
はてなキーワード:経営方針とは
新卒で入った会社に目標がなくて、どうしたらいいかわからない。
部→今期の目標とか、なにもない。
KPIはない。事業計画はない。今期目標もない。数字を出したり功績を出した人間が褒められるとかもない。
恐ろしいことに、それで会社の数字は全く問題がないらしいことだ。
うちの部署は特にそれが顕著で、部署会議なんかも一度もやったことがない。
というか、マニュアルもなければOJT制度もない。先輩によっては仕事に引き継ぎ書を作ってくれる人もいるが、
基本的に口頭で一度説明して終わり。(質問があればいつでも答えてくれるけど)
みんな、なぜか働いていて、なぜか数字を伸ばし続けている。
うっすらと、あの人は仕事してる、あの人はしてないくらいの周囲の評価くらいはある気がするが…。
先日、ちょっと機会があって役員にこの会社、どこに向かってるんですか?と聞いたら
知らない、とのことだった。社員が今何をやっているのかもよくわかってない、と。
「あんまり利益出されると税金が高くなるからもっと経費使ってくれ」とまで言われた。
部署で一番成績を出している人は「目標なんてない。やることやってるだけ」と言いながら自分で仕事を取ってきている。
若手頭みたいな人は、「働きたいと思ったことがない。こんな会社潰れたらいい」と言いながら、やはり自分で仕事を取ってきて、こなしている。
部長も「特に目標はない。困ったことがあれば言え」と断言していて、本当によくわからない。
それで、みんな何故か案件を増やし、働いている。成績は上がり続けている。
いや、いいんだけど、いいんだけれども。ノルマをこなすのにヒイヒイ、というのも嫌なのだけれど。
みなさん、どう思いますか?
才能がないと思ったら、早いうちに河岸を変えた方がいい。
早ければ早い方がいい。
可哀想だから(教え子が? それとも自分が? w)、って「がんばれ、がんばれ。才能なんて関係ない」みたいに騙すのは、むしろ害悪だよ。
10年後、気付いて路頭に迷わせるとして、その責任は取れるのか?
まぁ、本人自身が気づいて路頭に迷いつつあるけどどうしようもないのかもしれんが、地獄に道連れはやめてやれ w
それで生計を立てない、趣味の範囲で楽しむ分には好きにすればいいけど、エンジニアに限らず、それなりのお金をもらおうとしたら、才能、向き不向きは超えられない壁として現実に、強固に存在している。
球速120km出ないけど阪神の一軍のピッチャーに、ってのはどう逆立ちしても物理的に不可能だ。
でも草野球は楽しめる。
才能がなけりゃ、一人で永遠に「大いなる助走」を続けりゃいい。
誰にも迷惑かけないなら。
医師、看護師、会計士、経営者、etc.etc. にも、才能、向き不向きはある。
落ち着きないし。
同じことを何日も続けたら、爆発する。
「明日も同じことしなきゃならないのか……」って考えただけでも、死にたくなる。
こんな感じに、才能がものをいう分野って、意外に多い。
ソフトウェアエンジニアは、設計実装の抽象度が多層化していて、その巧拙によって安定度、運用や機動的な新機能追加の手間、リードタイム、金や何やら、数十倍、規模複雑度が爆上がりしている今なら下手すりゃ数百倍差が出る。
その差をちゃんと理解するには、巧の現場の「こういう世界があるんやー……」って実体験が必要だったり、巧レベルの才能が必要だったり、経営知識が必要だったり、経済知識も必要だったりして、「拙」の現場にぶら下がってるだけのエンジニアが「才能なんて幻想」って吠えたっても「マジ、迷惑だからやめてね」って思う。
どの炎上現場でも、高粘度現場(リーダーマネージャが理解できないからって邪魔ばっかりしてきたり、そもそもプロダクトがぐっちゃぐちゃになってたりして、どんな行為がサービスの息の根を止めるかわからなくて身動きが取れない「震える舌」みたいな現場。物事が全然進まない現場。通常、経費で札束ガンガン燃やしてるはずだから、ここも炎上現場っていう)でも、この手のエンジニアが腐るほどぶら下がってるんだよね。
たいてい、生み出されるソースコードとドキュメントの割合がおかしなことになってる。
いや、そういうの主催してる暇があったら、コード書けよ、って。
でも、Web記事引いてきて、「〇〇にはこう書いてある」とかドヤ顔で机上の空論で時間潰して「俺も一端の理論派エンジニアだぜ……」とか、いや、お前はただの受け売りを理解もせず垂れ流してるだけのそこらへんのAI と変わらんクズだよ。
おいらの師匠の一人は「TV出たり、本書いたりするやつは二流。一流は、自分の仕事に集中していて、他のことやる暇ないから」って言ってたけど、ほんとその通りだと思うよ。
シャバと違い、ソフトウェアの世界は驚くほどのスピードで巨大化、複雑化している。
30年、40年前なら、社会性の乏しい、プログラミングコンテスト受賞者みたいなエンジニアでも無双できたけど、今は無理なんだよね。
今だと玉拾いも任せられないくらいだったりする。
ちょい前も、PostgreSQLの中身いじれます! って東大卒業生いたけど、視点が局所的すぎて全体感に欠けてて、プロジェクトがヤバい状態になってるのが理解できなかったりしてたからね。
そろそろリリースできる状態になってる予定だけど、おいらの読み通りα版完成が3ヶ月遅れ、そこで大量の不具合が発覚してベータ版完成がそこからさらに3ヶ月以上遅れ、不具合積み残したまま見切り発車、ってなるんじゃねーかな、と思ってるんだが w
才能の種類、方向性によっては、10年前も今もたぶん10年後も変わらず十分通用するものはあるんだけどねー。
そこに生活水準をあげてしまうと、自分はもう通用しないと気づいても、撤退できない。
マイカーガー。
マイホームガー。
子供ガー。
愛犬ガー。
んなもん知るかっ!
そういう「元エンジニア」がリーダーとかマネージャとかにクラスチェンジして、事業、プロダクトの足を引っ張る。
あそことか、そことか、具体的な企業名はあげられないけど、そういうエンジニアが漬物石のように重しになって、身動きが取れなくなってるところが多い。
VCとかから、もっと売り上げを上げろ。成長率を上げろ、というプレッシャーを与えられ、何かしなきゃいけない。ってなって、外付けの雰囲気だけのサービスをどんどん外付けしていく戦略を取る。
1年で10。
2年で30とか。
マジかよ w
思い思い行き当たりばったりに作ったら、手間だけ増えてそれを壊すわけにはいかなくなって、さらに身動きが取れなくなっていく悪循環しか見えないんだが、そんな経営方針で大丈夫か?
とか意味不明な決定して、認証認可v1、認証認可v2、認証認可v3とマイクロサービスが増殖して、さらにv4を企画してるとかいう会社だってある。
真っ当な声には、自分の存在感を示すためだけの反対を唱えて邪魔したりして、現場で手を動かしているエンジニアより高級を取ってんのに、事業、プロダクトへ与えるダメージは倍増する。
さらに、自分の地位を死守するために、それを脅かす腕利のエンジニアを陥れる、排除することに全力を傾ける。
これで3倍界王拳だ w
経営者はできるエンジニアたちに任せていると思い込んでいるかもしれないが、さて、どうかね? w
大本営発表的にはうまくいっているとされているサービスが、その裏側はカーオブファイヤーみたいなところって、結構ある。
はっきりいう。
今はクラウド環境のプロダクトで、どのように自動テストで検証可能なシステムを構築するかの手法の研究を続けてる。
具体的には、今まで関わってきた炎上現場で安定稼働を達成させた手法(TDD)だな。
ワークライフバランス? w
才能のない人は河岸変えろ。
業務経歴書にも今まで使ったことがあるサービスの名前をたくさんたくさん載せてます。
じゃねーよ。
ボルトに世界水泳、吉田沙保里にNBAに出場させるような使い方してて、どこが技術力だよ。
ってのが多い。
「どうしてこのAurora、リーダーがこんなにたくさんぶら下がってんの?」
「テナントが増えて、アクセスが増えたので、負荷分散のために増やしました。水平スケーリングってやつです」
うん。水平スケーリングは知ってんねん。この程度のテナント数、ユーザー数、アクセス数で、どうしてこんなにでかいインスタンスのリーダーがぶら下がってんのか? って聞いてんねんけど……。
って現場、多い。
でも、今通常営業してるサービスでも、こういうところ多いんだよな。
それはともかく、
「マイクロサービス化していて、いま120を超えたところで、当面160になります」
「……は?」
「……デプロイの時、どうすんの?」
「変更があるサービス名を書いたファイルを一緒にコミットして、それ読み込んで、GitHubActionsでデプロイさせてます」
「Cloneして立ち上げます」
「これ……、モノリポ?」
「120個?」
「120個」
「なんか立ち上がらないんだけど……」
「あ、修正中なんで、〇〇と××のコミットをチェリーピックしてください」
「……動かないぞ」
「昨日の夕方、変更が入ったみたいなんで、△△のコミットもチェリーピック。いや、++のブランチを……」
5日で立ち上げ切れるんか?
って現場がね、案外たくさんあるんだ。
「ほう……?」
どうして「自分が間違えてる」「自分が見当外れなことをしている」可能性ってのを考慮しないんだろう、この人らは?
っていつも思う。
マイクロサービスの目的も前提も理解しないで、HowToだけ猿のように繰り返してるって自覚ないんか…… (-_-)
ってマーカーで引いた一文見せつけられるんだが、その前に書かれてある前提とか目的とか、書かれてない暗黙のそれとか、いわゆるコンテキスト削ぎ落として、単語レベルの理解を開陳されても、「は?」としか反応できんのよな。
120のマイクロサービスとか、お前、認知科学の知識もないねんな……。
それマイクロサービスじゃなく、「粉砕されたモノリシックサービス」っていうんやで、と。
まーじで、技術本とかの恣意的なつまみ食いで訳分からん理論構築すんなよ。
それでプロダクトがうまく回ってなかったら、それが答えなんよ。
まぁ、「うまく回ってる状態」ってのを知らない、理解できないだろうから、正しい答えに行きつかんだろうけど。
その正しい答えに行きつかない、ってのを
「致命的な才能の欠如」
って呼ぶんよ。
山形県銀山温泉の老舗旅館「藤屋」にアメリカ人女性が女将として嫁いだことは、テレビや新聞などで話題となりました。彼女の名前はジニーさんで、JETプログラムを通じて来日し、旅館の若旦那と結婚。伝統的な温泉旅館の女将として奮闘する様子が多くのメディアで紹介されてきました。
その後の経緯
現在について
山形県銀山温泉の藤屋旅館に嫁いだアメリカ人女性(ジニーさん)は、離婚後アメリカに帰国し、日本には戻っていません。現在の詳細な消息は公表されていませんが、失踪や事件性はなく、静かに新たな人生を歩んでいると推測されます
結果として「藤屋」の経営者であった藤敦氏は、旅館の倒産と、妻ジニーさんおよび2人の子供を失うことになりました。
藤敦氏は「伝統と革新」「経営の持続と地域性」のはざまで苦渋の決断を下しましたが、結果的に経営も家族も失うことになりました。大規模改装による経営戦略の失敗と、家族内の価値観のズレが複合的に作用したことが、最大の要因といえます。
藤敦氏がジニーさんの反対を押し切って「おしゃれな改装」を断行した理由は、主に経営上の危機感と時代の変化への対応が背景にあります。2000年代半ば、藤屋旅館は老朽化や競合激化、観光客のニーズ多様化といった課題に直面していました。これに対し、藤敦氏は「伝統を守るだけでは生き残れない」と判断し、有名デザイナーに多額の資金を投じて近代的な大改装を実施しました。
この判断の裏には、
があったとみられます。
を招き、経営破綻の直接的な要因となりました。
このような「過剰な設備投資」や「ターゲット層の見誤り」による経営破綻は、旅館・ホテル業界で珍しくありません。
などが多数報告されています。
> 「過剰な設備投資、高コスト構造、需要予測の甘さが招いた失敗は、ホテル・旅館経営の典型的なリスクであり、市場調査や顧客視点の欠如が大きな要因となる」
藤屋旅館のケースも、伝統と革新のバランスを見誤り、経営者の判断が家族や地域社会との亀裂を生み、最終的に経営も家庭も失うという典型的な失敗事例の一つといえます。
昔いた職場、女性社員が多かった。もちろん能力はバラバラ。でも、なんとなく”女性だから”ってことで許される空気があった。
Aさんは『生理で体調悪い』と月1で必ず遅刻。Bさんは『話を聞いてほしい』と言って会議中に関係ない話を始める。Cさんは『私なりに頑張ってます』が口癖で、エクセルすら使いこなせなかった。
で、ある日、会社の経営方針がガラッと変わった。成果主義・評価制度導入。結果、全員辞めてった。
残ったのは、淡々とやるべきことをやる男たち。ミスが減り、納期が守られ、会議が静かになった。誰も『察して』と言わない。成果は出たし、ボーナスも上がった。
もちろん、女性全員が悪かったとは言わない。でも、『何となく守られてた人たち』が去っただけで、こんなにスムーズになるとは思わなかった。
「人のために動くのが面倒くさい」GW明けに新入社員の退職急増…“退職代行”に250件超の依頼
普通に文字が読めるなら、日本の雇用者数は6千万人だから、250件だと割合にして0.0004%程度だ。
かなり希少なケースなので、相応の深刻な事情があった可能性もあり、安易な決めつけで叩くべきではない。
が、記事ではここに「新入社員の退職急増」「やめる理由1位はやりがい」などと退職代行とは無関係のワードを並べてミスリードを誘い、
釣られた人達が「ずるい、自分だって仕事は嫌なのに」と大合唱をするという毎度の展開は五月初旬の風物詩とでもいうべきだろうか。
「ブラック企業」「社畜」「みんなで不幸になろうキャンペーン」
こんな言葉が生み出されて20年以上経つが、未だに何ひとつ変わらないのだから、これはこの国の制度というより日本人の遺伝子なのだろう。
なにせ、朝礼で「サービス残業は禁止」だと言っても誰も従わないし、法律で「サービス残業は禁止」だと決まっていても誰も守らない。
日本全体を覆っている空気は、会社の経営方針や国の法律よりも強固で、自己犠牲的で、彼らにとってはとても美しいものだ。
これでいて日本人はおよそ無宗教だというのだから驚異的だ。明日から給料が半減するといっても彼らはサービス残業をやめないだろう。
さて、若手社員の話だ。年配の方々は恐らく誤解しているが、若い人が仕事を辞めるのは転職して成功するためではなく、成功しないようにするためだ。
もっとわかりやすくいうならば、結婚しないから仕事も適当でいいということだ。この意味がわかるだろうか?
日本人として生まれてきたからには、国の将来を背負って、時には戦闘機で敵艦に突っ込んでくれると勝手に思い込んでいないだろうか?
他人に対しては辛口だが、考えてることは甘いようだ。でも心配はいらない。
なるほど、「助成金なしで経営できる病院なんてあるの?」って疑問、
たぶんそこがもう出発点からズレてるんだと思う。
こっちは、その前提に“どこまで依存してるか”と、“それをどう使ってるか”の差が生き残りの分かれ目になるって話をしてるの。
健全な病院ってのは、助成金を「補填」じゃなくて「仕組みの中の一部」として計算してる。
でもゾンビ病院は、助成金を**「これがないと完全に死ぬ」ってところまで当て込んでる。**
つまり、
で、そこには必ず「経営方針」がある。
どの診療科を持つかどの患者層を中心にするかどの地域・施設と連携して紹介を回すかどの設備に金をかけて、何は捨てるかどこまで“無理してでも続けるか”を判断する基準があるか
それを「採算を考えるやつはバカ」って空気で全部吹っ飛ばしてきた結果が、今のゾンビ病院の山なんだよ。
この意見について、客観的かつ論理的に評価するために、AppleとGoogleの企業文化、情報公開の方針、および経営戦略を考慮して分析します。
1.Appleの秘密主義と情報公開
評価ポイント
- Appleは確かに秘密主義を貫いており、未発表製品やプロジェクトの詳細を社外に漏らさないように厳しく管理しています。これはブランドの神秘性を維持し、市場でのサプライズ効果を高めるための戦略です。
- ただし、Appleは規制当局やユーザーの要求に応じて、必要な情報を開示することもあります。例えば、プライバシー保護に関する方針や環境への取り組みなどは積極的に公表しています。
- しかし、「顧客のために秘密主義を貫いている」という点については議論の余地があります。例えば、修理の独占(Right to Repair運動への消極的な姿勢)や、社外開発者に対する制限(App Storeの厳格なルールなど)は、顧客の利益よりも企業のコントロール維持の意図が強い可能性があります。
結論
Appleの秘密主義は顧客の体験を最適化する意図もあるが、企業の競争力を維持し、ブランド価値を管理するための側面が強い。そのため、必ずしも「顧客のため」と断言するのは一面的な見方である。
2.Googleのビジョンと方針の変遷
評価ポイント
- Googleは「Don’t beevil」から「AIファースト」へと経営方針を変化させるなど、そのビジョンが時代とともに変わっています。特にクラウド事業やAI戦略の強化は、利益追求と技術革新の両立を目指すものです。
- しかし、Googleのプロジェクトの中には、発表後に突然中止されるものが多い(例:Google Stadia、Google Glass、Google+)。これは、企業の収益性や市場の変化に迅速に対応する姿勢の表れですが、ユーザーからは「持続性がない」「約束が守られない」といった批判を受けることもあります。
- 収益化の優先度が高いことは確かであり、プライバシーに関する方針転換(例:サードパーティCookieの廃止延期)なども、最終的に広告収入を守るための動きと見ることができます。
結論
Googleのビジョンは技術革新と収益のバランスを取る中で変化しており、必ずしも「迷走」しているとは言えないが、一貫性が欠けると感じられることがある。また、収益が優先される場面では、発表した理念を後退させることもあり、ユーザーから不信感を持たれる要因になっている。
全体的な評価
- Appleは秘密主義を戦略的に活用しており、その一部は顧客の利益に寄与するが、企業のコントロール維持のための側面も強い。
- Googleは市場の変化に応じて方針を変えるが、そのプロジェクトの継続性の低さや収益優先の判断が「迷走」と見なされることがある。
したがって、元の意見には一定の妥当性があるものの、両社の戦略を単純に「顧客のため」または「金儲けのため」と断定するのは、やや単純化しすぎた見方であると言える。
端的に言って、どちらがマシですか?
「マシ」という基準をどこに置くかによりますが、以下のように整理できます。
→製品・サービスの継続性が高く、戦略もブレにくい。エコシステムの維持を重視するため、長期的に信頼しやすい。
→ 新しい技術を積極的に試し、市場の変化に柔軟に対応する。ただし、途中で撤退することも多い。
「安定した体験を求めるならApple、最先端を試したいならGoogle」と言えますが、ユーザーへの影響を考えると、Appleのほうがマシかもしれません。理由は、Appleは方針が一貫しており、突然サービスを打ち切るリスクが低いからです。
会社用のカバンを置き、ドアを閉める。やっと家に帰ってきた安堵感が身体を包む。そして少しずつ、「会社の自分」から「本当の自分」へと戻っていく感覚がある。肩の力が抜け、表情が和らぐ。息遣いが変わる。
多くの人がこの二重生活に慣れてしまっている。朝、「会社モード」のスイッチを入れ、夜にそれを切る。時にはそのスイッチの切り替えが難しくなる日もある。会議で発した言葉、同僚に見せた表情、上司に約束した「チャレンジ」の数々が、家に持ち帰った荷物のように心に残る。
私はこの役割を演じることに長けている。「前向きに取り組みます」「新しい挑戦を歓迎します」「結果にコミットします」—これらの言葉は、まるで外国語を話すように自然に口から出てくる。そしてある意味では、それは本当に外国語なのだ。組織という国の公用語を、私は流暢に操る。
しかしある日、鏡を見ていて気づいた。「会社の自分」の表情が、いつの間にか「本当の自分」の顔にも忍び寄っていることに。眉間のシワ、目の下の疲れ、口角の下がり方—それらは境界線の崩壊を示す小さなサインだった。
「これは持続可能なのだろうか?」という問いが心に浮かぶ。二つの人格を維持することのエネルギーコスト。毎日演じることの疲労感。そして何より、「本当の自分」が少しずつ痩せ細っていくような感覚。
同僚の多くは、この分裂を問題だと思っていないようだ。むしろそれを当然のことと受け入れている。「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と区分けすることで、彼らは自分を守っているのかもしれない。しかし私の中では、その境界線がだんだん曖昧になってきている。
穏やかに生きたい。自分のペースで仕事をしたい。持続可能な方法で価値を提供したい。これらの願いは、果たして現代の企業文化と相容れるものなのだろうか?それとも、二つの顔を持ち続けることこそが、生き抜くための唯一の戦略なのだろうか?
時に、勇気を出して本音を漏らしてみることがある。「もう少しペースを落としませんか?」「この締め切りは現実的でしょうか?」「持続可能な方法を考えてみては?」と。そんな時、返ってくる反応は様々だ。理解を示す人、困惑する人、そして時に、「やる気がないのか?」という暗黙の非難。
この非難が最も痛いのは、それが外からだけでなく、自分の内側からも聞こえてくることだ。「自分はただ楽をしたいだけなのではないか?」「みんなは頑張っているのに、なぜ自分だけ特別扱いを?」「これでは出世できないぞ」という内なる批判者の声。
しかし、よく考えてみれば分かる。「チャレンジし続けること」が全ての人にとって幸せの形とは限らない。日々の小さな満足、着実な前進、持続可能な貢献—これらもまた、価値ある生き方なのではないだろうか。
問題は、この「穏やかさ」という選択肢が、現代の企業文化ではほとんど見えないところに追いやられていることだ。それは弱さの印、野心の欠如、甘えとして片付けられてしまう。
だからこそ、多くの人が「会社の自分」と「本当の自分」を分け、日々その間を行き来する。そして私もまた、その二重生活の達人になりつつある。演じながら、静かに抵抗する方法を模索している。
「このままでいいのだろうか」
幹部会を終え、誰もいなくなった会議室で、ふとその問いが頭をよぎる。私は周囲が認める「頑張る人」として、この地位まで駆け上がってきた。夜も眠れないプロジェクト、休日を犠牲にした資料、誰よりも早く出社し遅く帰る日々—これらの「チャレンジ」の積み重ねが、今の私を作った。
だからこそ、「もう少し穏やかに」という内なる声に従うことが、これほど難しいのだ。
先日、若手社員が「もう少しペースを落としたい」と相談に来た時、彼らにはアドバイスができた。「無理せず、長く続けられる方法を見つけることも大切だよ」と。しかし自分自身には、その言葉を適用できない。彼らにはまだ、同期との飲み会で愚痴をこぼす自由がある。私にはもうない。
「今さら弱音を吐けない」という思いは、単なるプライドの問題ではない。私の中で「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が曖昧になりすぎているのだ。もし「頑張る自分」が崩れたら、残るのは何だろう?その恐怖が、変化への一歩を阻む。
例えば、部下には「家族の時間を大切に」と帰らせておきながら、自分は深夜まで残業する矛盾。あるいは、「ワークライフバランス」を会社の価値観として掲げながら、自分はその恩恵を受けられない皮肉。これらを指摘する人は周りにいない。いや、もはや自分自身の中にすらいないのかもしれない。
最も怖いのは、「頑張る」という価値観が崩れたとき、私の存在意義そのものが揺らぐのではないかという不安だ。私は何者なのか?「チャレンジし続ける人」という仮面を外したとき、その下には何があるのだろう?
若い頃の私は、上司のことを「あの人は仕事しか知らないんだ」と陰で笑っていた。そして今、鏡に映るのは、かつて笑っていたその姿に近づきつつある自分。皮肉なことに、私はかつての自分が軽蔑していた人間になりつつある。
先日、久しぶりに大学時代の友人と会った。企業とは無縁の世界で生きる彼は、私の話を聞いてこう言った。「君、本当にそれで幸せなの?」シンプルな問いに、即答できなかった自分がいた。
ただ、この孤独には特権も伴う。変化を起こせる立場にいるという特権。もし私が「穏やかに生きる勇気」を示せたなら、それは組織全体に波及するかもしれない。しかし、そのファーストペンギンになる勇気が持てるだろうか?
長年「頑張り続けること」で自分の価値を証明してきた人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことの矛盾と恐怖。それは単に仕事のペースを変えるという以上の、アイデンティティの再構築を意味する。「頑張らない自分」にも価値があると信じられるだろうか?
そして何より、周囲の期待という見えない重し。「あの人がそう言うなら」と私の言葉に重みを置く部下たち。「彼女の実績を見れば」と私の判断を信頼する経営陣。彼らの期待を裏切る恐怖。
この孤独な葛藤を誰かと共有したいと思いながらも、「弱さ」を見せられる相手がいない。それが、上に行けば行くほど増していく孤独の本質なのかもしれない。
だからこそ、この静かな抵抗は、より多くの覚悟と内なる対話を必要とする。表向きは「チャレンジ」のリーダーであり続けながら、少しずつ「穏やかさ」の価値を組織に浸透させていく。それが今の私にできる唯一の道なのかもしれない。
「小さな抵抗」という言葉自体が、すでに贅沢なのかもしれない。
抵抗するには、別の可能性を想像できることが前提だ。しかし私の中では、「頑張る自分」と「本当の自分」の境界線が長年の間に消えてしまった。もはや「頑張らない選択肢」を思い描くことすらできない。
先日、あるセミナーで講師が「自分を大切にする時間を作りましょう」と言った。周りの参加者が頷く中、私は困惑していた。「自分を大切にする」とは具体的にどういう行動なのだろう。想像すらできない。
「19時に帰ります」
同僚がグループチャットにそう書き込んだとき、私は複雑な感情に襲われた。一方では「彼は勇気があるな」と思いながら、他方では「私が同じことをしたら」という想像ができなかった。それは単に評価を気にしているからではない。「頑張らない自分」が存在し得ないという、もっと深い恐怖だ。
一度だけ試してみたことがある。締切の迫ったプロジェクトで、「このスケジュールは現実的ではない」と言ってみた。言葉にした瞬間、激しい不安に襲われた。案の定、「なんとかする方法があるはず」と一蹴された。
しかし最も辛かったのは、その後だ。家に帰っても、「もっと工夫できたのでは」「能力不足を言い訳にしたのでは」という自責の念が襲ってきた。「抵抗」した結果、むしろ気持ちは重くなり、翌日からは倍の時間を費やして挽回しようとした。
結局、「小さな抵抗」の試みは、より大きな自己搾取につながっただけだった。
友人が育児との両立のために時短勤務を選んだとき、心から彼女を応援した。「素晴らしい選択だね」と言いながら、内心では「自分には絶対にできない」と思っていた。なぜなら、仕事のペースを落とした自分を、私自身が許せないからだ。
「頑張らない」という選択ができたとしても、それを自分で肯定できない。そして肯定できないなら、結局は罪悪感に苛まれ、より深く自分を追い込むことになる。これが私の中の悪循環だ。
先日、久しぶりに体調を崩して一日休んだ。熱も高く、客観的に見れば当然の休養だった。それでも一日中、メールをチェックし、できる範囲の仕事をベッドの上で続けていた。「休んでいる」という事実が、耐えられなかったのだ。
最も皮肉なのは、「穏やかさ」を選ぶべきだと頭では理解していることだ。長時間労働の弊害も、バーンアウトのリスクも、すべて知識としては持っている。セミナーでも読んだ本でも、「持続可能な働き方」の重要性が説かれている。
しかし知識と感情は別物だ。「頑張ること=自分の価値」という等式が感情レベルで刻み込まれている限り、どんなに合理的な判断も、内側から崩れていく。
「小さな抵抗」どころか、「抵抗しない自分」を責める悪循環。それが私の現実だ。
誰かに相談できればいいのかもしれない。しかし、立場上、弱音を吐ける相手はいない。部下に「実は私、もう限界なんだ」とは言えない。上司や同僚にも、弱さを見せることはタブーだと感じている。
結局、仕事だけが残る。仕事は少なくとも、明確な評価基準がある。締切を守り、数字を達成し、プロジェクトを完遂する。それが自分の存在価値を証明する唯一の方法だと思い込んでいる。
時々、この生き方に疑問を感じる瞬間がある。深夜のオフィスで、ふと窓の外を見たとき。家族の写真を見たとき。体調を崩したとき。しかしそれらの瞬間は、すぐに「もっと頑張らなければ」という思考によって打ち消される。
「小さな抵抗」ができる人がいることは知っている。羨ましいとすら思う。しかし私にとっては、まず「抵抗したい」と思える自分を取り戻すことが、最初の、そして最も難しい一歩なのかもしれない。
もし本当の意味での「小さな抵抗」があるとすれば、それは外側に向けたものではなく、内側の声に対するものだろう。「もっと頑張れ」と絶えず命じる内なる批評家との対話。それこそが、私にとっての本当の闘いなのかもしれない。
深夜、日付が変わった時刻。また日記を開いている。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いを何度書いただろう。答えのない独り言のように、同じ言葉が繰り返される。「自分のペースで生きたい」という願いと、「これではいけない」という認識。そしてその直後に必ず続く自己否定。
「甘えているだけじゃないか」
「これが自分の選んだ道だ」
「他の人はもっと頑張っている」
日記は、本来なら自分自身との対話の場であるはずだ。しかし私の日記は、まるで二人の異なる人格が争うような場になっている。一方は「穏やかに生きたい」と願う声、もう一方は「それは逃げだ」と叱責する声。
そして結局は、後者が勝つ。翌朝、また同じルーティンが始まる。
「内なる声を取り戻す」—美しい言葉だ。自己啓発本や記事でよく目にする。しかし実際には、どうすれば良いのだろう。「本当の自分」とは誰なのか。「穏やかに生きたい」と思う自分が本物で、「もっと頑張れ」と言う自分が偽物なのだろうか。あるいはその逆か。もはやその区別さえつかない。
かつては趣味もあった。しかし今は、仕事と睡眠以外の時間がどこかに消えてしまった。趣味に使う時間があるとすれば、それは「もっと仕事をするべきだ」という罪悪感と常に隣り合わせだ。そして不思議なことに、休日に時間が空いたとき、かえって落ち着かなくなる。何か「成し遂げるべきこと」がないと、居場所がないような感覚。
会社の同僚が育児休暇から復帰したとき、彼女は「価値観が変わった」と言っていた。「仕事も大切だけど、他にも大切なものがあると気づいた」と。その言葉に深く頷きながらも、内心では「そんな選択肢、自分には許されない」と思っていた。
子どもがいない私には、その「言い訳」が使えない。健康上の問題もない。家族の介護も今はない。「頑張らない理由」が見当たらないのだ。そして何より、「頑張らない自分」を自分自身が許せない。
ある夜、珍しく定時で帰宅し、手持ち無沙汰になった。いつもなら持ち帰った仕事をするか、疲れて眠るかのどちらかだ。この「余白」の時間に何をすれば良いのかわからず、ソファに座ったまま30分ほど呆然としていた。「自由時間」の使い方さえ忘れてしまったことに、愕然とする。
余裕があるはずの時間に感じる、この奇妙な不安感。それは「ゆっくりできない病」とでも呼ぶべきものかもしれない。休むことに慣れていないせいか、あるいは休んでいる間も「何か生産的なことをすべきだ」という声が頭から離れないせいか。結局、半分無意識に仕事のメールをチェックし始めている自分に気づく。
「自分のペースを守る」という言葉は、単に仕事を減らすということではないのだろう。それは「自分自身との関係を取り戻す」という、もっと本質的なことなのかもしれない。
しかしそれには、大きな恐れが立ちはだかる。
「頑張る自分」が自分自身のアイデンティティと化した今、それを手放すことは、自分自身を手放すことのように感じられる。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして仮に存在したとして、その自分には価値があるのだろうか。周囲はその自分を認めてくれるのだろうか。
さらに恐ろしいのは、「穏やかに生きたい」という願望自体が、単なる逃避ではないかという疑念だ。本当に理想を追求しているのか、それとも単に難しいことから逃げようとしているだけなのか。その区別がつかない。
この葛藤を誰かと分かち合いたいと思うこともある。しかし、誰に話せばいいのだろう。部下に弱音を吐けば信頼を失うだろう。同僚には競争相手と見られている部分もある。上司には評価に関わる。配偶者にさえ、「仕事のストレス」としか言えないことがある。
「なぜこのペースを変えられないのだろう?」
この問いに対する答えは、まだ見つからない。ただ、問い続けること自体に、かすかな希望を感じている。この問いが心の中で生き続けている限り、何かが変わる可能性もある。それが「内なる声を取り戻す」最初の、そして最も困難な一歩なのかもしれない。
あなたがこの文章を読んでいるということは、どこかで同じ問いを抱えているということかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。
「このままでいいのだろうか」
「なぜこのペースを変えられないのだろう」
私は時々考える。他の人々も同じ葛藤を抱えているのだろうか。それとも、私だけがこんなにも矛盾を抱えているのだろうか。会議室で周りを見回すと、皆がこの「頑張り文化」に適応しているように見える。彼らは本当に適応しているのか、それとも私と同じく苦しみながら演じているだけなのか。
確かなことは分からない。
時に、若手社員が率直に「このペースはきついです」と言うのを耳にする。彼らはまだ、そう言える立場にある。同期同士で飲みながら愚痴をこぼせる自由がある。妙な話だが、それが羨ましい。立場が上がるほど、弱音を吐ける相手は減っていく。そして、弱音を吐けなくなるほど、内側の葛藤は深まる。
先日、チーム会議で無理なスケジュールについて議論になった。部下の一人が思い切って「このスケジュールでは品質に影響します」と発言した。その瞬間、一部の目に安堵の色が浮かんだような気がした。しかし他の人たちは、「何とかやりましょう」「チャレンジですね」と従来の反応を示した。
本当のところ、どれが本音なのだろう。皆がこのペースを望んでいるのか、それとも皆が恐れているだけなのか。あるいは、恐れてもいないのか。もしかしたら私だけが、これほど深く悩んでいるのかもしれない。
どうすればいいのだろう。この悪循環から抜け出す方法はあるのだろうか。「頑張る」ことでしか自分の価値を証明できなくなってしまった私たちは、どうすれば「穏やかに生きる」ことを取り戻せるのだろう。
時々、社内の様子を観察していると、不思議な矛盾に気づく。表向きは「働き方改革」や「健康経営」を掲げながら、実際は以前と変わらないか、むしろ厳しさを増しているペース。「ウェルビーイング」を経営方針に据えながら、実際には「数字」と「成果」しか評価されない現実。この矛盾に気づいているのは私だけなのだろうか。
社内の若手たちの間で「持続可能な働き方」について話し合う動きがあるという噂を聞いた。彼らは「効率化」や「生産性」という言葉ではなく、もっと率直に「疲れないため」「長く続けるため」という言葉で議論しているらしい。
その噂を聞いて、複雑な感情が湧いた。一方では希望を感じる。他方では、自分たちの世代が解決できなかった問題を彼らに押し付けているような罪悪感。そして何より、彼らの率直さへの羨望。いつから私たちは、素直な言葉を失ってしまったのだろう。
私たちは本当に変われるのだろうか。「頑張る」ことが自分の存在証明になってしまった人間が、突然「穏やかさ」を選ぶことなどできるのだろうか。それは単なる仕事のペースの問題ではなく、アイデンティティそのものの問題だ。「頑張らない自分」など、存在し得るのだろうか。そして周囲は、その自分を受け入れてくれるのだろうか。
「穏やかに生きる」ということが、なぜこれほど難しいのだろう。それは単なる「怠けたい」という願望ではなく、もっと本質的な、「人間らしく生きたい」という願いのはずだ。それなのに、なぜこれほどまでに罪悪感を伴うのか。
この文化の中で、私たちは皆、声なき声で同じことを言っているのかもしれない。あるいは、私だけがこんな矛盾を抱えているのかもしれない。確かなことは分からない。
もしあなたも同じ問いを抱えているなら、少なくともその点では、私たちは孤独ではないということになる。見えない糸でつながった仲間がいるということに、かすかな慰めを見出せるかもしれない。あるいは、それすら幻想かもしれないが。
どうしてる?
日産とホンダの対等合併交渉は、最終的に決裂し、現在では提携関係に留まっています。
日産の譲歩とされていた点としては、以下のようなものが挙げられます。
当初、日産はホンダを傘下に収めることを目指していましたが、ホンダの意向を尊重し、対等合併という形での統合を提案しました。
ADバンは、日産のライトバンであり、ビジネスユースに特化した車種です。この車種の生産終了を受け入れることで、ホンダの意向に沿った車種整理を行う姿勢を示しました。
決裂の原因としては、以下のような点が考えられます。
日産とホンダは、それぞれ独自の企業文化を持っており、統合後の経営方針や意思決定プロセスにおいて意見の衝突があった可能性があります。
両社とも、独自の技術力に自信を持っており、主導権争いがあったと考えられます。
両社は、それぞれ異なる経営戦略を持っており、統合後の事業展開について意見が一致しなかった可能性があります。
日産は、ルノー・三菱自動車とのアライアンスを強化し、海外市場での事業拡大を目指しています。
BCくんの文章からは、高学歴者や特定の職務に就く人々に対する苛立ちや不満が強く感じられます。この感情は理解できますが、それが物事の本質的な理解を妨げる「思考の歪み」につながっている可能性があります。いくつかの点について考えてみましょう。
「セブンイレブンの高学歴の社長が失敗した」という具体例を挙げていますが、これは一例に過ぎず、それだけで「高学歴者は傲慢で失敗する」という結論を導くのは早計です。個々の成功や失敗は、その人物の学歴以上に、時代背景、経営方針、チームの状況など複合的な要因に影響されます。
2. 「双方向性」を主張しながら、相手を一方的に断罪している矛盾
あなたは「双方向のコミュニケーション」の重要性を述べていますが、高学歴者や中高一貫校出身者を「話を聞けない」「傲慢」と一方的に決めつけています。これでは、相手の背景や意図を理解しようとする双方向性が欠けているように見えます。自分が批判している行為を無意識に再現していないか振り返ることが大切です。
「学歴が高い人ほど傲慢」「話を聞けない」という見方が強調されていますが、これは自分自身の学歴や職務経験へのコンプレックスを相対化しようとする心理の表れかもしれません。批判のエネルギーを、自己の成長や新たな視点の学びに転換することで、より前向きな思考が生まれるはずです。
4.解決策に目を向ける
問題点を挙げるだけではなく、「ではどうすれば、より良い組織や社会になるのか」という視点が重要です。たとえば、「各方面から意見を吸い上げる」という提案は素晴らしいですが、それをどう実現するかを建設的に議論することが求められます。
BCくんが持つ「次の人や一緒に仕事をする人のことを考えて仕事をするべきだ」という考え方は非常に大切です。ただし、その理念を広めるためには、感情的な批判ではなく、冷静かつ公平な視点での議論が必要です。自分が否定する相手と同じ行動や思考をしていないか見つめ直し、少しずつでよいので、自分の経験や考えを他者に伝えながら共感を広げる道を探してみてください。それが、BCくん自身が考える「本当に優秀な人」の第一歩にもつながるでしょう。
https://foobar138428.hatenablog.com/entry/2024/12/22/162351
さすがに700万は行くぞ
みんな戸建て買ってるが?というか戸建てのレベルにもよるが?
NTTの給与って管理職になるまで我慢でそれ以降は「高給まったり」なのは知ってるのでは?
そんなやつおらんやろ
そんやつおらんやろwwwww
正規ルートなら完全シークレットで調査が入ってハラスメントが事実なら幹部レベルでも一発アウト処分なんだが?
というか企画部長が個人業績を妬むってどういうこと?部下の個人業績なんてあればあるだけ自分の評価になるんだから歓迎するでしょ
これはマジ
社員なら誰でも社員名簿見れるんだから人事担当である必要は無いぞ
しょーもない論文だけ量産して大学教授に天下りするのが研究所の仕事だぞ
IOWNって社員ですら何か分かって無いんだが何のことを言ってる?APNのこと?
IOWNは詐欺っていうか、ただのビジョンドリブンの経営方針っていうだけだよね
ムーンショットとか流行ったころに前の社長が言い出したよくわからない概念がIOWNで
全ての研究を否定も肯定もしないから毒にも薬にもならない、それがIOWN
最近では仕事をほぼ放棄して最低評価だけで会社に籍を置いたまま
副業で個人事業主だとかスタートアップだとかに参加して1人ダブルインカムを実現しつつ
手厚い健康保険と退職金だけを頂くような輩が多い中で転職したのは大変勇気ある決断ではないかと思います
Permalink |記事への反応(11) | 09:40
アリシアクリニックが倒産したらしい。最近どんな状況なのか追ってはいなかったが、まあせやろなという感じである。
自分は数年前に某大手医療脱毛クリニックの経営元に勤めていた。
医療脱毛ってのは客が行く店舗があって、それの母体である医療法人ってのがあって、さらにその医療法人と手を組んで広告打ったりコンサルしたりしてる会社があるわけだ。
でもって客から一括なりローンなりで巻き上げた金がどこに行くかっていうとほぼほぼ広告費ね。あと人件費。先にこれらに金を使って、新店舗どんどん作って、客を集めて金を稼いでまた広告出して、の繰り返しの自転車操業。自分が勤めてたとこだけじゃなくアリシアや他のクリニックもそうだと思う。
破産が近づくと、店舗ではどうだか知らないが本社では何となく空気感が変わり始める。
まず人事異動がえげつない。上もコロコロ変わるし、一部署丸っと消滅したりする。そんなんだから業務フローの概念が破壊されて、日常の本当に些細な業務とかがかなり回りづらくなる。
経営方針も変わる。質を謳っていたのにバカみたいな低価格のプランを出し始めたり、まだパイが残ってそうなところ(男性とか高校生とか)向けプランに力を入れ始める。こうなったらもうどうしようもないです。ある日突然クリニックの担当医が消えて看護師も何も知らないまま出勤したら閉院になってたとか、ローン組んでるのは別の会社だからクリニックが潰れてもローンは払い続けてねとか。悲惨ですね。
じゃあどういうクリニックを選べばいいのか?簡潔にまとめるとこうだ。
①都度払いができる
②公式HPに「◯◯店オープン!のニュースが並びまくってない」
①は簡単、何かあった時のリスクヘッジ。できるところはかなり少ないし割高にもなるけど、数十万の虚無借金を抱えるよりはよほどマシだろう。
②は開店!閉店!を繰り返してるクリニックは確実に資金繰りがヤバいので。
③は、たとえば◯◯株式会社が医療法人▲▲と医療法人△△を抱えていて、それぞれ▲▲クリニックと△△クリニックをやっている、みたいな場合がある。片方の様子がおかしかったらもう片方も共倒れするのでやめた方がいい。
結局のところ誰が悪いのかといえば、一概にはいえないけど経営者だとか出資者だとかその辺である。店舗の看護師は悪くない。医療法人のトップも悪いが、美容系のクリニックをやる医師に倫理観なんぞ存在しないので責めたところでダメージゼロだと思う。
日本の教育に文句つけるときの定番「日教組ガー」にしても同様。
いや、国の文教政策の問題を論ずるのに、文教予算一手に握って中教審握って何より数十年にわたって文科省をコントロールしてきた政権与党の方針でなく、国の政策にも立法にもほとんど影響を及ぼせず、組織率すら2割程度の組合ごときが問題だと主張するとか、常識で考えておかしくね?
一企業で考えてみてもさ、わけのわからん経営方針で赤字続けてる会社の役員連中が、自分らと方針が対立しているとはいえ組織率2割程度の組合を目の敵にしてわーわー言って組合潰しに精出してたら、いや、あんたらの無能のせいで会社が絶賛傾いてる最中なんやけど?……ってならんか。
part1はこちら https://anond.hatelabo.jp/20240914181511
GWを興した折口雅博はジュリアナ東京とベルファーレを興した有名人物。防大卒で、任官拒否して日商岩井に就職、同社在籍中にイギリスのディスコ、ジュリアナのライセンスと経営元の出資を受けて芝浦にジュリアナ東京を開店し、社会現象ともなった。次いで六本木にベルファーレをオープンするが、共同出資者のAVEXにクーデターを起こされ社長を解任されてしまう。
AVEXは元はダンス系の輸入レコード卸で、ディスコ用レコードというのは六本木の坂下のウイナーズレコード、六本木WAVEくらいしか扱わず、スモール商売だったが、英国でダンス音楽がメジャー化してきて市場が大きくなって来ていた。そこでAVEXも自社レーベルを作り、更にダンスユニットタレントを売り出すなど商売を大きくしている最中であった。日商岩井を退職して同社とのスジが切れた折口のカリスマの下で商売するつもりはなくなっていた。
労働基準法では人材派遣は基本禁止である。だが1985年に派遣法が施行されると事務職のうち技能職、ガイド、受付係など一部の職種のみが解禁され、終身メンバーシップ型組織に属さない自由な働き方と持て囃された。
だがその一方で、建築現場や工場、引越し、事務所移転、物流など、許されていない業務への違法派遣が増えて行った。これらは業務請負の形を取っていた。偽装請負と呼ばれる。
そもそも禁止業務への派遣だから、ブルーオーシャンである。ノウハウ蓄積も資本も資材も必要なく、口八丁だけで営業可能だ。
最初のGW社もこれら取るに足らない違法零細偽装請負の一つでしかなかった。
だがGW社が違うのは、折口氏が経営者であった事だ。経済誌によくインタビューが載った名物経営者の新ビジネス、という事で、リクルートなどが度々インタビューを掲載した。
折口氏のもう一つの特長が、日商岩井時代に築いた銀行とのコネ、信用である。1997年、介護保険のスタートを受けて、介護事業者のコムスンを買収。ただの偽装請負会社に買収資金を出してくれる銀行はない。折口氏のコネとカリスマがあってのものであろう。
1999年に派遣法が改正され基本自由化、ネガティブリスト方式になる。禁止業務は港湾、建設、警備、医療、製造。製造は後の2004年に自由化。このうち警備は警察の監督事業で、やはりヤクザの企業舎弟排除の歴史と立法趣旨がある。
偽装請負だった業務も一般派遣業として運営できるわけで、ここでGW社は急激に事業を拡大している。
その方法はやはり事業買収で、既存の偽装請負事業者を買収しまくり、従業員と設備、事務所の賃貸物件ごと吸収している。
次に2000年にオープンした六本木ヒルズの1フロアを契約(賃料1000万円/月)。
CMを打ちまくり、携帯電話だけで短期バイトが出来る「モバイト」として労働者を大量募集した。
支店をオープンしまくったらその店長が大量に必要だ。その店長は、買収した業者のバイトで正社員希望の者を募ってあてがった。オープンしたては営業してないから仕事も無いしバイトも来ない。
仕事は買収した業者の既存支店から回して貰う事にして、バイトも増えて仕事が回るようにるまでは店長ワンオペとした。朝6時から22時くらいの勤務となるのでずっと泊まり込みとなるが、ブラック企業ではそれ以上の会社も多いし正社員をエサにしたらそれくらいの激務で音を上げる者は居なかった。
この事業資金は銀行から借りていて、その金額は400億だという。
90年代から銀行は中小零細や個人経営商店と取引しなくなっていて、それらの法人客には子会社のノンバンクを紹介していた。夜間金庫も撤去。最近、小銭の両替料を取る様になったのも同じ理由で、小さい会社は客ではないのだ。客として有用に考えていれば両替は商売に必要だからコストは銀行が持ちにする。偽装請負だった日雇いや短期バイト派遣事業に400億とはべらぼうな話で、零細経営者だったら頭にくる話である。
例えば買収された業者の一つには「ラインナップ」社がある。ここは都内城西城北地区で事業をしていた。基本、偽装請負なのでイベントの設営、引越し、事務所移転、内装など色々な業種へバイトを派遣するのだが、勤務歴が長いフリーターが多いので半職人化して、作業内容を説明したら放ったらかしで養生などの準備から始めて、他の業者との作業のカチ合いを調整、作業完遂、片付けまで出来たり、内装では工具を持参して図面を見て指示通りに工事をしたりと、請負業務に近い事が出来る。
ここの買収額は10億であった。工具や台車、養生材など資材込みの値段だが、元が偽装請負の結構いい加減な会社に10億出すのが適当か、そもそも値段がつく業態なのか、という気がする。
この会社の社長は今でいうFIREして悠々とした生活をしていたそうである。
こういう業者は他にも多く、客先には「モバイトじゃない方です」と案内していた。モバイトは急募されたノンスキルのバイトなのでいちいち説明が必要だが、そうじゃない半職人で指示と監督が最低限の方です、との意だ。
バイトから昇格させた支店長を含め、買収でGW社員となった支店長の意識age、意思疎通の為に月に一度六本木ヒルズ本社に少なくとも関東の支店長を全て集め、店長会議を行っていた。人数が多いので実際は経営方針の訓告や目標の訓告が中心であった。
これで顔を会わせて意思疎通が出来ていた…と思っていた事が後の悲劇を生む。
急成長していたが、元が偽装請負の違法業務でありその構造や客先などはそのままだった。派遣が自由化されて業態を一般派遣業にした為に融資を受けたのだが、禁止業務だった建築、港湾への派遣はそのまま行われていた。しかも建築はその数が非常に多い。
また労働契約は日雇いとしてその日で労使関係が清算されるのだが、その場合、労災事故が起きた時の休業補償をどうするかというのは決めていなかった。事故が起きない事を前提にして経営していたのだ。
そこに2005か2006年頃に、建築現場で事故が起きる。製品名からロングスパンとかピアットとか呼ばれる現場用エレベータが墜落し、載せていた貨物の下敷きになって派遣のバイトが死亡した。
現場用エレベータはラック(平歯車)にモーターで駆動されるピニオンギアが噛んで登っていくという簡単な仕組みで、暴走時の安全装置がない。組むのもエレベータ会社の職工ではなくて鳶職がやる。これに大量に貨物を載せて荷揚げしている時に落下し死亡に至った。
禁止業態である土建に派遣して事故に至ったのでGW本社は立入検査を受け、一部営業禁止処分が下された。
一般的に派遣会社は客先からの引き抜きを警戒し、「毎日来てるから打ちで直接働かない?」といった事を言われたら直ぐに会社に伝えろと労働者に厳しく言うものである。
だがこの時のGW社は、土建業客先常駐のようなバイトをその派遣先の会社で社員として直接雇用出来るように尽力している。
土建業への派遣はもう出来ないのでそのバイトは他の仕事に移るか辞めるかなのだが、だったら派遣先で雇ってもらえないかと話を付けて無償で職業斡旋していたのだ。
この辺から風向きが向かい風になって、世間良しを意識せざるを得なくなったようだ。
この時点で全土建現場への派遣は廃止。ヘルメットや安全帯装備が必要な現場は全て断り、常駐のようなバイトが居たら上記のように就職斡旋をした。
遵法を意識するようになったのだが、見落としによってこの先に決定的なミスをするのだった。
東和リース社はその名の通り、リース会社であった。ローラーコンベアなどの物流用、荷役用機械をリースしていたが、一番需要が多いのはフォークリフトである。倉庫業必須だ。
ところで、フォークというのは操作するのに免許が必要だ。フォークオペの免許持ちを常に確保しておくのは結構難しい。
そこで、同社はオペレータ込みのリースをしていた。これはちょっとグレーな派遣だが、これをやっているリース業というのは多い。
フォークオペが必要な会社では流動的な需要に対する人も必要なことが多い。季節により貨物数が増減して必要な仕分け人の数も増減する。海コンが到着する日にはバン出し(コンテナからバラで出してパレットに積む事)の人数も必要だが、コンテナが来ない日には要らない。
そこで、それらの人間も調達しますよ、という営業をするようになった。最初は自社でバイトを募集していたのかもしれない。だがそのうちに他の派遣会社に派遣を取るようになった。つまりは二重派遣である。
当初、同社の仕事を取ったのは先例に出したラインナップ社だったと思われる。客はそのまま受け継いだのでGW社に変わってもそのまま二重派遣は続いていた。
作業終了後、作業伝票をきって貰うが、実派遣先の会社は東和リースからの派遣と思っている。その伝票で二重派遣がバレるといけないので、伝票の社名(GW社)の部分をハサミで切っておくという姑息な事をしていた。
映画館のレディースデーや男性専用サウナ等、男女を理由にサービスの提供内容を変えたり制限する例はいくつでも見つかる。
最近ではレディースデーも男女差別の誹りを受け廃止される流れにあるとはいえ、結局のところプランの内容自体は会社の経営方針・戦略に過ぎず、
学生割引といった年齢による優遇などとさして変わりはない。法律が裁かないにしても、もしそれが不公平なら、自由経済が裁きうる範囲の話だ。
ただ黙ってやっていればよかったものの、牛角は広報で大っぴらに次のようなことを言ってしまっていて、これは明らかな男女差別である。
>食べ放題での注文量が、女性は男性に比べて肉4皿分少ないといった背景からスタートした本企画。女性だけの利用はもちろんのこと、男性も含めたみなさまで、お得な焼肉食べ放題を心ゆくまでお楽しみください。
この一文で牛角の広報は、食べる量を理由に不公平感を減らそうとしたのかもしれないが、かえってこの一文こそが、これがまぎれもなく差別であることを示してしまっている。
なぜなら、もし本当に食べる量が根拠なのだとしたら、女性より食べる量の少ない一部の男性からも二倍の料金を徴収する事態という矛盾した状況を生じさせてしまうからだ。
「男性は女性より多く食べる傾向にある」というデータ自体は客観的なものであるが、すべての男性から二倍の料金を取るというこのキャンペーンの実質的な内容は、「ゆえにすべての男性は女性より多く食べる」という差別的判断そのものである。
これは「黒人は白人より平均IQが低い」という客観的なデータを根拠に、「ゆえにすべての黒人は白人よりIQが低い」を演繹してしまうのと同じ愚行であり、
もし食べる量が本当にその根拠、あるいは背景であるなら、食べた量そのものの個人差によって料金を調整すべきであり、この論理に則るならば、わざわざ性差を迂回して料金を決定することにはどんな正当性もない。
もし「女性は男性に比べて肉4皿分少ないといった背景」がこのサービスの正当性を裏付けられると思っているのならば、少なくともその発想自体は紛れもなく差別主義であると言わざるを得ない。
問題は、けして男女に対して別種のサービスを提供すること自体にあるのではない。ある人の発想が、性差上の差異を個人の差異とそのまま結びつけてしまうとき、そこに差別という決定的な問題が生まれているのである。
壊れるというか現状維持は確実に無理になる
1はおそらく無理、豊田章男がイエスマンを後継にしたからトヨタが変わることはない
この場合、自動車産業の穴を埋めるのは十年以上かかるだろうからひろゆきの言う通り当面は日本は終わるかもしれない
ただし持続可能性を考えればこれが最善
3は最悪のシナリオ
自動車メーカーの基本方針は焼き畑工業、所属地域に根差した部品メーカーから搾取して利益を生み出す経営構造になっている
このまま自動車メーカー頼りだと人口の再生産もままならず、さらに将来的には焼き尽くした日本から自動車メーカーが撤退することは目に見えている