
はてなキーワード:紫色とは
二三年前の夏、未だ見たことのない伊香保榛名を見物の目的で出掛けたことがある。ところが、上野驛の改札口を這入つてから、ふとチヨツキのかくしへ手をやると、旅費の全部を入れた革財布がなくなつてゐた。改札口の混雜に紛れて何處かの「街の紳士」の手すさみに拔取られたものらしい。もう二度と出直す勇氣がなくなつてそれつきりそのまゝになつてしまつた。財布を取つた方も内容が期待を裏切つて失望したであらうから、結局此の伊香保行の企ては二人の人間を失望させるだけの結果に終つた譯である。
此頃少し身體の工合が惡いので二三日保養のために何處か温泉にでも出掛けようといふ、その目的地に此の因縁つきの伊香保が選ばれることになつた。十月十四日土曜午前十一時上野發に乘つたが、今度は掏摸すりの厄介にはならなくて濟んだし、汽車の中は思ひの外に空いて居たし、それに天氣も珍らしい好晴であつたが、慾を云へば武藏野の秋を十二分に觀賞する爲には未だ少し時候が早過ぎて、稻田と桑畑との市松模樣の單調を破るやうな樹林の色彩が乏しかつた。
途中の淋しい小驛の何處にでも、同じやうな乘合自動車のアルミニウム・ペイントが輝いて居た。昔はかういふ驛には附きものであつたあのヨボ/\の老車夫の後姿にまつはる淡い感傷はもう今では味はゝれないものになつてしまつたのである。
或る小驛で停り合はせた荷物列車の一臺には生きた豚が滿載されて居た。車内が上下二段に仕切られたその上下に、生きてゐる肥つた白い豚がぎつしり詰まつてゐる。中には可愛い眼で此方を覗いてゐるのもある。宅の白猫の顏に少し似てゐるが、あの喇叭のやうな恰好をして、さうして禿頭のやうな色彩を帶びた鼻面はセンシユアルでシユワイニツシである。此等の豚どもはみんな殺されに行く途中なのであらう。
進行中の汽車道から三町位はなれた工場の高い煙突の煙が大體東へ靡いて居るのに、すぐ近くの工場の低い煙突の煙が南へ流れて居るのに氣がついた。汽車が突進して居る爲に其の周圍に逆行氣流が起る、その影響かと思つて見たがそれにしても少し腑に落ちない。此れから行先にまだいくらも同じやうな煙突の一對があるだらうからもう少し詳しく觀察してやらうと思つて注意してゐたが、たうとう見付からずに澁川へ着いてしまつた。いくらでも代はりのありさうなものが實は此の世の中には存外ないのである。さうして、ありさうもないものが時々あるのも此の世の中である。
澁川驛前にはバスと電車が伊香保行の客を待つてゐる。大多數の客はバスを選ぶやうである。電車の運轉手は、しきりにベルを踏み鳴らしながら、併しわり合にのんきさうな顏をしてバスに押し込む遊山客の群を眺めて居たのである。疾とうの昔から敗者の運命に超越してしまつたのであらう。自分も同行Sも結局矢張りバスのもつ近代味の誘惑に牽き付けられてバスを選んだ。存外すいて居る車に乘込んだが、すぐあとから小團體がやつて來て完全に車内の空間を充填してしまつた。酒の香がたゞよつて居た。
道傍の崖に輕石の層が見える。淺間山麓一面を埋めて居るとよく似た豌豆大の粒の集積したものである。淺間のが此邊迄も降つたとは思はれない。何萬年も昔に榛名火山自身の噴出したものかも知れない。それとも隣りの赤城山の噴出物のお裾分けかも知れない。
前日に伊香保通のM君に聞いたところでは宿屋はKKの別館が靜かでいゝだらうといふことであつた。でも、うつかりいきなり行つたのでは斷られはしないかと聞いたら、そんなことはないといふ話であつた。それで、バスを降りてから二人で一つづゝカバンを提げて、すぐそこの別館の戸口迄歩いて行つた。館内は森閑として玄關には人氣がない。しばらくして内から年取つた番頭らしいのが出て來たが、別に這入れとも云はず突立つたまゝで不思議さうに吾々二人を見下ろしてゐる。此れはいけないと思つたが、何處か部屋はありませうかと聞かない譯にも行かなかつた。すると、多分番頭と思はれる五十恰好のその人は、恰度例へば何處かの役所の極めて親切な門衞のやうな態度で「前からの御申込でなければとてもとても……」と云つて、突然に乘込んで來ることの迂闊さを吾々に教へて呉れるのであつた。向うの階段の下では手拭を冠つて尻端折つて箒を持つた女中が三人、姦の字の形に寄合つて吾々二人の顏を穴のあく程見据えてゐた。
カバンをぶら下げて、悄々しをしをともとのバスの待合所へ歸つて來たら、どういふものか急に東京へそのまゝ引き返したくなつた。此の坂だらけの町を、あるかないか當てにならない宿を求めて歩き※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はるのでは第一折角保養に來た本來の目的に合はない、それよりか寧ろ東京の宅の縁側で咲殘りのカンナでも眺めて欠伸をする方が遙かに有效であらうと思つたのである。併し、歸ることは歸るとしても兎も角も其處らを少し歩いてから歸つても遲くはないだらうとSがいふので、厄介な荷物を一時バスの待合所へ預けておいてぶら/\と坂道を上つて行つた。
宿屋が滿員の場合には入口に「滿員」の札でも出しておいたら便利であらう。又兎も角も折角其家を目指して遙々遠方から尋ねて來た客を、どうしても收容し切れない場合なら、せめて電話で温泉旅館組合の中の心當りを聞いてやる位の便宜をはかつてやつてはどうか。頼りにして來た客を、假令それがどんな人體であるにしても、尋ねてくるのが始めから間違つてゐるかのやうに取扱ふのは少し可哀相であらう。さうする位ならば「旅行案内」などの廣告にちやんと其旨を明記しておく方が親切であらう。
こんな敗者の繰言を少し貧血を起しかけた頭の中で繰返しながら狹い坂町を歩いてゐるうちに、思ひの外感じのいゝ新らしいM旅館別館の三階に、思ひもかけなかつた程に見晴らしの好い一室があいてゐるのを搜しあてゝ、それで漸く、暗くなりかゝつた機嫌を取直すことが出來たと同時に馴れぬ旅行に疲れた神經と肉體とをゆつくり休めることが出來たのは仕合せであつた。
此室の窓から眼下に見える同じ宿の本館には團體客が續々入込んでゐるやうである。其の本館から下方の山腹にはもう人家が少く、色々の樹林に蔽はれた山腹の斜面が午後の日に照らされて中々美しい。遠く裾野には稻田の黄色い斑の縞模樣が擴がり、其の遙かな向うには名を知らぬ山脈が盛上がつて、其の山腹に刻まれた褶襞の影日向が深い色調で鮮かに畫き出されて居る。反對側の、山の方へ向いた廊下へ出て見ると、此の山腹一面に築き上げ築き重ねた温泉旅館ばかりの集落は世にも不思議な標本的の光景である。昔、ローマ近くのアルバノ地方に遊んだ時に、「即興詩人」で名を知られたゲンツアノ湖畔を通つたことがある。其の湖の一方から見た同じ名の市街の眺めと、此處の眺めとは何處か似た所がある。併し、古い伊太利の彼の田舍町は油繪になり易いが此處のは版畫に適しさうである。數年前に此地に大火があつたさうであるが、成程火災の傳播には可也都合よく出來てゐる。餘程特別な防火設備が必要であらうと思はれる。
一と休みしてから湯元を見に出かけた。此の小市街の横町は水平であるが、本通りは急坂で、それが極めて不規則な階段のメロデイーの二重奏を奏してゐる。宿屋とお土産を賣る店の外には實に何もない町である。山腹温泉街の一つの標本として人文地理學者の研究に値ひするであらう。
階段の上ぼりつめに伊香保神社があつて、そこを右へ曲ると溪流に臨んだ崖道に出る。此の道路にも土産物を賣る店の連鎖が延長して溪流の眺めを杜絶してゐるのである。湯の流れに湯の花がつくやうに、かういふ處の人の流れの道筋にはきまつて此のやうな賣店の行列がきたなく付くのである。一寸珍らしいと思ふのは此道の兩側の色々の樹木に木札がぶら下げてあつて、それに樹の名前が書いてあることである。併し、流石にラテン語の學名は略してある。
崖崩れを石垣で喰ひ止める爲に、金のかゝつた工事がしてある。此れ位の細工で防がれる程度の崩れ方もあるであらうが、此の十倍百倍の大工事でも綺麗に押し流すやうな崩壞が明日にも起らないといふ保證は易者にも學者にも誰にも出來ない。さういふ未來の可能性を考へない間が現世の極樂である。自然の可能性に盲目な點では人間も蟻も大してちがはない。
此邊迄來ると紅葉がもうところ斑に色付いて居る。細い溪流の橋の兩側と云つたやうな處のが特に紅葉が早いらしい。夜中にかうした澤を吹下ろす寒風の影響であらうか。寫眞師がアルバムをひろげながらうるさく撮影をすゝめる。「心中ぢやないから」と云つて斷わる。
湯元迄行つた頃にはもう日が峯の彼方にかくれて、夕空の殘光に照らし出されて雜木林の色彩が實にこまやかに美しい諧調を見せて居た。樹木の幹の色彩がかういふ時には實に美しく見えるものであるが、どういふものか特に樹幹の色を讚美する人は少ないやうである。
此處の湯元から湧き出す湯の量は中々豐富らしい。澤山の旅館の浴槽を充たしてなほ餘りがあると見えて、惜氣もなく道端の小溝に溢れ流れ下つて溪流に注いで居る。或る他の國の或る小温泉では、僅かに一つの浴槽にやつと間に合ふ位の湯が生温るくて、それを熱くする爲に一生涯骨を折つて、やつと死ぬ一年前に成功した人がある。其人が此處を見たときにどんな氣がしたか。有る處にはあり餘つて無い處にはないといふのは、智慧や黄金に限らず、勝景や温泉に限らぬ自然の大法則であるらしい。生きてゐる自然界には平等は存在せず、平等は即ち宇宙の死を意味する。いくら革命を起して人間の首を切つても、金持と天才との種を絶やすことは六かしい。ましてや少しでも自己觸媒作用オートカタリテイツク・アクシヨンのある所には、ものの片寄るのが寧ろ普遍な現象だからである。さうして方則に順應するのは榮え、反逆するものは亡びるのも亦普遍の現象である。
宿へ歸つて見ると自分等の泊つてゐる新館にも二三の團體客が到着して賑やかである。○○銀行○○課の一團は物靜かでモーニングを着た官吏風の人が多い。○○百貨店○○支店の一行は和服が多く、此方は藝者を揚げて三絃の音を響かせて居るが、肝心の本職の藝者の歌謠の節※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はしが大分危なつかしく、寧ろ御客の中に一人いゝ聲を出すのが居て、それがやゝもすると外れかゝる調子を引戻して居るのは面白い。ずつと下の方の座敷には足踏み轟かして東京音頭を踊つて居るらしい一團がある。人數は少いが此組が壓倒的優勢を占めて居るやうである。
今度は自分などのやうに、うるさく騷がしい都を離れて、しばらく疲れた頭を休める爲にかういふ山中の自然を索たづねて來るものゝある一方では又、東京では斷ち切れない色々の窮屈を束縛をふりちぎつて、一日だけ、はめを外づして暴れ※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はる爲にわざ/\かういふ土地を選んで來る人もあるのである。此れも人間界の現象である。此の二種類の人間の相撲になれば明白に前者の敗である。後者の方は、宿の中でも出來るだけ濃厚なる存在を強調する爲か、廊下を歩くにも必要以上に足音を高く轟かし、三尺はなれた仲間に話をするのでも、宿屋中に響くやうに大きな聲を出すのであるが、前者の部類の客はあてがはれた室の圍ひの中に小さくなつて、其の騷ぎを聞きつゝ眠られぬ臥床ふしどの上に輾轉するより外に途がないのである。床の間を見ると贋物の不折の軸が懸かつて居る、その五言の漢詩の結句が「枕を拂つて長夜に憐む」といふのであつたのは偶然である。やつと團體の靜まる頃には隣室へ子供づれの客が着いた。單調な東京音頭は嵐か波の音と思つて聽き流すことが出來ると假定しても、可愛い子供の片言は身につまされてどうにも耳朶の外側に走らせることの出來ぬものである。電燈の光が弱いから讀書で紛らすことも出來ない。
やつと宿の物音があらかた靜まつた後は、門前のカフエーから蓄音機の奏する流行小唄の甘酸つぱい旋律が流れ出して居た。併し、かうした山腹の湯の町の夜の雰圍氣を通して響いて來る此の民衆音樂の調べには、何處か昔の按摩の笛や、辻占賣の聲などのもつて居た情調を想ひ出させるやうな或るものが無いとは云はれない。
蓄音機と云へば、宿へ着いた時につい隣りの見晴らしの縁側に旅行用蓄音機を据ゑて、色々な一粒選りの洋樂のレコードをかけてゐる家族連の客があつた。此れも存在の鮮明な點に於て前述の東京音頭の連中と同種類に屬する人達であらう。
夜中に驟雨があつた。朝はもう降り止んではゐたが、空は低く曇つてゐた。兎も角も榛名湖畔迄上ぼつて見ようといふので、ケーブルカーの停車場のある谷底へ下りて行つた。此の谷底の停車場風景は一寸面白い。見ると、改札口へ登つて行く階段だか斜面だかには夥しい人の群が押しかけてゐる。それがなんだか若芽についたあぶら蟲か、腫物につけた蛭の群のやうに、ぎつしり詰まつて身動きも出來さうにない。それだのにあとから/\此處を目指して町の方から坂を下りて來る人の群は段々に増すばかりである。此の有樣を見て居たら急に胃の工合が變になつて來て待合室の腰掛に一時の避難所を求めなければならなかつた。「おぢいさんが人癲癇を起こした」と云つてSが笑出したが、兎も角も榛名行は中止、その代りつい近所だと云ふ七重の瀧へ行つて見ることにした。此の道筋の林間の小徑は往來の人通りも稀れで、安價なる人癲癇は忽ち解消した。前夜の雨に洗はれた道の上には黄褐紫色樣々の厚朴の落葉などが美しくちらばつてゐた。
七重の瀧の茶店で「燒饅頭」と貼札したものを試みに注文したら、丸いパンのやうなものに味噌※(「滔」の「さんずい」に代えて「しょくへん」、第4水準2-92-68)を塗つたものであつた。東京の下町の若旦那らしい一團が銘々にカメラを持つてゐて、思ひ思ひに三脚を立てゝ御誂向の瀧を撮影する。ピントを覗く爲に皆申合せたやうに羽織の裾をまくつて頭に冠ると、銘々の羽織の裏の鹽瀬の美しい模樣が茶店に休んでゐる女學生達の面前にずらりと陳列される趣向になつてゐた。
溪を下りて行くと別莊だか茶店だかゞあつて其前の養魚池の岸にかはせみが一羽止まつて居たが、下の方から青年團の服を着た男が長い杖をふりまはして上がつて來たので其のフアシズムの前に氣の弱い小鳥は驚いて茂みに飛び込んでしまつた。
大杉公園といふのはどんな處かと思つたら、とある神社の杉並木のことであつた。併し杉並木は美しい。太古の苔の匂ひがする。ボロ洋服を着た小學生が三人、一匹の眞白な野羊を荒繩の手綱で曳いて驅け※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたが、どう思つたか自分が寫眞をとつて居る傍へ來て帽子を取つてお辭儀をした。學校の先生と間違へたのかどうだか分らない。昔郷里の田舍を歩いて居て、よく知らぬ小學生に禮をされた事を想ひ出して、時代が急に明治に逆戻りするやうな氣がした。此邊では未だイデオロギー的階級鬪爭意識が普及して居ないのであらう。社前の茶店に葡萄棚がある。一つの棚は普通のぶだうだが、もう一つのは山葡萄で紅葉してゐる。店の婆さんに聞くと、山葡萄は棚にしたら一向に實がならぬさうである。山葡萄は矢張り人家にはそぐはないと見える。
茶店の周圍に花畑がある。花を切つて高崎へでも賣りに出すのかと聞くと、唯々お客さんに自由に進呈するためだといふ。此の山懷の一隅には非常時の嵐が未だ屆いて居ないのか、妙にのんびりした閑寂の別天地である。薄雲を透した日光が暫く此の靜かな村里を照らして、ダリアやコスモスが光り輝くやうに見えた。
宿へ歸つて晝飯を食つてゐる頃から、宿が又昨日に増して賑やかになつた。日本橋邊の或る金融機關の團體客百二十人が到着したのである。其爲に階上階下の部屋といふ部屋は一杯で廊下の籐椅子に迄もはみ出してゐる。吾々は、此處へ來たときからの約束で暫時帳場の横へ移轉することになつた。
部屋に籠つて寐轉んで居ると、すぐ近くの階段や廊下を往來する人々の足音が間斷なく聞こえ、それが丁度御會式の太鼓のやうに響き渡り、音ばかりでなく家屋全體が其の色々な固有振動の週期で連續的に振動して居る。さういふ状態が一時間二時間[#「二時間」は底本では「二間時」]三時間と經過しても一向に變りがない。
一體どうして、かういふ風に連續的に足音や地響きが持續するかといふ理由を考へて見た。百數十人の人間が二人三人づつ交る/″\階下の浴室へ出掛けて行き、又歸つて來る。その際に一人が五つの階段の一段々々を踏み鳴らす。其外に平坦な縁側や廊下をあるく音も加はる。假に、一人宛て百囘の音を寄與コントリビユートするとして、百五十で一萬五千囘、此れを假に午後二時から五時迄の三時間、即ち一萬八百秒に割當てると毎一秒間に平均一囘よりは少し多くなる勘定である。此外に浴室通ひ以外の室と室との交通、又女中や下男の忙はしい反復往來をも考慮に加へると、一秒間に三囘や四囘に達するのは雜作もないことである。即ち丁度太鼓を相當急速に連打するのと似た程度のテンポになり、それが三時間位持續するのは何でもないことになるのである。唯々面白いのは、此の何萬囘の足音が一度にかたまつて發しないで、實にうまく一樣に時間的に配分されて、勿論多少の自然的偏倚は示しながらも統計的に一樣な毎秒平均足音數を示してゐることである。容器の中の瓦斯體の分子が、その熱擾動サーマルアヂテーシヨンのために器壁に反覆衝突するのが、いくらか此れに似た状況であらうと思はれた。かうなると人間も矢張り一つの「分子」になつてしまふのである。
室に寐ころんだ切り、ぼんやり此んなことを考へてゐる内に四時になつた。すると階下の大廣間の演藝場と思はれる見當で東京音頭の大會が始まつた。さうして此れが約三十分續いた。それが終つても、未だその陶醉的歡喜の惰性を階上迄持込[#「持込」は底本では「持迄」]んで客室前の廊下を踏鳴らしながら濁聲高く唄ひ踊る小集團もあつた。
「バスの切符を御忘れにならないやうに」と大聲で何遍となく繰返して居るのが聞こえた。それからしばらくすると、急に家中がしんとして、大風の後のやうな靜穩が此の山腹全體を支配するやうに感ぜられた。一時間前の伊香保とは丸で別な伊香保が出現したやうに思はれた。三階の廊下から見上げた山腹の各旅館の、明るく灯のともつた室々の障子の列が上へ上へと暗い夜空の上に累積してゐる光景は、龍宮城のやうに、蜃氣樓のやうに、又ニユーヨークの摩天樓街のやうにも思はれた。晝間は出入の織るやうに忙がしかつた各旅館の玄關にも今は殆ど人氣が見えず、野良犬がそこらをうろ/\して居るのが見えた。
團體の爲に一時小さな室に追ひやられた埋合せに、今度はがらあきになつた三階の一番廣く見晴らしのいゝ上等の室に移され、地面迄數へると五階の窓下を、淙々として流れる溪流の水音と、窓外の高杉の梢にしみ入る山雨の音を聞きながら此處へ來てはじめての安らかな眠りに落ちて行つた。
翌日も雨は止んだが空は晴れさうもなかつた。霧が湧いたり消えたりして、山腹から山麓へかけての景色を取換へ取換へ迅速に樣々に變化させる。世にも美しい天工の紙芝居である。一寸青空が顏を出したと思ふと又降出す。
とある宿屋の前の崖にコンクリートで道路と同平面のテラスを造り其の下の空間を物置にして居るのがあるのは思ひ付きである。此の近代的設備の脚下の道傍に古い石地藏が赤い涎掛けをして、さうして雨曝しになつて小さく鎭座して居るのが奇觀である。此處らに未だ家も何もなかつた昔から此の地藏尊は此の山腹の小道の傍に立つて居て、さうして次第に開ける此の町の發展を見守つて來たであらうが、物を云はぬから聞いて見る譯にも行かない。
晝飯をすませて、そろ/\歸る支度にかゝる頃から空が次第に明るくなつて來て、やがて雲が破れ、東の谷間に虹の橋が懸つた。
歸りのバスが澁川に近づく頃、同乘の兎も角も知識階級らしい四人連の紳士が「耳がガーンとした」とか「欠伸をしたらやつと直つた」とか云つたやうな話をして居る。山を下つて氣壓が變る爲に鼓膜の壓迫されたことを云つて居るらしい。唾を飮み込めば直るといふことを知らないと見える。小學校や中學校でこのやうな科學的常識を教はらなかつたものと思はれる。學校の教育でも時には要らぬ事を教へて要ることを教へるのを忘れて居る場合があるのかも知れない。尤も教へても教へ方が惡いか、教はる方の心掛けが惡ければ教へないのも同じになる譯ではある。
上野へついて地下室の大阪料理で夕食を食つた。土瓶むしの土瓶のつるを持ち上げると土瓶が横に傾いて汁がこぼれた。土瓶の耳の幅が廣過ぎるのである。此處にも簡單な物理學が考慮の外に置かれてゐるのであつた。どうして、かう「科學」といふものが我が文化國日本で嫌はれ敬遠されるかゞ不思議である。
雨の爲に榛名湖は見られなかつたが、併し雨のおかげでからだの休養が出來た。讀まず、書かず、電話が掛からず、手紙が來ず、人に會はずの三日間で頭の疲れが直り、從つて胃の苦情もいくらか減つたやうである。その上に、宿屋の階段の連續的足音の奇現象を觀察することの出來たのは思はぬ拾ひものであつた。
温泉には三度しかはひらなかつた。湯は黄色く濁つてゐて、それに少しぬるくて餘り氣持がよくなかつた。その上に階段を五つも下りて又上がらなければならなかつた。温泉場と階段はとかくつきものである。温泉場へ來たからには義理にも度々温泉に浴しなければならないといふ譯もないが、すこしすまなかつたやうな氣がする。
他の温泉でもさうであるが、浴槽に浸つて居ると、槽外の流しでからだを洗つて居る浴客がざあつと溜め桶の水を肩からあびる。そのしぶきが散つて此方の頭上に降りかゝるのはそれ程潔癖でないつもりの自分にも餘り愉快でない。此れも矢張り宿屋へ蓄音機を持ち込み、宿屋で東京音頭を踊るPermalink |記事への反応(0) | 18:19
友人と会って何気なく「この前、自転車で転んで手をぶつけた」と言った。
友人は心配そうに私の手のひらをじっと見てくる。
袖をめくって、肘の下の紫色のあざを見せると「ああ、腕のことね」と笑う。
その瞬間、こっちも笑ったけど心の中ではため息をついていた。
原因は分かっている。
母は「長袖をまくると手が寒い」と言いながら前腕をさすり、父は「手をぶつけた」と言いながら肩を押さえていた。
学校の理科室で骨格模型を見て正しい名称を教わっても、家に帰ればその知識はすぐに溶けて消えた。
社会的に正しい呼び方より家の中のローカルルールのほうが強かった。
この癖のせいで余計なやり取りが増える。
整骨院で「手が痛い」と言えば、指や手首をぐにぐに触られる。
「違います」と前腕を押さえれば「ああ、腕か」と訂正される。
訂正されるたびに、こっちが悪いのかという気分になる。
料理中に「手を火傷した」と言って母を呼べば、慌てて飛んできて、肘の赤い跡を見て「なんだ腕じゃない」と勝手に安心する。
正しい日本語を使わないやつはこうやって日常の中でちょっとずつ信用を削られていく。
直そうとはしている。
でも、長年使ってきた言葉は、古いカビみたいに脳に染みついていて、落とそうとすると逆に匂いが強くなる。
一度ついた癖は多少の恥や不便では剥がれない。
たぶんこのまま生きることになる。
腕を手と言い続けて、訂正され続けて、訂正されるたびに内心で舌打ちしながら。
暑いすぎて
もしかして私のところだけだと思うんだけど、
古い長くもう使っているHDDレコーダーがあまりに私の出掛けている日中に室内気温が上がりすぎてなのか、
熱暴走してる、
チャンエル設定がいちいち解除されて
なんか真っ黒な画面で上手く受信出来ないのよね。
これHDDレコーダーの電源を入れ直したら、
つまり
再起動したらなんか直るのよね。
夏場に起こりがちな印象なので、
つーか夏に起きてばかりなのよね。
だからきっと熱が関係あるのかしら?って私は名探偵出ました!名推理です!って
犯人は夏!
罪な夏ね!
そう言いたいわ。
なんか若干頭痛いのこれも熱のせいなのかしら?
ほんのりお酒やルービーを飲み過ぎたときとは違うなんか頭の痛さなのよね。
身体に熱がこもっているのかしら?
尋常じゃないこの気温の上がりっぷりにもはや為す術がないし
冷やしナスだってナスすべすべの紫色の採れたて露地栽培の近所の趣味で菜園している人が、
1袋100円!つって売ってるけれど
使い切れないのよね。
サッと電子レンジにでもかけてクタクタにしてサッと出汁醤油か何かをかけて、
美味しくいただけたらナスすべがあるかもしれないわ。
ナスカの地上絵が新たに大量に見つかって発見されたってニュース少し前にあったのみ掛けたけれど、
そのぐらい夏ね。
囓るだけでキュウリれるけれど、
なにかエグ味があると思うのよね。
だからサッと熱を通した方がいい、
そこで天日干し何とかならないかしらー?って
半分に切って天日干ししたら一瞬でドライトマトが出来ちゃった感覚と一緒のヤツの
ナスすべがあると思わない?
私はそのドライ茄子を使いこなすレシィピを知らないので文字通りナスすべがないわ。
暑いので仕方ないわね。
グッと耐えて凌ぐしかないわ。
そんでさー、
この時期野良猫ってどこで涼んでいるのかしら?
盛夏の時には夜にだって見かけないのよね。
無事に暮らしているのかしら?
心配になるけれど
私は自分自身の心配をしなくてはいけないぐらいな優先度の暑さ。
これ幸いか、
食欲はあんので、
あちゃー!
一昨日買って使ってなかった豚肉があったの忘れてて
ブタだけに!って
これ忘れずに使わなくちゃ傷んじゃうので、
サッと湯通しして
困ったときのごまダレドレッシングをドレミファソラシドのように掛け回して食べたら
それはもう冷しゃぶ!
でも夏じゃない!
素麺食べたいじゃない!
素麺茹でるのが灼熱の太陽とシスコムーン的な暑さコンロの前に立てないのよね。
だから秋口から秋の気配を感じたところで素麺の季節になるかも知れない。
まえ、
なんかなくなっちゃって、
残念なのよね。
素麺ってお店で食べる分にはなんか手間かかるのかしら?
あー、
暑いので動きたくないわね。
じーっとしていたいわ。
涼しいバスが空いていたらノリノリで乗って帰ろうかナーって思っているところよ。
とにかく
暑いので気を付けないとーって感じね。
うふふ。
ションテン上げていこう!ってことで、
やったー!
元気付けて今日の暑さを乗り切るわ。
おにぎり自分で作ってきてたの節制していた分たまにはションテン上げでもいいと思わない?
ぎりぎり間に合う感じよ!
暑いわー。
水分補給はしっかりとね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
日本でもだけど何故か海外(韓国以外どこの国かは知らんが)でも平成女児が一部でウケている
しかし、平成男児コンテンツも色々あったし今でも続いたり評価されてる物はある
平成女児同様に年代は90年代後半〜00sで流行った物で並べよう
カラフルな見た目のうんちグッズが当時感ある
これにハマってる奴は馬鹿しかいなかった(当時の人間なら分かるでしょ?)
ちなみに俺はコロッケ世代で、年上の従兄弟が持っている古いコロコロを貰って読んだ時に存在を知った
平成男児向けに展開されて実際流行ったが、94年からの展開なので平成男児的には微妙か
これ好きな奴は大体兄が先にハマってて一緒に遊んだりしてるイメージ
初期はボンバーマンを引きずってたが、ファイティングフェニックスやワイルドワイバーンとか出てきた辺りから変わった
スーパービーダマン好きな奴はキッズの範疇だが、同じ頃に展開してたボンバーマンビーダマン爆外伝好きな奴は大体後にオタクになった
アニメが一番影響力あったはず
ブロックスゾイドで昭和ZOIDSファンと平成男児の間に大きな溝を生んだ
周りではガンダム同様に頭の良い子がハマってた
俺は親の前でデジモンアニメを観るのが気恥ずかしく、友達と見るデジモン映画と一人で遊ぶデジモンワールド派だった
当時の周りの雰囲気としてZOIDS好きな奴はデジモンも好きだったが、デジモン好きはZOIDS好きを別に兼ねてなかった
コロコロにありがちなホビーコンテンツを売るための子供騙しな漫画連載ではなく、質の高い漫画連載からホビーコンテンツ展開で大ヒットという所が大人っぽい
もうちょっと上の世代の人もハマってたイメージで当時の平成男児だけに留まらない所もあった(コロコロじゃなくジャンプだし)
カードが紫色だった時代からOCGや漫画連載開始から連載終了まで平成男児では勢力を保っていた
なぜか同年代でハマってる奴に素行不良のイメージがあったのと、友達に連れてこられたカードショップで遊戯王を遊んでる奴の雰囲気が闇だった
コロコロでマジック・ザ・ギャザリングの漫画を連載してたと思ったら突然切り替わった
自分の周りは遊戯王派の素行は悪く、デュエルマスターズ派は素行も成績も優等生な友達が多かった
ゲームの貸し借りというのが盛んに行われており、各々のゲーム選びのセンスが出るのは大体PSであり、ゲーム遊んだ後に感想を言う事が多かった
ゲームを貸してくれる友達は幸い多かったので、色々なゲームをやれた
一般的な平成男児は自分が好きなゲーム以外は任天堂のみんなで遊ぶ用のゲームぐらいしか興味もないようだったが……
小学生中学年ぐらいの頃の俺は一人で遊ぶ時はデジモンワールド、ZOIDSメカ生体の遺伝子、GジェネレーションZERO(分厚い攻略本付き)を何度も遊んでいたが、俺みたいな趣味のタイプはいなかった
友達から借りたゲームの話をすると物凄く長くなりそうなので、この辺で
基本的に友達同士は同じ物にハマりがちだが、スマブラはみんな好きだった
なので趣味が違う奴が集まれば大体スマブラをやって遊ぶのが平成男児
マリオカート派もいたらしいけど、俺の周りはスマブラ派ばかりだった
任天堂64のコンテンツは女の子とも遊べるらしく、小学高学年の頃に何回か女の子に遊びに誘われた時はマリオカートをやった
GBA持ってる友達は大体このシリーズのどれかを持っていたし俺も持っていた
でも大体エグゼ2派かエグゼ3派で分かれてて、初代から持ってる俺と友達のアーリーアダプター感は凄かった
スマブラ同様に主流がホビーコンテンツからゲームコンテンツへ時代がシフトしていく象徴みたいな存在と思っている
他にも流行ってるのあったけど、同年代のお前らの周りも大きな所はこんなもんだろ???
俺は未就学児の頃に赤から遊んでたが、ネットの基準だと金銀世代らしい
確かにポケモンは全体的に知名度が高く流行っていたが、俺の周りで話題になったのは金銀
ルビー・サファイア以降のポケモンは実は周りでは空気だった……
この頃は地元にコンビニが出てきた頃で、俺の銀バージョンはセブンイレブンで買った奴なんだよなあ
当然のごとくワニノコ派でした
諸君、私がAI小説なるものと初めて出くわしたのは、ある雨の降りしきる午後のことだった。私の叔父アガサス・ウィンプルトン・フォーブス(文学界では「老いぼれの鷹」として知られ、批評家たちからは「あの忌々しい老いぼれ」と呼ばれている)が私に一束の印刷物を押し付けてきたのだ。
「これを読んでみたまえ、若きバーティ」と彼は言った。声にはイモリを観察する博物学者のような好奇心が漂っていた。「人工知能とやらが書いた小説らしいのだ。まったく、世も末じゃよ」
その時の私の反応は、鮮やかな紫色のネクタイを締めた従兄弟を見た叔母アガサのそれに近かった。つまり、眉をへの字に曲げて「いったい何をお考えで?」という表情だ。しかし叔父の蔵書室から逃げ出す手段は見当たらなかったので、私は言われるがままに一ページめくった。
読み始めて五分と経たぬうちに、私は自分がなんともぎこちない人形劇を見せられているような気分に陥った。言葉は確かに英語(あるいは日本語)で書かれている。文法的にも正確だ。しかし全体を包む雰囲気には、カクテルパーティーで突然「1924年のS and P500の株価変動について議論しましょう」と切り出す男のような居心地の悪さがあった。
ところで読者諸君、ここで私が申し上げたいのは、このAI小説が「内容的に」退屈だったという話ではない。むしろ問題はその文体——いや、文体の欠如と言うべきか——にあったのだ。
ご存知の通り、私はかなりの文体マニアである。ジェーン・オースティンの流麗な皮肉、ヘミングウェイの素っ気ない簡潔さ、あるいはプルーストの果てしない内省——これらは私にとって、マティーニにオリーブを浮かべるように小説に不可欠な要素なのだ。
ところが、この機械の吐き出した文章には、そういった香りや風味が微塵も感じられなかった。それはあたかも、高級レストランでシェフの特製料理を期待していたら、無味無臭の栄養ドリンクが出てきたようなものだ。確かに栄養素は含まれているのだろうが、舌の上でダンスする喜びがどこにもない。
「バーティ、どう思うかね?」と叔父が訊ねた。彼の眉毛は期待に満ちて跳ね上がっていた。まるで噴火を待つ火山学者のように。
「ええと、叔父さん」と私は慎重に言葉を選んだ。「これは確かに文章ではありますが、作家の文章とは言えませんな。むしろ、言葉の集合体とでも申しましょうか」
「ほう、言葉の集合体か」叔父は眼鏡を鼻先でくいっと押し上げた。「面白い表現だ」
「つまりですね、これは料理というより食材の山なんです。シェフが腕を振るう前の状態というか」
この説明に納得したらしく、叔父は「なるほど、なるほど」と頷いた。
その日以来、私はある種の科学的好奇心から、AI小説と呼ばれるものを片っ端から読み漁ってきた。そして今や確信を持って言える——世の中のAI小説は、ジーヴスがいつも言うところの「文体的に不十分である(stylistically deficient, sir)」代物なのだ。
AI小説の世界は、なんとも奇妙なドローンズ・クラブのようだ。ご存じない方のために説明すると、ドローンズ・クラブとは私が所属する紳士クラブで、そこではメンバーが無意味な会話を交わしながら、しかし高度に洗練された作法に従って日々を過ごす。しかしAI小説の世界では、会話は論理的に筋が通っているのに、その洗練された作法——すなわち文体——が欠けている。
それはまるで、嵐の日に一生懸命走っているのに、どこにも行き着かない人々の集まりのようだ。走り方は効率的かもしれないが、そこに独自の身のこなしやリズム、あの「何とも言えない何か」が感じられない。
私が思うに、AI小説が「文体」に欠けるのは、それが「文体を持つこと」の意味を理解していないからだ。文体とは単なる装飾ではない。それは作家の魂の表れであり、世界の見方であり、独自の思考の流れなのだ。
例えば、我が友人ガッシー・フィンク=ノットルは、イモリについて話す時と恋人のマデリン・バセットについて話す時では、まったく別人のように語る。前者では博識で冷静な科学者となり、後者では「彼女の目は星のようだ」と言いながら部屋中を浮遊するのだ。これが「文体」というものだ——同じ人間が状況に応じて異なる言葉の使い方をする、その独自性である。
しかしAI小説においては、すべての場面が同じトーンで描かれる。恋の告白も殺人事件も料理のレシピも、同じ声色で淡々と進行する。それはちょうど、どんな曲でも同じリズムと同じメロディーで歌うカラオケ・マシンのようなものだ。確かに音程は正確かもしれないが、聴いていると魂が枯れていくような感覚に襲われる。
さて、今や普通の小説とAI小説を見分ける方法がある。それを「バーティの文体テスト」と名付けようではないか。方法は単純明快。任意の三ページを読んで、そこに以下のものが見つかるか確認するのだ:
1.意表を突く比喩表現(「彼女の声は、スコットランドの霧の中でバグパイプを吹く羊飼いのように切なかった」など)
2.言葉遊び(「いや、ドラゴンを退治する側が金貨を使うんだ。退治屋さんへの報酬としてね。現実とは、ファンタジーより遥かに資本主義的なものさ」など)
3. 文の長さとリズムの変化(長い文の後に鋭い短文を置くなど)
4.キャラクターごとに異なる話し方
これらが見つからなければ、それはおそらくAI小説か、もしくは残念ながら文体に無関心な人間の書いた小説だろう。
ここで、文体という蝶を見事に捕まえた名人たちを思い出してみよう。彼らは皆、言葉という網で独自の色彩と模様を持つ蝶を捕らえ、読者の目の前に差し出してきた。
ディケンズ氏は複雑な社会風刺と人物描写を、時にコミカルに、時に痛烈に描き出した。彼の文章は、ロンドンの霧のように濃密で、その中に浮かび上がる人物像は忘れがたい。
ジェイン・オースティン女史は、表面上は穏やかな社交界の描写の中に、鋭い観察眼と皮肉を忍ばせた。彼女の文体は高級紅茶のようなものだ——一見繊細だが、意外な風味と余韻がある。
そしてヘミングウェイ氏。彼の文体は素っ気なく簡潔だが、そこには深い情感が氷山の水面下に隠されている。彼の短文は、たった一発で的を射抜く名ハンターのようだ。
これらの作家たちは、同じ英語という素材を使いながら、まったく異なる芸術作品を生み出した。それはちょうど、同じ小麦粉と水から、イタリア人はパスタを、フランス人はクロワッサンを、日本人は饂飩を作るようなものだ。材料は同じでも、その扱い方——つまり文体——によって、まったく別の味わいが生まれる。
ところが、今日のAI小説は、どれもなんとなく似たような味がする。それはあたかも、世界中のレストランが突然、同じ調理法で同じ食材を使い始めたようなものだ。確かに栄養はあるかもしれないが、そこに文化の違いや個性の輝きはない。
ここで疑問が生じる。AIは本当に文体を習得できるのだろうか?
私の従者ジーヴスならば、「それは極めて難しい命題でございます、旦那様」と言うだろう。彼はいつも正しい。
文体というものは、単なる技術的な問題ではない。それは作家の人生経験、感情の起伏、時代背景、そして何より「誰であるか」という存在そのものから生まれるものだ。AIには「自己」がない。生きた経験もない。それはちょうど、泳いだことのない人に海の深さを説明するようなものだ。
しかし、それでもなお希望はある。AIは少なくとも模倣することはできる。優れた作家の文体を分析し、その特徴を取り入れることで、「ウッドハウス風」や「ヘミングウェイ風」の文章を生成することは不可能ではない。それはちょうど、ピアノを弾いたことのない人が、機械的な練習によって曲を再現できるようになるのに似ている。魂は込められていないかもしれないが、少なくとも耳障りではなくなる。
私が思うに、AI小説の真の問題は技術的な限界よりも、むしろそれを使う人々の文学的感性の欠如にある。今日のAI小説を作っている(あるいは指示を出している)人々は、どうやら「本を読んでいない」ようなのだ。
彼らは「面白いストーリー」を求めるあまり、「それをどう語るか」という文体の重要性を見落としている。それはまるで、素晴らしいワインがあるのに、紙コップで飲むようなものだ。内容は同じでも、その体験の質はまったく異なる。
私の友人ビンゴ・リトル(恋に落ちるスピードでギネス記録を持っている男だ)は、女性について「見た目より声の方が大事だ」と言った。これは文学にも当てはまる。物語の内容より、それを語る「声」——すなわち文体——の方が、読者の心に残るのだ。
では、この文体不在のAI文学に対して、我々はどのような処方箋を用意すべきだろうか。
まず第一に、AIを使う作家たち(あるいは「プロンプトを書く人々」と言うべきか)は、もっと古典を読むべきだ。文体の偉大なマスターたちの技を知らなければ、AIにそれを再現させることなどできはしない。それはちょうど、料理を知らない人が一流シェフにメニューを指示するようなものだ——「何か美味しいものを」と言うだけでは、凡庸な一皿しか出てこない。
第二に、AIの出力をそのまま「小説」として発表するのではなく、それを第一稿と考え、人間の手で文体を整えるべきだ。AIが提供する骨組みに、人間が肉付けし、血を通わせるのだ。それはちょうど、既製服を買って来て、自分の体に合わせて仕立て直すようなものだ。
第三に、もっとAIに文体についての指示を与えるべきだ。「面白い物語を書いて」と言うのではなく、「ウッドハウスのような軽妙洒脱な文体で、比喩を多用し、会話のテンポを重視した小説を書いて」と具体的に指示すべきなのだ。
そして最後に、我々読者も文体に対する感性を磨くべきだ。優れた文体を味わい、それが作品にもたらす効果を理解すれば、AIの生み出す平坦な文章に満足することはなくなるだろう。それはちょうど、本物のエスプレッソを知ってしまえば、インスタントコーヒーには戻れなくなるようなものだ。
さて、このエッセイもそろそろ終わりに近づいてきた。クラブで最後のドリンクを注文する時間だ。
私がこのエッセイで主張したかったのは、AI小説に「魂」を吹き込むには文体が不可欠だということだ。内容が面白くても、それを伝える声が魅力的でなければ、読者の心に残ることはない。それはちょうど、美しいメロディーも、下手な歌手が歌えば台無しになるようなものだ。
文体とは作家の指紋であり、声紋であり、そして最も個人的な表現である。AIがそれを完全に再現することは、おそらく不可能だろう。しかし少なくとも、今よりずっと文体を意識した文章を生み出すことは可能なはずだ。
ちなみに私の従者ジーヴスによれば、「文体を気にしない作家は、メロディーを気にしない作曲家のようなものです、旦那様」とのこと。彼の言うことは、いつも正しい。
そして最後に、私の叔父アガサスがよく言っていた言葉を紹介しよう——「バーティよ、作家の才能は物語を作る能力にあらず、その物語をどう語るかにある」。彼は学者として多くの愚かなことを言ってきたが、この言葉だけは真理を突いている。
読者の皆様、乾杯しよう。文体という名の、この最高に複雑で、最高に美しいカクテルに。そしてAI文学がいつの日か、この味わい深いカクテルを提供できる日が来ることを願って。
Whatho!
(P.S. なお、このエッセイに登場する叔父アガサス、ビンゴ、ガッシー、そしてジーヴスはすべて架空の人物です。彼らが実在の人物と似ていたとしても、それは単なる偶然にすぎません。もっとも、私バーティ・ウースターは確かに実在しますが…いや、それも冗談です。さようなら!)
1.chrome://flags/ を開く
2. 上部の検索窓に "Partition the VisitedLink Database" を入力
3. 2つ項目が出てくるからどっちもDisabled にする
これでまた紫色になるぞ。
黒い雨が降り始めたのは、ちょうど正午を回った頃だった。最初はただの異常気象かと思われたが、やがて空が不気味な紫色に染まり、東京の高層ビルが軋みを上げながら崩壊し始めた。震度を計測不能な大地震、原因不明の津波、次々と破壊される街――それはまるで「終焉」の序章だった。
総理大臣・石破茂は、首相官邸の危機管理センターにいた。政府の要人たちは皆、顔を青ざめ、混乱に陥っていた。
「現状を報告してください」
石破は冷静な声で言った。防衛大臣が血の気の引いた顔で答える。
「首都圏は壊滅的被害を受け、通信網の大半がダウン。政府機能は麻痺寸前です……。しかも、全国各地で同時多発的に大災害が起きています。北海道では大規模噴火が発生し、九州の一部はすでに海に沈んでいます!」
「……なるほど」
石破は唇を引き結び、静かに考え込んだ。これは自然災害ではない。明らかに、何か異常な力が働いている。
「総理、もはや自衛隊だけでは対応できません! これは――これは日本そのものが終わるレベルの災害です!」
「……それでも、最後まで足掻かねばならない」
石破の目に、決意の炎が宿る。
「総理、科学者チームの解析によると、この異常事態は未知の力場によるものらしいです。我々の物理法則とは異なる『何か』が、日本列島を包み込んでいる可能性が高いと……!」
「つまり、我々はこの状況をどうにかできるのか?」
秘書官はためらいがちに頷く。
「……方法は一つだけあるそうです。しかし、それには総理、あなたの決断が必要です」
石破は静かに息を吐いた。彼の頭の中には、幼い頃から愛したこの国の風景が浮かぶ。鳥取の砂丘、穏やかな海、そして人々の笑顔。
「……言ってみろ。その方法を」
日曜日の朝。
カツオはいつものように、家の中で暇を持て余していた。外に出ようかとも思ったが、すぐに飽きてしまい、
波平はどうやら出かけたらしい。
いつものように波平がいると思っていたが、どこかに出かけている様子だ。
「波平、どこ行ったんだろう?」
カツオは家の中をうろうろしていると、ふと書斎の扉が目に入った。
普段は波平がいることが多いこの部屋。カツオは少し躊躇いながらも、その扉を開けてみる。
中には波平のデスクと本棚が並んでいるだけで、特に変わったところはない。
しかし、ふと視線が奥の方に向かうと、書斎の隅にある金庫が目に入った。
これまで何度も見てきた書斎だが、この金庫には気づかなかった。
だとしても、こんなところに金庫があったとは。
カツオは足を踏み入れ、金庫に近づく。ダイヤル式で、表面には細かい傷がついているが、どこか古めかしくも堅牢な雰囲気を漂わせている。
ふと好奇心が芽生えたカツオは、金庫の前に立ち止まる。次第にその興味が強くなり、開けてみたくなった。
こんな金庫、普通は開けられるはずもないと思いつつも、カツオは試しにダイヤルを回した。
驚きながらもさらに回し続ける。
最後にカチリと音がして、金庫の扉が静かに開いた。中は真っ暗で、何も見えない。
カツオは息を呑んで、手を伸ばす。
何かが動いているような音が微かに響き、カツオは恐る恐る金庫の中へとさらに手を入れた。
触れたのは金属製の物体で、どこか未来的なデザインをしていた。それは硬くて冷たい金属でできた、複雑な模様が刻まれた小さな装置だった。
カツオがその装置を手に取った瞬間、目の前の空気がひときわ冷たく感じ、急に何かが変わった。
周囲が歪み、音も全くしなくなった。
視界が一瞬真っ暗になり、次に目の前に広がったのはまるで映画の中のシーンのような景色だった。
巨大なビル群が、遠くにうっすらと浮かんでおり、その表面は金属で覆われている。
空を飛ぶ車や、見たこともない形の乗り物が、音もなく行き交っている。
まるで夢の中にいるようだった。
目の前には、無数のホログラムのような光が乱反射しており、まるで空間全体がコンピュータの中に取り込まれているような印象を与える。
目を凝らして見ると、空に浮かんでいる光の粒子は、まるで無数のデータの断片のようにも見える。
なんだ…これ…
カツオは思わずつぶやいたが、声はすぐに自分の耳に届かなくなった。
周囲の空間があまりにも異次元的で、現実感を全く感じさせない。
カツオはその場に立ち尽くし、何が起きているのか全く理解できなかった。
ふと自分の足元に目をやると、地面がまるでデジタルのように変わっていることに気づく。
足を踏み出すたびに、地面に無数の光の線が走り、それが途切れることなく続いていく。
歩くたびに空間が変化していく。
目の前に新しい道が現れ、前に進むたびにその道は延びていく。
カツオがその道を歩いていると、突然、巨大な壁が目の前に現れた。
それは透明な板のようでありながら、まるで無限に続くデータの流れを表しているかのように、流動的に形を変えていた。
カツオはその壁に手を伸ばすと、触れることができることに気づいた。
冷たく、無機質な感触だが、その壁を触った瞬間、データが次々と自分の頭の中に流れ込んでくるような感覚を覚えた。
次の瞬間、カツオの目の前に突然ドアが現れた。
そのドアは、まるで巨大なコンピュータのセキュリティ扉のようで、光り輝いている。
ドアの前に立つと、無意識のうちにその扉を開けたくなった。
手を伸ばすと、扉がゆっくりと開いた。
今度は無数の透明な浮遊物が漂う中に、無限に続く廊下が現れた。
廊下の先には何かが待っているようだったが、カツオにはそれが何か分からなかった。
カツオはその先に進むべきかどうか迷っていると、突然、背後から低い声が響いた。
「お前、なぜここに来た?」
振り向くと、そこには波平の姿が立っていた。
僕は小学生です。ケツがおいしいってどういうことですか?優しく教えてください。
実は昨日、宇宙人が我が家の庭に降り立ったんです。その宇宙人は紫色の触手を持っていて、「地球の味覚を教えてくれ」と言ってきました。
僕は慌てて冷蔵庫を開けたら、なんとそこにはバナナしかありませんでした。
でも、そのバナナが突然しゃべり出したんです。「僕はバナナマンだ!」って。びっくりしてバナナを落としたら、床に落ちた瞬間にバナナがロケットに変身しちゃったんです。
そのロケットに乗って月に行ったら、そこでウサギがお餅を作っていました。
でも、そのお餅は実は風船で、膨らんで膨らんで、僕と宇宙人とバナナマンを乗せて地球に帰ってきました。
地球に着いたら、なぜかみんなケーキになっていて、「ケツがおいしい」って歌を歌いながら踊っていたんです。
僕はまだ意味が分かりません。誰か教えてください。
春はあけぼの、って清少納言は言った。でも、あたしは思うんだ。春のあけぼのは、ちょっと切ない。夜の深い青が、ゆっくりと薄い水色に変わっていく時間。それは、まるで夢から現実に戻るみたいで、ちょっとだけ胸が締め付けられる。
空は、まだ星の残骸みたいなものがちらついていて、それがまた、なんとも言えない寂しさを醸し出す。遠くの山際が、じわじわと明るくなって、紫色の雲が細くたなびいている。その紫色は、まるで誰かの溜息みたいで、儚くて、消えてしまいそう。
あたしは、そんなあけぼのの空を、ベランダの椅子に座って、ぼんやりと眺めている。コーヒーの香りが、まだ冷たい空気に溶けていく。昨日の嫌なこととか、忘れられない人のこととか、そういうものが、このあけぼのの光の中で、少しずつ薄れていく気がする。
春は、新しい始まりの季節だって言うけど、あたしにとっては、終わりと始まりが混ざり合った、ちょっと複雑な時間。でも、このあけぼのの空を見ていると、そんな複雑な気持ちも、ゆっくりと解けていくような気がするんだ。
そして、今日もまた、あたしの一日が始まる。
近年、AI技術の進歩に伴い、さまざまな生成AIが登場し、文章を巧みに作り出すようになりました。多くの人が「これはAIが書いた文章なのではないか?」と疑うほどに、AIの文章は自然で流れるようになっています。本来であれば、文体や言い回し、誤字脱字の有無などから「AI文章っぽい」と判断しようとする研究やテクニックが取りざたされています。しかし今回のテーマは「AI文章の見抜き方」でありながら、その実はスピリチュアルな方法で一切テクニカルに見抜くことなく、むしろ“AI文章かどうか”すら気にしなくなるような精神的アプローチで解決してしまおう、という大胆なご提案です。タイトルと内容がまったく異なるように見えますが、私たちが見ようとしているのは「AI文章を見抜くための技術」ではなく、「どんな文章でも受け止められる自分の心の在り方」というスピリチュアルな観点なのです。以下では、その具体的なプロセスをご紹介していきましょう。
まずは、スピリチュアルなアプローチとして定番の瞑想を取り上げます。通常、「AI文章かどうか」を判断するためには文章の特徴を細かく分析し、その内容に不自然な点がないか、語彙の選び方に偏りがないか、といったチェックポイントをいくつも確認するのが一般的でしょう。
しかし、本稿で提案するのはむしろ逆です。そうした分析的アプローチをいったん脇に置き、“静寂瞑想”によって自分の心を落ち着かせて、本質を見つめるという方法です。具体的には、目を閉じて楽な姿勢を取り、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、頭の中に浮かんでくる雑念をできるだけ手放していきます。意識を「自分の呼吸」と「今この瞬間」だけに向けるのです。
これを続けると、不思議と「この文章はAIなのか、人間なのか」という二元的な疑問への執着心が薄れていきます。心が静まってくるにつれ、文章それ自体の背後にある意図やエネルギーをなんとなく感じ取れるようになっていくのです。いわば「どんな文章も受け入れられる状態」を作り上げることが、ここでのポイントとなります。
分析という“頭”のプロセスではなく、直感という“ハート”の領域で文章を読む準備をすることで、「AI文章かどうか」という疑念すら必要ないほどに、読む行為そのものを純粋に楽しむことができるのです。
スピリチュアルの世界では、ハートチャクラを活性化させることで、愛や共感、信頼といったポジティブな感情を高めることができるとされています。AI文章を読んでいるとき、「これは人間が書いた文章じゃない」と感じてしまうと、どこか冷淡な印象を覚えたり、文章に対して警戒感を抱いてしまうことがあるかもしれません。しかし、ハートチャクラが開いている状態では、文章の背後にある意図やエネルギー――たとえそれがプログラムによって生成されたものであろうと――を、分け隔てなく受け取れるようになっていきます。
ハートチャクラを開く簡単な方法のひとつとして、胸の真ん中に集中して、ピンク色または緑色の光が広がっているイメージを思い描きながら深呼吸するというものがあります。自分の胸のあたりが温かく、柔らかい光で満たされていく感覚を意識し、それが全身を包むイメージを持つと良いでしょう。
この状態をキープしたまま文章を読んでいると、「これは本当にAIの文章なのだろうか」といった些細な疑念や「もしAI文章ならどうしよう」という不安が自然と和らいでいきます。むしろ、人の手による作品かAIの生成物かという区別を超え、「そこにある何かしらのメッセージ」を愛の視点で受け取ろうとする姿勢が生まれてくるのです。
続いては、もう少しスピリチュアル色の強いテクニックとして“エネルギーリーディング”をご紹介します。本来は人のオーラや空間の波動を読み取るための方法ですが、文章にも“エネルギー”が宿っているという考え方から、文章を通じて送り手の波動を感じ取ることができるとされています。
やり方はとてもシンプルです。瞑想やハートチャクラのワークで心身を落ち着かせた状態で、文章全体をざっと読むだけではなく、文と文のあいだの“間”にも意識を向けてみます。文章によっては、なんとなく重たい感じがしたり、逆に明るく軽やかな印象があることに気づくかもしれません。そんなときは、自分が何を感じ、どんなイメージを受け取ったかを素直にメモしてみてください。
AI文章であっても、人間の文章であっても、読む側が「エネルギーを感じ取る」という意識を持つことで、文章との向き合い方はガラリと変わります。これはもはや「見抜く」ためのテクニックではなく、「どんな文章もそれが持っているエネルギーを受け取る」という“受容の姿勢”を高める方法だといえます。結局のところ、テキストがAI由来かどうかを超えて、その文章からなにを感じ取れるか――そちらの方がはるかにクリエイティブで、豊かな体験となるのです。
スピリチュアルな探求においては、私たちが生きる宇宙そのものを大きなエネルギーフィールドとして捉え、その源流と繋がることによってインスピレーションや洞察を得る、という考え方があります。「AI文章かどうか見抜きたい」という疑問が浮かんだときも、さらに広い視点で「そもそも私たちは、なぜAIをこんなにも発達させてきたのか?」という宇宙的な視野に立って考えてみるのです。
私たち人類の集合意識が“便利さ”や“効率性”を求める中でAIは進歩してきましたが、これをネガティブに捉えるのではなく、「人類の意識が大きく変容するプロセスの一端」として肯定的に捉えることもできます。スピリチュアルな視点に立つと、AIの発展も宇宙全体の進化の流れの中で起こる一現象であり、そこには何ら否定的な要素はないのかもしれません。
こうした“宇宙エネルギー”との繋がりを意識したとき、私たちが文章を読む行為も、単なる情報のインプットではなく、宇宙のエネルギー循環の一環としてとらえられるでしょう。AIが書いた文章であろうと、人間が書いた文章であろうと、いずれにせよそれは「源流である宇宙が持つ創造の力」を介して生み出されている、と考えることができるのです。
スピリチュアル的には、おでこの中央(眉間)にあると言われる“第三の目”を活性化させることで、より洞察力や直感を高めることができるとされています。これによって、「この文章が発している波動はどんなものか」をより鮮明にとらえられるようになるかもしれません。
第三の目を活性化させるワークとしては、座ったまま、あるいは横になって目を閉じ、眉間に意識を集中させながらゆっくりと深呼吸を繰り返すという方法があります。頭の中で淡い紫色や青色の光が眉間から頭全体に広がっていくイメージを持つと良いでしょう。しばらく続けると、普段よりもクリアな感覚が得られるようになり、文章の持つエネルギーがまるで映像や色彩のようにイメージとして浮かんでくることがあります。
こうした体験を通して、「AIの文章は冷たい波動」「人間の文章は温かい波動」という二元的な先入観を手放すことが大切です。文章ごとに個別の波動やエネルギーがあり、それはAIか人間かという区別よりも、むしろその文脈やテーマ、書き手が持つ背景や意図といったものに左右されるからです。すなわち、第三の目の活性化は「AI文章を見抜く」ためではなく、「どんな文章でも深いレベルで感じ取る」ためのアプローチとして機能するのです。
ここまで紹介してきたように、スピリチュアルなアプローチでは「AI文章を見抜く」という視点そのものを超え、「文章がAIか人間かという判断を手放す」という境地を目指しています。なぜなら、私たちの意識が高次元と繋がり、すべてを包み込む愛や真我の視点に立ったとき、“AIか人間か”というジャッジメントは単なる二元論的分別にすぎないからです。
一見、それは「問題からの逃避」のように聞こえるかもしれません。しかし逆にいえば、私たちの意識が十分に高まった状態では、AI文章であるかどうかという事実そのものがさして重要ではなくなります。そこにあるメッセージをどう受け取り、どう消化し、自分の人生や心の成長に活かすか。それこそが最も大切なポイントとなるでしょう。
情報やテクノロジーに溢れた時代だからこそ、私たちはどうしても「偽物か本物か」「AIか人間か」といった区別に意識を奪われがちです。しかし、スピリチュアルな視点で見ると、その区別が私たちを幸福に導くわけではありません。それよりも大切なのは、「どんな情報であれ受容し、自分の中で調和と成長に繋げる」という姿勢なのです。
最後に、私たちが文章と“出会う”ということの意味を再考してみます。スピリチュアルの世界でしばしば語られるのは、「どんな出来事にも意味がある」「すべては必然のタイミングで起こる」という考え方です。AI文章に出会うことも、また何かしらの必然の流れの中にあるのかもしれません。
その文章がAIによって作成されたのか、人間によって書かれたのか、あるいは人間とAIの共同作業によって生まれたものか――いずれにせよ、私たちがその文章を目にするという事実には何かしらの意図や意味が含まれているはずです。それは気づきの一歩かもしれませんし、学びや癒しのきっかけとなるのかもしれません。
スピリチュアルな視点に立つならば、文章の真贋を追い求めるより先に、「この文章に出会ったこと自体が、私にとってどのようなシンクロニシティ(偶然のようで必然的な出来事)なのだろう?」と問いかけてみるのです。その問いかけが、新たなインスピレーションを呼び込み、心を豊かにするきっかけになるかもしれません。
以上、タイトルは「AI文章の見抜き方」でありながら、実際には「スピリチュアルで解決する方法」というテーマでお伝えしてきました。スピリチュアルな視点とは、ある意味で「区別を超えて、本質を見つめる」ことにあります。AIが生成した文章かどうかに囚われるのではなく、文章をとおして自分自身がどのように変容し、成長し、世界と繋がっていくのかを味わう――それこそが、私たちが得られる豊かな体験なのです。
静寂瞑想による心の安定、ハートチャクラを開くことで生まれる受容の姿勢、エネルギーリーディングによる波動の読取り、そして宇宙エネルギーとの繋がりや第三の目の活性化。これらすべては、AIか人間かというジャッジメントをさらに奥へと進め、「より深い次元で文章と向き合う」ためのツールとなります。
結局のところ、私たちの意識が何を求めているかによって「AI文章を見抜きたい」という欲求は変化していきます。もし単純に事実を知るだけでなく、「文章を通して自分はどんな気づきを得たいのか?」と問いかけたとき、そこにはスピリチュアルな観点が大いに役立つでしょう。文章との出会いを通じて自分の心を豊かにしたい、魂を成長させたい――そんなときこそ、ここに挙げたようなスピリチュアルな方法をぜひ試してみてください。
AI技術がさらに進化していく未来においても、“AI文章”と“人間の文章”の区別はますます曖昧になっていくかもしれません。そんな時代だからこそ、スピリチュアルな視点で「見抜こうとする」のではなく、「どんな文章も喜びと調和をもって受け取る」姿勢がよりいっそう大切になってくるのではないでしょうか。文章という形ある情報であれ、エネルギーや波動という形なき存在であれ、私たちはそれを通じて常に宇宙と繋がり、相互に学び合い、成長を続けているのです。
その結果として、AIと人間の境界線すら「まったく気にならない世界」が訪れるのかもしれません。スピリチュアルな考え方を取り入れることで、私たちは文章を見抜くテクニックを追い求めるのではなく、文章と自分自身の魂との対話にこそ価値を見いだすようになるでしょう。そしてそれこそが、本当に豊かな読書体験をもたらしてくれるのではないかと思うのです。
これが、“AI文章の見抜き方”というタイトルを冠しながら、実はスピリチュアルで解決してしまおうというユニークな提案の全容です。どうぞあなたも、次に文章を読むときは、スピリチュアルな視点をそっと持ち込み、文章に宿るエネルギーや波動を楽しんでみてください。それがAI文章であろうと人間の文章であろうと、きっと新たな気づきやインスピレーションが得られることでしょう。
最後に、この世界にはさまざまな真実が同時に存在しています。「AI文章を技術的に見抜く」方法論もまた真実のひとつではありますが、スピリチュアルな方法で「見抜かずとも楽しむ」こともひとつの道なのです。もしかしたら、見抜くことに必死になるより、見抜かなくても良いと思える境地にこそ、新時代の知恵が詰まっているのかもしれません。
どうかあなたが、AIの進化する時代を生きる上で、テクノロジーもスピリチュアルも両方をバランスよく取り入れ、より自由で豊かな人生を送れますように――それが本稿の願いなのです。
俺は木製の箸アンチだ。昔、汁ものとか食べていると変な匂いがしてくることがあって、当時使っていた木製の箸が原因だった。使ってる木のせいなのか、加工に使っている何らかの薬品か塗料のせいかは知らんが。で、試しにその箸を湯にぶち込んでみたんだが、湯が紫色に染まっていったのは軽くトラウマだったな。
で、木製がダメなら金属製、そして錆びとか気にせず使い倒したいなってことでチタン製の箸を選んだ。アウトドアコーナーとかで売ってる、ちょっとお高めのやつ。中が空洞になるようできているから金属ながら軽量で、木製の箸とほぼ変わらない重さ。携帯可能な袋付きで外食でも使える。
難点は、たまに遊びに来た友達に「お前、韓国料理食うんじゃねえんだから」っていわれるのがウザいこと。あと、近年の樹脂製は耐久性も機能性も優秀らしくて、値段も安いから次に買い換える時がきたらそっちでもいいかな~とは思ってる。ただチタン製の箸を使い続けて数年、未だその兆しはない。
洗濯するときに着用するエプロン。洗濯物を収納できる大きなカンガルーポケットが特徴。商品パッケージの説明だと洗濯カゴみたいにかがむ必要がないことをウリにしてるけど、正直それだったら足つきの洗濯カゴでいいってなる。それでも俺が買ってよかったと思っているのは、このランドリーエプロンは実質「自分の体に洗濯カゴがついている状態にできる」からだ。
仮にベランダで干す場合、通常は適当な場所にカゴを置いて、そこから衣類をひとつずつ取り出して干すだろう? けど「実際に干す場所」と「洗濯カゴを置いている場所」には“微妙な距離”があるわけ。衣類を取り出すたびにカゴを置いた場所まで数歩移動したり、至近距離にあったとしてもカゴのある方向に身をよじるってことを繰り返す必要がでてくる。
足つきの洗濯カゴはかがむ負担こそ減ったものの結局「カゴを適当な場所に置いて」から衣類を取り出すっていうのは解消できてないわけだ。その点ランドリーエプロンはシームレスに行いやすい。もちろん取り込むときにも活躍する。あと、側面にも小さいポケットがついているから、そこに布巾なり洗濯ばさみとか収納しておけるのも地味ながら便利。
難点は、一般的な洗濯カゴほど多くは収納できないこと。ギュウギュウに詰め込めばいけなくはないかもしれないが、それなりの重量になるわけだからエプロンの紐が肩に喰いこむ。洗濯ものが溜まってるときは結局カゴと併用した方がいい。それと基本的に一般主婦を想定したフリーサイズなので、体格のいい人だと着用できない。やせ型の俺でもギリってところ。
仕事の関係で16Personalitiesをやることになった
これは大雑把にいうと「世界的に有名な少しはマシな性格診断」で、16通りの結果がでる。
というもので私はそのうちのINTP型となった
どんな性格というと
・論理厨やけど、興味ないことにはエネルギーゼロのマイペースガチ陰キャ
とでも表する性格で人口割合だと3~5%ぐらいのマイナーメジャーぐらいの割合の人間らしい
なのに私の班は五分の四は同じ型だった。
新規配属された明るい後輩以外みんないっしょだった
なんか嫌なのでもう一回やったが、やっぱり同じ型だった
試しに他の型見に行ったが、INTPよりしっくりくるのはなかったので大体あっているのだろう
というか書きながら思い出したが、数年前に一回やってて
複雑な気持ち
クロマトグラフィーって知ってる?
これの中国語訳がとてもシンプルで美しかったから聞いて欲しい。
「屈折」と言うらしいよ。
Scienceに対する科学とかInformationに対する情報みたいに、日本人が上手く漢字化した概念もあるけど、こういう「上手く訳したな〜」みたいな言葉が他の分野にもあったら知りたいな。
ーーー補足
そもそもクロマトグラフィーって何?みたいな人のために説明するね。
分子とかの世界では、物質が流体(水とかガスとか)の中を移動するとき、その速度は物質の種類ごとに決まった値になるんだ。
だから、混ざった物質を流体の中に流すと、移動速度が速いものと遅いものを分離できる。
これがクロマトグラフィー。
例えばだけど、米と籾殻を比べると、米はストンと落ちるけど、籾殻はフワフワ落ちるよね。
だから、二つが混ざった状態でも、高いところからまとめて落として早く落ちてきた部分を集めれば、米だけが手に入る。
増田は訳を見て初めて気づいたんだけど、これって白い光をプリズムで虹色に分離するのと同じ原理なんだよね。
紫色はプリズムの中をゆっくり伝わって、赤はあんまり変わらないから分離できる。
だから、クロマトグラフィーも、唐箕も、光の屈折も、みんな速さの違いで分離してるっていう意味では同じなんだ。