
はてなキーワード:絵画とは
というのも考えたら変なタイトルだ。
「楽園」については、南洋の島=楽園というステレオタイプに依拠している。
「ゲルニカ」はピカソの絵画でも有名な、世界初の戦略爆撃により推定で1600人程の死者を出したスペイン北部の街である。
と、そこまでは誰でもわかるのだが、ゲルニカはいまでも存在するふつうの田舎町である。注釈なしに地獄の代名詞として使われる謂れはないのだ。
「ペリリュー楽園の重慶」「ペリリュー楽園のドレスデン」「ペリリュー楽園の東京」だったらなんだかよくわからないだろう。え、結局どこの話なの? と。
じゃあなんでゲルニカの場合だけがなんとなく据わりがいいのか?ただただ、音の響きのせいだろう。
手塚治虫が確かカタツムリの巨大化した怪物にゲルニカという名前をつけていた。
しかし何度もいうがゲルニカはただの地名である。おどろおどろしい響きだと感じるのも多分日本人だけだろう。
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。
芸術なんて何も知らないが家の近くにあるホキ美術館に行ってきた。かの有名な、写実的な絵が色々飾ってある美術館だ。
木の絵とか、家の絵とか、果物の絵とか、大きいのも小さいのもあったが特に面白いと思うものはなかった。
写真に撮るのと同じなんじゃない、と凡庸極まりない感想しか出てこなかった。
唯一楽しかったのが裸婦の絵だ。
腹の肉付きはこうなっているのかとか、乳首の色はこれなのかとか、他の絵と違っていくつか感想が湧いたりもした。
そこでふと思ったのが、他の絵でも画家が同じくらい対象に興味を持っているとしたらどうだろうか。
写真を撮るのに比べ、絵を描くのは途方もない時間と手間がかかるだろう。
我々が女体に興味を持つのと同じくらい、風景画を描く画家は自然に取り憑かれ、理解したいという情熱が湧き上がっているのだ。
そのような稀有な情熱、それこそ感嘆すべきであり、絵画の魅力を作り上げるのではないだろうか。
家に帰る道でそんなことを思った。
徳島や高知の美術館が購入し展示していた絵画が、贋作画家ベルトラッキの贋作だったというニュースがあった。
ベルトラッキは既に懲役を終えて、悠々自適な生活を送っちゃっているという。(数十点の贋作のうち、ほとんどが時効成立で懲役6年)
彼は実在の過去の画家を研究し、「存在していたが行方不明で誰も見たことがない作品」を作り出して、専門家も見抜くことができないレベルの贋作を多数作り出した。
ベルトラッキは、贋作を作った犯罪者でもあるんだけど、別の角度から見ると、すでに現代アートの核心ど真ん中を突いちゃってた人でもあった、と思う。
現代アートって、もう「うまく描けたか」とか「本物の絵の具か」みたいな話じゃなくて、「この作品が何を問いとして投げているか」が価値の中心になってる世界。
彼は、ただ絵を上手に真似した人じゃなくて、「この画家が、もしあの時代にこういう作品を描いていたら?」という、あり得たかもしれない歴史そのものを捏造してたわけで、これってもう「贋作」というより、「美術史のフィクションを作っていた」と言ってもいいかもしれない。
それによって「結局、何を本物だと信じているのか」「名前と来歴が価格を決めてないか」「専門家の鑑定って、どこまで絶対なのか」みたいな、アート市場そのものの弱点を露わにしてしまった。これは制度批評そのものだし、もし彼が最初から「これは贋作です」と明かしたうえで同じことをやっていたら、それはもう完全に現代アートの展示として成立していた可能性が高い。
たとえば、存在しない画家を設定して、その架空の人生と時代背景ごと作品を量産するとか、「これは完璧に本物っぽく作った贋作です」と明示した状態で展示するとか、それだけで「人はどこで感動してしまうのか」「贋作と知った瞬間に価値は消えるのか」みたいな問いを、観客自身に突きつけられる。体験型のコンセプトアートになる。
実際に一部の人たちは、彼を単なる詐欺師としてだけじゃなくて、「意図せずしてコンセプチュアル・アーティスト的なことをやってしまった人」と見ているらしい。
市場や鑑定制度を騙し、オリジナル神話に問いを生み出し、しかも技術も異様に高い。それはクオリティとして評価され得るとしている人たちがいる。
もし最初からアートとしてやっていたら、「市場と真贋を丸ごと批評した作家」として評価されたかもしれない。または、「何をどのように描いたかよりも、誰が描いたか」となってしまい、無名のまま筆を置くことになるか。
通信制高校のイラストコースの授業は、ご褒美みたいな授業が無いと学校に通えない子のためのお楽しみ授業だ。
①まず通信制高校に行くな。
本当に中学の出席日数が全然無くて入学出来る高校が通信制しかない、毎日登校する体力がない、そういう子供以外は通信制高校には行かないほうがいい。
コロナ禍でのオンライン授業を小中で経験したせいか、親も子も授業ってオンラインでいいんじゃない?って空気がある。よくない。
オンライン授業は子供にとってはサボりたい放題、ろくなテストもなく赤点や追試もない。結果通信制高校卒業の頃には中3時点と大して学力の差がない18歳になるか、もっとバカな18歳になる。
リモートワークもあるしこれからは家で授業受けて家で仕事する時代!って?
じゃあ親のあなた方はみんなリモートワーク出来てるんですか?結局出社を強いられてる方が大半じゃないですか?
お母さん方、子どもを家で見ながらできる仕事はないか…って考えたけど大変だった時代を経験しているでしょう?
結局大人になっても毎日出社できる体力気力時間がある人間のほうが仕事がある。
全日制高校に行ける出席日数があるなら頑張って全日制に行って、働ける体力気力と、学力をつけたほうがいい。
通信制高校のイラストコース出身のイラストレーターを知っています!絵が上手い人を知っています!という意見もあると思う。その人はイラストコースに行かなくても絵が上手かったしイラストレーターになれたタイプの人だ。
まずイラストコースではデッサンもパースもろくに教わらない。人物のクロッキーも数回あれば良い方だ。なんとなく、さわりだけ、お試しみたいな授業があるだけだ。あとはなんかアニメ関連の会社見学とかがいっぱいある。会社見学で絵は上手くならない。
そもそも日本で素人に絵の技術をいちばん叩き込んでくれるところは美大受験用の美術予備校だ。
美大では絵の基礎技術は教わらない。受験前に予備校で教わってるのが前提だから。
専門学校でも大して教わらない。2〜3年で全員を現場に出せるほど描ける人間にすることは不可能だから、元々基礎技術がある生徒や、在学中に自宅で腐るほど自主練出来る生徒にだけより専門的な技術を叩き込んでくれるのが専門学校だ。元々描けないし努力も出来ない人は、専門学校では生徒ではなくお客様として扱われる。適当におだてて辞めずに満期の学費を払ってもらって卒業後のことは知らんぷりの存在、お客様。
全国に50校くらいある。地域によって偏りがあって残念ながら公立美術科が無い県も存在するが、もし住んでる県にあるならラッキー。学費も安い。入学時にデッサンの試験があるのである程度描ける人、やる気がある人だけが選抜されてる可能性が高い。
水は低きに流れるし、人間はモチベと実力の高い集団にいると自然とレベルが上がる。
公立に比べると学費がかかるかもしれない。学校によっては絵の上手い子には特待生制度など用意してくれてる。これもだいたい入試にデッサンがあるのである程度人間が選抜されてる。でも中には倍率が1倍切ってるところもあるので、入試の倍率と卒業生の進路実績(東京藝大武蔵美多摩美あたりが数人でもいればレベル高い可能性あり)をよく調べよう。
予備校代がかなりかかるし、そもそも親が子供の大学進学を考えてない家庭では厳しい選択肢だが、夜間部に三年間通えば基礎的な力はかなりつく。
有閑主婦や退職じいさんが油絵とか描いてるところでしょ?そういう絵じゃないんだよな描きたいのって…と思うかもしれないが、大抵どこも教えてるのは藝大美大を出た人間なので基礎を教わるだけなら問題ない。
ただ美術系高校や予備校と違って毎日描く環境ではないから家でやる課題を頼んで出してもらうといい。
④誰にも教わらなくても絵が上手い人間もいるが……
上にあげたようなところで絵を教わらなくてもイラストレーターとか漫画家とか画家になる人はいる。でもそういう人はごく一部だ。
大抵どこかで教育を受けている。
でも今の時代ってインターネットに知識が転がってるし専門書もいっぱいあるからひとりで上手くなれるんじゃない?そう思う人もいると思う。
確かにネットで上手い絵はいくらでも見れる、YouTubeで絵を描く過程を全部見せてくれる人も大勢いる。
でも絵が上手くなるのに必要なのは、自分の絵のダメさへの気づきだ。
上手い絵と自分の絵を見比べて、ここがこんなに違う、自分はこんなに描けてない、そう気づけることだ。
美術予備校とか美術系高校で繰り返しやってもらうのはこれの訓練だ。
毎日あるいは毎週講評で並べられて比較される、点数をつけられる、先生が指示棒で指差しながら「ここ形狂ってない?」とか言ってくる。そういう経験がど素人を気づける人にする。
自分で気づけるようになってようやく絵が上手くなり始める。
みんなそのために絵を習う。
あとインターネットに転がってるイラストハウツーってまじで実際ヘタな人がしょうもないハウツー描いてバズったりしてるから、自分がある程度描けるようになるまで無料のハウツーは信用しないほうがいい。
しょうもなハウツー描いてる絵師は滅びてください。いたいけな小中学生に変なこと教えないで。
⑤親御さんへ
絵を描くのが好きで将来に夢もあって中学はそれなりに通えてた、そういう子が通信制高校イラストコースに行って、たいした鍛錬もされずに本人も不完全燃焼を抱えながら貴重な高校三年間という時間だけが過ぎていくのを見てきました。あれは見ていて大変きついものがあります。
子供の言う「プロの指導も受けれるんだって!」「ここならやりたいことが出来る、楽しく通える!」をあんまり信じないでください。
15歳はまだかなり子供です。世間を知りません。楽ができるのと楽しいのとの区別も知りません。
子供が行きたがってる学校の評判はよく調べて、可能なら実際に目で見て、社会経験のある大人の目で判断してあげてください。
あと、美術業界やイラスト業界の人の言う「子供の頃から絵が好きで、好きだから頑張ってこれた、プロになれた」みたいなのの「好き」のレベルって、朝起きたらご飯の前に絵を描いてる、授業中も絵を描くのがやめられなくてノートが落書きだらけ、放課後も友達と遊ぶよりゲームするより絵を描くのが好き、絵を描きすぎて夜更かしする、そういうレベルです。
学校の授業の中じゃ音楽体育よりも図工や美術が好きとか、ゲームもiPadも取り上げたら暇つぶしにお絵描きしてるとかじゃないです。
お子さんが一度絵を描く道に進むと競争相手はそれくらい絵にガチな人達ってことも知っていてください。
・絵の情報量が多すぎる(漫画における良さが出ていない、CG黎明期みたい)
・出力者に画力がない → 出力された絵が良いかどうかの判定ができない
漫画の絵って絵画とも違って、説明的である必要があってかなり難しいんだよね
うまく行くケースとしては「描けるけど筆が遅すぎる」みたいなタイプの漫画家かなあ?
あとはアニメのコンテ描けるくらいに見る力はある人
「イラストは参入障壁が高いから全体の質が高くなるのであって、AIでその障壁が下がるのは望ましくない」って主張を見かけた
AIイラストが気に食わない気持ちとかは分かるんだけど、参入障壁の話をするなら絵画の官展が行われていたような時代こそ正義で、誰でも作品を発表できるデジ絵やpixivも良くないって話になっちゃうんじゃねえのかなあ
8"人"分の役割じゃーなくない?
主役2人でオフィリア役やイエス役を分担しあってるとしたら0.5+0.5=1人分じゃんか
むずかしすぎて大衆ウケしないのホソダは自分でわかってるじゃろ
でもなー声豚が叩いてるのは全然別で
本屋大賞をとった本だしと、読んでみたのだが、モヤっとした点を言語化したいので増田に書いてみた。
まず読んでみて、初めに思ったのは、登場人物たちがいい人たちばかりで、膳所という場所は平和な世界だなと。ジュブナイル向けの作品で、中学生や高校生たちの生活が楽しそうに描かれていて、成瀬の行動が常識外れだけど人々を幸せにしていくようなストーリー展開が受けているんだろうなと、初手で思った。
けれど、しばらくして、何か黒いモヤモヤという読後感が残り、これは何だろうという思いがふつふつと湧いてきた。
「掘り下げてみると、あまりにも良い話すぎるからだと気がついた。」
記憶力が良く、学校の成績も良い。視点が人と変わっていて、拘りが強いことで、人知れず、絵画や音楽などで賞をとったりする。けれど、人とのコミュニケーションはあまりとらず、笑顔を見せることなく、一見淡々と過ごしている。クラスの中では、成績の良さで褒められることはあれ、普段の生活は人とあまり会話することなく、端からみると我関せずみたいに思われている。無害なので、クラスの中では問題児としてみられず、特に注意されることはない。学校の規範を守り、外れることなく生活しているので、一見、順応しているように見えるが、本人は人知れず、苦しんでいると言ったケースを見てきた。
物語の成瀬は、人を呼び捨てにしながらも、自分の思ったように伝えることができているが、物語中で、思い込みとコミュニケーション不足からの齟齬が何度か生まれている。けれども、実は、周囲の人々の配慮やサポートがあって、それが表面化しない。一見、成瀬の意志の強さが、物語の推進力になっているように見えるが、実は彼女の常識から外れた行動を受け止め、サポートする人々がいて、初めて成り立つ話だとわかる。
これが、現実世界だとなかなか上手く行かない。特性を理解し、サポートするような人々には、こういった特性を持つ子供たちはなかなか出会わない。なので、本人は人知れず、周囲との齟齬を克服しようとするが、一人であがくだけで、余計に辛さが募るばかりとなり、ついには自己嫌悪とストレスから、学校を休んでしまったりする。上手く、教室内で教師やカウンセラーのサポートを得られるケースもあるが、成績が優秀であるがゆえに、また自分から言いださないゆえに、気がつかれずに時が過ぎていき、本人の体調が悪くなって、初めて気がつくといったことが起きる。
成瀬のような話は、一見、いい話だが、このような特性を持った子供の光の面を殊更に良く描き、困難さに対して蓋をしてしまっている。笑顔を見せず、侍のような口調でも周囲の人が彼女の天才的な特性を認め、好意的にみてくれている環境があるのが成瀬だが、彼女をロールモデルにしようとしたら、そんな環境は普通はないので、マネをしようとする同じ特性の子供はすぐ周囲との齟齬に苦しみ、破綻するだろう。
また、特別な才能がある子供であれば、常識外れでも大丈夫といった見方を世間的にするようになったら、それはそれで、当事者の子供は、自分の能力でマイナス面を打ち消そうとし、よりプレッシャーが増大するかもしれない。
コミュニケーション上の摩擦や孤立、困難さを軽視し、それを個性としてエンターテインメントとして消化する。何か、こういった特性を持つ子供を見世物にしている感じも受けてしまった。
「少し異なるかもしれないが、似たような物語は、実は以前にもある。フォレストガンプだ。」
知的障害の男性が主人公の波乱万丈の人生を描いた話で映画にもなったが、ある種、社会にとって「理想化された障害者像」が描かれている。正直で有能であれば、知的障害であっても社会的に有用だというようなステレオタイプ的な見方と国に従順であれば成功するといった保守的なイメージを負わせ、「突出した異能のマイノリティ」を見世物にして、現実のマイノリティの困難さに対して蓋をしてしまっている。
フォレストガンプにしても、成瀬にしても、世間的には評価が高い作品だからこそ、影響力があり、多くの人々に波及する。一方で、困難さを抱えるマイノリティに対して、ある種の歪んだステレオタイプを与えることにもなる。
表現の可能性を狭めるつもりではないし、こういった作品によるカタルシスを否定する意図ではなかったが、モヤモヤを言語化したかったことと、こういったエンターテインメントに負の側面も同時にあることを伝えたかった。好きな作品を貶されたと感じたのであれば、申し訳ない。
Permalink |記事への反応(16) | 02:34
か?
noteで佐藤秀峰が江口の話題にいまさら乗っかる記事が上がってた。
https://note.com/shuho_sato/n/nd31093ca6f55
序段では「江口がやったことはこのように問題があり、本当に問題があるならこのように対処されるだろう」と
しかしむしろこの段では「現実に問題があるなら当事者同士で問題解決が行われる」という
「外野がとやかく言うことではない」という言外の圧を感じるほどに勤めて客観的すぎる論調で書かれている。
模写は悪か、と論の展開を始め、
スラムダンクのトレス疑惑に触れ、ジョジョの奇妙な冒険のポーズ模写問題に触れる。
これはどちらも「ほぼ黒」なのにネット上では擁護されがちな作品を持ち出し口を塞ぎたい意図が見て取れる。
次に、模倣は悪か、論を進め
「ブラックジャックによろしく」を書いた数か月後に「医龍」が始まった話
ただこれに関しては「ブラックジャックによろしく」と「医龍」には「医療もの」くらいしか共通点はなく
これを「模倣」のカテゴリに入れるのは流石に論に無理がありすぎる。
金田一とコナンも模倣の論を出す時の例として適切かは疑問符が付く。
そしてなぜか「ブラックジャックによろしく」はブラックジャックの著作権を犯してないし
コナンも金田一も多分犯してないけど、作者が生きてたらなんて言ったかはわからないよね、と
今回のトレス問題とは全く関係のない作者の権利と心情は別だよねみたいな話を持ち出す。
そして最終的に、ここはもう欺瞞も欺瞞なので丸々引用することは違法でしょうか。
一切の著作物の影響を受けずに創作を行うことはおそらく不可能です。
写真を横に置いて描かない場合でも、記憶に残ったイメージを参考にします。
そもそも人は見たことがあるものや、経験したことのあるものしかイメージすることができません。
僕の絵はオリジナルではありません。
先人が築き上げてきた技術や知恵を学習し、発展させようとしてきました。
もしも僕が差し出す番が来たら、差し出すのが筋ではないかとも考えます。
目の前の景色を絵の具を使って模倣すれば絵画になり、文字を使って模倣すれば文章になり、音を使って模倣すれば音楽になります。
こんな話誰もしてねぇんだわという話である。
もちろん、これは「今回の事件を経て僕が思っただけのことなんですよ」
「一般的な、もしくは僕が考える芸術論の話ですよ」ということだとは思う。
でも、今回の件は今回の件だから。
今回の件に絡めたのはお前だから。
それは他人の著作物を勝手にトレスしてオリジナルとして売り付けていいという話にはならないし
すべての著作物は他の自然物の模倣に過ぎないんだからそれをパクるのも模倣なのでは?ともならない。
AIの無断学習なんか話にならんくらいゴリゴリに他人の著作物をパクっといてそれが美しかったらなんだというのか。
まぁ佐藤氏はアーティスト(笑)として芸術無罪という立場をとったということなのだろうけれど
なんでいまさらそのスタンスで参戦してきたんだろうと疑問に思った。
つーか、いつもそうっちゃいつもそうだけど単なる隙あらば自分語りでしかない。
確かに子育てって自他境界がちょっとバグってるところがあると思う。
子育てって世話をすることとか鑑賞することに喜びを見出せないと難しいよねとは思う。
育てって実質育てられたものの頑張りで花開くんだけれど、そうなるように手を貸して、そうなるように導いて、そうなる姿をまじかで鑑賞するというのは
なんかそういう報酬系が存在するとしか思えないものがあるんだよな。
植物でもペットでもファンや推しでもいいんだけれど、あれはなんか育てているという気分に喜びを見出す何かがあるとしか思えない。
絵画鑑賞とか映画鑑賞というのでもないのだけれど、ただ見ているだけで楽しいみたいなのってあるよね。
ぶっちゃけて言えば絵だって映画だって他人が描いた何かとか映像を取って編集した何かとかで、それを見ることに喜びを見出すのはおかしい。
前記事(anond:20251027134053)では、篠田氏が明言しているとおり「青の純度」はラッセンに着想を得たがラッセンのモデル小説ではなく、篠田氏がラッセンのモデル小説であることを否定した点をもって同氏が嘘つきであるかのように非難するのは的外れである旨を説明した。
さて、そうだとしても、「青の純度」は原田氏の研究を参考にしたにもかかわらずそれに言及しておらず不誠実でないか、という主張がある。なお、著作権侵害ではないこと(したがって表現の剽窃が無いこと)は原田氏自身も認めるとおりであるから前提としてよかろう。
ここから先は出題編だけでなくオチまで含めた全面的なネタバレがあるので、ネタバレを読みたくない未読者にはブラウザバックを推奨する。
原田氏が「青の純度」が自分の業績の盗用であると主張する主な根拠は次の4点である。
①悪徳商法と切り離して美術的評価を検討するという視点は自分が言い出したことである。
②「インテリアアート」という用語は自分たちが世に出したものである。
③日系人の墓が西を向いているという話は自分が現地で伝え聞き紹介したものと同じである。
④偽ラッセンが8年前の嵐で自宅を被災したという設定は、ラッセンが2023年のハワイ島大火災で一時行方不明になったという自分が発見した事実に酷似している。
このうち②は原田氏のラッセン展(2012)よりも前から「インテリアアート」という用語が広く使われていたこと、③は原田氏自身も現地で伝聞した旨を述べているとおり原田氏の独創ではないこと、④は「8年前の嵐」と2023年の火災は似ても似つかず、8年前の嵐は物語の重要な小道具であり、2023年の火災はエピローグで軽く触れられていることなどから、いずれも牽強付会と言ってよかろう。
そして、この点でも、以下の理由から、原田氏らの研究を参照したとは考え難いように思う。
まず原田氏らの研究について、ラッセンを再評価してみるというアイデアだけなら、永野の「ゴッホより普通にラッセンが好き」というネタを掘り下げれば容易に行き着くアイデアであって(それにしても「普通に」を入れた永野は慧眼である。)、研究成果とは言えない。研究的価値があるのはその先の、再評価するとどうなるかという部分だ。
それでは原田氏らの研究はラッセンをどう再評価するのか。これについては原田氏らの論考集に対するAmazon読者コメントがよくまとめてあるので引用する。
1.美術界がラッセンを無視した理由:純粋美術はラッセンの属するインテリア・アートを一段と下に見ていた。アートの美意識を理解しない層に支持されていて、大きなマーケットを獲得していることへの反発があった。また、芸術には必ずあるはずの作家の自己の投影がない「空っぽ」の作品としてラッセンを排除していた。ラッセン以前にも美術界は古くは藤田嗣治、岡本太郎、草間彌生、バブル期にはヒロ・ヤマガタ等に対して無視の態度をとってきた。
2.ラッセンの作品への評価:マーク・マッカイやロバート・ネルソンなどのマリンアートの模倣であって彼のオリジナルではない。同じ素材(イルカ、クジラ、星、波など)の組み合わせを替えて使い回す自己反復が顕著である。特徴は圧倒的な情報量と人工的な空虚さである。「調和」「エコ」「静寂」「浄化」などのイメージを散りばめることでリラクゼーション効果を発揮している。ラッセンはいわばアロマキャンドルである。
3.日本人がラッセンを愛した理由:バブル期に豊かになった市民は百貨店で自宅の装飾用に絵画やインテリア・アートを買うようになった。それはアールビバン(株)がヒロ・ヤマガタやラッセン展示会を地方都市で巡回して売りまくる素地となった。ラッセンの作品は、過剰であり、大衆的である。リアルで過剰な演出がバブル期の人々の心性と符合した。見た目がカラフルでわかりやすい、専門知識がなくても理解できる。1作品を1000枚単位で刷る大量生産によって全国で強引に売りまくった。
4.ラッセンのプライベート:ハワイの工房に100人の従業員を雇って作品を制作している。公式サイトでの肩書きは画家、詩人、作家、音楽家。ラッセンが愛好するものとして海、サーフィン、高級車、有名ブランド品、美食、マウイの豪邸などの徹底した成金趣味。彼が出しているCDアルバムの収録10曲のうち自作は2曲のみで他の8曲はカバーである。しかし、自作を装っているところにラッセンという人物の本質が窺える。
これに対し作中の偽ラッセンの作品の評価や背景は次のようなものである。
絵の特徴点とされるものが軒並み先行研究に表れていない篠田氏の独創である。特にその技巧的特徴や日本人に受けた理由を画家の日本人の血で説明している点は、本作のテーマに関わる重要な特徴だろう。そうなればこそ本作はハワイ在住日系人に関する参考文献を多数掲載した、現代の日系人と在ハワイ日本人の物語なのだ。
そして、作品の特徴を日本人の血に求める以上、本作の画家とラッセンの評価は全く無関係だ。本作はラッセンの再評価などまったく目的としておらず、ラッセンの再評価についての文献を参照する必要に乏しい。というか、もしラッセン研究での再評価を借用したならば、「青の純度」の物語は全く成り立たない。
原田氏自身が、「青の純度」と自身の研究の類似性を研究成果ではなく再評価というアイデアしか挙げることができていないように、これで篠田氏が原田氏の研究を剽窃した、不道徳だと言うのは、無理があるのではないか。
篠田氏がラッセンに着想を得て執筆した小説「青の純度」であるが、篠田氏がラッセンのモデル小説ではないと述べていることについて、篠田氏がラッセンをモデルにしたことを否認しているという誤解が広まっているようだ。
「青の純度」はラッセンに着想を得た画家の話ではあるが明らかにラッセンのモデル小説では無い。
なのだが、この事を説明するには、人によっては「ネタバレ」と言うようなところを説明する必要があるので、多くの謙虚な読書家の感想文からは未読の者がそうと理解しにくい形になってしまっている。
私としては、物語の半分よりも手前(5分の2ほど)で明かされるそれは「出題」部分(探偵ものであれば死体の発見)であってネタバレではないと思うのだが、まぁそう思わない人もいるだろうから、駄文を挟みいささか猶予を置いてからその部分の説明に入るので、出題部を含めてネタバレを嫌う人はこの先を読まずにブラウザをバックすると良い。
ラッセンに着想を得たがラッセンのモデル小説ではない、とはどういう意味か。
そもそもモデル小説という語の意味が若干の広がりがある上に、モデル小説という概念を持たない人は誰かをモデルにしたキャラが出ているだけのものまでモデル小説と呼び、しかも「青の純度」の偽ラッセンはそれですらないのだ。
モデル小説というのはある理想(モデル)を小説の形にした小説というのがおそらく最もインターナショナルな定義だが、日本語の場合はある実在人物をテーマにした小説を指すことが多いように思う。篠田氏がいう「モデル小説」も後者の意味である。
モデル小説のテーマとなった人物は、少なくともその行動の主要な部分がモデルにされた人物に沿ったものとなる。テーマとはそういうものだからだ。
篠田氏がラッセンのモデル小説では無いと言ったのは、作中の偽ラッセン(私が架空人物の名前を覚えるのが苦手なので「偽ラッセン」と書くが、「青の純度」の読者なら納得してくれるのでないか)はラッセンの人物像を作中に顕現させようとしていないからだろう。証明は後述。
なお、作中の登場人物が実在人をモデルにしているというだけではモデル小説とは言わない。モデル小説とは小説自体の分類なので、個々のキャラのモデルの話とは別次元の話だからだ。言うならば、グラップラー刃牙にアントニオ猪木をモデルにしたプロレスラーが登場したからといって、グラップラー刃牙はアントニオ猪木のモデル漫画ではない。
これを前提に「青の純度」の中身に触れよう。
バブル後に一世を風靡し、印刷物を限定品と称して高値で売るエウリアンの悪徳商法が問題となって消えた偽ラッセン。
出版社に勤める主人公は、たまたま飾ってあった偽ラッセンの風景画を見つけ、かつて馬鹿にしていたそれが琴線に触れた。
そこで調べると、今(2023年)になって再び偽ラッセンの印刷物の新作展示販売会が活発になっている。その主催者は、かつてエウリアン商法をしていた会社の元従業員である。
出版社勤めの主人公はラッセンの大衆人気に関する本を出すことを思いつき、本に絵を載せる許諾を得るために、ハワイ島に暮らしているという偽ラッセンを訪問すべくハワイ島に飛んだ。
しかしそこで、偽ラッセンが10年くらい前に既に死んでいたことが判明した。
と、ここまでがいわば出題編である。
10年くらい前に死んだ人物の新作が2023年に出てきているのだから、読者は当然、ゴーストペインターを疑うわけだが、この先は君自身の目で確かめてみてくれ。
現実のラッセンは存命だし、近年の再評価は2012年のラッセン展に始まる原田氏のラッセン研究による正統評価の流れである。
10年くらい前に死に、令和最新版エウリアン商法としてリバイバルされている作中の偽ラッセンとは似ても似つかない。
したがって「青の純度」はラッセンの「モデル小説」ではないことは明白なのだ。
ちなみに作中で、主人公は当初、「犯罪的な商法と、作品・作家を切り分け、その販売手法に言及した後、ジャンピエール・ヴァレーズの作品そのものを取り上げ、そこにある芸術と大衆性のせめぎ合いについて語る」ことを企図して偽ラッセン本を企画しハワイに渡った。
しかしその結果、偽ラッセンは、マリンアートの巨匠Robert Lyn Nelson(→Wikipedia(en))の流れを汲む1人に過ぎないことを知り、ただその中では技巧が卓越していたという評価に至った。
また、偽ラッセンの絵画は原画ではなく印刷物を最終成果物と想定して描かれており、原画より印刷の方が良いという。
そして何より10年くらい前に死んでいたことと現在の売り出し方。
結局のところ、主人公はハワイに渡り様々な事実を知ったことで、当初の目論見とは異なる結論に至った。
したがって、偽ラッセンがラッセンのモデル小説では無いのと同じく、主人公についてもまた、近年の再評価者のモデル小説ではないということになろう。
まずドス黒い感情を「持ってはいけないもの」だと思うと苦しいので、湧いて当然の怒りだと受け入れてみてはどうだろう。どうだろうって言っても簡単にできることじゃないけれど。
持っていていいよ。ただ直接そうなるように仕向けると、望みが叶っても苦しいので、ドス黒さを受け止める別の手段があるといい。すごく性格の悪い、普段は見ることのない種類の映画を見るとか。絵画や詩なんかに自分の気持ちの反映のような表現を見つけると救われたような気持ちになることもあるが、その辺は趣味に合わせて。でも趣味が持てる時間が無いだろうから、作れた時間の中で整えられたものを受け取るのが楽だと思う。なので映画とか美術館の特別展にふらっと行くのをおすすめしたいが、何が合うかは分からない。昔は何が好きだった? あるいは何が嫌いだった?
気持ちで折り合いをつけにくかったら、フィジカルに発散するのもいい。ジムで憎い人を思い浮かべてサンドバッグに八つ当たりする。ジムの中ではその気持ちをどれだけ湧き上がらせてもいいことにする。外に出たらおしまい。「気が済んだ」と口に出してみるのもいい。
思い出してしまって当時の気持ちがその温度で湧き上がってしまうのは、止めるのは難しい。でも一瞬思い出して「しまう」のは止められなくても、「思い出し続ける」ことは止められる。「もう関係ない」と別のことをする。この手の切り替えで自分が一番効いたのは、「そんなこともあったなあ」だった。過去のことにする。過去のこととして語ることでそうする。みたいな感じ。
がんばっているのに、がんばっている内容じゃないところで苦しいのはつらいだろうな。人に話すと割と「そんなことは思わない方がいいよ」みたいなことを言われがちな内容な気がするので、AI にぶちまけてみるのもいいかもしれない(ちなみに ChatGPT ならGPT-5 ではなく 4o の方が文意の解釈が得意)。
アンディ・ウォーホルと江口寿史とは並べられるような格なのかという点は気になるが言及しない
絵画におけるサンプリングなどというのは世迷い言で、スケッチという技法で知られているものと本質的に同一だ
音楽では機械を使わなければ再現できない音が存在するのに対して、絵画では二次元への写像は原理的にキャンバス上で再現できる
実際予備校で訓練を受ければ「時間をかければ見えるものは描ける」レベルまではかなりの割合の生徒が到達する
そうなってくると写実的であることに技術的優位性はなくて、紙と鉛筆でやっても、フォトショップと液タブでやっても精神的には同じことだ
ダビンチもフェルメールもカメラ(・オブスクラ)で立体を平面に写し取っていた
サンプリングとかなんとか、新しい名前をつけなければならないくらいダサい
もうひとつ、写実的に描くことが商売として成り立つかどうかという点について、スピードは無視できない
たとえ3時間かければ紙と鉛筆で完璧な輪郭線が引けるとしても、フォトショップと液タブでなら同じことが25分でできるならば経済的優位性がある
日に何枚も完成しなければ生活が成り立たない駆け出し専業イラストレーターにとっては、フォトショと液タブとnon・noで手抜きをして量産し、糊口をしのぐのは正当化されえる