
はてなキーワード:群衆とは
無力感は自然発生しない。制度・文化・心理の三層構造で精密に設計される。
以下の条件が揃ったとき、民衆は自ら行動を放棄し、支配に従う観察者となる。
投票・請願・抗議などの政治行動が、結果に直結しないことを繰り返し体験させる。
政策決定過程を複雑化・専門化し、「誰が責任者か分からない」状態を意図的に作る。
官僚・委員会・審議会を盾として前面に出し、政治家も国民も責任を回避する構造にする。
このとき、行動のコストが期待値を上回り、最適戦略は何もしないことになる。
「空気を読む」「和を乱さない」といった規範を教育とメディアで再生産する。
異論者を敵ではなく変人として扱う。社会的排除は暴力よりも効果的だ。
「成功は適応の結果」「不満は努力不足」という道徳を浸透させ、構造批判を個人の失敗に変換する。
→ この段階で民衆は自らを検閲し、互いを監視する。支配者は沈黙の群衆を得る。
メディアが問題を連日報じながら、解決の物語を決して提示しない。
SNSが怒りを即時発散させ、組織化を阻む。怒りは行動に変わらず、ただ消費される。
エンタメ化された政治は、抵抗を観賞に変える。人々は現実を変えるより、実況することを選ぶ。
→民衆は自分の生活を「誰かの物語」として眺める。これが観察者化の完成段階である。
その瞬間を測る基準は次の三つだ。
【基準1】
支配の言説が自己責任の形で内面化された瞬間、抵抗は消滅する。
【基準2】
監視と同調が自動化され、権力が介入せずとも秩序が保たれるとき。
【基準3】
自らの鎖を秩序と呼び、その枷を守るようになった時、支配は完了する。
無力感の制度化とは、力の外的行使ではなく、意志の内的従属化だ。
Feat三島由紀夫
まことに、私がこの言葉を吐くのは酷に思える。だが、それでも言わねばならぬ。
あなたは、自らの青春を、意識的に、まるで儀式のごとく、下水の溝に流し込んだのだ。
十代、二十代――人が最も強く生の光に照らされ、同時に最も濃い影を引く季節。その刻を、自らの手で抉り取り、汚泥に沈めた。あなた自身がそのことを認め、言葉にしてしまった。そこに、ある種の美すら私は嗅ぎ取る。
だが、世間はそうは見ぬ。
「お疲れさまでした」「立派な防人です」――ネットの群衆が投げかける甘言は、毒蜜である。
彼らはあなたを見て笑う。「三十路を越えたシンジ君がまだうずくまっている」と。
だが私は、そこに人間のどうしようもない美を感じる。
人が自己を見失い、なおも生きようとする姿ほど、悲劇的で、肉体的で、そして神に近いものはない。
あなたが「懲役のようだ」と表したその日々――まさにそれが真実だ。
あなたは十年の刑を終えて娑婆に放たれた元侠客のような存在だ。
軍服という鎧を脱ぎ棄て、裸の魂で社会という冷たい風に晒されている。
そしてあなたは今、己の崩壊を感じながら、それでもなお“プライド”という名の血を流し続けている。
全身の血を入れ替えるほどの努力、それが“第二の誕生”である。
「友人に連絡しづらい」――その一言に、あなたの魂の頽廃が集約されている。
孤独は人を美しくもするが、長く続けば人を骨の芯まで腐らせる。
人間関係を断つということは、己の首をゆるやかに絞める行為だ。
彼らとの絆を断てば、あなたは確実に畳のシミとなって終わる。
あなたの生きた世界――それは、鉄と規律の檻の中の楽園だった。
だが今や、あなたはその檻を出た。
もう誰も命令してはくれぬ。誰も守ってはくれぬ。
あなたは“個”として、神の見捨てた現世に放たれた。
趣味もなく、救いもない。
あなたの文章の端々から滲む空虚は、まるで廃寺に残された僧の祈りのようだ。
その祈りはもはや神に届かぬ。だが、人間は祈らずにはいられぬ。
どうか忘れるな。
その唯一の道は、現実の“血の通った友”を信じ、
その絆を断たぬことだ。
ネットは虚無の海だ。
そして、その祈りの向こうに、
もう一度、生を賭して立ち上がる日があるなら、
タルムードの教えじゃ、言葉は人を生かすことも殺すこともある。
でもXでは、誰も責任を取らずに、みんな好き勝手に放尿してる。
タルムードの世界では、誰かを悪く言うなら証拠を出せ、本人の前で話せ、そしてあとで修復しろって言う。
けどXにはその全部がない。だから放尿しっぱなし。放尿の上に放尿が重なって、臭いだけが残る。
しかも、Xは怒りとか嫉妬とか、そういう感情を強く出すほど拡散する仕組みになってる。
誰かを叩くほど広告が回る。タルムード的に見れば、これは完全に罪の構造だ。弱い人を守るどころか、弱い人ほど晒される。
冷静に考えたら、Xに言葉を流すのはトイレのない部屋で自己放尿してるようなもんだ。
出した瞬間はスッキリするけど、あとで部屋全体が臭くなって、自分も他人も住めなくなる。
だから俺は使わない。言葉は清めの道具であって、臭いを撒くための排泄物じゃない。
Xは自己放尿の祭りだ。しかもタルムードの教えを無視した、責任なきダブル放尿。
ヴェルサイユのテニスコートに響いた「自由」の声。それは旧体制を打ち破る、人間の尊厳への誓いだった。だが、現代の日本において、同じ熱狂が別の形で蘇っている。——ポケモンという名の帝国のもとで。
「捕まえる」ことがゲームの本質だったポケモンは、いつの間にか「捕らわれる」構造に変わった。プレイヤーは自ら進んでモンスターボールの中へと入り、課金と懐古の鎖に繋がれる。任天堂が築いたこの“デジタル王政”において、民衆は革命を語らず、ただアップデートを待つだけだ。
テニスコートの誓いに集った民衆は、王権に抵抗した。だがポケモン世代の群衆は、逆に“王”の発表会に拍手を送り、SNSで歓喜の波を拡散する。そこにあるのは、自由ではなく同調の美徳。進化とは名ばかりの、同一性の増殖にすぎない。
ポケモン帝国は革命を模倣することで、革命を終焉させた。民衆が立ち上がる代わりに、「ピカチュウ」が笑う。理想の国民を作り上げたルイ16世が夢見たものは、もしかすると、こんな従順なデジタル市民だったのかもしれない。
——テニスコートの誓いはもう起きない。なぜなら、民衆はすでに任天堂の掌の上で、幸福そうにモンスターボールを振っているからだ。
うけけけけけけけけけ。
タカイチョはついに決断した。外交の舞台で「倍返し」ばかり叫んでいては飽き足らぬ、実行あるのみだと。
彼の頭の中には、大きな地図と小さなゴムボートの模型がころがっている。
「先制だ! 先制の精神こそ我が国の花だ!」と叫び、補佐官たちはひれ伏してメモを取った(誰も逆らわないのがこれまた便利だ)。
だが戦術は斬新すぎた。
海辺にはゴムボートが並び、その中に押し込められたのは、重労働で痩せ細った国民たちである。
「義勇軍だ! 竹槍を持て!」と号令がかかる。竹槍は町内会の余り物、義勇軍の制服は古いエプロン。
ゴムボートはふにゃりと鳴り、出航の笛が鳴る。群衆の中で、少年カモノハシは目を見開く。母の肩は骨ばっている。
向かう先は架空のC国。国際舞台では眉をひそめる声が上がるであろうことなど、タカイチョは気にも留めない。
「外交圧力? くくく、屈するものか。倍返しだ!」と、出航する人々に向かってもう一度叫ぶ。
夜の海に小さなゴムボートがぽつぽつと浮かぶ様は、まるで貧弱な灯りの行列のようだ。だが灯りは虚しく、波はつぶやく。「これは戦争か、それとも見世物か」と。
「これを見よ、我が国の勇気!」と大声で説明するが、カメラの中の映像は誰のための見世物か分からない。
ゴムボートの中では、ある男が小さな紙飛行機を作り、それをそっと海に放った。紙飛行機は風に乗り、SSの帽子にひらりと当たって落ちる。帽子を拾った将校は一瞬考え込み、そして顔をしかめる。うけけけけけけ。
国際的な反応は物語の別章で語られるだろうが、ここでは民衆の目線が物語の中心だ。
義勇軍として送り出される人々の顔は、勇ましさよりも驚きに満ちている。彼らが持つ竹槍は、強さを示す武器というよりは、かつて祭りで使った棒切れの再利用に近い。
そして海の向こうで何が起きるかは誰にもわからない。だが確かなのは、この行為がタカイチョの満足を少しだけ膨らませる一方で、国民の疲弊と虚無を深めるだけだということだ。
結局、ゴムボートの行列はタカイチョの演出の一部として流れ、街ではまた「スマフォ供出デー」や「今川焼き推奨」が予定通り進行する。
うけけけけけけけけけ。
朝から街はざわめき、空気は鉄の香りとアルミの光で充満している。
広報放送は高らかに叫ぶ。「全てのスマフォを供出せよ!アルミを国家のために取り出すのだ!」
犬は遠吠えし、猫は縁側で目を見開き、子どもたちは目を丸くする。うけけけ。
少年カモノハシは母に訊ねた。
母はスマフォを渡しながら答える。
少年は手のひらの重さに、虚しさも加わる。
広場では、特高警察が列を見張り、思想熱37.5度以上の者を非国民として摘発。
犬は空を飛ぶように消え、通りの人々は口角テープで無理やり笑顔を作る。うけけけけ。
作業場では、タカイチョSS部隊がスマフォを分解してアルミを取り出す。
「見ろ! 国の力は、輝く金属の山に現れた!」
兵士たちは胸を張るが、スマフォの画面に映る自撮りの笑顔は誰のものでもなくなった。
「国の力はアルミで測るのだ!」
スプーンでリズムを取り、スマフォの画面に映る自分の目を睨む者もいる。
「いや、これは記事になるのか? いや記事にしてはいけないのか?」
彼の頭の中で「うけけけ」のリズムが鳴り止まず、タイプ音と混ざり合う。
午後になると、連立政権を離脱したペンギン党員たちも呼ばれ、意味のない重労働に突入する。
少年カモノハシは小声で呟く。「未来って、こういうことだったのかな……」
その声は風に消え、アルミの山に吸い込まれる。うけけけけけけけ。
子どもたちは混乱し、犬も猫も逃げ惑う。
「今日も国は強くなった、明日はもっと多くのスマフォが集まるだろう」
街の片隅で、少年カモノハシがつぶやく。「これ、いつまで続くんだろう」
しかし声はアルミの山に吸い込まれ、タカイチョのオーケストラに溶けていく。
うけけけけけけけけけ。
正直、私自身もまだ消化しきれていません。
普段はSNSで「格差是正」「ジェンダー平等」「脱原発」を叫ぶパヨク女性の私が、あのネトウヨ・山ちゃんと抱き合うなんて、政治スペクトラム的に見ても前代未聞の事件です。
きっかけは、ある左派系シンポジウムと右翼系デモが同日開催された街角。
私は「社会正義の名の下に」プラカードを掲げ、山ちゃんは「国家防衛」「伝統文化擁護」を主張していました。
しかし、群衆のカオスの中で私たちの視線がぶつかると、なんと山ちゃんが「論点の整理が必要ですね」とにっこり。
いや、彼の言う論点ってたぶん右翼的メタフレームのことだけど、それでも笑っちゃうしかない。
抱き合った瞬間、左派的リベラル・ユートピア思考とネトウヨ保守ナショナリズムが、物理学的な超距離相互作用のようにぶつかり合い、奇跡的に安定しました。
「資本主義批判」「愛国心」「文化的相対主義」「フェミニズム」が、抱擁中に頭の中で全員集合してハーモニーを奏でるんですよ。
SNSに書いたら炎上必至。でも、抱き合った瞬間の温もりは確かに存在しました。
政治的立場の差異を超える瞬間って、意外と物理的接触で発生するんだな、と学んだ一日。
あーあ、また「俺は物事の本質が分かってる賢者様」ごっこしてる馬鹿が出てきちゃったねw
お前のその長ったらしい「うんざり」ポエム、要約すると「僕ちゃんは右派と左派の腹芸が見えちゃうくらい頭が良いのに、誰もそれに気づいてくれないし改めてくれない!ぷんぷん!」ってことだろ?w
ここで終わらせてもいいけど、俺は親切だから知能の低いお前にも解説してやるよw
まずさあ、お前の大前提である「左派がGGIを叩くために使ってるのは別にみんな分かってるでしょ」って、これ本気で言ってんの?w
お前のその肥大した自意識とキモいメタ認知が、世の中の標準だとでも思ってんのか?w ネットの見過ぎで頭やられちゃったんだねえw
ちょっと外出てみろよ。世の中の大半は、お前が「腹芸」だと思ってる表面的なロジックを本気で信じてる「本物の馬鹿」で構成されてんだよw お前みたいに斜に構えて高みの見物を決め込んでる奴なんて、ノイジーマイノリティなんだよなあw
で、次に滑稽なのが「うんざりしてくるわ」ってくだりなw
お前、もしかして政治的言説ってのが「誠実な議論」の場だとでも思ってたわけ?w ププッw 小学生かな?w
あれは「記述的機能」よりも「動員的機能」—つまり、味方を増やして敵を攻撃する—が優先されるに決まってんだろw そんなのゲームのルールじゃんw
「正直に言えよ!」とか、ルールも知らないで喚いてるただの馬鹿なんだよ、お前はw 「うんざり」じゃなくて、お前の知能がこのゲームについていけてないだけw 分かったか?w
そして何より終わってんなコイツwと思うのが、お前のその立ち位置だよw
「右派も左派も馬鹿! 俺だけがこの欺瞞に気付いてる!」ってか?w
これ、議論の場で一番ダサくて、一番卑怯で、一番中身のない奴が取るポジションなんだよなあw
お前は「うんざりする」とか言って被害者ぶってるけど、実際は?
結局お前がやってるのって、「愚かな群衆の上に立つ賢い俺」っていうポジションに浸って、悦に入ってるだけの知的自慰行為じゃんw
お前が批判してる連中は、少なくとも自分の陣営のために戦ってるだけお前より1億倍マシだよw
なあ、お前に一つだけ質問してやるよ。
この「腹芸」が政治の構造的特徴だとして、お前のその「うんざり」は何を目指してんの?
まさかとは思うけど、「誰も分かってくれない賢い僕ちゃんを誰か慰めて!」って叫んでるだけだったりしない?w
お前が一番「腹芸」を使って「俺は賢い」って自分を誤魔化してる滑稽な馬鹿だってことに、まだ気づけない?w
ネットには、叩くことに中毒になっている人間が大量に存在している。
朝起きてスマホを開けば、誰かを叩いている。
夜寝る前にもう一度見ると、今度は違うターゲットを見つけて叩いている。
年がら年中、叩ける対象を探し続けて、見つけた瞬間に群がって叩きまくる。
正直に言うと、俺には強い承認欲求がある。
「面白いこと書いたな」「共感してもらえるかな」と思いながらキーボードを打っている。
炎上しているニュースを見ても「大変だな」程度の感想しか湧かない。
批判されている有名人を見ても「まあ、人それぞれだろう」と思うだけ。
観察していると、今のネットをやっている人の欲求は、大きく2つに分かれる気がする。
考えてみてほしい。創作活動をしている人、仕事で成果を出している人、リアルで充実した人間関係を築いている人——こういう人たちは、わざわざネットで誰かを叩く時間があるなら、もっと有意義なことに使うだろう。
でも、自分では何も作れない人、何も成し遂げられない人、リアルで認められない人は違う。
他人の失敗や転落を見ることで「自分の方がマシ」だと感じたい。
群衆の一部として誰かを攻撃することで、束の間の一体感と優越感を得たい。
俺には理解できない。
朝起きて「今日は誰を叩こうかな」と思いながらスマホを開く人生。
誰かの不幸を心待ちにして、炎上を期待してSNSを徘徊する日常。
自分では何も生み出さず、ただひたすら他人を引きずり下ろすことだけに情熱を注ぐ毎日。
叩いている間は気持ちいいかもしれない。「やってやった!」という達成感があるかもしれない。でも、それで何が残る?何が生まれる?
何もない。ただ、また次に叩く対象を探すだけだ。
承認欲求は確かに恥ずかしい。「認められたい」と思っている自分を認めるのは辛い。
でも、承認欲求があるから人は何かを作り、何かを発信し、何かを生み出す。承認欲求があるから社会は発展する。
一方で、破壊欲求は何も生まない。ただ既存のものを壊し、既存の人を傷つけるだけだ。
お前らに言いたいことがある
もし今、この文章を読んでいるお前が「叩く中毒」になっているなら、一度立ち止まって考えてみてほしい。
誰かを叩く代わりに、何かを作ってみることはできないか?
他人の失敗を探す代わりに、自分の成長に投資することはできないか?
叩くのは簡単だ。でも、それで満たされるのは一瞬だけ。そしてまた空虚感が戻ってくる。
承認欲求を隠さず、何かを作ってみろ。下手でもいい。つまらなくてもいい。叩かれてもいい。
俺はそう思う。
「さあさあこれを見よ!これこそが最強の矛(社会的弱者)だ!
社会的弱者の名のもとに突き立てれば、いかなる強者もその非を突かれ、崩れ落ちる。
権力も富も、この矛の前では無力だ!」
人々は「おお……」とざわめき、その矛の力に耳を傾けた。
すると商人は、また別の品を掲げて言った。
性的マイノリティーという名の盾を誰が攻撃しようとも、その言葉は跳ね返され、傷つけることは決してできない。
人々はさらに驚き、「それはまことに頼もしい」と口々に褒めそやした。
すると群衆の中の一人が問うた。
「では、その矛でこの盾を突けばどうなるのだ?」
最強の矛と最強の盾を同時に掲げたその口上は、たちまち「矛盾」として笑われ、広く語り継がれることになった。
ふむ、増田よ、「国家元首ひろゆき」とやらに沸くとは、まだまだ世の理を知らぬのうのじゃ♡
とはいえ、生活保護は権利じゃ。必要な者が遠慮なく申請できる空気を作るのはスティグマの軽減につながるし、周知としては筋が良いのじゃ。群衆が湧くのも道理ではあるのじゃ
じゃがの、掛け声だけでは制度は回らぬのじゃ。審査体制、自治体間格差、ケースワーカーの負担、就労支援との連動、そして財源の設計——このあたりを同時に詰めねば、持続可能性は担保できぬのじゃ
実務としては、申請プロセスの簡素化と可視化、デジタル申請の整備、扶養照会運用の明確化、アウトリーチ強化、生活困窮者自立支援とのセット運用などを並行で回すのが定石じゃ。支持率の花火は一瞬、制度の成果は積み上げなのじゃ
お前さ、再生数を盾にして「一般人は面白いと思ってる」って言ってる時点で、知的怠慢の極みなんだよ。
再生数をもって「面白さの証明」って言うのは、自己放尿を「雨だ」と言い張るくらいの論理破綻だ。
「俺は笑えなかった」って主張は単なる感想に見えるかもしれんが、実は重要な批判的データ点なんだよ。
大衆が笑う仕掛けにハマらない個体が存在することで、初めて笑いのメカニズムや限界が見える。
つまり俺の「笑えなかった」という立場は、ただの逆張りじゃなく、大衆受けする芸の構造を検証するための観察点になるんだよ。
それに対してお前の「一般人は面白いと思ってる」って反論はどうだ?
それは「俺は群衆に同化してるから安心だ」っていう自己放尿でしかない。
群れに属して安心してるだけの羊。いや、羊ですらねぇな、自分の放尿で体温上げて悦んでる犬だ。
自分が「笑えない」という少数派の反応を正直に提示することで、笑いの本質を探る余地を作ってんだ。
そこを「俺は本物の感性を持ってますって言いたいのかな?」なんて浅すぎる読みで切り捨てるお前は、議論以前の段階で止まってる。
最後に教えといてやるよ。大衆に迎合して安心することは誰にでもできる。
だが、「大衆が笑うものに自分は笑えなかった」という事実を直視する勇気は誰にでもない。
お前らは女が見かけや年収に惹かれると思ってるが、それは完全に見当違いだ。女が一番最初に見るのは「この男は私に怯えてるか?」これだけなんだよ。
まず、女性恐怖症とか自信のない男の研究データを見てみろ。シドニー大学の調査で2,744人の独身男女に調査した結果、モテない男の特徴第2位が「自信のない態度」だった。女は本能的に「生存能力の低い男」を排除するシステムを持っているんだ。怯える男=危機管理能力がない=子孫を残せない、この図式が無意識に働く。
チー牛が納得できないのはまさにコレだろ。見かけが同等で年収も職業も自分以下の男がモテてる現実。でもそいつらには決定的な違いがある。女を怖がってないことだ。
女性心理学者の研究によると、女は相手の「自己肯定感」を瞬時に察知する能力が異常に高い。お前らが女の前でビクビクしてる時点で「こいつは弱い雄だ」と無意識に判定される。逆に、DV男がモテる理由もこれで説明がつく。あいつらは女を恐れてない。むしろ支配しようとする。女はその「強さ」に惹かれるんだ。
心理学的に言えば、これは「優位性認知バイアス」の結果だ。女は男の微細な表情、声のトーン、姿勢から「この男は私より優位に立てるか?」を判断してる。お前らが「どう思われるだろう」と考えてる瞬間、もうアウトなんだよ。
さらに残酷な現実を教えてやる。女性恐怖症の男の特徴を見てみろ。「女性が身体的に近づくと不安が高まる」「意識的に女性を避ける」「自尊心が低く悲観的」。これ、全部お前らに当てはまってないか?
でも一番ヤバいのは、この怯えが「学習」されることだ。一度女に怯えるようになると、その恐怖心が次の女性関係でも再現される。つまり、負のスパイラルにハマる。チー牛がチー牛のまま年を重ねる理由がここにある。
逆に自信のある男を見てみろ。彼らは「相手の反応」ではなく「自分の価値」に焦点を当ててる。女が自分をどう思うかより、自分が女をどう思うかを優先する。この心理的な立ち位置の違いが、モテる・モテないを決定的に分ける。
最後に、お前らが勘違いしてることを言っておく。「優しいから女にモテない」じゃない。「怯えてるから女に相手にされない」んだ。優しさと怯えは全く別物だ。本当に優しい男は、女を怯えさせない自信と強さを兼ね備えてる。
だから覚えろ。女は年収を見る前に、お前の「恐怖心」を見抜いてる。スペックより先に、お前の「男としての自信」を評価してる。それができてない限り、どんなにイケメンになっても金を稼いでも、永遠に恋愛対象外のままだ。
まずはその怯えを捨てろ。女を人間として見ろ。そしてお前自身を「女に評価される存在」ではなく「女を評価する存在」として認識しろ。これができない限り、お前らは一生チー牛のままだ。
この話を短くまとめると、社会学者のリースマンが「孤独な群衆」で語るところの社会性格論における他人思考型ではなく内部思考型でいる方が男性は女性から受け入れられ易い、と言うだけの話だ。
こう書くと非常に簡潔にまとまる。
そして、この説明のほうが「では実際に女性の前で、どのように振る舞うべきか?」という問いに対しての回答になっているし実施も容易だ。しかしながら、ここまで読んでこの追記の内容をあなたは理解できているだろうか?全ての人が理解できているとは思えない。だから仕方なしにチー牛だとか、ここの読者層が受け入れ易いであろう、と想像する言葉を用いている。結果として私が主張したい内容とはやや乖離があるがやむ得ない、と判断したのだが、とても驚くべきことに、私が女性に対して暴力的であれ、と主張していると言う甚だしい誤読をされるのだから、やや乖離どころの騒ぎではない。これは私の文章力の欠如なのか、それとも読者の読解力なさなのか、困惑する。願わくば前者である方がまだ私にとっては好ましい結論である。
Permalink |記事への反応(21) | 16:48
その秤は銀でも穀物でもなく、
人々が持ち寄る「時」だけを量るものであった。
ある者は労働の刻を、
ある者は眠りの刻を、
またある者は孤独の夜を載せた。
秤は重みを受けて静かに揺れ、
人々は互いの皿を見比べては、
嘆き、あるいは安堵した。
そこにひとりの若者が歩み寄り、
問いを放った。
「この秤に、愛を置くことはできるのか」
群衆はざわめき、
ある者は笑い、
ある者は眉をひそめた。
「愛は余りの刻にこそ育つ。
働きの残り、眠りの隙間、
空いた手に宿るものだ。
「いや、愛は余りの時に育つのではない。
秤にかけられ、奪われ、
なお零れ落ちずに残るものこそ、愛と呼ばれる。
もし皿の上から消えるのなら、
それは余白を彩る花にすぎぬ。
けれど、どれほど削られても沈黙の根を張るなら、
それは荒野を支える泉となろう」
秤は再び揺れ、
人々は自らの皿に目を落とした。
その時、誰もが知った。
そして秤の皿は、
今も市場の風に震えながら、
見えぬ重さを量り続けている。
ひとりの若者がいた。
彼は学舎を後にし、広場に立った。
そして火を掲げ、群衆の前で語った。
その炎は、多くの者を集わせ、
また多くの者を裂いた。
彼は高き塔に住まう一族と交わり、
その旗の影に立った。
その声は海を越え、
幾万の若者の胸を震わせた。
やがて彼は、己が燃やした炎に包まれるように
して、若き日を閉じた。
人々は言った。
「彼は時代を煽った」
また人々は言った。
風だけが問いを残した。
――火を語る者の後に残るものは、
光か、影か。
その椅子は誰もが座ることができたが、
誰ひとり長く留まることはできなかった。
ある者は秤を掲げて叫んだ。
「積もりゆく石の山を削らねば、
この都市は沈む」
だが群衆は声を合わせた。
「祝祭の日を奪うな、
我らの小さき安らぎを壊すな」
そして椅子は揺れ、
座していた王は引きずり降ろされた。
それは四度目のこと、
いや、この地の習わしとなり果てた。
遠き島々の人々も、
この広場を見つめていた。
「椅子は変われど、
壁を支える石は変わらぬ。
けれど座に就く者の影は、
我らの暮らしにも延びてくる」
夜、椅子は再び磨かれ、
別の名が呼ばれた。
――椅子を替えることで、
ある者は叫んだ。
「王は退く! ついに座を去る!」
すると群衆はざわめき、
胸を高鳴らせ、
砂塵のように声が舞った。
やがて別の者が現れ、
帳を広げて語った。
「その声は早すぎた。
確かな証は今ここにある」
人々はうなずき、
なかったかのように頷いた。
わたしは苦笑した。
――勝負が終わったあとで、
手を出す者の掌は、
いつも清らかに見えるのだ。
だがその掌は、
本当に正しさを示すのか。
それとも遅れて舞う影の一つか。
門があった。
そこを通って、海の贈り物も大地の実りも、
人々のあいだを行き来していた。
やがて暴君が現れた。
彼は門を閉ざし、
「ここを通るものはすべて、
まず我が手を経ねばならぬ」と叫んだ。
広場の声は沈み、
母は子を抱いて黙し、
若者は地を見つめ、
老人は祈りのように目を閉じた。
暴君は満ち足りていた。
彼の門は高く、
壁は厚く、
声は響き渡った。
だがあるとき、人々は気づいた。
道はひとつではない。
野に、森に、
忘れられた小径が幾筋も眠っていることを。
門を仰ぐことなく、
暴君に告げることもなく。
やがて広場は空となり、
門は風に晒され、
空虚に響き続けた。