論陣を粉砕しろ。会話は芸術でも慈善事業でもない。戦場だ。勝利こそがすべてだ。
どんな惨状があったかを話すシーンで聞いた人が「信じられない」「ひどい」と言っているコマがあった。
「ひどい」というのはそこで話された出来事を事実として受け止めている人の発言だと思うのだが「信じられない」の場合はどう解釈するのが普通なんだろう?
ここで聞き手は二人しかいなくて、その二人で事実かどうかの判断が異なるとするストーリー上の必要性が考えられない。
やはり「信じられないぐらいひどい」というぐらいのニュアンスの慣用形なんだろうか
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文章生成AIは要求次第で天才にも馬鹿にもなれる(演じられる)マシーンだ。
だから、その能力をどう引き出すかに利用者の能力格差が結構現れる。
環境やエネルギー問題についての調査などが特にそうで、ホットな話題だけに、AIの学習ソースに低品質の陰謀論なども多く含まれる。
頭が陰謀論にまみれた聞き手は、自分でも意識せずに、言葉遣いや問題の切り口でそういう方向にAIを誘導してしまうことがありえる。
「これはエネルギー保存則の観点からするとどう解釈できるの?」
最低限の教養(理系大学1、2年程度)がある言葉づかいをすることによって、AIの内部回路はそういうテキスト、論文、記事を学習した部分へ入り込んでいく。
もちろん、本当に難しい問題については、AIの理解にも限界がある。
引用元が多数存在しないようなニッチな話題は、そもそもよく知らないことも多い。
そういう場面でも、ファクトチェックや検算などの聞き手の確認力が大きく利用効率に影響する。
利用者の視野を広げて、さまざまな話題を拾ってこれるその能力をうまく活用できるかどうかで、AIの利用価値は大変動する。
東京の電車内やオフィスで、目的も結論もない雑談が延々と続く光景を見かけると、関西出身者は「オチがない」「何が言いたいのか分からない」とイライラすることが少なくありません。しかし、この一見無意味に思えるコミュニケーションの背景には、東京ならではの社会的・言語的な文化が息づいています。
まず、東京人の会話は「ネガティブ・ポライトネス志向」に強く支配されています。言語学者・吉岡泰夫の研究によれば、首都圏では相手のネガティブ・フェイス(自己領域の維持)を尊重するために、過度に踏み込まず、相手に結論や反応を強制しない「礼儀正しい間」の取り方が重視されるのです。その結果、話し手も聞き手も相手の領域を侵さないように配慮するあまり、会話の終着点をはっきり示さないまま話題を継続する傾向が生まれます。
一方、大阪などでは「ポジティブ・ポライトネス志向」が強く、相手との一体感を重視して積極的にツッコミや乗っかりを行い、共に話題を膨らませる「ボケ・ツッコミ」のキャッチボールが会話の基本です。相手が何を伝えたいのか常に確認し、協調的に結論まで導くことで、お互いが納得感を得るのです。これに対し、東京では「話題を膨らませる」よりも「話す自由」を重んじ、聞き手はあえて質問や反応を控え、話題の主導権を完全に話し手に委ねる文化があります。
さらに、東京は人々が多様なバックグラウンドで混在し、日常的に見知らぬ他者と雑多な接触を繰り返す匿名都市です。この環境下では、会話が「情報交換」ではなく「存在の可視化」や「関係維持」の手段として機能します。結論を共有しなくても「あなたの存在を認識しました」というメッセージが伝われば、それで十分なのです。したがって、オチのない話が続いても、不快よりもむしろ「つながっている感覚」を得るひとつの方法なのです。
結果として、東京人は結論やオチを求めず、相手との距離感を保ちながら延々と話し続けることができるのです。これを「無駄」だと切り捨てるのではなく、ネガティブ・ポライトネスと都市的匿名性が作り出す、東京ならではのコミュニケーション様式だと理解すれば、むしろその静かな空気感こそが、都会での調和の鍵であると気づかされます。