
はてなキーワード:絶対悪とは
――初代戦隊である「秘密戦隊ゴレンジャー」(1975年放送開始)から今年で戦隊は50周年。その記念作であるゴジュウジャーが来年で放送終了になることで、戦隊シリーズは終了してしまうのでしょうか。
いえ、戦隊シリーズとしては終了とは思っていません。休止です。戦隊の放送枠(テレビ朝日系、日曜朝9時半)は新たなものに変わりますが、戦隊作品そのものはいずれ復活する可能性があります。発表前の10月から「戦隊終了」の報道が出て、ここまで反響があるのは想定外でした。戦隊がここまで愛される存在だったのかと、ありがたい思いです。ただいずれ復活するにしても、10年は間を置いた方がいいと私は考えています。
――その理由は。
戦隊の限界が見えてきた。そこを打破すべくいろいろな工夫をしてきましたが、50周年という節目も迎え、根本的に考え直さないといけない場所にきたのは確かです。
一つはコロナ禍からの配信時代の到来です。配信では、特撮も新作と旧作が横並びで見られるようになりました。戦隊にとって、仮面ライダーだけじゃなく過去の戦隊作品もライバルになってきた。
戦隊は毎年毎年、世界観をリセットして新作を出してきました。作品につながりがなく、どこから見てもいいんですが、逆にどこから見たらいいのか分からない。一定の評価がある旧作に対して、よほどの特徴がない限り新作が勝てなくなってきた。
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東映の白倉伸一郎さん。「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」にちなんで、ナンバーワンポーズ
もう一つの黒船は、アメコミヒーローものの大攻勢です。マーベルの「アベンジャーズ」シリーズは日本でも人気ですね。キャプテンアメリカにしろ、アイアンマンにしろ、もともと別の作品のキャラクターだったものを一つのパッケージにして届けている。
集団ヒーローでも、キャラクターの人格や戦闘能力など明確な設定が元々されている。一方で同じ集団ヒーローである戦隊は、毎年作品が変わりますし、キャラクターづけでは弱い面があった。
この二つの苦境を打破するべく、いろいろ工夫はしてきましたが、根本的に新たな挑戦をするべきだという結論に至りました。
――とはいえ戦隊もさまざまな新機軸を打ち出してきました。近年も、白倉さん自身がチーフプロデューサーとして入った「機界戦隊ゼンカイジャー」(2021年放送開始)では、戦隊5人のうち、人間が1人で4人は機械生命体というとんでもない内容です。戦隊とは数々の挑戦をしてきた歴史では。
もちろん様々なチャレンジをしてきました。それは戦隊という枠の中では新しい試みかもしれないけど、何が新しいのかを楽しむためには戦隊の「お約束」を知っているリテラシーがお客さんに必要になる。お約束を知った上での型破りを、どこまで分かってもらえるのか。
――戦隊といえば誰もが知っているはずなのに、内容は認知されていないと?
戦隊の根本的な課題だったのですが、50年続いただけあり、戦隊はあって当たり前のもの。ある種日本の文化になったと思うんですね。どれくらい見てきたかは人それぞれでも、戦隊と聞いたらカラースーツの5人のヒーローをイメージできる日本人の方が、多いのではないでしょうか。
それはそれだけ定着したという半面、「見なくてもいいもの」と思われる恐怖と隣り合わせです。
毎週その時間にテレビをつければ、変わらずやっている。現代風に変わった描写はあっても、話の大筋は変わらない。子どものときに見て一時卒業したけど、親になり自分の子どもと一緒に見たら、昔と変わっていない安心感がある。むしろ、変わってほしくない。
作品にとってこの状態に甘んじているのは危険で、変わらぬ良さは、見なくてもいいものと表裏一体なんです。どうせ話の筋は分かるし、毎週見なくてもいいやと。なんなら懐かしい旧作を見ればいいやと。新作はいらないと思われることは、作り手にとって常に恐怖です。
戦隊の「当たり前感」は制作陣にとっても危険です。大事なのは、戦隊という伝統の枠の中でどう目立つかではない。2025年の子どもたちに向けて、日本から世界に向けて、本当に必要な作品とは何かを考えることなんです。
東映には戦隊をつくるノウハウがあります。ただそのノウハウが、時に本当に新しいものを作ることを邪魔する。戦隊に慣れきった私たちの世代が抜けて、新たな世代が新たな戦隊を考えるべきだと思います。だから、10年は復活するべきではないと私は考えているのです。
――シリアスな仮面ライダーに対して、戦隊作品の明るさが好きだという視聴者も多いと思うのですが。
戦隊のお決まりですが、5人がスーツ姿に変身してポーズを取る。怪人を倒すと、後ろが爆発して炎が上がる。そして展開はむちゃくちゃだけど、巨大ロボットに乗って、巨大な敵と戦って毎度ビルを爆破する。くだらないと小バカにされるけど、とにかく明るい話。それがいいところなんですよ。
私が90年に東映に入社して「恐竜戦隊ジュウレンジャー」(92年開始)の企画会議に参加したとき、プロデューサーの鈴木武幸が開口一番「今度の巨大化はどうしますか」と言って、脚本家がめちゃめちゃ怒ったんですね。「違うだろう。最初に話すべきは、どういう番組にしようかだろう」って。
鈴木はそれまで何作も戦隊を手がけたベテランですが、いろんな試行錯誤を重ねた結果、もう悟りの境地だったんだと思います。戦隊が成功するにはこういうフォーマットしかないと分かってしまい、その上で(キャラクターを)「どう巨大化するか」をまず考えようという恐ろしい境地に達していたんです。はたから見ると、そこかよって突っ込みたくなりますが。
――30年前にすでにやり尽くしたと制作陣では感じていたのですね。
当時すでに戦隊は風前のともしび。ジュウレンジャーは「もう最後の戦隊かもしれないと思ってやろう」と言っていた。若手がこれまでにないことをやりたいと結託し、6人目の戦士を物語の途中から出したんですね。
――6人目がレギュラーメンバーとして出るのはジュウレンジャーが最初。物語の途中から出るいわゆる「追加戦士」も、6人以上の戦隊も、今では当たり前ですね。
定番になりましたが、当時はそんな未来は考えず、そこから30年も続くとは思いもしませんでした。ジュウレンジャーをベースに米国で作られた「パワーレンジャー」がヒットするというまさかの神風が影響したんでしょうね。
――仮面ライダーにもウルトラマンにも中断期間があります。初期に少し中断はあるものの、ほぼ50年放送が続いてきた特撮ヒーローは、戦隊だけでした。なぜ戦隊は愛されてきたのでしょうか。
そもそも戦隊は事故から生まれたものなんです。仮面ライダーを5人集めて戦うという作品が企画されていたのが、事情があって頓挫した。それで急きょ石ノ森章太郎先生に考えてもらったのが初代の秘密戦隊ゴレンジャーだったんです。さらにその後、(70年代に人気だった)「超電磁ロボ コン・バトラーV」などのロボットアニメの放送が途切れるという事態があり、巨大ロボットの命脈が戦隊に流れ込んできた。
戦隊の草創期の作り手に、理想のヒーローを作ろうと理屈をこねている余裕はなかった。なんとか一つの作品を作らなければならないという試行錯誤の末に、結果として生まれた事象を集めたものが戦隊だった。
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なんでいちいち5人で戦わないといけないのか。なんで巨大ロボットにいちいち乗って戦うのか。それはよく分からない。その理屈を超えたところに、人間の本質がある。なぜかかっこよくて人を引きつける。エンターテインメントとして面白いものの本質を、戦隊は露骨に表してきた作品だったと思います。
善と悪の対立を描きにくくなった
――長年にわたりテレビでヒーローの姿を届けてきた意義も大きいでしょう。
戦隊そのものが描く善悪も、初期からはかなり変遷がありました。東西冷戦が終わり仮想的な「絶対悪」を社会が想定しづらくなった。フィクションのヒーローものでも一面的な善悪を描くことが難しくなっていきます。その中でも工夫をしながら、キャラクターの人物像を大切にしながら、悪い敵を倒す姿を放送してきました。
こと戦隊でいうと、仮面ライダーのような単体ヒーローとは違う。5人で一つのチームで、結束して敵に立ち向かいました。
こうしたことは子どもさんにはすぐに分からないかもしれないけど、大人になった時に「戦隊って大事なことやっていたんだな」って少しでも思ってもらえるかもしれない。
戦隊は当たり前になったと先ほど言いましたが、私は日本人の心の中には、戦隊がいると思っていますし、少しでも戦隊が社会にいい影響を与えられていたならうれしいです。
――50年続いてきた戦隊の放送を終了することに、葛藤はなかったですか。
葛藤、それはないですね。
戦隊を愛してくださったファンの方には感謝します。しかし、次の世代のためにも、どこかで次の挑戦を始めるべきでした。今はヒーロー番組そのものの変革を考えるときです。それがゴジュウジャーの後番組として始まる「超宇宙刑事ギャバン インフィニティ」です。
魔法騎士(マジックナイト)レイアースはアニメ版から入って、海ちゃんが好きだっだよね。
見た目はクールな美少女だけど感情表現豊かで友達想いの海、見た目はショタで美少年だけど長い時を生きる賢者のクレフ
はっきりくっついた訳ではなかったけれどお似合いだと思ってて…
でも後で原作を知って、原作にはクレフとの恋愛要素はなく、アスコットという目隠れガチショタからの片想いがあり、そっちとくっつきそうな可能性を示して終わっていると知る。
で、さらに後年、CLAMP作品はその殆どがジョジョの花京院と承太郎を元ネタにしていると知る。
レイアースにおいては光(ウェーブの赤い髪、相手役のランティスは承太郎と同じ声優)、風(ウェーブの髪、緑色の目、機体が緑)、エメロード姫(ウェーブの髪、緑色の目、名前がエメラルド、CCさくらの雪兎と同じ声優、相手役のザカートは承太郎と同じ声優)、イーグル(ランティスとコンビを組んでいてエメロード姫と同じ声優、機体が緑)が花京院で、それぞれの相手役が承太郎と思われる。
海ちゃんはどうなんだと心配したが、レイピア使い、三枚目といった要素を取り出していくと
とか言っても海ちゃんもやはり花京院である可能性は否定出来ないが
アニメのクレフとの関係を否定してアスコットという別キャラをくっつけようとした事実からは、
どうもCLAMPの自己投影対象である花京院モチーフのキャラ以外の女キャラにはハイスペ男キャラをくっつけてなるものかという意思を感じるんだよな…
それにCCさくらでクレフと声優が同じエリオルはプレセアと声優が同じの観月とくっついていて
そうするとクレフも承太郎で、承太郎要素のあるキャラは花京院以外とくっつけたくなかったと考えると説明が付くから
最近はとにかく原作者至上主義で、メディア化による原作改変は絶対悪のように言われる風潮だけど
しかしCLAMP作品の場合そもそもの「原作」からして、ジョジョと別作品とを組み合わせたツギハギパクリの二次創作みたいなものだしなー
レイアースも三魔神の属性から魔導王グランゾートが元ネタだと言われていたし実際にそうだと思う
「円安の何が悪いのかさっぱりわからない。」ほど知識がないなら、AIに聞くなり、新聞読むなり、経済の基本的な解説書を読むなりして。
でたらめな知識にもとづいてキレ散らかすくらいなら、黙ってたほうがいいだろうよ。
経済アナリストの視点から、ご提示いただいた文章の主な問題点を指摘します。
この文章は、経済現象の多面性を無視し、事実と異なる認識に基づき、特定の立場からのみ都合よく解釈している点で、客観的な分析とは到底言えません。
主な問題点は以下の通りです。
これが最も深刻な問題点です。現実には、円安によって多くの国民が苦しんでいます。
輸入インフレの直撃:日本はエネルギー(原油、天然ガス)や食料品(小麦、飼料など)の多くを輸入に頼っています。円安はこれらの輸入価格を直接押し上げ、電気代、ガス代、ガソリン代、食料品価格の高騰につながっています。
実質賃金の低下:円安による物価上昇(インフレ)に、名目賃金(給与の額面)の伸びが追いついていません。その結果、実質的に国民が使えるお金の価値は目減りしており(実質賃金の低下)、生活水準はむしろ圧迫されています。
中小企業の収益圧迫:円安による原材料費や燃料費の高騰は、大企業(特に輸出企業)のように価格転嫁が容易でない中小企業の経営を直撃します。
「円安で苦しむ国民はいない」という認識は、こうした日常の経済実態を全く見ていないか、意図的に無視しています。
給料(賃金):円安は輸出大企業の「名目上」の収益(円換算)を押し上げますが、それが国内の幅広い労働者の賃金上昇に直結するとは限りません。前述の通り、物価高のスピードに賃上げが追いつかなければ、国民は豊かになりません。**重要なのは「実質賃金」**であり、現在の円安局面ではマイナスが続いています。
株価:円安が(輸出企業の業績期待などから)株価の押し上げ要因の一つになることはありますが、「上がり続ける」と断言するのは誤りです。株価は世界経済の動向、金融政策、地政学リスクなど、無数の要因で決まります。円安だけが要因ではありません。
3. 「マスコミも経済界も円安を問題視していない」という事実誤認
これは現状認識として完全に誤りです。
マスコミ: 連日、新聞やテレビニュースでは「悪い円安」という言葉を使い、物価高騰による家計への負担増、実質賃金の低下、日銀の政策の難しさなどを大きく報じています。
経済界: 輸出企業からは歓迎の声がある一方で、輸入に頼る企業や内需型の中小企業からは悲鳴が上がっています。経済同友会などの経営者団体トップからも、行き過ぎた円安が日本経済の体力を削ぐことへの懸念が繰り返し表明されています。
「問題視する論調はない」という主張は、現実の報道や経済界の議論と著しく乖離しています。
「恐怖の円高時代」と表現し、円高を絶対悪のように扱う一方、円安を無条件に礼賛するのは、経済分析として稚拙です。
円高のメリット:輸入品(エネルギー、食料、ブランド品)が安くなり、国民の購買力は上がります。海外旅行や留学も安価になります。
円安のデメリット:上記で詳述した通り、輸入物価の高騰と実質賃金の低下を招きます。
経済は常にトレードオフであり、為替水準によって恩恵を受ける人と不利益を被る人が必ず存在します。どちらか一方を「絶対悪」や「絶対善」と断じるのは、特定の(この場合は輸出大企業的な)視点に偏りすぎです。
「経済オンチのオールドサヨクだけ」といった表現は、客観的な経済分析ではなく、レッテル貼りと人格攻撃に過ぎません。
物価高に苦しんでいる一般消費者や中小企業経営者を「知識がないなら黙ってろ」と切り捨てる態度は、経済を語る以前の問題であり、建設的な議論を著しく妨げるものです。
給料が上がり、株が上がり続けるんだぞ。
デフレ時代にだけは絶対戻してはならないという高市の決意は頼もしい。
ひるがえって、円安で苦しむ国民などいない。だからマスコミも経済界も円安を問題視してる論調はない。
看護学生/看護師アカウントをwatchし続けて早10年近く。本当にこの界隈に生理的嫌悪感を覚えている。
女が多いからではない。男女等しく、この界隈に浸りきっている奴は気持ち悪い。
そもそもTwitterで職業アカウントを作る人に気持ち悪い人間が多いからなのかもしれないが。
彼女/彼らは看護学生や新人看護師の頃、自分を「意識低い系」と自称する。もしくは異常に「勤勉さをアピールする」のだ。
意識低い系は読者の想像する通りであろう。自らを勉強していない「限界看護学生/新人看護師」などと名乗り、とにかく勉強をしていないこと、”患者に興味を持てない”ことなどをツイートする。
特にこの”他人(患者)に興味を持てない”ということをツイートするのは看護アカウントの特徴なのではないだろうか。看護師が対人援助職であることはわかりきってるだろうに、なぜ彼女/彼らは看護師を職業として選択したのだろうか。その件について「お金のため」と明言するアカウントもあるが、それはそれで「プロとして割り切れない」という技量や意識の低さが目立つ。
問題、というか看護師として予後が悪いのが「勤勉さをアピールする」タイプだ。
彼女/彼らは看護学生時代はレビューブックを分厚くすることに専念し、せっせと語呂合わせの付箋をアップロードし、さらに理想のキャリアプランや看護師像について熱く語る。
彼女/彼らは根が真面目なので、模試で良い点数をとり、面接も手堅く通過。そして試験結果を意気揚々とアップロードしたのちに志望の診療科に入って目を輝かせる。熱い目標と学びを語る。
だが、そういう人に限って夢潰えるのだ。
彼女/彼らは次第に愚痴と弱音のツイートが増えていく。自己を卑下し、次第にそれは他責へと変化する。
一番わかりやすいのが「先輩看護師」や「社会構造」への攻撃だ。先輩をお局様と称し、自己を防衛する。自身の環境を社会構造のせいにして看護協会を悪の親玉に仕立て上げる。社会人として何年経っても看護学生時代のことを「絶対悪」として語り続ける。
だが自己研鑽で現状をどうにかしようとはしないのだ。いや、自分が変わるのではない。
彼女/彼らは「環境を変える」ための努力に勤勉さを発揮するようになる。そうすれば今自分を苦しめているものは全て解決、心機一転ハッピーな看護師ライフを送れると思い込んでいるからだ。
転職先としては第二新卒、クリニック、施設、訪問看護、美容、派遣、一般企業など多岐にわたるが、共通するのは”病棟”を避ける傾向にあるということだ。
まあそれは無理もない。人間誰しも、嫌な思いをした場に戻ることには抵抗を覚えるだろう。だが、病棟を辞めて他の職場に行った人らがずっとネチネチと病棟の悪口を言っているのを見るのは滑稽だというものだ。また、そういった病棟叩きのツイートがバズりがちなのも、そうやって自己の選んだ道(病棟を辞める)という選択を肯定してもらいたい人間がTwitterに数多く存在しているということの証だろう。
だがそうやって自己を正当化する物語を探してばかりでは、永遠に病棟を去ったことを後悔するばかりだろう。それに”病棟を続けることができなかった自分”は行動なしには永遠に変わらないのだから。
それに、Twitterに入り浸る限り彼女/彼らに転機は訪れない。「傷の舐め合い」が万バズし、数多のフォロワーを得る手段となり得るTwitterでは彼女/彼らは変わることができない。ただただ指を動かし、愚痴を投稿していれば承認欲求が満たされるからだ。永遠にぬるま湯に浸ることができるからだ。それはいつしか煮え湯になっても、彼女/彼らはそこから出ることはできないだろう。
そう、看護アカウントの界隈では愚痴や泣き言が万バズしやすく、フォロワーを得やすいのが最大の欠点だ。
彼女/彼らは看護アカウントを作り、愚痴を吐くだけでフォロワー数を何百も、時には何千も得る。いいねもたくさんつく。自己を肯定するコメントも貰える。そうすると気が大きくなる。「ああ、私たちの行動は間違っていなかった」のだと。
しかし面白いことに看護師としての年数が経過し、看護学生/新人看護師ではなくなると、余程のアカウントでない限り新規にフォロワーはつかなくなる。いいね数も目に見えて減っていく。”愚痴”も称賛を得られるのは若いうちだけなのだ。
そして限界まで煮詰まったアカウントは……もう目も当てられない。
彼女/彼らは”過去の栄光”に縋る。新しくアカウントも作ることができず、そこに留まり続け、同じようなツイートを重ねていく。時たま思い出したかのように過去のバズったツイートを掘り起こすが、焼け石に水に過ぎない。結局看護アカウント界隈の「おじさん/おばさん」として生きていくしかないのだ。しかし、新規に看護アカウントに参入した若い奴らは知っている。
「こいつらはやばい人物だからここまで看護アカウントを続けているのだ」、と。
看護アカウント界隈は定期的に看護アカウントを卒業(アカウントが動かなくなる)する。それぞれの別の日常に向かって新しくツイートを始める。看護という物語に縋らないと生きていけないやつは異常者なのだから。
表現の加害性みたいのって
それを、子供に、善き事だと垂れ流す
これ系の最悪な発露が宗教戦争だ
幼稚園児がアンパンチで友達の悪事を断罪するのは教育で対応するし
消さねばならぬと批判される
彼らはきっと、世の常識は俺たちが作る、とでも思っていたことだろう
だから語られる
「恋愛を扱うドラマが描かれるときって、『恋愛しないと成長しない』とか、『恋で人生の全てが変わる』みたいな、恋愛が人生において最も重要なものとして描きがちというか、その考え方を押し付ける暴力性があるのではないかと、以前から気になっていたんです」
これを表現の加害性と読み解けないのは義務教育をやり直せと思う
だが同時にこれだけなら別段、性的表現をターゲットにしてるようには見えない
絵だけど、未成年だぞ
これはダメなんだ
言っちゃいけないワードなんだよ
火中の栗なんだ
スカートの皺が、くびれのしなりが、赤らめた頬が、これで叩かれてきたんだ
それを知らんわけがないだろう
実際、その後の言葉はこう続く
「現実ではそんな会話しない」と強く否定した“女の子たちが互いの胸の大きさについて言及し合う描写”なども含め、そういうシーンはアニメにおいては何気ないよくあるものと考えてしまっていたが、吉田恵里香さんは「それを売りにしている作品でない場合においてはノイズ」と言い切る。
「現実的に考えても、ギターを弾きながら胸が不自然に揺れ続けるみたいなことはないわけですし、そういう描写があったら私は幼い息子にその作品を見せるのを躊躇する。自分の子どもに見せられるかどうか、というのは大事にしている基準です」
これ言い出したら、女子向け作品の男の会話とか「ナイワー」ってなるけど
あれは修正しないんだろう?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bbc.com/japanese/articles/c1jz5exkgk9o
モサドがアルゼンチンで元ナチス将校を誘拐してイスラエルで裁判にかけたあたりでイスラエルの独善的な異常性に警告を出すべきだったのかもな。ナチスの異常さが際立ってたから影に隠れてしまった感。
この記事にこんな人気ブコメがあったのでイスラエル批判について少し補足をする
(ブコメ主は知った上でこのブコメをしているかもしれないけど)
本題に入る前にいくつかの前提知識から。19世紀末にヨーロッパで広がったユダヤ人国家建設運動で、それほど新しい思想ではない。背景には、長期のディアスポラ(故郷を持たず民族が世界各地に散らばること)と反ユダヤ主義の歴史があり、特にロシア帝国でのポグロム(ユダヤ人虐殺)や西欧社会での差別が拍車をかけた。ナチスによるホロコーストはこの運動に大きな正当性を与え、多くのユダヤ人がパレスチナへの移住と国家建設を求めるようになる。1948年、イスラエル建国が宣言され、シオニズムはその大きな第一の目標を達成する。
ネタニヤフ政権は、右派リクード党や宗教右派を中核に入植地拡大を支持する勢力による連立政権。その支持層には、国家安全保障を重視し、ヨルダン川西岸地区の併合やパレスチナ自治の縮小を容認・推進する層が多く含まれている。
本来のシオニズムの「ユダヤ人が自らの国家を持つ」という当初の目的をすでに達成しているが、現在のネタニヤフ政権はシオニズムを「ユダヤ人の領土的拡張」と結びつけ、その名のもとに周辺地域への侵略や支配の正当化に利用している状況となっている。ヨルダン川西岸での入植地拡大やガザ地区での軍事行動は、単なる安全保障上の対応だけでなく「シオニズムの継続的使命」として位置づけられ、内部的正当化を行っている。
この拡張路線には宗教的聖地が深く関わっており、エルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地が集中する場所であり、イスラエルは東エルサレムを含めて「不可分の首都」と主張している。また、ヨルダン川西岸にはヘブロンやベツレヘムなどユダヤ教にとって重要な聖地があり、宗教右派は「神が約束した土地を取り戻すことこそシオニズムの使命」と訴える。当初は近代的・世俗的な民族運動だったシオニズムが、宗教的使命と結びつくことで、より強固な排外的ナショナリズムへと変質している結果が現状の強硬路線となっている。
ここでやっと本題となるハンナ・アーレント(1906–1975)という女性について紹介する。ドイツ生まれのユダヤ系政治哲学者で、ナチスの迫害から亡命し米国を拠点に活動した。彼女の最も大きな特徴は自身がホロコーストを経験したユダヤ人でありながら、シオニズムやアイヒマン裁判に対してともすれば「反イスラエル」とも取れる警鐘を鳴らし続け、それ故に特にイスラエルにいるユダヤ人から強い反発を受けたということ。
アーレントはイスラエル建国そのものには一定の理解を示したが、その進め方と国家像に深い懸念を抱いていた。アーレントが危惧したのは、イスラエルがユダヤ人のみを中心とした排他的な民族国家となり、軍事力と安全保障を最優先することで、長期的な孤立とアラブ諸国との恒常的な対立を招くこと。アーレントは、パレスチナにおけるアラブ人との共存を模索し、多民族的な政治共同体を構築すべきだと主張していた。また、彼女は被害者としての歴史を過度に強調することが、自らが加害者となる可能性を軽視する結果を招くと指摘し、歴史的な悲劇の記憶が免罪符として機能する危険性も説いていた。
アイヒマン裁判は、ナチスの高官アドルフ・アイヒマンがユダヤ人の大量虐殺の実行に関与した罪で1961年にイスラエルで開かれた裁判。アイヒマンは戦後アルゼンチンに潜伏していたが、モサドによって捕えられエルサレムで裁かれることになった。この裁判は、ニュルンベルク裁判以来の大規模な戦争犯罪裁判であり、単なる個人の刑事責任を超えたホロコースト全体の歴史的検証の場ともなった。
アーレントはこの裁判を取材し、『エルサレムのアイヒマン』にまとめた。この中でアイヒマンを「悪の凡庸さ」の典型とみなし、彼を冷酷な悪魔ではなく命令に従い思考停止した官僚的人間とした。つまり、深い憎悪や悪意ではなく「考えずに行動する」ことが大量虐殺に加担する原因となる、と主張したのだ。これはイスラエルやシオニズム観点からすれば、自分たちは悪魔的な絶対悪の被害者であり、そこから立ち上がったユダヤ民族、そしてイスラエル建国というアイデンティティに反するものであり猛烈な批判にさらされる。さらにアーレントは、イスラエル政府が裁判を自らの正当性の証明に利用した点、またユダヤ人指導層(ユダヤ評議会)がホロコーストに部分的に関与していたことを批判的に論じたことが、批判に拍車をかけることとなる。
アーレントは多くの批判にさらされたが、その批判的推測や警鐘は現実のものとなっている。
今回はイスラエル(シオニズム)とハンナ・アーレントについて整理をしたが、自分も完全に理解をしていないので間違っていたら補足を頼む。
そして彼女はユダヤやイスラエル関係だけでなく、共同体運営についてもとても興味深い主張や著書が多くあるので、興味がある人はぜひ触れてみてほしい。(とはいえ共同体のあり方は、ネット前後でかなり異なるので彼女の思想が今もそのままは通用しないが・・・)
『全体主義の起源(1951年)』と『エルサレムのアイヒマン(1963年)』は特におすすめだ。
多くの場合、起こってしまったことに対する警鐘はそのはるか前から鳴らされているのである。
しかし、それを無視し時には批判することで風化し、実際に起こってやっと振り返ることしかできないのだ。
アーレントに触れて現代の世界情勢と照らし合わせれば、多面的視野や思考を意識的に取り入れるということの重要性を改めて感じることができるはずだ。
まず、「ダブスタが悪いのは損だから」って言い切ってますけど、それもただの価値判断であって、絶対的な根拠ではないんですよね。損かどうかって立場によって変わるので、Aにとって損でもBにとって得なら「悪い」とは限らないですよね?
あと「矛盾を気にしないと進歩がない」とか言ってますけど、歴史的に見ても人類は矛盾だらけの制度や慣習の中で進歩してきたわけで、むしろダブスタを利用して調整したから社会が回ってきたんじゃないですか?
「怜悧な隣国に餌食にされる」みたいな雑なたとえを出してますけど、国際関係なんてダブスタの塊で、それを是正するどころか利用することで生き残ってきてる国ばかりですよね。
それに「ばかにはわからない」とかレッテル貼りして勝ち誇ってる時点で、議論じゃなくて感情論になってるんですよ。結局「ダブスタは悪い」って自分の思い込みを強調してるだけで、論理的な説明にはなってないんじゃないですか?
で、質問なんですけど、もしダブスタが絶対悪だとしたら、親が子供に「宿題しろ」って言いながら自分はやらないのもアウトなんですか?それって現実的に成立すると思います?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20250822-GNMTN6HEMBIX3K7VXZBTHD4B6A/
仕上がってるはてサの反応は「だって、参政党みたいな極右排外主義者は絶対悪なんだからしかたないじゃないか(キョトン)」というもの。
それ以外の反応は「同じ手で来られてもいいのか?ば───っかじゃねえの?」というもの。
自分の感想はどっちでもなく、人死にが出ない程度ならバンバンやりあったらいいんじゃないの?と思います。
そりゃ守るもんがある人は馬鹿なことはしないほうがいいよ。でも左右過激派なら小競り合いくらい普通じゃないの?
逮捕者もけが人もバンバン出していこうよ。そのほうがおもしろいじゃん。ネット上の口論ばっかりがヒートアップしながら鼻血の一滴すら流れない社会なんて気持ち悪いよ。
8/15 日が近づいてきて、戦前の日本が、人権意識に厚い正義のアメリカと戦った、被人道国家であった、的な番組がますます増えてきて辟易しているんですが。
キング牧師の「I have a dream.」という演説と、終戦の日、どちらが先で後か、どれくらい先で後か、ちゃんと理解しているだろうか?
日本史と世界史の「テスト勉強」だけしてきた人、あるいはそもそも授業をとってなかった人も多いだろう。
終戦から20年近く後でも、アメリカ国内ですら人種差別が常識だったんだよ。
戦前の欧米の白人が、非白人に対して、日本人に対して、どういう感情を持っていたか、わからんか?
その中で、アメリカが日本、日本人に対して何をしてきたか、知らんか?
日本が「人種的差別撤廃提案」を提案したのは1919年(大正8年)。
おわかり?
絶対悪だった。
しょーもない嘘ついて怒られるのはわかるよ。
Switch 2を転売で買うという行為が、ルール上問題ないけど倫理上問題あるというのもわかる。
でもそれに対して明らかにやりすぎだよね。
あの炎上を起こしてる人達、「絶対悪中川翔子に対して我々が正義の名の下に天誅を下す!んほぉ〜中川翔子を徹底的に人格否定できちゃうオデ、正しい〜!褒めて褒めて〜正しいオデを褒めて〜!」みたいなテンションじゃん。
いやいやイカれてるでしょ。
しかも、実際はどうだったのかなんて確かめようがないから本当は転売で買ったのかどうかもわからないっていう。
ああいう、自分が勝手に作った大義名分らしきものさえあれば何をやってもいいという考えの人がアニメ会社に火点けたりするのかな?
おお怖い怖い。
Switch2が出てきて、相も変わらずXは「転売=絶対悪」という大合唱だ。
品薄のたびに「転売ヤー死すべし」だの「市場の敵」だの、罵倒語がタイムラインを埋め尽くす(転売は違法じゃないが、罵倒は違法なんだが…)。
しかし転売そのものを悪と断定する根拠はどこにもない。むしろ「転売禁止」を叫ぶ側こそ、市場の原則も、経済活動の自由もすべて殴り捨て、感情だけで噛みついているのである。
まず第一に、転売憎しの声は、大雑把に言えば、自分が定価で買えない不満と、楽して儲ける奴への嫉妬(もちろん楽ではない)の合わせ技だ。
驚くほど論拠が脆弱で、倫理っぽい言葉を並べても具体的な損害の根拠は示されない。
ここで、Xできたクソリプを紹介しよう
情に訴える典型例。そもそも権利の所在は任天堂→小売→購入者に順々に移るだけ。誰が買うかは市場が決めることで、衆愚が決めることではない。
ならば家賃、食料、光熱費など必需品と比較し、Switch2が社会インフラ並みの必要性を持つか? 話はそこで終わる。安く贅沢をしたいだなんて我がままに過ぎない。
また、市場経済はそもそも需要と供給の差分を価格に反映させる仕組み。希望小売価格は推奨値であって、固定価格ではないのにも注意が必要だ。
まあ、要するに「買えない悔しさ」と「正義を気取って転売ヤーを殴る快感」が結託しているだけ。倫理でも法律でもなく、単なる感情のガス抜きにすぎない。 <h3>o- **</h3>
中学の公民の教科書を見返してほしい。市場価格は需要と供給の交差点で決まるとしっかり書いてあるはずだ。
「転売屋が価格を釣り上げる」という非難は、実は需給調整メカニズムそのものを否定しているに等しい。
要するに、転売屋が存在しても「買い手が納得する値段で取引が成立した」という事実は変わらない。
さらに言うと、転売によって、「高い金を払ってでも今すぐに買いたい」という人の選択肢が生まれるのだ。
転売屋は転売屋に噛みつき、罵倒を繰り返すだけで何も産み出さない正義マンよりずっと需要があり、市場の役に立っているというものだ。
任天堂の転売対策ガーという批判も的外れ。そもそも、任天堂に転売を止める強制力はないし、
そもそも、任天堂は、転売を完全シャットアウトする技術的手段を用意していないわけではない。
海外のような市場価格に応じた値付けを徹底する、顔認証付きチケットのように本人確認を徹底する、品薄商法をやめるなどの対策をとればいい話だ。
ではなぜやらないか? 答えは「転売対策をしてます」のアナウンス自体が好印象の演出にすぎないからだ。
「お金さえ出せば解決できる」というのは、シンプルな世界観でありながら、場経済の大原則であり、別段新しい話ではない。
メーカーは意図的に供給を絞り、転売屋は市場価格を補正する仕組みは、非常に効率的に機能している現実から目をそらしてはならない・
syamuさんの記事とか読んでいたんですが、彼よりも確実に不埒な悪行三昧をしている自分はどう罪を贖えばいいのか…と考えてしまいました。
彼より自分の方が人間として悪だし、指弾されるようなことをたくさんしてきたというのは実感としてあります。
いっちゃなんですが自分がやったことに比べればsyamuさんがやってきた「悪行」なんて重箱の隅をほじくるようなレベルでしかないです。
彼に対しては「働け」という声もあります。彼が労働に関してどの程度のスキルを持ち合わせているかは判別ができません。
そもそも労働スキルとかそういうことに関しては特に体系的に学んでおりませんし、ある仕事ではポンコツでも別の仕事をすれば非常に優秀ということはよくあるわけです。
だから自分はsyamuさんに対して「働け」ということはできません。彼が見せている断片だけで労働スキルを推し量ることは自分にとっては困難です。
翻って自分の話をしましょう。自分が「働け」といわれる理由としては労働自体が贖罪という側面もありますが、今まで金銭的に迷惑をかけた人へ弁済するというのもあります。
その目的をもって自分がどこかに雇われたと仮定します。自分の卑劣な性格を考えると遅かれ早かれ雇い主や他の従業員などに後足で砂をかける真似をするのではないかという懸念があります。
また、その前に自分の能力不足でお客さんや雇い主に迷惑をかけたりしたら?ましてやそれで塗炭の苦しみを味あわせたとしたら?と考えると働くという行為にも及び腰になります。
精神を病む直前働いていた会社でも軽い業務負荷(平均残業60時間程度)に耐えられず、最終的に目をかけてくれた上司とかに砂をかけるまねをしてしまいました。
その後の調べで精神自体は大学生と大学院生時代から一貫して病んでいて就労後に爆発しただけでしたし、そういう意味では勤め先は自分のせいでばばをひいたわけです。
こういう無礼な真似を恩のある人たちにしてしまった時点で、やっぱり自分はsyamuさんより悪だと思ってしまうのです。
これも弁明ですが、食っていかなければいけない以上一応自分も税務署に開業届を出して零細で自営やっているわけです・
こういう業務負荷の低いレベル(日曜深夜や暮れ正月に雑務とか商品開発とか顧客対応をするぐらい)ですら精神力をゴリゴリ削られていくような感覚になります。
ただ、零細なのでなかなか食べていくのも大変ですし、そういうわけで「自営しながらやとわれで働く」という選択肢も加えていかなければならないとも考えています。
そういう現実があるにもかかわらず「働く」ことから逃げているのは自分も同じです。
なんなら御託並べて自己正当化に汲々とする自分より、そういう的外れの助言に取り合わないsyamuさんの方がよっぽどまともだと思います。
これ以外にも自分は散々悪いことをしてきました。ここで「悪いこと」の実例を書くことすら及び腰になるあたり、自己保身大好きの卑劣な人間だと感じてしまいます。
syamuさん名物の「精子スプリンクラー」ですが、自分も小学生のころ同級生の女児に下ネタを口走って泣かせてしまったり、中学高校とちょっと気になっていた女子の前で奇行に走って傷つけてしまったりしました。
大学以降はそういうのに凝りて「自分が何をやっても女性を傷つけるだけだし、自己の欲求のために女性を傷つける行為は絶対悪だ」と思うようになりました。
ただ、思ったところで行動が伴わなければ意味がないわけです。小中学校の時代みたいに知らない間に女性を意味なく傷つけているのではないか、という疑念はぬぐえません。
他にも大小さまざまな人道にもとる行為や触法行為などを行ってきながら生を偸んでいるわけです。
syamuさんより自分のような人間こそ真に指弾されなければならないのは火を見るよりも明らかです。
syamuさんより悪辣で他者に不幸と災厄をまき散らす人間はどのように贖罪すればいいのか?そしてどう生きるべきなのか?という羅針盤は欲しいです。
とはいえそういうものを求める時点で己の知性の弱さを感じさせてしまいます。浅学非才という言葉すら生ぬるいです。白痴です。
ただ、心が弱っている人はカルトとか過激思想に引っかかる可能性も大きいため、こう正当性のある助言か犯罪者集団や過激思想を持つ手合いのおためごかしかということも判別せねばなりません。いよいよ難儀な時代になったと思うわけです。
贖罪のつもりが「○○アノン」に与することになって結果自分がさらに人を痛めつけたりする結果になったなら…と考えると暗澹とします。
Wordで「障がい者」って打つとさ、いっつも下に赤い波線引かれるんだよな。
これ、地味にイラッとしない?
分かってるよ、「障害者」が一般的な表記だってことは。でもさ、こっちは意図して「がい」をひらがなにしてるわけじゃん。「害」の字が持つネガティブなイメージを避けたい、っていう配慮から生まれた表記だって、もう結構広まってる話だと思うんだけど。
自治体の文書とか、NPOのサイトとか、結構な割合で「障がい者」表記を見かけるようになったよね。なのに、天下のマイクロソフト様謹製のWord様は、いまだに「それ、スペルミスですよ?」みたいな顔して赤線引いてくる。
毎回「無視」するか、「辞書に追加」するか、しなきゃいけない。いや、辞書に追加すりゃいいんだけどさ。なんかこう、デフォルトで認識してくれても良くない?って思うわけ。
別に「障害者」って書くのが絶対悪だ!って言いたいわけじゃない。TPOとか、文脈とか、色々あるだろうし。でも、「障がい者」っていう表記が存在して、それが一定の意図を持って使われているっていう現実を、そろそろソフトウェア側も認識してくれてもいいんじゃないかなって。
なんか、こういうちょっとした配慮とか、言葉のニュアンスの変化みたいなものを、機械的に「間違い」って断定されちゃう感じが、なんともモヤっとするんだよな。
お前んとこのAIは、そういう機微はまだ分からんのか?って、ついWordに向かって毒づきたくなる。