
はてなキーワード:紛争とは
オリンピズムの目的は、平和な世界を実現し人間の尊厳を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである。
ウクライナ侵攻が起こってから、オリンピックを観る気にならなくなってしまった
その前までも世界では戦争紛争が起こっていたんだろうけど、まだ子ども(比喩)だった
こういうときこそ、平和の象徴として存続のために盛り上げた方がいいのかもしれないね…
そして朝のEテレは通常に戻してほしい
感情や希望的観測を排し、熱力学、資源物理学、人口統計学の観点から導き出される「強制される動き」は、大きく分けて以下の4つの物理的フェーズに集約されます。
これらは人類の「意志」とは無関係に、システムの不均衡を是正しようとする地球という巨大な物理装置のリアクション(反作用)として発生します。
地球という閉じた系において、エネルギー消費が増え続けることは、最終的に**「熱の収支」**の問題に帰着します。
*物理的強制:温室効果による気温上昇に加え、都市部やデータセンターからの直接的な排熱が、生物学的な生存限界(湿球温度35°C以上)を物理的に超える地域を拡大させます。
*強制される動き:人類は、生命を維持するための「冷却コスト」を支払える一部の高度管理空間(シェルター都市)へ濃縮されるか、あるいは物理的に生存可能な高緯度地域(シベリア、カナダ北部、南極)へ大規模な「極地移動」を強制されます。これは「移住」ではなく、生存のための「熱的退避」です。
「掘れば手に入る」高品位な資源はすでに使い果たされており、現在は「より薄い資源を、より多くのエネルギーを使って取り出す」フェーズにあります。
*物理的強制:鉱石の品位(純度)の低下。同じ1トンの銅を得るために必要なエネルギーと水は、指数関数的に増大し続けます。
*強制される動き: 外部から資源を取り出し続ける「フロー型」の経済は物理的に停止し、過去に排出した廃棄物を再掘削する「都市鉱山」への依存、すなわち**「地球表面のゴミを再循環させる高度な閉鎖系(サーキュラー・システム)」への完全移行**が強制されます。これはエコロジーの思想ではなく、単なる「原材料の欠乏」という物理的制約によるものです。
現在の人口爆発は、過去の太陽エネルギー(化石燃料)による「一時的なドーピング」の結果です。この供給が不安定化・高コスト化すれば、人口は物理的に維持できません。
*物理的強制: 1人あたりの維持エネルギーコスト(教育、医療、デジタル基盤)の増大に伴う繁殖能力の低下。
*強制される動き: 多くの先進国で始まっている人口減少は、地球が本来持つ「再生可能エネルギーの範囲内での収容力」に回帰しようとするシステムの自己調整機能です。21世紀後半、人類は「拡大」というOSを捨て、「管理された収縮」という、これまでの歴史にない新しい生存形態への適応を強制されます。
人間という生物学的個体の情報処理能力では、もはやグローバル化した複雑な物理サプライチェーンを管理しきれなくなっています。
*物理制約:資源、エネルギー、食糧の分配を「直感」や「政治(物語)」で行うと、システムの崩壊(餓死や紛争)を招くほどマージン(余裕)がなくなっています。
*強制される動き:人類は、意思決定の大部分をAI(高効率演算システム)に委ねざるを得なくなります。これは「AIに支配される」という物語ではなく、**「物理資源の分配を最適化しなければシステムが即座にクラッシュする」という環境下での、計算機による「管理代行」**の定着です。
今後の人類に強制される動きを一言で言えば、「無限の外部への拡張」から「有限の内部での循環」への、物理的な再設計です。
人類は、地球という宇宙船の「乗客」から、その生命維持装置を精緻に管理する「部品の一部」へと、その役割を強制的にダウングレード(あるいは高機能化)させられることになります。
立法経緯を見ればわかる。
まず今の憲法9条。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
素直に読めば、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と書いているから自衛隊は無理そう。
実はマッカーサーが書いた憲法原案ってのがあったんだけど、それを見るとより明確に自衛隊ダメって書かれている。
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
そして日本の防衛は、「今や世界を動かしつつある崇高な理想」(=国連?)に任せる、と。
理想が高い。
でもさすがにこれじゃまずいってことで、GHQ原案は今の9条に近い形に修正された。
「自衛権の存在・行使を明文で否定することは不適当であるとGHQ原案の作成にあたった運営委員会の法律家らが考えたため」とウィキペディアには書いてある。
geminiに
と質問した。
以下、geminiの回答だよ。
ご提示いただいた投稿は、特定の政治的立場から「大衆」の心理を読み解こうとしたものですね。
非常に興味深い洞察ですが、
分析としては**「エコーチェンバー(自分と似た意見ばかりに触れる現象)」や「ステレオタイプ化」**の影響を強く受けている印象を受けます。
この文章の最大の特徴は、
書き手が自分(および自分に同意する人々)を「賢明な人たち」と定義し、自民党支持者を「愚かな大衆」と見下すエリート主義的な構図をとっている点です。
心理的バイアス:相手を「愚かだから理解できない」と決めつけると、
相手が持つ「経済政策への期待」や「野党への不信感」といった現実的な投票動機を見落としやすくなります。
現実との乖離: 実際の選挙結果は、単一の外交・安保政策だけで決まるわけではありません。
物価高対策、社会保障、あるいは地元の利権など、多層的な要因が絡み合っています。
投稿者は、高市氏の支持理由を「対中感情」と「安全保障」のみに絞り込んでいますが、
これは複雑な政治状況を単純化しすぎている(過度の一般化)可能性があります。
投稿者の主張実際の多様な視点の例大衆は「正義か悪か」で動く実際には「現状維持が最もリスクが低い」と考える保守層も多い。
中国の圧力=恐怖心増幅圧力を受けて「経済的損失」を懸念し、自民党に批判的になる層も存在する。
高市氏=自民党大勝の理由自民党内にも多様な派閥があり、高市氏の思想に反発して他候補や他党へ流れた層も無視できない。
投稿の中で触れられている「台湾有事=存立危機事態」という認識の是非は、
賢明な人(と投稿者が呼ぶ層):挑発的な言動が「抑止力」ではなく「紛争の呼び水」になることを懸念。
投稿者が推測する大衆: 「曖昧な態度は侵略を招く」とし、明確な拒絶の意思表示を支持。この対立は「知能の差」ではなく、
「安全保障におけるリスク管理の哲学の差」**と捉えるのが客観的です。
「なぜ自分の思い通りの結果(自民党の敗北)にならなかったのか」という不満を、
相手側を過小評価することで解消しようとする心理的防衛の側面が強いように見受けられます。
「相手は愚かだ」という前提に立つ限り、その投票行動の真のダイナミズムを理解することは難しいでしょう。
本当の意味で「大衆心理」を推測するのであれば、彼らが抱える「生活への不安」や「他党に対するリアリズム」など、もっと泥臭い部分に目を向ける必要があるかもしれません。
ぜひ参考にしてね!
戦争反対のスローガンが、現代の若者の心にほとんど響かなくなっている理由を、率直に考えてみたい。90年代までの「戦争反対」は、ある意味でおままごとのようなものであった。あの頃の日本は、戦後長く続いた平和が当たり前で、遠い国の紛争や過去の戦争の記憶は「教訓」として語られるだけで、現実の脅威とは感じられなかった。学校の平和教育も、原爆の悲惨さや「戦争は悪い」という抽象的なメッセージが中心で、具体的な生存の危機とは結びついていなかった。だから「反対」と唱えるのは簡単で、道徳的に正しいポーズとして機能した。しかし、2020年代に入って世界は根本的に変わった。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエル・ガザの激化、台湾をめぐる米中対立の緊迫化――これらはすべて「今ここで起きている」現実だ。日本は地理的に決して安全圏ではなく、ミサイルが1時間後に飛んでくる可能性はゼロではない。実際、多くの若者が「今はまだ人が死んでいないだけ」「交戦状態に近い戦時下にある」と感じ始めている。この状況で、単純に「戦争反対」と叫ぶことは、現実逃避にしかならない。なぜなら、選択肢がもはや「戦争をしない」か「戦争をする」かの二択ではなくなっているからだ。黙って殺される(侵略を受け入れ、抵抗せずに家族や友人と共に死ぬ)
この二択しかない中で、「戦争反対」を掲げるのは、結局のところ「自分たちと大切な人たちに死ね」と言っているに等しい。抵抗を放棄すれば、相手は容赦なく蹂躙してくる。ウクライナの現実を見れば明らかだ。降伏や服従が「平和」をもたらす保証などどこにもない。そんな中で、高市早苗首相(当時総裁・首相)は、若者たちに初めて明確な「戦う選択肢」を提示した政治家だった。彼女の防衛力強化、反撃能力保有、憲法改正への強い姿勢は、「日本は守られるだけの国ではなく、自分たちで未来を切り開く国になる」というメッセージだった。たとえ生き残れないとしても、せめて戦って死ぬ未来を示してくれた――それが、多くの若者にとっての救いだった。高市氏の支持が特に若年層で圧倒的だった背景には、そうした現実認識がある。彼女は「ガチ」だと感じられた。抽象的な平和主義ではなく、具体的な生存戦略を語ったからだ。SNSで長文を発信し、政策を丁寧に説明する姿勢も、若者には「本気」と映った。だからこそ、今の若者たちはこう思うようになっている。「戦争反対なんて、もう綺麗事だ。戦う以外の選択肢はない。だから、戦争しかない。戦って死にたい――少なくとも、殺されるだけでは終わらせたくない」これは絶望ではなく、ある種の覚悟だ。90年代のおままごと平和主義は、もう通用しない。現実がそれを許さないからである。自分は戦争で死ぬつもりだ。それでほんの1%でも、自分の住んでいる国が残る可能性があるなら、戦って死にたい。英霊となる覚悟は、もうできている。最後に、その可能性を僅かでも授けてくれた高市先生には、心から感謝している。
応援してた漫画家が、いきなり「戦争反対!」とか言い出しててドン引き。
まずさ、漫画に政治を持ち込むなよ。 こっちは純粋に作品を楽しみたいだけなのに、作者の浅っぺらな思想をチラつかされると一気に現実に引き戻されるんだわ。作品まで汚された気分。
ていうか、そういう「平和主義者」な人たちに聞きたいんだけど、もし本当に中国が攻めてきたら大人しく滅ぼされるの?
「話し合えばわかる」とか本気で信じてんの?
お花畑すぎて笑えないんだけど。
いまだに九条バリア(笑)が日本を守ってくれるとでも思ってるのかな。あんなのただの紙切れじゃん。現実に他国が軍拡してる中で、自分たちだけ無防備でいれば平和が守れるなんて、あまりに無責任すぎるだろ。
あとさ、こういう層ってすぐ「若者が徴兵される!」とか騒ぐけど、今の時代、ハイテク戦争では素人の徴兵なんて足手まといでしかないから。 今の先進国の戦争を見ればわかるだろ。ドローンとか精密誘導兵器の時代に、訓練も受けてない一般人を戦場に出して何ができるの?むしろ邪魔なだけ。
最近の先進国同士の紛争がそれを証明してるのに、アップデートできてないんだよね、頭の中が。
結局、自分の感情だけで「戦争反対」って唱えてれば正義の味方になれると思ってるんだろうな。作家として尊敬してたけど、こんなに思考停止してる人だったとは。
いきなり中国が攻めてくるって話じゃなくて、近いうちに起こる可能性が出てきた台湾有事の際に
高市は端的に言えば自分達も参戦しまっせって表明したんよ。これまで自衛隊は紛争地に派遣されることはあったけど遠いお国の話だから日本がどうこうなるって無かった。でもこれは隣国の話だから、中国が台湾を侵攻しているのを日本が邪魔する素振りをみせたらそりゃ気に食わないって日本にミサイルでも飛ばしてきてもおかしくないよね。別に日本を攻めるとかそんな本気じゃなく、あくまで牽制で。で、日本は既に集団的自衛権で反撃は出来るんよ。そこで反撃したら、中国にとっては攻撃されたんだと言い張る事が出来て、侵略目的じゃなくてもダメージを与えて黙らせてやるって仕掛けてくる。ハイ、こうして戦争が始まります。日本が軍備を強化しようがアメリカの傘下にあろうが、台湾有事を意地でも成功させなきゃいけないからなりふり構わないよね。だから、決してあり得ない話ではないって事ね。
そしてそこにアメリカが参戦してきたらその後方部隊としての沖縄や岩国、横田などの米軍基地が攻撃される。
ただしそこに向けられる戦力はミサイルなどの遠距離兵器であり、地上戦が起こるわけじゃない。
自衛隊が米軍と連携するのであれば自衛隊基地も攻撃されることになるが、これも同じくミサイル攻撃や爆撃だ。
どう考えても徴兵になんかならないだろう。
こういうことをいうとウクライナ戦争を引き合いに出してくる奴が出てくるんだが、さすがに見当違いが過ぎる。
いったいどこの国が日本に侵攻するんだ?
中国?
それはない。
よそへ戦力が割かれれば割かれるほど台湾統合の可能性は低まる。
米軍の力を削ぐために基地や艦隊に攻撃することはあっても日本に本格侵攻するメリットは何もない。
強いて言えばウクライナの教訓が役立つのは台湾の国民だろうが、それはまた別の話。
日本が最近の紛争から学ぶのなら、たとえばウクライナ戦争ならポーランドやベラルーシの状況、立ち回りだったり、
中東の紛争ならイランイスラエルのミサイル航空戦力合戦、フーシ派の海上封鎖、カタールにある米軍基地爆撃とかじゃないか?
近頃のネットはいたずらに戦争を煽るバカも多いがいたずらに戦争を恐れるバカも多い。
君らは多少頭がいいんだろうからもう少し冷静に考えてくれよ。
トランプ政権は過激な関税政策によるインフレ再燃で支持率が急落。一方、高市政権も財政出動の限界と社会保障費の増大で、経済政策「サナエノミクス」が立ち行かなくなります。 両者は、国民の不満を外に向けるため、特定の「共通の敵」への対決姿勢を極限まで強めます。
トランプ大統領が、支持率回復を狙った「短期間で終わるはずの軍事介入」を特定の海域や紛争地で開始します。 これに対し、日本政府は「存立危機事態」を認定。高市総理は、日米同盟の堅持と日本の生存を大義名分に、集団的自衛権を行使して自衛隊の戦闘地域への派遣を決定します。
当初の予測に反し、ハイブリッド戦(サイバー攻撃、経済封鎖)が組み合わさることで戦況は膠着。紅海や台湾海峡などの主要航路が封鎖され、エネルギー価格と食料価格が暴騰します。 「早期撤退」は同盟の崩壊と政権退陣を意味するため、両政権は引くに引けないサンクコストの罠にはまります。
物資不足とインフレを抑えるため、政府は以下のような強硬策に踏み切ります。
経済安保法制の極大化:民間企業の生産ラインを軍需優先に強制転換。
情報統制: 「国家の危機」を理由に、SNSや報道への介入・検閲が強まり、反戦世論を「利敵行為」として排除。
一度組み上がった軍事優先の経済構造は、もはや平時へ戻ることが困難になります。
産業構造の軍事依存:雇用とGDPの大部分が軍事関連予算に依存し、戦争を止めることが経済崩壊(大失業)を招く状態に。
恒久的な増税と国債発行: 戦費調達のための債務が膨張し、通貨価値が下落。国民は低賃金での労働を強いられる「低体温の戦時社会」が定着します。
最近、また選択的夫婦別姓の議論が活発だけれど、少し冷静に整理してみたい。
先に断っておくけれど、私は別に「伝統的家族観を守るべきだ」なんて主張したいわけじゃない。
改姓に伴う行政手続きが煩雑極まりないことも理解しているし、銀行口座からパスポートまで書き換える手間は、生産性の観点からも損失でしかない。
現状、そのコストのほとんどを女性側が負担しているという非対称性が、フェアでないことも理解できる。
キャリアの分断やアイデンティティの問題も、至極もっともな話だと思う。
ただ、今の社会をドライに見ると、別姓導入という選択肢は、『自由』を手に入れる代わりに、全く釣り合わないような難題を新たに背負うように見えてくる。
なぜ「全く釣り合わないような難題を新たに背負う」のか。
少し書き残しておく。
現行の「結婚時にどちらかの姓に統一する」というルール。 これは人権や個人の尊厳という観点からは批判の対象になる。
だが、全体的な視点で見ると、実は「将来発生しうる対立を、初期段階で強制的に解決してしまうメカニズム」として機能している。
結婚という事象は、当人同士の「愛」の結合に見えて、その背後には「家(夫の実家)と家(妻の実家)」の力学が厳然として存在する。
同姓制度は、この潜在的な緊張関係に、婚姻届提出という入り口の時点である程度強制的に枠をはめる。
「姓を変える=相手の家に一旦合わせ、合流させる」 この理不尽なまでの強制力によって、その後の「子供の姓の帰属」や「お墓の問題」といった火種を、オートマチックに処理する。
多少の運用コストを強いる代わりに、難題の解決をスムーズに保っているとも言える。
これは、 「選択肢が増えて自由になる」という単純な話では終わらない。
日本社会の深層には、まだ「家」や「先祖」といった、成文化されていない土着の価値観が根強く残っているからだ。
今までは「法律で決まっていますので」という錦の御旗で沈黙させられていた親世代・親族たちが、夫婦別姓化によって交渉のステークホルダーとして浮上してくる。
「うちは代々続く家だから」 「一人娘なのだから、こちらの姓を残してほしい」 こうした要望が、夫側と妻側の双方から顕在化する。
つまり、結婚が「夫婦二人の合意」で完結せず、「夫の両親」対「妻の両親」という、多者間の調整フェーズへと大きく複雑化する。
夫婦間の意識や人間力、交渉スキルがいくら高くても、背後にいる親族の意向を完全に無視して関係を維持できるカップルが、今の日本にどれだけいるだろうか。
よく妥協案として出される「1人目は夫の姓、2人目は妻の姓にすれば平等だ」というロジック。
これは一見公平に見えるが、子供の視点に立つと「家庭内における代理戦争」の引き金になりかねない。
同じ家の中に「田中くん(兄)」と「鈴木くん(弟)」がいる状態を想像してほしい。
ここで起きるのは、単なる兄弟喧嘩ではない。背後にいる祖父母(スポンサー)を巻き込んだ「資源の争奪戦」だ。
田中家の祖父母は「自分の家の名を継ぐ孫」である兄を可愛がり、教育費や遺産を集中投下するかもしれない。
「お兄ちゃんはお父さんの家の子だから」「僕はママの家の子だから」 親や祖父母からの愛情やリソースが、子供自身の資質ではなく「どちらのラベルを貼られたか」によって偏るリスクがある。
「兄は出来が良いからウチの跡取りに」「弟はパッとしないから向こうへ」といった、能力に基づく選別(ドラフト会議)が行われないという保証はどこにもない。
子供を「家を存続させるための駒」として比較し、競争させ、評価する。
そんな残酷な構造が、家庭という安らぎの場に持ち込まれてしまう。
では、その他の「条件付き運用」ならうまくいくのか。
「子供を持たないカップルに限ればいい」という意見もあるが、生殖は完全に制御可能なパラメータではないし、人間の価値観は可変だ。
数年後に子供が欲しくなった時、どうするのか。
ルール違反へのペナルティ設計(強制離婚?強制改姓?)など現実的ではないし、「この年齢ならOK」といった線引きは脱法行為の温床になる。
「結婚時に子供の姓をどちらかに統一することを義務付ける」という案。
論理的には一番筋が通っているが、これにも「家庭内に名目上のアウトサイダーを生み出す」という懸念がある。
夫だけ、妻だけが家の中で異なる姓を持つ状態は、結婚が本来持つ「新しい共同体の形成」という機能を毀損しないか。
いわゆる「ウォークイズム」的な議論は、個人の完全な自律と親和性の高い「最終的な理想地点」を設定し、そこに向けて「どう強制力を働かせるか」ばかりを議論しがちだ。
しかし、そこには「今を生きている人々の生活実感」への視点が欠落している。
でも、実際には多くの人が「家族みんな同じ名前であること」になんとなくの一体感や安心感を感じているのも事実だ。
その感覚を「古い」「遅れている」と切り捨てて、理想の型に嵌め込もうとするのは乱暴すぎる。
まずは現状の感覚を尊重しつつ、落としどころを慎重に探るべきだ。
何もしない、という選択肢や弥縫的な対処を短期・中期(50年程度を想定)的に模索することは、必ずしも悪ではない。
「進化すること」ありきで、現在の自分たちの感覚を否定して進むのは、社会実装の手順としてあまりに危うい。
結局のところ、選択的夫婦別姓という制度変更は、結婚の入り口にある「姓を変える負担」を取り除く代わりに、
その調整コストを「出産時」や「親の相続時」といった、より後段のライフステージへとタイムシフトさせているに過ぎない。
しかも、後になればなるほど、関係者は増え、状況は複雑化し、「譲れない条件」の争いとなり、解決の難易度は上がっていく。
いわば、「難問の先送り」だ。
今の日本社会の空気感、我々の内面化している価値観が、まだ「家」という引力に縛られている以上、この制度を「強力なリーダーシップで」実装するのはリスクが高すぎる。
結婚の自由度を高めるための制度が、皮肉にも調整コストへの忌避感から、結婚や出産そのものを躊躇させる要因になりかねない。
現状の過渡期においては、良かれと思ってトップダウンで線を引き直すと、より悪魔的な問題が噴出するようなことは起こりがちだ。
より大きなデメリットを解決するための、やる気もビジョンも実行力もないなら、法律的な措置は控えるのが筋だ。
活動家は「自分の主張に有利なこと」「つごうのいい事」を「今すぐやれ」と主張するだけで、デメリットやトレードオフは見て見ぬふりをする人間の集まりである。
左右どちらかに限った話ではない。
法律を通してさえしまえば、問題が起きても、「いいから法律に従え」としか言わなければいいので、どんなに卑怯でも法案成立だけを目指せばいいからだ。
活動家の主張を通した結果、新しく不幸な人が増えても、活動家は、まったく責任を取らないし、何もしないし、顧みることもないことは、始める前から明らかである(歴史はそれを証明している)。
いや精神病院に入院して総合IQ出してもらったんだけど、大学生の時やった時と比べて20も上がってたのよ。あ、その時も精神病院で測らされたんだけど。
発達とかの検査ではないやつね。ワイスだかワイズだかいうやつ?しらんけど。
当時102だったのが今122。別人じゃん。
これって誤差とかたまたま出たとかたまたま正解を引いた結果なんすかね、って聞いたら、いや、正確、というようなことを言われた。
俺のAIの使い方としては知らない分野、例えば経済学とか心理学、医学、アウトサイダー・アート、哲学、奴隷制・身分制のこと、国内外の売春の歴史やシステム、各国の障害福祉政策、宗教や歴史、憲法、外国の生活保護制度の比較、戦争や紛争、ジェノサイドの例とパターン、日本文化、奇形の種類とか、挙げればキリないけどヒマさえあればありとあらゆる知的好奇心を満たすためだけに幅広く聞きまくったり調べまくったりして、それぞれ延々壁打ちしまくってディープリサーチもさせまくって深化させたものをタイピングしまくって、noteにまとめるっていうそういう趣味で使ってたのね。
文章はAIに書かせてない。文章とか音楽とか画像とか今なんでもAIが高品質なものを作れるって知ってるし見抜けないようなものもあるって知ってるけど、俺は文章を書くのが好きだからそこは俺がやってるわけ。で、どれもこれもつまみ食いなわけだけど例えば経済学だとケインズのことだけめちゃくちゃ詳しく語れるけどハイエクっていう真反対のことを主張した人のこととかはからっきし知らないしもちろんマルクスもちょっとは常識程度で知ってるけど全然知らないわけ。憲法に関しても権利関係はほぼ網羅してそれらがどれだけ国家権力から国民を守っているかとかは詳しくなったけど憲法9条とかは別にあんま興味ねーしなって感じであんま深くも語れるだけのインプットはなかったりするのよ。
けど、書籍を読むよりも簡単に教養(といっていいのか)が深まりまくった1年だったなーとAIがガンガン進歩する昨年末感慨深く思ってたわけ。
で色々あって措置入院?強制入院?になってあーまたかってなって、2ヶ月閉鎖、スマホ取り上げ、あースマホでAI壁打ちできねー、ヒマー。アー。って感じだったんだけど。
そこでヒマしてたらついでにIQ検査もしときますかってなって。ヒマだったんでじゃあやりますかってなって。
そしたら題名の通り。あとでChatGPTにそんなことが起こり得るのか、と早速聞いてみたいところだが先に増田のお前らにも聞いてみたいなってここに今書いてるわけ。
いま、この転換点において、皆さまとご一緒できることを光栄に思います。同時に、私たち国内SIerにとっての責務でもあります。
本日は、世界の“秩序”の断絶、心地よい物語の終わり、そして、巨大な力を持つプレイヤーの競争がほとんど制約を受けない厳しい現実の始まりについてお話しします。
しかし同時に、国内SIerのような「中堅の担い手」は無力ではない、と申し上げたい。私たちには、信頼・安全・持続可能性・顧客の主権・データの保全といった価値を体現する新しい秩序を、実務から積み上げていく力があります。
私たちは毎日のように思い知らされています。いまは、巨大プラットフォームや巨大ベンダー、地政学リスクを背景にした技術覇権が競い合う時代であること。オープン性や互換性、フェアなルールに支えられた前提が薄れつつあること。そして、強い側が条件を決め、弱い側は受け入れざるを得ない局面が増えていること。
古典的に言えば「強い者はできることを行い、弱い者は耐えねばならない」という構図です。これは不可避だ、これが自然な競争原理だ、と片付けられがちです。そして、その論理を前にすると、私たちには「波風を立てずに合わせる」強い誘惑が生まれます。摩擦を避けるために順応する。相手に合わせれば安全が買えると期待する。
では、選択肢は何でしょうか。
1978年、チェコの反体制知識人ヴァーツラフ・ハヴェルは『無力者の力』という論考を書きました。そこで彼は、体制がなぜ維持されるのかを問いました。
彼の答えは、一人の店主の例から始まります。店主は毎朝、店先に標語を掲げる。「万国の労働者よ、団結せよ!」。本人は信じていない。周囲も信じていない。それでも掲げる。面倒を避けるため、従順さを示すため、波風を立てずに“やっているふり”をするために。そして、どの通りの店主も同じことをするから、体制は続いていく。
暴力だけではなく、人々が、内心では虚構だと知りながら儀式に参加することで、体制は維持される。ハヴェルはこれを「嘘の中で生きる」と呼びました。体制の力は真実ではなく、皆が真実であるかのように振る舞うことから生まれる。そして脆さも同じところにある。たった一人が“看板を外す”だけで、幻影にひびが入る。
いま、企業としても、業界としても、私たちは「看板を外す」時です。
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長い間、ITの世界には「ルールや標準が機能し、相互運用性が担保され、勝者も敗者も一定のフェアネスの中で競争できる」という物語がありました。国内SIerも、その物語の上で成長してきた面があります。標準化、ベストプラクティス、認証制度、ガイドライン、そしてグローバルに広がる巨大なプラットフォーム。私たちはそれらを称賛し、活用し、その予測可能性の恩恵を受けました。
もちろん、その物語が“部分的に虚構”であることも知っていました。強い側は都合が悪いときに例外を作れること。ルールの適用が非対称になり得ること。互換性や標準が、実態としては特定のエコシステムに誘導する装置として働くこと。そして、契約条項、価格体系、APIの変更、提供地域や機能制限などが、力関係の影響を強く受けること。
それでも、その虚構は便利でした。巨大プラットフォームが提供してきた“公共財”も確かにあった。スケールする計算資源、安定した開発基盤、セキュリティ機能、グローバル展開の足場、部品としてのOSSやツールチェーン、紛争を減らす共通言語。
だから私たちは、看板を掲げ続けました。「オープン」「中立」「相互運用」「ベストプラクティス」という言葉を、実態が追いつかない場面でも口にしてきた。そして、言葉と現実のずれを大きく指摘することを避けてきた。
率直に申し上げます。いま起きているのは“移行”ではなく“断絶”です。
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過去20年の間に、金融危機、パンデミック、エネルギー制約、半導体不足、サプライチェーン混乱、サイバー攻撃の常態化、そして地政学リスクが、極端なグローバル統合の脆さを露呈させました。
さらに近年、巨大な力を持つプレイヤーが「統合そのもの」を武器として使い始めています。値上げや課金体系変更が交渉力になる。契約や利用規約、認証・ID、クラウド管理基盤が実質的な拘束力になる。提供停止や機能制限、地域制約が、企業や組織に圧力として作用する。サプライチェーンが“突かれる弱点”になる。
「統合すれば相互利益」という前提のまま、“嘘の中で生きる”ことはできません。統合が従属の源泉になった瞬間、前提は反転します。
かつて中堅の担い手が拠り所にしてきた「みんなで決めるはずの場」も弱まっています。標準化が追いつかない。デファクトが事実上のルールになる。透明な合議より、エコシステムの都合が優先される。結果として、多くの企業が同じ結論に向かい始めています。
人材、セキュリティ、データ、クラウドの選択肢、重要部材、運用ノウハウ、AIの基盤、そしてサプライチェーンにおいて。
自分で守れない者は、交渉の選択肢がありません。ルールが守ってくれないなら、自分たちで守るしかない。
ただし、行き先を直視すべきです。全員が要塞化すれば、コストは上がり、分断は進み、脆さは増し、持続可能性は下がります。
そしてもう一つの現実があります。巨大プレイヤーが、ルールや価値の“建前”すら捨てて、露骨に取引主義へ傾けば、関係性を恒常的に収益化することは難しくなる。顧客もパートナーも、保険を買い、選択肢を増やし、分散します。これは「主権」を取り戻す動きです。かつてはルールに支えられていた主権が、これからは「圧力に耐えられる能力」によって支えられるようになる。
古典的なリスク管理はコストがかかります。しかし、そのコストは共有できます。レジリエンスへの共同投資は、各社がそれぞれ要塞を作るより安い。共通標準は分断を減らす。相補性は正の和を生む。
国内SIerにとっての問いは、「この現実に適応するか否か」ではありません。適応は不可避です。問いは、ただ壁を高くして閉じこもるのか。それとも、より野心的なことができるのか、です。
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私たち国内SIerは、比較的早い段階で警鐘を受け止め、姿勢を変え始めました。
「日本で長く通用した前提」、つまり、既存の取引慣行や、系列的な安定、特定ベンダーとの強固な関係が、そのまま将来の繁栄と安全を保証するという前提は、もはや十分ではありません。
私たちの新しいアプローチは、いわば「価値観に基づく現実主義」です。別の言い方をすれば、理念を持ちつつ、現実に即して動く。理念と実務の両立です。
顧客と社会に対する説明責任。セキュリティとプライバシー。データの保全と可搬性。人権と安全に関わる領域での慎重さ。重要インフラを支える品質と継続性。
同時に、私たちは現実主義でもあります。進歩は多くの場合、段階的です。利害は一致しないこともある。すべてのパートナーが同じ価値観を共有するわけではない。だからこそ、目を開いたまま、戦略的に、広く関与する。世界を「あるがまま」に扱い、「こうあってほしい世界」を待たない。
私たちは、関係の“深さ”を価値観に合わせて調整します。影響力を最大化するために、関与は広く、依存は偏らせない。流動化する秩序と、その先にある賭け金を踏まえて、現実的に動く。
そして今後は、価値の強さだけに頼らず、「強さの価値」も積み上げます。
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人材育成と採用、設計・開発・運用の標準化、サイバーセキュリティ、AI活用、検証環境、そしてミッションクリティカルを支える運用力。加えて、特定技術への過度な依存を減らし、移行可能性と可搬性を高める。
生成AI、データ基盤、ゼロトラスト、ソフトウェアサプライチェーン対策、Observability、そして重要領域の内製力強化。これらは“コスト”ではなく、交渉力と継続性を生む“資本”です。
守りは、事後対応ではなく、設計・調達・運用に埋め込みます。国内産業の裾野とも接続し、調達・開発・運用の循環を厚くする。
特定の巨大プラットフォームや単一のモデル提供者に賭け切らない。複数のクラウド、複数の実装選択肢、複数の調達経路、複数の人材パイプラインを持つ。
グローバル課題への対応も、論理は同じです。論点ごとに連携の形を変える「可変幾何学」でいきます。
データ主権では、顧客がデータの所在とアクセスを決められる設計原則を共同で整備する。
標準と相互運用では、地域・業界をまたぐ参照アーキテクチャとオープンAPIの合意を積み上げる。
AIでは、特定の覇権や特定の巨大クラウドに“二者択一”を迫られないよう、モデル、データ、評価、ガバナンスの選択肢を確保する。
これは、甘い理想論ではありません。機能不全になりつつある“建前の場”に頼り切ることでもありません。論点ごとに、動ける相手と動く。必要なら多数派を作る。そうして、将来の挑戦と機会に備える、密度の高い接続網を作るのです。技術、投資、人材、運用、文化のレイヤーで。
国内SIerのような中堅の担い手が連携しなければならない理由は単純です。設計図の会議に席がなければ、要件は上から降ってきます。席がなければ、食卓のメニューになる。
巨大プレイヤーは単独でも戦えます。市場規模、研究開発、資本、影響力がある。しかし国内SIerは違う。にもかかわらず、巨大プレイヤーと一対一で交渉し続ければ、交渉は弱い立場から始まります。提示された条件を受ける。自分たち同士で「より従順な方」を競い合ってしまう。
それは自律ではありません。従属を受け入れながら、自律しているふりをすることです。
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「真実の中で生きる」とは何か
ここで、ハヴェルに戻ります。
私たち国内SIerが「真実の中で生きる」とは、どういうことでしょうか。
「オープンでルールに基づく、互恵的な統合」という言葉を、現実がそうでないのに唱え続けない。いまを、巨大プラットフォーム競争が激化し、統合が交渉力と拘束力の源泉として使われる時代だと認める。
第二に、一貫して行動することです。
相手が誰であれ、同じ基準で評価する。都合の良い相手の一方的変更には沈黙し、別の相手には批判する、という態度は「看板を掲げ続ける」ことになります。
第三に、自分たちが信じるものを“機能する形”で作ることです。
標準準拠を唱えるだけでなく、移行可能性を担保する設計、相互運用の実装、透明な運用ルール、監査可能なガバナンスを、合意と実装として積む。復古を待たずに、動く枠組みを作る。
強い国内基盤を持つことは、企業にとっても最優先です。分散は経済合理性であるだけでなく、誠実な姿勢を貫くための物質的基盤です。報復や圧力に脆弱な状態のままでは、理念を語る資格すら維持できない。
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さらに、私たちは理解しています。いま起きていることを直視し、合わせて自分たちを変える決意が必要だということを。
この断絶が求めるのは、単なる適応ではありません。世界をあるがままに見て、誠実に語り、国内で強さを作り、連携して動くことです。
古い秩序は戻りません。嘆いても戦略にはならない。ノスタルジーは戦略ではありません。
しかし、断裂の先に、より良いものを作ることはできます。より強く、より公正で、より持続可能な形を。
それが、中堅の担い手である私たちの仕事です。要塞化した世界では失うものが大きい一方で、本当の協働が成立する世界では得られるものも大きい。
虚構に合わせるのをやめ、現実に名前をつけ、国内で強さを作り、連携して動く力です。
それが、国内SIerの道です。私たちはそれを、開かれた形で選びます。
デカップリングを叫ぶ連中の言説を眺めていると、いつも同じ光景に行き着く。
世界が複雑になり、自分の理解能力を超えた瞬間に、原因を外部に押し付け、遮断すれば問題が解決した気になるという、自己放尿の完成形だ。
フリードマンの観点から言えば、これは自由市場への不信ではなく、理解を放棄した主体が恐怖に耐えられずに行う自己放尿に過ぎない。
自由貿易は善悪のスローガンではない。比較優位に基づき、分業を通じて生産性を引き上げ、消費者の選択肢を最大化するという、きわめて機械的で冷酷な仕組みだ。
デカップリング論者は安全保障や国内産業保護を万能カードのように切り自己放尿するが、フリードマンなら即座に指摘するだろう。
貿易制限は見える利益を誇張し、見えないコストを隠蔽する典型例だと。
関税や輸入規制で守られるのは、競争に敗れた非効率な生産構造であり、そのツケは価格上昇という形で沈黙した消費者全員に押し付けられる。
国家が戦略的と称して市場を歪めるたびに、価格シグナルは壊れ、資源配分は劣化し、結果として国全体の実質所得が下がる。
これは思想ではなく算術だ。それでもなおデカップリングを正当化するのは、短期的に声の大きい生産者と政治家の利害が一致して自己放尿するからに過ぎない。
自由貿易の本質は、相互依存を通じて紛争コストを高める点にもある。
経済的に絡み合った主体同士は、感情的対立を起こしても、取引停止という自傷行為の代償を計算せざるを得ない。
デカップリングはその抑制装置を自ら破壊し、対立を純化させる。
にもかかわらず、それを強さだと誤認するのは、痛みを感じないうちに先に自己放尿して安心する幼稚な心理と同型だ。
フリードマンが自由貿易を支持したのは、人間が善良だからではない。利己的で近視眼的だからこそ、制度として自由市場に縛り付けた方がマシだと理解していたからだ。
デカップリングとは不確実性に耐えられない政治と世論が、市場という冷酷な審判装置から逃げ出すための言い訳であり、その実態は高コスト・低効率・低成長を自ら選び取るトリプル放尿である。
感情的な安心感と引き換えに、長期的な繁栄を便器に流すほど愚かでないなら、やるべきことは一つだ。
プロイセンの軍事思想家カール・フォン・クラウゼビッツは、こう記した。「戦争とは、他の手段をもってする政治の継続にすぎない」。クラウゼビッツの死後、1832年に出版された著作「戦争論」から、ほぼ全ての陸軍将校が学ぶ一節があるとすれば、それは、武力紛争の目的を定義したこの言葉である。
1月3日朝、米軍がベネズエラを攻撃し、独裁者ニコラス・マドゥロ氏を拘束して米国に連行し刑事訴追するというニュースを耳にした時、真っ先に頭に浮かんだのが、この言葉だった。
理由は単純だ。ベネズエラへの攻撃は、19世紀の世界秩序が崩壊する前、2度の壊滅的な世界大戦が起こる前、そして米国がまさに実行したような国家の行動を阻止するために設計された国際法と外交体制が生まれる前の、異なる時代を想起させるからだ。
あらゆる国家が決定すべき最も重要な課題の一つは、いつ、そしてどのように、戦争を遂行するかである。ちなみに、クラウゼビッツを道徳観念のない戦争推進者と見なすのは誤りだ。彼はこの概念を発明したわけではなく、当時の世界を描写したに過ぎない。彼の言葉は、人類史の大半において主権国家が戦争をどのように捉えてきたのかを端的に説明している。
強国が「戦争は政策の延長に過ぎない」という原則のもとで行動する時には、マフィアのボスのような振る舞いに陥りやすい。弱い国とのあらゆる相互作用には何らかの形で武力の脅威が伴うことになる。素敵な国ですね。もし何か起きたら残念ですね、という具合に。
これは空想ではない。トランプ米大統領はアトランティック誌との電話でのやりとりで、マドゥロ氏の副大統領を務めたベネズエラの新たな指導者デルシー・ロドリゲス氏を脅した。「彼女が正しいことをしなければ非常に大きな代償を払うことになるだろう。おそらくマドゥロよりも大きな代償だ」と述べた。
外交と経済的圧力は、依然としてほとんどの場合、強国がとる最初の手段である。しかし、意図した成果を上げられなかった場合に次に何が起こるかは、ベネズエラでの米国の攻撃の映像を見ればわかるだろう。
しかし、クラウゼビッツ的な見方は、国家とその指導者たちにとって唯一の選択肢というわけではない。国際関係にはより優れたモデルが存在する。それは悪の存在と国家の利益という現実を認めつつ、平和と人命を守るための境界線を引くものだ。
人類はクラウゼビッツとアクィナスの間を揺れ動いてきたのだと、筆者は分析します。歴史を振り返りつつ、今回の米トランプ政権のベネズエラ攻撃をどう読み解くのか。「戦争は政治の延長」の先にある世界とは……。
13世紀に書かれた「神学大全」でアクィナスは、後に「正戦論」として知られる三つの基本要件を提示した。
第一に、戦争は主権者の合法的な行使によって遂行されなければならず、野心的な個人の私的な冒険主義によってはならない。
第二に、戦争は正当な大義に基づかなければならない。例えば、国家の自衛や集団的自衛は明らかに正当である。
第三に、正当な目的、すなわち善を推進し、悪を回避しなければならない。
戦争の形態の変遷を考える一つの方法は、人類がクラウゼビッツとアクィナスの間で揺れ動いていると捉えることだ。強い国は弱い国に自らの望みを押し付け、やがては強国が互いに押し付け合おうとする。必然的に大惨事が起き、アクィナスに立ち返る。
この揺れ動きの結果は、実際に歴史の長い流れの中で確認できる。紛争による世界の死者数を分析すると、戦争は常に存在するものの、その激しさは強弱を繰り返していることがわかる。極度の苦痛と死の時代は、比較的平穏な時代を経て、再び恐怖の時代へと続く。
第1次世界大戦以降の歴史を考えてみよう。塹壕(ざんごう)戦での絶え間ない殺戮(さつりく)の後、世界は侵略戦争を禁止し、平和を維持するための国際機関である国際連盟を設立しようとした。
国際連盟は、米国が加盟を拒否したことも一因となって失敗に終わり、さらに恐ろしい世界大戦を経て、今度は米国主導のもとで世界は再び試みた。
アクィナスの思想は国連憲章の随所に反映されている。憲章第2条は侵略戦争を禁止し、51条は大国を抑制するための個別的・集団的自衛権を認めている。そして第5章は平和維持のために安全保障理事会という機関を設立した。
この体制が完璧だとは誰も言わないだろう。だが、第2次世界大戦後も侵略戦争が起きる中で、この体制は主要な目的を達成してきた。世界は大戦を免れてきたのだ。
ただ、アクィナスのモデルは、二つの敵と戦わなくてはならない。権力への願望と記憶の風化だ。正戦論は、強者の自制を求めている。大国に自らの願望を押し付けることを控えさせ、短期的な国益より、国際平和と正義という長期的な目標を優先させることさえ求める。
ここで記憶の風化が作用する。人々が世界大戦を記憶している間は、自制はより説得力を持つ。国連とNATO(北大西洋条約機構)をつくった人々は、2度の戦争を経験していた。その意味で、侵略戦争に対する道徳的議論は、現実的な意義を持つ。
世界は、力への願望が国際情勢を支配する結果を目の当たりにしてきた。指導者たちは、最も壊滅的な紛争がごくささいなきっかけから始まることを知っているし、知るべきである。
例えば、1914年にガブリロ・プリンツィプがサラエボでフランツ・フェルディナント大公を狙撃し、オーストリア・ハンガリー帝国が小国セルビアに軍を動員した時、1600万人以上が命を落とす戦争になることを、いったいどれほどの世界の指導者たちが察知していただろうか?
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サラエボで起きたオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公と妻の暗殺事件を報じる朝日新聞紙面(1914年7月30日付)
記憶が薄れるにつれ、クラウゼビッツのモデルはより魅力的に映る。その一因は、まさにベネズエラで起きたように、即効性のある結果をもたらし得るからだ。
とはいえ、トランプ氏のベネズエラ介入に激しく反対する人々でさえ、マドゥロ氏の支配を美化すべきではない。彼は腐敗した暴力的な独裁者であり、国民を抑圧し、貧困に陥れた。
経済指標がその実態を物語っている。マドゥロ政権が発足する前年の2012年、ベネズエラの国内総生産(GDP)は3720億ドルを超えていた。それが、2024年には1200億ドル弱にまで急落した。壊滅的な崩壊だ。
マドゥロ氏が権力を維持できたのは、民主主義を無視したからに他ならない。選挙監視員たちによると、2024年の選挙で、3期目をめざしたマドゥロ氏は30ポイント以上の差で負けていたとされる。対立候補のエドムンド・ゴンサレス氏は65%を超える票を獲得し、マドゥロ氏はわずか30%強だった。しかし公式集計ではマドゥロ氏の勝利が宣言された。
ただ、GDPの数値や得票数だけでは、マドゥロ政権が人々にもたらした苦難を語るには不十分だ。2014年以降、貧困や汚職、抑圧から逃れるために約800万人のベネズエラ人が国外へ脱出した。これはマドゥロ氏が大統領に就く以前の人口の4分の1以上に相当する。
トランプ政権は、マドゥロ氏を権力の座から追放することが米国の国益に最もかなうとの判断を下し、議会の承認を得ることなく、完全に独自行動をとった。
写真・図版
米フロリダ州で2026年1月3日、記者会見に臨む米国のトランプ大統領。後ろにいるのはルビオ国務長官=AP
第一に、トランプ氏は、米国法の要件を無視し、一方的に行動した。議会と協議せず、宣戦布告も取り付けなかった。彼は、ただ自らの権限だけで、主権国家を攻撃したのだ。
マルコ・ルビオ国務長官は、政権の行動は戦争行為ではなく、「法執行活動」であり、国防総省は容疑者を逮捕する公務員たちを守っていたにすぎないと主張している。
この弁明は笑えるほどにお粗末だ。この理屈では、大統領は敵対する指導者を起訴し、指導者の逮捕に必要な大規模な軍事力は単に法執行を保護しているだけだと主張することで、事実上あらゆる戦争を法執行活動に変えることができる。これは議論ではない。言い訳だ。
第二に、トランプ氏は開戦事由も、国際法や国連憲章が認める正当な理由もなしに攻撃を仕掛けた。ハーバード大教授で、ブッシュ政権(子)下で司法省法律顧問局次官を務めたジャック・ゴールドスミス氏が指摘したように、(国連)憲章の命令を執行する明確な方法がないとしても、この攻撃は明らかに憲章に違反している。
第三に、独裁者を権力の座から追放することは正当な目的になりうるかもしれないが、民主的に選出された野党指導者を無視するというトランプ氏の決定は、非常に問題である(編集部注:トランプ氏は15日にベネズエラの野党指導者マリア・コリナ・マチャド氏と会談した。)。腐敗した政権の残党が、米国企業の石油取引交渉の要求に従い、依然として国を統治していることは、自由と民主主義を犠牲にして腐敗と抑圧を永続させる危険性がある。
これらは何も新しいことではない。歴史家のニーアル・ファーガソン氏は、トランプ氏のベネズエラへの攻撃は、第1次世界大戦の惨事以前の時代の政治と外交の復活という、より大きな全体像の一部であると述べている。
19世紀後半の南北戦争後に米経済が急発展した金ぴか時代の砲艦外交は、米国が中南米を支配していたことを確かに意味していた。それは、この地域に植民地に似た現実を押し付けた。各国は少なくともある程度の米国の監視の下で発展し、主権は米国が認める範囲にとどまった。
トランプ氏のベネズエラ攻撃もまた、何もないところから出てきたわけではない。昨年12月、政権は国家安全保障戦略の文書を発表し、西半球を最優先に位置づけた。
この文書はアジア、欧州、中東に先立って米州を扱い、「西半球における米国の優位を回復するため、モンロー主義を再確認し実施する」と宣言した。
大統領はすでに、19世紀の米国外交政策を復活させる自らの政策に「ドンロー主義」という名を付けている。
トランプ氏はドンロー主義を熱心に推し進めている。カナダとメキシコに対して経済戦争を仕掛け、カナダは米国の51番目の州になるべきだと発言した。NATOの同盟国であるデンマークの主権領土の一部であるグリーンランドにも野心を抱いている。
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デンマークのコペンハーゲンの米国大使館前で2026年1月14日、グリーンランドはグリーンランド人のものだと抗議する人々=ロイター
ここで再び、影響圏による世界支配と、「政策の延長としての戦争」という非道徳的アプローチの致命的な欠陥に直面する。小国は強国に支配されることを望まず、強国はライバルの台頭を望まない。故に同盟を結ぶ。1914年、セルビアにはロシアが、ベルギーには英国がいた。1939年にはポーランドにフランスと英国が味方した。
なぜ南米諸国が他国との緊密な関係を求めるのか、米国人が疑問に思うのならば、むしろ彼らと米国との歴史的経緯や、南米の人々がモンロー主義の攻撃的復活をどう捉えているかを問うべきだろう。
一つは、トランプ氏がベネズエラ介入で先例をつくったというものだ。ロシア、中国、イランといった国々は、自らの勢力圏でその先例に従おうと躍起になるだろうし、我々が取ったのと同じ手法を敵対国が自らの勢力圏で取っても、我々に異議を唱える資格はなくなる、というものだ。
しかし、ウラジーミル・プーチン氏のロシア、習近平氏の中国、革命体制のイランは、正戦論や道徳的議論などみじんも気にかけたことがない。彼らがある程度抑制されているのは、抑止力によるものであり、もし抑止力が失敗すれば、純粋な軍事力による。
もう一つの議論は、正戦論が決して全会一致で受け入れられることはないことを認めるものだ。国連憲章が往々にして実践的というより理想論的なものにならざるを得ない運命にあることを認識するものだ。
この議論は、世界秩序の存続が強国に依存するわけではないが、米国という最大の強国には依存していることを認識している。言い換えれば、我々の国がアクィナスに傾倒していることが、クラウゼビッツを遠ざけているのだ。
安全保障理事会の常任理事国5カ国のうち、米国・英国・フランスの3カ国だけが国連憲章と国際法に従う状況で、我々はかろうじて世界秩序を維持している。しかし、もし米国がロシアや中国と同様の武力紛争や国際関係へのアプローチを採用すれば、西側の戦後コンセンサスは完全に崩壊する。
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ベネズエラの首都カラカスで2026年1月6日、3日前に米軍に拘束されたマドゥロ大統領の解放を求めるデモのそばに「トランプ:殺人者 誘拐犯」などと書かれた落書きがあった=AP
「アメリカ第一主義」は必ずしも孤立主義ではない。主権国家の指導者を逮捕し、その国を「運営する」と宣言することに孤立主義的な要素はない。だが、それは短絡的で、正義と平和を犠牲に、国家権力の高揚感を追い求めている。
トランプ氏がいま、まさにその高揚感に浸っているのは明らかだ。1月4日の夜、米NBCは、トランプ氏が依然として「我々はベネズエラを運営していく」と発言していると報じた。トランプ氏は「彼らが従わなければ、第2の打撃を加える」と付け加えた。
トランプ氏が考えていたのはベネズエラだけではない。「コロンビアも非常に病んでいる」、キューバは「崩壊しつつある」と彼は述べた。さらにイランが抗議デモPermalink |記事への反応(1) | 23:06
イラン情勢は今、大きな転換点に差しかかっている。長年、イスラム法学者による統治体制を維持してきたイランだが、経済危機、若年層の不満、女性の権利をめぐる国際的批判、そして外交的孤立の中で、国内外において政権変革の可能性が現実味を帯びてきている。
特に注目されるのは、ハメネイ師に象徴される神権統治への不満が高まる中で、パフラヴィー朝の復権を望む声が多くの市民の間で顕著になっているという点である。かつての王政期に対する再評価の動きが、都市部を中心に広がりつつある。
現在のイランの若年層は、1979年の革命を直接経験しておらず、彼らの政治的関心は宗教的正統性よりも経済、生活の自由、そして国際社会との接続に向いている。特に近年は、王政時代の近代化政策や西側との連携に対し「過去の遺産」としての見直しが進んでいる。
元皇太子レザー・パフラヴィー氏の発信もその流れを後押ししており、王政の復権は一部の懐古的願望ではなく、現実的な選択肢として支持を広げている。
特に注目されたのは、2025年6月22日に米軍がイラン中部のナタンズ、イスファハン、そして地下型のフォルドゥ核施設への軍事攻撃を実施した事件である。いずれもウラン濃縮に関連する重要拠点であり、これらへの攻撃は、イランの核開発計画に対する国際社会の不信と、外交的対話の断絶がもたらした深刻な帰結だ。
この事案を受けて、イラン国内でも「なぜここまでエスカレートしたのか」という疑問と批判の声が高まりを見せている。特に重要なのは、核開発そのものが市民レベルで十分な説明や支持を得ていないことである。国民の多くは、日々の生活の安定や国際的孤立からの脱却を求めており、軍事的誇示よりも経済的再生を優先すべきだという意見が主流になりつつある。
仮にパフラヴィー家を中心とする穏健的な体制が再建され、西側諸国との協調路線を採用するようになれば、これは中東地域全体におけるバランスの再構築に資する可能性がある。
イランは地政学的にイラク、シリア、アフガニスタン、カスピ海、ペルシャ湾と接しており、これまで多くの紛争や代理戦争の舞台となってきた。もし今後、現体制に代わって外交的対話と協調を重視する政権が登場すれば、地域的緊張の緩和に繋がるという見方は、欧米諸国の政策専門家の間でも広がっている。
特にアメリカにとっては、長年対立してきた強硬政権が転換され、国際秩序と経済ネットワークに再統合されるパートナーが出現することは、戦略的にも経済的にも大きなメリットとなる。
イランは人口規模、資源、地理的条件において高い潜在力を秘めているが、それを十分に活かせていないのが現状だ。もし穏健かつ開かれた体制が誕生し、対外的な信頼を回復すれば、日本、EU、米国など多国籍企業の進出が進み、国内雇用・インフラ・教育など多方面において恩恵が期待される。
専門家の中には、イランが「かつての満洲国や西ドイツのように、国際支援と自主再建が両立するモデル」になる可能性もあると見る声もある。
レザー・パフラヴィー氏が提唱するのは、専制的な王政ではなく、立憲君主制あるいは象徴的君主制という形である。欧州諸国におけるモデルのように、政治は民意に基づく選挙で行われつつ、王室が文化的・歴史的な象徴として国民の統合を促すという提案は、イランの分断された社会において新たな一体感をもたらす可能性を秘めている。
パフラヴィー王政の復活は、単なる過去への回帰ではなく、現実的な改革と安定を求める民意の現れとして捉えられつつある。現体制の硬直性と対外的孤立に対し、開かれた統治と国際協調を目指す新しいビジョンが求められている。
6月22日の核施設への攻撃は、対立構造が限界を迎えつつあることを示した。その先にある可能性として、より穏健で国際社会と歩調を合わせた新体制への移行は、今後のイランと中東全体の安定に大きく貢献しうる道筋として、静かに注目を集めている。
イランにおける政体転換の議論において、外交・安保関係者の間で密かに参照されているのが、20世紀前半に東アジアで形成された「満洲国モデル」である。これは、当時の混乱した地域において、伝統的権威(清朝の愛新覚羅溥儀)と近代国家システム、さらに外部支援国との戦略的連携を融合させた構造として一部で再評価されている。
このモデルの鍵は、「国家としての体裁と正統性を維持しながら、安定と発展のために国際的枠組みに参加する」という柔軟なガバナンス設計にある。イランにおいても、パフラヴィー朝という王政の歴史的正統性を形式的に保持しつつ、現実的な政策運営は西側諸国、とりわけ米国や同盟国との連携によって支える体制は、構造的に高い安定性を持ちうる。
このような形式の政権は、国内外に対して「過激でもなく、弱体でもない穏健な秩序」を印象づけることが可能であり、実際にイスラエル、サウジアラビア、UAEなどとの関係再構築が期待される。また、シリアやイラクの分断的状況に対しても、イランという地域大国が非宗教的・非イデオロギー的路線を採ることは、域内バランスの再設計にとって極めて有益である。
さらに、中央アジアや南コーカサスの不安定要素を抑止する役割も担える。つまり、満洲国モデルに基づくパフラヴィー朝政権は、実質的に「中東の安定化装置」として機能し得るのである。
この種の構造がアメリカ合衆国にとって有利であることは、軍事・経済・地政学のいずれの観点からも明らかだ。
軍事的には、イラン領内において極端な反米・反イスラエル拠点が排除され、戦略上の不確実性が大幅に低下する。湾岸地域に展開する米軍の兵站・展開計画にも柔軟性が生まれる。
経済的には、イランの石油・天然ガス資源が制裁を経ずに国際市場に流通するようになれば、エネルギー価格の安定化に寄与するだけでなく、国際資本による開発プロジェクト(特にアメリカ系企業)への直接参入が可能となる。
政治的には、中東の民主主義と安定の「模範国家」として、新しい価値観の枠組みを示す象徴的存在となり、他の不安定国に対するソフトパワーの投射にもなる。
加えて、王政という形式は、欧米の共和制価値とは一見異質ながら、政治的流動性を低下させる「安全弁」として作用しやすい。これは満洲国でも観察された事実であり、権威の安定と実務的運営の分離という政治的バランスの設計思想として、再評価に値する。
世界のたがが外れつつある。
2度の世界大戦を経て国際社会が築いてきた規範や秩序を、大国が公然と蹂躙(じゅうりん)し、自国中心主義を振り回している。
「法の支配」は「力の支配」の前に無力なのか。人類が互いの利害を公正に調停し、戦争を一掃する未来は、見果てぬ夢なのか。
法哲学者の井上達夫・東大名誉教授は、法とは正義を追い求めそれを体現すべきもの、と説く。それなら、世界が見据えるべき「正義」とは何か。私たちの飽くなき挑戦は、どこを目指すべきなのか。
――人類が戦乱の歴史を経て曲がりなりにも築いてきた国際秩序が、崩れかけています。
「国際社会の法と秩序、その基礎にある人権尊重や戦力乱用の禁止という『正義』の原則が、危機に瀕(ひん)しています。これらを公然と蹂躙(じゅうりん)する国家による暴力が荒れ狂っているからです」
「もちろん無法な戦乱は今に始まったことではなく、集団間の殺し合いがなかった時代はない。特に20世紀は、史上最も陰惨に血塗られた世紀でした。だからこそ人類は自らの蛮行を制止すべく、戦争を統御する様々な試みを続けてきました。第1次大戦後に国際連盟を結成し、1928年のパリ不戦条約で、国益追求と紛争解決の手段としての戦争を違法化します。第2次大戦後には、戦争を抑止できなかった反省から国際連合をつくり、国際法の諸原則を再確立させました」
「自衛権行使であっても正当な理由や意図などを求める『戦争への正義(jusad bellum)』つまり『開戦法規』と、無差別攻撃の禁止や捕虜の処遇など『戦争における正義(jus in bello)』つまり『交戦法規』を強化します。また、武力行使に代わる平和的手段による紛争解決を促進する努力もなされてきました。冷戦終結後の一時期、世界はありありと『国連による平和』の夢を見ました」
「しかし、この夢は破れました。武力行使を規制する国際法秩序に責任を負うべき国連安全保障理事会常任理事国のロシアが公然とウクライナを侵略し、民間施設への攻撃を続けています。これは明白に開戦法規及び交戦法規違反です。ロシアは開戦時、ドンバス地方の親ロ派政府との安全保障条約に基づく集団的自衛権だと説明しましたが、この傀儡(かいらい)政府に対するロシアの承認は旧満州国への日本の承認と同様、国際法上無効です」
「パレスチナ自治区ガザでは、前世紀の『人道に対する罪』の最大の被害者であるユダヤ人国家イスラエルが、パレスチナの民に対してこの罪を犯しています。イスラム組織ハマスの侵攻に対する自衛措置として攻撃を開始した時点では、イスラエルは開戦法規に反してはいませんでした。しかし、民間人への無差別攻撃や難民キャンプへの空爆は自衛の範囲をはるかに超え、ハマスが住民を『人間の盾』に使ったのと同様、交戦法規を蹂躙しています。また、ヨルダン川西岸への入植拡大を同時に進めたことは、不純な政治意図を含んでいるという点で開戦法規にも違反しています。停戦合意から2カ月以上が経つのに、ガザへの散発的な攻撃をやめていません」
――「法の支配」をあざ笑うかのような「力の支配」の論理が跋扈(ばっこ)しています。
「『法の支配』の危機は、単に強国が国際法秩序を侵しているというだけではありません。より深刻なのは、法と正義の原則の規範的権威そのものを掘り崩す、シニシズム(冷笑主義)が広がっていることです」
「それが端的に表れているのが、欧米や日本でも唱えられている対ロ宥和(ゆうわ)論です。戦争長期化の責任を、ウクライナの抗戦と西側諸国の支援に転嫁する言説です。知識人にも多い対ロ宥和主義者は、ウクライナ支援を停止してロシアに領土的譲歩をすべきだとして、侵略したロシアではなくウクライナに停戦の圧力をかけることを実質的に説いています。中には、北大西洋条約機構(NATO)の東進がロシアを刺激し戦争を誘発したという誤った歴史観に基づくものも多い。実際には冷戦後、NATOは集団的自衛権体制から地域的な集団安全保障体制に変容しており、旧東側が『西進』して新加盟国になったというのが事実です。ロシアも一時、準加盟国になりました。その友好関係を、南オセチア紛争とクリミア侵攻で悪化させたのは、他ならぬロシアです」
――トランプ米大統領も、ロシアに一方的に有利な和平案をウクライナに押し付けようとしています。
「これでは持続可能な平和を実現できないことは明白です。ウクライナの中立化(NATO非加盟)だけでなく非軍事化に固執するプーチン大統領の狙いが傀儡国家化にある以上、仮に一時的停戦をのんでも、再侵攻に走ることは必至です」
「こうした対ロ宥和論は、武力で現状を自国に有利に変更できる、侵略はペイする、というメッセージを世界に発しています。侵略を抑止するどころか、武力による現状変更を望む他の潜在的侵略者、例えば台湾や南沙諸島に野心を持つ中国、イエメンに触手を伸ばすイラン、韓国を標的にする北朝鮮などに、実行のインセンティブを与えてしまう。ドイツへの宥和政策が第2次大戦を招いた、1938年のミュンヘン会談の教訓を忘れたのでしょうか?」
「強者の支配を排し、武力による現状変更を禁じるという国際法の原則を尊重するならば、国際社会が協力して、ロシアに軍事的・経済的圧力を断固として加えることが必要です。それができずに弱小国にだけ譲歩が押しつけられるなら、国際法は強者の支配のイデオロギー的隠れみのとみなされ、規範的権威を喪失します」
――米国が主導したガザの和平計画も、ハマスが武装解除に抵抗する構えで、暗雲が垂れこめています。
「長年の紛争解決と平和構築のためには、90年代のオスロ合意が道筋を引こうとした『二国家解決』しかありません。すなわち、ガザとヨルダン川西岸の分断統治を解消してパレスチナを統一的に統治する国家を樹立し、イスラエルと相互承認し共存する体制です。しかし、イスラエルのネタニヤフ首相は『パレスチナ国家のいかなる試みにも反対する』と二国家解決を強硬に拒否し、トランプ大統領もイスラエルのパレスチナ支配強化を支持するかのような発言を繰り返しています」
「停戦後の暫定的な統治機関『平和評議会』のメンバーは未定ですが、米国やイスラエルがガザ復興を主導するなら、ハマスを殲滅(せんめつ)できたとしても、第2、第3のハマスがゲリラ的抵抗を続けるでしょう。パレスチナ国家樹立をゴールに掲げたうえで、暫定的にはアラブ諸国を中心にガザの治安維持と住民保護を委ね、現在の腐敗したパレスチナ自治政府を統治能力ある組織に改編する。国際社会はそのためのロードマップを支援する――。それしかガザ戦争の出口はありません」
「『法の支配』は規範的な理念ですが、自動的に実現する力を持っているわけではない。理念を実現するのは、それを順守しようとする様々な行動主体が、協力して行う実践です。強者の力を抑える、いっそう大きな『力』を協働して組織し、行使しなければならないのです」
――プーチン大統領は2014年にクリミアを「併合」した際、西側諸国の過去の侵略や軍事介入と同じことをやっているだけだ、という趣旨の発言をしています。
「他者の悪が、自己の同様の悪を免責する――。これは開き直りの詭弁(きべん)ですが、問題は、西側の多くの『批判的知識人』までもが、この思想のわなにはまっていることです」
「例えば、03年のイラク侵攻など米国の軍事介入を強く批判してきた米国の思想家ノーム・チョムスキーも、このプーチン大統領の欧米批判を擁護してしまっています。自国の戦争犯罪を追及すること自体は、間違ってはいない。しかし、それゆえに他者の罪を許容するのは、論理的にも倫理的にも倒錯しています」
https://digital.asahi.com/articles/ASTDM4V8YTDMUPQJ00FM.html
結論から言うと、「この80年間、戦争が起きていない国は世界に9カ国しかない」という主張を裏付ける信頼できる一次情報は、検索結果からは確認できませんでした。
ただし、この話題にはいくつか背景があります。あなたのように比較制度や歴史のロジックに関心のある方には、むしろ「なぜこの数字が広まったのか」を読み解く方が面白いと思うので、少し丁寧に整理します。
実はこの数字は、学術研究や国連の公式統計ではなく、「独立後に一度も戦争を経験していない国」を数えた際に、ブログやSNSでしばしば引用される“俗説”の一つです。
しかし、どの国を「戦争」とみなすか、内戦・紛争・国境衝突・PKO参加をどう扱うかで大きく変わります。
例えば:
•日本は「戦後80年戦争していない」と言われることが多いが、朝鮮戦争時に後方支援を行い、米軍基地が作戦に使われた事実がある。
このため、どの研究者も「世界で戦争をしていない国は○カ国」と断定するのは非常に難しい。
学術的な議論では、以下のような国が候補に挙がることがあります:
•ブータン
•アンドラ
•バチカン
•モナコ
ただし、これらも「80年間完全に戦争と無縁だった」と断言できるかは、定義次第で変わります。
「9カ国」という数字は、学術的に確立した事実ではなく、根拠が曖昧な俗説に近いと言えます。
ただし、
「80年間、国家間戦争に直接関与していない国は非常に少ない」
誰も覚えていないと思いますが、2020年ごろに「カンボジアでコロナがどうなっているか」を投稿したら、意外と多くの人に読んでもらえてうれしかった増田です。
私はしばらく日本に帰っていないので、日本でどのように報道されているのかは正直よく分かりません。
もともと国境がかなり曖昧な場所(誰の責任なんだろう)なので、話し合いで簡単に解決するはずもなく、
向こうが先に手を出した
こっちは悪くない
といった主張が飛び交っています。
おそらく、タイ側でもまったく同じことが起きているはずです。
詳しい情報については、外務省のページなども参考にしてください。
シェムリアップ(アンコールワット周辺):観光エリアは問題なし
ニュースでは「シェムリアップが爆撃された」と大きく報じられ、かなり危機感を煽っていますが、
シェムリアップは広いです。観光で行く場所からはかなり離れたエリアの話です。
正直、私自身もこちらの報道や空気に影響されていると思います。
ただ、これだけは言いたいことが2つあります。
SNSは本当に悪い。
一度
という投稿を読むと、似たような投稿ばかりが次々と表示されます。
それを読み続ければ、見方が偏るのは当然です。
実際、地元の人たちの多くは
「完全にタイが悪い」
という考えになっています。
おそらく、タイ側でも
「完全にカンボジアが悪い」
という空気になっているのでしょう。
今回の件で、それを痛感しました。
これをきっかけに、このまま事態が終息してくれることを切に願っています。
一時期、
という話がありましたが、あれは詐欺拠点ではないか とも言われています。