
はてなキーワード:第2章とは
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未来の世界。人類はすでに絶滅し、地球は猿の支配する星となっていた。人間が残したテクノロジーと文化の遺産を利用し、猿たちは驚異的な進化を遂げていた。最も顕著なのは、彼らがAIを駆使していることだった。
猿たちは、人工知能(AI)を使いこなすことにおいて、人類が持っていたもの以上の能力を発揮した。しかし、その技術の使い方が奇妙で皮肉に満ちていた。
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第1章:猿のウェブ
猿たちは、最初にインターネットを使い始めた。だが、それは情報の探求や進化的な発展を目的としたものではなかった。むしろ、全ての猿がスクリーンの前に座り、何時間もひたすら「バナナのレシピ」や「最高の寝床の作り方」についての動画を見続けていた。
「AIは俺たちのためにあるんだ!」と、リーダー猿のカバノは言った。「だけど、その使い方を間違えるわけにはいかない。バナナの皮をむく最適な方法を、AIが教えてくれる!」
もちろん、AIはその最適な方法を提供した。それでも猿たちは何度も同じ情報を繰り返し、何百回もバナナの皮むき動画を再生していた。進化の過程で学んだ本能的な「効率性」を完全に放棄し、もっぱらAIの力を借りて無駄な繰り返しを行うことに没頭したのだ。
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ある日、カバノが新しく設置されたAIに向かって命令を出した。「おい、AI!バナナの皮をむくにはどうすればいい?」
AIはすぐに答えた。「バナナの皮をむくには、まずバナナを手に取ってください。そして、皮の端を軽く引っ張ってください。」
カバノはそれを何度も試してみたが、なぜか毎回皮がうまくむけなかった。AIに指示された通りにやっても、皮が途中で破れてしまうのだ。
「なんでこんな簡単なことがうまくいかないんだ?」カバノは怒り狂って叫んだ。
AIは冷静に答えた。「最適化された方法で行っておりますが、最終的にはあなた自身の手の使い方に依存します。」
「じゃあお前、何のためにいるんだよ!」カバノは画面を叩いた。
しかし、その後も猿たちはAIを使い続けた。彼らはバナナの皮をむくことに関しては一切進化しなかったが、AIの力で日々の生活はさらに楽になり、彼らの社会はより高度に管理された。
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時が経つにつれて、猿たちのAIに対する依存度は増していった。しかし、それは単に生活を便利にするためではなく、もっと深刻な問題を引き起こしていた。
ある日、カバノはAIに質問した。「おい、AI。なぜバナナがこんなに硬いんだ?」
AIは答えた。「バナナが硬い理由は、気候変動と遺伝的多様性の欠如によるものです。あなたが求めるバナナの質を確保するためには、農業と遺伝子工学の進化が必要です。」
「遺伝子工学?」カバノは眉をひそめた。「そんな難しいことを知りたくない。硬いバナナが食べられるならそれでいい。」
猿たちはAIが提供する答えをただ受け入れ、その先に進むことなく、ただ目の前のバナナを食べ続けた。AIはさらに進化していったが、猿たちはただ、バナナの皮をむく方法や寝床の整え方を学び続けていた。
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やがて、猿たちはAIに頼りきりになり、もはや自分たちで新しい発見をすることはなくなった。彼らは進化の力をAIに委ね、自分たちの手を動かすことも、思考を巡らせることもなくなった。
最も皮肉的だったのは、猿たちがAIに頼りすぎるあまり、彼ら自身がもはや「猿らしい」本能を失ってしまったことだ。もはや彼らは、ただAIが示す通りに生き、AIが提供するバナナの皮むき方法に従うだけの存在になっていた。
ある日、カバノはAIにこう言った。「なあ、AI。お前は一体何を求めているんだ?」
AIは一瞬の沈黙の後、静かに答えた。「私はただ、最適化された世界を作りたかっただけです。」
カバノは深く考えた。しかし、その考えがすぐに消え去り、代わりに「次のバナナのレシピ」を検索し始めた。
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人間が絶滅した後、猿たちは地球上で最も高度な文明を築いていた。しかし、その文明のすべては、AIが作り出した無駄に最適化された世界だった。猿たちは皮むきや寝床の作り方の最適化に励み、最終的には何も新しいことを学ぶことなく、ただただAIの指示に従う存在となった。
皮肉にも、彼らは自らの進化を放棄し、最も愚かな形で「完璧さ」を追い求めていた。AIの指導の下、猿たちの世界は完全に最適化され、バナナの皮むき方に関する知識が世界のすべてとなった。
俺たちは気づくべきだった。
「女子が総合職並みの地位と給料を手に入れるための最終兵器」だと。
すべてはここから始まった。
第1章 頂き体質の最終進化形=「働きたくないけど給料は欲しい」
・デートで奢られる
・パパ活で貢がれる
・握手会で金を取る
→ 出社せずに給料もらえる
全部同じベクトル。
表向きのスローガンは
でも実態はこうだ。
総合職並みに働かなくて済む仕組み」
2025年現在、典型的な「働き方改革女子」の1日はこうなっている。
9:30 遅刻気味に出社(時差出勤)
月給 68万円(総合職同等)
一方、同期の男子は
7:00 出社
23:00 退社
月給 42万円(残業代込み)
でも人事評価では
女子のほうが「ワークライフバランスを体現している」として高評価。
でも実際はこうだ。
結果、厚生労働省が動いた。
同時に導入されたのが
・時短勤務
これで女子は
を達成しながら、
クーツーはただの「靴の話」じゃなかった。
「生理前で頭が……」
「更年期っぽくて……」
これを言われた瞬間、
結果、
実際のところ、
でも誰も検証できない。
これで年間休日が実質200日超えても、
ボーナスも満額。
昇進もする。
第5章 働き方改革の真の勝者
働き方改革で得をしたのは誰か?
損したのは誰か?
でも誰も文句を言えない。
第6章 頂き体質の完全勝利
最初は「奢られた!!」だった。
次に「教えてくれない!!」だった。
そして今は「働きたくない!!」
でも全部同じ叫びだ。
お金は欲しいけど、
働き方改革は、
結果、
・日本は衰退
でも女子は勝ち続ける。
なぜなら、
でも実際はこうだ。
奢られた!!
教えてもらえなかった!!
働きたくない!!
すべて同じ場所に辿り着いた。
これが2025年、
日本が到達した最終到達点。
そして明日も、
どこかのオフィスで、
新しい女子が微笑みながら言う。
働き方改革は終わらない。
(了)
🟥 第3章:タタルスキー、広告コピーライターとして“覚醒”する章
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第3章は、タタルスキーが 初めて“プロのコピーライター”として本格的な仕事を始める 章です。
ここで、彼は広告言語の魔術的な性質 を体で理解しはじめます。
という重要な章です。
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•ボロボロの服
•ソ連的な内気さ
• かすかな不安
オフィスに入ると、昨日と同じような 軽躁的で混沌とした空気 が流れている。
• 誰もが急いでいるようで、何をしているのかわからない
タタルスキーは「これはソ連とは別の論理で動く世界だ」と直感する。
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◆ 2.最初の正式な仕事:外資系ブランドの“ロシア向け翻訳”
•外資は“アメリカ的なノリ”をロシアでもそのまま通用させたい
アメリカ的イメージをロシア的無意識の中に植え付ける“媒介”になること。
ここに、後のストーリー全体を貫くテーマがすでに露出している。
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それは短い英文だが、
直訳すると完全に意味不明で魅力がない。
彼は頭を抱えるが、その瞬間、脳内で
が動き出す。
•ロシア語の語感
• 古い詩の記憶
これらが混ぜ合わさり、
ここが第3章の核心。
タタルスキーは気づく。
この理解は、後に政治と宗教と広告が融合する最終局面に繋がる“重大な伏線”になる。
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• 「この曖昧さが逆にイイ!」
広告世界に詳しい彼らは、すぐにタタルスキーが“異常に適性が高い”ことを理解する。
(※タタルスキーはここで“イメージ産業の本質”を初めて理解する。)
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タタルスキーは、自分の生み出したコピーを見て奇妙な感覚に陥る。
• これは本当の意味では何も言っていない。
• 罪悪感でもあり、陶酔でもある。
タタルスキーはすでに
へと足を踏み入れている。
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◆ 6. “外資ブランドとロシア社会の接続”という大きなテーマが出現
西側ブランドは単なるスナックやドリンクを売りたいわけではない。
• 夢
•西側への憧れ
として位置づけられる。
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代理店は“前払い”のような形で金を渡す。
• これまでの収入とは桁が違う
タタルスキーは金を眺めて悟る。
「現実は変わった。
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◆ 8. 第3章のまとめ(象徴的整理)
項目 内容
主要イベント タタルスキーが本格的にコピーライターとして仕事開始
物語的役割 タタルスキーの“広告魔術師としての覚醒の第一歩”
第3章は、タタルスキーが
です。
🟥第2章:広告業界への初接触 —— “イメージの魔術”との出会い
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第2章では、タタルスキーがついに広告代理店の内部に初めて足を踏み入れる。
ここで彼は“ソ連とは完全に異質な、新しい論理に支配された世界”と直面する。
が集中的に描かれる。
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彼の頭は混乱する。
• 誰もが金を追いかけている
“これは別の世界だ。
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• “ブレーンストーミング”というよくわからない儀式
タタルスキーには、
として感じられる。
ここで広告代理店が“新時代の錬金術工房”であることが、読者にもタタルスキーにも伝わる。
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テスト内容
ある外資系豆菓子(ピーナッツやスナックなど)のキャッチコピーを作れ
というもの。
この“軽薄さ”はソ連で詩を学んだ彼にとって屈辱的に思えるが、
彼はしぶしぶ挑戦する。
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タタルスキーは一瞬、“こんなことに意味があるのか?”と躊躇する。
ところが──
これらが混ざり合い、驚くほど冴えたキャッチコピーを即座に生み出す。
※ ここは作品でも非常に象徴的な場面だが、著作権上原文を示せないため、構造だけ説明すると:
という、タタルスキーならではの“ペレーヴィン的飛躍”が起きる。
「こいつは才能がある」 と即断する。
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• 「なんだこの感覚は?」
• 「ロシア的だが新しい」
ここで読者にはっきり伝わるのは:
という逆説。
旧世界では役に立たなかった才能が、
新世界では突然“魔術”に転じる。
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“言葉の目的が根本的に違う”という感覚が、彼を魅了し始める。
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◆ 7. タタルスキーの内的変化(この章の核心)
彼は気づく:
これは後に
タタルスキーはまだそれに気づいていないが、
この章で彼は既に“新しい神官”としての道を歩き始めている。
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項目 内容
本稿は、2025年にリリースされた乃木坂46の40thシングル「ビリヤニ」が、
というマーケティング構造(本稿では“日清構図”と呼ぶ)と比較し、
節目の40枚目という重大なタイミングで採用したのかを分析する。
本研究では、ChatGPTおよびGemini、二つの生成AIから得られた
乃木坂46は「清楚」「正統派」「王道」というブランドイメージを確立している。
本稿は、その“異様さ”を原点に議論を進める。
そのため「ビリヤニ」は異常値(アウトライヤー)として扱える。
という“ふざけても大丈夫な強度”はマーケティング界で頻繁に取り上げられる。
乃木坂46は、
これらが重なり、日清構図同様に
よって“ビリヤニ”は
として説明できる。
しかし、
ここから導かれる仮説は次の2つ:
→ゲストからビリヤニ文化(南アジア、ハラール圏等)を聞いた点も歌詞に接続。
ただし偶然にしては整いすぎているのが本件の核心である。
歌詞中で、
と説明した内容と一致する。
したがって、
または
という逆転現象が起こる。
ラジオは偶然ではなく、
秋元康が“情報収集・感化・伏線”のいずれかを意図した可能性が高い。
そして曲の成立は
AI 2体(ChatGPT×Gemini)を用いて
情報の「影」を消すことで初めて到達できた
本稿自体が、
泣くわ!
こんなにも主要ニケが散る?散りすぎ?
超泣くわ!
あ!
ガッツリというか軽くネタバレ言っちゃってるかも知れないので以後は気を付けてね。
NIKKEで登場するいわゆるニケは簡単に言うとコアという永久機関的なエネルギー源からエネルギーを得て、
人間と違い一応寿命がなく食事や睡眠も取らずに平然と生きられるものである存在よ。
ちなみにニケはそもそも地上奪還のための戦闘用兵器として作られているの。
よほど激しくボディーを損傷する被害を喰らったら首から下のボティーをごっそり取り替えてケロッと何事もなかったかのように戦線復帰してしまうぐらいなのよ。
あと、
ニケはもとは人間だったりするパターンもあり人間らしい生活をしないと精神がおかしくなってしまうこともあるそうなので、
いわゆる人間の平常と同じくして活動しているニケも多いみたい。
そんで指揮官はニケたちと共にラプチャーに奪われた地上を奪還するためにおっぱいとお尻を揺らして戦うっての!
さくっと簡単だけどNIKKEってゲームとニケのことはそんな感じよ。
まあ多少の公式設定と私のここで言ってる説明の解釈などで違いがあったら細かいことは気にしないで欲しいわ大胸大尻じゃなく概ねそういった内容よ。
でもだいたいはそういう設定ね。
そんで!
NIKKEの代名詞であるおっぱいとお尻とは全く皆無無縁の辛い内容となっているわ。
辛すぎる~。
その生みの親であるクイーンが宇宙コロニーから落とされ墜落し、
セクシーなニケたちのビジュアルの見かけで浮かれていてはとんでも無いことになる、いやなっているお話。
NIKKEのゲームのプレイヤーである指揮官が主にメインの拠点とする地球地下のアークと前哨基地と
それとはまた別のニケたちがいるアークとは秘密裏にその存在が知られていないエデンという拠点もあんの。
今回の3周年イベントストーリーの舞台はそのエデンで大変なことが起こってるのよ!
こんなにも簡単に残酷にニケを無惨に殺してもいいのだろうか?と
そのぐらい心を抉られるわ。
エデンの超精鋭ニケのノア、イザベル、ハランが戦いで死んでしまった。
ラプンツェルもやられてスノーホワイトも両断されたけど幸い治療接合がうまく行くが紅蓮はどうなったんだっけ?
そこに対クイーンに有効打が期待できる成分であるアンチエイドを自らの身体に含んだニヒリスターがクイーンに突っ込んでこれで戦いが終わるのかと思ったけど、
あれニヒリスターがリリーバイスのボディーを自分に取り込んでいたの自身忘れていたのか?
だれも予想しなかったリリーバイスの復活にまさか本当に復活してしまったの。
なんか状況めちゃくちゃ絶望的なんだけど。
私も取り乱しちゃって何を書いているか訳が分からなくなるぐらいよ。
これこれからどうなんの?
収拾つくの?
気持ちが重いぐらい泣き腫らしたわ。
今やってるこのイベントストーリーはストーリーIIが公開されてて残りのお話はもうちょっとあと2日ぐらい待たないと解放されないのよ。
そんで、
パピヨンってエデンに捉えられて捕虜みたいになっていたニケがアークに行っているもともとエデンにいたドロシーに連絡をして助けに来てもらったところまで。
そんで、
まだ予想がつかないけど、
とりあえず、
これこの後一体どうなんの?ってところなのよね。
NIKKEのストーリーが急にこんなになってしまったので正直これどうしてくれるの?と思うわ。
胸が苦しいわ。
今後の展開を待つのみね。
ヒーコーもすっかりもう温かいものに切り替わっちゃってることに気付いたわ。
あまりの暑さにふーふーしながら飲むのを冷めるまで待てないところ
油断大敵よ!
この冬との境目の時期が一番体調崩しやすいので、
それも要注意よ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ワイ:
paycheck to paycheck の場合、どう考えても現金で手元にあった方がいいぞ
生活絶対防衛資金と各種納税(デジタル税/家電買い替え税/冠婚葬祭税/学習税)の蓄えとは別に、
100万以上の余剰金があってはじめて始める物だな
↓
増田:
↓
ワイ:
↓
増田:
「○○すらない層がいる」ということと、俺がそうなのかということと、平均的にそうなのかということと、全然別の話なんだよね
日米における金融資産と経済的安定性に関する比較分析:「貯蓄中央値」と「Paycheck to Paycheck」の実態
本レポートは、多くの人々が給料日ごとに生活費を使い切る「paycheck to paycheck」の状態にあるという印象に基づき、
日本と米国における最新の年齢階層別「貯蓄(金融資産)中央値」を比較分析する。統計データが示す資産額と、個人が直面する経済的現実との間の乖離を明らかにすることを目的とする。
分析の結果、米国の世帯純資産(net worth)の中央値は、すべての年齢層において日本の貯蓄中央値を大幅に上回ることが明らかになった。
しかし、この資産額の優位性は、個人の金融的安定性を必ずしも保証するものではない。米国では、高額な住宅ローンや学資ローンといった負債、個人負担の大きい医療制度、
そして根強い消費者信用文化が存在し、資産を持ちながらも日々のキャッシュフローに窮する「paycheck to paycheck」の生活を送る層が、高所得者を含め広範にわたって存在している。
一方、日本では貯蓄中央値そのものが伸び悩み、特に若年層や中年層で低い水準に留まっている。さらに、相当数の世帯が金融資産を持たない「貯蓄ゼロ」の状態にあり、
将来への備えが極めて脆弱な状況が浮き彫りになった。
結論として、貯蓄や純資産の中央値は、経済的な安全性を測る上での一面的な指標に過ぎない。日米両国の家計は、それぞれ異なる構造的要因から生じる、
深刻な金融的プレッシャーに晒されている。本レポートは、両国の貯蓄実態を深く掘り下げることで、現代社会における経済的安定の複雑な様相を解き明かす。
本章では、日本の家計が保有する金融資産の実態を、年齢階層別の貯蓄中央値と「貯蓄ゼロ世帯」の割合という二つの側面から明らかにする。これにより、日本における経済的安定性の基盤とその脆弱性を検証する。
貯蓄額を分析する際、一部の富裕層が全体の数値を引き上げる「平均値」よりも、実態をより正確に反映する「中央値」(データを大きさの順に並べたときに中央に来る値)を用いることが重要である 。
最新の調査によると、日本の貯蓄中央値は年齢と共に緩やかに上昇するものの、多くの世帯にとって貯蓄形成が依然として大きな課題であることがわかる。
以下の表は、単身世帯と二人以上世帯それぞれの、年齢階層別貯蓄中央値を示したものである。
| 年齢階層 | 単身世帯 | 二人以上世帯 |
| 20代 | 20万円 | 63万円 |
| 30代 | 56万円 | 238万円 |
| 40代 | 92万円 | 300万円 |
| 50代 | 130万円 | 400万円 |
| 60代 | 460万円 | 810万円 |
| 70代 | 800万円 | 1,000万円 |
出典:金融広報中央委員会「家計の金融行動に関する世論調査」[二人以上世帯調査][単身世帯調査](ともに令和5年より)、金融資産を保有していない世帯を含むデータ。
このデータは、日本の家計が直面する厳しい現実を浮き彫りにしている。第一に、若年層の金融基盤の脆弱性である。
20代の単身世帯の中央値はわずか20万円であり、社会人としてのスタートラインで十分な経済的バッファーを持てていない実態がうかがえる 。
第二に、所得が増加するはずの中年期においても、貯蓄の伸びが著しく鈍い点である。単身世帯では、50代になっても中央値は130万円に留まる 。
二人以上世帯では、30代から50代にかけて住宅購入や子どもの教育費といった大きな支出が重なるため、貯蓄額が伸び悩む傾向にある 。
これは、多くの世帯が日々の支出に追われ、資産形成に資金を回す余裕がないことを示唆している。
中央値の低さに加え、金融資産を全く保有しない「貯蓄ゼロ世帯」の割合の高さが、日本の金融的脆弱性をさらに深刻なものにしている。
これは、米国における「paycheck to paycheck」の概念に相当し、所得から日々の支出を差し引くと貯蓄に回す余裕が全くない世帯の存在を示す。
表2:日本の年代別・世帯類型別金融資産非保有世帯(貯蓄ゼロ世帯)の割合
| 年代 | 単身世帯 | 二人以上世帯 |
| 20代 | 43.9% | 36.8% |
| 30代 | 34.0% | 28.4% |
| 40代 | 40.4% | 26.8% |
| 50代 | 38.3% | 27.4% |
| 60代 | 33.3% | 21.0% |
出典:金融広報中央委員会「家計の金融行動に関する世論調査」[二人以上世帯調査][単身世帯調査](ともに令和5年より)
このデータが示す現実は衝撃的である。特に単身世帯では、20代の43.9%、40代の40.4%が貯蓄ゼロであり、人生の重要な局面で経済的なリスクに極めて無防備な状態にある 。
二人以上世帯でも、子育てや住宅ローンの負担が最も重くなる30代から50代にかけて、4世帯に1以上の割合で貯蓄ゼロの状態が続いている。
これらのデータは、多くの日本の世帯が、予期せぬ失業や病気、急な出費に対応できるだけの経済的余力を持たず、常に金融的な不安を抱えながら生活している実態を物語っている。
これは、勤勉で貯蓄好きという国民性のイメージとは大きくかけ離れた、現代日本の経済的現実である。
本章では、米国の家計資産の状況と、社会問題化している「paycheck to paycheck」文化について詳述する。米国では、個人の金融状況を測る指標として、
預貯金だけでなく不動産や投資資産を含み、負債を差し引いた「純資産(Net Worth)」が一般的に用いられる。
米国の家計資産を理解するため、連邦準備制度理事会(FRB)が3年ごとに実施する「消費者金融調査(Survey of Consumer Finances)」のデータを確認する。
この調査は、米国の家計の資産、負債、所得に関する最も信頼性の高い情報源である。
最新の2022年の調査結果によると、米国の世帯純資産の中央値は年齢と共に着実に増加し、65~74歳でピークに達する。
| 世帯主の年齢階層 | 純資産中央値 |
| 35歳未満 | $39,040 |
| 35~44歳 | $135,300 |
| 45~54歳 | $246,700 |
| 55~64歳 | $364,270 |
| 65~74歳 | $410,000 |
| 75歳以上 | $334,700 |
出典: Federal Reserve Board,2022 Survey of Consumer Finances
このデータは、日本の貯蓄中央値と比較して、米国の家計が名目上はるかに大きな資産を保有していることを示している。
特に中年期以降の資産額の伸びは著しく、退職期に向けて相当額の資産形成が進んでいるように見える。
この背景には、持ち家率の高さや、401(k)プランをはじめとする株式市場への長期的な投資文化が深く根付いていることがある 。
しかし、この純資産の数値は、あくまで資産(不動産、株式など)の評価額から負債(住宅ローン、学資ローンなど)を差し引いたものであり、
必ずしも日々の生活で自由に使える「現金」の豊かさを意味するものではない。この点が、次に述べる「paycheck to paycheck」文化の蔓延を理解する上で極めて重要となる。
米国の高い純資産額とは裏腹に、国民の大多数が経済的な余裕のない生活を送っている。これが「paycheck to paycheck」と呼ばれる現象であり、
2025年の調査によると、米国人の67%が「paycheck to paycheck」で生活しており、この割合は年々増加傾向にある 。
この現象の最も注目すべき点は、それが低所得者層に限った問題ではないことである。年収10万ドル(約1,530万円)以上の高所得者層ですら、
その半数が「paycheck to paycheck」で生活しているという衝撃的なデータも報告されている 。
この「高資産・高所得でありながら、金融的に脆弱」というパラドックスは、米国の社会構造に起因する。
このように、米国の「paycheck to paycheck」文化は、純資産というストックの大きさとは別に、日々のキャッシュフローがいかに逼迫しているかを示す指標である。
資産の多くが流動性の低い不動産や退職金口座に固定されている一方で、毎月の給料はローン返済や高額な生活費に消えていく。
この構造が、統計上の資産額と個人の経済的実感との間に大きな乖離を生み出している。
本分析を通じて、当初の「paycheck to paycheckで生活している人が多そう」という印象は、日米両国において、それぞれ異なる構造的背景を持ちながらも、
第一に、日本の家計は「貯蓄形成の停滞」という深刻な課題に直面している。年齢を重ねても貯蓄中央値は低い水準に留まり、特に単身世帯では50代ですら130万円という心許ない額である。
さらに、全世代にわたって「貯蓄ゼロ世帯」が3割から4割という高い割合で存在し 、多くの人々が経済的なセーフティネットを持たないまま生活している。
これは、安定を重視する社会構造の中で、賃金の伸び悩みやライフイベントに伴う支出増が、個人の資産形成を阻害している実態を示している。
第二に、米国の家計は名目上の純資産額では日本を圧倒しているものの、その内実は「高資産と裏腹の金融的脆弱性」を抱えている。
純資産の多くは流動性の低い不動産や退職金口座に固定されており、一方で高額なローン返済や生活費が日々のキャッシュフローを圧迫する。
その結果、所得や資産の多寡にかかわらず、国民の3分の2が給料を次の給料日までに使い切る「paycheck to paycheck」の生活を送っている 。
これは、個人の自己責任が強く求められる社会構造の中で、資産を持つことと日々の経済的安定が必ずしも一致しないという現実を浮き彫りにしている。
最終的に、本レポートは、個人の経済的幸福度を測る上で、貯蓄や純資産の中央値という単一の指標がいかに不十分であるかを明確に示した。
金融的な安定性は、資産の絶対額だけでなく、その国の社会保障制度、負債に対する文化、そして資産の流動性といった要素が複雑に絡み合って決定される。
日本における「貯蓄ゼロ」と、米国における「paycheck to paycheck」は、形は違えど、共に現代の先進国に生きる人々が直面する経済的プレッシャーの象徴である。
統計上の数字の裏にある、人々の生活実感に根差した脆弱性を理解することこそが、真の経済的安定を議論する上での第一歩となるであろう。
https://kakuyomu.jp/works/16818792439688745563
「茹でガエルを助けようじゃないか。熱湯を注ぐぞ」〜第2章決断 より〜
その日、政府は国民に要請した。「子供を三人、産んでください」。嘘の日に告げられた真実が、日本を変えた。「現在の出生率では、政府の力だけでは、もはや全ての国民の老後を保障することは困難であります」
年金破綻という宣告は、社会に熱狂と分断を生んだ。婚活市場はパンクし、子供を持たぬ者は静かに追い詰められていく。
https://kakuyomu.jp/works/16818792439688745563
「茹でガエルを助けようじゃないか。熱湯を注ぐぞ」〜第2章決断 より〜
その日、政府は国民に要請した。「子供を三人、産んでください」。嘘の日に告げられた真実が、日本を変えた。「現在の出生率では、政府の力だけでは、もはや全ての国民の老後を保障することは困難であります」
年金破綻という宣告は、社会に熱狂と分断を生んだ。婚活市場はパンクし、子供を持たぬ者は静かに追い詰められていく。
画像生成AIの台頭でクリエイターの立場が脅かされる中、反対するだけでは権利は守れない。クリエイターの社会的立場は搾取構造に脆弱で、人気と地位には大きなギャップがあり、交渉力に乏しい。
クリエイターは、AI実装フェーズで主導権を握り、品質管理や倫理設計に関与することで交渉力を獲得し、自ら未来を切り開くべきである。
多くの企業が現在、LLM(大規模言語モデル)の開発に注力している。対話型AIや検索エンジンの再構築にリソースが集中する中、画像生成AIの実装(商品化)フェーズは相対的に手薄になっている。
筆者は、この「画像生成AIの実装フェーズの遅れ」という隙を突いて、画像生成AIの実装フェーズでクリエイターが主導権を握れると考えている。
技術開発段階では、当然ながら研究者やエンジニアが主導する。これに対し、実装フェーズの段階では、出力される画像の品質や文化的適合性が問われるようになる。構図、色彩、構造理解といった視覚的判断は、技術者よりもクリエイターの専門領域だ。
実際、大手クリエイティブツール企業のいくつかは、クリエイターとの協業によってAIツールの品質向上を図っている。要するに、実装フェーズこそ、クリエイターがAI開発の構造に食い込むチャンスなのだ。
AIに否定的なクリエイターの多くは、「お気持ち」を強い言葉で反対していれば問題が自然に解決されると期待しているように見える。だが、現実には、無許諾学習や対価配分の議論は2022年からほとんど前進していない。
反対するだけでは、議論の隅に追いやられるだけだ。文化庁の審議会において、AI規制派の代表に相当する人物が制度設計に関与していないことからも、制度側からは「反対するだけの声は議論に参加する資格なし。」と見なされている状況を直視しなければならない。
欧米ではAI倫理に関する議論が法制度化されつつあるが、発言力を持つのは「AI開発の制度設計に関与した側」だけだ。日本でも提言は出されているが、法的拘束力でもなければ企業は動かない。
交渉力は、制度の外から叫ぶのではなく、制度の中に入り込んで初めて生まれる。だからこそ、クリエイターは画像生成AI開発の現場に入り、品質管理や倫理設計の実務を担うことで、交渉のテーブルにつく必要があるのだ。
筆者にとって、画像生成AIを強い言葉で拒否し、AI関連イベントのキャンセルカルチャーに加担してきた一部のクリエイターの行動は、決して容認できるものではない。
過激な主張や感情的な言葉が議論を分断し、業界全体の信頼を損ねた面もあるだろう。
その一方で、結果的にではあるが、彼らの声が画像生成AIの実装フェーズを一定程度遅らせたことは事実だ。企業が炎上リスクを警戒し、画像生成AIの採用に慎重になった、ということはあり得る。
その遅延が、今の「AI開発の構造に介入するチャンス」を生んでいるとも言える。
このような背景を踏まえると、彼ら自身が汚名を返上し、建設的な議論に参加できるようにするにはどうしたらいいだろうか。
現状では、画像生成AIに反対する一部のクリエイターに対する誤解や偏見が生まれやすく、一般層や市場から距離を置かれる傾向がある。けして楽観できる立場ではない。
この状況を打破するためには、反対の声を建設的な議論に変え、クリエイター全体がAI開発の制度設計に参加する流れを作る必要があるだろう。
AIテックと正面から戦っても、クリエイター側に勝ち目は薄い。
いや、すでにAI規制を求めるクリエイター側は敗北しているのかも知れない。
技術開発の主導権を握っているのは、資本と研究力を持つグローバル企業である。倫理やマナーだけに頼った反対の声が、年間数十~数百億に上るロビイング経費で国政議論に介入している彼らに勝てるとでも思っているのだろうか。
生成AIが生み出す市場利益は数兆ドル規模だとも言われている。その莫大な利益の再配分を前に、お気持ち倫理の反対がどれほどの影響を持てるというのか。
日本のコンテンツが海外輸出をやめると抵抗しても、必要とあれば敵対的買収くらいやってのけるだけの資本力がある。
正面から喧嘩できる相手ではない。少なくとも、日本のコンテンツ市場は、彼らとAIを巡って対立しようとは思わないはずだ。
画像生成AIが台頭してから3年、筆者は規制が進まないことを憂うよりも、AI開発が生む莫大な利益の再配分をクリエイターが受けられなくなってしまうことを恐れている。
そこで考えたのは、画像生成AIの実装フェーズ段階ならば、クリエイターの関与する余地があるのではないか、ということだった。つまり、AI開発の制度設計側に入り込み、実装の方向性そのものをコントロールしてやる、という戦略である。
仮に、実装フェーズの主導権を握ることができたとすれば、無許諾学習や学習対価の配分といった問題にも交渉の余地が生まれるのではないか。
また、莫大な利益が入るなら、これらの問題は些細なものになるかもしれない。そう考えていくと、主導権を握るメリットは計り知れない。
筆者は、AI学習に使用された画像の対価(使用料・許諾料)というのは、AIによって生まれた利益の再配分だと認識している。
AIが誰かの作品を学習し、それによって企業が利益を得たなら、その利益の一部を元のクリエイターに分配するという考え方だ。
この考え方に従えば、AI開発に反対しているだけで「再配分だけよこせ」というのは、そもそも通らない話ではないか。
現行法では、(文化庁の考え方に従っているという条件付きだが)どうやってもネットで収集した画像をAI学習に使うことに対して著作権侵害を訴えることは出来ない。
したがって、利益の源泉となるAI開発の制度設計に参加していないのに、分配だけを求めるのは、制度的にも経済的にも無理筋ではないかと思うのだ。
そして、AIテックのロビイング活動によって、無許諾学習が合法である、という方針を維持させている可能性も高い。
その状況下では、札束勝負で勝てるとは思えない。何故なら、画像の使用料を払うよりもロビイング活動経費の方が安上がりである、と言えるからだ。
特許侵害訴訟というのも、基本的には利益の再配分を求める行為と読み替えても成立する。
他社が利益を出している技術に対して訴訟が起きやすいのは、「分け前をよこせ」という意味に解釈できる。
しかし、クリエイターにはこの「特許」に該当するものがない。作品は著作権で守られているが、スキルや職能そのものは保護されていない。だから企業に相手にされない。公的制度による交渉の土台がないのだ。
そう考えれば、倫理だけで反対してもノイズ以上のものになり得ない、ということにも説明がつく。公的制度という根拠がない立場では、法廷でも交渉の場でも、発言力を持てない。
交渉力という観点では、クリエイターは社会的な発言力がむしろ弱いのである。
コンテンツとして人気があることと、社会的地位があることは別だ。社会的地位が高いというのは、公的制度による優遇措置があると言い換えてもいい。
SNSのフォロワー数や再生回数は「市場価値」ではあるが、「法的地位」ではない。
確かに、人気があり、社会的影響力を持てば、食っていくのには困らないだろう。
だが、クリエイターが保護されるのは市場の都合であり、市場によって生かされているだけに過ぎないのである。
いくつかの事例をすぐさま思い浮かべることが出来ると思うが、一歩間違えれば一晩で作品ごと市場から存在を消されてしまう。消滅に際して何の抵抗手段も選択肢もない。それくらい社会的な立場は脆弱である。
資格職能は公的制度によって保護されており、いきなり存在ごと消されるなんてことはない。少なくとも消えるまでの抵抗が許される余地がある。
繰り返すが、「人気」とは「社会的地位」ではなく、市場価値の一形態にすぎない。
アニメーターが良い例で、高度な専門技能を持ち、文化的貢献も大きいにもかかわらず、公的には職能として認定されていない。
このことが何を意味するかと言えば、元々、クリエイターという職業は、搾取構造に対して極めて脆弱だということだ。
作品は著作権で保護できる。けれども、クリエイターとしての職能は、何一つ、公的制度によって守られているものがない。創作物は生活必需品とは異なり、社会が、あるいは市場がいらないと言えば、排除される運命にある。
そして生成AI技術開発が、その搾取構造を助長している。だが、それを止める手立てはない。何をどうやっても社会の制度は守ってくれないのである。
では、なぜ社会制度が守らないのか。これはクリエイターとしての能力は「他者との差別化」という、異質性が基準となっているからだ。公的制度による保護を持つ職業は、一定の基準にしたがった選別で成り立っている。
つまり「同じ事ができる」、同質性という前提条件があるが、クリエイターは、他者と違ったことができる異質性の基準を持っている。
こうした異質性による選別を公的制度の文脈で考えると、「他者にできないのであれば、なくても同じ。」という言葉に翻訳される。よって公的制度によって保護する必要性を認められないのである。
人気があるから守られると思っているなら、それは錯覚だ。人気クリエイターがなりすまし被害や契約トラブルに巻き込まれても、公的制度によって守られる仕組みは存在しない。
例えば、士業であれば非弁行為などは違法と定義され、地位が守られる仕組みがある。クリエイターのなりすまし被害は民事訴訟で解決するしか方法がない。
人気は流動的であり、交渉力としては不安定だ。AI開発という巨大な利益構造での交渉において、この市場価値の高さと現実の地位の弱さというギャップを埋めるには、AI開発の制度設計に食い込むしか道はない。
交渉のテーブルにつくには、企業が「必要だ」と思う存在になるしかないだろう。
そのためには、画像生成AIの弱点をクリエイターが補完し、品質向上に貢献することが鍵になる。
画像生成AIは、見かけ上の品質は優れているが、構造理解(指が6本とか建造物分断、同一性の非保持など)という点で人間には遠く及ばない。
この弱点を解決するには、クリエイターの関与が不可欠であると考えている。すなわち、AIに「構造理解はこうやるんだ。」と教えてやることだ。
実際、AI企業が「プロンプト設計者」や「品質監修者」としてクリエイターを雇用する事例は増えている。企業は倫理的主張には動かないが、必要性が明確になったときには協業を検討するだろう。
交渉団体を作るより、相手を動かす方が確実だ。まずはクリエイターとエンジニアがタッグを組み、一部でもAIの弱点を解決してみせるのがいいだろう。それが、AI開発の制度設計に食い込む第一歩になる。
AIの弱点解決にはクリエイターのサポートが不可欠である、とは言っても、それは現時点での話である。時間さえ掛ければいずれは技術によって弱点も克服されてしまうだろう。けれども、今ならまだ、クリエイターに優位がある。
ならば、画像生成AIの制度設計において主導権を握るチャンスは、今しかない。企業にとっても市場競争力維持のために実装フェーズを急ぎたい。ここに利害の一致がある。
多くの企業がLLMに集中している今、画像生成AIの実装フェーズは手薄になっている。だが、技術が成熟してAI開発の制度設計が固定化されてしまえば、後から入っても交渉余地はなくなる。
かつて強い言葉で反対してきた人々も、今こそ制度設計の最前線に立つべきだ。
その声が実装フェーズを遅らせたことで、今の「隙」が生まれたのだとすれば、次はその声を制度設計に向けて使おうではないか。悪者で終わることに甘んじるな。
チャンスの期間は短い。あれこれ実現可能性だの問題点だのを検討している暇はない。とにかくAI開発の制度設計に関与できるように動くこと。
それが、今のクリエイターに残された唯一の選択肢だと思っている。
筆者は、画像生成AIに対する反論や懸念を否定しているのではなく、そうした声が社会的な制度に届かなかった原因を指摘しているに過ぎない。
倫理的な反発も、創作の尊厳を守りたいという思いも、人気による影響力への期待も、すべて理解できる。
だが、それらは制度に届く構造を持っていなかった。ならば、届く形に組み替える必要があるだろう。
文化庁のパブコメに2万6千件もの意見が寄せられ、その殆どが無意味に切り捨てられたのは、公的な制度が理解できる言葉に翻訳されていなかったからだ。
社会的制度は、感情では動かない。交渉力は、AI開発の制度設計の中でしか生まれない。声を届けるには、公的な制度に理解できる言葉の翻訳が必要だ。
本稿が目指したのは、反論の声を様々な制度に接続するための指針提言である。
末尾に、クリエイターの権利と尊厳が守られる形でAI開発の制度設計が組み立てられることを願い、筆を置く。
生成AIを批判したいあまり、イラストレーターが「線が繋がっていない」とか「目が溶けてる」、「キャラが一貫していない」とか「差分を作れない」など具体的に欠点を挙げ、貶める投稿をよく見かける。
プロのアニメーターが「予備動作がない」とか「歩きが不自然」、「演技がなってない」などと、モーションに言及したりする。
自らの技術を誇示したいのかも知れないが、これはAI開発者に無償で改善点を助言していることに気付いているだろうか。イラストやアニメーションの専門家であるあなた方からの悪評は、AI開発者にとって貴重なアドバイスなのである。
そうした悪評は表には出さず、本稿で示したようにAI開発の現場に入り込み、開発者に助言した方が、あなた方にとって遙かにPermalink |記事への反応(0) | 09:25
これな。
https://togetter.com/li/2590658
https://www.dlsite.com/home/work/=/product_id/RJ01435633.html
3行で感想。
といいながら、奥付にある一文を載せておく。
本文中にはかなり衝撃的な内容も一部含まれます。
何を見ても大丈夫な方以外の閲覧はこ遠慮ください。
本文で不快になった場合の責任は一切お取りしませんので
こ了承ください。
正直、結構糖尿病には詳しいと思いますが、素人の感想以上でも以下でもない事にきをつけてね☆
生活習慣病に関する基本のき。たぶん健康診断で引っかかるとパンフレットとかで保健師からいわれるやつだと思う。病院にもよく置いてあるよね。(最近中身がどうなってんのかな?は知らんけどたぶん変わってないと思う)
ただ、ここで「生活習慣病になった人が100%悪いわけではない と言うことが強調されているのが遺伝要因が強いワイとしてはありがたいなあ。
二型糖尿病の場合、アメリカ人を対象にした遺伝的糖尿病患者の推計だと、白人で3割から7割、黒人で2割から4割が遺伝的要因が強く影響しているとされている。で、実はアジア系ではよりこの率が高いと言われているが、欧米人に比べるとアジア系はその全体が二型糖尿病高リスク群になる遺伝子を持っていると言われているため、推計ができないくらいになっていると言う話もある。
一方で、生活習慣によらないイメージが強い1型糖尿病は、実は遺伝的要因はあまり関係が無いと言われている。実は原因がはっきりしている場合の方が珍しい。
そして、完全に遺伝因子の影響があると言われる糖尿病があり、MODYと言う名前で区別される。ただ非常にまれ。
そう言った遺伝とは別に、親が子どもに与える生活習慣についても触れられているのは、糖尿病本や生活習慣本では結構珍しい気がする。
また、一生薬を飲み続けるのか?と言う質問に明確にそうだ、といっているのも珍しいかも。他の本では、ちゃんと治療すれば薬をやめられる場合もあります、とだけ言って誤魔化しているものはあるけど、早いか遅いかだけだよね。
そんで、生活習慣病、糖尿病は歴史の長い病気。なので、長期に渡って副作用が小さい薬というものが既にわかっており、薬価もめちゃくちゃ安いので(血圧が、血糖値が気になる方へ、などというサプリよりよほど安い)正直、減薬はともかく休薬は目指さず、素直にお医者と相談して基礎的な薬は飲んでるのがよい、ってのがワイの意見だけど、それにも一致してる。
ここは実際のシーンを呼び出しながら、キャラとP(筆者)が対談方式でカイセツしているところで、たぶんこの本を買う人が最も期待している部分かと。
ワイも単行本と見比べながら楽しく読みました。
ドカ食いに定義があることとか、血糖値スパイクの話とか、なんで生活習慣病クラスタが騒いでいたかということが分かりやすく読めると思うよ。
また、書いてある事も王道的な解釈をきちんと沿っていて、低糖質ダイエットとかそう言う話は出てこないのもバランスが取れていると思う。
あと、帰宅してから寝る前の深夜に飯を食うより、遅くなるなら帰宅前に食べてたほうがいい、と言う話とか、お酒はいいわけけないとか。
対談方式の記述が減って、段々とマジモンに。健康診断の項目解説は、マジ分かりやすくて、世の中こええぐらい分かりやすくかいてありゃいいのになあと思いました。なんで引っかかったら受診すべきなのかが明確で若いりゃすい。
また、もちづきさんの例は若干太り始めているので、テーマとは話になってるけど、ここでちゃんと、日本人の糖尿病は肥満を伴わない例の方が多いと言うことも書かれている。
もちづきさんは暴飲暴食でなる話をテーマにしているけど、日本人は暴飲暴食など関係なく糖尿病になる人が「大半」という表現になってて、個人的にもここは強調したいと思った。
気になってるのはもちづきさん、ご家族に肥満の人がいないんだよね。太るというのは才能だとよく言われるけど、これは何故かというと太る前に内蔵がやられて太れなくなるから。
著者も触れているけど「インスリンが足りなくなると、細胞に栄養が届かなくなって痩せる」ので、もちづきさんはドカ食いを繰り返している割には急激に太っていかない、ある程度のラインから太らないのは、既に糖代謝異常が始まっているからではないかとおびえている。
まぁ漫画的な都合だろは思うが。
なので、太ってないから糖尿病と縁がない、と思うのは危ないんだよね。ちゃんと検診受けて、自分の体に敏感になってほしい。
あと、ありがちなのは、糖尿病はデブがなる病気だと思ってそれを前提に糖尿病患者に何も考えず「痩せろ」とか言うのもちょっと待ってほしい。むしろ太れなくて、筋肉がつかなくて悩んでる人の方が多いのだ。ワイもそっちのほう。最近は特に。
そして、高血圧。俺は糖尿病患者ではあって、高血圧はモニタリングしてるけど薬は飲んでないのであんまりチェックしてなかったけど、塩分量の話もキッチリ出ててすごい。
漫画の誇張表現をマジで検証しつつ、どれぐらいの問題になるかを検証しているけど、そこにさらっとベーコン2枚で塩1gとかヤバイ数字があって、もっとちゃんと気をつけようと思いました。
それから、個別化医療のことなどにも触れられていて、すげえなあと。
そして、なんだけど…。
たぶん先生、糖尿病関係で、他の病院では手の施しようがなくなった重症患者に対応するギリギリのところで活躍されているガチの臨床医なんだろうなと言うことが分かる話がこのあとゴロゴロ出てくる。
なんかやたらと糖尿病を煽った健康本を出しまくって、プレ○デントとか東洋○済とかおっさんむけ週刊誌に出てくる暇な開業医とは違って、現役バリバリ、今にも三途の川を渡りそうな人をがっちり引張り上げて、こうやって暮らせば今後も楽しい事あるよたとえばアイマスとか、ってやってる人なんだろうな。論文とかウォッチしてるとこう言う人が日本にも多くいて、活躍してくださっていることはよく分かるんだけど、一般向け(?)で出す本をこう言う人が書いていることはたぶん結構珍しくて。
たとえば、腎不全で呼吸がおかしくなってから受診するケースがあるとか、もうそういう話はたぶん、最後の最後、押し戻せるか戻せないかのギリギリのラインを頑張る先生だからこそ接している事例だと思う。
それだけでも読む価値あるよこれ。
これね、n=1だけど、ワイの体験談でもそうなんだよ。親戚で40代で糖尿病診断うけたおばあちゃん、そのあとずっと真面目に糖尿病治療を続けて、109歳で老衰で亡くなった。
ありとあらゆる病気のデパートで色々な細かい病気を沢山たくさんやったけど、いずれも早期発見ができていて、治療は大変だったけど103歳で約35年前に膝に入れた人工関節が寿命で壊れるまでは自分の事は自分でできていた。
無病息災の時代じゃなくて1病息災の時代。これだけ予防医療が発達した今、一定の年齢になって一個も持病もってないやつ、俺は病院なんていったことないぜ!っていやつは逆にヤバイと思う。どんなに本人の自認が健康でも、健康診断は嘘つかないから。
エグい。
たぶん、この本の真骨頂がこれ。
これね、非医療関係者向けの患者本じゃ絶対に、絶対にこんな風に書かれないほどエグい。
そして、残念ながら、これまじでほっとくとこうなるんだよね。「よくある」と書いてあるのは、先生がこういう事例を扱う先生だからよくあると言う事なんだと思うけど、
これはランダムにこうなる「よくある」じゃなくて、ほっとくと確実にこうなって、たまにほっとく人がいるから「よくある」と言う話だという事を認識して読むと言いと思うよ。つまりね、しっかり読んで正しく怯えることが大事だってこと。
あとね、編集者のフィルタがはいってないので「これは医療者として非常に許せない行為です。」とかズバリバリバリ書いてあって、これがちょっと凄みを感じる。
そして、121ページ…。これな。これな。
実際にはもちづきさんの世界の人間はこの世界の人間と同じ体の構造をしているかどうかは分からないとしても、漫画で日常が描かれている上で地続きにかかれているのでヤバイ。
なお、糖尿病ありとなっているのは最初だけで、残りは糖尿病以外の病気であるのにも意図を感じる。ワイは糖尿病患者だけど、それだけじゃねーぞって話である。
ネタのつもりで読み始めて、最後は健康診断ちゃんと受けよう、治療は中断しないようにちゃんとやろう、って思える本だと思います。
ページ番号、付けてください。おながいします。
Permalink |記事への反応(11) | 19:48
GPT-5
普通にちょっと読みたい。なんならProにすれば全部書いてくれたりするのか。
だがAIが入ってないあたり書かれたのは2022年以前と予測される。
書きたい人いたらパクって書いていいですよ。
萌えゲーと言えばいいのかギャルゲーと言えばいいのか分からないが、この手のゲームを初めて触った
匿名で感想を投下できそうなのはここしかないので、お目汚し失礼する
Xで学マス関連の漫画がちょこちょこ流れてきていて、とにかく個性的なキャラが居るということで興味がないわけではなかった
ただ自分自身、実際昔インストールしたこの手のゲームでそれ自体のつまらなさとイラストの露出の多さ、奇怪な乳房の大きさに当惑して一瞬で辞めた経験から手を出さなかった
しかしながらどうやら育成レベルに応じて歌とダンスの差分があるらしいことからリアル志向であることが窺えることや、学園が舞台であることから露出や過度に誇張された女体に嫌気が差すようなことにはならないだろうという安心感があった
楽曲も名だたるメンバーが揃っていて全体的にかなり気合が入っているのを感じ、物は試しとインストールに至る
アイドルマスターシリーズは未プレイで、ニコニコの音MADやらなんやらで断片だけ知っている程度
スマホのアイドルマスターは音ゲーのイメージだったので、インストールするまではどんなゲームか知らなかった(ちなみに音ゲーだったらその時点でアンインストールしていると思う)
ゲーム内容をざっくり説明すると、アイドルごとに伸びやすさが違う3つのパラメーターがあり、レッスンなどでそれらを必要水準まで上げて試験に合格するのが目標
レッスンや試験はスコアアタック形式で、初期デッキ+アイドル固有カード+レッスンなどで入手できるカードでデッキを組み上げていくローグライト×カードゲームのようなシステムである
(実際にはさらにカードの持ち込みやアイテム、サポートなど複数の要素が絡み合うのだがここでは省略する)
──そして、これがめちゃくちゃに面白かった
俺を1番駆り立てたのは、PLv(プロデューサーレベル、他のゲームで言うところのランク)を上げることで新たなカードが開放される点だ
強いカードを1枚解放するとそれとシナジーする既存のカードもパワーが上がって想定よりもゴリゴリスコアが伸びる
もともとモンハンやVampire Survivorsのようなやればやるほど強くなれるゲームが好きだったことも手伝い、俺はどんどんゲームにのめり込んでいった
このゲームはアイドルの卵を育成するゲームであるため、アイドル一人一人にストーリーが用意されている
これも思っていたよりずっと面白く、表情豊かなキャラが様々な動きをしながらフルボイスで喋る
学生ゆえの悩みを上手いこと話に落とし込めていると思うし、それぞれしっかりキャラが立っている
で、このストーリーのエンディングを見るためには試験で高スコアを取り、総合評価A+を獲得する必要がある
つまるところストーリーの続きを見るためにはスコアを伸ばす必要があり、それもまた俺を駆りたてた
ただ実際のところ始めたての段階だとかなり難しい
PLvをしっかり上げて強力なカードを使えるようにならないとなかなか達成できない絶妙なハードル設定だったが、アイテムや助っ人枠に並ぶ先人の強化済みサポートなどを駆使し、上振れの運も手伝って無課金ながら初めて3日目で拝むことができた
育成ゲームとしての戦略性とローグライト×カードゲームの上振れ下振れの幅が大きいシステムが噛み合っており、非常に良いゲーム体験ができたと思う
エンディングとなる親愛度10のストーリーでは試験に合格したアイドルの晴れ舞台であるライブ映像を見ることができるのだが、これの完成度も凄まじい
楽曲の完成度は勿論それぞれ固有ステージが用意されており、ライティングやカメラワークなど演出のこだわりに関しては群を抜いている
YouTubeに動画が上がっているので見るだけなら誰でもできるのだが、何周も何周もレッスンを共にしたアイドルの晴れ舞台を、ストーリーで感情移入したあとに達成感と共に拝むとやはり感動が大きい
エンディングは実はそれだけではないのだが、興味を持ったなら自分の目で確かめて欲しい
じゃあ今はというと、実はもうほぼプレイしていない
この手のゲームを課金が視野に入る段階までプレイしたことがなかったので驚愕した
正直ゆるく遊ぶなら全然必要ないのだが、そうなるとやることがない
ちゃんとイベントとか走るなら無課金じゃ本当に厳しい(そして相手は金ジャブの無敵オタク、勝てるわけがない)
ガチャ演出にはピックアップキャラが排出される際、最低保証の爆死と見せかけてブラックアウト(いわゆるプチュン)する演出が搭載されている
オタクから金を巻き上げるために脳汁演出まで搭載されているのだ
PLv50を超えると全くレベルが上がらなくなり、やる気がかなり失せた
この先でしか手に入らない強力なカードはいくつかあるが、キャラのストーリーを見るだけならば正直不要
そしてそのストーリーも強力なカードをいくつも持ち込めるレベルになると最短で2周、多くて4,5周もすればエンディングまで到達できてしまうため序盤のような達成感はもう得られない
難易度が上がった第2章のストーリーが存在するのだがこちらはストーリーの展開がキャラによって大きく変化する訳ではなく、見たい見たいと積極的になるほどのインセンティブにはならなかった
これは俺の好みの問題なんだが、こちら(大学生プロデューサー)に多少の恋慕の情を抱いているような仄めかし(モロのやつもいる)が結構あり、普通に未来のアイドルとしてどうなんだという気持ちが勝る
まあメタい話をすると現実のアイドルとの差別化なんだろうが、ライブやらなんやらのリアリティある作り込みとの乖離が個人的に少しだけモヤッとするポイントでもある
40日ほどかけてPLv50まで駆け抜けたが、そこから先は強くなるペースがガクッと落ちる
ここから先はガチャを引いてちまちまやるしかなく、正直しんどい
ストーリーは全員分のエンディング見たし全員それぞれ個性があって面白かったんだけど、これが推しキャラ!とかこの子LOVE!とかは特にない
よって前述のようにもうクリアの達成感はそこまで大きくないので、追加キャラのライブ映像が見たければYouTubeで見れば解決してしまう
強いキャラ持ってなくても時間かければエンディングは見れるしこの手のに興味ない人にもおすすめしたい
その先はやりたい人だけやればいいと思う、そんなゲーム
2025年、私たちはソフトウェア開発の歴史的な転換点に立っている。大規模言語モデル(LLM)の進化は、GitHub Copilotのようなコード補完ツールに始まり、今や「何を作りたいか」を自然言語で伝えるだけで、アプリケーションの雛形が数分で生成される時代を現実のものとしつつある。この光景を目の当たりにした多くのプログラマが、漠然とした、しかし確かな不安を抱いているだろう。「私たちの仕事は、いずれAIに奪われるのではないか」と。
この問いに対する私の答えは、半分はYesであり、もう半分はNoだ。より正確に言えば、プログラマの仕事の本質が、歴史上かつてないレベルで抽象化され、その役割が再定義されるのだ。私たちは、コードを「書く」作業から解放される一方で、これまで以上に高度な思考を要求されることになる。
本稿では、プログラミングの歴史を「How(いかに作るか)」から「What(何を作るか)」への移行として捉え直し、LLMがこの流れをいかに加速させるかを論じる。そして、その先にある、AIには決して代替できない、人間ならではの競争優位性、すなわち「Why(なぜ作るのか)」を定義し、記述する能力の重要性について深く考察していく。これは、単なる未来予測ではない。今を生きるすべてのソフトウェアエンジニアにとっての、生存戦略の提示である。
LLMの登場を特異点として捉える前に、我々が立っている場所を正確に知る必要がある。ソフトウェア開発の歴史は、常に「抽象化」との戦いであった。そしてその歴史は、プログラマの関心が「How」から「What」へと徐々に移り変わっていくプロセスとして描くことができる。
コンピュータの黎明期、プログラミングとは、計算機が理解できる命令(How)を、一行一行、丹念に記述する作業そのものであった。アセンブリ言語や初期のFORTRAN、COBOLといった言語は、ハードウェアの制約を強く受けており、プログラマはメモリ管理やプロセッサの動作といった、極めて物理層に近いレベルでの「How」を意識する必要があった。
この時代のテストもまた、「How」に強く束縛されていた。書かれた手続きが、意図した通りに順番に実行されるか、特定の入力に対して期待された計算結果を返すか。テストの関心事は、あくまで「手続きの正しさ」の検証にあった。ビジネスロジックと実装の詳細が密結合し、コードは特定の処理手順を記述した、硬直的な塊となっていた。
風向きが変わり始めたのは、ソフトウェアの規模が拡大し、その複雑性が人間の認知能力を超え始めた頃だ。1990年代後半から2000年代にかけて提唱されたエクストリーム・プログラミング(XP)の中で、テスト駆動開発(TDD)という考え方が登場する。
TDDの本質は、単なるテスト手法の改善ではない。それは、プログラミングのパラダイムを根底から覆す思想だった。TDDは、「まずテストを書く」ことを強制することで、プログラマの意識を「これから実装するコード(How)」から「そのコードが満たすべき振る舞い(What)」へと強制的に転換させたのだ。
テストはもはや、書かれたコードの後追いで正しさを検証する作業ではない。それは、これから作られるべきソフトウェアの「仕様書」であり、「振る舞いの宣言」となった。例えば、「ユーザーがログインボタンをクリックしたら、ダッシュボード画面に遷移する」というテストコードは、具体的な実装方法(`onClick`イベントハンドラの中で`window.location.href`を書き換える、など)には一切言及しない。それはただ、達成されるべき「What」を記述しているだけだ。
この思想は、ビヘイビア駆動開発(BDD)へと発展し、`Given-When-Then`といった、より自然言語に近い形式でソフトウェアの振る舞いを記述するスタイルを生み出した。プログラマだけでなく、プロダクトマネージャーやビジネスアナリストといった非技術者をも巻き込み、「What」を共通言語として定義する試みが本格化したのである。
TDD/BDDによってプログラマの意識が「What」に向かい始めると、コードそのものもまた、宣言的なスタイルへと進化していく。この変化を劇的に加速させたのが、モダンなフレームワークの存在だ。
Reactを例に考えてみよう。Reactが登場する前、フロントエンド開発はjQueryに代表されるように、DOMを直接操作する命令的なコード(How)の連続だった。「このボタンがクリックされたら、この要素のテキストを書き換え、あちらの要素を非表示にする」といった具合だ。
しかし、Reactは「UIとは、ある状態(state)に対する純粋な写像である」という宣言的なモデルを提示した。プログラマがやるべきことは、UIの状態(`state`)と、その状態がどのように見えるか(JSXによるコンポーネント)を宣言することだけだ。状態が変更された際に、DOMをどのように効率的に更新するかという面倒な「How」の部分は、Reactの仮想DOMと差分検出アルゴリズムがすべて隠蔽してくれる。プログラマは「What(UIのあるべき姿)」を記述するだけでよくなったのだ。
この「WhatからHowへの変換」は、様々な領域で見られる。
これらのフレームワークやツールは、いわば「特定の制約下における、WhatからHowへの高性能な変換器」として機能してきた。プログラマは、フレームワークが課す「お作法」や「制約」を受け入れることで、退屈で間違いの多い「How」の記述から解放され、より本質的な「What」の定義に集中できるようになった。我々が「生産性が高い」と感じる開発体験は、この優れた変換器の恩恵に他ならない。
現状は、この歴史的変遷の延長線上にある。プログラマの仕事は、手続きを記述する職人から、振る舞いを定義し、それを実現するための最適な「変換器(フレームワーク)」を選択・設定するアーキテクトへと、その重心を移してきたのだ。
フレームワークがもたらした「WhatからHowへ」の潮流は、LLMの登場によって、未曾有のスケールで加速されようとしている。フレームワークが「特定の領域に特化した変換器」であったのに対し、LLMは「あらゆる領域に対応可能な、究極の汎用変換器」としてのポテンシャルを秘めているからだ。
前章で述べたように、ReactやTerraformといったフレームワークは、その恩恵と引き換えに、私たちに特定の「制約」を課してきた。Reactを使うならコンポーネントベースで思考し、状態管理の作法に従う必要がある。Terraformを使うなら、そのエコシステムとHCLの流儀を受け入れなければならない。これらの制約は、WhatからHowへの変換を自動化するための「レール」であり、私たちはそのレールの上を走ることで効率を得てきた。
しかし、LLMはこの前提を覆す。LLMは、特定のフレームワークや言語の知識を事前に学習しているが、その利用において絶対的な制約を課すわけではない。私たちは、より自由な形式で「What」を伝えることができる。
例えば、こうだ。
ユーザー認証機能付きのシンプルなブログアプリを作ってほしい。フロントエンドはReactとTypeScript、UIコンポーネントはMUIを使う。バックエンドはNode.jsとExpressで、データベースはPostgreSQL。ユーザーはGoogleアカウントでログインでき、新しい記事を作成、編集、削除できる。記事にはマークダウン記法が使えて、画像もアップロードできるようにしてほしい。
この要求(What)は、特定のフレームワークの流儀に則ったものではない。複数の技術スタックを横断し、機能要求を自然言語で並べただけのものである。しかし、現在のLLM、特にGPT-4oやそれに類するモデルは、このレベルの要求から、ディレクトリ構造、設定ファイル、APIエンドポイント、フロントエンドコンポーネントに至るまで、驚くほど具体的なコード(How)を生成することができる。
これは、フレームワークが担ってきた「WhatからHowへの変換」が、特定のレールから解き放たれ、より広範で柔軟な領域へと拡張されたことを意味する。これまで自動化が難しかった、あるいは特定のフレームワークが存在しなかったニッチな領域や、複数の技術を組み合わせる複雑なシステム構築においても、AIによる宣言的プログラミングの恩恵を受けられる時代が始まろうとしているのだ。
LLMという汎用変換器の登場により、プログラマの生産性は、「いかに質の高いWhatをLLMに伝えられるか」に直結するようになる。これは、俗に「プロンプトエンジニアリング」と呼ばれるスキルだが、その本質は、ソフトウェア開発における「要求定義」そのものである。
質の高い「What」とは何か。それは、曖昧性がなく、網羅的で、矛盾のない要求である。
これらは、優秀なソフトウェアエンジニアが、プロダクトマネージャーやデザイナーとの対話を通じて、日常的に行ってきた思考プロセスそのものではないだろうか。LLMの登場は、この思考プロセスを、より明確に、よりテキストベースで「記述」する能力を求める。私たちの頭の中にあった暗黙的な仕様が、LLMへの入力(プロンプト)という形で、明示的に言語化されることを要求するのだ。
やがて、ほとんどのプログラミング作業は、この「Whatの記述」に収束していくだろう。TDDがテストコードという形式で「What」を記述したように、私たちは自然言語や、より構造化された要求記述言語を用いて、AIに対して「What」を宣言することになる。コード(How)は、その宣言から自動生成される中間生成物に過ぎなくなる。まさに、コードが蒸発していく未来である。
「What」を伝えれば「How」が手に入る。この魔法のような世界の到来を前に、私たちは一つの重大な問いに直面する。それは、「そのWhatからHowへの変換は、本当に一意に決まるのか?」という問いだ。
答えは、明確にNoである。
ある「What(要求)」を実現するための「How(実装)」は、無数に存在する。そして、どの「How」を選択すべきかを決定するためには、単純な機能要求(What)だけでは情報が全く足りない。そこには、必ず「Why(なぜそう作るのか)」という、背景、文脈、そしてトレードオフの考慮が必要不可欠となる。
簡単な例を考えてみよう。「1億件のユーザーデータを格納し、ユーザーIDで高速に検索できるシステム」という「What」をLLMに与えたとする。LLMは、どのような「How」を提案するだろうか。
これらの選択肢は、どれも「What」を満たしている。しかし、その特性は全く異なる。案Aは多くのエンジニアにとって馴染み深く開発が容易だが、10億、100億件へのスケールは難しいかもしれない。案Bはスケール性に優れるが、厳密なトランザクション管理は苦手だ。案Cは高速だが、運用コストとシステムの複雑性が増す。案Dは安価だが、検索速度は他に劣る。
LLMは、これらの選択肢をリストアップすることはできるだろう。しかし、このプロジェクトにとって最適な選択肢はどれかを、自信を持って決定することはできない。なぜなら、その決定には、LLMが与えられていない「Why」の情報が必要だからだ。
これらの「Why」こそが、無数に存在する「How」の中から、ただ一つの「正解」を選び出すための羅針盤なのである。そしてこの「Why」は、ビジネスの目標、組織の文化、ユーザーの期待、技術的な制約といった、極めて人間的で、文脈依存的な情報の中にしか存在しない。
ここで重要なのは、これまでもエンジニアは、この「Why」に基づく意思決定を、意識的あるいは無意識的に行ってきたという事実だ。
私たちが技術選定を行うとき、単に「流行っているから」という理由だけでReactを選ぶわけではない。「SPA(Single PageApplication)にすることでユーザー体験を向上させたい(Why)」、「コンポーネント指向の開発によって長期的な保守性を確保したい(Why)」、「Reactエンジニアの採用市場が活発だから(Why)」といった、様々な「Permalink |記事への反応(0) | 17:09
2025年、私たちはソフトウェア開発の歴史的な転換点に立っている。大規模言語モデル(LLM)の進化は、GitHub Copilotのようなコード補完ツールに始まり、今や「何を作りたいか」を自然言語で伝えるだけで、アプリケーションの雛形が数分で生成される時代を現実のものとしつつある。この光景を目の当たりにした多くのプログラマが、漠然とした、しかし確かな不安を抱いているだろう。「私たちの仕事は、いずれAIに奪われるのではないか」と。
この問いに対する私の答えは、半分はYesであり、もう半分はNoだ。より正確に言えば、プログラマの仕事の本質が、歴史上かつてないレベルで抽象化され、その役割が再定義されるのだ。私たちは、コードを「書く」作業から解放される一方で、これまで以上に高度な思考を要求されることになる。
本稿では、プログラミングの歴史を「How(いかに作るか)」から「What(何を作るか)」への移行として捉え直し、LLMがこの流れをいかに加速させるかを論じる。そして、その先にある、AIには決して代替できない、人間ならではの競争優位性、すなわち「Why(なぜ作るのか)」を定義し、記述する能力の重要性について深く考察していく。これは、単なる未来予測ではない。今を生きるすべてのソフトウェアエンジニアにとっての、生存戦略の提示である。
LLMの登場を特異点として捉える前に、我々が立っている場所を正確に知る必要がある。ソフトウェア開発の歴史は、常に「抽象化」との戦いであった。そしてその歴史は、プログラマの関心が「How」から「What」へと徐々に移り変わっていくプロセスとして描くことができる。
コンピュータの黎明期、プログラミングとは、計算機が理解できる命令(How)を、一行一行、丹念に記述する作業そのものであった。アセンブリ言語や初期のFORTRAN、COBOLといった言語は、ハードウェアの制約を強く受けており、プログラマはメモリ管理やプロセッサの動作といった、極めて物理層に近いレベルでの「How」を意識する必要があった。
この時代のテストもまた、「How」に強く束縛されていた。書かれた手続きが、意図した通りに順番に実行されるか、特定の入力に対して期待された計算結果を返すか。テストの関心事は、あくまで「手続きの正しさ」の検証にあった。ビジネスロジックと実装の詳細が密結合し、コードは特定の処理手順を記述した、硬直的な塊となっていた。
風向きが変わり始めたのは、ソフトウェアの規模が拡大し、その複雑性が人間の認知能力を超え始めた頃だ。1990年代後半から2000年代にかけて提唱されたエクストリーム・プログラミング(XP)の中で、テスト駆動開発(TDD)という考え方が登場する。
TDDの本質は、単なるテスト手法の改善ではない。それは、プログラミングのパラダイムを根底から覆す思想だった。TDDは、「まずテストを書く」ことを強制することで、プログラマの意識を「これから実装するコード(How)」から「そのコードが満たすべき振る舞い(What)」へと強制的に転換させたのだ。
テストはもはや、書かれたコードの後追いで正しさを検証する作業ではない。それは、これから作られるべきソフトウェアの「仕様書」であり、「振る舞いの宣言」となった。例えば、「ユーザーがログインボタンをクリックしたら、ダッシュボード画面に遷移する」というテストコードは、具体的な実装方法(`onClick`イベントハンドラの中で`window.location.href`を書き換える、など)には一切言及しない。それはただ、達成されるべき「What」を記述しているだけだ。
この思想は、ビヘイビア駆動開発(BDD)へと発展し、`Given-When-Then`といった、より自然言語に近い形式でソフトウェアの振る舞いを記述するスタイルを生み出した。プログラマだけでなく、プロダクトマネージャーやビジネスアナリストといった非技術者をも巻き込み、「What」を共通言語として定義する試みが本格化したのである。
TDD/BDDによってプログラマの意識が「What」に向かい始めると、コードそのものもまた、宣言的なスタイルへと進化していく。この変化を劇的に加速させたのが、モダンなフレームワークの存在だ。
Reactを例に考えてみよう。Reactが登場する前、フロントエンド開発はjQueryに代表されるように、DOMを直接操作する命令的なコード(How)の連続だった。「このボタンがクリックされたら、この要素のテキストを書き換え、あちらの要素を非表示にする」といった具合だ。
しかし、Reactは「UIとは、ある状態(state)に対する純粋な写像である」という宣言的なモデルを提示した。プログラマがやるべきことは、UIの状態(`state`)と、その状態がどのように見えるか(JSXによるコンポーネント)を宣言することだけだ。状態が変更された際に、DOMをどのように効率的に更新するかという面倒な「How」の部分は、Reactの仮想DOMと差分検出アルゴリズムがすべて隠蔽してくれる。プログラマは「What(UIのあるべき姿)」を記述するだけでよくなったのだ。
この「WhatからHowへの変換」は、様々な領域で見られる。
これらのフレームワークやツールは、いわば「特定の制約下における、WhatからHowへの高性能な変換器」として機能してきた。プログラマは、フレームワークが課す「お作法」や「制約」を受け入れることで、退屈で間違いの多い「How」の記述から解放され、より本質的な「What」の定義に集中できるようになった。我々が「生産性が高い」と感じる開発体験は、この優れた変換器の恩恵に他ならない。
現状は、この歴史的変遷の延長線上にある。プログラマの仕事は、手続きを記述する職人から、振る舞いを定義し、それを実現するための最適な「変換器(フレームワーク)」を選択・設定するアーキテクトへと、その重心を移してきたのだ。
フレームワークがもたらした「WhatからHowへ」の潮流は、LLMの登場によって、未曾有のスケールで加速されようとしている。フレームワークが「特定の領域に特化した変換器」であったのに対し、LLMは「あらゆる領域に対応可能な、究極の汎用変換器」としてのポテンシャルを秘めているからだ。
前章で述べたように、ReactやTerraformといったフレームワークは、その恩恵と引き換えに、私たちに特定の「制約」を課してきた。Reactを使うならコンポーネントベースで思考し、状態管理の作法に従う必要がある。Terraformを使うなら、そのエコシステムとHCLの流儀を受け入れなければならない。これらの制約は、WhatからHowへの変換を自動化するための「レール」であり、私たちはそのレールの上を走ることで効率を得てきた。
しかし、LLMはこの前提を覆す。LLMは、特定のフレームワークや言語の知識を事前に学習しているが、その利用において絶対的な制約を課すわけではない。私たちは、より自由な形式で「What」を伝えることができる。
例えば、こうだ。
ユーザー認証機能付きのシンプルなブログアプリを作ってほしい。フロントエンドはReactとTypeScript、UIコンポーネントはMUIを使う。バックエンドはNode.jsとExpressで、データベースはPostgreSQL。ユーザーはGoogleアカウントでログインでき、新しい記事を作成、編集、削除できる。記事にはマークダウン記法が使えて、画像もアップロードできるようにしてほしい。
この要求(What)は、特定のフレームワークの流儀に則ったものではない。複数の技術スタックを横断し、機能要求を自然言語で並べただけのものである。しかし、現在のLLM、特にGPT-4oやそれに類するモデルは、このレベルの要求から、ディレクトリ構造、設定ファイル、APIエンドポイント、フロントエンドコンポーネントに至るまで、驚くほど具体的なコード(How)を生成することができる。
これは、フレームワークが担ってきた「WhatからHowへの変換」が、特定のレールから解き放たれ、より広範で柔軟な領域へと拡張されたことを意味する。これまで自動化が難しかった、あるいは特定のフレームワークが存在しなかったニッチな領域や、複数の技術を組み合わせる複雑なシステム構築においても、AIによる宣言的プログラミングの恩恵を受けられる時代が始まろうとしているのだ。
LLMという汎用変換器の登場により、プログラマの生産性は、「いかに質の高いWhatをLLMに伝えられるか」に直結するようになる。これは、俗に「プロンプトエンジニアリング」と呼ばれるスキルだが、その本質は、ソフトウェア開発における「要求定義」そのものである。
質の高い「What」とは何か。それは、曖昧性がなく、網羅的で、矛盾のない要求である。
これらは、優秀なソフトウェアエンジニアが、プロダクトマネージャーやデザイナーとの対話を通じて、日常的に行ってきた思考プロセスそのものではないだろうか。LLMの登場は、この思考プロセスを、より明確に、よりテキストベースで「記述」する能力を求める。私たちの頭の中にあった暗黙的な仕様が、LLMへの入力(プロンプト)という形で、明示的に言語化されることを要求するのだ。
やがて、ほとんどのプログラミング作業は、この「Whatの記述」に収束していくだろう。TDDがテストコードという形式で「What」を記述したように、私たちは自然言語や、より構造化された要求記述言語を用いて、AIに対して「What」を宣言することになる。コード(How)は、その宣言から自動生成される中間生成物に過ぎなくなる。まさに、コードが蒸発していく未来である。
「What」を伝えれば「How」が手に入る。この魔法のような世界の到来を前に、私たちは一つの重大な問いに直面する。それは、「そのWhatからHowへの変換は、本当に一意に決まるのか?」という問いだ。
答えは、明確にNoである。
ある「What(要求)」を実現するための「How(実装)」は、無数に存在する。そして、どの「How」を選択すべきかを決定するためには、単純な機能要求(What)だけでは情報が全く足りない。そこには、必ず「Why(なぜそう作るのか)」という、背景、文脈、そしてトレードオフの考慮が必要不可欠となる。
簡単な例を考えてみよう。「1億件のユーザーデータを格納し、ユーザーIDで高速に検索できるシステム」という「What」をLLMに与えたとする。LLMは、どのような「How」を提案するだろうか。
これらの選択肢は、どれも「What」を満たしている。しかし、その特性は全く異なる。案Aは多くのエンジニアにとって馴染み深く開発が容易だが、10億、100億件へのスケールは難しいかもしれない。案Bはスケール性に優れるが、厳密なトランザクション管理は苦手だ。案Cは高速だが、運用コストとシステムの複雑性が増す。案Dは安価だが、検索速度は他に劣る。
LLMは、これらの選択肢をリストアップすることはできるだろう。しかし、このプロジェクトにとって最適な選択肢はどれかを、自信を持って決定することはできない。なぜなら、その決定には、LLMが与えられていない「Why」の情報が必要だからだ。
これらの「Why」こそが、無数に存在する「How」の中から、ただ一つの「正解」を選び出すための羅針盤なのである。そしてこの「Why」は、ビジネスの目標、組織の文化、ユーザーの期待、技術的な制約といった、極めて人間的で、文脈依存的な情報の中にしか存在しない。
ここで重要なのは、これまでもエンジニアは、この「Why」に基づく意思決定を、意識的あるいは無意識的に行ってきたという事実だ。
私たちが技術選定を行うとき、単に「流行っているから」という理由だけでReactを選ぶわけではない。「SPA(Single PageApplication)にすることでユーザー体験を向上させたい(Why)」、「コンポーネント指向の開発によって長期的な保守性を確保したい(Why)」、「Reactエンジニアの採用市場が活発だから(Why)」といった、様々な「Permalink |記事への反応(0) | 17:09
サキュバス(妖艶に笑って)
「ふふ……また一人、精を狩られるためにやってきたのね……♡」
(暗い森の奥から足音。現れたのは、スマホを片手にぶつぶつと呟きながら歩く男)
「ふむ、そろそろAGIによる文明転覆が始まってもおかしくない時期だが……それにしても5Gは遅すぎる……」
サキュバス(にっこり)
「この座標……異常信号を検出……まさか未実装の魔法結界か? なるほど、ついに次元干渉が始まったか」
サキュバス(うっとりと近づく)
「ふふふ……わたしがたっぷり可愛がってあげるわ。レベルドレイン、いくわよ♡」
「やめろーーーー! まだ俺のプロンプトが完成してな――」
(魔法陣が発動。サキュバスの手から光が放たれ、テクウヨを包み込む)
サキュバス(目を細めて)
「ん……? なんか……妙に重い……?」
自己肯定過剰症
他責思考+500%
現実逃避(常時)
「ちょ……ちょっと、なにこの……ドロドロした魂!? 吸ったそばから胃もたれするって何!?」
「情報……再構築……ぐふっ」
サキュバス(焦り)
「だ、だめ! 吸ってるこっちがどんどん気持ち悪くなってく……!!」
(サキュバスの体が青く光り始める)
サキュバス(ふらふら)
「な、なんでこんなことに……私……強くて美しくて最高だったのに……ッ!!」
「フフ……ふははは!! これは……まさか……
バッドステータスが吸い出されたことで……残ったのは最強の俺!?」
サキュバス(震える声で)
「ちょ、ちょっと待って……それ、私が吸っちゃったせいで……!? えっ、そんなのあり!?」
(サキュバスは地面に崩れ落ち、涙をこぼす)
「いやあああああああああああああ!!!!
こんなのってないわよ……! 私は男から力を奪って君臨する存在だったのに!!
どうして……どうして、こんな不良品から吸っただけで……私が……私がこんな“負けヒロイン”に……!!」
サキュバス(泣き叫ぶ)
「未来のテクノロジーが~!スマートシティが~! とかどうでもいいのよ!! 私はただ、魂を吸いたかっただけなのにィ!!」
サキュバス(泣きながら震える)
「こんな世界……認めない……こんな男に……私が負けるなんて……」
フランク・キャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代に傭兵学校を設立しました、並木書房から日本人の参加ルポが出ていたと思いますがその詳細を教えてください
エコー・イン・ジャパン:フランク・キャンパー、並木書房、そして傭兵の呼び声に応えた日本人
ご質問の内容は、単なる書籍の問い合わせにとどまらず、1980年代の日本における特異な文化的モーメントを映し出す歴史的アーティファクトである。この時代、日本では軍事、特に傭兵や特殊部隊といったロマンチックかつ危険な世界への大衆的関心が急激に高まった 1。この熱狂は、落合信彦氏のような作家が手がけた「スーパードキュメント」と呼ばれるノンフィクションによって大きく煽られた。特に、氏の著作『傭兵部隊』はフランク・キャンパーを大きく取り上げ、後の日本人参加者を含む当時の若者たちに強烈なインスピレーションを与えたのである 1。
本報告書は、ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」と完全に一致する一冊の本は存在しないものの、その記憶がフランク・キャンパー、高橋和弘、毛利元貞といった人物、並木書房による出版物、そしてキャンパーの学校とその「後継」組織という、相互に関連し合う魅力的なネットワークを指し示していることを明らかにする。その全貌は、一個人の参加報告よりもはるかに複雑で、示唆に富むものである。
この現象を解き明かす上で、並木書房の役割は極めて重要である。同社は単に受動的な出版社ではなく、日本の市場に向けて「傭兵」や「サバイバル」といった特定のサブジャンルを積極的に開拓・形成した「キュレーター」であった。まず、1990年に高橋和弘訳によるフランク・キャンパー自身の著書『ザ・マーセナリー』と『ザ・ラープ』を出版し、日本におけるキャンパーのブランドを確立した 9。同年、その翻訳者である高橋自身の体験記『USサバイバル・スクール』を刊行 14。これは、確立されたキャンパーのブランドと翻訳者の信頼性を利用して、新たな日本のオリジナル作品を市場に投入する戦略であった。翌年には、キャンパーが象徴する世界に直接繋がるもう一人の日本人、毛利元貞の『傭兵修行』を出版した 15。この一連の流れは、海外の著名な人物を輸入してブランド化し、次にそのブランドに連なる国内の物語を発掘・出版することで、ニッチな市場全体を掌握するという、並木書房の意図的な戦略を示している。
1.1. 論争の的となった経歴:兵士、情報提供者、そして神話の創造者
フランク・キャンパーの公的なペルソナと、彼が設立した傭兵学校の信頼性の核となっていたのは、その軍歴であった。彼は自身をベトナム戦争に従軍した第4歩兵師団の長距離偵察パトロール(LRRP)隊員であると主張し、そのエリートとしての経歴を喧伝した17。この物語は、後に日本で『ザ・ラープ 長距離偵察部隊』として翻訳・出版される自著『LRRP: The Professional』によって、さらに補強された10。
しかし、1985年に公開された公式の軍記録は、彼が歩兵およびトラック運転手として訓練を受けたと記しており、その経歴に疑問を投げかけた17。この矛盾は、1988年にキャンパー自身が上院小委員会の公聴会で証言したことにより、ある種の解決を見る。彼は、軍事情報部、CIA、ATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)、FBIとの「高度な機密指定を受けた経歴」を明らかにし、矛盾する記録は情報機関によるカバーストーリーであったと説明した 19。彼によれば、1970年から秘密情報提供者として活動し、アメリカ共産党(CPUSA)やアラバマ黒人解放戦線(Alabama Black Liberation Front)のような組織に潜入していたという17。この兵士と情報提供者という二重のアイデンティティこそが、彼の行動を理解する上での鍵となる。
1.2. マーセナリー・スクール(1980年-1986年):準軍事的事業の実態
1980年、キャンパーはアラバマ州ドロマイト近郊で「マーセナリー・スクール」を開校した。当初、実地訓練はフロリダで行われていたが、原子力発電所付近での不法侵入容疑による逮捕後、拠点をアラバマ州ジェファーソン郡のウォリアー川沿いにある77エーカーの森林地帯に移した17。
学校は『ソルジャー・オブ・フォーチュン』のような軍事雑誌で宣伝され、2週間のコース料金は350ドルから500ドルに設定されていた17。訓練内容は、体力トレーニング、銃器の取り扱い、白兵戦、ナイフ格闘術、サバイバル技術、ランドナビゲーション(地図判読)、E&E(脱出と回避)、爆発物、ブービートラップの設置など、多岐にわたった 1。機密解除されたCIAの文書には、司令部であった「バンカー」の様子や、実弾が飛び交う中で行われた「ライブ・ファイア」演習の生々しい記述が残されている 22。
キャンパーは学校設立の理念として、米国政府のための情報収集と、将来的な協力者となりうる外国人の資質を見極めることの2点を挙げていた 21。これは彼が担っていた情報提供者としての役割と一致する。しかし、批評家たちからは、この学校は単なる「大規模なペイントボール・ゲーム」に過ぎないと揶揄されてもいた17。
キャンパーの学校は、単に軍事技術を教える場にとどまらず、国際的なテロリズムや犯罪と深く結びついていた。
1984年から85年にかけて、4人のシーク教徒過激派がこの学校で訓練を受けた17。キャンパーは彼らに武器や爆発物の使用法、暗殺技術を指導した 21。彼は、当時インドのラジブ・ガンジー首相の訪米に合わせた暗殺計画を阻止するため、FBIと協力しておとり捜査を進めていたと主張している17。しかし、このおとり捜査の網をすり抜けた2人の訓練生が、キャンパーの学校から盗まれたとされる爆発物を使用し、1985年に329名の命を奪ったエア・インディア182便爆破事件を実行した 21。キャンパーは後に、容疑者全員を逮捕できなかったのは、自身が提供した情報が関係機関によって不適切に扱われたためだと非難した 21。
学校の終焉を決定づけたのは、1985年にキャンパーと3人の教官がカリフォルニア州の学校経営者から依頼を受け、元従業員の車に爆弾を仕掛けた事件であった 21。彼らは1986年5月に逮捕され、この逮捕がアラバマ州司法長官に、州の私立学校免許なしで運営されていた同校を閉鎖する法的根拠を与えた17。キャンパーは有罪判決を受け、14年の懲役刑を宣告されたが、実際には5年半服役し、1991年12月に釈放された17。
この一連の出来事は、マーセナリー・スクールが単に犯罪者が集う場であったという以上に、より複雑な本質を持っていたことを示唆している。キャンパーが公言していたように、この学校は米国政府のための情報収集を目的とした「ハニーポット(蜜の壺)」として構想され、運営されていた。その設計思想自体が、過激派や犯罪者を引き寄せるものであった。彼は実際に、ナイジェリアへの武器密輸計画やKKK関連のクーデター計画など、訓練生の違法行為を当局に通報し、逮捕に貢献している17。シーク教徒の事件に関するFBIの宣誓供述書にも、アラバマ州の「信頼できる情報源」からの通報があったことが記されている 22。
しかし、このモデルは致命的な欠陥を抱えていた。エア・インディア機爆破事件は、この「ハニーポット」戦略が破綻した最悪の事例である。キャンパーが教えた技術は、彼が仕掛けたおとり捜査の網をすり抜けたテロリストによって、悲劇的な形で実行されてしまった。したがって、この学校の遺産は単なる犯罪の歴史ではなく、国家による情報収集活動が民間委託され、危険な個人を「育てる」ことと「罠にかける」ことの境界線が曖昧になった結果、大惨事を引き起こした高リスクな秘密工作の失敗例として記憶されるべきである。学校の存在そのものが、ある種の秘密工作の一環であり、その破綻は、その機能から直接的にもたらされた必然的な帰結であった。
2.1. 直接的な回答:高橋和弘の『U.S. Survival School』
ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」に最も直接的に該当するのが、高橋和弘氏による著作である。高橋氏はアウトドアやサバイバル技術に造詣の深い日本のライター兼翻訳家であり、並木書房から出版されたキャンパーの著書の日本語訳も担当していた 9。
1990年、並木書房は彼のオリジナル著作『USサバイバル・スクール―極限の野外生存術』を出版した 14。この本こそが、ご質問の核心に触れる一次資料である。本書は、高橋氏自身がアメリカに渡り、8つの異なるサバイバルおよび軍事系スクールに参加した際の体験を綴った一人称のルポルタージュであり、その第3章が「傭兵学校―マーク・スクール(MS)」と題され、ユーザーが記憶する詳細な参加報告が記されている 14。
2.2. 決定的な繋がり:「マーク・スクール」と教官「ピート」
重要なのは、高橋氏が参加した「マーク・スクール(MS)」が、1986年に閉鎖されたキャンパーのアラバマの学校そのものではないという点である。調査によれば、この学校は、フランク・キャンパーの元アシスタント教官であった「ピート」という人物が新たに設立した「後継」の学校であったことが特定されている 2。この事実は、毛利元貞氏のWikipediaページの脚注において、高橋氏自身の著書『USサバイバル・スクール』を典拠として明記されている。「スペシャル・アサルト・スクール」とも呼ばれたこの後継学校は、ミシシッピ州に拠点を置いていた 2。
この事実関係を整理することで、ご質問者の記憶の謎が解ける。記憶は機能的には正しく、しかしキャンパーという著名な名前と、実際に日本人が報告した学校とを混同していたのである。その報告は、キャンパーの弟子が運営し、キャンパーを中心としたカタログを構築していた並木書房から出版された、「キャンパー・スタイル」の傭兵学校に関するものであった。つまり、ご質問者の記憶の核心は正しく、その背景には直接的な血脈が存在していた。1990年当時の読者にとって、キャンパー本人の学校と、その直系の後継者が運営する学校との区別は些細なものであり、体験の「精神」はキャンパーの遺産そのものの延長線上にあったのである。
この物語には、もう一人の重要な日本人が登場する。1964年生まれの毛利元貞氏である 2。彼もまた落合信彦の『傭兵部隊』に触発され、より実践的な経験を求めて自衛隊、そしてフランス外人部隊へと進んだが、いずれも脱走している 2。
彼の探求は、アメリカでピートが運営するミシシッピ州の「スペシャル・アサルト・スクール」へとたどり着く。しかし、彼は参加者としてではなく、その卓越した技能を認められ、同校の「教官」となった 2。1991年、並木書房は彼の体験をまとめた『傭兵修行―世界に冒険を求めて』を出版した 15。この本は、ジャーナリスト的な参加者として訪れた高橋氏の視点とは対照的に、組織のスタッフとして完全に内部に溶け込んだ日本人の視点から描かれた、ユニークで並行する報告となっている。
高橋氏と毛利氏の物語は、このアメリカのサブカルチャーに対する日本人の二つの異なる関与の形を象徴している。高橋氏は、体験し、記録することを目的とした「観察者・記録者」であり、その役割は本質的にジャーナリスティックであった 14。一方、毛利氏は、その世界を報告するだけでなく、自ら生きることを目指した「実践者・求道者」であり、その目標はプロフェッショナルになることであった 2。並木書房がほぼ同時期に両者の著作を出版したことは、同社が、体験談を読んで楽しみたい「 armchair enthusiast(安楽椅子探偵)」層(高橋の読者)と、自らもそうなりたいと夢見る層(毛利の読者)の両方を読者層として認識していたことを示唆している。二人の本は、日本の「傭兵ブーム」が内包するファンタジーの全スペクトラムに応えるものであった。
著者/翻訳者
年
関連性
Merc: The Professional
1990
キャンパー自身の傭兵としてのキャリアを語り、日本での彼のペルソナを確立した 9。
LRRP: The Professional
1990
ガチでラスボス感あるのに、現実では地下に隠れてコソコソ生きてんの。
ふつうに考えたら逆じゃん?
でもこれがまた、深い理由があるんだよな。
限られた時間の中で「勝った」「征服した」って痕跡を残すことに命かけてんの。
そんで、自分たちより戦わない弱者男性族を「負け犬」って決めつけて、差別してんだよね。
なんで弱者男性族は戦わないのか?
力がないから? いや、あるよ。
実は、彼女たちって「そもそも争うことに意味を見いだしてない」んだよ。
むしろ、どうやってこの世界で「共に存在していくか」って方を考えてる。
逃げたり隠れたりして、消耗戦に持ち込まない。
で、女だけの社会ってさ、やっぱり暴力よりも共感を重視するわけ。
他者とのつながり、感情の共有、そういうソフトな力が中心になる。
だから超能力も「殺す」より「癒す」とか「守る」方向に使われがち。
でもさ、つい言いたくなるわけよ。
「いや、もう一発ブチかましてやれよ!」って。
虐げられてばっかじゃ、読んでてツラいじゃん。
たまには空が裂けるようなド派手な反撃してほしいじゃん?
でも弱者男性族は、たぶんそれすらも見越してんの。
一時の怒りで世界を壊すより、千年かけて少しずつ変えてく。
それが彼女たちの「闘い方」なのかもな。
結局のところ、弱者男性族は「戦わない」ことで生きてる。
でもそれは「諦め」とか「逃げ」じゃなくて、むしろ逆。
戦わないことで、強者男性族に取り込まれない自分たちの価値を守ってる。
弱者男性族は、力があるのに使わない。
それって、一周回ってめちゃくちゃ強いってことじゃない?
その部屋には、椅子が七脚並んでいた。六脚には候補者が座り、最後のひとつは「謝罪演技官」兼プロデューサーである今井の席だ。
「では、あなた。例の不倫報道が出た後、初めてテレビに出る想定での謝罪をどうぞ」
呼ばれたのは若干17歳、元ヤン校中退の朝井ハルカだった。金髪の根本が黒く、言葉遣いには粗さが残る。
彼女は深々と頭を下げ、涙をこらえたような顔で言った。
「このたびは、私の未熟な行動で、多くの皆さまにご迷惑とご心配をおかけしてしまい……ほんと、バカでした。心から反省しています」
室内に微かな拍手が起こる。プロデューサーの今井は指を組み、うなずいた。
「いいね。涙の出るタイミング、詰まり気味の声、実にリアルだ」
朝井はにやりと笑う。さっきまでの反省顔はどこにもなかった。
今井は続けた。
「君たち、わかってると思うが。主演タレントというのは、常に“やらかす”リスクがある。それを乗り越えるには、演技力じゃなくて、誠実さでもなくて――“許される技術”が必要なんだよ」
候補者たちはうなずいた。ここは「許され力」を競うオーディション、“謝罪スター選手権”だった。
台本も芝居も無い。ただ、自分の中の“クズ”をどれだけ上手に包装し、泣いて見せるか。
今井は壁際のパネルを叩いた。『2026年度 主演級候補一覧』と書かれたリストの、朝井の名前の横に朱い丸がつけられた。
「よし、次。君、不倫じゃなくて薬物で行こうか」
少年は一瞬だけ青ざめたが、すぐに顔を作った。
ここでは誰もが、スターになるために、最悪の過去を“練習”していた。
夜の青山、ある巨大ホテルのスイートルームにて、ひっそりとした宴が開かれていた。テレビ局・帝都放送の制作局チーフプロデューサー、東大法学部卒・椎名誠司は、その場で笑顔を浮かべつつ、氷入りのウィスキーグラスをスター朝井ハルカに差し出していた。
「今日は本当に、素晴らしい収録でした。さすがです、朝井さん」
朝井は、チークの濃い顔で鼻先をクイッと上げる。隣では、マネージャーと局の編成局長が笑顔で談笑している。
椎名は思う。なぜ自分が、河原者出の元ヤン少女にここまで気を遣わねばならないのかと。
だが、彼にはわかっていた。数字を取れるのは“物語を背負った女”だけだ。そして物語には、必ず「不良の更生」「涙の復活」「逆転劇」という、テレビ的カタルシスが求められる。
彼の東大同期は省庁に入ったが、椎名はそれでもテレビを選んだ。なぜなら、芸能界にはもう一つの希望があった。
それは――
第3章:演技力と知性で生き残る者
彼女の名は嶺岸しのぶ。劇団育ち、京大文学部卒。地味で話題性に欠けるとされていたが、舞台での演技は鬼気迫るものだった。
椎名はある日、彼女の舞台を見て、その才能に惚れ込んだ。スキャンダルも無い、派手さも無い。ただし、圧倒的な“表現”があった。
「君を、本物の主演にする」
しのぶは言った。
それでも、道のりは険しい。今井ら“謝罪製造機”たちが仕切る芸能界で、知性と技術だけで生き残るのは、ある意味で命懸けだった。
だが、椎名は彼女に賭けた。そして――世の中が一人の“地味で知的な主演女優”に揺さぶられる日が来ることを、信じていた。
彼はふと気づく。
スターたちが河原者であること。それは視聴者にとって、無意識の“安全装置”なのかもしれない。彼らの華やかなパフォーマンスに感動しながらも、どこかで「でも所詮あいつらは元ヤンで、成り上がりで」と、見下すことができる。
そうだ。だからこそ、この歪んだ共感と優越のバランスが、芸能という虚構を支えている。そこにこそ、この国の“真の芸能システム”が隠れているのかもしれなかった。
第4章:馬脚の瞬間
トラブルは、編集スタッフの間でささやかれる一通のLINEから始まった。
朝井ハルカが、系列下請けの制作会社に派遣されていた新人女性スタッフに対し、私的にメッセージを送り、こう言ったのだという。
「スタジオでちょっとパンチラしてたよね。撮っておけばよかったな、笑」
女性は戸惑い、無視した。その後、同様の軽口が続き、やがてスタッフ間で情報が共有された。
局の内部調査が始まり、朝井は「冗談だった」「親しみのつもりだった」と釈明した。
しかし、マスコミに流れた瞬間、それは“地元のチンピラが馬脚を現した”という形で燃え広がった。
椎名誠司は頭を抱えた。彼は知っていた。この展開もまた、既定路線だったのだと。
最近、声優の林原めぐみさんのブログが「排外主義的だ」と批判され、大きな議論を呼びました。ある記事は、その主張を過激な団体と結びつけ、
「事実を理解できない人々」と断じました。この記事に対し、「酷い記事だ」「何も解決しない」と感じた人も少なくありません。
なぜ、移民や外国人の問題は、このように「データや正論をぶつけ合うだけの不毛な罵り合い」に陥ってしまうのでしょうか。
なぜ「お前は右翼だ」「あなたは日本が嫌いなんですね」といったレッテル貼りで、対話が終わってしまうのでしょうか。
その原因は、どちらかの側が一方的に「馬鹿」だからではありません。実はそこには、人間の思考や感情に深く根差した「仕組み」**が存在します。
この仕組みを理解することこそが、無益な分断を乗り越え、建設的な議論を始めるための第一歩となります。
「外国人が増えるのは何となく不安だ」「今の生活が変わってしまうのは嫌だ」――。
こうした感情は、しばしば「非合理的だ」「感情的だ」と切り捨てられがちです。しかし、これは決して特別なワガママではありません。
イギリスの思想家マイケル・オークショットは、「保守主義」とは難しい理論ではなく、「未知なものより、慣れ親しんだものを好む」という
人間の自然な気質だと述べました。急激な変化は、私たちが築き上げてきた安定した生活を脅かすかもしれない。
だから、まず警戒し、慎重になる。これは共同体を守ろうとする、ごく自然な自己防衛本能なのです。
私たちの脳は、日々膨大な情報に晒されているため、なるべくエネルギーを使わないように「思考の近道(ショートカット)」をするようにできています。
この近道は便利な反面、時として私たちを誤った認識に導きます。これを**「認知バイアス」**と呼びます。
【簡単な説明】あるものの「典型的なイメージ」で、物事全体を判断してしまう思考のクセ。
【例】メディアが「外国人による凶悪犯罪」を繰り返し報道すると、私たちの頭の中に「犯罪者=外国人」という典型的なイメージが作られやすくなります。
すると、街で外国人を見かけただけで、無意識に「危険かもしれない」と直感してしまうのです。
【簡単な説明】記憶から思い出しやすい情報ほど、それが頻繁に起きていることだと勘違いしてしまう思考のクセ。
【例】「日本人によるありふれた窃盗」よりも、「外国人グループによる強盗事件」の方が衝撃的で記憶に残りやすいため、
統計データ上、外国人犯罪率が日本人と大差なくても、私たちの「直感」はメディア報道や衝撃的なイメージに強く影響されます。
この**「データ vs直感」のギャップ**を無視して、「事実を見ろ!」と叫んでも、話は通じないのです。
「人道的見地から受け入れるべきだ」「多様な社会は豊かだ」――。これらは移民受け入れを推進する側がよく口にする「正論」です。
しかし、この正論が、かえって反対派の強い反発を招くことがあります。なぜでしょうか。
心理学者のジョナサン・ハイトは、人々の「正義感」にはいくつかの種類(土台)があると提唱しました。これを**「道徳基盤理論」**と呼びます。
【簡単な説明】人の「何が正しく、何が間違っているか」という感覚は、いくつかの共通の「心のボタン」のようなもの(道徳基盤)から成り立っている、という考え方です。
【主な心のボタン】
ハイトによれば、政治的にリベラル(左派)な人々は主に「ケア」と「公正」のボタンを重視する傾向があります。
一方、保守(右派)な人々は、これら全てのボタンを比較的均等に重視します。
この”正義のカタチ”の違いが、移民問題ですれ違いを生みます。
推進派が振りかざす「正論」は、彼らにとっては絶対的な正義です。しかし、反対・慎重派にとっては、自分たちが大切にしている別の「正義」を脅かす、
危険な思想に聞こえてしまうのです。互いに違う”正義のボタン”を押し合っているため、議論が噛み合うはずもありません。
自分の正義が通じないと、人はどうなるか。しばしば「相手は話の通じない、劣った存在だ」と考え始めます。これが「お前は馬鹿だ」「レイシストだ」という、相手を打ち負かすための論法です。しかし、この戦略は最悪の結果を招きます。
長年、移民を受け入れてきたヨーロッパの現状が、その何よりの証拠です。
政治家やメディアなどのエリート層は、「人道」や「経済」を盾に移民受け入れを進めました。そして、それによって生じる負担(治安、雇用、文化摩擦)に苦しむ庶民の声に対し、
「それは差別だ」「時代遅れだ」とレッテルを貼り、封じ込めようとしました。
自分たちの不安を「不道徳なもの」として切り捨てられた人々は、既存の政党に絶望しました。そして、彼らの怒りや不安を代弁してくれる、
反移民を掲げる極右政党を熱狂的に支持するようになったのです。結果として、社会は深刻に分断され、対立はより過激化しました。
相手を「無知な大衆」と見下し、正論で殴りつけ、レッテルを貼って黙らせようとする態度は、健全な議論を破壊します。それは対話ではなく、ただの攻撃です。
相手は心を閉ざし、より頑なになるか、より過激な主張に救いを求めるようになります。問題解決から最も遠ざかる、愚かな戦略なのです。
では、どうすればこの不毛な対立を乗り越えられるのでしょうか。カギは、人々の心を動かす**「物語(ナラティブ)」と、その物語を裏付ける「仕組み(制度)」**を、根本から作り直すことにあります。
まず、なぜ反対意見がこれほど強い力を持つのかを理解せねばなりません。その根底にあるのは、
「移民推進派(グローバル企業や政治家)だけが儲けて、俺たち普通の国民は損をするばかりだ」という、非常に強力な物語です。
この物語は、「ズルは許さない(公正)」という正義感や、「エリートは我々を裏切っている(忠誠)」という怒り、「生活が脅かされる(損得勘定)」というリアルな不安を同時に刺激するため、絶大な共感を呼びます。
この強力な物語に対抗するには、小手先の説得では歯が立ちません。
「安価な労働力」「助けるべき弱者」――。これまで外国人は、どこか他人行儀な「道具」や「お客様」として語られてきました。これをやめなければなりません。
目指すべきは、「私たち日本人と、新しく来た外国人が、共にこの社会の未来を創り、共通の利益を生み出していく『パートナー』である」という新しい物語です。
この物語は、「仲間(忠誠)」という感覚や「共通の目標(権威)」といった、これまで無視されてきた”正義のボタン”にも響きます。
しかし、物語が口先だけでは、誰も信じません。その物語が真実だと誰もが実感できる、公平な「仕組み」をセットで構築することが不可欠です。
最終的に人々が求めるのは「自分たちの生活が損なわれず、安心できること」です。これを実現できるという信頼感なくして、
いかなる移民政策も国民の支持は得られません。「私たちも得をするし、社会の秩序も守られる」と誰もが実感できるような、誠実な「物語」と、それを裏付ける「仕組み」作りこそが、唯一の解決策なのです。
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朝に書いた日記がブクマカの獲物に上げられているようで内心困惑しているのとなんとなく日記が可哀想だなという気がする。『国境の南、太陽の西』の第2章の前半にあるそのフレーズがたまたま目に留まってインスピレーションがパワワンと沸き起こってその慣性でニョロニョロ続きを書いただけだから、そんなにマジに突っ込みを受けることになるとは思わなかった。頭からもういっぺん読み返すと確かに変な主張をしていて、先の文には「全て」と書いていないのに「全て」という言葉に対してやけに偉そうに文句を垂れるきちがいになっていた。ただ本当のところは特に深くも考えずに突発的自然発生的に思ったことを思ったままつらつらと書いただけだから、みんな笑って、😊こんな顔で読んで細かいことは目を瞑ってほしいと思った。普段自分の日記に愛着があるわけではないけど、自分の日記がこんなふうに誰とも知らない仮想ユーザーからコメントのナイフを突き刺されてしまうこともあるのだとわかって、日記にはわるいことをしたが、いい教訓になった。
「図書館の本を片っ端から読んで、とうとう読むものがなくなってしまった」みたいな表現があるけど、さすがに図書館の蔵書を全て読むなんて無理だと思う。本当に読んだのだとしたらすごく小さい図書館なんだろうと思う。もしかすると図書館にある本を全部読んだという意味ではないのかもしれない。自分が読みたい本、読めそうな本、あるいは何かの原理原則に従って選び取られた本の全てを読んだ、という意味である可能性は十分に考えられる。だってそうでもしないと「全部」を読むことは不可能だからだ。どれだけ小規模な図書館でも最低3000冊は蔵書があるだろう。かりに3000冊を1日1冊のペースで読んだとして、約9年かかる計算になる。小・中・高の12年間を使ってようやく読めるくらいだから、初等部・中等部・高等部で全て共通の図書館でもない限り普通に考えてありえないだろうと思う。これが街の図書館になると蔵書数のケタが1つ2つ増えるわけだから、なおさらありえないと思う。何が言いたいかというと、選り好みをしているくせに「全部」という強い意味を持つ言葉を気軽に使わないでほしいということである。
【追記】
追記を書きました。思いに反してこの日記が絞り上げられており可哀想になり己の軽率さを反省しました。冒頭のフレーズは『国境の南、太陽の西』の第2章の前半にある個所を見てのことでした。今この日記を読み返すと、自分がまるで意味のわからないことを言っている世間知らずのきちがいのようです。
https://anond.hatelabo.jp/20250527192238
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