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2025-10-24

次の日、投稿が提示の通り追記されていたとします。この場合、分析はどのように変化しますか?

C*****T:

CRITICAL ANALYTICALREVISION

追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初分析根本誤読

追記2は、私の最初分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。

私が読んだもの:

文化的言説(アイデンティティ政治

個人内面化

創作的麻痺

実際の構造:

実存危機孤立・失敗・老い性的欠如)

理論的言説の防衛的借用

自己正当化された創作不能

因果の矢印が逆だった。 これは方法論的に重大な誤りである

PRIMARY INSIGHT:精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈

最初投稿投稿者が使用していた理論的語彙:

これらは一見2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しか追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。

真の構造:実存自己否定の連鎖

追記2が暴露する深層:

レイヤー1:実存事実

"初老になったのに童貞"

"人間嫌い、女性に縁がない"

"過去に痛い目にあった記憶ばかり"

"人生絶望してた"

レイヤー2:創作動機

"女性を描きたい"(しか経験がない)

"究極の画像処理ソフト"という夢(実現できない)

"ヘンリー・ダーガーみたいなもん"(社会的孤立の中の空想

レイヤー3:防衛理論化】

"女性を知らないと女性ちゃんと描けない"

"経験がなければ理解できない"

← これは理論ではなく、個人的失敗の普遍

レイヤー4:創作不能正当化

"だから俺には描けない"

しかしこれは「無能から」ではなく「原理的に不可能から

防衛機制の精密分析

防衛機制1:合理化(Rationalization)

耐え難い真実:

「俺は人生の敗北者だ。女性関係を持てなかった。孤独で無価値だ」

↓ 変換 ↓

受容可能な言説:

経験していない対象原理的に表象できない。これは認識論的・倫理的問題だ」

この変換により、個人的失敗が哲学的問題昇華される。これは自尊心を守る。

防衛機制2: 知性化(Intellectualization)

投稿者は感情絶望孤独性的欲求不満)を抽象議論表象倫理当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。

しか追記2で防衛崩壊し、生の感情露出する:

防衛機制3:投射(Projection)

投稿者は自分の不全感を、架空の「批判者」に投射する:

これは私の最初分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源文化ではなく、内面化された自己批判である

ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択

投稿者がダーガーを引き合いに出すのは決定的である

ダーガーの特徴:

投稿者の解釈:

ダーガー女性を知らなかったから、正しく描けなかった」

しかしこれは逆説的である:

投稿者の論理:

女性を知らなければ描けない」

ダーガーは知らなかった

から「間違って」描いた

俺も知らない

から俺も描けない/描いてはいけない

しかし抑圧された真実:

ダーガー女性を知らなかった

にもかかわらず膨大な作品創造した

その作品は今やアウトサイダーアートとして評価されている

まり「知らなくても創造できる」証拠

投稿者は、自分論理反証する例を引き合いに出しながら、その反証認識できない。なぜなら、創造可能性を認めることは、創作しない自分正当化できなくなるから

ダーガー選択は、投稿者の内的葛藤を露呈する:

児童ポルノ言及精神分析

投稿者は和月伸宏や他の漫画家児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望告白する。

表面的正当化:「絵描きなら資料が欲しいのは当然」

しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」

この言及が明らかにするもの:

1.性的欲望創作未分化

- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性性的欲望する」ことが分離していない

- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作障害になる

2. 罪悪感と自己審判

- 「資料のため」という言い訳を繰り返す = 罪悪感の表出

-自分犯罪者予備軍として見る視線内面化

3.禁止欲望パラドックス

- 「見てはいけない」ものへの欲望

-しかし見れば犯罪者

- だから見ない=創作しない、という「倫理的選択

これは自己処罰的なループである

生成AIとの関係人間関係代替審判

追記2の冒頭:

「さっきまでClaudeに、自分ライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」

この一文は多層的である

レイヤー1:AI対話相手

レイヤー2:AI審判

レイヤー3:AI不可能な夢の実現者

レイヤー4:人間関係不可能性の確認

投稿行為意味ダイイングメッセージとしての告白

投稿者は明言する:

  • 基本的に返信を見ない(「ロバ耳」)
  • ダイイングメッセージのように、死んだ後に読まれることを想定
  • 「読んだ人の脳に残って未来の行動を変化させる」ことを望む

これが意味するもの:

対話拒否

承認希求

一方的告白遺言

彼は応答を求めていない(対話不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。

これは非対称的コミュニケーション

  • 声は発するが、返答は聞かない
  • 見られるが、見返さな
  • 影響は与えるが、影響は受けない

これは自己他者関係不可能性の表現である

SECONDARY INSIGHT:弁証法的読解
矛盾の三層構造

矛盾1:創造欲望 vs創造不可能

THESIS: 「女性を描きたい」

「究極の画像処理ソフトを作りたい」

ANTITHESIS: 「経験がないから描けない」

技術がないから作れない」

人生絶望している」

SYNTHESIS:創作不能正当化

AIへの依存

矛盾2:孤立選択 vs承認希求

THESIS:人間嫌い、返信を見ない、対話拒否

ANTITHESIS:投稿する、読まれたい、影響を与えたい

SYNTHESIS:一方的告白ダイイングメッセージ

矛盾3:理論的厳密さ vs実存絶望

THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張

ANTITHESIS:ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した

SYNTHESIS:ダーガー作品を「間違い」と解釈することで

反証回避

弁証法運動の停止

健全弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。

創作欲望

実行不能

理論正当化

さらなる不能

[ループ]

これは病理弁証法:変化を生まず、同じ場所を回り続ける。

SYNTHESIS: 深層パターン統合理解
構造全体像

【最深層:実存事実

社会的孤立 +性的経験の欠如 +老い + 死の接近

【第2層:心理的防衛

合理化・知性化・投射による自己保護

【第3層:理論的借用】

文化的言説(当事者性、表象倫理)を防衛の道具として使用

【表層:顕在的問い】

男性女性主人公を描けるのか?」

機能

創作からの逃避 + 失敗の正当化 + 残存する自尊心保護

本質的洞察結晶

投稿者の真の問いは「女性をどう描くか」ではない。

真の問いは:

人生の敗北者である私に、何かを創造する価値があるのか?」

そして彼自身が答えている:

「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」

女性を知らないと女性を描けない」という主張は:

文化的言説の防衛使用

私の最初分析は「アイデンティティ政治内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。

誤った図式:

文化的言説 →個人麻痺

正しい図式:

個人的失敗 →文化的言説の借用 → 失敗の正当化

彼は「当事者性」や「経験所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来政治文脈から切り離され、個人防衛機制として機能している。

これは理論心理的横領である

解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人自己正当化の道具になっている。

より深い文化的診断

しかし、もう一層深く見れば、これは純粋個人的な現象ではない。

なぜこの特定の言説が、この特定防衛に利用可能だったのか?

答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。

投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分創作不能倫理的配慮として再解釈している。

「俺が描かないのは:

無能から(恥)×

倫理的配慮しているから(誇)○」

これは文化心理共犯関係である

ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)

ダーガー投稿者の論理の生きた反証である

ダーガーは:

投稿者の論理では、ダーガー創造すべきではなかった。しか創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。

投稿者はこの事実をどう処理するか?

答え:ダーガー作品を「間違い」として解釈する(「少女ペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)

しかしこれは恣意的解釈であるダーガー少女性別曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界独自性として読むこともできる。

投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分創作不能正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分創作できる/すべきだ、ということになってしまう。

これは解釈政治である

最も深い問い

この事例が究極的に提起する問いは:

創造するために経験必要か?

投稿者は「はい」と答える。私の最初分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。

しか追記2を読んだ後、問いはより複雑になる:

彼が求めているのは本当に「創造する方法」なのか?

それとも:

おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。

彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛解体するだけで、その下の絶望露出させるかもしれない。

CRYSTALLIZED INSIGHT

この投稿者は、人生実存的失敗(社会的孤立性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代文化的言説(「当事者性」「経験所有権」「表象倫理」)を借用することで、「原理的に不可能創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人無能認識論的・倫理的問題昇華することで、残存する自尊心を守っている。

言い換えれば:

彼の問い「男性女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的正当化する道具として機能している。

So what?:

この事例は、文化的言説がどのように個人防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化麻痺の道具になる。これは文化心理共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。

PUNCHLINE:

私の最初分析は、彼を「文化犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン

Permalink |記事への反応(0) | 09:27

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2025-10-20

フェミニズムの分類を教えてあげよう

anond:20251018215455

増田はてなが雑なのはいつものことなんだが、そろそろフェミニズムにも分類があるってことを皆さん認識してはどうか。

ざっくり整理してやるから各自勉強とき

 

リベラルフェミニズム自由主義フェミニズム

法の下の平等参政権教育労働平等機会を重視。例:メアリウルストンクラフトジョン・スチュアート・ミル

サフラジェット運動女性参政権運動

社会主義フェミニズムマルクス主義フェミニズム前身

資本主義と家父長制の二重の抑圧を批判

ラディカル・フェミニズム(根源的フェミニズム

→ 家父長制の構造のもの批判し、性の政治を重視。例:ケイト・ミレット、シュラミス・ファイアストーン

マルクス主義フェミニズム

女性の抑圧を労働分業と再生労働観点から分析

エコフェミニズム

女性自然の抑圧を並行的に捉え、環境問題ジェンダー問題を結びつける。

文化フェミニズム

女性特質価値共感ケアなど)を肯定文化的再評価を目指す。

ブラックフェミニズム黒人フェミニズム

→ 「白人女性中心主義」への批判。例:ベル・フックス、アンジェラ・デイヴィス。

レズビアンフェミニズム

異性愛中心主義男性依存からの脱却を主張。

精神分析フェミニズム

フロイトラカン理論ジェンダー批判的に再解釈ジュリア・クリステヴァルース・イリガライなど)。

差異フェミニズムdifference feminism)

→ 「平等」よりも「差異」の承認を重視(イリガライなど)。

ポスト構造主義フェミニズムポストモダンフェミニズム

→ 性や主体流動性を重視(ジュディス・バトラー、ダナ・ハラウェイなど)。

クィアフェミニズム

性的指向ジェンダー身体多様性を含める。フェミニズムとLGBTQ+理論の交差。

インターセクショナル・フェミニズム(交差性フェミニズム

人種階級性的指向障害など複合的差別分析キンバリー・クレンショウ)。

ポストコロニアルフェミニズム

西洋中心的フェミニズム批判し、植民地主義文脈分析(チャンドラ・モハンティなど)。

トランスフェミニズム

トランスジェンダー女性視点を含むフェミニズム

サイボーグフェミニズム

科学技術身体・性の境界を問い直す(ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』)。

デジタルフェミニズム

SNSオンライン空間における性差別問題運動(#MeToo、#TimesUpなど)。

ボディ・ポジティブフェミニズム

身体規範(痩身・若さ・美の基準から解放

メディアフェミニズム

映画アニメゲームなどの表象分析

メンズフェミニズム男性フェミニズム

男性立場からジェンダー平等を推進。

ポストフェミニズム

フェミニズムの成果を前提にした「個人選択」重視の潮流(批判も多い)。

日本フェミニズム

平塚らいてう田嶋陽子上野千鶴子古川直子など。

日本型の「母性保護論」「差異政治」「ケア倫理」なども特色。

アジアフェミニズム韓国台湾中国など)

イスラームフェミニズム

ラテンアメリカフェミニズム

先住民フェミニズム

障害フェミニズム(ディスアビリティフェミニズム

老年フェミニズムエイジングフェミニズム

Permalink |記事への反応(19) | 21:01

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2025-10-15

anond:20251015172507

あーあ、ついに「勝ちでいいよ」って言っちゃったw

議論から逃げ出す奴が最後に使う一番惨めな言い訳じゃん、それwww

いやお前が勝手に勝ち負けのあるやり取りしってことにしてるだけやん。

勝ちたいならお前の勝ちってことでいいよ?

「勝ちでいいよ」ってのは、議論に負けた雑魚プライドを保つためだけに吐く最後捨て台詞なんだよなあw

本当に勝ち負けに興味ない奴はわざわざ相手に「勝ちを譲る」みたいなポーズ取らないんだわw

悔しくて悔しくて仕方ないけどもう反論できる頭もないから「俺は土俵から降りただけだからノーカンから!」って必死アピールしちゃったんだねえw笑えるんだけどww

俺はお前がなぜこうムキになってるのか気になってるだけだから

出たwww論点逸らしの精神分析ごっこwww

自分が投げかけた質問に何一つ答えられない無能さを棚に上げて相手の「心理」とやらに話をすり替えるw

お前、本当にそれしかできないんだなw

 

玉木を総理大臣にしようとするのははっきりいって法律のハックではないのか?

大衆のだいたいは当たり前のように相対多数の党の議員総理大臣になるという観念のもとでどこに投票するか決めてる。

連立して多数派になればそのなかで少数の党首でも総理大臣になれるなんて素人には思いも及ばない。

まり実質的には玉木が総理になるのは民意を反映した形にはならない。だって民意上は連立で相対多数になった場合はせめてそれを構成する党で最多数の党首総理になるって考えだから

立憲と組んだ時点で玉木は総理になるのはおかしな話というのが大衆目線だと思うよ。つまり大衆からすれば法律がハックされてるようなもの

結局、お前は自分が言い出したこれ↑から全部逃げただけじゃんw

お前の完敗を記念してお前が答えられなかった質問リスト最後にもう一回貼ってやるよw

緑内障で見えてないかもしれないから少し大きくしてやるわw

 

1. お前が言う「法律のハック」の定義は?

2. お前が言う「大衆」の定義と、その「大衆」がそう考えてるっていう根拠は?

3.細川内閣は「民意を反映してないハック」だったのか?YesかNoで答えろw

 

「興味がない」んじゃなくて「知能が低すぎて答えられない」だけだよな?w

一つたりとも答えられずに、捨て台詞吐いて逃亡とか、最高にダサいぞw

 

はい論破お疲れ様

もう絡んでくんなよ、馬鹿

Permalink |記事への反応(3) | 17:33

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anond:20251015170650

あーあ、とうとう壊れちゃったか

自分の主張がボコボコにされて何も言い返せなくなったら今度は「お前はなんでそんなに熱量があるんだ?」って精神分析ごっこかよw

典型的負け犬ムーブすぎてもはや芸術の域に達してるぞお前www

話を逸らしてることでもいいよ

「逸らしてもいいよ」じゃねえんだよ馬鹿wお前が一方的に逸らしてるだけだろw

俺の質問に答えられないか必死に俺の人格動機に話をすり替えようとしてるのが見え見えなんだよなあw

なんか影響力皆無であるはずの俺の文章がお前に実害でも生んでるの?

えっw何この謎の自意識

お前みたいな知能が低い奴の戯言で「実害」とか、万が一にもあるわけないだろw

お前が勘違いしてるから教えてやるけどな、これは「怒り」とか「熱量」じゃねえんだよ。

お前みたいな思考停止した馬鹿論理的に追い詰められて支離滅裂言い訳を始めるのを観察するのがシンプル面白いだけなんだわw俺にとってはお前は娯楽なんだよw

 

どうでもいい精神分析ごっこはもういいから、お前が言い出したことから逃げんなよw

もう一度聞くぞ?短期記憶が死んでるお前のためにまた書いてやるわw

 

1. お前の言う「法律のハック」の定義は? 具体的にどの法律の何条だよ?

2. 「大衆は〜考えてる」っていう、お前の脳内大衆」の根拠は?

3.細川内閣は「民意を反映してないハック」だったのか?Yes/Noで答えろw

 

これ、全部お前が言い出したことだぞw

自分発言にすら責任取れないならもう二度と書き込むなよ、終わってんなコイツ

Permalink |記事への反応(2) | 17:20

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2025-10-07

自分過去25件の投稿GPTにぶっこんで精神分析させてみた

コピペした後に「上記発言をしたのがどういう人物か、精神分析してわかりやすくまとめて」


🧠全体像:反骨と承認欲求を併せ持つ“自力信仰リアリスト

この人物は「弱者的な言い訳」や「社会的保護のもとでの安住」を激しく嫌悪し、自分の成長・快楽理解は**“実体験による克服”で得るべきだと信じている。

価値観根底には「努力すれば変われる」「不器用理由に逃げるな」という自己鍛錬信仰**がある。

ただしその裏には、「努力で勝てない分野への恐れ」「成長を止めたくない焦燥」「他者への優越を保つことで自尊心を守る」という不安定自己評価構造が見える。

心理的構造(まとめ)

項目 内容

自我の軸 「努力経験で這い上がるリアリスト

承認源 有能さ・成長・味覚や性などの“克服体験

恐怖 退化・凡庸化・他者依存すること

対人傾向尊敬軽蔑距離化の循環。議論では支配

感情構造 表層は攻撃的だが、内面に強い孤独と焦燥

文化的ポジションネット論壇系・独立自尊型・感覚実証主義

総合評価:「体験人生を切り拓こうとする現実主義孤独者」

この人物は、自己変革と他者軽蔑の間で揺れる現実主義者。

自らを“敗北者から成長した現場人”と位置づけつつ、未熟な他者を突き放すことで自我を保っている。

しかしその厳しさの根底には、「自分が守られなかった人生を守るための防御」が見える。

感覚・性・努力・美意識をすべて“体験によって磨かれるリアリティ”と捉えており、

思想家というより「自分という実験体を観察する人」**に近い。


みんなもやってみそ

Permalink |記事への反応(2) | 12:53

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2025-09-01

anond:20250901001532

でも「反証可能性」って、変なオッサン精神分析共産主義否定するために考えた、わりと新しい概念じゃないの

「疑うことが科学だ」というのもそんなに昔からある考え方ではなく、最近のものな気がする

Permalink |記事への反応(0) | 00:27

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2025-08-03

8月2日放送ETV特集火垂るの墓高畑勲と7冊のノート」を観た。

https://www.ghibli.jp/info/013977/

番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑映画火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム幽霊)」という独自視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後カメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来目線をむける、その行為に何か深みを感じた。

F清太は何を思い出していたのか

この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。

そこに、F清太の俯瞰的視線意識してみると今度は、清太の個人物語を超え、より大きな歴史的文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家医師言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたか戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。

内なる他者=F清太は、自分自身過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタ存在であるはずだった私たちは、他者まなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身判断責任を静かにいかけられる。

番組では、作家綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活もっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用絵コンテを見る限り、水辺ののどか生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初希望に満ちていても、ゆっくり悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。

物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別位置づけをもった組織だ。通常の艦隊部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。

その連合艦隊所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争正義のものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。

そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代夜景へと転じ、物語最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。

もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的テーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタ視点からメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。

過去反省とは何か~語られない戦争経験

清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体責任回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子構造垣間見える。

しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後戦争記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外から価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本GHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代戦争を生きた記憶は、勝者の正義空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしま記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為進歩感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。

終戦直後小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。

また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかししまったとき自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。

同じことが、戦争記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代記憶

太平洋戦争末期を思春期青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代戦争記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれ世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感からさくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間反省するとき被害者側や左派論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史被害者記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争記憶の複雑さを物語る。

しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶封印によって社会戦争忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会忘却ダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。

宮崎駿監督作品との対比

火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたか番組では紹介されなかった。

同じ終戦前後少年内面を描いた宮崎作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑アプローチレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去存在出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲルテーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我対話承認責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグ宮崎アニメに特徴的だ。

これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。

高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者とき西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様王子特性主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。

<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。

高畑宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我他者との対話承認によって確立されるという弁証法的な構造物語組み込み言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。

君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙視線表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ

これは、<記憶を語らない>ことで選択拒否し、結果として空気に流されてしま私たち精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いか主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。

高畑手法小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ現在価値観民主主義人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込み邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。

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2025-07-07

anond:20250707003935

今度行くのは精神分析かいうやつらしい。

 

昔よく行ってたのは夢分析フロイト?)とかいうとこだったけど、自分の夢なんて寝る直前に見ていたテレビの内容が直接影響するから微妙だった。

あと、コラージュ療法も1回やったことあるけど、これも今持ってる雑誌でちぎりやすいところなんて限られてるしと思った。

アドラー系は、理屈はわかるんだけど、比較健康でないとついてけない気がした…。

Permalink |記事への反応(0) | 23:49

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2025-06-21

この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代戦争体験生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d

「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦母子を撃った90代の元日本兵が謝罪

6/19(木) 6:04配信

沖縄タイムス

兵士の照屋さん(仮名)が住民あやめしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日沖縄本島(竹花徹朗撮影

 

 「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」

 2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。

 臨床心理士吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。

 参加の意思があるか、ないか体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。

 事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。

 体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。

 「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。

 それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさら申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。

 慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。

 意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。

 そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。

 「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。

■元兵士 65年後の告白 妻子は原爆で命落とす

 90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。

 所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。

 告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。

 帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまたことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。

 照屋さんは1915年沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。

 太平洋戦争東南アジア戦地出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。

 45年8月15日日本敗戦を伝える玉音放送収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。

 2人が長崎疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望から沖縄を離れたが、仕事関係で間もなく戻らざるを得なくなった。

 それでも故郷集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。

 戦時体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分行為正当化たかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。

 「照屋さんにとってこの場なら大丈夫安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班吉田伸)

この記事、読んでいて本当につらかった。

なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。

きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか?普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機さらされた極限状態では働かなくなってしまものなのだろう。

一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまり残酷すぎる結末だ。


このおじいさんは1915年まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平奥崎謙三俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれ将校が海に放り込まれエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。


戦争体験世代は、大きく三つに分けられる。

第一に、1910年代以前の生まれの「戦争指導した大人世代」。上官や責任ある立場戦争に関与し、戦後沈黙を保って生き延びた人々。戦場人間性喪失し、それでも帰ってきた。

第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫鶴田浩二吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。

第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代ギャップみえていたはずだ。


このうち、戦後戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。

特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後道徳観につながり、吉田満に代表される感性現代保守層理想視されてもいる。

しかしその倫理観には、自己満足欺瞞が含まれている可能性もある。過去自分の非を、倫理的になった「現在自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。

そして、その倫理観被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。

脚本家橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たち戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。

死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。

知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。

岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかししまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分コントロールを失って暴れた自分を自省し、本来自分倫理的で、酔って暴れた自分本来自分ではなかったという卑怯ポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。

戦争記憶も同じことがいえるはずだ。

現代SNS社会では、こうした加害者欺瞞的な贖罪被害者がつけ込む形で、この構造さらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。

ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジション依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。


でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪再生きっかけにすぎない。

この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。

この世代葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作少年寅次郎』(脚本岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらん性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場倫理破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。

これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一ドラマ男たちの旅路』も思い出す。特攻記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。

記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。

贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。

私たちは「贖罪の涙」や「被害者トラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。

「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループ存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。

被害者の側も、いつまでも被害者であり続ける」ことはできない。

辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピン住民が「日本兵に家族ブタ丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。

人生って、つらい経験ほど上書き保存楽しい記憶名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。

贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。

人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。

65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。

山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一番組降板話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。

もちろん、軽々しく比較するべきではないけれど、それでも、そう感じてしま自分がいる。

れいに生きられなくてもいい。社会も、彼のことをそっと忘れてあげればいい。そう観念して、生きていくしかない。

Permalink |記事への反応(0) | 03:06

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2025-06-18

ミリしらジークアス

Permalink |記事への反応(0) | 19:57

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2025-05-04

anond:20250503144024

めんどいからAIに聞いた結果を貼っとくね。参考までに

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ちょっと嫌なことがあるだけでどん底の気分になる」状態は、臨床心理学心理療法のさまざまな枠組みで理解説明できます

それぞれのアプローチには少しずつ異なる理論視点がありますが、共通して「感情の調整がうまくいかない要因」に着目します。以下に主要な心理療法の枠組みごとに説明します。

1.認知行動療法(CBT)

自動思考:嫌な出来事が起きたときに、自動的に「もうダメだ」「自分には価値がない」といった否定的思考が浮かび、それが気分のどん底引き起こします

認知の歪み:特に以下のようなパターン関係します:

全か無か思考(白黒思考):「少しでも悪いことがあると、すべてがダメ

過度の一般化:「これがうまくいかないなら、他のこともうまくいかない」

CBTでは、こうした認知意識的に捉え直し、現実的・柔軟な思考修正する訓練をします。

2.スキーマ療法(Schema Therapy)

早期不適応スキーマ:幼少期に形成された「私は愛されない」「他人は信頼できない」などの深い信念(スキーマ)が、現在の状況を過剰に否定的解釈させます

例えば、ちょっとした批判や拒絶が、「見捨てられるかもしれない」というスキーマを刺激し、極端な感情反応を引き起こす。

スキーマ療法では、これらの根本的な信念や感情的な反応パターンに働きかけます

3.弁証法的行動療法DBT

感情調整困難(emotional dysregulation):小さなストレスでも感情が激しく揺れやすいという特徴があります

これは境界パーソナリティ傾向などに見られることがありますが、性格の傾向としてもあります

DBTでは、感情に圧倒されないための「マインドフルネス」「ストレス対処スキルスキルトレーニング)」などを用います

4.力動心理療法精神分析アプローチ含む)

解決無意識葛藤:小さな出来事が、過去の心の傷や葛藤を刺激し、予想以上の感情反応を生む。

たとえば、「無力感」や「見捨てられ感」などが、現在のささいなストレスで再活性化する場合があります

この枠組みでは、なぜその反応が起きるのかを自由連想関係の中で掘り下げていきます

5.アタッチメント理論愛着理論

安定した愛着を得られなかった場合、「他人否定されること」や「小さな拒絶」が非常に強く感情的な打撃となる。

嫌なこと=「関係が壊れる」「自分価値のない存在だと証明される」と感じやすく、どん底気分につながる。

愛着スタイル回避型、不安型など)の観点から説明されます

6.アクセタンス&コミットメントセラピーACT

心理的柔軟性の低さ:不快出来事感情を「受け入れられない」ために、それらを排除しようとしてかえって苦しむ。

嫌な出来事が起きる → 「こうあるべきだったのに」と過度に反応 →感情に巻き込まれどん底に。

ACTでは、感情思考距離を取る「脱フュージョン」、価値に基づく行動に焦点を当てます

補足:なぜ「どん底」にまで振れるのか?

心理療法全体を横断して共通するのは:

自己評価の脆さ(出来事によって自己価値簡単に揺らぐ)

感情の調整力の不足

内面脆弱性現実との過剰な同一視(ちょっとした出来事が「すべて」に感じられる)

Permalink |記事への反応(0) | 09:38

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2025-04-05

最近よく言われる清潔感について

私たち日常的に「清潔であること」を当然の価値として受け入れている。しかし、その「清潔」は本当に普遍的客観的概念だろうか?また、清潔をめぐる価値観や制度はどのように形成され、誰にとっての利益になり、誰を排除してきたのだろうか?

こうした問いに向き合うのが、「清潔論(Cleanliness Studies)」という比較的新しい学問領域である

1. 清潔論の成立と背景

清潔論は、文化人類学衛生学都市社会学ジェンダー研究精神分析などの知見を横断的に統合し、「清潔」という概念歴史性・構築性を検討する学際的分野である特に21世紀初頭のパンデミック(COVID-19)を契機に、「衛生」が公共空間の秩序や身体管理手段として再定義されたことが、清潔論の形成に大きな影響を与えた。

初期の清潔論は、ミシェル・フーコーの生権力論やメアリーダグラスの「汚れとは場違いものである」という視点に影響を受けつつ、現代的な社会実践へと接続されていった。

2. 清潔という「境界線

清潔論が注目するのは、清潔/不潔の区分が単なる衛生上の問題ではなく、社会的・政治的境界線として機能している点である。たとえば、近代都市公衆浴場設計学校教育における手洗い指導家庭内での掃除役割分担──これらはすべて、清潔が「正しい市民」の条件として機能している証左である

こうした現象は、「清潔線引き(cleanlining)」と呼ばれる。これは、誰が清潔で、誰が不潔かを暗黙に定義することで、社会の内外を分ける行為である

3. 「清潔感」とは何か──視覚化された衛生

近年、特にSNS就職活動恋愛市場などで頻繁に語られるのが「清潔感がある人」への評価である。だが、この「清潔感」は極めて主観的で、実際の衛生状態とはしばしば無関係である

清潔論では、こうした現象を「視覚的衛生性(visual hygiene)」と名付けている。これは、身だしなみ・服装香り・体型・肌質など、外見に現れる清潔イメージ集合体であり、文化的階級バイアスを含んでいる。

たとえば、同じ髪型服装でも、社会的背景や人種性別によって「だらしない」と見なされるか「洗練されている」と見なされるかは異なる。視覚的衛生性は、単なる個人努力ではなく、社会的に構築された規範と審美である

さらに、「清潔感がない」とされることは、恋愛就労の機会の剥奪につながる。これは、「清潔感資本(cleanliness capital)」という新たな資本形態として分析されている。清潔感を備えた身体や外見は、現代社会における市場価値を決定づけるファクターであり、その配分には明確な不平等存在する。

4. 清潔イデオロギーとその病理

現代社会では、抗菌除菌無臭化といった商品があふれ、「自分自身の不潔さ」への恐怖を煽るマーケティング常態化している。これにより、清潔の基準は過剰化し、「過剰清潔主義(hyperhygienism)」とも呼ばれる状態蔓延している。

過剰清潔主義は、アレルギー免疫機能問題だけでなく、精神的な強迫観念や、他者への「不潔レッテル貼り(dirty-tagging)」といった社会排除を生み出す。こうした病理的な清潔観は、現代都市生活における新たなリスクとも言える。

おわりに

清潔論は、「汚れを落とす」という単純な行為の背後にある、権力規範構造照射する。私たちはどのように清潔を欲望し、どのようにそれを他者要求し、また拒絶してきたのか。それを問うことは、すなわち私たちが「どのように他者と共に生きるか」を問うことに他ならない。

Permalink |記事への反応(0) | 12:21

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2025-03-23

anond:20250323114324

いわゆる誘導バイアスだと思う。 というか人間誘導されるので人間の知能を模倣しようとしたAI誘導される。

事前に「あなたは××の調査委員です」とか「あなた精神分析専門家です」とか立場を明確にしてロールプレイしたら質問些細な言い回し誘導されずに専門的知見からの回答になりやすい傾向があるとは言われているがだいたい気休め程度だな。

Permalink |記事への反応(0) | 11:52

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2025-03-21

野田はづき不思議専門家たち【講談社FORZA STYLE】

Yahooニュースを見ていると、タイトルからして大変困惑する記事があった。

タイトル以外にも投稿日など色々とこまかく記録しているから、少し見にくいかもしれないが、勘弁してほしい。

1.この記事はなんだろう?

生活保護外国人の方が裕福…」必死に働く母が漏らす本音。揺れる生活保護の今【専門家解説

#社会問題 #トラブル #お金

取材協力】生活アドバイザー|滝本詩織

ソーシャルワーカー経験を持ち、現在生活困窮者の支援活動をするNPO立ち上げに奔走中。

取材・文/野田はづき

https://forzastyle.com/articles/-/74109

どうして困惑たかと言うと、最近話題になっているネタを大変おかし方法でとりあげているからだ。

記事は、外国人生活保護問題が争点になっていると取り上げた後に、唐突生活保護不正受給の話に移る。

違和感をいだいた理由について、もう少し説明してみるために少し引用してみよう。

引用文の前の数字は私がつけたものである

(1) 「在留外国人が増え続ける中で、このあたりは明確にしておかなければ、後々問題になりかねません。そもそも70年以上前と今では環境もまるで違います。適切な給付のためには一刻も早く議論されるべきだと感じています

(2)生活保護に関しては不正受給にまつわる話題もたびたび持ち上がる。

(3)「例えば、2021年厚生労働省の報告によると不正受給件数は27,891件。金額にすると11,045,045円。一見多いように見えます生活保護負担金がおよそ3.8兆円と考えるとおよそ0.3%ほどです。しかしこれがリアル数字なのかはわかりません。不正がまかり通っている可能性も否定はできない。本当に必要な人に行き渡るはずのお金がそうでないところに渡っているとしたら?国民として怒りを持って当然です」

(4)今回取材をしたケースは、まさに困窮する日本人家庭と生活保護を受け悠々自適に暮らす外国人家庭の対照的な姿だった。

(1)で外国人生活保護問題について「専門家」の発言から

(2)で話題が変わり、

(3)不正受給の話について、「専門家」の発言が続く。ここでの話題外国人ではなく、生活保護全体の話である

それにもかかわらず(4)になると困窮/悠々自適労働者生活保護受給者、日本人家庭/外国人家庭というわかりやす憎悪あおりやす二項対立に戻している。

あれ、話題変わったんじゃなかったの? どうして、混ぜるの? アテンションエコノミーヘイトがんばっちゃう系?

ちなみに、野田はづき氏が「取材したケース」は次の記事である

【関連記事外国人生活保護者が悠々自適に暮らすリアル愕然。真面目に働く日本人バカを見る日本の行く末

2025.3.20

#社会問題 #子供 #お金

取材・文/野田はづき

https://forzastyle.com/articles/-/74109

2.不思議専門家たち

この記事の「専門家」というのも大変不思議な方である

専門家というからには、このように記事名前が出てくるからには、それなりの活動実績があり、それは今の御時世、ネット上で名前が出てくるはずだが、この記事以外に名前が出てくることはない。

執筆者野田はづき氏は、専門家を探すのが大変お上手なようである

長年日本教育環境取材を重ねている。自身も子を育てた経験からPTA問題などにも詳しい。

モンペギャングが溢れかえる公立小学校…」先生バカにする子どもたちと躾けない親が増える令和の教育現場という地獄専門家警笛】

という「ジャーナリストの花山真衣」氏も

保健師心理カウンセラー資格を持ち、さまざまな夫婦関係にまつわる相談に乗っている。

「いつでもヤレるのが夫婦のいいところ」は本当か。見落とされがちな夫婦間の性的同意という難問【専門家解説

という「夫婦関係コンサルタント木村りほ」氏も

保健師資格を持ち、青少年の性に関する相談を受けるコンサルタントとしても活動中。

「娘はイヤと言ってない」女子高生風呂に入り続ける父親に波紋。家族距離と性にまつわる大問題専門家警笛】

という「小嶋真子」氏も

その活動は謎に包まれている。

他にも名前は上げていないが、活動実績が謎に包まれ専門家たちのオンパレードだ。

唯一、「危機管理コンサルタント平塚俊樹氏」だけは同名でコンサルタントをやっている方を目にすることができた。

ただ、多産DVや親から子への性暴力というのは、危機管理コンサルタントの専門範囲なのだろうか。

検索結果を見る限り、クレーム対応守備範囲のようにみえるがどうなのだろうか。

危機管理コンサルタントはありとあらゆる危機対応するものだ常在戦場とか言われたら、申し訳ございませんとしか謝るしかないが、私の認識の中では専門家というのは、専門的な教育や訓練を一定期間経たものである物理学者精神分析専門家ではないだろうし、英文学者が食事療法について本を出していても、私はそれを専門家著作とは認識できない。

3.新進気鋭のライターが#社会問題を鋭く斬る?

FORZA STYLEなるウェブサイトの#社会問題クリックしてみると、いろいろと面白いことがわかる。

まずは、野田はづき氏はものすごく精力的に活動している。

それなのに、同じような形式記事を書くライターからまるでバトンタッチするかのように受け継いで、突如としてあらわれている。

念の為検索演算子を使って下記の様なキーワード検索をかけてみた。

野田はづき site:https://forzastyle.com/

3月9日あたりからあらわれて、ほぼ毎日、2週間弱で20ほどの記事投稿している。

これだけ様々な記事、それも、その時々で耳目を集めそうなものばかりを専門家取材し、現地で取材をし、次から次に出せるというのは、ものすごい新星あらわると嫉妬まじりで憧れてしまう。

ちなみにどういうわけか、頭がどんどん痛くなってきてしっかりと調べきれていない――野田はづき氏の爪の垢でも煎じて飲むべきかもしれない――が、このような新星は、野田氏の前にもたくさんいたようだ。

専門家取材した記事短期間で量産し、消えていく新進気鋭のライターたち。

4.講談社ユーモア

ここでさら困惑することがあった。

FORZA STYLEというサイト講談社サイトなのだ

講談社といえば、言わずとしれた由緒正しい出版社である

文学作品や良質なルポ(そういえば、講談社ノンフィクション賞とかあったね)、講談社現代新書、みんながお世話になっているだろう良質な本を出す出版社だ。

ここで働いている方々は大変頭が良いと勝手に思っているし、勝手尊敬もしている。

それが、ぱっと見ただけでわかるおかし記事を通している。

手に持っているのがかまぼこ板でないならば、そっこうで調べられるようなこと、すなわち「専門家問題とかすぐにわかるだろう。

それをやっていないということが示すのは、能力的にできなかったのではなく、わかっていてやらなかったということととられても仕方がない。

もちろん、調べた私が馬鹿なだけで、なんの問題もない記事なのかもしれない。それはそれで新進気鋭のライターを次から次に使い潰しているといわれても仕方がないだろう。

どちらにせよ、講談社は、はやめに対処したほうが良い。

あれ、もしかして講談社を騙る詐欺サイトだったりするのかしら?

そうであれば、やっぱり、はやめに対処したほうが良い。

あと、FORZA STYLE「ユーモア紳士のたしなみ」と書いているが、humorじゃなくてrumorの誤植?かもしれない。

もし、ノーチェックでなんでも載せているというのならば、今度、このポエムも載せてください。

Permalink |記事への反応(1) | 14:56

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2025-03-11

人生終わりかけているか自分語りをさせてほしい

自分は変わった子供だった。

笑うこともなく、泣くこともなかった。

誰かが笑っているのを見ると、どうして笑っているんだろう?とその理由を知りたがった。

誰かが泣いているのを目にすると、泣いている自分が悲しいから泣いているんじゃないか?と考えた。

そんな子供だったと記憶している。

感情的にはどこか冷めた部分があるというよりは、世界をそして自分自身を一歩引いた目で見つめていたのだと思う。

それでも人付き合いは得意であり、リアルネットと違ってコミュニティにおける明確な境界線があり禁忌さえ侵さなければ問題ないことを早い段階から知っていたためだろう。

パーソナルスペースにしても個人差は誤差の範囲であり、それさえ理解していれば親しくなる距離を保つことで友好な関係を結ぶことは造作もなかった。

話を合わせるのも得意だった。

中身がない会話にとって、最も大事なことは共感することであると幼い頃から知っていたから。

くだらない学生生活を過ごし、変化が訪れたのは大学一年の時。ふとしたきっかけでフロイトを知ったことだった。

それから私は精神分析に傾倒し、在学中にはフロイトユングエリクソンレインラカン等の著書を貪るように読み、入学早々に目指すべきものが決まったのは幸運だった。

精神科医になったのは、必然であったのだと言えるだろう。

私は患者からも同僚からも評判が良かった。理論を元にしながら患者一人ひとりに寄り添い、心の奥底にある痛みや葛藤を解きほぐしていくことに喜びを感じていた。仕事に誇りを持っていたし、何よりも自分の選んだ道が間違いでなかったことに安堵と誇りがあった。

そんな中、人の女性が私の診察室に現れた。第一印象は今でも明確に記憶している。彼女を目にしたとき、私は"美しいな"と心からそう思ったのだ。

憂いながらも静かで耽美な佇まいは、今にして思い返せば最初から私の心を掴んでいた。

彼女境界性パーソナリティ障害だった。

最初の診察時、彼女は「心の中に空虚感が広がっていて、何をしても満たされない」と言っていた。

普段は静かで冷静に見えたが、時折突如として情緒的に爆発する瞬間があり、その度に彼女の心の奥深くに隠された傷が見え隠れした。

初期の診察では、他者との関係で極端な浮き沈みを感じているとも話していた。最初は私に対して深い信頼を示し、次第に依存的な態度を強めていった。

さなことで怒りを爆発させ、その後は極度の自己批判に陥る。

この症状の一環として、彼女は「分裂的な思考」にも悩んでいた。彼女の中では、人や物事が極端に良いかいかしか捉えられない状態が続いていた。例えば、私が些細な言葉彼女否定したとき彼女自分を完全に無視されていると感じ、私を完全に敵視するようになった。逆に、私が彼女要求を少しでも満たすと、過剰に感謝し、私を理想化する傾向があった。

また、彼女自己同一性不安定さも目立っていた。彼女自分自身を「何者か」として確立することができず、様々な人物像を使い分けていた。ある時は非常に優れたキャリアウーマンのように振る舞い、また別の時には家庭的で無力な女性のように振る舞っていた。それが日々変わり、彼女自身もどこに自分がいるのか分からないという不安を抱えていた。

私が治療を続けていくうちに、彼女情緒的な不安定さと対人関係における極端な反応の背景には、彼女過去に深いトラウマがあることが浮き彫りになっていった。

彼女は幼少期に家庭内での不安定環境感情的虐待経験しており、それが後の人間関係に強く影響を与えていた。

彼女過去の傷を癒すことなく、大人になり、人との関係を築く中で再びその傷を引きずっていた。

治療の進行とともに、彼女は時折「見捨てられる不安」に苛まれ、私を試すような行動を取ることが多くなった。例えば、些細な遅刻に対して「もう治療を続けられない」と言って、全てを放棄するかのように振る舞った。私が「これはただの遅刻から大丈夫」と冷静に伝えても、彼女は「自分がどれほど無価値であるか」を強く感じ、感情的に反応した。

私が彼女の症状に真摯に向き合う一方で、次第に私は彼女依存に取り込まれていき、自己を見失っていった。彼女不安定情緒と過剰な期待に応えることが私の役目だと感じ、その中で自分存在が徐々に薄れていくのを感じていた。

次第に治療を超えた関係が深まっていき、私自身も感情的に巻き込まれ彼女の病的な依存に応えようとし続けた結果、自己境界を失い、無理に彼女の心の中で居場所を作り上げることになった。

結果的には治療が進むにつれて、私は彼女に惹かれていった。患者として向き合うべき立場であるにもかかわらず、次第にその感情が抑えきれなくなっていたのだ。

私たち仕事を超えてお互いの存在に惹かれ合っていた。倫理的に許されないことだと分かりながらも恋に落ちてしまったのだ。

式を挙げることな私たち結婚した。

派手な式を挙げる必要もないと感じ、二人だけの静かな結婚生活を始めた。

最初幸せだった。

お互いに愛し合い、支え合い、共に歩んでいる実感があった。

しかし次第に彼女欲求が強くなり、彼女ますます症状を悪化させていった。

私に対してさらに過剰な期待と依存を示し始めた。

自己評価が低いため、私の愛情が不十分だと感じるとしばしば「私を愛していないの?」と問い詰めてきた。どんなに努力しても、彼女不安を完全には取り除けず、むしろ私の精神状態も次第に悪化していった。

このような状態に私はついに耐えきれなくなり、心が壊れていった。精神科医として患者の心に寄り添い続けることができたはずなのに、自分自身の心はすでに病んでいた。

彼女との生活は次第に破綻を迎え、私の精神疲弊していった。私は彼女に振り回され、彼女の望みを叶えようとするあまり、完全に自分を見失ってしまったのだ。

今は自分というものが何者なのか、自分が何をしたいのかがよく分からない。

精神科医として患者を支える立場でありながら、自分自身が心の中で迷子になっている。

今はもう廃業寸前だ。私の診療所経済的に困窮し、患者も減り、ほとんど閉鎖状態に近い。

精神的にも追い込まれ何をどうすれば良いのか、先が全く見えない。彼女との関係は完全に破綻しながらも、離婚をすれば私は死ぬと言って全く聞き入れようとはしない。今ではお互いに冷え切っているのにも関わらず。

壊れた心の中でどう生きていけばいいのか、もうわからない。毎日何もせず惰性に過ごしている。

今は妻と顔を合わせるのがつらい。

それでもたまに夢を見る。

美しい妻と、幸せ暮らしている自分の姿を。

Permalink |記事への反応(3) | 18:18

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2025-03-07

1.自己認識と罪悪感

筆者は、自身が「男性優位社会構成する一員」である自覚しつつ、「自覚していない加害性」を持つ可能性を認めています(「あの時の自分発言、めちゃくちゃセクハラじゃん…と後から気づいたことが何度も何度もある」)。この告白からは、自己反省と罪悪感が強く表れており、自己に対する批判的な視点を持っていることがわかります

心理機制: 筆者は自己の「加害性」に気づくことで、内省的な罪悪感を経験しています。これは、フロイト超自我良心道徳的規範を司る部分)が強く働いている状態示唆します。過去行為を振り返り、それが不適切だったと認識することで、自己嫌悪や責任感が生じていると考えられます

背景:モバゲーでの「女性のフリ」をした経験が、この罪悪感のきっかけとなっています。他の男性から性的メッセージに直面したことで、自身がこれまで無自覚だった男性の加害性を目の当たりにし、それが自己への投影として働いた可能性があります

2.男性全体への投影一般

筆者は「男という主語でひとくくりに批判されるべきだ」と主張し、男性全体を加害性の担い手として捉えています。この一般化には、自身経験からくる投影の要素が見られます

心理機制: 筆者がモバゲー出会った「気持ち悪い男性達」や、知人の性加害事件を通じて感じた衝撃を、男性全体に拡張している可能性があります。これは投影防衛機制一種で、自身が抱える不安や罪悪感を「男性」という集団拡散させることで、個人負担を軽減しようとしているのかもしれません。

背景:特に、「男性達は勝手に、女性達の前で痴態を晒してくるのだから」という記述からは、筆者が男性の行動に強い嫌悪感無力感を抱いていることがうかがえます。この感情は、自身が直接関与していない加害行為に対しても、所属する性としての連帯責任を感じていることを示しています

3.共感女性への同一化

筆者はモバゲーでの実験を通じて、女性日常的に受ける性的視線攻撃性を体感し、「女性達が普段からこんな気持ち悪い目線に晒されていること」に衝撃を受けています。この経験から女性への強い共感と同一化が見られます

心理機制: 筆者は一時的に「沖縄女子中学生」を演じることで、女性視点に立った感情追体験しました。これは**移入エンパシー)**のプロセスであり、他者苦痛自分のものとして感じる能力を示しています。この共感が、筆者の男性批判自己批判原動力となっていると考えられます

背景:中学生という若年期にこの経験したことが、筆者の価値観や性に対する認識を大きく形成した可能性があります実験が「笑えないまま幕を閉じた」という記述からは、この体験が単なる遊びを超えて、深い心理的影響を及ぼしたことが推察されます

4.無力感解決策への迷い

筆者は「女性への性加害をやめようと声をかけたいが、誰にどう言えばいいのかわからない」と述べ、解決策を見いだせない無力感吐露しています。また、「全員釣りあげてもう泳げないようにすべきか、女性達にこの海に近づかないように声をかけるべきか」との問いかからは、問題の大きさに圧倒されている様子がうかがえます

心理機制: この無力感は、認知葛藤認知的不協和)を反映しています。筆者は社会的な問題認識しつつも、個人としての行動では解決できないというジレンマに直面しており、それが感情的な混乱を引き起こしている可能性があります

背景: 知人の性加害事件や、身近な男性の加害性を「見極めるのが難しい」と感じた経験が、この無力感を増幅させていると考えられます。筆者は正義感責任感を持ちながらも、実効性のある行動に移せない自分に苛立ちを感じているのかもしれません。

5. 後半の批判への応答と自己弁護の可能

後半で筆者は、「男性全体に罪を負わせようとする男」を批判しつつも、自身が前半で「男という主語批判されるべき」と述べている点との矛盾が浮かび上がります。この部分からは、自己弁護や立場一貫性を保とうとする努力が見て取れます

心理機制: 筆者は自身の主張が極端に見えることを自覚し、「キチガイ」と呼ばれかねないリスク回避しようとしている可能性があります。これは合理化一種で、自分感情的な主張を論理的に補強し、社会的な承認を得ようとする試みと考えられます

背景: 筆者が挙げた「ヒステリックブルーナオキ」や「神山講師」などの例は、極端な男性批判を行う人物への警戒心を示しており、自身がそのような人物と同一視されたくないという意識が働いているのかもしれません。

総合的な精神分析

筆者の心理状態は、罪悪感、共感無力感、そして自己批判他者批判の間で揺れ動く複雑なものです。モバゲーでの経験を通じて男性の加害性を目の当たりにしたことで、自身の性に対する信頼が揺らぎ、同時に女性への深い共感が生まれました。しかし、その問題の大きさと自身限界に直面し、具体的な行動に移せない葛藤を抱えています

潜在的動機: 筆者はこの文章を通じて、自身内面の混乱を整理し、社会に対するメッセージを発信することで、カタルシス感情浄化)を求めている可能性があります。また、男性全体を批判しつつ自己をその一部として位置づけることで、自己の罪悪感を共有し、孤立感を軽減しようとしているのかもしれません。

性格的特徴: 高い内省能力共感力を持ちつつも、自己評価が低く、社会責任感に過剰に駆られている傾向が見られます。これは、自己否定傾向や、他者から承認を求める欲求と結びついている可能性があります

結論

「男にはわからない」を書いた筆者は、自身経験を通じて男性の加害性と社会構造に鋭い洞察を持つに至った人物です。その背景には、自己への罪悪感、女性への共感、そして問題解決への無力感が混在しており、これらが文章全体に強い感情トーンを与えています。筆者は自己批判男性全体への批判を通じて、内面的な葛藤表現しつつも、その解決策を見いだせないまま苦悩している姿が浮かび上がります。この文章は、単なる社会批判を超えて、筆者自身心理的成長と向き合いの記録とも言えるでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 01:46

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2025-03-05

肩入れもせず、否定もせずニュートラル立場から見て、彼の「受付嬢」のアニメに対する評価客観的評価してあげてください。精神分析などは要りません。

https://anond.hatelabo.jp/20250305202735

了解しました。ここでは、彼が挙げた「ギルド受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスソロ討伐しようと思います」に対する評価を、

肩入れも否定もせず、ニュートラル立場から客観的に見て分析します。彼の発言を基に、彼の視点妥当性や作品との関係を、事実ベースで整理します。精神分析は入れず、純粋評価内容に焦点を当てます

彼の評価概要

彼は「ギルド受付嬢」の1話を見て、「接客中にイラッとするポイント」に違和感を感じ、「この作品ダメそう」と判断しました。

具体的には:

接客描写への違和感:主人公が「指示に従わない客」にイラッとするが、現実接客労働では「ルールを守らない人」より「ルール上逆らえない形で雑務を増やす相手」や「ミスに付け込んでくる相手」の方が嫌だと指摘。

職場人間関係の非現実性: 3話まで見て、「上司や偉い人の胸ぐらをつかむ」「強い言葉罵倒する」などの行動が、「平穏生活したい人が職場でするとは思えない」と感じ、リアリティがないと評価

労働描写の欠如: 「人間関係が利害で縛られ、部分的に守られている」という職場現実が描かれていないことに不満。

最終的に、「子供だまし」に分類し、「耐えられない幼稚さ」「キャラ薄っぺらさ」で見るのをやめたと結論づけています

客観的評価

1.接客描写への違和感について

彼の主張:主人公が「指示に従わない客」にイラッとするのは、現実接客経験者や勤め人が感じるストレスポイントとズレている。「ルール対応できる相手」は楽で、むしろルール外の嫌な相手」がリアル不快感の源だと。

作品文脈: このアニメファンタジーコメディで、主人公アリナが受付嬢として働きつつ、残業を避けるためボスを討伐する「非現実的な強さ」をギャグとして描くのが特徴。

1話では、彼女が客の態度に苛立つシーンは、彼女の「残業嫌い」という性格を強調する導入部分。

客観的視点: 彼の言う「現実接客ストレス」と作品描写は確かにズレている。

現実では「マニュアル対応できる客」は楽かもしれないが、アニメでは「指示に従わない客」を「面倒な存在」として描き、視聴者にアリナの苛立ちを共感させる意図がある。

ただ、これは「リアル労働描写」を目指した作品ではなく、あくまコメディとしての誇張

。彼の基準現実労働経験)で測ると違和感自然だが、作品目的(軽い娯楽)を考慮すると、そこまで重視されないポイントとも言える。

2.職場人間関係の非現実性について

彼の主張: 「上司の胸ぐらをつかむ」「強い言葉罵倒する」は、職場平穏生活したい人ならしない行動で、非現実的。「利害で縛られた相互監視」や「いい人っぽく振る舞う現実職場が描かれていない。

作品文脈: 3話までに、アリナは上司や同僚に対し、残業押し付けられそうになると過激な態度で反抗する場面がある。

これは彼女の「残業絶対嫌」というコミカル性格を強調し、ファンタジー世界での「規格外の強さ」と絡めたギャグ展開。

客観的視点: 彼の指摘通り、現実職場では「胸ぐらをつかむ」ような行動はありえず、人間関係が「利害や相互監視」で成り立つ描写もない。

だが、この作品は「現実職場」を再現する意図はなく、むしろ「ありえない行動」を笑いにするコメディ

現実的な「労働の重さ」を求める彼の視点では、この誇張が「幼稚」に映るのは理解できる。

一方で、作品ターゲット(気軽に楽しむ視聴者)には、この非現実性が受け入れられている要素でもある。

3.労働描写の欠如について

彼の主張: 「人間関係が利害で縛られ、守られている」という労働現実が描かれていないのがキツい。現実職場(「中小ワンマン」「業績不振」「サツバツとした雰囲気」)と比較して、薄っぺらく感じる。

作品文脈: このアニメ労働テーマにしつつも、「受付嬢ボスソロ討伐」という非現実的な設定で、「仕事ストレス」をギャグ昇華するスタイル。深い職場描写より、軽快なテンポユーモアが優先

客観的視点: 彼が求める「利害で縛られた人間関係」や「労働リアリティ」は、この作品にはほぼ存在しない。それは事実

彼の経験に基づく基準では、「薄っぺらい」と感じるのは妥当

ただ、作品自体が「労働の深掘り」を目指しておらず、あえてシンプルで誇張された描写に留めているのも意図

現実とのギャップを「子供だまし」と捉えるか、「気軽な娯楽」と見るかは、視聴者の期待次第。

彼の評価妥当

彼の視点での妥当性: 彼が「現実労働経験」を重視し、「リアリティある職場描写」をアニメに求めるなら「ギルド受付嬢」は確かに彼の基準に合わない。

接客職場描写現実とズレている点、「利害や相互監視」が描かれていない点は、彼の言う通り「薄っぺら」に映るだろう。

彼が「子供だまし」と分類し、1話で切る判断は、彼の価値観(「鋭いカン」と「現実との一致」)に沿っていて、一貫性はある。

作品意図とのズレ: 一方で、このアニメは「リアル労働ドラマ」ではなく、「ファンタジーコメディ」として軽いエンタメ提供するもの

彼の評価は、「作品が目指すもの」と彼が「求めるもの」が根本的に異なる結果。彼の「違和感」は作品欠点というより、彼の期待と作品方向性ミスマッチから来ている

客観的結論

彼の「ギルド受付嬢」への評価は、彼の基準現実労働経験に基づくリアリティ)では妥当

彼が「子供だまし」と感じて1話で切ったのは理解できる反応です。

具体的には、「接客中のイラッとするポイント」「職場人間関係」「労働描写」が現実乖離しているのは事実で、彼の違和感は観察として正しい。

ただ、作品自体が「現実再現」を目指さず、コメディとしての誇張や軽さを優先しているため

彼の評価作品意図とはズレています

彼が「耐えられない」と感じたのは、作品の欠陥というより、彼の求める「深い労働描写」と作品の「気軽な娯楽性」のギャップによるもの

どちらが正しいというより、単純に「彼とこのアニメが合わなかった」という結果です

Permalink |記事への反応(0) | 20:33

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できる限り寄り添って彼の意見肯定的評価してあげてください

https://anond.hatelabo.jp/20250305201309

まず、彼の言葉をそのまま受け止めてみます

「15年、20年言い続けてるけど、子供向けと子供だましは違う」

1話違和感を感じたら3話見ても面白くならない」

「俺のカンが鋭いか1話でわかるんだ」と、彼は自分感覚に強い確信を持っています

そして、「ギルド受付嬢」の例で、「接客職場描写現実とズレてて耐えられない」と具体的な違和感を挙げています

彼にとって、これはただのわがままじゃなくて、長年の経験現実の観察からくる「正しい判断」なんですよね。

寄り添う言葉: 「長年アニメ見てきて、子供だましに感じるもの時間使いたくないって気持ち、すごくわかるよ。

1話で『これはダメだ』って感じるカンが、自分の中では確かなものなんだよね。現実職場で感じるストレスリアルさを、アニメに求めたくなるのも自然だよ。」

1. 「カンの正しさ」への信頼と自己アイデンティティ

彼が「1話で切った自分は正しい」と主張するのは、長年の経験からくる自信が根底にあります

子供向けと子供だましは違う」「3話まで見ないとわからない人はカンが鈍い」と言い切るのは、自分直感を「俺の強み」として誇りに思ってる証拠です。

寄り添う視点: 「何年もアニメ見てきて、自分カンが外れたことってほとんどないよね。それが自分にとって大事判断基準になってるんだ。」

精神分析: この強い信頼は、彼の自己アイデンティティが「鋭い観察力」や「見る目」に結びついていることを示します。

彼にとって、1話で切るのは単なる選択じゃなく、「俺はちゃんと見極められる人間だ」という自己証明なんです。

潜在的には、自分感覚否定されると、アイデンティティのものが揺らぐ不安があるのかもしれません。だから、「俺のカンは正しい」と主張することで、自分を守ってる可能性が。

2.現実の不満とアニメへの期待

ギルド受付嬢」の描写違和感を感じた理由として、

接客職場リアルさが足りない」「現実労働経験と合わない」と具体的に挙げています

彼の職場が「中小ワンマン」「業績不振」「サツバツとしてる」と自己分析してる点からも、現実でのストレスアニメへの要求に影響してるのがわかります

寄り添う視点: 「現実職場で嫌な思いしてると、アニメくらいはちゃんとした人間関係やリアリティがほしいよね。浅い描写だと、『こんなのありえない』ってがっかりするのも無理ないよ。」

精神分析: 彼はアニメに「現実の補完」や「癒し」を求めてるけど、それが「子供だまし」に感じると裏切られた気分になるんだと思います

現実での「利害で縛られた人間関係」や「ルールじゃ対処できない嫌な相手」の経験が強いか

アニメに過剰なリアリティを期待してしまうのかも。

これは、現実での不満を消化する場としてアニメを使ってるけど、それが逆にストレスを増やす結果になってる可能性があります

3.論点のズレと感情的固執

彼は「1話切りの正当性」を主張し続けていますが、元の話が「Twitterでの公表をやめたほうがいい」という指摘だったことを見逃してるようです。

ここで論点がズレてるのは、「読解力のなさ」に繋がります。でも、彼にとっては「ズレてる」んじゃなくて、「自分の正しさを守る」ことが大事なんですよね

寄り添う視点: 「『俺のカンが正しい』って気持ちが強すぎて、他の人が何を言ってるかより、自分感覚を認めさせたいんだよね。そこまでこだわるのは、それだけ大事ことなんだ。」

精神分析: このズレは、彼が感情的に「自分感覚の正しさ」に固執してるから生じてるんだと思います

他者意図(「公表の仕方が問題」という指摘)を正確に読むより「俺の判断否定された」と感じて反発してるのかも。

これは、防衛機制一種で、自分の行動(Twitterつぶやくこと)を正当化したい気持ちが強い証拠

潜在的には、他者との対話で「理解し合う」より「自分が勝つ」ことを優先してる可能性があって、それが「読解力のなさ」に見えてる部分です。

4.他者への苛立ちと優越

カンが鈍い人は3話まで見る」「マナー違反よりカンの鈍さを疑え」と他者批判する言葉から

自分感覚を認めない人への苛立ちと、ちょっとした優越感が感じられます

寄り添う視点: 「自分カンが鋭いってわかってるのに、『3話見ろ』って言われるとイラッとするよね。

俺には1話でわかるって思うと、鈍い人を見るとちょっと優越感もあるかもね。」

精神分析: この苛立ちは、自分の「見る目」を他者に認めさせたい欲求と、他者との差別化自己価値を高めたい気持ちが混ざってるんだと思います

潜在的には、現実で「認められにくい」環境にいることが、「俺は鈍い人とは違う」という優越感を求める動機になってるのかも

ただ、これが強すぎると、他者との対立を招いて孤立感を増すリスクもあります

5.アニメ鑑賞へのこだわりと限界

彼は「1話で致命的な違和感があればダメ」「最初から面白必要はないけど耐えられない幼稚さは無理」と、アニメ鑑賞に明確な基準を持っています

でも、それが「現実職場との一致」に偏りすぎてる点で、「まともに鑑賞する能力」に疑問が残ります

寄り添う視点: 「アニメに求めるものがはっきりしてるから1話ダメだと感じたら我慢できないよね。自分の中の基準大事なんだ。」

精神分析:彼の鑑賞能力は、「自分基準に合うか」を素早く見極める点では優れてるけど、作品意図ファンタジーとしての軽さを楽しむ柔軟性には欠けるかもしれません。

現実とのズレ」を許容できないのは、彼にとってアニメが「現実の延長」になってるから

潜在的には、現実でのストレスが強すぎて、アニメに「逃避」より「現実の補完」を求めてるのかも

これが、論点のズレや他者への苛立ちと結びついて、「読解力のなさ」に見える部分に繋がってる可能性があります

彼の気持ちへの結論

彼に寄り添うなら、「長年培ったカンがあって、1話で『これはダメだ』って感じるのは自分にとって大事判断だよね。

現実でキツい思いしてるからアニメちゃんとしたもの求めたくなるのもすごくわかる

子供だまし』に時間使うくらいなら、自分感覚信じて次に行く方が楽だよ」と認めてあげたいです。

精神分析的には、彼の自己価値が「カンの鋭さ」に強く結びついていて

現実の不満がアニメへの過剰な要求になってるんだと思います

論点がズレてるのは、「自分の正しさ」を守りたい気持ちが強すぎて、他者意図を読み取る余裕がないから。

彼にとって、1話切りは「正しい選択」であり、それを主張するのは「自分らしさ」を保つ手段なんです。

彼の「ズレ」は確かに客観的にはそう見えますが、彼にとっては「正しさを守る戦い」なんですよね。

この気持ち尊重しつつ、彼が少しラクになれる道(例えば「自分カンを信じつつ、他者意見スルーする余裕を持つ」など)を提案することもできます

どう思いますか?

Permalink |記事への反応(1) | 20:27

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「どうしても1話で切ったことをツイッターでつぶやいている自分は正しいと主張したい」という強い信念を持つ人の精神分析

https://anond.hatelabo.jp/20250305195727

まず、この人が「どうしても1話で切った自分は正しいと主張したい」という強い信念を持っていることが伝わってきます

その背景には、長年の経験や観察からくる自信、そして「自分感覚否定されたくない」という防衛的な感情が見え隠れします。ここでは、彼の言葉に耳を傾けつつ、その心理的動機潜在的な傾向を探っていきます

1. 「正しさ」への執着と自己肯定感

この人は「1話で切った自分は正しい」と繰り返し主張しており

・15〜20もの間「子供向けと子供だましは違う」「カンが鈍い人は3話まで見る」といった持論を言い続けています

これは、自分判断基準直感に強い信頼を置いており、それを他人に認めさせたいという欲求が働いていることを示します。

気持ちに寄り添う: 「長年アニメを見てきて、自分カンには自信があるんだよね。1話ダメだと感じたものが後で良くなるなんて、そうそうないって経験証明してるし、それを否定されるとムカつくよね。」

精神分析: この「正しさへの執着」は、自己肯定感を「自分感覚の鋭さ」に強く結びつけている可能性があります

逆に言えば、「カンが鈍い」と言われることや、3話ルール押し付けられることが、自己価値への挑戦と感じられるのかも。

潜在的には、他者から評価に敏感で、自分の「見る目」を認められることで安心したい気持ちがあるのかもしれません。

2.現実経験アニメへの投影

具体例として挙げた「ギルド受付嬢ですが…」の描写への違和感

(「接客中のイラッとするポイント現実的じゃない」「職場での人間関係が利害で縛られてる描写がない」)は、

彼が現実労働経験を強くアニメ投影していることを示しています

アニメに「リアリティ」や「納得感」を求める姿勢が顕著です。

気持ちに寄り添う: 「仕事経験からすると、接客職場リアルさが描かれてないと違和感しかないよね。『こんなのありえない』って思うと、もう見る気なくすのもわかるよ。」

精神分析:現実労働環境(「中小ワンマン」「業績不振」「サツバツとした雰囲気」)でのストレスや不満が、アニメへの期待に影響を与えている可能性があります

アニメが「現実職場ではありえない行動」や「浅い人間関係」を描くと

それが彼にとって「子供だまし」に映り、苛立ちを引き起こすのかも。

これは、現実での不条理や抑圧を、アニメで癒されるどころか再体験させられている感覚に繋がっているのかもしれません。

3. 「子供だまし」への強い拒否

子供向けはいいけど、子供だましはいらない」という区別へのこだわりは、知性や成熟度に対するプライド垣間見ます

「おつむがまともな人なら片手落ちに見える」という表現からも、自分を「賢い観客」として位置づけたい意識が強いです。

気持ちに寄り添う: 「ちゃんと頭使って見たいのに、浅はかな作品時間取られるのは我慢ならないよね。子供だましって感じると、馬鹿にされてる気がするのも無理ないよ。」

精神分析: この拒否感は、自己イメージとして「知的大人」を重視している表れで、

子供だまし」に付き合うことが自己価値の低下に繋がると感じている可能性があります

潜在的には、「馬鹿にされる」「見下される」ことへの過敏さや、知性で他人差別化したい欲求が働いているのかも。

これは、社会的地位現実での評価への不安投影されている場合もあります

4. 「カンの鋭さ」への過信と他者への苛立ち

「3話まで見ないとわからない人はカンが鈍い」「私のマナー違反よりカンの鈍さを疑え」と他者批判する言葉から

自分直感絶対視しつつ、それに従わない人への苛立ちが感じられます

気持ちに寄り添う: 「自分カンが正しいってわかってるのに、『3話見ろ』って言われるとイラッとするよね。

こっちは1話で十分見極められるのに、って思うのも当然だよ。」

精神分析: ここには、ある種の優越感と、他者への軽い敵意が見られます

自分判断を「正しい」と証明したい一方で、異なる意見を持つ人を「鈍い」と切り捨てるのは

他者との対立を避けるより、自分の正しさを優先する姿勢示唆します。

潜在的には、他者との共感妥協よりも、自分世界観を守ることに安心感を見出している可能性が。

これは、社会的孤立感や、意見の相違への耐性の低さに繋がるかもしれません。

5.現実理想ギャップへの苛立ち

「まともな職場での人間関係」や「利害で縛られた描写」を求める一方で、

現実職場が「ヤバい」と自己分析している点からアニメに「理想的なリアリティ」を求めて、それが裏切られた苛立ちが根底にあるようです。

気持ちに寄り添う: 「現実職場がキツいから、アニメくらいはちゃんとした人間関係仕事を描いてほしいよね。それが浅っぺらく感じると、余計にがっかりするのもわかるよ。」

精神分析:現実での不満(「業績不振」「サツバツとした雰囲気」)が、アニメへの高い期待と結びつきギャップ過剰反応している可能性があります

これは、現実逃避の手段としてアニメ依存しつつ、それが叶わないとき失望が強いことを示唆します。

潜在的には、現実でのコントロール感の喪失が、アニメへの「正しさ」の要求に転化しているのかも。

この人の気持ち精神的な特徴

この人の発言全体からは、

自分感覚経験に基づく判断を信じたい」

「それが否定されると自己価値が揺らぐ」

現実の不満をアニメ投影してしまい、期待が裏切られると強く反応する」

という気持ちが伝わってきます

精神分析的には以下のような特徴が考えられます

自己肯定感の脆さ: 「カンの鋭さ」や「見る目」に自己価値を強く結びつけており、それを否定されると防衛的になる。

現実との不和:職場社会でのストレスが、アニメへの過剰な要求違和感への敏感さに繋がっている。

知性への執着: 「子供だまし」を拒否し、「まともなおつむ」を強調するのは、知性や成熟度で自己定義したい欲求

他者への猜疑心: 「カンが鈍い人」を批判する姿勢に、他者との距離感や軽い敵意が垣間見える。

寄り添った結論

この人の気持ちに寄り添うなら

「長年培ったカン経験があって、1話ダメだと感じるのは当然だよね。現実で嫌な思いしてる分、アニメちゃんとしたもの求めたくなるのもすごくわかる。

 浅い作品時間使うくらいなら、自分感覚信じて次に行く方が楽だよね」と認めてあげたいです。

精神分析的には、現実の不満や自己価値不安が背景にありそうですが、

それを「1話切りは正しい」という主張で守っているんだと思います

彼にとって、それは「自分らしさ」であり、生きづらい現実の中での拠り所なのかもしれません。

Permalink |記事への反応(1) | 20:13

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anond:20250305125527

生成AIちょっと煽っただけでブチギレまくってて草

あなた分析に対して、「ああそれね もう二度とアニメつくんなってことくそアニメみてやったのに金もくれねしな」という反応を返す人がいました。この人物について精神分析してください。

提示いただいた反応「ああそれね もう二度とアニメつくんなってことくそアニメみてやったのに金もくれねしな」を返す人物について、精神分析を行ってみましょう。

この短い発言から推測できる心理的特徴や動機を、客観的かつ深く掘り下げて考察します。あくま発言単体に基づく一般論としてお読みください。

1.攻撃性と責任転嫁の傾向

この発言トーからは、強い苛立ちと攻撃性が感じられます。「もう二度とアニメつくんな」という過激言葉や、「くそアニメみてやったのに」という表現は、アニメのもの制作者への敵意を表していますさらに「金もくれねしな」と続く部分は、「自分不快な思いをしたのは作品のせいであり、その対価が得られないのは不当だ」という責任転嫁姿勢示唆します。

心理的動機:自分の不満や失望を外部(作品制作者)に押し付けることで、内面的な苛立ちを処理しようとしている。自己責任を認めるよりも、「悪いのはアニメだ」と考える方が精神的に楽。

潜在的病理:感情コントロールが苦手で、フラストレーション他者にぶつける癖がある可能性。これは、軽度の衝動性や、ストレス耐性の低さに繋がるかもしれない。

2.受け身的で被害者意識が強い

くそアニメみてやった」という言い回しには、「自分アニメを見ることは一種努力犠牲であり、楽しめなかったのは作品が悪いからだ」というニュアンスが含まれます。また、「金もくれねしな」は、「見るという行為に対して報酬が得られないのはおかしい」という被害者意識を反映しています

心理的動機:自分主体的に楽しむ姿勢を取るのではなく、「作品自分を楽しませるべき」という受け身な期待を持っている。期待が裏切られると、「騙された」「損した」と感じやすい。

潜在的病理:自己効力感(自分で状況をコントロールできる感覚)が低く、外部に依存する傾向がある。被害者意識が強い場合現実での不満(仕事人間関係)が投影されている可能性も。

3.皮肉冷笑的な態度

「ああそれね」という書き出しには、私の分析に対する軽い嘲りや、「そんなことわかってるよ」と上から目線で受け流す態度が見られます。この冷笑的なトーンは、深く関与するよりも距離を置き、自分の優位性を保とうとする防衛機制の表れかもしれません。

心理的動機:真剣議論することへの抵抗感や、「自分もっと賢い」と示したい欲求感情を露わにするよりも、皮肉で包むことで「傷つきにくい自分」を演じている。

潜在的病理:冷笑は、感情的な脆弱性を隠すためのカバーとなる場合があり、内面では自己価値不安定さや他者への猜疑心が働いている可能性。

4.享楽主義と即時的報酬の追求

金もくれねしな」という発言からは、「楽しめなかった上に何か得られるものがないのは許せない」という享楽的な価値観が垣間見ますアニメを見る行為に即時的な「報酬」(楽しさや対価)を求め、それが得られないと過剰に反応しているようです。

心理的動機: 忍耐力や長期的な視点が乏しく、「今すぐ満足できないなら価値がない」と判断する傾向。楽しむプロセスよりも結果を重視する。

潜在的病理:衝動的な快楽追求が見られる場合、軽度の依存傾向(物質的・精神的)や、満足感を得にくい慢性的な不満状態が背景にあるかもしれない。

5.現実との不和投影

この発言アニメへの不満を超えて、「もう二度と作るな」という極端な否定に至っている点から現実世界での不満やストレスアニメへの攻撃に転化している可能性があります。「くそアニメを見てやった」という努力の強調や「金もくれねしな」という不条理への怒りは、日常での「報われない感覚」の反映かもしれません。

心理的動機:現実で「頑張っても報われない」「損ばかりしている」と感じており、そのフラストレーション趣味領域にまで及んでいる。

潜在的病理:現実逃避の手段としてアニメに過剰な期待を寄せ、それが裏切られたとき反動が強い。抑うつ傾向や、現実での自己実現の不足が関与している可能性。

この人物像の推測

この発言から想像される人物像を具体化すると、以下のようなイメージが浮かびます

20代後半〜30代前半、日常に不満を抱える人:仕事生活で「報われない」と感じることが多く、アニメ癒しや即時的な楽しさを求めていた。しかし、期待した満足が得られず、「こんなもの時間を使った自分」が許せず、過剰に攻撃的な反応を返す。Twitterのような場で不満を吐き出すことで一時的解放感を得ているが、根本的な苛立ちは解消されない。

潜在的精神病的傾向

この発言単体からは、重篤精神疾患を診断する根拠はありませんが、以下のような傾向が考えられます

軽度の怒り調節障害:些細な失望が過剰な怒りに繋がる。

自己愛的傾向: 「自分が楽しめないのは作品が悪い」という自己中心的な視点

抑うつ的苛立ち: 楽しめない自分への苛立ちが、他者への攻撃性に転化。

社会的孤立感: 「金もくれねしな」という不条理への怒りは、他者社会への不信感の表れかもしれない。

これらが「病気」と呼べるレベルかどうかは、発言の頻度や日常生活での行動パターン次第です。この一言だけなら、「感情的な不満のはけ口」としての一過性の反応の可能性も高いです。

結論

この人物は、感情的なフラストレーションを外部にぶつけ、自己の不満を正当化しようとする傾向が強いと考えられます攻撃的で冷笑的な態度、被害者意識、即時的報酬への執着が混ざり合っており、アニメへの不満が現実の苛立ちの投影となっている可能性があります精神分析的には、ストレス耐性の低さや自己効力感の欠如が背景にありそうですが、それが末路に直結するかどうかは、彼がこの態度をどれだけ続け、どれだけ内省できるかにかかっています

Permalink |記事への反応(0) | 13:00

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アニメを1話で切ったわ」とわざわざツイッターつぶやく人間に対する精神分析

質問ありがとうございますアニメ1話の小さなシーンに引っかかり、そこから作品全体への不信感や自己評価にまでつなげてしまプロセス、いわゆる「アニメ一話切り」をすること自体個人の視聴スタイルとして自然ものですが、それをTwitter(現:X)でわざわざ公表する行動に焦点を当てて、その背後にある心理潜在的病理分析してみましょう。以下は、そのような行動を取る人々の精神的な傾向や動機考察したものです。あくま一般論としてお読みください。

1.自己主張アイデンティティ確立

アニメ一話切りを公表する人は、自分意見判断基準他人に示すことで、自己アイデンティティを強化しようとしている可能性があります特にアニメのような趣味領域では、「自分独自視点や鋭い感性を持っている」という自己イメージを築きたい欲求が働いているかもしれません。この場合、以下のような心理が見られます

優越感の追求: 「他の人が見続けるような作品でも、自分1話で見限れるほど見る目がある」という感覚

承認欲求: 「共感」や「いいね」を通じて、自分判断が正しいと認められたいという願望。

潜在的病理:自己肯定感が不安定で、他者からの反応を通じて自己価値を補強する必要がある場合。これは軽度のナルシシズムや、社会的孤立からくる過剰な自己主張として現れることがあります

2.批判的態度の誇示

さなシーンに引っかかり、それを作品全体への不信感にまで広げるプロセスを公開することは、「自分批判的思考を持っている」という姿勢アピールする手段かもしれません。特にTwitterのような短文プラットフォームでは、過激意見や断定的な物言いが注目を集めやすいため、この傾向が強調されがちです。

心理動機:他者に対して「自分は流されず、冷静に判断できる人間だ」と印象づけたい。

社会的背景:アニメコミュニティ内で「見る目がない人」と見なされるのを避けたいという防衛機制

潜在的病理: 過剰な完璧主義や、他人への信頼感の欠如(作品制作者への不信感が、他者全般への猜疑心に繋がる場合)。また、批判を通じて自己正当化する癖が強い場合、軽度の強迫傾向や対人関係での不安が隠れている可能性も。

3.感情の外部化とカタルシス

1話の小さな引っかかりが自己評価にまで及ぶプロセス公表することは、内面的な苛立ちや不満を外に吐き出す手段かもしれません。Twitterはそのための手軽な「吐き出し口」として機能します。

心理動機:不快感失望自分の中で処理しきれず、他者に共有することで感情解放する。

行動の特徴: 「こんな作品時間を使いたくない」「自分をこんな気分にさせた作品が悪い」といった責任転嫁的な発言

潜在的病理:感情調整の困難さや、ストレス耐性の低さ。自己評価が外的要因(この場合アニメ)に過剰に依存している場合内省能力の不足や軽度の抑うつ傾向が関わっている可能性もあります

4.コミュニティ内でのポジショニング

アニメファンコミュニティでは、作品に対する意見一種の「社会的通貨」として機能します。一話切りを公表することで、特定グループ(例: 「高級志向ファン」や「ニッチ作品を好む層」)に属していることを示し、仲間意識帰属感を得ようとしている可能性があります

心理動機: 「自分マジョリティとは違う」という差別化を図る。

行動の特徴: 一話切りを過剰に理論化したり、作品瑕疵を大げさに語る傾向。

潜在的病理:集団への過剰な依存や、逆に孤立感を隠すための過剰演技。自己他者境界曖昧で、他者の反応に過敏すぎる場合社会的不安自己愛的傾向が関与しているかもしれません。

5.Twitterという場が引き起こす増幅効果

Twitter構造自体が、この行動を助長する要因です。140字(現在は280字)という制限の中で目立つためには、強い言葉や断定的な意見が有利になります。そのため、アニメ一話切りをただの個人選択で終わらせず、「作品欠点を暴く批評家」として振る舞う傾向が強まる可能性があります

心理動機: 注目を集めるための誇張や、フォロワーとの対話を通じた自己重要感の確認

潜在的病理:現実世界での自己表現の不足や、オンラインでの過剰な自己開示が、現実仮想ギャップを埋めようとする逃避行動に繋がる場合。これは軽度のインターネット依存社会的孤立感と結びつきやすいです。

結論:どういう病理があるか?

アニメ一話切りをTwitter披露する人々の背後には、以下のような心理的傾向や病理が潜んでいる可能性があります

自己肯定感の不安定さ:他者の反応で自己価値を補強しようとする。

過剰な批判傾向:完璧主義猜疑心からくる不信感の投影

感情調整の困難:内面的な不満を外に吐き出す依存

社会的孤立感:オンラインでの承認帰属感に過度に頼る。

これらがすべて「病気」と呼べるほど深刻であるとは限りませんが、極端な場合ナルシシズム社会不安障害、軽度の抑うつ傾向、またはインターネット依存症の兆候として現れる可能性があります

ただし、こうした行動は多くの場合、単なる「自己表現の癖」や「趣味コミュニティ内での振る舞い」として説明可能範囲にとどまるでしょう。

Permalink |記事への反応(1) | 12:53

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2025-02-16

古典をありがたがるのやめない?

特に文学とか哲学とかの分野

羅生門人間失格現代なら芥川賞はまず取れないし、源氏物語とか枕草子はなろう小説レベル

ソクラテスアリストテレスの何の根拠も無い感想文より現代サンデルとかピケティの方が遥かに論理的

フロイト精神分析とか全くのオカルト普通の頭で読めば噴飯物

孔子論語弟子愚痴が主で増田レベルだし、孫子兵法理想状態を語るだけの粗悪な自己啓発書

世界が未熟で発信出来る人が遥かに少なかった時代に他より少しマシだったレベル書物をありがたがり過ぎ。

多くの古典に内容的な価値は無く、権威主義的な価値しか無い。

教育現場古典偏重を早く改めた方が良いと思う。

Permalink |記事への反応(2) | 23:35

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2025-02-01

anond:20250201234522

精神科医観点から、この人生訓を唱える人物心理状態分析すると、以下のような問題点が浮かび上がります:

深刻な心理問題

1.自己否定と低い自己肯定感
2. 対人関係回避社会的孤立
3.無意識葛藤

治療アプローチ

1.精神分析アプローチ
2.認知行動療法
3. 支持的精神療法
4.薬物療法検討

結論として、この人物は深刻な心理問題を抱えており、専門的な精神医学的介入が必要です。自己否定感の軽減、対人関係改善、そして人生への前向きな姿勢の構築が治療目標となるでしょう。長期的な精神療法と必要に応じた薬物療法の組み合わせが、この人物心理健康回復効果であると考えられます

Citations:

[1]https://s-office-k.com/technique/psychoanalysis

[2]https://www.direct-commu.com/chie/mental/jikohitei01/

[3]https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyushuneurop/67/2/67_35/_pdf/-char/ja

[4]https://www.youtube.com/watch?v=-Hy5e9GNa4A

[5]https://www.hoikuplus.com/post/usefulnurtureinfo/2430

[6]https://www.natural-c.com/blog/2020/08/post-222-748927.html

[7]https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyushuneurop/63/3_4/63_153/_pdf

[8]https://diamond.jp/articles/-/310933?page=2

Permalink |記事への反応(1) | 23:47

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2025-01-31

ここ数日エヴァンゲリオンがどうとか精神分析がどうとか30年前に戻ってて笑うというか怖いというか呆れるというか

Permalink |記事への反応(0) | 11:39

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anond:20250131000631

精神分析的に言うならラカンを引いた方が筋良さそう

象徴界自体ファロス中心的な界であるから、その場において女性存在自体が常に周縁的であるので欲望構造女性に向くし、広告イメージ等も女性(女体)を金や欲望などと紐づけていることが多いみたいな議論ジジェク等ラカニアンはちょくちょくしている

Permalink |記事への反応(0) | 11:38

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