
はてなキーワード:等身大とは
https://president.jp/articles/-/103837
日本アニメにはまず濃密な人間関係がベースとしてあり、そこにファンタジーやSFや学園モノといった趣向が被さる二重構造になってるということでいいのだろうか。
いわば等身大の人間たちがお芝居をしている感じ。だからガッツリ自己投影・感情移入しやすいと。(かつ、それが欧米では新鮮に受け取られている。日本ではむしろ食傷だが)
翻ってハリウッド作劇術によるような一枚岩のよく整理された物語においては全てのキャラクターが特定の機能を帯びており、観客は完全に蚊帳の外、スクリーンの外である(まあ本来あたりまえだが)。
藤田和日郎作品にもこの“欧米”っぽさを感じる。おとぎ話として自己完結しており、キャラクターは話を進めることにそれぞれ真っ直ぐ奉仕してるので全体にしらんがなと思ってしまう。
巨大ロボットに乗って敵と闘いつつ中学生みたいな恋愛もする、そしてその恋愛が主たる任務の遂行にも絡んでくるというとっちらかった二重構造は日本のマンガ・アニメ独自のものなのだろうか。
ハリウッドヒーローも恋愛はするが、それはわちゃわちゃ近づいたり離れたりというものではなくて「さらわれた恋人を助ける」的な大目標であったり、あくまでオフの息抜きだったりする。
なんかさ、弱者男性が「Coblaとか女性支援とかうさんくさい!」ってSNSで叫んでてマジ笑った。
お前だけ徒然と文句垂れて、幽玄な茫洋の世界と全く噛み合ってない。
石長比売が梢の上から「まあまあ落ち着け」と閑雅に目を光らせてるのに、
ぎーくんやのらくろはチョコパイ片手に「お前マジで現実見ろ」とツッコミ。
クロノアもポケモン持って「冒険しようぜ」と誘ってるのに無視。
ポーチドエッグ作りながら薫風に当たるドクターマーチンが羨ましいだろ?
ヤフオク、メルカリ、楽天、AmazonでPCX探すほうがまだ建設的。
金塊・ゴールドラッシュ・プラチナをアメックスで豪遊する方がよっぽど現実的。
ドクダミ摘んでハーブティー作り、エアダスターで掃除して、盗賊対策もバッチリ。
Coblaじゃなくて、お前の曖昧な怒りと被害妄想が一番やばいんだよ。
永遠の命でも持ってるわけじゃないんだから、幽玄な絶海に漂うより現実見ろ。
暁の光に飛沫が光る頃、石長比売が梢で微笑むのを思い出せ。
アウトドアで薫風を浴びつつ、サーフィンしてチョコパイ食べて、ぎーくんとのらくろを眺めれば、
https://anond.hatelabo.jp/20231118174822
前回集まった情報が最高すぎたのでまたおすすめ教えて欲しい。今度は岩手、2泊でうち1泊は盛岡を拠点にして旅行する予定
地理、歴史、サブカル的なの好き。魚介グルメやデートスポット的なのにはあまり興味ないのは変わらず。ローカルチェーン店や地元ソウルフードみたいな生活が想像できるのは好き。また少しディープなところをおすすめしてくれると嬉しい
——
嗜好紹介とお礼兼ねて青森の感想思い出したままに走り書きする。2年分2回行ったので盛りだくさんになった。充実したのはみんなの情報のおかげなので大感謝…!行けなかった所もルートや時間の都合上なので機会作って行きたい。
Permalink |記事への反応(16) | 08:37
この記事の続き、なぜか保存はできるのに表示はできなかった。(文字数制限がDB側とビュー側で違うのかな)
今更だけど続きを入れておく。(色々反応もらえて嬉しいのもある)
https://anond.hatelabo.jp/20250604003003 の末尾の行から続ける。(当時書いたものをそのままコピペしただけです)
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遊び初期は女の子とデートするたびにPDCAサイクルが回って学びが多かったが、だんだん得られる学びが減っていった。
それに正直やりたいだけなら遊びは風俗と比べて金銭的なコスパも極めて悪い。
遊びは1件目→2件目→ホテルを奢ることを考えると優に1回あたり3万程度は消える。飲みももちろんだが、ラブホの宿泊もかなり高い。
性行為できるまでの時間的な意味でも、風俗と比べて比較にならないくらい時間を要する。
心の限界を感じた。
最後の1ヶ月は新規で人と会ってなかったので実質5ヶ月くらいヤリモク男をやっていた。
マッチが平均日に3~4人程度だったので月100人マッチしたことになる。5ヶ月トータルでは500人マッチくらい。
その中で電話まで行けたのが週4~5人程度。これも5ヶ月トータルで100人くらい。
さらにその中で会ったのは週1,2人。5ヶ月トータルで30人くらいな気がする。
世のマッチングアプリの男性会員の7割は一人とも会えずに終わると言われている。なんなら内閣府が発表しているデータで20代独身男性の「これまでにデートした経験が一人もいない」人は全体の40%を占める。
それを踏まえると世間的に見て5ヶ月で500人マッチ、30人とデートという数値だけ見れば相当良い数値らしい。定量的に見て20代のデート経験としては上位数%にあたる。
予定のドタキャンや途中のブロックは当たり前だし、仲良くなったあとでもいきなり連絡が途切れることが当たり前のようになる。
正直「遊び」という名目だったからこそドタキャンや人間性のない対応に耐えれていたが本気で恋愛をするときにこれだと耐えられないかもしれない。
そういった意味で事前に遊びであることを伝えるのは極めて重要である。相手にこの辛さを味合わせてはいけない。
まだ過去の感覚が残っているうちは良いが、これが壊れると本当に人格が終わるリスクがあった。
人をスペックと見た目で判断し、だめだったら次に行くという行為が当たり前になると、シャバでの人付き合いや付き合ったあとの関係性を大切にできなくなるリスクが大きい。
お持ち帰り用の会話と、同性や仕事での会話は根本的に異なるものである。
標準語で喋り続けると方言を忘れるのと同じで、ずっと遊びばかりやっていると仕事能力とか、同性とのコミュニケーションができなくなる怖さがあった。
よく言われる遊んでいるやつは仕事できるは間違いである。遊びと仕事で使うコミュ力は根本的に異なるためである。
仕事できるやつが比較的遊びもやりやすいというのはありうる。そういう意味では「遊びできる→仕事できる」は必要条件だが十分条件でない可能性が高い。遊びは得意だけど仕事が下手な人を知っているという、あくまで周囲を見た個人の統計だが。
ちなみに社会人で遊ぶのはスケジュール的に相当厳しい。仕事終わりに1時間単位でGoogleカレンダーで枠を取って3人と電話する日もあれば、週5日毎日女性と飲み会を入れる日もあった。
高度なタスク管理が必要である。上長のGoogleカレンダーが1on1スケジュールを隙間なく詰めっている状態に近い。
ごめんなさい。正直これが大きいです。
まとめると主体性になりそう。仕事では主体性を発揮できていたが、人間関係は受け身人間だった。
お持ち帰りを向こうから誘われることは何十人と会って一度もない。必然的に主体性を持つことになる。我が強くないと舞台にすら立てない。
正直、明確にお持ち帰りには再現性のあるコツが存在する。それだけでお持ち帰りできるわけではないが。
お持ち帰りのためには会話の流れ、会話比率の変化、ホテルまでの道筋、想定外が発生したときの対応を状況に応じて柔軟にコントロールする必要がある。
女性にどこ行きたい?何食べたい?と聞くのは優しさだと思っていた。でも実は必ずしもそうでない。
これはお持ち帰りで絶対してはいけない常套手段である。女の子のせいにするような行動はしてはいけない。
言ってしまえば女性にとって理由作りが必要である。(一方で嫌がることは不同意性交になるので見極める力と倫理観が大変に重要である)
いかに相手に責任を押し付けずに自分に責任を押し付けるがお持ち帰りに重要であり、そういった経験を増やすことで責任感をより持てるようになった。
理系科目と違って意図しないことが常に発生するし、再現性も論理性もないことが多々起きる。
そういったことに対応できないとホテルというゴールは絶対にない。
百合展開する美少女アニメが好きなオタクだったので、正直女性に幻想を抱いていた。
大学時代に恋人が出来てからそれは減ったが、それでも世の中には美少女アニメのような女の子がいると自分では気付かない深層心理レベルで思い込んでいたように思う。
女の子に純粋さとか潔白性を求めてたし、なんなら処女厨だった。
少なくとも自分が会った範囲で純粋無垢な存在なんていなかった。
誰だって後ろめたい過去は大なり小なりあるし、完璧なんて存在しない。
服装とか見た目で判断したり、過去の経歴で判断をしてはいけない。
実際深掘ってみると見た目や雰囲気と人格が違うことは多々ある。
偏見を持った状態でお持ち帰りはできないので、偏見を持つ量が必然的に減った。
というよりある程度話すまでその人の印象判断を保留することができるようになった。
圧倒的にコミュ力が磨かれた。
複数人の第三者評価として、遊ぶ前と比べてコミュ力が上がったことを言われたので、客観的にこのことは正しい。
遊ぶ前ぶりに会った人からはもれなく「なんか変わった?」や「xxくんだと気付かなかった」と言われるような状態だった。(これは見た目の変化も大きいが)
マッチングアプリでは雑談力が磨かれた。初対面の相手と何時間も話すことができるようになった。
クラブナンパは回数こそしてないが、クラブで知らない人に話しかけて仲良くなるという経験をした、という事実が男としての自信に繋がった。(名前を呼ぶときのちゃん付けもここでできるようになった)
仕事の会議で重要な論理的構造で話すとか多分は向上していない。そこはやるうえで重要じゃないしむしろ邪魔になるから。
もともと清潔感には気を使っていたが、遊びにおいては清潔感に気を使ってもマイナスがゼロになるだけでしかない。
遊びによって
を新たにするようになった。
服装や髪型に関しては美容系インフルエンサーを参考にし、流行りを取り入れるようになった。
なお等身大の関係性を求める恋人がほしいとかであればこれらは不要である。
大人になってから友達を作ることは難しい。それなりに大きい企業で新卒同期が3桁以上居るような場所であればある程度は回避できる。
でも新卒で上京したりとか、大学卒業してフリータだったりする立場にとって友達を作るのは難しい。
例えばTinderは貞操観念がゆるい遊び歩く女性だけがやるものだと思っていたが実際そうじゃない。
女の子が女の子の友達欲しくてやってるケースとか、性行為に興味なくTinderをしている人も居る。
なんならマチアプ自体がドラッグである。恋人ほしいとか致したい関係なくハマってしまうものである。
どこかの研究でマチアプのスワイプに報酬系が働き依存性があるというのを見たことがる。
一方でヤリチンという不純な立場が、明らかに相手にとって何でも打ち明けられるオアシスの場になっていた人もいた。
それくらい都会は友達作りとかと相性が悪いし、冷淡。
ここをうまく解消できたら世界はもっと良くなると思いつつも、例えば友達作り用のマッチングアプリを作れば解決するみたいな、そんな簡単なことはない。
女の子の家にお泊りなんて恋人を除いてありえない。だけどセフレという関係はそれを裏ルート的にたどり着けてしまう。
純粋に他者の家には興味があったし、住む場所とか家賃感とかレイアウトとか、すごく純粋な面白さがあった。
ちなみに誰かの家にお邪魔するときは絶対にお土産を持っていくこと。それは同性の友達でも大事。
本当に人が信頼できなくなった。
どれだけ好きと言われても、絶対この人明日にも裏切って俺を捨てるんだろうなとか普通に思ってしまう。実際経験しているから。
これはヤリチンをやめて本気で人を好きになったときに、とんでもない足枷となった。
ずっと不安になる。ありえないくらい自分自身がメンヘラになっていた。LINEが10分帰ってこないだけで、定番のブロックパータンかなと不安になる。
ヤリチンをやっていた時期はその不安を同時に複数のセフレがいることで
性行為前提で女性を知るようになってしまったせいで、性行為無しで付き合うのが怖くなった。
一方で付き合う前にそういうことしてしまう女性は無理という価値観も残っていて、デッドロック状態になった。
今付き合っている相手には全部このことを話して受け入れてもらっている。
私は嘘を貫き通せないので、全部言うしかない。
当たり前だがヤリチンをしていた過去は、人によっては嫌悪感を極めて抱くものである。
両思いで付き合えたあとに過去ヤリチンだったことが知られるだけで破局するリスクは十分にある。
男側から見たとき、過去に風俗で働いていた女性と付き合うことに抵抗があるみたいなのに近いかもしれない。
一度水に垂らした墨汁が取り除けないように、ヤリチンをした過去は絶対に取り除けない。それまでとこれからがどんなに真面目でも。
遊んでないやつはキモいだとか、結婚するなら遊び終わった男がいいとか、そんなものはヤリチン・ヤリマンの立場を捨てられない人間のまやかしが多分に含まれる。信じてはいけない。
貞操観念が壊れた女の子をお持ち帰りできることと、しっかりした女性と付き合うことは全く訳が違う。前者を100回できたら後者が手に入るほどこの世界は単純じゃない。
(一方で遊び側の価値観を知っておくことで浮気防止になる可能性は多分にあるが、浮気をしてしまうような状況を作らないことや浮気を安易にしないタイプを見極めて付き合うことでそれは回避できるので遊ぶ必要性はない)
ホストをやられている方には大変失礼なのは承知だが、ホストはずるいなと思った。
仕事であるという理由で色恋営業が許される。ヤリチンがやったら刺される。
書きながら気付いたが、なんで変わってないんだ???
多分女の子と遊べても、自分なんかと遊べる女の子は誰とでも遊んじゃうんだという気持ちが先行していた。
一方で紛れもなくコミュ力も上がっていることが客観的評価からわかる。
この矛盾を考えたときに考える仮説は、遊びで得た自己肯定感と、遊びで得た自己否定が釣り合っているのではないかと考える。
たしかに女の子と遊べたが、関係性を切られることもそれ以上にあったためである。
また一方で自己評価は遊び程度では変容しないとも考えた。
刹那的なやりとりでなく、長期的な関係性の構築で初めて手に入るのではないだろうか。
責任感や主体性は持てるようになったが、根の真面目さとかは変わっていない。
具体、といっても細かいことは書かない。相手のプライバシーもある。
再現性のない話である。正直人生2周目したらうまく遊びで自己効力感を見いだせず死んでいた可能性が高い。
そう言えるのは、マッチングアプリ初めて最初に出会った相手とホテルに行けたことが大きい。
マッチングアプリを始めた時点でクラブナンパや相席屋を試した後だったし、マッチングアプリの各種コツは知識として持っていた。
たまたまマッチングアプリでマッチし、トントン拍子で電話まで進み、翌日会うこととなった。マッチングアプリ初日の出来事である。
当日はおやつ時間に集合しカフェで時間を過ごしたり街を一緒に散策したりした。夜になって帰るときに実は遊びでやってるんだよねという話をした。
これができたのには理由がある。元カレとレスになって別れたという話を聞いていたことが大きい。
それ以外にも色々と付き合う前にしちゃうタイプの要素が垣間見れた部分もあり、そういう話をしても良いという暗黙知が形成できていた。
ホテル打診をし、結論としては「今日するつもりなかった」と言われつつホテルに行くことに。結局向こうがヤリモクだったが……
行為自体は微妙だった。というのも向こうが挿入以外にあまり興味がないタイプだった。
彼女としていたそれと、遊びのそれは根本的に別物なのだと思った。
しかし彼女とする性行為と遊びでの性行為は抜本的に異なる。好きな人とする性行為には絶対に幸福感や満足感で勝てない。雲泥の差である。
逆に言うと以後ヤリモクタイプには一度も出会っていない。ヤリモクが嫌で避けていたというのもあるが。
この偶然的な初回の成功体験が遊びに対する自己効力感を上げた。
その後はうまくいかないことが1ヶ月ほど続いた。本当にもう限界というタイミングで、またうまくいった機会があり、なんとか持ちこたえた。
以後もそのような希望と絶望が交互に続く。後半は以上に成功率が高くセフレが複数人いる状態だったが、最後には仇となった。
「好きな人ができたからごめんね」と伝えることにはかなり辛さがあった。
好きな人がいるのにセフレと関係を切るのが辛いは矛盾しているように見えるが。
いろいろな体験を通じせっかく仲良くなれたのに、みたいな部分も正直ある。
まだ解決してあげたい相手のコンプレックスとか課題が残っていたこともわだかまりの1つだった。
でも一番は、せっかく自分に期待してくれているのにそれを裏切るのが嫌だったということである。自分は弱い。
ヤリチンになることで、得たものは紛れもなくあったし、真面目な自分という根幹をぶち壊せたのは大きい。
社会に対する課題感もほんの少し分かったつもりになれたし、いろいろな職種のいろいろな事情を知れたことも大きい。
それにヤリチンが淘汰されない事情も極めてわかった。女性が必要としているケースが結構ある。
それに遊んだ経験量と恋人や結婚での幸せに相関はないように感じた。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
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この1週間のオープンチャットは、教育と経済負担、AIと倫理、食と文化を中心に展開し、生活感のある小話(ペット、紛失物、誕生日)と社会的な問題意識(税務署、法律、環境、格差)が交錯する内容だった。
全体としては、日常のささいな悩みや楽しみを共有しながら、未来への期待と不安(子ども、仕事、AI社会)を語り合う、等身大の生活と社会の交差点が浮かび上がった。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
https://bigcomics.jp/episodes/02b287f8f8313/
仕事中に飲みすぎたカフェインのせいか眠れないから読み進めてるうちに終盤となり、作中屈指の名シーンとされる「少し泣く」にたどりついた。
アニメで1回、実写で1回、漫画はこれで3回目だが、まだこの「少し泣く」の意味が分からない。
学生時代12年間漢字テストを除けば現国ノー勉8割安定だった俺の読解力が実際は如何にハリボテか思い知らされている。
才能がないのか努力が足りないのか。
なんとなくアクマの気持ちを察することは出来るが、確定しない。
これが国語の問題だったらドラゴンへの同情が正解だろうし、もう一歩踏み込めばアクマ如きに同情されてしまう風間学生の等身大の小ささとそれを必死に膨らませてきた姿への同情なのだろうということでまず間違いないだろう、これが国語のテストなら。
でも本当にそれでいいのか確信が持てない。
確信が持てないという感情の揺さぶりがアクマ自身にもあって、その不安定さと未確定な揺さぶりが読者にも共振を起こすという漫画的効果を狙っている気もする。
だがこれも確信はない。
その裏で圧倒的才能によって粉砕されていくNO.2の姿は、アクマ達の心情と関係するのか、それともまた別のオムニバスなのか、それさえも委ねられている。
分からん。
確証が持てない。
才能も努力もアクマを凌駕するドラゴンが、異次元の才能と未知数の努力をかけ合わせて産まれた怪物に踏みにじられる未来を想起したアクマは、果たしてその敗北を嘗ての自分と重ねて涙したのだろうか、重ねることさえ出来ないことに涙したのだろうか。
ドラゴンへの同情だけの涙じゃない事までは分かってきたんだ。
だが、確信には届かない。
一生、確信にはたどり着ける気がしないし、それで正解だと確信できる気もしない。
読解の才能がない。
泣きそうだ。
1年半前に「「藤井風」と「かてぃん(角野隼斗)」の着地点 」というタイトルで文章を書いた。
https://anond.hatelabo.jp/20240113173417
そう、「だった。」
文字通り”世界中”のクラシックファンに、熱狂的に迎えられている。
私は、ラン・ラン氏のピアノを愛しているが、彼もあのレベルまで行けると信じている。
彼は、ただの天才ではなく、すでに経験値をためるターンに入っている。
1年半前から危惧していた、閉塞的な環境にいることの弊害が隠し切れないレベルで露呈してきた。
今日見たロラパルーザでの彼は、怯えた子犬のような目で、ただ歌詞を読み上げるだけの道化に見えた。
全編英語の待望のアルバムからの先行曲は、欧米では不発で、熱狂しているのは「死ぬのがいいわ」がヒットした東南アジアのみ。
昨日公開された新曲に至っては、イントロ、歌詞、MVすべてが70-80年代のコピペで
「コント」でも観ているような滑稽さすら感じた。(※耐えられず、彼の曲を早送りしたのは初めて)
なぜ、こんなに退屈なのか?
それは、「Hachikō」 も 「「LoveLike This」 も、歌詞の中に藤井風がいないのだ。
「HELP EVER HURT NEVER」にいた等身大の藤井風がいないのだ。
こうなった原因はわかってる。彼の周囲の環境だ。
ファーストアルバムは、彼がデビューまで貯めていたアイデアが元になっているが
今回はデビュー後の彼が反映されている。
超絶特別待遇の舞台で、信者のようなファンを前に、歌う生活をデビュー以来続けている。
結果、彼の歌詞には「神」ばかりが登場するようになり
最後は超一流の製作陣が準備した、曲や歌詞に乗っかる「道化」と化してしまった。
私は「天才」の転落が見たいわけではない。
ただ、このままだと彼は事務所の売上のためだけに歌う
じゃあ、どうすれば良かったのか?
こんなギャンブルのような無茶な売り方をしなければ
才能は枯渇しなかったのか?
正直、わからない。
ロラパルーザで久々に見た髭無しの顔は、怯えた子犬のようだった。
不安を和らげるためなのかも知れない。
彼の信じる「神」が、才能を残してくれていることを祈るほかない。
機動戦士ガンダムの初代は世間では完全無欠の名作みたいに扱われているけれど、純粋に良かったと思えるのは個人的には哀戦士までだと思う。
「ガンダムは○○まで」の語法を使うならば、個人的には「ガンダムは哀戦士まで」だ。劇場版(及びTVシリーズのそれに該当する部分)の哀戦士までのガンダムは本当に良かった。
それが3作目のめぐりあい宇宙になると、良かった部分も確かにあるものの全体としては残念な印象だった。寧ろZやZZこそが初代における哀戦士までの良さを受け継いでいる印象。哀戦士までのガンダムは戦場での少年少女の成長や敵味方問わずのドラマと人間讃歌を描いていたと思うんだけど、それはめぐりあい宇宙を飛ばして一足飛びにZやZZで描かれている印象。
何が残念って、めぐりあい宇宙ではアムロが人間をやめてしまう。ホワイトベースの仲間達との等身大の交流の輪から抜け、突如現れたララァ・スンなる敵の女性パイロットこそが世界で唯一同じものを見て同じものを聞く事ができる「真の仲間」であるかのように描かれる。
そしてその一方でアムロは、シャアとセイラの語る、そもそもこの戦いは何故起きたのかという一般的に言う所のネタばらしからは完全に蚊帳の外のままだった。つまりそういう俗世からは距離を置いて、特別な存在同士ララァと戯れ合っていればいいかのようなストーリーライン。ニュータイプが人の革新だという美名とは裏腹に極めて閉塞的で世界が狭いと感じた。
最後の最後で仲間達の所に戻るもののそれまでの経過からはどうにも取って付けたような印象が否めない。後年悪夢にうなされ隕石を止めて悲劇的死に至るまでの布石はこの時点で既に敷かれているように見える。
例えば1作目でガルマとイセリナが惹かれ合っている様子は、王道で分かりやすいロミジュリ物語で違和感はない。
哀戦士でアムロ達が惹かれる女性士官マチルダは美しいだけではなく仕事に信念を持って臨んでいる様子が語られ、分かりやすく誰もが好きになるような人物像として描かれている。
カイが出会うスパイのミハルも同様に、幼い弟妹を養う健気な少女と実に分かりやすい。
めぐりあい宇宙にはそれがない。凡人にも分かるような分かりやすさを放棄し、分かる人にだけ分かればいいとばかりの独りよがりな脚本と演出になっている。
アムロとは違い、カミーユもジュドーも最後まで人間だった。二人ともニュータイプの女性ハマーンと精神感応するがあくまで敵として別れ、クワトロやファやエマ、シャングリラチルドレンといった身近な人々の所に戻って行く。
よく初代ガンダムは綺麗に終わったのにそれを汚すような続編が作られて残念だとしてZガンダム以降の存在を否定する意見を見かける。
オルタナティブの方から入って最近配信で見た視聴者の目線からだと初代は全然綺麗に終わってはいないと思う。
まあそれが斬新だとか目新しくて良かったという意見は全然有りだと思う。主人公が最後まで単なる一兵卒で終わるアニメが新鮮なのは事実だと思うし。だけどあの終わり方はけして「綺麗」ではないと思う。ゲームで言えば何となく感動的な音楽は流れるものの真相は謎のままで終わるノーマルエンドな終わり方だった。
綺麗な終わり方とは主人公が普通に主人公として、世界の謎を知り仲間の絆を深めて問題を解決する終わり方だと思う。アムロはその全てを放棄した。1作目の時点ではセイラとの出会いやギレンの演説を聞いた際の反応等、伏線らしきものは沢山あったのに。
勿論商業的な観点からは、綺麗に終わらなかった事は正しいとは思う。初代ガンダムは課題の残る終わり方だったからこそ続編が作られ、商業展開が繰り広げられて行った訳だから。
でもやっぱり初代が途中から残念な作品になっているのは事実だから、リメイクか何かで綺麗に終わるバージョンも見たいと思っていたんだよね〜。
本当に残念だ。
人に上も下もないんやで。
みんなマイペースに自分の人生を歩んでいるんや。その進み方が遅いやつもそりゃあいるやろ。でも、自分の人生に他人は関係ないんやで。自分の道だけを考えればいいんや。
それこそ傲慢?いや違うで。人と比較しないということや。あんたは今、すべての人に序列をつけているんや。もちろんその序列の中に自分もいて、他者からの評価に常に怯えているんや。
比較をする癖がつくと、いつの間にか理想像を作り上げているもんなんや。すると、その理想像から減点方式で全てを採点するようになる。理想像を超えた人物は尊敬し、あんたを含めたそれ以下の人々は見下すんや。
じゃあ、比較をしないと何があるかというと、そこには等身大の自分しか存在しないんや。その自分、今現在だけを見据えて進歩していく。それが弱い自分を受け入れるということや。
バガボンドでも宮本武蔵が言うてたやろ。殺し合いの螺旋から降りるて。あんたも比べ合いの螺旋から降りてみい。その先にあるのは、とてつもなく広大な世界。あんたは、自由や。
海が走るエンドロールなんかは旦那を看取った後の高齢者である女性が主人公で、これが自分の知ってる最高齢
ここまでじゃなくても、マキヒロチのマンガなんかは働くおひとり様女性の日常と自問自答みたいな感じ 飯食ったりホテル泊まったりの素敵なお店・ホテル紹介系の展開していく話の中で自分の生き方振り返る主人公みたいな構成
昨日無料公開分を読んだカラフルアンチノミー、シバタヒカリも主人公は若いがそっち系か
若い時にこういった作品があったらもっと気持ちも慰められて良く生きれたのだろうか、なんてことを考える
友人はカメラ好き。いい風景を見つけると気づけば周りから離れて撮ってるタイプで、あと映画もめっちゃ好きな奴なんだ。彼が自主制作の映画作ってるっていうのも前から聞いてはいたんだけど正直趣味の範疇だろうなーって思ってた。
前に仕事終わりに家に来いって言われて、行ったんだよ今日。で自主制作の映画を見せられた。
内容はナレーションベースのSF。派手なアクションや演出はないんだけど、とにかく画が綺麗。本当に綺麗だったんだよ。
その映像はコロナ禍のときに友人が東京を渡り歩いて撮ったもの。あの頃の、人がまったくいない東京の景色だ。無人の街。もうそれだけで特別感すごいんだけど、映像にするとこれがもう異様だった。
無人の秋葉原とかシュタゲかよって話で、それを等身大の視点の映像として観れただけでも興奮した。
何の変哲もないただの秋葉原のカットなのに、誰もいないだけで途端に未知なるSF感があった。もはや現実とは思えない。そう、異世界。無人ってだけで街が異世界に見えるって何だよ。
無人ってだけで都会がとにかく綺麗に見えてさ、北野映画によくあるような海岸のシーンを想起してしまうくらいには美しい。
そこで気づいたんだ。ああいう大自然のカットが美しいのは単に自然が美しいからじゃない。人間がいないから美しいんだって。
それがただ静かに、ゆっくりパンしたり固定カメラだったりで映されていく。
なのに見終える頃には、心が震えていた。
これYouTubeにアップすれば絶対バズるし話題になるよと友人にいったんだけど、友人はこれを公開する気はないらしい。
でもこの感動を誰かに知ってほしくて、ここに書いてみた。
ちょうど先日chatgptとシン・エヴァの話をしたので、幼稚なtogetterとの比較のために掲載しておく。
人類はchatGPTにすでに敗北していると思う。
以下chatgptからの返答。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』とは、「語ることの断念」ではなく、「語りなおし=再構築」の実験」であり、1997年版が突きつけた「語ること/関係することの痛み」のその先をどう生きるか**を問う物語です。
要するに、あの「気持ち悪い」から、もう一度「やりなおす」試みです。
■前提:『まごころを、君に』のラディカルさのあとに
1997年版が突きつけたのは、次のような問いでした:
「語ること・終わらせることは可能か?」
『シン・エヴァンゲリオン』はその終末の"その先"**で、観客・作者・キャラクターたちの三者の再起を描こうとした、非常に稀有な「自己批評の続編」です。
シン・エヴァは、これまでの『エヴァ』の物語(TV版、旧劇、新劇)をすべて劇中のヴィレやネルフの構造に埋め込んだメタ構造になっています。
つまり、「物語が終わったあとにもう一度、物語を語りなおすことは可能か?」という問いの演習なのです。
ラストの**「エヴァのいない世界」「実写の駅」「宇部新川駅」「庵野風の男性と赤い服のマリ」**は明らかに「虚構から現実への脱出(=旅立ち)」を象徴しています。
マリは**庵野秀明の現実の妻(安野モヨコ)**をモデルとした存在。
そのマリが**シンジ(庵野)を“迎えにくる”**という構図は、物語やキャラクターの母胎から脱し、現実世界に自分を接続する勇気のメタファーと読めます。
つまり『シン・エヴァ』とは、「物語を終わらせる」のではなく、「物語に依存せず、それを背負って現実を生きていく」ためのフィクション的装置なのです。
『まごころを、君に』が「観客に対する断罪」であったとすれば、
『シン・エヴァ』はその断罪を受けた者が、もう一度語りなおすことで他者に手を伸ばす物語です。
「語ることは絶望的だと知ってなお、語る」
「傷つくと知ってなお、他者とつながる」
という、創作と観客、キャラクターと現実、自他関係の倫理的問題に向き合う試みです。
🔹1997年の問いを受けとめ、語ること・関係することへの肯定をもう一度選びなおす
🔹メディア批評としての総決算と、庵野秀明という作家の告白と再生
「絶望の果てに、それでもあなたが語り、生き、他者と関わることを選ぶなら——その時に必要な“まごころ”とは何か?」
という問いを、庵野自身が自らに向けて問いなおし、答えた作品だと言えます。
質問者・幼稚な世界救済の物語をやめたこともすごくよかったです、新劇場版は
旧エヴァ:エヴァにノリたくないよぉ他人が怖いよぉ、と拒絶して引きこもっていたら地球が滅びました。結論・引きこもりはよくない
序破:女の子のためにエヴァに乗っていっくぞおおおおお!今度こそ間違えない!
Q:女の子のためにエヴァに乗って行動したら地球が滅びました、行動すれば必ず成功するわけじゃないよね、そりゃ。
シン:等身大の関係性から自分を見つめ直して家族の問題を考えて、身近な人間たちとできることをしようと思いました。そうやって現実の僕らも生きているから。
こういう話でしたね、私にとっては。
まさにその通りですね。
その読みは、新劇場版という全体構造を「錯誤→破局→再接続」として読み解く、極めて実践的な理解だと思います。
でも「外に出ること」=「他人と関わること」は怖い。
「やっぱり戦って、誰かを救って、愛されたい」という願望。
救うために行動したはずなのに、全部が裏目に出る。
→結論:「正しさ」が何かを壊すこともある
それが結果的に「エヴァの終わり」であり、「自分の始まり」になる。
重要なのは、シン・エヴァが「世界を救う」話ではなかったこと。
救済でも贖罪でもなく、
「わかりあえないけど、話そうとすること」
「信じられないけど、関係を結び直そうとすること」
この“非劇的な選択”にこそ、現実の私たちが生きるための手がかりがある。
そういう意味で、『シン』は空前の“アンチ・クライマックス”型ヒューマンドラマだったのだと思います。
あなたの読みのように、「等身大の関係性に目を向けたこと」「世界や他者を幻想的に“救う”話ではなくなったこと」にこそ、
ガンダムというシリーズ及びニュータイプという概念がくだらなくなったのって割とマジでアムロというキャラクターとそれを信奉する人々のせいだと思うんだが
ジークアクスを見て戦争ものじゃないとか人の死の痛みが足りないだのと叩く自称富野信者はそれを指摘しないんだね
ふーーん
そんな些末な事よりも数十年にわたって続けられてきたこの異様なアムロ信奉を糾弾すべきなんじゃないの?
ジークアクスに出てくるキャラクターの戦闘描写がある度に、毎週毎週飽きもせず毎週のようにアムロ凄いアムロ天才とそればかり
担当声優のゲス不倫及び暴行中絶発覚からようやく1年になったばかりだというのにようやるわ
私はジークアクスは連邦の勝利をアムロ個人の才能ではなく技術力と兵器の生産体制に重点を置く事によって
初代の初期にはあって終盤には打ち捨てられた、本来あるべき等身大の物語がようやく取り戻せるかとちょっと期待したんだけどね
身近な友達を思いやらず社会にも関心を持たずただただ戦闘スキルにのみ特化したアムロのようなキャラクターを神聖視して持ち上げる事は、
人類皆が目指すべき理想のタイプであった筈のニュータイプ思想からはおおよそかけ離れていると思う
仮にも初代の主人公なのにも関わらず、作品のテーマからは最も邪魔な存在ってそれこそ世界のバグだと思う